28、中世国衙役人田所氏の活動


中世(13世紀)の府中に居た国衙役人・田所氏が遺した「国衙領注進状」と「沙弥某譲状」と題する文書があります。

前者は、当時の安芸国の国衙領に関する報告書、後者は田所氏自身の職務・所領・所従など私的な財産目録のようなものです。 いずれも、当時の歴史を知る上で重要な内容を含んでいますが、ここでは、特に後者について要点を紹介します。

以下、太字部分が「沙弥某譲状」からの抜粋で、その下にそれぞれの内容を紹介してみます。

<職務>

神事謹仕頭人等*役事
船所(1)惣税所職得分事
天台末五ヶ寺公文職得分事
惣社***


ここで、田所氏の公的な役割が示されています。まずは、神社や寺院の宗教的行事を勤め、管理を行っています。長大な文章で、非常に重要なかつ複雑な職務である事が記されていますが、ここでは、細部は省略します。
次に、船所は京へ貢納物を送ることが責務で、船や乗組員の管理も伴います。役所としての船所があるからには、近くに船着場もあったはずです。また、惣税所は貢納物の徴収・発送・管理などを扱います。これらの業務に付随して大きな役得があったことが想像できます。

注記:
(1)船所については、26、国府と鹿篭、注記:をご覧ください。

<所領>

「所領」とは私有地です。原文には詳しく明細が記載されていますが、詳細は省略し、ここでは地名と面積(それぞれの地名の下に記された耕地の合計面積)を抜粋して示します。原文からは表記と順序を若干変えています。

(佐東郡)古河村(9反)、八木村(2反)、
(府中)早馬立(8反)、上山(1反)、北濱(2反)、南濱(2反)、山田村(8反)
(安南郡)戸坂村(1町7反)、井原郷(1町)、矢賀村(2)(2反)、温科村(3)(10町)、船越村(4)(1町1反)、原郷(6町3反)、江田村(3町7反)、牛田村、
(高田郡)三田郷(1町7反)、

地名毎にまとめましたが、実際には80箇所以上の大小さまざまな土地をあちこちに点在させています。最大でも自らが開墾に関わった温科村の中の7町の田で、殆んどが5反以下の小さな農地が散在し、詳細不明分を含めても合計で20町余にしかなりません。

当時、国衙領としての己斐村に19.2町あったのと比べても、さほど大きな所領ではありません。

小さい土地が点在しているのは、田所氏から債務を負って何らかの事情でそれを返済できなかった者から代わりに得たものでしょう。。

注記:
(2)矢賀村と(3)温科村に関しては、27、中世の温品村と矢賀村を、
(4)船越村に関しては、9、中世の船越村をご覧ください。

<所従>

「所従」とは「下人」であり、無給の使用人です。全体で50人余が記載されています。その中の一部を例として示します。記載されているのは全て男ですが、女の所従もいたはずです。

長三郎国助 於童召仕之、其名恵奴法師丸、父者国元也、
*****
温科平六入道 子細見即引文
濱久祖法師丸 子細見父伴大夫助武引文、祖父者武宗也
北濱次郎冠者 子細見干父梶取宗四郎太夫末吉引文
濱橋本又王丸 子細父梶取夜叉太郎引文具者也
******


それぞれに、当人の幼名、父や祖父の名前、出自などを記しています。

冒頭の「長三郎国助」は、童(幼少)のうちに所従になっています。同様に、童のうちに所従になったことを記されている者が10人あります。その下に示す法師丸や又王丸はまだ子供のようです。***丸などの幼名の者が15人あります。父や祖父あるいは縁者の名を記した者が約半数あり、これも当人が子供の頃に所従になったことを示唆します。
所従となった理由を直接に示す記述は殆んどありませんが、証文の存在を記している例が多く、何らかの事情で田所氏に債務を負って返せなくなった者が、それに代えて息子または孫を差し出した場合が多いと推定されます。
所従自身に縁のある地名が記されているのは、わずかに仁保嶋、牛田村、開田、荒山荘の4例ですが、他の所従達も国衙の近辺から来た者であろうと想像できます。

50人余も所従が居たのですから、一部は国衙近くにある土地の耕作に関わったかもしれませんが、多くは別に仕事があったようです。

田所文書の内容からは、国衙役人としての表の顔以外に、副業としてまずは海運業と商業、さらに、貯えた資産で金融業に事業を広げていったようすが窺えます。多彩な顔を持つ中世の豪族であったとも言えそうです。
つまり、散在する所領と多くの所従を得たきっかけが金融業にあり、その元手が海運業と商業により得た資産だったと考えられますし、海運業に携わった発端が職務としての船所の権益ということになります。惣税所の職務からも蓄財の元がありそうです。
時代を少し下った14世紀、開田荘に居た女性の金融業者から田所氏が30貫文の借金をし、その返済に関するトラブルで国庁に訴訟を起こしています。借金と訴訟の内容はともかく、この時代に、田所氏と開田の女性金融業の間に大金の貸し借りがあった事は、互いの活動内容を示唆するものです。この女性も、当時の瀬野川右岸河口付近にあった二日市を拠点に商業・海運業に関わっていたと考えられます。

また、「国衙領注進状」の中に、「梶取免」として、給免を当てられられた梶取が数人あり、彼らは仕事の上で田所氏と関わりを持っていたことが確実です。

文書として記録に残っていて確認できるのは田所氏関連だけですが、当時、こういう多彩な活動をしていた者は他にも多数居たと思われます。

「国衙領注進状」については補足11、国衙領注進状、をご覧ください。


参照資料:  広島県史・古代中世資料編④/p247-251(1980年)、 広島県史・総説編/p66(1984年)、

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