広島湾沿岸付近の貝塚としては、比治山貝塚と中山貝塚が有名です。
これら貝塚(遺跡)は、確認された土器の編年から、比治山貝塚については縄文時代後期から晩期に、中山貝塚については縄文時代晩期から弥生時代中期にかけて営まれたと推定されています。貝層については、比治山貝塚の場合は縄文晩期(3300年前~2800年前)の、中山貝塚の場合は縄文晩期から弥生中期(3300年前から1900年前)の複数の貝層が確認され、それが上層(新しい層)ほど塩分の薄い水に生息する貝種の割合が増えています。 貝種が変わったのは付近の海が徐々に浅くなったためですが、単純に浅い海になったわけではありません。下層の貝は主にハマグリとカキですが、ハマグリは干潟で採取されるものですから、縄文時代晩期(3000年ほど前)には広島湾東岸には干潟が広がっていたことを示しています。そこからさらに、弥生時代にはもっと浅くなっていったことが推定できます。 比治山貝塚の最下層の貝層が営まれた縄文晩期(3000年前頃)はもとより、その下の層で土器が確認された縄文後期(4000年前頃)には既に、比治島の南側では干潮時には地表が現れて広大な干潟になっていたことを示しています。(仮に、3000年前の比治島の周りが幅の狭い砂浜だったら、貝採取の効率が悪く、そもそも貝の生育に適しません。) また、広島市街地の中心部の砂層から弥生時代前期の土器が発見され、当時の海岸線はその付近まで下っていたと推測されます。 右図は、7300年前の広島湾 と 太田川三角州と広島湾③、広島城築城前 に記した状態を基に、2000年前(弥生時代)の太田川三角州をシミュレーションしたものです。これは、西区南観音の標高-0.7mの地中で1500年余前の地層が、広島城跡上八丁堀の標高-0.1mの地中で2800年前の地層が、それぞれ確認されていることにも対応しています。 ただし、太田川の流路は長い間には三角州上を移動したはずですが、2000年前の状況を推測する手段がないので、流路を省略しています。 この図を見れば2000年前に比治島周辺や仁保島北部は広い干潟になっていることがわかります。 流路がいずれであれ、本流の河口は城南通り附近に達しています。 仁保島から江波島を結ぶ線より北の広島湾の面積は約25km2あります。瀬戸内海の潮の干満差は大潮で3mを超えますが、平均して2mとしても、干潟ではなく水深3m~5mの浅い海だったなら、潮の干満により2x25=50x10 6m3の体積の海水が毎日2回行き来することになります。 一方、太田川の一日の平均流量は約10x106m3/dayですから、たとえ浅くても海である限り潮流は流れ込む川水より圧倒的に多いので河口や川の流路付近の狭い範囲以上には塩分は薄くなりません。 しかし、三角州の上がさらに浅くなって緩い勾配の干潟面になると状況が変わります。まず、潮の干満により湾内に入る海水の移動量(体積)は半減します。つぎに、川水は海水より軽いので、河口から沖へ流れ出た川水は表層に広がります。そして、満潮時には、塩分が薄くなった表層の海水から海岸に押し寄せますから、干潟だった所は塩分の薄い海水に覆われることになります。 このような塩分濃度の変化に対応して貝種の変化が生じます。弥生時代の広島湾の干潟の広がりを考古学的に証明するのが比治山貝塚と中山貝塚です。また、牛田の北部にある西山貝塚は弥生時代後期の遺跡で淡水性の貝種ですから、牛田附近は既に海水が殆んど遡上しない状態だったと考えられます。 また、弥生時代には比治島も仁保島も海上に孤立した島ではなく、干潮時には歩いて二葉山・牛田山山麓の平地から行き来のできる所だったことがわかりますし、その事が比治島南端に貝塚のできた背景です。さらに、三角州上でも陸地寄りの半分は、一日の過半は潮が引いていますから、広島湾は古い時代から、東の府中南部から西の己斐まで歩いて行き来ができたとわかります。ただし、相当部分は葦原ですから、行路が限定されます。 弥生時代は九州から東北地方まで水稲農耕が広まっていった時代ですが、水田遺跡の確認されている箇所の大部分は小河川の扇状地にあります。当時の農耕技術・用具の制約から最も容易に耕地化し易い所から開発していったからです。 大河の三角州上の土地は耕地化は困難です。 図の範囲を越えて左(西)には五日市の八幡川・石内川流域があり、そこから時計回りに安川、戸坂川、中山川、温品川、さらに図の右上隅(東北)で、府中の榎川・山田川の各流域まで、耕地化の容易な平地が連なっています。互いに交流しながら発展できます。 それに反し広島湾沿岸沿いは耕地化の容易な所は牛田と己斐の2ケ所のみで、他の地と歩いて行き来は出来ても集落としては孤立した状態ですから、発展に不利です。奈良時代の立荘と伝えられる牛田荘以外に、この地域で活動の歴史が伝わっていないのは、そういう背景があります。 上記の図は、弥生時代の海水面は現在より0.5m低かったと想定して描いていますが、当時は現在よりも2m程度低かったという説もあり、そうすると既に比冶島は北側に陸続きだったことになります。 なお、中山と温品の南に広がる府中湾は、その南西半分が太田川(分流の猿猴川)から運ばれる土砂が堆積し、岩鼻から南東方向に砂州が延びていました。従って、干潮時にも府中湾の中央部は干上がることなく浅い水面が残っていたと考えられます。 25,古代の府中平地、をご覧ください。 西の方では、規模は小さいけれど己斐、高須、古江にも弥生時代の貝塚があり、沿岸部にも住人がいたことが確認されますし、その当時、古江の沖付近まで干潟(太田川三角州の先端)が広がっていたことを示しています。 安川下流域や八木などの内陸部でも弥生時代の貝塚が多数確認されています。これは、内陸の住人が沿岸まで来て貝を採取した可能性もありますが、むしろ、沿岸部の住人が魚貝などの海産物を獲って内陸の農産物と交換していたと考えるのが自然です。 「広島新史・地理編」のp482からp490には、広島平野の形成についてデータに基づき詳しく解説されていますが、その最終部分p489からp490には次の説明があります。 「***。太田川三角州の主体(前置層)はこの縄文中期の海面低下によって急速に形成されたとみてよい。****。「弥生の小海退」と呼ばれるこの海面低下の後、海面は再び上昇し現在の水準に至るが、それに伴って上部砂礫層を薄く覆って最上部層が堆積した。 海田湾奥の瀬野川三角州もほぼ同様の形成過程をたどった。****、約2200年前には三角州中央部が湾奥となって、***。約2000年前には離水したらしい。」 曖昧な表現になっているのは、「広島新史・地理編」のこの項の執筆者の特徴ですが、最後にある「離水」とは「陸地化」の意味です。全体を簡潔に要約すると、次のようになります。 「太田川三角州と瀬野川三角州とはほぼ同様の形成過程をたどった。」 「上流側から三角州の中央付近までが約2000年前に陸地化していた。」 太田川三角州と瀬野川三角州の中央がそれぞれどこにあるかを説明されていませんが、地図上で推定すると、太田川三角州の場合は平和公園南端、瀬野川三角州の場合は海田西小学校付近となります。 しかし、現実には17世紀初頭の時点で太田川三角州の海岸線は平和大通り付近にあり瀬野川三角州の海岸線は蟹原付近にありました。従って、「三角州の中央付近までが約2000年前に離水していた。」ということはありえません。強いて言えば、潮の干満を考慮して、「干潮時には地表が表れていたらしい。」とすべきです。 もっとわかりやすく説明すると、補足2、太田川三角州の発達の図になります。 |