11、地詰帖に見る地名と地割①


古くからある地名には歴史をひも解くヒントがたくさん含まれ、文書で残された歴史資料の少ないこの地域にとって貴重な情報です。

寛永15年(1638年)に行われた検地の記録(地詰帖)には、大小様々に100箇所余の地名が記録されています。(総面積は33町5反ありました。)

その後、明治時代に地籍整理が行われ、新開部分を除くと、32箇所の地名(字名)にまとめられ(1-図の黒色表示部、山名・字名図)、その結果、数多くの地名が表向きには使われなくなりました。

そして現在、JR山陽本線を挟んで北側に船越1丁目から6丁目、南側に船越南1丁目から5丁目までと表示され、公的には「船越」が唯一の残された地名です。近年の市町村合併や新住居表示で昔の地名の消えていった事がここでも起きています。

改めて、寛永15年の地詰帖の内容について考えてみました。

地詰帖には、580箇所余ある区画(田、畠、屋敷)の検地(測量)結果を、概ね村内の東から西へと並べているのですが、単に隣接する土地を連続的に並べたのではなく、実際に検地を行った順に並べたようです。その順序は概ね1-図に描いたように進んでいて、全体として4つの大グループになっています。(4つの大グループ毎の面積は8町から9町で平均していますから、偶然ではなく、計画的に分けて検地を進めたようです。)
また、4つの大グループの中でもさらに4つの小グループに分ける事ができ、全体として16の小グループになりますが、これらの位置を地図で見ると大体は当時の村内の主要道で分けていることがわかります。逆に言えば、地詰帖の中のグループ分けから当時の村内主要道がわかるとも言えます。
4つの大グループを隔てる3本の道は、現在もほぼそのままの位置で残っているし、地詰の順路を辿る小道もかなり残っているようです。
寛永10年(1633年)に制定されたと伝えられる西国街道が寛永15年の地詰の段階でどのようになっていたのか詳細は不明ですが、道幅を確保するために既存の道を拡幅せざるを得なかった部分もあったと思われ、それは地詰にも反映されたはずです。

以下、各グループについて、より詳しく記してみます。(地名の表記は地詰帖のままにしています。)

1、花都川東岸

船越村としては東の端にあたる花都川の東側の区域(グループ①の後半)は次のようになっています。

地詰帖に記載されている順に、地名と面積を示すと次のようになり、それらの推定位置(概略)を地図に示すと2-図のようになります。

うしろさこ(2.6反)、すまるさこ(3.5反)、かやはら(2.2反)、とうのうね(6.4反)、神田(2.1反)、はなと(0.6反)、水渡し(1.4反)、はま(3.2反)、岩崎(2.4反)、いつもさこ(14.6反)、ひがしひら(0.4反)、飯ノ山(19反)

寛永15年の地詰の時点では、村境は図の赤の点線の位置にあり、村域は「岩崎」までを含み、山地ははるか東の中世山城のあった飯ノ山の尾根筋が奥海田村との村境でした。

「はま」と「岩崎」の一部は、寛文元年(1661年)に海田村へ移譲され「海田新町屋敷」になりました。海田市・新町屋敷、で説明。

また、現在の町境は図の紫の点線の位置ですが、この線より東側は明治20年に海田村へ移譲された所です。地詰帖によると、「岩崎」、「いつもさこ」、「飯ノ山」の持主の大部分が海田村の住人でしたから、この区域については特別の事情があったようです。また、「いつもさこ」と「飯ノ山」はずば抜けて広い面積を占めていますが、大部分が山の斜面で畠となっていました。

黒の点線は当時の西国街道の位置です。(その後、経路の変動があり、現県道とは少し異なります。)

地詰の時点で、陸側から見て海岸線(満潮時の汀線)の手前約40mまで耕地化が進んでいたとわかります。堤防を築かない自然の海岸としてはそのあたりが限界だったようです。後世、潮止め堤防を築く干拓によって耕地は大きく海側に広げられていきました。

木船山周辺 2、市場坂の東と西

次に、「グループ③」について記します。

「船越」の中央を南北に連ねる岩滝山系の南端に、中世山城のあった木船山と下古屋山があります。その南側の山裾の先は、かつての海岸に臨んで、18世紀の始めまで「船越」の最南端でした。

まず、木船山の東側(あせち川の西側)について、地詰帳の記載順に地名と面積を示すと次のようになっています。

どい(0.9反)、引地(2.9反)、城の下(0.8反)、木舟(3.2反)、とうの尾(4.4反)、城の土居(0.4反)、城の下(0.5反)、
合計13.1反(13100m


次に、木船山の西側は次のようになっています。

下こや(3.2反)、竹のひや(4.1反)、市ば(6.6反)、すな*た(1.7反)、ひかしさこ(7.3反)、かたやま(8.9反)、
合計31.8反(31800m


これらの概略の位置を地詰帳への記載順と併せて地形図上に示すと右図のようになります。(城の下城の土居は小さいので省略しましたが、山城のあった木船山と下古屋山の東側の山裾にありました。)

また、現代の地形図で該当部分の平地面積を算定すると、前者は約15000m、後者は約35000mあり、道路部分を考慮すると地詰帳の面積にほぼ合致します。

ついでに、道を挟んで西に続く「グループ④」の始めの部分を記すと、次のようになっています。

浜出口(1反)、たいしろ(1.3反)、藤ノ木(3.4反)、おしおへり(1.4反)、宮のわき(1.6反)、蔵もと(2.1反)、はま(3.2反)、
合計14反(14000m


同様に、現代の地形図で該当部分の面積は約16000mあります。


この図に示す海岸線は、1.5mの等高線、つまり、瀬戸内海の大潮の満潮時の汀線を想定していますが、海岸線の先には広大な干潟が広がっていました。

ここの農地・宅地の範囲は、概ね海抜3mの高度を下限とし、または海岸線(満潮時の汀線)より概ね30m幅の浜(荒地)を介しています。土砂の粒子が細かく波や潮流も穏やかなので、砂浜ではなく葦などが生い茂っていたかもしれません。
自然の海岸には、農地と海岸との間には耕作不可能な浜(荒地)が幅広く存在し、他の地域ではこれほど海岸近くの低地に農地を営んでいる例は少ないのです。ここは波が穏やかなので、海岸の近くまで農地化できたことになります。

地詰帳には、引地に3箇所、城の下、城の土居、下こや、に各1箇所の屋敷(宅地)が記録されています。波しぶきを受ける所には住めませんし、当時の飲料水は井戸を利用するのが一般ですが、海岸に近過ぎると塩分が入って飲用に適しませんから、宅地からある程度は離れて海岸線があったことは確かだといえます。宝永3年船越村図と、それとほぼ同じ頃に作られた中国行程記(絵図)にも、この部分に人家が7,8軒、描かれています。

図では浜を淡赤色で区分しましたが、ここは農地や宅地としては使えなくとも、小舟を着けたり人が行き来することは出来た所です。また、村人の自営による小規模の新開造成が行われたのも、この部分からです。(補足、新開の構造、で説明しています。)

木舟山は別名、市場山とも言い、その南の下古屋山との間の鞍部を市場坂と称し、下古屋山の南の浜道を下道と称しました。いずれも船越を経由する東西交通の主要経路ですが、市場坂を経由する方が道のりが短いのと、下道は維持管理に苦労が多いので、市場坂経由を初期の西国街道のルートとされたようです。市場坂自体は麓から標高差15m程度の短い坂です。
19世紀始めに松石新開の造成により海岸が大きく沖へ移った後、下道を経由するルートに西国街道も付け替えられ、これが現・県道になります。16,船越の西国街道、をご覧ください。

右図を見ると、傾斜の緩い平地の存在と海岸線の位置から、寛永の地詰より何百年も前(おそらくは千年以上前)からこの地で農耕が行われていたこと、東西の交通に支障の無かったことの二つが理解できます。

図中には省略しましたが、平原山の傍を通って東西に行き来する道も村内の生活道路・近道としてかなり利用されていたようです。

現在は住宅が密集していて元来の地形は分かりにくくなっていますが、現・県道の南側10mないし30mの所に断片的に昔の海岸の痕跡が残っています。
また、1-図を見ると、寛永年間以降の明治初期までに、的場川・花都川の上流や岩滝山の山腹に新たな耕地がかなり開墾されたらしいこともわかります。明治10年に村内の耕地・宅地の面積を再測量したところ総計約100町となっています(船越町史、p243)が、寛永15年の地詰では総計33.5町、松石新開などの新開の地詰の記録が総計で約45町でしたから、20町ほど記録に現れない開墾があちこちで行われたことになります。(明治5年築造の鴻冶新田40町余は、明治10年の時点では帰属先未定でしたから、上記の100町に含まれていません。)

参照資料: 船越町史・資料編(p592--610,617)、 
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