29、安南郡古地図、17世紀初頭の府中平地


元和年間(1615年ー1619年)の作成と伝えられる「安南郡古地図」には大変に貴重な情報が描かれています。

この図では、広島城下から東へ向かう幹線道路を直線的に伸ばして描き、周辺の状況はごく大雑把で歪んだり省略されたりしていますが、当時の地理を記載したものとしては唯一とも言える図です。

現代の地図と対比してみると、矢賀村の集落とその西にある岩鼻は実際よりも反時計回りに90度以上も回転した方向に描かれているし、岩鼻から南東へ向かう道筋は実際よりも反時計方向に45度ほどずれて描かれ、この影響で、府中村の南に連なる鹿篭山から向洋の丘陵が大きく上(北)へずれて描かれています。また、3本ある川のうち一番右(東)にある榎川は実際には右上(東北)方向に延びて府中村の集落の中を突っ切っているのに、この図ではまっすぐ北へ延びています。おそらく、この古地図の作成者は、道路から遠くに離れてあるものの状況は推測で描いたようで、地図というよりも道路案内図のようです。
また、現在の中山川は下流でS字形に蛇行して温品川に合流していますが、この当時は直線的に南下しています。現在のようなS字形の川筋は近世に入ってから付け替えられたもののようです。

そのような様々な違いは別として、道路沿いの情景をみると重要なことがわかります。

まず、海岸線(満潮時の汀線)が岩鼻(図のA)と茂陰(図のB)を結ぶ線にあり、道路はこの海岸に沿って北側に通じています。3箇所に橋があり、それぞれ、上流から川が流れてきています。

海岸線を標高1.5mの等高線にあるとすれば、道路は標高2m程度以上の地点を通っていたはずですが、 岩鼻と茂陰を結ぶ線には、古代の府中平地で述べたように、砂州が形成されていました。その北側は浅い潟湖ないし湿地になっていた所です。

潟湖ないし湿地から流れ出す川筋が3本もあるのは不自然で、2本は湿地干拓のための排水路として人工的に掘削されたものと考えられます。つまり、17世紀半ばの大須新開造成の前に、湿地干拓が先行して行われていたことになります。

大須新開造成の際には、砂州の土砂を削って新開の堤防に使い、低くなった砂州に灌漑用水を導いて農地化できたので、一石二鳥でした。

この古地図で東西に走る海岸から南へ仁保島に至る部分は、満潮時には海水に覆われ干潮時には地表が現れる干潟でしたが、17世紀の中頃には大部分が干拓されました。(広島湾東岸の新開造成で説明。)

注記:

1、毛利氏が天正18年(1590年)頃に行った惣国検地の結果を伝える「八ヶ国御配地絵図」の中に、安芸国安南郡の部で、矢賀・温品・府中の3村に樋守給(給免田)の記載があります。これが湿地干拓地の樋門(水門)を管理する樋守の存在を示すものと思われます。また、「安南郡古地図」に描かれた3本の川に対応するようです。

2、同じく「八ヶ国御配地絵図」には矢賀に目代を置いたことが記されています。目代の多くは四日市、十日市など市に置かれていましたが、交通の要衝にも置かれたようです。この付近では、矢賀の他には、草津と緑井に置かれていました。広島城下に対する、東、西、北の玄関口の位置づけです。このことは、毛利氏の時代にも岩鼻から茂陰を結ぶ経路が幹線路であったことを示しています。仮に、府中北部から温品南部へ北上する経路が幹線路だったら、矢賀を経由せず、大内越から尾長へ抜けたはずです。この付近の実際の地理は、27,中世の温品村と矢賀村をご覧ください。

3、描かれている橋の多くは、豊臣秀吉の軍勢が島津氏との戦いのために移動した天正15年(1587年)以前に、毛利氏が造ったものかもしれません。


参照資料:  矢賀郷土誌(1999年)、八ヶ国御配地絵図(山口県文書館)、概観広島市史(1955年)、

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