13、宝永3年船越村図に描く西国街道(近世山陽道)と新開

「船越」には、宝永3年(1706年)に作成された村図が残されています。海田湾の上空から北を望んだように情景を描いています。(右上図)
ただし、この村図の目的は村域・村勢を示すことにあり、景観・地理は付随的な事柄だったようで、図に描かれている山、川、池、街道、新開などはシンボル的なもので、景観や地形を忠実に描いてはいません。絵図を描き慣れていない人が、適当に、左から右へ、上から下へと描き並べています。
萩原山、八幡宮(現・岩滝神社)、岩瀧山、日浦山を横一線に並べ、西国街道を横一線に描き、数多くある新開・古新開も横一線に並べて、実際の地理をほとんど無視しています。従って、南北方向の位置関係は実態より大きく外れている部分が多くあります。

そのような点を理解した上で、この図に記された西国街道や干潟などを、現代の地形図に記入してみました。(右中図)

この時の西国街道が的場川を渡った位置は、現在の県道よりもかなり上流寄りでした。当時の東西交通の最速コースで、船越峠と市場坂の間に限っても細かな屈曲はあるけれど最短コースを採り、中世・古代に遡っても同様だったと考えられます。西国街道の経路を決めた前後に盛土や堤防などの特別の工事を行うことなく、多少は幅を広げたり直線的に変えただけで古来の道が使われたようです。下古屋山の北側で道筋が北へ大きく張り出して描かれているのは、市場坂の上り・下りを表現するためで、平面図に描けばもっと直線的です。
市場坂の位置は、西国街道沿いの府中村堺(船越峠)から的場川橋を経て花都川橋に至る道程の中間点に近い位置に描かれていて、市場坂を東へ下りた合流点は現・県道の合流点のやや東北、市場坂を西へ下りた合流点は墓地の西脇の住宅付近に当たります。

古新開など早い時期の小規模の新開は干潟の干拓ではなく、海岸沿いの低地で灌漑用水も届かない荒地に土手を築いて波を防いだり上流から水路を引いたりして整地した所を含んでおり、標高では3mないし4m程度の所でした。
東新開、西新開、外新開の陸側(北側)の輪郭を現代の地図で辿ると標高1.5mないし2mの等高線付近にあります。そこは、新開造成以前の海岸線に該当します。

新開の構造については、補足4、新開の構造で説明しています。

この「村図」の下部中央に「家数103軒」の記載がありますが、絵の中でも39軒の家が描かれています。なお、寛永15年(1638年)の地詰帳に屋敷地として44箇所が記載されていて、1箇所の土地に複数の家が建っていた場合もあるとしても、この村図の家の分布は江戸時代初期からの状態を表現しているようです。

下部右寄りに「干潟七町三十間(約810m)、干潟横九町三十間(約1020m)」という記載があって、南北と東西方向の干潟の広がりが分かります。一方、土地の総面積(古地・新開合わせて)35町7反と表記しながら新開以外の既存の農地を明確には描いていないのは、新開の存在を重点的に藩へアピールするためです。

干潟は干潟として海とは区別して描いているのは、現代人よりも地形に関する認識が正確であったと言えます。自然の海岸は、潮位に応じて汀線が変動するから、こういう描き方が実態に近いといえます。21世紀の現代の人でも、潮の干満も干潟の存在も意識せず、単純に陸と海とで二分して地形を理解することがあり、干潟になる部分を常に海水に覆われた海であったように誤解している人がいます。

下古屋山の裾の下道が描かれているのも道として利用されていたからこそで、途中で途切れているのは下部の村勢などの記入文字に重なったので絵図上で切れただけです。おそらく、原図では別紙を貼り付けていたのを写したようです。
この部分の地形の詳細は西国街道の変遷の図をご覧ください。

「道法拾六町拾六間海田市堺より府中村堺迄」と書かれています。すなわち村内の西国街道の道のりが16町16間(1,756m)ですが、これは100年余後に編纂された文化度国郡志の記述と同じで、17世紀中頃に西国街道が制定された時からの公式の里程のようです。

大きな溜池が6箇所描かれています。19世紀始めに編集された文化度国郡志では「雨池8ヶ所」と記載されていますが、少なくともその内6箇所は18世紀始めの宝永年間に存在していたことがわかります。

「大木」は、描かれている樹形から推測すると楠木のようです。

樹木の伐採が禁止・制限されている萩原山、小請田山、氏神山(岩滝八幡宮の背後)には樹木が明確に描かれていて、村人が共同利用して樹木が伐られている大迫山、岩滝山などは樹木が描かれていません。この点は実景に即して描いたようです。

冒頭で説明したように、南北方向の位置関係は実態とはかなり異なります。このため、西新開の北側と街道の間にある平地や、外新開の北側と小請田山の間にある丘陵地を大幅に圧縮・省略されています。
海抜50mを超える小請田山の南側には、海抜20mほどの的場山、さらには「みのこし」と「西こや」の田畑が広がっていたのに、完全に省略されています。(右中図の白抜き部分)

18世紀の中頃に長州藩で完成された「中国行程記」という西国街道沿線の絵図は、制作時期が宝永年間に重なるので、ほぼ同時代の絵図と考えてよいのですが、こちらは満潮時にも下古屋山の裾の下道が利用されている事を明確に描いています。この絵図の下道の部分に「海岸道を為す」の説明が付いています。右下図は該当部分。

なお、「宝永3年船越村図」として伝えられているものに、確認できた範囲で3種類あります。
1つ目は「船越町史」の扉絵(右上図)、2つ目は「船越町郷土誌」の扉絵、3つ目が「岩滝神社・拝殿」の絵馬で、それぞれに少しづつ違います。
元来は、広島藩に提出した原図があって、それを写した「控え」が遺されていたのを、何らかの事情でそこから更に写したものが現在確認できる3種の絵図のようです。原図の崩し字を誤読し、写しを重ねると誤記が生じます。

伝えられている3種の「村図」を見ると、明らかな誤字(誤読)もあり、元の図の汚損・破損が著しくて読み取れない部分を推測で補った際の解釈の違いが出ているかもしれません。

3種の「村図」を見比べて違いのわかる点の一つが「大木」の描き方です。「船越町史」の扉絵では樹種不明、「船越町郷土誌」の扉絵では楠木のようであり、「岩滝神社・拝殿」の絵馬では松が描かれています。
また、的場川を渡って府中へ向かう道の途中は、「船越町史」の扉絵では急角度で曲がっていますが、他の2枚では直線に近い緩い曲線で描かれています。
その他、細部の相違点は多数ありますが、「船越町郷土誌」のものが最も忠実に元の図を写したものと思われます。「船越町史」のものは写した人の解釈による改変が加わっています。「岩滝神社・拝殿」の絵馬は、「船越町郷土誌」に載っている図に似ているのでそこから模写したらしい。

19世紀の初めに記された「筑紫紀行」と題する紀行文では、府中から海田への行程を次のように表しています。

(府中村より)30町ばかり(3km余)行きて 1町ばかり(100m余)坂を下れば船越村、入海の小湊なり。人家30軒ばかり茶屋なし。浜手を廻れば海田市宿。

この文の起点となる府中村とは府中大橋東詰付近を指しますが、ここから船越峠を経て市場坂まで「30町ばかり行きて」とあっさりと述べているのは、この間の道筋が平坦で単調な道だったからです。(「中国行程記」の絵図でもその雰囲気がわかります。)「1町ばかり坂を下れば」は市場坂を意味します。「入海の小湊」とは、松石新開が造られる前ですから、市場坂の南に船着場が見えたようです。入海は、この当時の海田湾です。
著者(菱屋平七)は尾張の商人で、府中村や船越村の村域を理解していません。旅の途中の見聞を断片的に並べています。


宝永3年船越村図に示された干潟(東西1km余、南北800m余)の広がりは、現代の高い建築が林立する情景からは想像し難いのですが、右図は向洋丘陵の北東端(現・向洋新町一丁目)、標高40mの地点から北東に見た現代の写真を基に、林立する建築物を消し、元来の地表(農地と干潟)を表したものです。
およそ300年前の宝永年間とは山の植生は変わっているかもしれませんが、山の地形に変化はありません。この図の中央が岩滝山、右に日浦山、左の遠くに連なるのが呉娑々宇山。
宝永3年船越村図の山々は、シンボル的に、誇張して描かれていますが、実際の地形はこのように緩やかな山並みです。


参照資料: 船越町史(1981年)、    広島新史(1983年)、  広島県史(1980年)、  近世日本の交通史、 図説広島市史(1989年、 


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