つれづれ窓

一艘の難破船が横たわる

「偽」の世相

市場社会の偽装は自滅をもたらす

偽装ばやりの社会・経済になった。嘆かわしいことだが、私は驚きを感じない。残念なことに市場社会は物を売買して成り立っている社会である。私たちの生活のすべてが売買という事象のうちに取り込まれ、一瞬もそこから逃れることはできない。1つの家庭で1日にどれくらいの回数の売り買いが行われているだろう。衣食住の必要を満たすための売り買いだけでも相当の回数行われている。これなしには私たち市民の生活は成り立たない。そして買い手はできるだけ安く、品質のよい品物やサービスを買いたいと考え、売り手はより高い値段で売りたいのである。真っ向から対立する需要と供給の力関係が価格を決定する。そして売り手は製品やサービスが売れ残らないように必死に努力を重ねなければならない。テレビや新聞などあらゆるマスメディアを動員して、高額な宣伝費を投じて、説得力の高い宣伝を行う。製品が売れ残れば売り手の事業は失敗であり、投入した費用を回収することもできず、利潤はもちろん挙がらない。彼は崖っぷちに立っているのである。そこには彼の製品やサービスを製造、販売するうえでの哲学や理念がこめられている。社会を構成するわれわれ市民に向かって宣伝を通して彼らのメッセージがこめられている。あなたはこの製品やサービスを購入すれば、かくかくの便宜や幸せを自分のものにできますよと叫んでいるのである。それは痛々しいほどの叫びである。そしてややもすると行過ぎた過大な宣伝へとはみ出してしまう。折角の彼らの真剣な訴えが、われわれ市民には不快な脅迫に聞こえたり、見えたり、ときには卑猥な情欲を煽る余分なものさへ含んでいる。市民の幸福や便宜を増進するための宣伝が市民を愚弄し、ごまかすものへと変じているとしかいえない ものも含まれている。すでに今日の肥大化した宣伝戦そのものが「偽」を拡大しかねないエネルギーを秘めていると常々思うのである。

「地獄の沙汰も金次第」世相があたかも永遠のもののように蔓延

売りと買いは宣伝によって媒介され、われわれ市民の買いは宣伝の情報に基づいて決意することが多い。そして「羊頭狗肉」のことわざのように加熱した宣伝が結果的に「偽装」の製品やサービスを市民の手元にもたらすのである。売り手の哲学や理念が、グローバルな、厳しい競争の中で、利潤にこだわるあまり、時として大きなひずみを引き起こし、偽装をうみだすのである。地球規模に広がった厳しい競争に打ち勝たねば生き残れないというプレッシャーをはねのけて自分の生産した製品やサービスの真実に基づく販売を行う勇気は簡単には持続できない。われわれ市民からすれば卑怯な詐欺に違いないが、以上のようなプレッシャーは、それを産み落とす震源といえる。もう一つの震源は「地獄の沙汰も金次第」という世相の蔓延であると私は考える。本来はカネは仕事の努力に対する交換結果としての支払として位置付くものである。ところが仕事の成果や努力を抜きにしてカネを掴み取ろうとする闇の力が生ずるから始末が悪い。人間の心を失ったシステムの暴走が始まる。商品を販売してコストを確保し、利潤を上げねばならないというプレッシャーだけでなく、この市場システムの非人間的な側面を助長するものは、政治家の無思慮な放言である。「格差は悪いものではない」などと弱肉強食のメッセージを吹き込んで、競争をあおって、システムの在り方を人間の心を踏みにじったものへと変化させるのである。その元は貨幣の発明という人類の功績のマイナス面である。カネがオールマイティだと勘違いするのも無理からぬことであるが、「買い」ができるからカネの力があるわけで、もし買えなければ、カネは宝の持ち腐れに変身してしまう。偽装によって不当なカネを入手して一人過大な富を得ても社会全体ではその被害に苦しむことになるわけである。社会なぞ知ったこっちゃねーぞ、という近視眼的な近回り思想の確信犯が続々と出てくることが問題であるが、人間の道を知らず、人として生きる価値を知らないおぞましい存在で、社会一丸となって撲滅しなければならない。人間の心を失ったシステムの暴走を止める力は市民個々の人間力であるというしかない。弱々しいと悲観に陥りそうであるが、勇気をもってそれを維持するしかないであろう。

市民社会の正義を貨幣(金)との関係で厳密に打ち立てる

そのような社会的犯罪者はなかなか根絶やしにすることが困難であるが、他人の幸福を犠牲にして自分の欲望を達成する非道を許すことはできない。そのような非道は結局市民の中でも最も弱い層にしわ寄せを生じ、彼らを塗炭の苦しみに落としてしまうことを熟慮すべきであろう。市民社会の正義のもとに共生する人間らしい倫理を本気で培う以外には解決の道はないと考える。グローバル化した経済システムの元では、経済的な利得がそのような非道な利得ではないかどうかを市民の立場からチェックすることは極めて困難になっていることが、おおきな悩みであるが、そのような視点を維持することは市民の人間性を高める道であり、人生の修行の目標となるべきものであろう。かつての武士道や聖徳太子の和の精神を生かすためにも市場社会の共生の原理を深く考えるべきであろう。