清水家長男 宗知
清水左近将監としていくつかの戦いに名も残すが、廃嫡し出家
出家はしているが真は武将であった。
1582年秀吉による備中高松城水攻めの時
(高松の役)
弟清水宗治が自刃と共に自刃。
「浮世をば今こそ渡れ武士の
名を高松の苔に残して」
(中国兵乱記より) |
備中高松城城主
1582年6月4日、
秀吉による備中高松城水攻めの時
城兵の命を救うため自刃。
「世の間の惜るゝ時散りてこそ
花も花なれ色も有りけれ」
(中国兵乱記より) |
清水宗治の次男源三郎
小早川隆景の三原城へ人質にだされていたとき、
高松城の水攻めで父宗治自刃
切腹前日の宗治からの書状「身持ちの事」が残る。
隆景と宗治の一字をとって景治となり、
小早川・毛利家に仕える。
萩に移った清水家は長州藩組として幕末まで続く。
|
|
清水家図
兄 月清入道 |
|
|
|
清水宗治 = |
妻 (石川久孝娘) |
| |
|
源三郎 |
|
娘 = |
中島元之 |
備中経山城主
「中国兵乱記」の著者である。
中国兵乱記とは
1615年に書かれた中島家の合戦記録で自己の手柄を強調したところがあるが、自らの体験や見聞をもとに書いたもので貴重資料である。
妻は清水宗治の娘 |
備中高松城主
幸山城の出城として作られた備中高松城
久孝には後継ぎがなく、久孝亡き後
娘の婿 清水宗治が継ぐこととなる。
|
|
|