輝政と絲子の子
利隆(姫路城主)
幼少の異母弟 忠継に替わり
岡山城執政代行 岡山城在城10年。
1613年家督を継いで姫路城主になるが、
1616年京都で病死(33歳)
(妻は徳川四天王榊原康政の娘鶴子) |
輝政と家康次女督姫(良正院)の子
1603年5歳で備前岡山28万石を貰い受ける。
幼少の為、姫路城に留まり 父輝政の死後 10万石を分与され38万石
1614年16歳で岡山城入城
大阪冬の陣には参戦するも
1615年2月忠継17歳で死去
(森忠政の娘と婚約していた。) |
輝政と家康次女督姫(良正院)の子
淡路洲本に6万の所領を与えられていたが 兄が亡くなり兄弟に所領を分け31万石で岡山城入城
岡山城城郭整備・城下町整備にあたった。
1632年31歳で死去 岡山城在城17年
家督は長男光仲が継ぐが幼少だったため、因幡鳥取に移封
(伊賀越えの仇討ち事件起きる) |
利隆の子
父利隆が執政代行で岡山城に在城していた時
岡山城西の丸で生まれた。
父の死去により姫路藩主となるが、幼少を理由に因幡鳥取に減転封
1632年(叔父)池田忠雄が亡くなり、光仲が幼少の為 岡山藩へ31万石で移封
光政より(後池田)
光政の家系が明治まで岡山藩を治める。
閑谷学校・熊沢蕃山・津田永忠の登用が有名
西の丸で生まれ・西の丸で死去(享年74歳)
(一汁一菜の倹約令により、ばら寿司が生まれたと言われる。) |
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池田恒興 |
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|之助 |
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池田輝政 |
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池田利隆= |
鶴子(福照院) |
(前池田) |
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池田忠継 |
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池田忠雄=三保姫 |
(後池田) |
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池田光政 |
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光仲(因幡鳥取) |
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池田光政 |
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(江戸屋敷) |
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(岡山屋敷) |
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