17世紀中頃から18世紀始めに広島藩は瀬戸内沿岸の多くの地域で大規模な新開造成を進めました。 その中で広島湾東部の新開を造成年度順に面積と共に示すと下記のようになります。 それぞれの場所は右図を参照。 ①かにや新開(1640年頃)50町 ②矢賀村新開(1640年代)14町 ③茂陰新開(1648年)13町 ④府中大須新開(1660年)26.3町 ⑤矢賀大須新開(1660年)16.8町 ⑥町分大須新開(1660年)41.2町 ⑦海田新開(1661年)81町 ⑧皆実新開(1663年)128町 ⑨仁保島東新開(1663年)144町 ⑩矢野・西崎新開(1686年)12.6町 ⑪府中・鹿篭新開(1686年)7.1町 ⑫堀越外新開(1701年)6町(府中分1.4町、船越分4.6町) ⑬青崎新開(1713年)25町(府中分10町、仁保島分15町) ⑭船越・松石新開(1808年)30町 右の図で灰色の部分は16世紀末の干潟の推定範囲で、先端(下限)は海抜-1mの等高線としています。 23,広島城築城前の太田川三角州と1,瀬野川三角州の形成に示した図と対比してわかるように、また補足4、新開の構造に記したように、これら大規模新開の多くは概ね海抜0mの等高線までを限界として造成されています。 17世紀の時点で大規模干拓ができるほどの干潟が無かった船越でも、他の地域に大きく遅れた19世紀の始めになって⑭松石新開の造成が実現しました。⑦海田新開の造成時に海田湾北岸に付け替えられた瀬野川からの土砂が沖へ堆積したお陰ですが、それでもまだ充分ではなかったようです。(海田新開 と14,異形の松石新開をご覧ください。) これらの新開造成の結果、藩にとっても農民にとっても待ち望んだ増収を実現できましたが、これだけ多くのの大規模干拓が推進できたのも、中世の動乱期を経て、近世の幕藩体制下の安定した時代になったからでしょう。 しかし、干潟干拓のための潮止め堤防の築成は、地味ながら困難な面も多かったようです。 例えば、工事をできる時間帯は干潮時に限られ、堤防を築く地点は干潟の軟弱地盤であり、堤防の全体が完成して締め切るまでは未完成の堤防の内側は満潮の度に海水に侵されますから崩れないように対応が必要です。最終工程になる樋門の組み立てにも特別の技術や苦労があったようです。ただし、矢賀村と府中村の新開は干潟ではなく湿地の干拓ですから事情は異なります。(30,三つの大須新開と茂陰新開) さて、大量に必要とした資材(石材、土砂、木材など)は、どこで、どのように手配されたのでしょうか? 大勢の村人が近隣から何日間も工事に動員された(仁保島新開と海田新開については近隣の村々から1万数千人の人々が動員されたという記録が残っています。)のですが、詳細は? こういう疑問が浮かびますが、それに答えてくれるものは公刊されている資料には見当たりません。おそらく、広島城下町の護岸堤防と広島城の石垣よりも、資材と作業の総量としては新開関係の方が大きかったはずです。当時としては大変な大工事であったことは確かで、現代の巨大公共事業に該当します。 なお、これらの干拓地は造成直後から長らく農地として利用されていましたが、現在は殆んどが工場敷地、商業地、宅地になっています。 さらに、上記以降も現代まで干拓や埋め立てが沖へ向かって続けられ広大な陸地が増えた一方で、それでも足りず20世紀後半以降は丘陵地を削って多くの住宅団地も造成されました。右図で緑色に塗りつぶした山地・丘陵地も、現在は広い範囲で住宅団地や公園です。 広島湾全体の新開については、補足5,広島湾の新開をご覧ください。 |