8、海田湾全干拓


海田湾で広島藩主導の大規模な新開が造成(干潟の干拓)された時期は、17世紀と19世紀と2回のピークがあります。

これら新開を造成年次順に面積と共に示すと下記のようになります。

海田湾の新開 ①前新開     1637年   15町余
②向新開     1637年   12町余
③海田新開、   1661年   81町
④西崎新開、   1686年  12.6町
⑤堀越外新開、  1701年    6町
⑥松石新開、   1808年   30町
⑦入川新開、   1836年   4.5町
⑧明神新開、   1838年   43町
⑨尾崎新開、   1838年   8.7町
⑩鴻冶新田、   1873年   40.3町

ともかく、16世紀に在った海田湾の干潟は、その後の200年余でさらに沖へ延びた部分も含めて、19世紀までに全て干拓されてしまいました。(干潟干拓に対する呼称は、藩政時代は「新開」でしたが、明治には「新田」となりました。)

右図でこれらの新開の全体を眺めてみると、異様な事に気づきます。

(1)北岸(船越村)からの新開造成が大きく遅れて始まったこと。
(2)的場川と花都川の流路が本来の方向より西側へ大きく曲げられていること。
(3)松石新開は先端で細長く延びた形、入川新開は円形の端を直線で切り取ったような形で、いずれも他に例の少ない形であること。
(4)松石新開の堤防は、造成後65年で大部分が無駄になったこと。

このような事になった原因は、海田新開の造成を優先し、その際、瀬野川の流路を無理に北側に付け替えたことにあります。瀬野川、的場川、花都川の流路を元来のままに残して、干潟の浅い所から順次新開を造成していけば合理的だったはずです。現代風に言えば無駄な公共事業の一例です。おそらく、広島藩は当初、船越村よりも海田村を優遇したい配慮があったものでしょう。元々の海岸を接していた奥海田村に新開の帰属先を配分しなかったのも、宿場としての海田村に招いた商人達に所有権の多くを与えたためのようです。

造成年度の順に眺めてみると、17世紀に工事が行われた5箇所については、浅い所から順に行われている事がわかります。
19世紀に造成された松石新開については14,異形の松石新開に記した特別の経過があります。
そして、松石新開の先端が当初の計画を超えて延びたため、その西側の元来は牡蠣養殖や沿岸漁業に使っていた所が内側に取り込まれて利用できなくなり、やむを得ず干拓したのが入川新開です。

明神新開と尾崎新開については、16世紀以降の長年の間に沖に土砂が堆積し、また、工事技術が進んで低い所まで干拓できるようになったから、と単純に理解できます。(実は、明神新開と尾崎新開の計画図は、松石新開が造成される前に既にできているのです。このあたり、船越村と海田村との間で、どの工事を先行するかについて綱引きがあったと推測できます。)

鴻冶新田については次のような込み入った事情があります。

海田新開の造成時に瀬野川の流路を北側に付け替えたため、その後、河口付近に年々堆積する土砂は深刻な問題でした。
放置すれば洪水の原因になるし舟の接岸にも支障があるので浚える必要がありますが、そのことで海田・船越両村の間で頻繁に諍いを起こしていました。
結局、解決を図るために瀬野川を再び直線的な流路に付け替えたのが現在の瀬野川下流部で、それまで河口の先の川筋だった所を干拓してできたのが鴻冶新田です。(海田新開の北側を流れていた旧河道は埋め立てられて、現在はJR海田市駅北側の商業・住宅地)

鴻冶新田は、造成時点では帰属先を決めず単独で存在していたものが、海田村と船越村との間で帰属を争った後、明治20年に県の裁定で船越村に帰属を決定されます。最大の決め手は鴻冶新田に所有権を購入した人の大部分が船越村の住民だったからで、近世(江戸時代)を通じて村民が財力を蓄えてきたことがわかります。つまり、江戸時代の船越で説明したような村の発展の表れかもしれません。
あるいは、近世の海田村優遇が、近代(明治)になって正道に戻ったとも言えます。
図を見てわかるように、仮に17世紀の瀬野川の流路変更が無ければ、元来が鴻冶新田の南まで当然に船越村の範囲になるはずでした。
ただし、現在でも鴻冶新田の南西端の堤防の外側に水深5mの海底が近くに迫っていますから、鴻冶新田の南西部の3分の1、ないし4分の1は干潟の干拓ではなく、盛り土による埋め立てのようです。

なお、明治20年の県による裁定の際、海田新町北部から飯ノ山麓に至る地域を、鴻冶新田の帰属と交換して船越村から海田村へ移譲されました。それが、海田市宿の中で示した図ーA③と④の部分です。

とはいえ、せっかく干拓したのに、松石新開と鴻冶新田の南部および明神新開は低湿地のいわゆるゼロメートル地帯で排水が悪く、農地としての価値は低かったようです。20世紀初頭、入川新開と松石新開南西部に工場を展開したN製鋼所は敷地全体に1m-2mの盛り土(嵩上げ)を行っています。

そして、右図の左下部(南西部)に残っていた海面のうち、薄い水色の範囲は20世紀になって埋め立てが行われて陸地となり、現在は海田湾と呼べるものは実質的に無くなっています。

振り返ってみると、16世紀まで存在していた広い海と干潟は、わずか数百年で消滅したことになります。


参照資料: 船越町史、  芸藩通志(復刻版)、  海田町史、  矢野町史、 
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