つれづれ窓

一艘の難破船が横たわる

定年の衝撃

経済基盤が激変ー肉体労働に代わって知的にセンシティブな労働が支配した。

今も昔もわれわれは経済的な基礎なくして生きることはできない。30年ほど昔ならば農業の自給がまだ有効な生活の基礎として生きていた。健康で、肉体労働さえいとわなければ、日雇い労働でも、口を糊することができた。しかし時代は大きく変わった。世界第2の経済大国となったわが国では、競争の激化の中で、産業構造は激変し、効率の低い肉体労働は、例外的な3Kといわれるわずかな業態でしか見出すことはできなくなった。庶民は何らかの形で知的労働を伴う仕事をせざるを得なくなった。かつての肉体労働は野外で、きつく、危険ではあったが開放的で明るい雰囲気の中で汗を流し合って賃稼ぎができた。肉体労働の快感は汗を流したときの達成感と開放感である。しかし現在先進国となってしまった経済システムの元ではそのような単純な稼ぎの場は、機械化によって切り捨てられ、存在しないといっても良い。人々は近代的な労働環境で複雑な知的労働や顧客相手の神経を使う労働をこなさなければならなくなった。濃密な対人関係を維持し、コントロールできなければ、賃金を稼ぐことはできないといっても良い。

高度成長は我が国を一変させたーかつての自給的生活生活基盤もなくなった。

高度成長期を経過して、わが国は天地が覆るほどの変化を遂げた。農業と農村は衰退に衰退を重ね、農家人口は都市へ都市へと滔々と流出した。農村は農業共同体が解体し、崩壊していった。「和をもって尊しとなす」伝統の倫理は次第に崩れ、冷たい市場の競争主義に変わっていった。都市へ流出した農村人口は、市場の発達した都市環境の中で、戸惑いつつも、農村の伝統的な倫理観を次第に失っていった。互いに助けあい、共生してゆく絆は薄まり、いわゆる共生の場となるコミュニティを作り出すことはできぬまま、新たな、厳しい環境の中で自らの生き抜く道を探り、高度な労働への変身をめざさざるを得なかった。

年金生活の不安と局面転換の必要に対応できるか

この世界に生きてゆくには新たな競争に耐える高度な労働が不可欠になった。農村共同体の生きていた私たちの時代とは経済的基礎は打って変わり、比較にならないほど高度化した労働を求められるようになったと考える。

しかし変化がいかに激しくとも、われわれにはこの経済的基礎が保障されなければ、命をつなぐことはできない。憲法には最低限の生活が保障されているが、経済的理由で自殺に追い込まれる人口は、毎年3万人超のうち第2位のシェアを占めている。さらには、最低保障生活の生活保護が打ち切られて、餓死する事態まで引き起こしている。先進国になり、労働が組織化、高度化して、賃金水準は高くなったが、格差社会の進む中、すべての市民が経済的基礎を我が物として生活の安定を確保することは厳しさを増しているといっても良いであろう。したがってそのような高度な労働力の育成教育が子供たちと卒業後の社会人にも施されなければならない。受験技術の習得を主とする教育ではなく、高度な労働力となりうる教育機能の社会的な拡充によって学校卒業後も社会人の再教育によって労働力の育成、訓練が施されなければ、多くの脱落者を生み出し、高度な労働環境に対応できぬまま経済的基礎を我が物となしえないで、死へと追いやられてしまう悲劇が避けられないであろう。

私は定年に追い込まれて、経済的基礎を年金に頼らざるを得なくなった。平均寿命が延びた現在では第2の人生が送れるほどに時間的な余裕ができた。年金生活は年金を柱にいくばくかの退職金を取り崩して補いながら運営しなければならない。そして多くの受給者が経験したであろうが、年金額はこれまで受給されてきた給与水準と比べるとがた落ちになって、それが私にはかなりの衝撃になった。これまで職場が提供してくれた労働は、できなくなり、マイナスを取り戻そうとすれば、自助によって無からそのような場を創出しなければならなくなった。創業や起業によって自らの労働基盤を生み出さなければならない。ほとんど不可能とも思われる大きな壁が立ちはだかったのである。この衝撃を与える壁を除去することができるかが私の新たな課題となってきたのである。衝撃という大げさな表現が心のうちの叫びとなってきたのには理由がある。いままで就職試験に合格し、与えられた職場で、雇われの身で、受動的に過ごしてきたことが一つの要因であるように思われる。受動的といっても、与えられた仕事を主体的にこなしてきたのではあるが、しかし与えられた仕事をこなすのは自らの企図に基づくものでない以上、あくまでも受動性においてである。ある面での受動性の転換と、主体的決断の取戻しが迫られているのではないかと思える。

はたしてこのような局面の転換が図れるのだろうか?いまのところそのような自信は皆無である。この壁に一矢報いるなどという大それたことができるだろうか。こんな疑問をのたまわっているのでは、できないことは明らかである。その壁にぶち当たってゆかない限りは事態は解決不可能である。

お金を使う恐怖心

 年金生活に依存するようになって、けちけち生活へと大きく転換した。いつ起きるともしれない大病や怪我の心配や家族の失業や病気への心配、考えていると限りない心配がわいてくるのである。国の経済の景気のためにはお金を回すことが重要である。しかしそういう立場に立てるほど、年金収入があるわけではなく、支出を積極的にやるという立場とは逆の態度に逃げ込んで、けちけちを決め込まざるを得なくなってしまう。いざという時には社会保障でというほどの立派な社会保障ではない。もし窮地に落ちれば、さんざんみじめな思いをして、多くの非難を受け、なんという醜態かとけなされるだけである。飢え死にする危険性さえある。貧しく、つつましく、美しくという清貧の思想を支持せざるを得ないのである。それにこの世の売買の世界には多くのまやかしや、ごまかしに満ちていて、つつましさなど微塵もない。うっかり信用してしまうと飛んでもない罠にかけられてしまう。高齢者や弱者に限って罠に落ちやすい。そういう悲観的な見方は健全ではないと思うが、自己防衛、自己責任を果たすためには、幾重にも防護策を張らねばならないのである。詐欺がはやって撲滅できないなど、この世の暗闇はあちこちに潜んでいて、襲いかかってくる。正直な経営をしておられる方々には申し訳ないが、お金を回す仕組みに全面的な信頼が確立されるまでは、年金生活者は疑心暗鬼の消費生活を固守せざるを得ないのである。混沌とした経済生活の中で、景気を良くしたくてもそれに最良の方法で寄与できる方法が分からないのである。

人より良くなりたい

 人はだれも他人より良くなりたいと願う。特に経済的な貧富の差をみじめに感じたわれわれ世代では、敏感になりやすい弱点であろう。したがって私は生まれながらに経済的不平等を実現すべくこの世の生を享けたのかもしれない。しかしこのような人の生きざまには大きな矛盾を感じてしまう。他人の貧乏鴨の味などという、いやな言い方もある。もともと人は平等な生き方など出来ないものなのかもしれない。考えも感じ方も同じ人など皆無といっていいからである。そしてそれぞれに違う生き方を実現するには、自由という大きな価値の保証が不可欠である。おそらく、すべての人が生きる自由を望むであろう。多少の経済的な格差が生じても、自分の心のままに自由な生き方に従うに違いない。またその結果としてできあがる社会の方が楽しいに違いない。それでも経済的な条件はあまり大きな相違を生まない世の中の方がいい。一億総中流といえるような経済的条件を互いに生み出すような世の中である方がいいように思う。貧乏に明け暮れた私のような者は、経済的保証を失うことに恐怖心を持っている。それは私にとっても社会にとってもあまり好ましいとはいえない。経済的格差が小さく、生きる自由度が最大になるような信頼できる社会的システムができれば、人より良くなりたいと強烈に思い、他人を排除するような邪悪な経済的競争心をもつことも少なくなり、お金を使うことに恐怖心を抱いて、けちけち生活をする必要もなくなるに違いない。他人を欺いてでも、経済的富を手に入れようとする風潮はなお蔓延しており、そのための数知れぬ罠が敷き詰められている。そういう落とし穴をしかける、何ともけち臭い暗い人間が絶えないのは残念である。
  しかしこの恐怖心がプラスの働きを支える原動力になっていることは見逃せない。それは我慢する、耐える力の根源という点である。若いうちは特にあせって間違えた判断に陥りやすい、といのが私の自己反省である。自分の生きてゆく道程には森羅万象、ありとあらゆる未知の現象が立ちふさがっている。立ちふさがる障害を乗り越えるには、その障害の実相を知ることから始めなければならない。ところがこれが面倒で、また方法論もわからない。ついついいきあたりばったりで、体力にまかせて、あるいは自分の得意をいいことに、いい加減な判断で、勝手な解釈を下して、突っ走ってしまう。つまりは真実を知らぬまま、それをあばいてその正体をつかむ我慢と迂回を放棄して、しゃにむに突っ走る傾向が強いのである。息が短くて、より深く潜って、実相を見極める力が全く足りないのである。象の鼻だけを触って、その実相を知ったように自己欺瞞するのである。振り返ってみるとこのような我慢の無さが、多くの失敗を招いてきたように思う。世の中が便利になり、豊かになればなるほど、こうなってしまうようにも思える。だがこのようなこらえ性のなさは全く馬鹿馬鹿しい損失の原点である。一人前の自立した人間になるにはこらえ性のない人間では到底無理である。せっかくの人生で自らの生きる証を立てるには、世界をひっくり返すほどの、いのちがけの耐え性が不可欠で、これを支払わぬ人間は人として生まれた喜びを味わうことはできないと思うのである。かくいう私自身は残念ながらその部類の人間で死んでゆくのではないかと、危ぶまれる。できればそこを突破したいのが願いであるが、反比例するエネルギーがそれを許さなくなってきている。