宇喜多家


宇喜多能家


備前守護代浦上氏の重臣として仕え、
数多くの合戦で手柄を立てた武将。

備前砥石城で、同じ浦上氏に仕える隣山の高取山
城主島村観阿弥に攻められ、

1534年自害。             

宇喜多興家

能家の子。
砥石城が攻められた時脱出。
備後の国鞆へのがれた後備前まで戻り、
備前福岡の豪商阿部善上定の家に身を置く。

1540年 戦いが好きではない興家は仇を討つことなく亡くなるが、豪商阿部善上定の娘との間に、
後に嫡男(直家)の重臣となる、 忠家・春家のふたりの子供を残す。
(忠家・春家は同一人物ではないかとも言われている。)

宇喜多直家
              

岡山始まりとされる武将である。
6歳の時祖父能家を亡くし、祖父の主君であった
浦上村宗の二男天神山城主の浦上宗影に仕え、
16歳で元服 宇喜多三郎左衛門直家        
1544年乙子城主となる。               
1549年21歳 奈良部城主に栄転。         
1559年31歳 祖父の仇島村観阿弥と舅中山信正
を謀殺。亀山城と領地を奪い居城とする。

 一人目の妻自害 
1566年備中松山城主三村家親を狙撃にて暗殺。 
1567年39歳 明禅寺合戦(三村 対 宇喜多)  
侵攻してきた備中三村勢を撃破            

1568年40歳 金川城主 松田輝元・元賢攻略
 おふくと結婚
1573年45歳 石山城主金光宗高を落とし、    
石山を居城として岡山平野に進出           
岡山城の基盤を造る。

1577年49歳 主君浦上宗影の天神山城を攻略
(毛利と同盟) 美作三星城主後藤勝基を滅ぼし 

備前・美作統一         
1578年50歳播磨上月城を破る。
1579年51歳織田に帰属 
1581年53歳 死去
 宇喜多家図
           


宇喜多能家


                   ┃
     
宇喜多興家 

                 (妻)        (阿部善上貞の娘) 
                   
                   ┃           U

宇喜多直家
(忠家・春家)
       (奈美)      (おふく)                    
                   ┃  (基家)     U         
                   ┃           U…富田夫人
     
     
 
宇喜多秀家

(詮家)



宇喜多秀家

豊臣政権下の五大老になり備前岡山57万石の大
名ながらも・・・


宇喜多直家の子
1572年に生まれる。
1582年(10歳) 父亡き後,織田信長の計らいによ
り本領を安堵され 家督を 継ぐ。                        
備中高松城水攻めでは、叔父宇喜多忠家・重臣

戸川秀安が補佐 。      
秀吉の養子となり、元服の際、秀の字を与えられ 
宇喜多秀家と名乗る。   

1586年(14歳)前田利家の娘と結婚。
紀州征伐・四国攻め・九州の役・小田原の役・
文禄の役・慶長の役などに参加 。
従三位中納言を与えられ秀吉から五大老のひとりに
じられる。 
(徳川家康・前田利家・上杉影勝・毛利輝元)
1599年(27歳)宇喜多家内部でお家騒動が発生。
この騒動で、従弟 宇喜多詮家(坂崎直盛)をはじめ
優秀な家臣が徳川家康に側に付くこととなる。

1600年(28歳)秀吉の没後、関ヶ原の戦いでは西
軍の副大将として石田三成・大谷吉継と共に戦う。

関ヶ原敗戦の後、伊吹山・薩摩などに落ち延びた
が、妻の兄・前田利長の懇願により死罪は免れ、

駿河国久熊山の幽霊の後、
1606年(34歳)八丈島へ流人として(長男・次男)と
共に配流。 八丈島で50年近くを過ごす。      

1655年(84歳)死去

関が原を戦った大名の中で最後に没した人物

(宇喜多基家)
与太郎
直家の養子となる。(忠家の子説有)
1581年総大将とした八浜合戦にて命を落とす。
弾痕の残る兜が基家所用瀬戸内市の大賀島寺に残される。
亡くなった玉野市八浜には「与太郎様」と呼ばれ、
足の神様として祀られ、信仰されている。
( 宇喜多忠家 )

宇喜多直家の腹違いの弟母は阿部善定の娘
直家を補佐し、直家亡き後10歳の秀家の補佐する。
播磨の上月城攻め、備中高松城攻め、
朝鮮の役など宇喜多軍の総大将として出陣。
1599年宇喜多家中にお家騒動が起こると剃髪して
安心と改名し、大坂に隠居

1609年大阪にて没する。

(兄弟に春家も存在するとされるが、ここでは同一人物と想定)

( 宇喜多詮家 )
宇喜多忠家の子
宇喜多直家の甥であり、秀家の従弟である。
備前富田城を父から受け、居城としていたが、
宇喜多家御家騒動の時、宇喜多家を離れ
徳川方につく。
1600年の関が原の合戦での功績によりに津和野
を与えられる。

坂崎直盛と改名
15年を津和野で過ごすが、
1615年大阪夏の陣で千姫事件を起こし
1616年年自害
(妻は戸川の娘
(妹は富田夫人