4、世能荒山荘と山陽道


瀬野川中・下流域の歴史は、弥生時代から始まります。いくつかの貝塚が確認されています。
続いて古墳時代には、中野に大師堂裏古墳、上瀬野に坊山古墳群などが築かれました。貝塚や古墳があることは、その当時、ここにもかなりの人口を持つ集落が存在していたことを証明しています。
古墳時代、賀茂台地には大きな古墳が築かれ、海田湾周辺にも多数確認されています。海田湾周辺の古墳をご覧ください。

ここは、賀茂から広島湾へ抜ける幹線路でしたから多くの人々の往来がありました。
賀茂台地から海へ出るには、見かけ上は南下して安芸津や安浦が近いように見えますが、その途中に標高500mを超える山並みが屏風のように連なって障害になっていますから、実際は海田湾へ出る方が楽なのです。少なくとも、志和や八本松地区からは、明らかに瀬野川の谷筋を下って海田へ出るのが便利です。

時代を下って古代には、律令制下の国・郡・郷名を記載した「倭名類聚抄」と題する10世紀半ばの文書で、上流域の「賀茂郡」に「大山郷」が、下流域の「安芸郡」に「荒山郷」が記されていますが、中間に「せの郷」がありませんから、中流域の開発はまだ不十分だったようです。

ここには、律令制下で定められた官道(山陽道)が通っていました。
古代山陽道の駅家は、道のりで平均10km間隔で置かれていましたが、延喜式に示す駅名は、この付近では東から、木綿(ゆうつくり)、大山、荒山、安芸と記され、このうち木綿駅が西条町寺家付近、安芸駅が府中町下岡田にあったと推定されています。そして、大山駅は上瀬野の大山に、荒山駅は旧中野村(中世の荒山村)にありました。大山駅は「倭名類聚抄」の大山郷に、荒山駅は荒山郷に属します。

詳しく見ると、大山駅の位置は大山峠から坂を西へ下り切った所になります。荒山駅の位置は、JR安芸中野駅の東北、1kmないし2km付近と推定されますが、この近くに前田や前原という地名が残っていて、駅制に由来する「まや」から転訛したようです。
駅家には常時20匹の馬と120人の駅子を置いていましたから、周辺は相応の人馬を養える規模の平地が存在した所です。

さらに時代を下って中世には、この地域に世能荒山荘という名の荘園が存在しました。この荘園を構成する村として、世能村と荒山村の名が建久8年(1197年)の文書に現れ、次のように村域を記されています。

世能村、 四至=東限賀茂堺、西限大路、南限河、北限山志菅庄堺榎山口
荒山村、 四至=東限熊野山峯、西限高尾道、南限開田庄、北限仏石

四至(しいし)は東西南北の四方の境界の意味で、この文書は村境を示す牓示(標示)を建てた場所を記しています。
つまり、隣村と行き来する道は荒地の中や峠道や谷間の狭い場所を通りますから、途中の地点に両村の境を示す標示を建てたことになります。牓示を結ぶ線が境界線となり、大部分が尾根筋を辿る線になりますが、山塊自体は領域に含まれなかったようです。

世能村の東は古来の官道上の賀茂郡との境に膀示(標示)を建てています。(大山峠は郡境ではありません。このページの最下段を参照ください。)
西を限る「大路」は官道としての山陽道を意味しますが、その西の先に荒山村との境があったことになります。
南を限る「河」は支流の熊野川を意味し、そこを南に向かう狭い谷筋の途中に隣村(阿戸)との境として膀示を建てています。熊野から流れてくる熊野川の方が、宗吉から流れてくる瀬野川本流よりも流路長・流域面積共に大きいので、昔は熊野川を本流と意識していたかもしれません。
北へ向かっては、榎ノ山川沿いに遡った山中の峠を志和荘との境としています。

荒山村の東を限る「熊野山峯」とは鉾取山を意味しますが、この場合も鉾取山に膀示を立てたのではなく、平原から東南へ進んで阿戸の升越へ抜ける峠に立てたと考えられます。
西は府中へ向かう「高尾道」の途中の甲越峠に膀示を立てたようです。「高尾道」という呼称は、府中の高尾山(岩屋観音)への参詣道かもしれません。府中へ向かう道を「大路」と称していないことからも、古代の官道が畑賀・甲越峠を通っていなかったことを示すものです。古代山陽道と海田をご覧ください。
南は開田荘と境界を接していますが、ここは瀬野川本流に畑賀川が合流する場所で、治水堤防の築かれていない12世紀には荒地が広がっていたと推定されますから、やはり両村を行き来する道の途中に境を示す膀示を立てたようです。
北の境の仏石は、現在の水越峠付近が該当するようです。

建久8年の古文書の記述によると、当時は未墾の荒地が多く耕地はわずかであった事が知られます。耕地が少なく人口が少なく集落が小さければこの地域をまとめて呼ぶ地名もなかったようで、荘園を立てるに当って東に連なる「せの山」に因んで「世能村」と名付けたのかもしれません。

世能荒山荘の全体を現代の地形図でみると、日浦山、呉娑々宇山、八世以山、水丸山、鉾取山などの山塊に囲まれた地域であることが確認できます。

開墾された平地(耕地)を地図に描いて見れば、本流・支流沿いに細長い土地が連なっていますから、全体としては鹿の角のような形に見えます。
あるいは、海田湾岸を頭に、三迫川、畑賀川、榎ノ山川、熊野川の4支流を脚に見立てれば、龍のようにも見えます。

世能荒山荘の範囲は、近世の上瀬野村、下瀬野村、中野村、畑賀村になりました。これら四ヶ村の耕地面積の合計が約390町(3.9km2)でした。12世紀の世能荒山荘の時点では仮に3分の1だったとして、約130町(1.3km2)になります。この地域の瀬野川(本流・支流)の流路長合計は約13kmあります。
ここから概算すると、耕地の幅は近世には平均して約300mですが、中世には平均で100mになり、流路沿いに細長くあるいは断続的に耕地が存在していたことになります。実際、最も広い中野付近でも、河原部分を除くと、両岸を併せて平地の幅は約500mで、上流や支流沿いはもっと幅の狭い耕地が切れ切れに存在していたことになります。

これら四ヶ村は、1956年に合併して瀬野川町になり中世の世能荒山荘を復活したような形でしたが、1973年には広島市に編入されて安芸区を構成し現在に至っています。

なお、熊野川上流域の阿戸町は、1951年まで熊野跡村として賀茂郡に属し、安芸郡に移った後、1974年に広島市に編入されました。


江戸時代、瀬野川沿いの道は西国街道(往還道)と呼ばれ、ここを行き来して賀茂台地や瀬野川流域の村々と広島城下との間の物資の運搬に馬子達が大きな役割を果たしました。 その馬子達が遺した「瀬野馬子唄」に次のような歌詞があります。いずれも道程の苦難を表したものです。

瀬野の三里とエー、大山の峠(たお)とヨー、大須縄手(なわて)が無けにゃエー
瀬野の大山はエー、一石五斗のヨー、米を振り分け馬の背に


「瀬野の三里」とは瀬野川右岸を辿って「大山の峠」の下に至る道で、この馬子唄で3里(12km)と唄っていますが、畑賀川を渡ってからなら12kmの道のりで、海田市宿の外れからだと15km近くになります。道のりの長さだけでなく、瀬野川へ流れ込むいくつもの支流を越えるため起伏の多い道でした。
「大山の峠(たお)」は上瀬野・大山から八本松に抜ける標高差150m余の坂道で、道のり1.5km余あります。登りきった最高点が「大山峠(とうげ)」です。
「大須縄手」は、矢賀の岩鼻南端から大須新開を横断して府中大橋に至る約800mの直線道路。新開地のため、軟弱地盤だったようです。
「瀬野の大山」は、「瀬野村の大山」ではなく、「大山峠(たお)」の別称。
馬子達の世界には、郡境も村境も存在しません。


現在の広島市(安芸区)と東広島市(八本松町)の境界は大山峠〈とうげ=最高点〉ではなく、そこから西へ約800m下った所(上図の黒線)にありますが、中世末までの安芸郡と賀茂郡の境はさらに西、大山地区の西側(上図の赤点線)にあったと考えられます。地形的に八世以山から水丸山を結ぶ尾根筋を郡境とするのが自然です。また、大山地区から西へ上瀬野の大集落まで道のり約4kmに対し、八本松町宗吉の大集落までが2.5kmですから、大山地区は賀茂郡に属するのが自然でした。おそらく、近世の広島藩が峠に向かう坂道の丁度中間に郡境を移し、大山地区を上瀬野村に取り込んだものと思われます。

郡境の変遷については、34、大山峠と賀茂台地、をご覧ください。


参照資料: 広島県史・原始古代編(1980年)、広島県史・古代中世資料編、瀬野川町史(1980年)、瀬野川町歴史探訪、西条町誌、古代交通の考古地理(1995年)、古代の駅と道(1989年)、
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