10、寛永15年船越村地詰帳、寛永15年(1638年)に広島藩の行った地詰(検地)の結果が地詰帳として残されています。 田・畠・屋敷地の一筆毎に、所有主、面積、石高で表した土地評価額(年貢算定基準)が記され、これに名前の載っているのは現代風には世帯主であり、その人数は概ね世帯数を意味します。 総面積で33町5反、人数は92人載っていますが、それぞれの住人は、住いの近辺だけでなく離れた所にもバラバラに土地を所有しています。特に、大地主ほど所有地が広く散らばっています。(ただし、庄屋・弥右衛門を除くと、所有地は的場川流域または花都川流域のいずれかににほとんどが収まっています。) 92人のうち62人が船越村の住人、30人が海田村の住人となっています 船越村の62人について、所有地の合計面積の大きさの順に村人を並べてみると、大小の格差が大きく広がっていることがわかります。 ダントツの1位が庄屋・弥右衛門の3町4反1畝で1人で全体の10.2%、 以下、15位までのわずか15人の合計が20町8反で全体の62.1%も占めています。 次いで、16位から30位までの15人の合計が6町で17.9%、その次に31位から46位までの16人の合計が2町3反で6.9%。 最後に、47位から62位までの16人の合計がわずかに3.3反で1%となっています。 上位の15人ないし20人が船越村の先祖代々のいわば本家筋の世帯で、下位の小規模の農地の住人はいわば分家筋に当たるのでしょう。 所有面積の小さな住民は自分持ちの土地のみで生計を立てるのではなく、大地主の小作を請け負ったり、商業・運送業・漁業などを兼業し、所有する土地が小さくとも、必ずしも貧しいとは言えません。 また、屋敷地(宅地)の所有状況をみると、庄屋・弥右衛門の4.5畝を筆頭に、所有する農地面積の1%ないし3%の面積の屋敷地を所有していますが、最下層の数人の屋敷地(宅地)は6坪ですから、現代の感覚では大変狭い(村全体では4反2畝、1.3%、44箇所、40人)。一人で2箇所の屋敷地を持つ村人も、充分な農地を持ちながら屋敷地は持たない村人もいます。 階層分化の理由や、土地の取得(相続や売買)の経過については不明です。。 さらに、地詰帳に記載されていない、すなわち土地を持たずとも様々な稼業で活動していた人も少なからずいたようです。 総世帯数を70とし、1世帯の人数を4人強と考えると、寛永15年(1638年)の船越村の人口は約300人。これは農地面積や石高との比では当時の全国平均よりやや多い数値ですが、ここは純農村ではなく、立地条件から漁業・商業・運送業による稼ぎがあって平均的な豊かさであったと推定できます。(船越町郷土誌は寛永初期の人口を350人と記しています。それが事実なら、土地を持たない層の世帯数・人口はもっと多かったのかもしれません。) なお、宝永3年村図による18世紀初頭の人口は388人(戸数80)、文化度国郡志による19世紀初頭の人口は1356人(戸数300)で、農地面積の増加以上に人口の増加が大きく、農業以外を生業とする人がさらに増えています。 また、庄屋・弥右衛門の屋敷地の地名が「どい」となっていますが、これは「土居」、つまり中世の土豪屋敷の呼称からきたものですから、この地に中世の領主が住んでいたようです。他村でも、中世の土着領主が近世に庄屋などの村役人になっている例は多数あります。しかし、弥右衛門の子孫がどのようになったのかはわかりません。船越村の2代目以降の庄屋は(この地詰では3位の)いもじ・弥平太の子孫が継いでいます。 (いもじ=鋳物師) 1960年に編集された「船越町郷土誌」でも、近世の庄屋として名前の記されているのは元禄年間(1700年頃)の「庄屋・六郎兵衛」以降です。「寛永15年地詰帳」にある「庄屋・弥右衛門」は、永らく忘れられた存在でした。 田・畠・屋敷地を集計した総面積33町5反のうち海田村の住人30人の合計が4町6畝、12.1%を占めていますが、この理由は、6、海田市宿、で記したように宿場のために農地を提供した代替地で、これらの人々は元々が専業農家ではないので、海田村に属したまま商業や運送業などにも携わったようです。 冒頭に記したように船越村の住人の所有地は広く分散していますが、海田村の住人といもじ・弥平太の所有地の大部分は飯ノ山の西麓に集中しています。 船越町郷土誌によると、寛永元年(1624年)に海田市(宿駅)が設けられた際、船越村の33.5町から3町余を海田村に分けて30.2町になった、と記しています。これが事実とすれば、寛永元年に分けた3町余は、その後、寛永15年の地詰の際、船越村の帰属に戻っていたことになり不自然です。 そうではなく、寛永元年以前は飯ノ山の尾根筋とそれを南へ海岸まで延長した線が船越村と奥海田村との村境だったが、これに割り込む形で海田市宿(海田村)が設定され、従って、寛永元年以前の船越村に37町弱あり、ここから3町余を海田村に分けて33.5町になっていたとすれば、面積からみても、海田市宿の町割が寛永10年(1633年)に行われていることからみても、辻褄が合います。 いもじ・弥平太の場合は、当人もしくは先祖の財力・政治力によって比較的新しい時期にここの地を取得して移り住んだようです。 関ヶ原合戦の後、防長2カ国に転封された毛利氏には、多数の家臣達が従って移住して行きました。家臣達が所有していた農地は福島・浅野氏の代に所有者の組み換えが行われましたから、それに関連する土地もあったようです。 総面積33.5町に対する総石高は355石ですが、その内、田の総計が15.9町に対し222.2石、畠の総計が17.2町に対し126.4石、屋敷の総計が0.42町に対し6.3石となっています。 田と畠については、一筆ごとの斗代(1反あたりの高)は上下の格差が大きいのですが、上記の総計から平均斗代でみると、田と畠に対して各々、1反あたり14斗と7.4斗となり、平均として、畠が田の半分しか収益を評価されていないのは当然だろうと納得できます。 一方、屋敷については、場所に関係なく一律に1反あたり15斗という高い評価額を示しているのは興味深い。現代の固定資産税が農地よりも宅地に対して高いのと似ています。 石高は米穀の生産高ではなく、その土地を拠点とした諸々の生産活動から得られる収益を総合評価したものであることがわかります。 仮に、村の総石高355石のうち3分の2の240石を米の収穫とし、村の人口を350人として、240 ÷ 365 ÷ 350 = 0.00188 ですから、一人・一日あたり2合にも足りません。これでは年貢供出など不可能ですから、農外収入がかなりあったはずです。 地詰の結果に基づく年貢賦課の推移については、補足7、船越村の年貢と地租をご覧ください。 |