15、文化度国郡志に記す江戸時代の「船越」

  (1)、村の人々の活動

江戸時代は人の移動も少なく職業も固定された窮屈な時代だったかのようなイメージが以前は広まっていましたが、実態はもっと活動的な社会であったことが最近は理解されつつあります。

「船越」の場合についても、それを裏付ける情報が「宝永3年の村図」と「文化度国郡志」から読み取れますので、その中から、人口、職業に関係する項目を抜き出してみます。(以下、引用部分は太字。一部、現代風に表記)


A、 宝永3年船越村図(1706年)

農地面積=33.7町
家数=103軒
(戸数=80)
人数=388人
(男=203人)
(女=185人)
  牛=20匹
船=1艘

B、 文化度国郡誌(文化12年(1815年))

農地面積=64.7町
家数=409軒
(戸数=約300)
人数=1356人
(男=699人)
(女=657人)
(百姓=215人、同居親族=822人)
 (百姓=土地持ち庶民一般の総称。農民も多いが他の職業人も含む
(医師=2人、同居親族=9人)
(職人=3人、同居親族=12人)
(浮過= 65人、同居親族=228人)
浮過=土地を持たない庶民。現代風には賃貸マンションに住むサラリーマン
(奉公人=5人)
(下男=8人)
(下女=13人)
(かわた=79人)
牛=51匹
船数=14艘(200石積より20石積まで)

農余 (農業以外の仕事・職業=莚、薦、縄、煙草切、綿打、綿賃操、織延、磯物、牡蠣、小貝類取、雑子売、小商い、船商売



AとBの二つの資料を比べると、100年ほどの間に人口で3.5倍、戸数で3.8倍に増加しています。18世紀初頭から19世紀初頭までの期間、日本全体としては人口の停滞期で大きく増加していないのに、船越村がここまで増加したのは明らかに自然増ではなく社会増、すなわち他村からの流入が主因です。この間、内陸の畑賀村、上瀬野村などでは殆んど増加せず、沿岸の船越村、海田、矢野村などで増加していますから、新開造成や商業・運送業の発展にあるようです。20世紀後半の日本の高度成長期の社会現象のミニチュア版がこの時期の海田湾周辺で起きていたようです。

この100年ほどの間に農地面積は松石新開などにより1.8倍程度に増えただけですから、人口増加分の多くは農業以外の仕事に従事したはずです。以前は、百姓=農民と考えられていましたが、そういう思い込みを捨てないと当時の社会を誤解します。また、当時は専業主婦も学生も無く、老人・子供を除くと専業・兼業を問わず何かの仕事をしていたはずですから、農業以外からの稼ぎはかなり大きかったと推測されます。

そのことを示す例が船数で、宝永年間のわずか1艘から文化年間の14艘まで大幅に増え、これだけでも水夫の人数で数十人を必要とします。牛の数が大きく増えて農民の作業の負担が減り、他の仕事に従事する余裕が増えたことを推定できます。

また、「農余」の中にある「雑子売、小商い」は現代風には商業ですが、この時代に村内で固定した店を構えることは許されなかったので、住まいを当村に置き、行商の如きスタイルで商いをしたようです。そして、「莚、薦、縄、煙草切、綿打、綿賃操、織延」は現代風に言えば加工業で当時は女性の仕事、、これも稼ぎとして大きな比率を占めたかも知れません。

資料では確認できませんが、陸運従事者もかなり居たはずですし、隣の宿場・海田市宿や広島城下へ出掛けて行った仕事もあったはずです。当時の広島城下の発展には周辺部からの支えがあったからです。

なお、「浮過」は、別名「無高浮世過」または「無地浮世過とも呼ばれ、文字面からは現代の「フリーター」や「パート労働者」のような印象を受けますが、単に土地を所有せず従って年貢の義務を負わないので支配者(藩政)の立場からは一段低く扱われただけで、現代風に言えば諸々の請負業・商業・流通業に従事した、当時の社会変化の先端を行く業種に従事していたと考えられます。農地を細分して零細農民を生むことなく、新たな仕事・職業を作り出した時代です。

宝永年間の人口1人あたりの農地面積はほぼ全国平均よりやや少ない程度で「船越」はまだ農村ですが、文化年間には全国平均の半分以下になります。これは一種の都市化現象が進んでいるとも言えます。

ちなみに、明治40年(1907年)の人口は2522人(宝永年間比、6.5倍)となって商工業が発展し、現在(2010年)は1万人余(宝永年間比、26倍)で、完全に大都市の一部です。

このように他地域からの流入者が圧倒的に多くなって地域の事への関心が薄れる一方で、先祖代々この土地に住んできた人たちの中でも地域の本当の歴史が伝わっていないのが現状です。



  (2)、自然環境


「文化度国郡志」の「船越村」の部分の「物産」の項目には、「五穀・蔬菜」から始まって「鳥、獣」まで多様な物産が記載されています。その内、「五穀・蔬菜」以外の内容を読むと当時の村内の生息物がわかり、自然環境の一端が窺えますので以下に紹介します。

図鑑や辞書で調べても何物か分からないものが多数ありますが、多様な生物がいたことが確認できます。
村民が飼育・栽培する物も多いようですが、野生の物と区別せずに記載されているのは当時の村人の自然観を反映しているようです。


  木類

桧、松、杉、槙、樫、椎、楠、柿、椿、榎、柊、榊、桃、梅、檀(まゆみ)、日向水木、柳、楮、桑、柏、栗、桐桜、青木、枇杷、山椒、楓、ふいふい木、もっこく、椴、柞(ははそ=ほうそぎ)、空木(うつぎ)、(はぜ)、花の木(楓の一種)、ねむの木、藤、のふ、藪椿、犬槙、かたし杭、申寅杭、さつこう、鼠もち、馬酔木(あせび)

  花類

桜、梅、桃、椿、藤、芙蓉、杭、金盞花、菖蒲、杜若、百日紅(さるすべり)、菊、百合、沈丁花(じんちょうげ)、紫蘭(しらん)、桔梗(ききょう)、唐紅(からくれない=べにばな)、石竹、女郎花、しうたん、鋸草、芍薬、牡丹、かんびきほう、唐きほう、楡独花、千日花、鳳仙花、兜草、撫子(なでしこ)、浜撫子、蓮、、文字摺(もじずり=ねじばな)、刈萱(かるかや)、玉の緒(柳の花)、山吹、葵、卯の花、花菖蒲、誰故草、秋顔(朝顔)、夕顔、萩、水仙、向日葵(ひぐるま=ひまわり)、

  草類

茅、にの葉、酸葉(すいば)、(あざみ)、杉菜、紫雲英(げんげ=蓮華草)、升割、とうのした、いのたち、大根菜、山椒草、庭はい草、松葉草、せきしょう、はたかり、角力取草、あか草、鎌柄(かまつか=つゆくさ)、しようか髪、菜葱(なぎ=みずあおい)、馬つなぎ、岩桧葉(いわひば)、榎草、くすば、

  果物

梅、桃、枇杷、棗(なつめ)、梨、柿、橙、柚、蜜柑、くねんぼ、あんらしゅ、栗、きんかん、柘榴(ざくろ)、無花果(いちじく)

  薬草

桔梗、茯苓(ふくりょう)、沙参(しゃじん)、半夏、かうふし、ふつ草根、忍冬(にんとう)、麦門冬(ばくもんとう)、千振(せんふり)、

  鳥類

鶏、雉(きじ)、鳶(とび)、(たか)、(さぎ)、(かも)、ごい鷺、山鳥、アヒル、雀、雲雀(ひばり)、(うぐいす)、時鳥(ほととぎす)、とうしろ、目白、鶫(つぐみ)、(しぎ)、庭鴫、鶉(うずら)、みそささい、河原雀、松虫、四十雀、ひわ、のしこ、百舌鳥(もず)、三光鳥(さんこう)、(ふくろう)、黒鳥(こくちょう)、から鳥、鷭(ばん)、鶺鴒(せきれい)、善知鳥(うとう)、(ひたき)、行行子(よしきり)、鳩、

  獣類

犬、猫、兎、狐、狸、鹿、猿、鼬(いたち)、(てん)、(かわうそ)、土竜(もぐら)、鼠、


現在は、既に絶滅したり、絶滅危惧品種もありますが、1979年の岩滝山系の植生調査で確認されている草木と比較すると、総じて山地の植物では生息の変動は穏やかで、近年は赤松が減って本来の照葉樹林に徐々に回帰しつつあるようです。しかし、平地に生える草類は明らかに減ってるようです。

一方、動物については品種も生息数も大きく減っているようです。動物は行動範囲が広いので、人間の活動領域の広がりの影響を受けやすいのです。犬猫を除くと現代は、獣類では猪と狸と鼠がごく稀に出没するだけです。
鳥類では、烏と燕がいないのが意外な感じがしますが、当時の船越村の環境を考えるヒントの一つになるかもしれません。その他、鶯、雀、目白、は現在も確かにいますが、他の鳥については不明です。

狭い地域ですが、せめて的場川上流域と岩滝山地は人工の手を加えず、自然のままに放置しておいて欲しい思いです。、


参照資料:  船越町史・資料編(1981年)、
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