14、異形の松石新開(船越村新開)17世紀中頃以降、広島藩は各地に大規模な新開を造成しますが、船越村でもようやく19世紀始めになって松石新開が造成されました。 この付近の新開造成については、31,広島湾東岸の新開造成もご覧ください。 文化年間(19世紀始め)に編集した「芸藩通志」と題する藩内の地誌に各村の村図が掲載され、その内の「船越村図」に、文化9年(1812年)に完成した松石新開が描かれています。 松石新開は船越村にとっては最初の大規模新開ですが、通常の新開(干潟の干拓)は、出来るだけ短い堤防で出来るだけ広い農地を造り出そうとして、堤防は直線や円弧状に造られるものなのに、松石新開は三角形に突き出た異様な形をしています。 (この新開の呼び名は、地元では一般に「松石新開」、藩の公的文書である「文化2年の新開絵図」と「事蹟緒鑑」では「船越村新開」、芸藩通誌の村図では「松崎浦新開」としています。) 現代の地図からは松石新開の輪郭はわかりませんが、明治時代の地図では輪郭がきれいに残っています。 いくつかの資料や絵図をつき合わせて、この新開の造成に関わる経過を整理し、現代の地形図を基に新開部分を描いてみました。 (1)当初計画 「土手210間・新堤766間・惣畝数参拾町(堤防の長さ合計976間(1760m)・総面積30町(2970アール)」=「文化2年の新開絵図」。この段階では異様と言えるほどの形ではありません。 (2)当初工事完「文化5年(1808年)拓調30町1反」=「船越町郷土誌」 地詰前の面積30町8反=「「芸藩通志」第1巻、p507) (3)延伸工事により向洋の東海岸との間の水面に淵明湊(中船30艘収容)を形成「文化9年(1812年)船越村新開築調」=「芸藩通志」・「事蹟緒鑑」 (4)地詰により(1842年=天保13年)南東部を松石新開、北西部を西久保と呼称。 後に、松石新開の北西側と南東側にそれぞれ入川新開と鴻治新田が造成され、現在の船越地区の平地の主要部分が成立しました。 注1: 「文化2年新開絵図」の中の記述は次の内容です。(解説は省略しますが、この図が「計画図」であることを示す記述です。) 文化二年 丑二月 十六日 御勘定所より 岡和作様 御役所より 林甚助様 割庄屋 清左衛門 御用聞大工 弥之助 舟越新開関係* 三ヶ村役人 土手打 二百拾間 新堤*拓 七百六拾六間 惣畝数参拾町 ** 川筋二百八拾間 注2:新開の構造については、補足4、新開の構造をご覧ください。 注3: 明治時代の地形図を見てわかるように、松石新開の南西端には巨大な池が存在します。他の新開でも池は存在しますが小さいものばかりです。これらは調整池と呼ばれるもので干潟を干拓した新開には必須のモノですが、松石新開の池が桁外れに大きいのです。この付近は、松石新開が造成される直前までの瀬野川の土砂の堆積が少なかった所へ無理に湊を造ったためと考えられます。 注4: 調整池は、干潟を干拓して造る新開には必須の構造物です。満潮時の海水面よりも低い干潟を陸地化するために堤防で外海と区切りますが、それだけでは新開の内側に灌漑用水や雨水が溜まって溢れてしまいます。 そこで水門(樋門と呼ばれる)を設け、干潮時には水門を開いて内側に溜まった余分な水を排出し、満潮時には閉じて海水が入らないようにします。このために、水門のすぐ内側で一時的に水を溜めておくのが調整池です。通常の新開では新開の総面積に対して調整池の水面面積は1%も無いくらい小さいものです。 松石新開の樋門は2ケ所あり、文化度国郡志には、一つは高さ3尺・巾5尺・長さ9間、もう一つは高さ2尺5寸・巾3尺・長さ10間と記しています。堤防の基底部に設けたトンネルのようなもので、海側の端に扉が付いて水の出入りを規制します。池の大きさに比べて小さいようですが、松石新開に流れ込む河川の水量や降水量からみて充分なのです。 注5: 「事蹟緒鑑」は広島藩内の重要事件を記録したものですが、船越村新開に関して、文化5年ではなく文化9年の築調として記録しています。 文化9年12月17日の同じ日付で江波丸子新開と船越村新開の築調が併記されていますが、江波丸子新開は、外港であった江波港へ広島城下から陸路で直接つながるようにした重要な工事です。おそらく、松石新開の延伸工事も、湊を造って海田湾周辺の陸地からの物資の積み込みを外航船に直接に行うことを意図したものと思われ、広島藩としては農地拡大の新開以上に湊の造成が重要だったことを窺わせます。 注6: もう一つ興味深い事は、松石新開の南東側の堤防の位置が、海田・日浦山の頂上と向洋・月見山の頂上を結ぶ線上にある事です。厳密な地理上の最高地点ではなく、干潟面から頂上と見える位置に標識を立て、そこを結ぶ線を堤防の位置としたようです。さらには、堤防の中間点から小請田山へ向かう線が松石新開の地割りの基準線になっています。正確な測量器具の無い時代ですから、干潟面から見える山頂を目印にした様子が窺えます。 |