つれづれ窓

一艘の難破船が横たわる

共同体の衰退

「和をもって貴しとなす」

私は高校卒業の頃まで小さな漁村に住んだ。村はほとんど完璧な共同体だった。主要産業は農漁業であり、人々は農繁期には結(ゆ)いや手間換えで労働力の受給を調節し、助け合っていた。人が亡くなれば当該区域や集落の人々が葬式を手伝った。葬式に限らず、冠婚葬祭は地域の人々が支えあって営んでいた。互助精神や和の精神が当たり前に実践され、利己主義を抑えるのは当然の道義とされ、概して平和な暮らしが行われていた。地域の中では人々はみな顔を知り、家族のすべてを知り、親戚同様の付き合いがあった、貧しかったことが背景にあるといえよう。これは氏族共同体、部族共同体などの段階の血縁的社会、経済であると言い換えることができる。そのような共同体社会では、地域集団の代表が顔であり、個は表に浮上することはなく、背後に沈んでいたといえる。四季の季節のうつろいに合わせて生活のリズムが調和し、それが何時までも続いていくように感じられた。自然は人々の生活を反映する鏡のように思われ、自然に自らの生の模範を見出していた。自然の営みは宗教の真髄であり、また文学 や詩の重要な素材であった。農業はあまり大きな変動を引き起こさない産業である。年々歳々同じような生活のリズムが繰り返され、人々が生まれ死んでゆく。現在のように激しい競争とめまぐるしい変化の渦を引き起こす非農業の産業部門のもとでは人々の生活は絶えず不安にさいなまれる。1つの産業の寿命は20年か30年と短くなり、農業のように千年も2千年も続いてきたのとは比較にならない変動にさらされる。無常を無常として感じる暇もないほどの変転を強いられるのである。

知の問題

このような問題を取り上げるのは、私自身の出自、源流を訪ねたいからである。「己を知り、敵を知れば百戦危うからず」という諺にもあるとおり、己を知る必要である。さらにオーバにいえば、自己の知の武装の問題である。教育の荒廃が深刻化して、知とは何かが問われている。知とは何か分からない、自分が何のために勉強するのかわからない、知識よりもっと大事なものがある、等々議論百出である。それは1つには知の無限性に原因がある。己を取り囲む森羅万象が知の源泉である。私たちは生活を営み、その中から必要な知の習得と主体的な判断をくりかえしながら、自己の知を構築してゆく。学校教育では国家がいくつかの教科を定め、最も重要と思われる精選された知識を採択して、国民に知として上から与える。しかし先に述べたように私たちが身につける知の現場、自らの生活は、そのような知とはかけ離れた、無関係の現象であるように見える。実際には無関係ではなく連鎖しているはずだが、その連関をたどって教科書の知の真実を明示することはほとんど不可能である。教科書の知と自ら求める知とは連接することなく、無関連であると、誤解に陥ってしまう。なぜなら知の無限の連鎖のなかから教科書に切り取った微小の知が自己の生活という場面で再現することなどほとんどゼロに近い確率であるからだ。そのため教育現場で教鞭をとる教師も学ぶ学生も教えながら、何を教えているのか確信が持てず、学びながら何を学んでいるか分からない、という悩みにとらわれる。私自身も絶えずその悩みと迷いのうちに逡巡してきた。

無限の知への繰り返し学習を通じてしか知を得ることはできない

これを解決するには私自身の自己流による方法をいえば、1つの仮説を立てて知の不可解さを扱うことである。自己の源流を問うことはその一つの実践である。すなわち十全な意味において無限の知を理解することはいかなる知の巨人にとっても困難であり、凡人にとってはなおさらのことである。したがって知は直ちに理解出ることなど不可能であると悟ることである。その場で努力と想像力を用いて自分の理解できる範囲で、時と場所の知に出会うだけで満足しなければならない。そしてこれを何度も繰り返すことである。幸い教科書を繰り返して読むことはできるし、経験を繰り返すこともできる。人生の時間の経過につれて10年前の理解と現在の理解は変化し、実践的な生活経験の積み上げによって、上からの観念的な、これまでつながらなかった知と経験知がつながってくるのである。なかんづく自己の出自を知ることは多くの生活経験の反省の積み上げを不可欠とし、学習と経験の繰り返し行動によって自己を中心とする同心円へと知を広げる契機である。それは生活の必要によって制限された狭い範囲のものであるかもしれないが、経験知と観念的な知との出会いの繰返しを通じて、咀嚼する場で、本物の知へと接近してゆく道である、と考える。この繰り返しにこそ大きな意味がある。死ぬるまで何度でも繰り返すことが知への近道である。3年や5年で知を自己のもとすることはできない。人間の人口数に対応する生活の無限の差異があって求める知はすべて異なっている。私はその1人として生きながら、生活の制約の中で、生涯の時と場所の変転に即応しながら、必要な知を再構築して、得るしかない。10や15の授業科目を習ってもそのなかに自分に必要な知なぞ出てこない。それは上からの知である。地べたに接した生活の場で生ずる必要を満たす知は教科書の純粋培養された知ではなく、複雑に混ざり合った知の連鎖である。しかし教科書の知はそこに混ざり合って存在すると考えられる。受験や就職のための知は当面の問題を解決するやむを得ない知である。知の態様はその時と場所の必要によって存在し、その年齢に応じて存在する多様なものである。このような無限ともいえる態様の変化に応じながら知に繰り返し省察を加えるという努力を拒否すれば、学びの放棄と知へのあきらめとを引き起こすだけである。しかし正確に己を知ろうとすれば知を欠かすことはできない。でたらめな知はでたらめな人生を生み出すだけだからである。人間の財産としての知を継承するためには、単純であるが、諦めることなき繰り返し学習と咀嚼の努力なしでは、到底達成できるとは思えない。話を元に戻そう。

共同体は土地を生産基盤とした農業社会である

高度成長期を経過して農業は衰退に衰退を重ね、GDPのうちに占める農業純生産額は数%になってしまった。農業生産と農業社会はマイナーな存在になったかのように見える。それにつれて村においても都市においても共同体的精神は衰退していった。

大風呂敷を広げて歴史を振り返ると、原始社会、古代社会、封建社会、資本主義社会と経過してきた。資本主義社会が現在われわれが生きている社会であり、最も新しい段階にある。この4つの段階のうちで共同体がひろく根付き共同体的精神が当然のようにまかり通っていたのは、前の3つの段階である。封建社会が滅んで資本主義社会が勃興するのは西欧では市民革命を経て、18世紀後半における産業革命の成功によっている。わが国でも市民革命ではないが、西欧に1世紀遅れて明治維新(1868の御一新)を機に資本主義社会が始まった。共同体はどうなったであろうか、西欧では農業共同体は市民社会を機に分解し、自由な自立した個人を主体とする市民社会に転換したと考えられているが、わが国では明治維新でも地縁・血縁関係を支柱とする農林水産業生産は主要産業で、農業共同体、農業集落は都市においても社会のモードとして引き継がれて生き残ってきた。西欧とは異なる展開である。

根深い歴史的継承としての共同体

農業集落は土地を生産基盤とする農業生産社会であり、血縁・地縁の人間関係に支えられる農業社会に特有の社会関係である。人間社会の成り立ちの根源は血縁的関係の家族や共同体として始まっている。しかし戦乱や社会変動で血縁性は次第に地縁性にまで広がってゆくが、全く赤の他人の関係を機軸とする資本主義社会と比較すれば、血縁的関係の濃厚な社会集団であり、神武天皇以来、古い時代から千年以上にも渡って引き継がれてきた。そこでは倫理観や宗教、聖徳太子の和を尊んで個人的利害を抑える風潮は、長い年月の熟成を経て、固い絆となり、精神的風土となって「エートス(ある民族や社会集団にゆきわたっている道徳的な慣習・雰囲気・・広辞苑)」を形成し、共同体の支柱となってきた。

共同体に代わるコミュニティは宙ぶらりんのままだ

私はそのような歴史的継承としての共同体的精神にとっぷりとつかって高校時代までを過ごし、それらの精神的栄養を吸収しながら育ったので、いまでも農業集落的人間の規範や倫理観を逃れることができないでいる。大学に進学し、都市での下宿生活を送り、やがて就職してサラリーマンになった。1964年のことである。高度経済成長のすざましい勢いはなにもかも過去を洗い流してしまうように思われた。そして貧しさからの脱却という新たな夢を抱かせてくれた。そして夢は過剰なほどに実現された。さまざまな電化製品や自動車を自分自身が所有できるなどとは大学時代には到底想像も及ばぬ事態だった。身辺は物質的富によって溢れ、それが却って壁になり裸の人間関係は希薄化していった。すなわち貧しさから解放されて、片方では何かを失ってしまったという喪失感に襲われる。また自分自身が新たな経済・社会への適応ができず、小さな農漁村の古い慣習や倫理観、自然観はそのまま持続して宙ぶらりんになっているように思われるのである。私個人のことを振り返るとそうなのであるが、多くの人も農村から都市へと流れていってもそう簡単に自己のエートスを都市経済に即応して市場経済の新市民としてのそれに変える事はできないのではないかと思えるのである。

我が国の源流としての「アジア的」

このところ大都会では頻々として凶悪な事件が発生し、孤独死が増え、コミュニティの喪失が問題だと指摘されている。共同体の喪失や崩壊がその背後にあることはもはや隠しようがない。「金の切れ目が縁の切れ目」といういやな諺があるが、人間関係が売買関係や金銭関係に矮小化され、地獄の沙汰も金次第、という間違った、酷薄な人間関係が露出している。現在でも共同体の原型ともいえる農業集落は農村部では広く残っている。愛媛県でも農林統計で2,800もの農業集落が残存して、農業生産や地域社会の調査が引き継がれている。

映画の中で、寅さんは東京へ時々帰ってくるが、多くは地方へ出かけ、その人情や風景を楽しんでいるかに思われる。ほのぼのとした人情や心を打つ風景はやはり地方の農業・農村に残存しているように思われる。このような都市と農村という形での世の中の分裂は将来どのように統合されどのような共生社会の新たな内容と形式として実現されるのであろうか?あるいはよく言われるように個々人が自立した欧米的な自由な個人として、新たなエートスを身に付け、これまでと異なった共同性を実現するのだろうか。

農業集落での生活が私の知の源流である。いまや田舎を知らず、大都市に育った日本人2世、3世が人口のかなりの部分を占めてきている。この占め方の比率が高まれば、我が国は私の生きた国とは別物になってゆくのだろうか。都市経済の比重増大、市場経済の拡大は、明治以降の西欧合理的精神、欧米的知や感性の拡大、浸透によって伝統的な農業集落モードに置き換わってくるのだろうか。いまや崩壊の危機に瀕している農業集落の原理については多くの先輩の知的業績を訪ねなければならないが、西欧の原理とは異なった特徴と伝統性を持っている。

それはアジア的な民族性という歴史的、自然生態的な流れに由来するものであり、我が国の歴史的な形成にまでさかのぼらなければならない。それは数千年かかって形成されてきた農業社会の流れであり、それが歴史の発展によって大きな変貌を遂げ、私は今、浦島太郎のおとぎ話のような不可思議な世界を見ているが、他方では私の生きてきた共同体的制度や倫理などを含むエートスがそうやすやすとは変化しないのではないかという期待と不安のないまぜた感情をも引き起こしてしまう。

私は以上のような共同体的人間のまま1960年に大学に入学した。そして入学したとたんに安保闘争に巻き込まれてしまった。生涯で最も大きな政治的経験になると思われるものである。いま振り返るとそれは1面では恥辱に満ちた経験であった。田舎の定時制高校を卒業したばかりの私の規範の中には個人として主体的に意志し、行動するエネルギーは微弱であり、だだ大きな恐れや不安に打ちひしがれた茫漠とした迷妄のみが渦巻いていた。そしていたずらに右往左往して、その政治的季節の過ぎ去るのを待っていた。保守的な愛媛県の土壌の中で、初めて革新的な潮流が発現し、それに触れてなす術を知らなかったのである。1960年に日米安全保障改定問題が岸信介内閣によって提起され、それに対する反対運動が巻き起こったのが端緒である。それは平和憲法の下で再び戦争への道を敷設するものとしての、日米軍事同盟としての政治的性格を色濃く持っていた。戦後日本の国家的独立と世界の中での将来の日本の政治的、経済的活動を左右する大きな布石でもあった。東京では共産主義者同盟(ブント)が主導する全学連の反対運動が盛り上がっていた。安保改定条約の承認をめぐって戦後最大の平和運動、民主主義運動が引き起こされた。私は地方大学でその波を受けながら、まずは国会における強行採決など非民主主義的な動向に対する不満という水準から次第に微温的に波の中に巻き込まれていった。私は政治的にも経済的にも当時の情勢を読むすべを知らず、田舎の高校を卒業したばかりのぽっと出であった。社会党、共産党、学生活動家、右翼の宣伝活動が盛んに行われていた。6月15日にはデモ活動の中で東大の樺美智子さんが亡くなり、多くの負傷者を出した。そのなかで私は動揺しながら、キリスト教研究会に入部したが、そこでも人道的な立場から安保反対への関与があったりした。もはや記憶が怪しいのであるが、学校生活のみならず下宿でも安保闘争の余熱が波及し、そこで先輩との議論が繰り広げられ、日常的に多くの優秀な思想家、学者、評論家、文学者、哲学者が私の目の前で立ち現れては消えた。いろいろな触発があり、農業経済学の専門授業の中でマルクス経済学にも出会った。やがて保守的な私の中に変化が表れ始めた。保守と革新の潮流を引き比べて、次第にマルクスの論理性へと引きつけられていった。それは私の接触範囲で、安保問題へのすぐれた分析がマルクス理論に基づくものが殆どであったという事情もあった。あまり実証的ではなく、乱暴なくくり方であるが、私の主体に巣くっていたものは、いうまでもなく、西欧的な個の確立を踏まえた透徹したマルクスの論理に裏付けられたものではなく、共同体的規範の中で育った人道的、同情的な感情、平等主義と、不徹底なマルクス理論への覚醒をごちゃまぜにしたようなものであった。私の主体条件は弱い力でガンと一打ちされれば、一挙に崩れさるような風前の灯にも例えられるものであった。安保闘争の分派の中でどの流れが正当であるかという判断はつきかねた。地方大学の環境で、そこまでのめりこんで打ち込むことができないぬるま湯の中での私の半分覚めた意識があった。私は社会科学研究会に所属し始め、おそるおそるさまざまな活動に加わった。その活動の中で、私は偶然講演会に来松された三浦つとむ氏(故人)に接触する機会を持った。その講演会を社研で企画し、会場設営等で準備作業を行った気がするが、記憶はぼやけている。また当時学生運動の中で活躍されていた吉本隆明氏の名前を初めて知った。安保闘争の渦中で多くの人々が渦を巻くような勢いで通過していった。今考えると恐ろしい光景である。おそらく今後これほどの稠密な政治的、思想的絵巻を垣間見ることはないと思われる。今もそうであるが、当時内的な確信のなさが私には不安でも、つらくもあり、専門教育課程へと移行するにつれて、マルクス系農業経済学や「資本論」をかじったりした。このような中でしっかりとした発言をする大学教員は少なかったように思う。残念ながらほとんど私にはそのような教員との出会いはなかった。今考えると保守王国愛媛の風土は寸分の隙間もなく沁みとおり、教員の思想もまた深く浸食されていたのではないかと想像する。政治的風土と学問潮流との相関性は密であったという印象をあらためて思い起こすのである。

観念論と唯物論

このころ「観念論」と「唯物論」に関する議論がわれわれ学生仲間では流行していた。学生運動を進める上での理論武装の一種である。思想的なあり方の転換を図るための導入でもある。その本流はマルクス、エンゲルスを中心とするキリスト教批判にあったと思われる。さまざまな文献があり、私の弱々しい記憶では1時期のヨーロッパにおける哲学的な論争を形成してきた。それは自然科学、社会科学の両面にわたる科学的な思惟方法をめぐる論争である。自然的、社会的な諸現象を正確に把握し、正しい論理として把握し、実践的に対処する正確な処方箋を提示することである。それは未熟な学生にとっては極めて困難なことであった。さまざまな学生運動の分派が現状分析を提示し、学生運動の闘争方針と運動方向を打ち出してくる。その正しさを判断する根拠は私には何もなかった。ただ仲間の議論に加わり、それを可能な限り見出してゆくことしかなかった。時々の情勢の展開を注視しながら、精一杯の対処を考え出すことで追われ、さまざまな疑問を解く余裕はなかった。普段の生活の中でそのような勉強を積み上げてこなかったことに対する悔恨がしばしば襲ってきた。未来予測が当ることなどないなかで、突然襲いかかってくる自然、社会現象に対して自ら仮説をもって解決のシナリオを自前で保持することは、いつの時代にも要求されておりながら、誰もその対処法を知らないでいるのが当然と言えばその通りであるが、にもかかわらず有無を言わせず対処法を要求されるのである。突然降ってわいた災難のように私の前に安保問題が立ちはだかったのである。その時にその基本的なものごとの考え方からさかのぼって論争に立ち向かわなければならない。間に合わないことをぐるぐると遡っているという焦燥感が常に付きまとっていた。一介の学生でさえもこのような事態に巻き込まれるのだから、社会に出たサラリーマンの実践的苦悩は計り知れない。誰もが突然目の前に降ってわいた事態に対してどうするのかを自らの頭脳で腑分けしなければならない。その事態はどう動いてゆくのか、どう変化してゆくのか、どんな矛盾を抱えているのか、どんな利害をもたらすのか等どっとわれわれの前にその姿をぶちまけてくる。その対処の仕方によっては自ら滅亡の道を踏むこともある。定められた制限時間の中でその対処を実践しなければならない。もちろん命をかけるような判断を迫られる事態はそう頻々とは起こらないかもしれないが、無数の判断が瞬時に求められ、人生が決定づけられる。それはわれわれに頭脳活動の極限を要求し、必死にそれに応えるしかない。ところが正しい思惟には思惟と現実の関係に関する正しい理論的な把握がなければならない。これが困難なのである。われわれ人間は多くの弱点を持ちすぐに錯誤に陥ってしまう。思惟のみが先走り、現実と乖離したり、過剰反応や無反応に陥る。錯誤を修正する過程が常に必要となってくるのである。議論をしているとすぐに混乱が始まり、見えなくなってしまうのであるが、観念論と唯物論の対立とは、観念と物質、思惟と実在、上部構造と下部構造などの2項対立の問題である。人間にとっては有史以来この2項を分けることはできない、切り離せない関係であり、産業革命等の経済的エポックメーキングは両者の切り離せない関係の中から質的な発展を遂げた結果だと言える。人間は経済活動を行える唯一の生物である。経済活動は様々な高度な目標やそれを達成する無数の指標という高度な意識的産物を不可欠とし、試行錯誤と失敗を重ねながらそれを成功に導くことができる。自然現象や社会現象は高度な意識的コントロールの対象となり、意識と物質、意識と社会システム、意識と人間関係、意識と意識等々生産環境をめぐるすべての条件が高度な意識的目標や指標を獲得するための分析対象として登場するのである。しかし限られたテーマをめぐる議論では意識と物質、精神と宇宙等の関係の錯誤が頻々と起こる。人間の歴史意識の発展が現実の人間の歴史を導くかのような錯誤、転倒が起こりうる。それは歴史の発展過程が現在進行中であり、古い認識の誤りが発見される等によっても引き起こされる。いうならばわれわれ人間の意識は間違いだらけであり、その間違いを意識することができるためには普段の学習活動と反省を怠らぬことである。

アジア的ということ」吉本隆明著、に学ぶ

安保闘争を通じていったい何が私にとって重要であったのかいまもってよく分からないのであるが、ただ私は時代の渦の中でもがきながら自己自身をコントロールすることもできず、周囲の圧力に押されながら流されるままに流れてきたなという諦観のようなものを感じている。このように言えば安保闘争に命をかけてきた人たちへの侮辱になるが、その諦観に逆らうことが多分重要な生の自己課題だろうと思うのである。しかし私の与えられた条件の中で、ただただよわよわしいもがきを繰り返しながら泡のように流されているな、という思いが強いのである。弱さの中で何かの確信をつかむことができるかどうか、多分その挑戦を続けることが重要なのだろうというしかない。ここにも私の共同体でのエートスの限界性が表れているに違いない。新たな社会潮流のなかで自己を変革するに至る条件を主体的に作り出せなかった不甲斐なさといえるかもしれない。私はここにきてただもごもごと口ごもってつまらぬ言い訳をするしかなくなってしまう。歴史的に形成され地方に波及してくる政治、社会的条件の迫真性に対して私自身の主体的な決断や発動が引き起こされてやむにやまれぬ限界まで追い込まれたとき、新たな政治思想や行動が生まれるのであろうが、そのように段階的な層をなすような、事態の進展には至らなかった。おそらく思想的な格闘や真剣な学習ができなかった、既存のエートスの枠組みに縛られ、それを打ち破る覚醒がなかった、茫漠とした観念論が体の50%以上を蝕んでいて、重しになっていた等、長い伝統の気風や規範意識の重さがつくづくと身に沁みるのである。

ここから私は1冊の本を取り上げ、私の学んだ「アジア的」という概念について述べてみたい。おそらく私の狭い視野では多くの誤読をまぬかれないと思うが、そのような限界付きの浅い理解として見ていただきたいのである。
 「アジア的」という概念は偉大な哲学者ヘーゲルによって始まった。18世紀後半の産業革命を経てヨーロッパは巨大な生産力を実現し、また巨大な軍事力と覇権国家としての威光を放ち、インドをはじめとして東南アジアの植民政策へと触手を伸ばし始めていた。封建制が市民革命によって瓦解し、市民社会が誕生した。極東に位置したわが国にその威光が及んでくるのは周知のように100年あまり後の江戸末期、嘉永6年(1853年)のぺりー浦賀来航である。
 東洋に関する情報は東インド貿易会社を通じての断片的なものであったと思われる。その時代にヘーゲルは「アジア的」という概念をおよそ次のように規定した。「<アジア的>とは<自然>を原理とすること。<アジア>というのは<自然>なんだ。<自然>をどのように考えてそれを征服するか。あるいは<自然>をどのように考えてそれを宗教とするか。<自然>をどのように考えて人間の規範の原理とするかということが<アジア>あるいは<アジア的>という特徴だ。」、つまり自然原理が大きな特徴となっている。他方ヨーロッパの原理は「自由原理」である。