12、地詰帖にみる地名と地割②


1、的場坂

11、地詰帖にみる地名と地割①に続き、寛永15年(1638年)の地詰帖のグループ④の前半、村の西部に位置するものについて地名毎に面積を合計し、地詰帖の記載順に示すと、次のようになります。

西こや(3.83反)、西のくほしり(0.85反)、天王かいち(0.8反)、道はまみ(1.31反)、大ばんかいち(1.44反)、**町(0.65反)、 西のくほ(1.41反)、さやめん(1.85反)、西こや(6.72反)、かたひら(1.66反)西こや(7.51反)みのこし(12.6反)こうけた(4.22反)、まとば(3.59反)。合計は48.44反(4.844町)

的場周辺 これをさらに地図の上に記すと右図のようになり、田畑・宅地の下限が海抜3mの等高線附近にあると想定して算定した平地面積にほぼ合致します。この図で緑色に描いた山林も、現在は大部分が宅地などの開発され、自然林として残っているのはごく僅かです。
「西こや」が3箇所に分かれて記載されているのは、全体として広い面積を占めているためです。
また、「西こや」と、次に広い「みのこし」の場合、合計面積が広いだけでなく、海岸に近くて勾配が緩いので、1区画(1筆)の面積の広い所を含んでいます。
「こうけた」は、西へ向かう細い川を除くと、周りを斜面に囲まれたすり鉢の底のような所なので、排水不良の沼か湿地のため全体が「田」になっています。斗代(1反当たりの年貢算定基準)は8斗で、村全体の田に対する平均14斗より大幅に低い評価です。
一方、「みのこし」と「西こや」の中にも田がありますが、こちらの田は村の平均よりも高い15斗の評価を得ています。

さらに時代を経て、 広島藩が文化年間(19世紀初期)に藩内の情報を集めた「文化度国郡志」という文書の中で、船越村の幹線・準幹線道路を次のように記載しています。

往還筋  当村の間16町16間(1760m)
的場峠  麓より1町20間上り峠の間(144m)
怨ィ首峠 畑賀村より当村へ小道筋、麓より10町程上り易き方(1080m)

当時の幹線道路は「府中」と「海田」につながる往還筋(近世山陽道=西国街道)でしたが、準幹線道路として隣の畑賀村へ行く怨ィ首峠と、府中村南部を経て仁保島村・堀越へつながる的場峠を挙げています。

「***峠(たお)」という表記は「文化度国郡志」の中の他村の場合にも多数ありますが、長さを述べていることで分かるように、「峠」は現代語の「坂」を意味します。(上りきった最高点の「とうげ」ではありません。この部分の3箇所の「峠」は、全て「坂」に置き換えても同義です。)「芸藩通史」の「船越村図」では、同じ場所を「マトバ坂」と表記しています。

的場坂の位置も右図に示しました。右図の紫の点線の西国街道は、明治20年頃に国道として赤の点線に移っています。

的場坂は「文化度国郡志」の記述のままに、今でも県道府中・海田線から分かれて西へ向かう細い坂道として残っていて、県道から坂を登りきるまでの長さ150m、標高差12mほどです。

的場坂の北に広がる「小請田山」は現在は「請田団地」になり、南に延びる「的場山」は「的場団地」になり、昔の面影はまったくありません。的場坂の両側も、かつては農地でしたが、今は住宅が連なっています。

的場坂を登りきって西へ直線状の緩やかな道を進むと300m余で受田川に出ます。現在は、川筋の上は暗渠となって道路です。
さらに西南へ進むと堀越・向洋へ行きます。


地形図を見てわかるように、干潟が干拓されて新開ができる前には、的場川流域から西へ向かうには、海岸沿いの屈曲した道を辿るよりも、的場峠を通る直線的なルートのほうが便利だったようです。

2、船越坂

一番最後の、船越峠を南へ下った部分、グループ④の後半について記します。

地名毎に面積を合計し、地詰帖の記載順に列記すると次のようになり、それらの推定位置(概略)を2-図に示しました。(図では「はき原」と「たを道の下」は小さいので省略。)

まとば(3.6反)、たを(2.4反)、池のさこ(2.3反)、道ノ下(2.5反)、はき原(0.7反)、ほそだ(5反)、たを道の下(0.8反)、あかさこ(3.4反)、竹之内(4.2反)、竹の後(0.8反)、石田(2.5反)、大前(1.1反)、荒神(1.8反)

的場川が西行する部分より北側の「たを」から「あかさこ」までの面積を合計すると1町7反1畝(17000m)になりますが、 現代の地形図で該当部分の平地面積を概算すると約20000mありますから、道路部分を除いて考えれば、大部分が17世紀初頭までに農地化されていたとわかります。

的場川は西行から南行に方向を転じる附近から川床が深くなり、両岸は急勾配の崖に挟まれています。
現在の県道が通る的場橋は川床から数m高い上を跨るコンクリート製の橋で、道路は緩い勾配でつながっていますが、昔の木橋や土橋の時代には橋を短くするため、川岸まで上り下りする必要があったはずです。 従って、古い時代の街道は現在の的場橋の位置よりかなり上流側の川床の浅い所で渡るのが自然だったようです。

2-図で緑色の円形は「宝永3年の船越村図」に描かれている大木の推定位置です。大木の下は日陰になるため農地としても宅地としても使えないので地詰帖には表れませんが、明治になってこの周りの数箇所を一つにまとめた際、「大木の下」という字名として使われたようです。
当時の西国街道は2ー図に紫色の点線で示したように、大木の傍を通り市場坂まで、東南方向へ等高線に沿うように緩い曲線を描いて通じていたようです。(赤色の点線は現・県道。16、船越の西国街道、をご覧ください。)

なお、小請田山は「享保2年の船越村山帖」によると北端(船越峠)から南端(的場山)まで全体が腰林(私有林)でした。

寛永15年の地詰帖に載っている面積の総計が33.5町あるうち、「田」は47.2%(15.8町)ありましたが、この「田=水田」には田植え時などに多量の水が不可欠ですから、場所に制約があります。
2-図の範囲では、ほそだ、池ノさこ、道ノ下は北側を取り囲む山地からの水が得られるので、大部分が「田」となっています。
一方、まとば、あかさこ、竹之内は的場川に沿いながら的場川の川床よりも高い土地にあるため用水を得る事ができず、ほとんどが「畠」でした。


地詰帖に載っている地名のいくつかについて、別途、その由来を推定してみました。地名の由来ー2をご覧ください。


参照資料: 船越町史・資料編(1981年)、
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