26、安芸の国府と鹿籠(こごもり)

古代の府中
古代律令体制の下で諸国の領域が定められ、それぞれに国府が設置されましたが、安芸の場合は現在の府中町に国府がありました。国府の役所とも言えるのが国衙で、その北部に官道(古代山陽道)の安芸駅が置かれました。(右図で赤線が官道の経路、赤の四角が、安芸駅跡とされる「下岡田遺跡」の位置。ただし、初期の官道は西へ転じて矢賀を通る経路だったと推定されます。19、古代山陽道と広島湾、を参照。)

各国府は陸路の交通の要衝にありましたが、特に山陽地方では近くに船着場があり海運の便も重要でした。
都へ送る貢納物として、陸路を通じる東国からは布などの軽量な物が主になるのに対し、瀬戸内海を利用する西国からは重量のある米が主ですから、船着場の役割は大きかったのです。

安芸の国府の場合、北北西から南南東方向に陸路の官道がここを経由していましたが、25、古代の府中平地で記したように、ここの前面は既に葦の生い茂る潟湖・湿地で船が入ることはできませんから、当時は入り海であった鹿籠湾に船着場を置いたようです。ここは、海岸近くを少し掘削すれば、貢納物を運ぶための100石積み程度の海船を容れることは出来たはずです。(古代、広島湾西岸では干潟が広がっていて、草津付近まで南下しないと、海船を容れる船着場は造れませんでした。)

ここは、貞享3年(1686年)に干拓されて鹿籠(こごもり)新開となるまでは浅い入り海(干潟)だった所ですが、この北岸に「朝泊」という地区があります。

古代に船着場であった所は多くが「***津」と呼ばれる所が多いのですが、所によって「***船瀬」や「***泊」という名もあります。「朝泊」もそのような船着場として存在していたと思われます。現・府中町のどこにも、「朝泊」を除いて、「津」や「浦」のように船着場を意味する地名が古い時代に遡っても確認できません。つまり、「朝泊」が唯一の海への出口だったようです。

この地区の南側に現在、「鹿籠神社」が祀られていますが、この地に遷座されたのは比較的新しく、元来は西寄りの、かつての鹿籠湾の出口にあたる朝泊に在った「鹿籠明神(祭神=市杵島姫命)」と、この近くにあった「鵜崎神社(祭神=弁財天)」および「稲荷社」の3社を合祀されています。

厳島神社は「厳島大明神」とも呼ばれ祭神は「市杵島姫命」ですし、厳島神社に隣接する「大願寺」は別名「厳島弁財天」ですから、「鹿籠明神社」と「鵜崎神社」は厳島神社と縁が深いのです。両社とも海運に関する神社ですから、厳島神社と発展を共にしていたと考えられます。(「鹿籠明神」と「鵜崎神社」は、天明年間(1780年代)以前からこの付近に存在していた小さな神社が、文化年間に再建されたと伝えられています。その後、「稲荷社」を含む3社は明治44年に多家神社の境内に合祀され、大正7年にこの付近の別の地に遷された後、昭和29年に現在地に遷されました。)

ここから国府までは道のりで約2kmですから、国衙から役人が来て貢納物の積み込みや船の出発の管理も容易な地点です。(船着場までの距離については、周防の国府(現・防府市)や長門の国府(現・長府市)などの場合と同程度です。)
安芸の国府から海路を通じて人や物資がどの程度送られたか不明ですが、「**泊」という呼称は、漁民が日常的に舟を着ける「**浦」とは異なり、公的な役割を持った船着場であったようです。地方の役人ないし豪族にとって、交易を通じての財貨の獲得も重大な関心事でした。
古代、中世を通じて、国府と厳島神社の間で往来が頻繁にあったことも確かで、その場合に使われた港が朝泊だったと考えられます。

古代山陽道の経路は、古代山陽道と船越・海田で示したように、船越・海田を経由する方が自然です。この途中から分かれて朝泊へ至ったことになります。

「こごもり」の「こ」に「鹿」の字を当てるのは奇妙に感じます。
「芸州府中荘誌」の神社の項には、「籠守神社、明神社ともいう。籠守は地名。」として紹介されています。「こごもり」に当初は「籠守」をあて、のちに「鹿籠」に変えたことになります。
また、平安時代末に記された「安芸国神名帳」には、国府で奉斎する八神の中に「府守明神」という神名が記されていますが、「府」は「国府」の意味で「府守」は「国府守(こふもり)」を意味しますから、これが「こごもり」に転じたと考えられます。
文字に表記すると、国府守→籠守→鹿籠 の変転になります。
古代には籠を「こ」と読んでいたことが万葉集などで事例を確認できます。丹後一宮・籠神社(このじんじゃ)の例もあります。今でも籠手(こて)の用例があります。音に合わせて「こふもり」の頭に籠の字を当てたようです。
つまり、庶民が使う口称の世界では「こふもり」から「こごもり」となり、役人は「こふもり」を漢字で「籠守」とし、後にこれを「かごもり」と読み替え、さらに「鹿籠」に変えたことになります。漢字表記の「鹿籠」が現れるのは、近世以降です。
下記に引用する田所文書の中の別項では、「矢加村」を「府中」の範囲内として記述していますから、古代の国府には現在の矢賀地区から鹿籠山付近までも含んでいたと考えられます。

注記:

(1)、中世(13世紀)、国衙役人として国府に居た田所氏の遺した「田所文書」の中に、「船所」と数人の「梶取」の名が記載されています。
「船所」は国衙から朝廷への貢納物を海路で輸送するための船を手配・管理した役所で、13世紀の時点でどの程度の実態があったかは不明ですが、田所氏が「船所」を文書に遺しているので、国衙の役割としてそれに関わった事があった事は確かです。また、田所氏は厳島神社神主・佐伯氏の同族ですから、頻繁に往来があったようです。
「梶取」は、その種の船を運航する責任者で、現代風には船長といえますが、いずれも田所氏の支配を受ける立場です。
田所氏が海運を管理するためにも湊は国衙の近くにあったと考えられます。
周防の国府があった現・防府市には、国衙跡の南数百mの地点に「船所」の地名が残っています。

(2)、芸州府中荘誌(1932年)は次のように紹介しています。
「**室町以後は鹿篭湾の波静かを利用せられて船舶の出入り頻繁を極む。最もこの湾は上古においても良湾であったと見え、****。***田所氏が厳島神社永代勅使を拝してから同社祭事の出船入船一切をこの地からしていた****」

(3)、詳細が定かでありませんが、府中町史によると、鹿籠山麓には古墳や中世の貝塚があったという記録があり、宝永5年(1708年)の 建山・留山などを記した文書には腰林(私有林)の持主として10数人の「ここもり」の村人の名が記載されています。従って、鹿籠新開の造成(貞享3年=1686年)の頃には、多数の人々が住んでいたようですし、古墳時代に遡っても集落があったようです。

(4)、平安時代末(12世紀)に記された「安芸国神名帳」の中に、国府が奉斎する神名として、次の八神が載せられています。

「安芸都彦明神」=現・多家神社の主祭神。
「水別明神」と「水別若宮明神」=現・水分神社の祭神。
「角振隼総明神」=近世の「角振神社」を経て、現・三翁神社の祭神の一つとして祀られています。
「府守明神」=上記本文で説明のように、鹿籠神社に継承されたようです。「守」は「森」を意味し、「府守」は「鹿籠山」を指すようです。
「椙モリ明神」=「モリ」は木へんに貫。芸藩通史・府中村図には山田川の流域に「杉ヶ森」の地名があります。
「大歳明神」=芸藩通史・府中村図には、榎木川中流の左岸に「大歳」の記載があります。
「槻瀬明神」=不明。

これらの神々は国府域内の神ですが、「大歳明神」を別として、神名から明らかなように全て土着の神で、この地域に人々が住み始めて以来の自然信仰に由来します。
安芸国では伊都岐嶋神社、速谷神社と共に、多家神社は延喜式(10世紀)内の名神大社ですが、上記七神も古代のかなり古い時代に創祇されていたようです。

参照資料: 広島県史・古代中世資料編(1976年)、 広島新史・地理編(1983年)、  中山村史(1991年)、  矢賀郷土誌(1999年、  芸藩通志(復刻版)、  府中町史)(1979年)、  広島県地盤図(1997年)、 広報ふちゅう(2013年3月)、 、


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