太田川下流の右岸より西側の地域は、古くは佐東郡とよばれ、近世に沼田郡になった所です。この地域は、支流の安川などの流域の谷沿いに耕地が広がっていますが、このうち、太田川本流に沿う11ヶ村の近世の石高の推移をまとめると下表のようになります。 「知行帖」は、福島氏の時代(1610年)の検地に基づくものですが、その後の浅野氏時代にも土地評価基準として変動なく踏襲されたようです。「芸藩通史」は、文化年間(1810年頃)に編集された地誌です。従って、下表のAからBへの石高の増加は耕地の増加を反映していると考えられます。 17世紀中頃に、山本村は東山本村と西山本村に、下安村は北下安村と南下安村に、上安村は大町村と上安村に分かれましたが、B欄では分けずに合計数値で表記しています。 知行帖では箱島村(84石)が佐東郡に含まれていましたが、後に広島府へ移されたので表から除いています。
この表から、太田川下流域の氾濫原に位置するこれら11ヶ村については平均で55%の石高の増加がありますが、沼田郡の他村の平均増加はわずかだとわかります。(南半分の6ヶ村に限れば平均増加率は73%で、北半分の5ヶ村についての平均増加率は41%です。他村平均増加率8%は、内陸部の佐伯・山県・高田・賀茂などの諸郡とほぼ同じです。35、安芸国石高推移、をご覧ください。また、中須・西原・長束・新庄・楠木・打越は、16~17世紀の大洪水で流路が変わる前の太田川本流の旧流路沿いの地ですから、流路が変わったことで開墾が進んだようです。) 石高の増加は耕地の増加によるものですから、この間の開墾の成果を示していますが、知行帖に記された17世紀初頭から芸藩通史が編集された19世紀初頭までの200年間に亘って開墾されたのではなく、17世紀中頃までの数十年間に集中的に行われたものと考えられます。 17世紀中頃より広島藩は広島湾沿岸一帯で大規模な新開造成(干潟干拓)を行っていて、そのために近隣の村々から多数の村人を動員しています。城や城下町の建設にも多数の村人を動員しています。太田川下流域の氾濫原に残る荒地の開墾や流路の整備は、耕地拡大以外に城下町への治水のためにも必要ですから、広島湾沿岸の新開造成に先行して行われていたはずです。このうち、広島湾東部については31、広島湾東岸の新開造成をご覧ください。 また、毛利氏時代の検地の記録と伝えられる「八ヶ国御配地絵図」の数値から推測すると、この11ヶ村の開墾は毛利氏時代から継続して行われていたと推定できます。35、安芸国石高推移、をご覧ください。 簡単に言えば、11ヶ村の文化年間の約840町の耕地のうち、3分の1が17世紀の前半に開墾され、3分の1が16世紀の後半に開墾されたもので、残る3分の1がこの地に毛利氏が進出した時点で存在していた耕地だったと推測されます。逆に言えば、毛利氏が進出してきた時点で、この地域は大部分が荒地だったと考えられます。 「芸藩通史・巻45」で「昔の官道、東は長束村より金山の麓をめぐり、西へ行くこと数里、」と記して、「牛田」を経由して「長束」で太田川を渡る経路を採っているのは、荒地を避けたためと推定できます。 13世紀の国衙役人・田所氏の遺した「国衙領注進状」と「沙弥某譲状」に載っている所領の中でこの地域にあるのは、小規模なものが数箇所点在しているだけでまとまった広さの土地はありません。これも、中世の段階では氾濫原の中の荒地を散発的に開墾されていたに過ぎないことを窺わせます。 この広い氾濫原の開墾は、毛利氏による広域支配が実現して、ようやく進めることが可能になったようです。 ここの下流側で、広島城築城前の太田川三角州上に存在していた五ヶ荘と呼ばれる地域も、上記の状況から類推すれば、毛利氏が進出してきた時点で、陸地化していた部分の総面積の3分の1ないし4分の1が開墾された状態だったかもしれません。 |