5、開田荘と二日市


瀬野川三角州は、氷河期が明けて海面が現在の高さ近くになった後、上流から流されてきた土砂が堆積して形成されたものです。
その形成の過程を語るデータが、海田・堀川町の地下、標高ー2mで確認された約2200年前の地層です。このデータから、約2000年前に、瀬野川三角州(干潟の先端)はこの付近まで広がっていたと考えられます。そのころの瀬野川河口(海岸)は、三迫川・唐谷川が瀬野川に合流する石原橋付近にあったようです。近辺に弥生時代の貝塚が確認されていますから、海田湾の周辺でも人が住み、農耕が行われていた可能性があります。

日浦山の南東の山裾にある畝観音免古墳は、7世紀の前半に築かれたと推定されています。6世紀半ばに築かれた船越の新宮古墳と共に、古墳規模と副葬品のレベルから、この付近を統治する有力者だったと推定されます。新宮古墳が少し先行していますが、同族の古墳であるかもしれません。2、海田湾周辺の古墳、をご覧下さい。

古墳時代には、瀬野川河口(海岸)は日下橋付近にまで南下し、当時のこの付近にかなりの規模の集落が存在し、多くの人々が生活していたことが古墳の築造につながったと考えられます。当時の社会の豊かさと人口規模を示唆するものです。

「海田」という地名は、「安元2年(1176年)、八条院領目録」に初めて現れた「開田荘」という荘園の名に起源します。「開田荘」の領域がどの程度だったか確かな資料はありませんが、近世の「奥海田村」の村域にほぼ引き継がれたようで、荘園としてはさらに西の花都川流域まで含んでいた可能性もあります。「開田」の名は16世紀になっても文書に散見されますが、14世紀ころから「海田」という表記に徐々に変わっていきます。荘園としての「開田荘」が解体し、地名として残った「開田」が「海田」に変わっていったようです。
東に隣接した荒山荘(近世の中野村)よりも先行して荘園が成立していることと、畝観音免古墳が海田湾周辺では最大規模であることから、長らくここが地域の中核であったと考えられます。

17世紀の始めに流路を付け替える前まで、瀬野川は現・蟹原浄水場の南東側を経て南西方向に流れていました。
現・瀬野川は、両岸を人工の堤防で固められ、その内側でおよそ100mの幅になっていますが、人工堤防で規制されていない自然の川は、平水時には幅数10m以下の流路で、その両側に広い河原を持ち、大きな出水時には河原一面に水面が広がっていたと考えられます。そのような河原は安定した農地になりません。また、河口の先の海岸線にも農地にできない浜辺が幅広く残っていたはずです。

そのような、農地に不向きの河原や浜辺を最大限に利用して市場を設置したのが二日市です。19世紀始めの奥海田村の図に、河口の右岸側だった所に「二日市」の地名が残っています。市場は常設ではなく、月に3回あるいは6回程度の開催で、その都度商人が各地から集まってきます。もちろん、この地を拠点として定住する大商人・輸送業者もいたようです。
市場としての規模は不明ですが、立地条件からみて、活発な交易・輸送の拠点だったことが推測できます。旧西条町の四日市、旧祇園町の八日市、西へ進んで五日市、廿日市などと同様に、中世の商業・流通の拠点だったようです。

現・瀬野川の右岸に作られた石原公園の西に「常本・石原貝塚」があり、ここから、土器や陶磁器の破片が多数確認されています。その南西に隣接した「脇の内遺跡」からは大量の宋銭が発見されています。これらの地域は二日市の北西側に隣接しているので、二日市を拠点とする商人が居た所と考えられます。
13世紀、府中に居た国衙役人・田所氏の下には、開田出身の所従が一人含まれていました。
中世には女性の大商人・貸金業者も珍しくはない時代でしたが、開田にもそのような女性がいて、田所氏がこの女性から負った借金の返済に関わるトラブルで訴訟を起こした記録も残っています。
田所氏自身が、公的な役人としての職務以外に海運業や商業にも携わっていた地方豪族だったようで、形はともかくも、二日市を拠点にした商業・金融業に携わる者との交流があったといえます。田所氏の活動をご覧ください。
上記の貝塚・遺跡の内容と併せ、この地が活発な商業・運送業の拠点であったことを示すものです。

応安4年(1371年)、室町幕府の武将・今川了俊が九州探題として下向した時、ここに20日間ほど逗留しました。その際、了俊に従う芸備両国の軍勢もここに集結したようです。大勢の武将や軍勢が逗留できたのですから、宿泊できるための建物や空地も存在していたことが確かです。

天正15年(1587年)、島津氏との戦いに移動の途中、豊臣秀吉の軍勢もここに逗留しました。了俊の時よりもはるかに大きな軍勢が留まったはずです。

文化年間の状況を伝える奥海田村図には、二日市の南西方向に(中世までの河口をはさんで)蟹原、浜、磯田の地名が並んでいます。中世には浜辺だった所が、寛永年間に海田湾奥の干潟が干拓されて、この付近まで安定した農地になったようです。

開田荘を近世に引き継ぐ奥海田村の生産力や耕地面積は、近世を通じてほとんど増えていません。7、瀬野川流域の村々、をご覧ください。
古墳時代よりはるか以前おそらく弥生時代から始まった開拓が、1500年程を経て中世末には開田荘域の限界近くまで開拓が進んでいたと考えられます。
最初に入植した数十人・数町の小さな集落から、長い年月をかけて、1000人・100町を超える村へと発展したのです。


参照資料: 広島県史・古代中世資料編①~④(1976~80年)、広島新史・地理編(1983年)、海田町史(1985年)、
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