船越郵便局の北60mほど先、県道の東側にある常夜灯は明治五年建立の刻字があり町内で最も古いものです。 最上部の宝珠から下へ全ての部分で精巧に造られ、3段の基壇(石台)を構成する石材も正確な直方体に作られ表面も平滑に加工されています。 ところが、平坦地に建つ常夜灯は3段の基壇が通例であるのに、この常夜灯はその下に石垣の基礎が加えられています。この最下段の石垣は、不定形の石材を積み重ね、石材相互に大きな隙間や段差があり、表面加工も粗くて凸凹です。特に、石垣の上に載る平板は8枚で構成されていますが、同様に加工が粗く、厚みは10cm~13cm、外形寸法も不揃い、上に載る3段の基壇(石台)がそれぞれ29cmまたは36cmの厚みの直方体で整った形になっているのに対して不自然です。近隣の他の神社の常夜灯にはこのような事例は無く、この最下段の石垣の存在は異例です。基壇を4段とする場合でも、直方体に整形した石材を隙間なく並べてあるのが通例です。 従って、ここの場合は、石垣およびその上に載る平板は、常夜灯が造られた時に同時に作られたものでなく、何かを転用して後から加えられたものであることを示します。 平板8枚の外形寸法は、長さの順に並べると、次のようになっています。(?印は、内部に隠れていて計測不可能な所ですが、概ね45cmから50cm程度と推測できます。) 1、97 x 55 2、93 x 42 3、92 x ? 4、92 x ? 5、92 x ? 6、89 x ? 7、85 x 54 8、82 x 43、 これら不揃いな板を巧みに組み合わせて、図の左下に示すように、1辺が230cmの正方形になるように配置しています。4方向のどちらの辺にも継ぎ目が2箇所できるのが欠点です。 ところが、この石垣の石材と8枚の平板とを並べ直すと、図の右下に示すように過不足なく橋ができます。 つまり、この常夜灯の石垣は、元は石橋に使われていたものを不要になったので転用したと推測できます。 橋に使われる限り多少の寸法の不揃いは問題になりませんし、その方が石材の値段も安く上がります。 橋の石材を常夜灯の石垣に転用した経過は次のように推定されます。 1、明治5年、当時の西国街道の分岐点(岩滝神社への参道入口)付近に常夜灯を建立。この時は最下段の石垣は無し。 2、明治8年、4カ村有志の寄付金60円余を得て、西国街道のバイパスを建設。この時、鳥居川を渡る荷車の便宜のために石橋が架けられた。道路幅4m、橋幅4m、橋長82~97cm。鳥居川は流域面積が小さいので、平時はもちろん大雨の際も流量が少なく、図に示すように流路幅50cm、深さ90cmでも充分です。 3、明治20年頃、現・県道の経路に初期の国道が開通、国の規格で整備され、この際、上記バイパスの大部分が国道に繰り込まれて西国街道および明治8年のバイパスは消滅した。 4、常夜灯を国道沿い(現在地)に移設。この際、不要になっていた石橋の石材を転用して常夜灯の石垣(基礎)とした。遠目で見る限り、格が上がったという印象があります。 しかし、石垣の内部は土砂をつき固めたものであるため長い年月を経て圧縮されて中央部が沈み、このため3段の基壇の石材が内寄りに少しずつ傾いています。本来は内部まで石材で固めるべきところですが、それが出来ていない事もこの石垣が石橋の石材を転用して後から加えられた物であることを示しています。また、内部には土砂だけではなく大きな石も入っている可能性があります。 3段の基壇の寸法とのバランスから考えると石垣部分は一辺200cmの正方形がよいのに一辺230cmにもなっているのは、石橋の石材をそのまま活用した上で、石垣部を大きくしたい理由があったようです。下記で説明する明治12年の常夜灯のように、8枚の平板を畳を敷き詰めるように並べると一辺が190cm程度の正方形になりますが、これでは小さ過ぎたようです。明治5年の常夜灯の平板は中央部分を空けた「回」の字型に配列し、明治12年の常夜灯の平板は中央部分まで敷き詰めた「田」の字型です。重量を安定して支えるには後者が正しい。しかし、長さ120cmを超える大石を入れたら石垣の外形は一辺200cm以下にはできませんから、そのために石垣が大きくなったようです。 バイパスが建設された経過、および常夜灯と石橋の位置については、16、西国街道の変遷をご覧ください。 参考までに、他の常夜灯と比較しました。 岩滝神社への参道を登っていくと、鳥居をくぐってすぐ後ろに明治十二年建立の常夜灯が左右一対建てられています。 さらに、奥へ進むと境内の石段へ至るまでに、昭和四十三年と昭和四十九年の常夜灯がそれぞれ一対建てられています。 このうち、明治十二年の常夜灯は右図のようになっていて、全体の構成や大きさは県道沿いの明治五年の常夜灯と似ています。最下段が石垣である点も同様ですが、こちらの石垣の石材は直方体に近い形に整えられ相互の隙間・段差も少なく、上に載る平板も機械加工の無い時代として妥当な細かい起伏は残っていますが平坦に仕上げをされています。石垣は最初から構成部品として加工されたことがわかります。建てられた位置が坂道途中の傾斜面なので、それに合わせるために石垣を設けたようです。長年の間に、石垣および基壇の部材が坂の傾斜方向にズレや隙間が生じています。県道沿いにある明治五年の常夜灯は、移設する際に、明治十二年の常夜灯を参考にして組まれたようです。 昭和四十三年と昭和四十九年の常夜灯は、双方同じ構成・形で、総高さ5m弱、全体として明治の常夜灯に比べ二回り大きく出来ています。 基壇は地表面から3段あり、1段目(最下段)は高さ90cm一辺215cmで、石垣はありません。加工が機械化され、大きな石材が使われています。 明治の常夜灯も、昭和の常夜灯も、高度成長期の豊かさを象徴する存在です。 その他、補足5、海田周辺の神社の常夜灯もご覧ください。 |