7、瀬野川流域の村々


瀬野川流域には、弥生時代の貝塚、古墳時代の古墳、古代から中世には荘園など、古くからの人々の活動の跡が確認されていますが、基本的には各支流毎に集落を形成し、遠近の集落と様々に交流を重ねて、近世に至りました。

幕藩体制の下で瀬野川流域に広がる集落はいくつかの村に分けられましたが、これらの村が明治以降の町・村の基本となり、合併を経て現在に至っています。

近世(江戸時代)のこれらの村の石高と耕地面積は次のように推移していました。19世紀初頭の人口も加えて示します。

資料船越村海田村奥海田村畑賀村中野村下瀬野村上瀬野村合計
A,元和5年(1619年)
知行帖
337石48石1,665石846石1,666石776石565石+100石6,003石
B,寛永15年(1638年)
地詰帖
355石、
33.5町
190石1,665石992石1,710石985石876石6,773石
C,文化年間(1810年頃)
芸藩通志
(反当り石高)
400石、
41.7町
(0.96石)
1,440人
1,303石、
119.9町
(1.08石)
2,768人
1,665石、
117.9町
(1.41石)
3,292人
992石、
89.5町
(1.11石)
1,681人
1,716石、
163.8町
(1.05石)
3,641人
985石、
72.3町
(1.36石)
1,592人
776石+100石、
69.1町
(1.12石+0.14石)
1,375人
7,937石、
674.2町
(1.18石)
15,789人

上記7ヶ村の知行帖の石高を合計すると、6,003石です。これに先立つ毛利氏時代(1590年頃)にこの7ヶ村を領地としていた阿曽沼氏が得ていた年貢高は、2,973石でした。生産高のおよそ5割を年貢として得ていたようです。

そして、元和年間から文化年間までおよそ200年の変化を概観すると次のようになります。

海田村の大幅な増加は寛永・寛文年間の新開造成によるものです。
船越村は宝永3年村図に描くように、小規模な新開造成の累積です。(文化年間に松石新開の30町余が完成していますが、まだ地詰には至っていませんでした。人口は既に増えています。)
中野村、奥海田村は、ほとんど増加していません。
一方、畑賀村、下瀬野村、上瀬野村はそれぞれかなりの増加がありますが、これらの村は内陸ですから沿岸部のような大幅な開拓はできません。評価基準の見直しによる増加もあったかもしれません。また、寛政8年(1796年)の資料によると、畑賀村、下瀬野村、上瀬野村にはそれぞれ約40%の耕作されない荒地があり、土砂崩れなど自然災害の影響で不安定な土地を含んでいたようです。記録の確かな明治以降でも、これらの地域では深刻な災害を経験しています。
とはいえ、19世紀の村勢は、16世紀末または17世紀初頭にはほぼ出来上がっていたことがわかります。

上瀬野村の「+100石」について直接に説明する資料は見当たりませんが、知行帖には別行で記入されているので、中世まで賀茂郡に属していた大山地区を毛利氏または福島氏時代に上瀬野村へ取り込んだ結果のようです。100石は耕地面積で約8町ですから、面積的には合致します。上瀬野村からも宗吉村からも、集落の中心からは外れているので、実際に検地されることなく概算で付け加えられたようです。
毛利氏時代の検地結果を記す「八ヶ国絵図」には、阿曽沼氏の所領高として墨書で2,913石と記した後、朱書で2,973石として60石増えています。毛利氏時代の石高は、知行帖の石高の6割でしたから、上記100石に該当すると考えられます。つまり、大山地区を阿曽沼氏領としたことが郡境の移動のきっかけになったようです。35、近世の安芸国各郡の石高推移をご覧ください。

反当り石高は、それぞれの村における田と畠との比率を反映しています。船越村の場合(寛永15年の地詰で)、反当り石高の平均は田に対して約1.4石、畠に対して約0.7石で、田と畠がほぼ50:50でした。中野村は70:30でしたが、他村も同様に平坦地(小河川の扇状地)が広いので田の割合が多くかつ土質も良いのか、村平均の反当り石高は高くなっていました。

石高と耕地面積には表れませんが、この時代の各村には様々な生産活動がありました。 菜種油、木綿、薪など、宿場や城下へ運んだ産物が代表的です。
また、西国街道を通じた陸運、海田湾から積み出す海運も活発に行われていました。




参照資料:  広島県史近世資料編(1975年)、 芸藩通志、 船越町史資料編(1981年)、  海田町史(1985年)、 瀬野川町史(1980年)、
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