16、船越村の西国街道の変遷近世の船越村を通っていた西国街道の経路については、いくつかの絵図や文書に記されています。 まず初めに、18世紀初めの「宝永3年船越村図」が経路の特徴をよく表しています。この図では、下古屋山の北側の市場坂道と南側の浜道も併記されていて、両方が併用されている状態がわかります。(形式的には坂道が西国街道(往還筋)でしたが、実際には浜道もよく利用されていたようです。) 次には、19世紀初め、文化年間に編集された「芸藩通志」の中の村図で、直前に松石新開が造成されたことにより、正規の西国街道としては浜道に一本化された状態で描かれています。 その次は、明治初期(1870年頃)の海田新開および周辺を描かれた図です。こちらは海田新開の上から北西方向に見た遠景として描かれていますが、この図が最も明確に西国街道の経路を描けています。的場川が逆S字形に蛇行している所の中間点付近で渡り、下古屋山の裾を巻いて東へ転じています。 「中国行程紀」の絵図も、宝永3年村図と同時期の18世紀の状況を伝えています。 以上の4点の絵図に示す経路は、文化年間以降は市場坂が廃道となったことを別にすれば、描き方はそれぞれに異なるとはいえ、同じ経路を通っている事が確認できます。 市場坂から西へ船越峠へ向かう区間の西国街道は廃道となって明治期の国道に切り替わりました。このため、岩滝神社への参道としてあるいは村内の近道として残されていた市場坂道を別として、この経路は農地や宅地に侵食されて消滅したり細い生活道路として残っていたりしていますが、断続的に辿ることができます。 そこで、これらの古絵図に描かれている西国街道の経路を現代の地形図に黒線で書き込んだのが右下の図です。 船越峠の下から下古屋山の西の麓まで、細かな屈曲があるけれど、ほぼ直線的に延びている事が確認できます。 この経路を辿ってみます。 船越峠を下ってくると地点Aで的場川を渡ります。文化度国郡志には「的場川、川幅 川上2間、川下4間、橋長さ3間、幅2間」と記しています。橋長は川幅より長くなりますから、この記述から、的場川の上流で橋が架かっていた事が確認できます。 次に、地点Cで「宝永3年船越村図」に描かれた「大木」の傍を通ります。現在は正専寺の境内です。枝の広がりを直径20m程度と想定して緑色の円で記入しました。正専寺の建っている場所の小字名が「大木ノ下」です。 さらに行って、地点Fで鳥居川を渡ります。文化度国郡志には「鳥居川、川幅 川上8歩、川下1間、飛渡り1間、往古は土橋の由***」と記していますから、橋がなくても日常的には問題が無かったようです。(文化度国郡志が記された時点で、鳥居川の下流部は松石新開への灌漑用水路として両岸に土手が築かれていますから、仮に地点EまたはGで鳥居川を渡ろうとすれば飛渡り(飛び石伝いに渡る)はできないので橋が必要です。文化度国郡志の記述は、西国街道が地点Fで渡っていたことを示しています。) 下古屋山の西の麓まで来て、地点Lで道は二つに分かれます。東進すると市場坂道、南下すると浜道です。市場坂経由の方が道のりが短く普通の速さで歩いて1分ほど早く着けますから、こちらが当初の西国街道になりました。浜道は満潮時に風波が強いと冠水する事はあり得ますが、干潮時には広い干潟の現れる遠浅の海岸だから防波堤を造ることなど簡単なのにそれをしなかったのは、実際、通行に支障はなかった事になります。歩くことの少ない現代人にとって標高差20m近い市場坂の存在は厄介ですが、歩くことが日常的だった昔の人にとってさほど苦になりませんから、適宜使い分けていたようですが。 下古屋山の東で道は合流し東へ向かいます。坂道と浜道の合流点は、現在の地点Kよりも昔はもっと北東寄りにあったようで、そうすると市場坂経由の方がさらに有利になります。 この地図で黒線で描いた西国街道は、近世になって道幅を拡げられたものですが、この経路の道は、中世はもちろん古代に遡っても東西に行き来する幹線路として使われていたものです。 松石新開造成後、市場坂道を廃して浜道に切り替えた事情は「文化度国郡志」に次のように記述しています。 村内土地古今変改乃事 当村市場坂文化六巳年松石沖新開御蔭ヲ以御築留被為遣候てより、坂下浜道里程同様にて便利宜敷御座候につき、御願申上候処道替御免被為仰付下地坂道へ櫨苗御願申上、御免御座候て櫨木植付申候 道替えの本当の理由をぼかしている事はともかくとして、船越峠下から市場坂下に至る約800mの間の経路については述べていませんから変更ありません。ここが現在の県道の経路に移ったのは明治時代になってからのことです。 次に、現在の県道(明治初期の国道)を赤の太線で地図上に示します。 船越峠から南へ下り、順に、地点Bは的場橋、地点GのX字路の北角に薬局、地点HのT字路の東に常夜燈、地点IのX字路の東角に郵便局、そこから東へ転じて海田町へ向かいます。 現在の的場橋は川底から3m近くも高い所に架かっています。コンクリート製の堅牢な橋ですし両岸はコンクリートで固められていますが、元来の地形は両岸がV字形に深く削られた崖でしたから架橋も困難でした。 (西国街道がこの経路を採らなかったのは、上流寄りなら浅くて橋が無くとも渡れたし架橋も容易だったからです。) また、E-G-H-I-Jを辿る道は、松石新開造成時に農道として整備されたもので、その当時は幅が1.5m程度だったはずです。 その際、J-K間およびその東の道が西国街道の一部として整備されたことになります。 船越峠下から下古屋山の西に至る西国街道が、いつ現在の県道の経路に切り替わったのかを記す確かな資料はありません。 逆に、確かな資料が無いために、現・県道は西国街道以来の経路をそのまま継承しているという誤解を生んでいます。 明治4年に駅逓の制度が改訂され、荷車や人力車による陸運会社の営業が始まりましたから、道路整備の必要性は高くなっていたはずです。 明治9年に西国街道の経路を継承して国道4号線とする事が制定されましたが、すぐに国道としての整備が始まった記録はありません。 瀬野川の上流沿いに現・国道2号線の経路で新道が造られ、大山峠を通る経路から移されたのは明治17年ですから、この船越地区に初期の国道として整備されたのは明治20年頃と推定されます。 地点Hから東に入る道も、同じ頃にできた新道です。 しかし、それに先行する活動を示唆するのが、明治5年建立の常夜燈と明治8年に架けたと伝わる石橋です。 まず、この石橋は、鳥居川に架けられ奥海田村などの近隣の村々や船越村の有志の寄付金、総額で60円余を得て造られたと伝えられています(船越町郷土誌)。 しかし、当時の60円は、川幅一間に石板を渡した程度の小さな橋の建設費としては不自然に高額過ぎます。(文化度国郡志によると畦地川と出溝川には既に石橋が架けられていました。これは、小さい川には石橋の方が簡単で経費も安かったからです。上瀬野村でも西国街道に10箇所以上の石橋がありました。川幅の狭い農業用水路で、石橋を架けた例も多数あります。石橋は特別の存在ではありません。) そこで、図の地点Dから地点Jまでの西国街道に対し、赤線の経路でバイパス道路を造ったと仮定して試算してみました。 この部分は、松石新開造成時に農道・村道として存在したものですから初期の道幅が1.5m程度で、これを2.5m広げて4mにしたと仮定します。 地点Dから、地点Jまでの長さは約250mですから、買収する面積が625m2。1反(1000m2)当たりの地価を約60円として、買収価格は37.5円。 道路拡幅工事のための人件費は、人夫を延べ200人(20人 x 10日)使い日当を10銭として、合計20円。石橋自体の石材価格は3円。 このように試算すると、費用総計ではようやく寄付金総額に近くなります。 寄付金総額60円余のうち、村内有志10人からの合計約14円に対し奥海田村・海田市村・中野村の3村から合計45円余を得ていますから、この橋・道路建設は4村の有志による共同事業だった事になります。これは、地点Jから北上する西国街道としての経路に、地図では細部を表現できませんが、屈曲・起伏があって人力車・荷車の往来に苦労があったからです。寄付金を得てバイパスを造り石橋を架けたと考えれば辻褄が合います。 この石橋は「鼓橋」と名付けられ、その名を刻んだ石標が一対、現在は公民館に保管されています。石標は幅と奥行き22cm、高さ52cmの角柱形です。 幅4m、長さ1m程度の小さな石橋はありふれた存在ですが、石標を作ったのは異例です。この道路が正規の官道ではなくバイパスだったことを示したようです。 あるいは、近世には土地の私有権は強固でなく明治初期にもその慣行が残っていたので、道路用地代は別勘定で処理(新道沿いの土地は将来の値上がりが見込めるので無償提供など)をして、寄付金の大部分を人夫の日当に充てて船越峠下から地点Bを経て地点Jまで800m余の赤線の経路でバイパスを明治8年に造り、明治20年頃に国道として国の規格で改めて拡幅・整備し直した可能性もあります。(船越では明治6年に地券交付、同年に地租改訂が行われていますから、この頃から土地の私有権が明確になっていきます。) 明治6年に完成した鴻冶新田の入札に応じた人の大部分が船越村の住人でしたから、金にも土地にも余裕があったようです。 明治4年に廃藩置県が行われていますから、鴻冶新田も、この付近の官道の整備も、「広島県」としての最も初期の重要事業だったと考えられます。 常夜燈の竿石には「明治五年」、基壇の最上部には「西氏子中」の文字が刻まれています。西地区の氏子達の寄付金によって建てられたようです。 3段の基壇の石材は正確な直方体で、表面は平滑に仕上げられ、隙間無く組上げられています。 ところが、基壇の下にある石垣は仕上がりが粗く、その上面の平板は凸凹で隣との隙間も段差も大きく、水平を調整するために小石も下に詰められています。建立された当初からこのような粗雑な造りになることはありえません。別の場所に建立されてからかなりの年数を経て、おそらく国道開通後に、現在地へ移設されたもので、その際に鳥居川の石橋が不要になっていたのを流用して石垣にして加えたようです。(この常夜燈の石垣に使われている石材の寸法・数量は、鳥居川の石橋に必要な石材の寸法・数量と符合します。詳しくは、番外5、常夜灯をご覧ください。常夜燈の現在地は図中の地点Hですが、当初の建立地は地点Lです。) 現在、黒線で描いた経路から北東側には、地点AからFまでに巾2mを超える(車が通れる)脇道が5本あります。 ところが、赤線で描いた現・県道から北東側には、地点GからEに向かう巾5mの道が1本ある他は、地点BからGまでの間には巾1m程度の細い脇道がわずか3本しかありません。 この事は、黒線の経路が長い歴史を通じて幹線路として使われてきた実績を反映し、一方、現・県道は最初の国道として開通して以来短期間に、奥へ入る脇道を拡幅する配慮の無いまま、道路沿いに住宅が密集して建てられてきたようです。 また、この地域の現・県道沿いの宅地の輪郭は概ね正方形で、隣地との境界は道路と直角、従って家の正面は道路と平行になっています。これは、新道が出来てから道路に沿って新たに地割りが行われたことによります。D-F-Lの黒線の経路は現在も痕跡を確認できますが、L-J間の経路は消滅しているのも、新道沿いの地は新たに地割りが行われた結果です。 (一方、海田市宿では南北に細長い短冊形の地割りになり、輪郭が道路に直角・平行になっていませんが、元の農地の地割りの中で各商家の土地を分割したからです。海田市宿・町割をご覧ください。) 参考: 明治6年に干拓された鴻冶新田は耕地面積40町3反に対し入札による購入額の総額は13,620円で反当たり33.8円。 明治9年、海田の明神新開の一部11町2反を浅野家が買入れた時の価格が8,058円で反当たり72円。 明治10年、地租算定の基準として決められた地価の船越村の平均が、田は反当たり約33円、畑は約24円。 明治18年、宇品築港時に動員された人夫の日当が5銭ないし10銭。 明治17年度、船越村の歳入・歳出が390円。 明治22年、船越村の村長報酬月額5円。収入役4円。 明治20年頃に国道が現・県道の経路で整備された時に、地点Jから東の黒線で描いた西国街道も赤線の経路に移設・整備されています。 かつて、赤線で描いた現・県道の船越峠下から的場橋(地点B)に至る間は「新たお」と呼ばれていました。図に黒線で示した西国街道の船越峠下から的場川(地点A)に至る坂道が「旧たお」に該当します。「たお」は坂道の意味です。地名の由来、「たを」で説明しています。 文化度国郡志には、西国街道の船越村内(船越峠から海田境まで)の道のりを16町16間(1757m)と記していますが、この長さは現代の地図の上(黒線)で確認できます。一方、同じ区間の現・県道(赤線)の道のりは50m余長くなり、1800m余です。 大歳神社の前に、「従大年社 往還迄 長百五十六間 巾六尺五寸」と刻んだ明治8年建立の道塚があります。通いなれた村人にとって道標(みちしるべ)は必要ありませんし、わずか156間(280m)の長さですが、大歳社から往還道までの道を拡幅した(または開通した)記念碑です。上記の西国街道のバイパス造成と相前後して、西国街道からの脇道として大歳神社前までの道が拡幅されたようです。 156間(280m)の長さは現在も変わりませんが、6尺5寸(2m)の巾は、現在は車が通れる3m程度に拡げられています。 |