30、三つの大須新開と茂陰新開


府中平地を取り囲む四ヶ村の近世における石高と耕地面積の推移を、確認できる範囲の資料に基づいて示すと下記のようになります。参考までに近隣内陸二ヶ村の数値と併せて示します。
この中の増加分の大部分は干拓や荒地開墾によるものです。(  )内の数値は推定。

資料矢賀村中山村温品村府中村中野村奥海田村
A,元和5年(1619年)
知行帖
184石。
(16.5町)
728石。
(49町)
1,124石。
(79町)
1,856石。
(139町)
1666石1,665石
B-A,増加分110石。
(8町)
278石。
(20町)
175石。
(15町)
446石。
(35町)
50石0
B,寛永15年(1638年)
地詰帖
294石。
26.5町
1,006石1,299石2,302石。
174町
1716石1,665石
C-B,増加分213石。
23.2町
05石432石。
約52町
00
C,文化年間(1810年頃)
芸藩通史
507石。
49.7町
1,006石。
69町
1,304石。
94.1町
2,734石。
226.2町
1716石。
163.7町
1,665石。
117.9町

府中・矢賀平地 元和5年(1619年)の知行帖は福島氏から浅野氏への引継ぎ書類で、この時点では毛利氏時代に進んでいた開墾や干拓は未完、もしくは検地未了だったようです。

寛永15年(1638年)地詰により、前代までの干拓の成果が数字で現れてきました。四ヶ村それぞれの増加がわかります。大須新開の造成前に、その北側と東側にかなりの広さで干拓が先行していた事がわかります。つまり、新開造成の記録がない中山村の南東部と温品村の南部も矢賀村・府中村と平行して進んでいたことになります。

なお、この間の単位面積当たりの石高(評価基準)の変動は無いので、上記四ヶ村の石高増加は耕地面積の増加を反映しているものと考えられます。

文化年間(1810年頃)の芸藩通史の数値をみると、寛永15年から大きく増加したのは矢賀村と府中村です。これは、古代には潟湖・湿地だった府中平地が17世紀に干拓された成果です。

右上図に1648年と1660年にそれぞれ造成された茂陰新開と大須新開を示しましたが、両新開の間を府中大川が流れています。さらに拡大して右下図に示しますが、その中の等高線は17世紀初頭の大体の状態を推定したものです。

大須新開は三分され、北部は府中村、中央は矢賀村、南部は広島城下町に配分され、それぞれ、府中大須、矢賀大須、町分大須と略称されました。

大須新開・茂陰新開 新開造成前の状態を大まかに言えば、府中大須は湿地、矢賀大須は砂州、町分大須は干潟でした。茂陰新開は砂州の部分から湿地にまたがっていました。

府中村の寛永15年から文化年間までの増加分の52町は、茂陰新開と大須新開、鹿籠新開(7.1町)および8箇所の小規模な新開が併せて5町ほどの合計になります。

「大須」の名は、岩鼻から茂陰に延びる大きな砂州があった事に由来しますから、元来の意味は「大洲」で、「須」は同音の当て字です。


参照資料: 広島県史・近世資料編(1975年)、 広島新史・地理編(1983年)、    芸藩通志(復刻版)、  府中町史・資料編(1979年)、  府中町史・通史編(1979年)、 中山村史(1991年)、  矢賀郷土誌(1999年)、 瀬野川町史(1980年)、 安芸町誌(1973年)、
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