つれづれ窓

一艘の難破船が横たわる

孤独

生活習慣の穴

私がノイローゼに陥った原因は今考えると自分の生活習慣の特徴にあるように思えてならない。私は今でもそうであるが閉じこもりをあまり苦痛に思わず実行できる。誰かが「牡蠣のような」という表現を用いていたように思うが、自宅に根を下ろして何日も閉じこもっていることが苦痛ではない。これは裏から言えば孤独をあまり苦痛に思わないということでもある。

閉じこもりへの嗜好性

閉じこもりは1つの病的な社会現象として断罪され、悲劇的な事件を生んだりした。私のノイローゼは現在次第に氷が解けるように氷解しつつあるが、考えてみると、対他的な視線を恐怖する異常性のような気がしてならない。視線恐怖などというものもあるようであるが、閉じこもりの習性がそのような気質を育てたような気がするのである。職場生活で対他的な人間関係をくぐるうちに、そのような視線への過剰な反応は中和されノイローゼの緩和につながったように感じている。

自己陶冶の重要性と不可能性

しかし私は孤独な閉じこもりに耐えうる自信のようなものをもっている。もちろんそうはいってもそれは読書ができるからである。本がなければ耐えることは困難になるであろう。それにもう一つは近年飛躍的に発展したパソコンとインターネットの世界である。人間はどうもバーチャル世界への憧れを持っているのではないだろうか。雲を掴むようなバーチャルな世界は人間の精神現象の深みに例えることができる。不可思議さと、変幻自在で、無限の可能性をもった魅力を備えていて、そこにリアルな世界を統御、支配する原理や、技術の源泉が隠されているような気がするのである。私がリアルな世界のわずらわしい人間関係をねぐってバーチャルな世界に真実があるように錯覚するのはその麻薬的な効果によるものかもしれない。そこで孤独という代償を支払って、牡蠣のように、そこに居座ってしまうのである。

孤独は自己との向き合いであり、自己を見つめることである。就職試験で自己分析の重要性が指摘され、自己とは何かを省察することが必要とされる。私の時間を埋める冒険の内容も体力を喪失し、老人となった自己をよく分析することのうちに求めねばならないのかもしれない。自己の内で自己を正当に評価し対他的な位置づけを行い、意識を冷徹に交換し、新たな表現の領域を開拓することが必要なことのように思える。そのために多くの先輩からの学びを必要とするし、豊かな感情をはぐくむという全く逆方向の資質の養成も必要とするのかもしれない。自己を実験台に自己の心に燃えている炎を静かにのぞいてその中にどのような心が宿っているか、それらがどのように関連し、絡み合っているのか、またそれらがどのような契機でマグマとなって噴き出すのかを静かに分析しなければならない。私の内にひそむエネルギーのすべてを分類し、整列し、分割することができるとは思えないが、私の生活行動圏の自然、社会の諸事象に反応してある種のエネルギーが引き出されていることは間違いない。心的、肉体的な欲望、悪心、善心、怒り、喜び等々となって励起するものの本質を突き止め、それが変化する契機を追跡しなければならない。それは死ぬまで続く私の内のマグマの追跡ということになるのであろう。それによって自己相対化と対他の関係の最も良好な構築を可能にすることができるように思える。突拍子もない問題提起であるが、このような仮説を維持できれば、よいように思われる。