35、近世の安芸国各郡の石高推移、


近世の安芸国各郡の石高は下表のように推移しました。

「A,配地図」の行は、「八ヶ国御配地絵図」に付箋で記された各郡の石高で、基本的には年貢高を示します。「八ヶ国御配地絵図」は、毛利氏時代の天正15~19年(1587~1591)に、備中、備後、安芸、周防、長門、石見、出雲、伯耆の八ヶ国に対して行われた惣国検地の結果を示すものです。「絵図」というより「配置図」に類するもので、以下「配地図」と略記します。
「B,知行帳」の行は、福島氏時代の検地に基づき元和5年(1619)に浅野氏へ引き継がれた文書に記された各郡の石高で、基本的には生産力を示します。
「C,芸藩通志」の行は、文政年間(1810年頃)に編集された地誌に示された石高で、こちらも生産力です。
「比率(A÷B)」は、もし毛利氏時代から福島氏時代までに新規開墾が無い場合は、当時の年貢率を示します。下表の数値は郡ごとの平均地ですから、個々の村の年貢率は上下にバラツキがあります。

1、寛文4年(1664年)以降は郡名が変わり、佐西郡は佐伯郡に、佐東郡は沼田郡に、安北郡は高宮郡に、安南郡は安芸郡になりましたので、表では併記しています。
2、「広島府」は同時期に制定されたもので、沼田郡と安芸郡から一部を分け、広島城下周辺とその南部・東部に造成した広大な新開(干潟干拓)とを併せたものです。

項目山県郡高田郡佐西郡
佐伯郡
佐東郡
沼田郡
広島府安南郡
安芸郡
安北郡
高宮郡
賀茂郡豊田郡合計
A,配地図、石高17,24923,46715,457
(16,957)
7,1549,935
(11,836)
9,70329,40830,410
(30,210)
142,783
(145,984)
比率、(A÷B)0.600.540.44
(0.49)
0.430.39
(0.47)
0.600.600.590.53
(0.55)
B,知行帳、石高28,51843,07534,79816,5051,63625,35616,19349,29851,414266,862
増加率、
((C÷B)-1)×100,%
11%2%7%25%596%24%10%16%13%16%
C,芸藩通志、石高
31,63943,83637,37620,56811,38931,33417,87657,10158,261309,380
D、同上、面積 (=町)3,9474,6473,7601,9329662,7301,6226,1676,09031,861
C÷(D×10)、反当り石高0.80.940.991.061.181.151.10.930.960.97

近世の安芸8郡と備後14郡 「配地図」の郡別石高には蒲刈・倉橋・能美などの島嶼部が算入されていませんので、推定値(概算で合計3,200石)を加えて補正すると上表の( )内の数値になります。補正方法の詳細は補足8、毛利氏の惣国検地、安芸をご覧ください。
広島湾を囲む佐西郡、佐東郡、安南郡の3郡については、毛利氏時代の年貢率が5割ほどで、そこからさらに、毛利氏時代から福島氏時代にかけて河川の下流部や沿岸部の開墾により石高が増えたことを示しています。特に顕著なのは佐東郡ですが、これは太田川下流域の開墾が進行途上であったことを反映しています。

福島正則は、関ヶ原合戦の後、慶長6年(1601)に広島へ入って間もなく芸備両国の検地を行っています。その結果に基づき将軍秀忠から認知された石高が、安芸で25.94万石、備後で23.88万石でした。上表に示すように、浅野氏へ引き継いだ時には26.69万石となり、約7,500石増加しています。太田川下流域や沿岸部での開発の成果が7,500石に含まれているのかもしれません。

「知行帳」の石高から「芸藩通志」の石高へ増加の大きいのは、沼田郡、広島府、安芸郡です。
沼田郡の増加分については24,太田川下流域の開墾を、 安南郡(安芸郡)については30,大須新開、8,海田湾干拓、を、広島湾東部については31、広島湾東岸の新開造成をご覧ください。広島府、安芸郡については、増加分の大部分が新開造成(干潟干拓)によるものです。

反当たり石高をみると、沿岸部の方が内陸部よりやや大きい傾向にあります。

また、全体的な石高の推移をみると、毛利氏時代の検地水準が福島氏、浅野氏時代にも、ほぼそのまま踏襲されたと考えられます。
一方、別の資料から総合すると、毛利氏時代と同様に浅野氏時代の年貢率も沿岸部より内陸部の方が数字上では高くなっています。しかし、実際の生産高を具体的に示す資料が少ないので単純に年貢率の比較で農民の負担の重さを判断できません。48%に対する60%というほどの違いはなく、実際の全収入・全生産高に対する年貢率はどこでも似たような負担だったようです。

因みに、安芸国8郡と共に近世広島藩の領域にあった備後国の西部8郡(御調郡、世良郡、三次郡など) についても福島氏から浅野氏へ引き継いだ知行帳が伝えられています。備後西部8郡の場合、知行帳の石高に対する「配地図」の付箋の石高の比率(年貢率)は平均すると46%で広島湾を囲む3郡とほぼ同じです。(備後東部については知行帳に該当する資料は確認できませんが、備後全体については、上記の福島検地による総石高23.88万石に対して「配地図」の総石高は11.39万石ですから、平均年貢率は約48%になります。ただし、「配地図」の石高にはかなりの集計もれがあり、これを補うと、備後の平均年貢率は50%程度になります。詳しくは補足9、毛利氏の惣国検地、備後をご覧ください。)

なお、近世に入ってからの実例として、佐西郡玖島郷で慶長5年(1600年)の年貢率46.4%の事例が記録されています。
高宮郡の小河原村や中深川村などで、17世紀から18世紀の年貢率が55~60%でした。


明治初頭の日本の人口が3000万人余で近世初頭(17世紀始め)の人口が1200万人余と伝えられています。これに対し、広島県(芸備2ヶ国)の明治初頭の人口=90万人余から類推すると、17世紀始めの芸備2ヶ国の人口はおよそ36万人。福島検地の芸備2ヶ国の石高、合せて49.82万石でしたから、人口一人あたり1.38石。全国平均の1.5石より若干小さいようです。


参照資料:  芸藩通志(復刻版)、八ヶ国御配地絵図(山口県文書館)、広島県史・近世資料編(1975年)、資料毛利氏八箇国御時代分限帳(1987年)、

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