25、古代の府中平地と潟湖

府中平地の地理学的資料をみると、ここにはかつて矢賀の「巌鼻」から南東へ延びる砂州によって広島湾から隔てられた浅い潟湖ないし湿地のあったことがわかります。

府中・矢賀平地 まず、この付近の地形分類図を見ると、「巌鼻」から南東へ延びる砂州が示され、かつては、この方向に浜堤のあった事も確認されています。

また、ボーリングによる地盤データからは、この平地の南部は南西側(現在の猿猴川の川筋から)流れてきた土砂が堆積してできたことと、かなり昔に淡水化した湿地性の土壌でできていることが示されています。

仁保島の北側に広がっていた浅い海が太田川(分流としての猿猴川)からの土砂の堆積により干潟になる過程で、潮流と波の作用で土砂が北東に流され「巌鼻」から南東へ延びる砂州が形成されたものです。とはいえ、干潮時にのみ砂州によって広島湾と隔てられ、満潮時には広島湾と細い水路を経てつながっていたようですから、砂州の上を人の往来はできても、農地や宅地にはできなかったはずです。

従って、府中平地の周辺に北浜・南浜など海に縁のありそうな地名は、そこまで海水が直接入り込んでいたのではなく、潟湖に面していたからのようです。湊という地名もありますが、これは「水門(みなと)」に由来し、榎川の河口を意味します。
(島根県の宍道湖沿岸にも「浜」や「**浜」という地名があり、琵琶湖の沿岸沿いには「**浜」が20箇所以上もありますから、「浜」は必ずしも海に面していません。各地にある「**湊」が船着場でない例も多数あります。)
水深が浅いとは言え、南北2km、東西1kmの水面は、岸辺に住む人々にとっては「海」と呼べる存在だったかもしれませんが、むしろ、琵琶湖を「淡海(おうみ)」と表記していた例もあるように、「海」が淡水性の湖をも示したと考えられます。

また、北部に「鶴江」という地名が残っているのは鶴が飛来するような淡水性の沼・湿地があったと考えられます。(ただし、この場合の「江」は「川」の意味で、「鶴江」は「温品川」の古称かもしれません。)
そして、国衙のある府中北部を通る経路とは別に、矢賀の「巌鼻」から南東へ進んで府中南部を経る海岸沿いの経路がかなり古い時代から成立していたはずです。17世紀初頭、元和年間の作成と伝えられる安南郡古地図には、この砂州を伝う道が描かれています。

この地域の地形構造の成り立ちを理解するのに便利なのが、ボーリングデータに基づく右下の地層断面図です。
府中・矢賀平地
この断面図の左側部分で土砂が盛り上がっている所は岩鼻と茂陰を結ぶ砂州で、図の中央部分は砂州によって堰き止められた浅い潟湖になっていた時代のあった事がわかります。右側は山地です。元来、府中町平地に流れ込む温品川、榎川などの流域面積は小さく、流れ出す土砂の量も相応に少なく、この平地の南西側に体積した土砂は主に猿猴川からのものです。

太古の昔に広島湾に開けた浅い入り海だった所が、土砂の堆積により古代のある時期には潟湖になり、次に湿地を経て、17世紀の干拓により農地になったということです。

なお、温品川、榎川など各川はバラバラに潟湖または湿地へ流れ込んでいたようです。干拓のために流路を一本化したのが府中大川です。

それぞれの変遷時期を正確に確認することはできませんが、弥生時代の太田川三角州で述べたように、2000年前には、太田川三角州の先端は府中湾に入り込んでいたと推定できますし、この地層断面図からも、2000年前頃には砂州の峰の部分は満潮時の海面より高くなり海水の流入が絶え、潟湖ができていたと推測されます。

潟湖とは言え、ごく浅いもので、出水時には水面が広がり、渇水期には水面は小さくなって湿地になるような状態だったと推定されます。
その後も、大洪水の度に砂州を乗り越えて猿猴川の濁流が流入し、土砂が堆積して、何百年かを経て湖は小さくなり、かつての湖岸周辺部で排水の好くなった所から農地化されてきたようです。
海岸沿いの干潟の干拓は潮止め堤防を築いて海水の流入を防ぐ事が基本ですが、湿地の干拓は水路を整備して排水する事が基本です。おそらく、中世のある時期以降、排水路の整備が徐々に進められていたものでしょう。中世国衙役人の田所氏が遺した「田所文書」に記載されている荒地開墾や新堤は、そのような事例だと考えられます。27、中世の温品村と矢賀村をご覧ください。


参照資料: 広島新史・地理編(p732)、  中山村史(p24-27)、  矢賀郷土誌、  芸藩通志(復刻版)、  府中町史・資料編、  広島県地盤図、 
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