2013/6/7

報正寺通信
  
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2013年5月
聖典学習会のご案内 21日(火)朝・昼 朝9時半・昼2時始  学習聖典・無量寿経 住職自修  参加費無用 聖典から人生・社会の諸問題を問うてみましょう。 どうぞ誘って気楽にご参加下さい     
 
前回の学習内容から
 
 まず、本願寺出版、現代語版・浄土三部経の無量寿経の解説から読みました。
 これには、仏説無量寿経とあります。
 仏説ということについて考えます。
 以下はいつもの解釈です。
 仏説というと、仏、つまりお釈迦様がじかに説かれたものと思われていると思います。
以前は、みんなそう信じられていました。
しかし、最近の研究で、この無量寿経はお釈迦様がじかに説かれたものではないことがわかりました。
お釈迦様が亡くなられて、およそ五〇〇年後、作者は不明ですが、その方や、そのグループで、お釈迦様の説かれたこととして創作されたものであろうということがわかってきました。
お釈迦様は実際には、阿弥陀様やお浄土や南無阿弥陀仏といったことなどについては説かれていなかったということです。
でも、まったくお釈迦様の思想とは違ったものではなく、お釈迦様の、無我、慈悲、利他、布施といった本質的な思想を踏まえていることには違いありませんから、「仏説」と受け止めてもいいということが言えます。
解説には、「諸仏がこの世に生まれる目的は、苦悩の衆生に阿弥陀仏の本願を説いて救うためである」とあります。
諸仏といえば、インドのガンジス河の砂の数ほどのもろもろの仏ということが言われていますが、これも実際そんなにたくさんの仏がいるということではなく、仏の本質である、無我、慈悲、利他、布施といったことは世界中どこにでも通用し、満ちている、真実ということを表しているということが言えます。
そして、この無我、慈悲、利他、布施といった真実を人格的に象徴表現したものが、この《阿弥陀仏の本願》ということができます。
阿弥陀仏の本願とは、一切のものを全て仏にするという願心でした。
仏にするということは、私たちを完全な無我、慈悲、利他、布施の実践者にするということです。
阿弥陀様は、自分中心の欲望は無く、慈悲、利他の心で、自分の全徳をみんなにもれなく施そうとされる大施主と表現されています。
そこで、諸仏が阿弥陀仏の本願を 説いて苦悩の衆生を救うという表現は、この諸仏や阿弥陀仏の本願の本質である、無我、慈悲、利他、布施といった真実が、人間の苦悩を救うということを表していると受け止めることができます。
 
迷妄・苦悩の救済としての無量寿経・浄土教
 
まず、人間の迷妄ということを考えます。
人によっては、老、病、不安、孤独、死、死後、罪、など、どういうことはない、ケセラセラ、なるようになる、神も仏も必要ない、悪魔も祟りも恐れずと割り切られる人もあると思います。
ただ、問題は、そうであっても、我欲中心で、他者の命や心など、人権を侵害してなお、無自覚で慚愧無く、そのような社会の問題へも無関心、無責任なことです。
また、人によっては、老、病、不安、孤独、死、死後、罪、などにいたたまれなく、どうかこの苦悩をだれか、神であろうと、仏であろうととにかく救ってほしいと願われる人もあることでしょう。
さらに、無我、慈悲、利他、布施の完成という、いわゆる成仏という最高の人格完成を純粋に目指しながら、その不可能性に絶望に陥った人もあったでしょう。
こういう人々への救い、導きというところに、阿弥陀仏信仰、往生浄土信仰という、仏道としての浄土教として無量寿経が創作されたと考えられます。
つまり、一つに、この阿弥陀仏の大慈悲の無条件、無限の包摂と受容への安心という信仰、一つに、この阿弥陀仏の大慈悲に表現された、無我、慈悲、利他、布施の真実への覚醒、そして人間の限りない欲望、煩悩による、自他共に損ないあう、自己と社会への慚愧と解放、自律の仏道としての浄土教の成立です。
 
現代・将来の浄土教
 
しかし、現代、もはやこの阿弥陀様が無条件、無限の大慈悲で私たちを抱き、私を成仏させてくださるということを実際の事実として、純朴に信じられる信仰というものは成立しがたいと思います。
やはり、現代そして、将来の浄土教というものは、先に述べたように、この阿弥陀仏の大慈悲に表現された、無我、慈悲、利他、布施の真実への覚醒、そして人間の限りない欲望、煩悩による、自他共に損ないあう自己と社会への慚愧と解放、自律の仏道としての浄土教というものでなくてはならないだろうと思います。
 
苦悩からの救済
 
おたがい、大なり小なり、苦悩というものをかかえて生きていますが、この無我、慈悲、利他、布施が私たちを救ってくれているでしょうか。
私たちが、今後過酷ともいえる苦難に遭遇した時も、はたして、この無我、慈悲、利他、布施といったものが救ってくれるでしょうか。
 私は、幸か不幸か、絶望的な苦悩に陥ったことはありません。
 これから、一家全滅、全焼、全身不随などどのような苦悩に出会うかわかりません。
 そうなってもなお、命の尽きるまで、この無我、慈悲、利他、布施を自己にも社会にも願い続け、自分のできる所で実践し続けて生きられるものかと思います。
もしどんなに過酷な中にもそのように願われ、生きられるなら、苦悩の中にありながらも、本当の意味で苦悩から救済されているということができるかと思います。
 こんなことを思いめぐらしながら学んでみます。
教材は、「本願寺出版、現代語版、浄土三部経」を用います。
無い方には、コピーいたしますから、大丈夫です。
いつものように、気楽に、休みながら、お茶をいただきながら学んでゆきましょう。
かたぐるしく思われずに、お誘いあっておいでください。
 
憲法改定問題
 
 世間では、憲法改正といわれています。
改正とは、今の憲法がよくないから、正しく改めるということですね。
でも果たして、改める事が正しいか、正しくないかには、様々な考え方がありますから、私は、改正でなく改定という文言を使います。
 
日本維新の会・石原代表の憲法観
 
 維新の石原共同代表は、今の憲法は、アメリカの押し付け憲法だから、破棄して、新しい憲法を作って、核兵器も保有し、どこの国よりも、強固な軍隊を作るべきであるというような考え方です。
 そういう軍事力優先政治は、国民の福祉には手薄くなり、諸外国への信頼よりも恐怖を与え、諸外国との対立には戦争を是認する考え方で、憂います。
 
 
自民党の憲法改正草案から
 
今度の7月の参議院選挙の争点に、自民党は、この憲法改定問題を加えました。
自民党の憲法改正草案を見てみます。
 
天皇制
 
それには、前文に「国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって」と天皇制を日本の誇りのように表現してあります。
 いつも申しますように、国を本当に民主的な国にするのなら、国税による特権的な保護で、しかも居住、職業、信教、選挙の自由も無い皇室の人々の人権回復のためにも、この天皇制は解消してゆくことがいいのではないかと思います。
 この天皇制を残し、1条案で、今までの象徴以上に、国家元首に格上げするというのは、逆行であり、国民統治への天皇の威光による政治利用と思われます。
いわゆる、知らしむべからず、寄らしむべしというような国家政治の権威化、国民の従順化策も考えられます。
 去る4月28日、今まで無かった、「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」に、沖縄からの反対運動にもかかわらず、天皇皇后の参列を組み込んだのもそういう効果があったことと思えます。
さらに、今の憲法にないものを草案では次のように新設します。
(国旗及び国歌)
第三条 国旗は日章旗とし、国歌は君が代とする。
 2 日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない。
 (元号)
第四条 元号は、法律の定めるところにより、皇位の継承があったときに制定する。
ここにも、今まで現憲法になかったものを新たに加えるということで、国家主義色による、国家に従順な統治効果の強化が図られてあることを感じます。
 
戦争の反省
 
今の憲法には、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」と戦争への反省が感じられますが、自民党草案には、「我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し」と戦争への反省の思いが薄くなっています。
 
国家主義か国際主義か
 
 今の憲法には、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。
 われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。
われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて」と国際協調の平和と信頼への理想を高く掲げていますが、自民党草案には、「日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り」というように国家主義的な思想が強く、自衛隊を国防軍に変えて、戦争のできる国家を目指す方向が示され、憂うるところです。
 
2013年4月
 
永代経法座のご案内 16日(火)夜席〜18日(木)日中席 おとき日・・・18日(木)日中 夜、7時半・日中、9時半はじめ 講師 福山市・光明寺・吉岡隆義殿  どうぞ、誘い合ってお参りください
 
宗教、仏教などというその前に
 
 一般に宗教といわれると、なんか非科学的な、迷信のように感じられているように思われますがいかがでしょうね。
 いつも、私もこの報正寺通信で書いたり、語っていますから、みなさんよくご承知のように、私もその部類で、他の宗教はともかく、仏教は、本来合理的なもので、合理的に解釈されねばならないとづーっと考え続けています。
 仏教も、浄土真宗も、近来、現代人から、関心が薄れてきたというのは、それを説く私を含め、僧侶が、合理的説明や、人生、社会の問題に、きちんと表明をしてこなかったからであろうと思います。
 さらに、もちろん私ら僧侶が、人格において尊敬、信頼に値する人格形成が不毛であることもさらに重要な原因といつも恥じます。
 ところで、私は、仏教というのは、この世界の因、縁、果の法則などを説きつつも、仏教の教義以前の、もっと言えば、仏教の教義となったその本質である、私ら人間として大切なことといったものを説いているのだと考えています。
 これが、冒頭の、宗教、仏教などというその前に、ということで言おうとしているものです。
 さて、宗教、仏教以前の、私たち人間として大切なこととは?ということですね。
それは、殺さない、奪わない、差別しないというようなことになるでしょうか。
それは言い換えれば、言うは易く、行いは難しの、優しさ、思いやりの世界ともいえると思います。
そのやさしさや、思いやりの世界の究極を仏教は象徴的に阿弥陀仏とか、本願とか、浄土といった表現で示していると考えることができます。
ですから、本来、仏教は、信じ込むものではなく、目覚めてゆくものといえるわけですね。
何に目覚めるのかというと、阿弥陀仏や浄土に、究極のやさしさや思いやりというものに目覚め、逆に、思いやりや優しさにほど遠い、自分や世の中の虚仮に目覚めるということでした。
信心とは、単なる信仰ではなく、目覚めであるといわれるゆえんです。
この信心を、「願作仏心」「度衆生心」とも言います。
「願作仏心」とは、仏になることを願う心、すなわち、優しさや思いやりの究極を願って生きる心といえます。
また、「度衆生心」とは、すべての人を自己中心の欲望の方向ではなく、同じく、優しさや思いやりの究極を願って生きて行く方向に導き救おうとする心といえます。
要するところ、仏教とは、真実と、虚仮が明らかになり、虚仮の自分と社会を慚愧し、より真実なる、すなわち、思いやりや優しさの自分と社会の創造に向かって歩ましめる教えということが出来ると思います。
 
狭山事件被告・石川一雄さんの講演を聞いて
 
 去る2月22日、福山、本願寺備後教堂で同和問題にとりくむ広島県宗教教団連絡会議結成30周年記念大会があり、そこで聞きました。
 今年が、狭山事件から50年目、石川さん、獄中32年、仮出獄19年目で今、石川さんは、第3次再審請求中です。
石川さんの悔しい思いとして語られたのは、兄が犯人だと思い込ませられ、自分が兄に代わって犯人になることを、長谷部警官に「男同士の約束だ、10年で出してやる」とだまされたということでした。
私は、石川さんに、この長谷部警官はじめ、あなたを犯人にでっち上げた人などその背後の巨悪の介在も含めどう思われますかなどと問いました。
石川さんは、当時の直接の3人の警察官を許さない、32年間の獄中から仮釈放後、当人達に会いに行ったが、すでに死んでいた、「臥薪嘗胆」恨み返しではない、恨む人なし、今や、冤罪、屈辱は水に流し、前に向かって生きる。というように申され、私は感動しました。
また、獄中、石川さんに文字を教え、支えた看守夫妻への感謝を語られました。
8年目にその看守は移動になりましたが、その後4年も含め12年間、文字を指導し、学習用に、一日7枚限度のチリシを内緒で1000枚融通したり、看守のお連れ合いは、封筒、便箋、ボールペンなど、部落解放同盟の支援で心配いらなくなるまで支援し続けられました。
もしバレて、クビになっても、ほかの会社に移ればいいと、お連れ合いも励まし続けられたといいます。
看守夫妻の娘さんの結婚式に招待され、100人の招待客に紹介されたと嬉しそうに語られました。
また、感銘を受けたのは、この狭山事件に絡められたのは、よかったといえる、それは、もしそうでなかったら、74年、差別解放運動を知らずに終わったかもしれないからという表明でした。 (石川さん当日の短歌)
《確春も一年半ばか命沙汰、ゴール目指して驀進中》
 
2013年3月
 
聖典学習会のご案内 23日朝・昼 朝9時半・昼2時始  学習聖典・無量寿経 住職自修  参加費無用 聖典から人生・社会の諸問題を問うてみましょう。 どうぞ誘って気楽にご参加下さい
 
前回の学習内容から
 
「もし菩薩、種々の行を修行するを見て、善・不善の
心を起すことありとも、菩薩みな摂取せん」
顕浄土真実教行証文類 化真土文類(末)
 
前回で、親鸞聖人主著、顕浄土真実教行証文類を、学び終えました。
この文章は、顕浄土真実教行証文類の最後の文章です。
以下解説させてもらいます。
「さまざまな修行があり、その修行を見て、善い心を起こす人もあれば、悪い心を起こす人もあろうが、菩薩というものは、みんなすべてをおさめとって救い導くものである」と読むことができます。
これは、一般に、人間には、いわゆる、善意も悪意も起きるものであるが、仏道という尊い修行に対してさえも、悪意をおこす人もあるが、このような悪人でさえも、菩薩は、忌み嫌うことなく、むしろ、憐れみ、悲しみの心をもって抱きとり、救い導こうとされるものであると読めます。
なぜなら、菩薩とは、亡己利他(己を忘れて他を利す)の心といって、自分のことはさておいても、他者を救い導こうとする崇高な人格ですからね。
つまり、親鸞様は、この菩薩の心に、阿弥陀仏の大慈悲の心を重ねておられると拝察しました。
 
顕浄土真実教行証文類の親鸞様の訴え
 
私は、この顕浄土真実教行証文類を通して読んでみて感じましたのは、親鸞様の阿弥陀仏への帰依、信順ということとともに、阿弥陀仏に真実を見いだされ、そこから、真実というものと、その反対の虚仮不実というもの、さらには、真実の道、虚仮不実の道、さらには、真実の世界、虚仮不実の世界、さらには、真実の仏教、虚仮不実の仏教というものを顕かにされているということでした。
「真実」とは、慈悲によって、虚仮不実を忌み嫌わず、抱きとり、同じ真実に同化せしめるものであるということ
「虚仮不実」とは、慈悲を喪失して、他者を忌み嫌い排除するもの
私は、この顕浄土真実教行証文類の最後の文章に、親鸞様の訴えられたい、真実と虚仮不実の結論を感じました。
 
次回の聖典学習会
 
次回からは、再び、無量寿経を学んでみようと思います。
と申しますのは、阿弥陀仏についての因縁説話には、法蔵菩薩説話以外に15通りあるようで、しかも、作者は不詳です。
作者が、霊感や、超能力によって、阿弥陀仏を実際に目の当たりにして書いたというようなことは信じがたいことです。
信楽、元、龍大学長は
「阿弥陀仏思想成立の最も妥当な見解としては、インド内外の諸思想の影響を認めつつも、基本的には、釈尊観の展開によるとする説であろう。
すなわち、原始仏教以来の釈尊観の発展や法蔵菩薩説話における仏伝の投影などからすれば、この阿弥陀仏思想は、基本的には、大乗仏教における菩薩思想の深化の中で、釈尊観の展開として生成、発展してきたものと理解されるのである。」と論じられています。
このように、阿弥陀仏を、何らかの不可思議な実体的な実在としての信仰をもとに無量寿経を読んでゆくというのではなしに、阿弥陀仏と表現されたその中身の深い意味を読み取ってゆくように学んでゆきたいと思っています。
仏教の本質は、先の宗祖の顕浄土真実教行証文類の結論である、「真実」と「虚仮」であり、この無量寿経もそうですから、この「真実」と「虚仮」を学びつつ、応用として、私たちの生き方、社会の在り方を訪ねてゆきたいものと思っています。
教材は、以前使いました、「本願寺出版、現代語版、浄土三部経」を用います。
無い方には、コピーいたしますから、大丈夫です。
いつものように、気楽に、休みながら、お茶をいただきながら学んでゆきましょう。
かたぐるしく思われずに、お誘いあっておいでください。
 
労働問題
 
世界的な自由競争の経済で、正規、非正規労働、サービス残業、過労死、首切り、追い出し部屋など、労働者の賃金、処遇などでさまざまな労働問題が明らかになってきています。
生活格差のない、同朋社会を願う、仏教徒としても、この労働問題も課題になります。
以前にも紹介しました、少しばかり、私が支援させてもらっている、労働組合、スクラムユニオン・ひろしまの紹介をさせてもらいます。
現実に、労働問題で苦悩を抱えておられるお方は、ぜひご相談ください。
 
スクラムユニオン・ひろしま
 
沿革   西部リサイクルセンターを解雇された労働者で1995年1月に結成。
活動を通じて県内の外国人労働者や派遣労働者の組織化をすすめ、個人加盟による合同労組として地歩を固めている。
「働く者の相談室ひろしま」と連携し、解雇や不当労働行為など個人の力では対応の困難な問題では、相談者の加入を受け入れ、団体交渉、労働委員会利用などを通じて問題の解決を図っている。
組合員数  150名(ほかに賛助会員10名)   
支部組織  西部リサイクル、北部リサイクル、呉・広、四国/丸亀、福山松浦化工、ユーシンの各分会
役員  委員長:土屋信三、書記長:伊藤エレニル
事務所  〒732ー0057 広島市東区二葉の里1ー3ー16 吉村ビル3階 
電話・FAX 082ー264ー2310 
活動目標  中小・零細企業の未組織労働者や、パート、アルバイト、派遣労働者などの非正規労働者の組織化と団結の強化に向けて奮闘する。
 広島県全域を活動できるだけの組織力、機動力を作り上げることを目標に、@組合員を拡大し、200名を組織化する。A委員長を組合専従として全面的に活動できるようにする。B執行委員会の機能を高める。C財政基盤の確立、組合費の確実な納入、カンパの集中、D外国人労働者とともに、非正規労働者、臨時雇用労働者の組織化に力を注ぐ。E県労協への加盟、F働く者の相談室ひろしま充実と対応力の強化 組合費  月額3,000円(給料の多寡に従って、基準内賃金の2%を納めることも認める)  賛助組合員は、月額1,000円
上部団体  広島県労働組合協議会
 
相談事例2012年3月〜5月
@ 残業代もなく、長時間労働で、1週間で辞めた。ところが、賃金を支払ってくれない。
電話で交渉して、賃金の支払いを確認。1週間後に支払われた。
A 2ヶ月賃金が未払いのままになっている。何とかしたい。
  スクラムユニオンに加入してもらい、団交要求書を送付。「団交当日、本人に支払うので団交は中止してほしい」との連絡が入る。
 
B 3年間にわたって、アルバイト料が支払われていない。支払いの約束はしてもらったが、安心できないので、ユニオンで対応して欲しい。
 
支払われるかどうか、一度様子を見てから対処することに。4月末に支払われなかったので、団交を設定
C 理事長に文句を言ったら、1ヶ月の自宅待機、懲戒解雇と言われた。納得できない。    
 
2度団交、解雇予告手当と自宅待機分の給料、有休消化を要求。理事会の回答待ち。
D 溶接作業で腰を痛めたら、解雇と言われた。労災を申請して、解雇予告手当、残業代25%割増賃金を要求したい。
 
資料の作成中。団交を要求して交渉の予定
 
E 体を触られるなど、執拗なセクハラを受ける。男性二人は残業代未払いがあり、3人とも解雇される。            (中国人実習生)
弁護士を立てて裁判で争う。残業代、解雇については、団交で交渉する予定
F 介護施説に働いていたが、「合わない」とわれて解雇通告を受けた。納得がいかない。解雇予告手当を取りたい。
 
  団交要求書を送付し、団交を設定
G 派遣されて2ヶ月で解雇された。こんなことが許されるのか? 理由は、「休みが多い」と言われたが、月に3日しか休んでいない。なんとかならないか。
 
会社に電話、状況を確認したが、試用期間3ヶ月ということもあって「対応はむずかしい」という返事。契約期間までの残日数の賃金支払いを要求
H 「能力がない」という理由で解雇を言われた。納  得できないので、ユニオンに入って闘いたい。
 
会社と団交し、解雇予告手当相当分、有休10日分を支払うことと、グループの派遣会社を紹介して、生活に困らないようにすることで確認
I 去年、脳梗塞で倒れた。回復してきたが、仕事を干されたりしていじめられ、解雇通告を受けた。         
  本人は元に戻るつもりはないが、解雇予告手当などを要求して団交を設定
 
 
2013年2月
 
釈尊涅槃会 益害平等一切有情追悼法座のご案内 15日(金)朝・昼、16日(土)朝・昼      朝、9時半・ 昼、2時始め  前席・講話 後席・質疑等話し合い  「お釈迦様の一生から学ぶもの」  住職自修 お釈迦様の(涅槃図)を掲げて学びます。 お誘いあってお参りください。
 
総選挙を終えて                            
 
選挙は、政党や議員を選ぶのですが、それは、私たち一人一人が、どういう国家社会を願うのかということを選ぶことでもありました。
総選挙の投票率が戦後最低だったということについて、国民の、政治不信、社会不安、生活不安などはだんだん大きくなっているはずなのに、「自民でも、民主でも、どうせ暮らしはよくならない、少数政党はどうせ多数にはなれないし」とあきらめて、投票しない人も多かったのかと思います。
結果、自民が大勝利を収めたということについて、民主党に当てが外れたのと、国民は、景気回復と尖閣、竹島問題で、国家や企業の権益を強固に維持発展させるための、新たな富国強兵策を自民に期待したということでもあったでしょうか。
労働組合が支持基盤の民主には、元々不本意であった財界は、この度、相当、自民に政権回復をさせたかったことでしょう。
ことに、原発推進の電力大企業と原発製造大企業の三菱、東芝、日立と連携する企業、ひいては、日本の財界は、原発再稼動、原発維持を望んだはずです。
武器輸出3原則も緩めて、兵器産業にも世界に打って出たい企業は、やはり、民主よりは自民だと。
官僚も、政治主導などと、今までのお株を奪おうとした民主よりは、元から一体であった、自民の回復を願ったはずです。
公明も、自民との連携で、議席を伸ばしました。
本来なら、創価学会という仏教教団が支持母体ですから、憲法9条改憲の自民には協力するどころか、批判し、対決すべきはずであろうにと思います。
今後、自民の憲法9条改定、国防軍創設ということに、妥協することはあっても、とても、明確な抵抗、批判とはならないだろうと思えます。
国防軍創設とは言わないまでも、やはり憲法9条改憲勢力の民主は、大敗北でしたが、今後、自民の暴走にどこまで抵抗できるかということを思います。
維新が新たに民主に次ぐ政党になりましたが、橋本派、石原派と、ニ軸的ですが、超タカ派色が濃く、9条改憲、国防軍創設には、共に強力な推進役をなすであろうと思えます。
みんなは、議席を伸ばしましたが、9条改憲勢力であることには違いありません。
9条護憲の社民、共産は、議席減でした。
社会主義思想は、資本主義社会の中では、受容されないのでしょうか。
9条堅持、原発即廃止というような考えは極端な理想主義に写るのでしょうか。
未来は、卒原発ということで、国民世論の反原発の機運にのっかかって勢力拡大を見込んだ、小沢氏が介入しましたが、結局分裂という悲喜劇に終わってしまいました。
自公政権は、いわれるように、今までの民主政権の、コンクリートから人へという政策を転換して、人から、コンクリートへという政策転換を図っています。
景気浮揚策として、日銀からお金を借りて公共事業を拡大し、物価も2%アップさせ、円安にして、輸出を有利にし、株も上げてゆこうとして、今その効果が表れています。
しかし、円安で、輸入製品は値上がりすることになり、早速、ガソリン、灯油は値上がりしました。
やがて、食料品なども含め、すべてが値上がりするでしょう。
市民の生活はことに収入の低い、世帯は、生活が苦しくなると思います。
そして、企業がもうかったとしても、今までがそうであったように、企業留保金といって、株主の配当にも、さらには、労働者の賃金にも回さず、会社にたくわえとして残される可能性があり、賃金が上がって、暮らしがよくなるのは、当分先か、幻想でしかないかもしれません。
自公政権は、生活保護費を切り下げました。
これは、今までの民主党政権の公的援助の公助から、自助努力、自己責任方針への転換といわれます。
確かに、生活保護の不正受給はいけませんから、その不正をなくすことは大事と思いますが、不正をする人は、特別で、たいていの人が、病気、しょうがいなどで、やむなく受給しておられるのだといいます。
これは、私もささやかながら、支援させてもらっている、広島、反貧困ネットワークの関係資料にもあったことです。
消費税は、来年8%、再来年10%とアップされ、防衛費は、将来の国防軍への備えもあるのか、なんと、11年ぶりに増額されました。
 
仏教徒の願う社会
 
仏教の大事な用語に、縁起を基にした、無我、慈悲、利他、布施といった用語があります。
ここに立脚すると、国家というものが、他の諸外国に対して、本来、自己中心性を持つものなら、むしろ、全世界、各国家が、国家の枠を超えて、地球全体、世界全体の、一つの社会となることを願うことも、幻想的ではありますが、仏教徒の願う社会ということになるかもしれません。
でも、それははるか遠い理想とすれば、とりあえずは、各国が、自国の国家主義を自制して、国際的な和平、協調、互恵路線を尊重することを願うのが仏教徒の願う国家社会と思えます。
前述の、無我、慈悲、利他、布施といった生き方の極限、つまり、人格完成の極限に、仏という用語があり、そして、仏の崇高な境涯、さらにはその展開された世界として、仏国、浄土という用語があります。
仏国浄土の本質は、我執、煩悩から解放された、前述の無我、慈悲、利他、布施の世界ゆえ、我執、煩悩の、権力、財力、暴力の国王、為政者による、特権的、差別的な支配構造はありません。
また、奪うとか殺すとか、刑罰や死刑も、また、暴力装置としての武装戦力も、軍隊もないゆえ、当然、戦争をするということもありません。
お互い、個性の違うままにも、尊重し合って、差別するということなく、施し合い、生活格差も無い、高まり合って、みんな輝きあっている、清浄無垢な世界です。
我々仏教徒は、この仏国、浄土を原理に、あるべき社会をめざしたいものです。
憲法9条の改憲については、自衛隊を国防軍にし、集団的自衛権を行使して、国際紛争に出撃し、米軍などと共同で戦争することが出来るようにするということですが、現実に、日本の言う、尖閣諸島、竹島、北方領土問題があり、いずれも、過去、国の、海外進出、侵略戦争という過誤に関係するもので、そのことの国際的な公平な検証を元に、両国は国家主義の暴走を制御して、冷静に、協調和平、互恵の知恵を絞りたいものです。
国は、諸外国との信頼を高め、日米安保という軍事同盟を解消し、諸外国と和平条約を結び、治安は海上保安庁の任とし、自衛隊は軍装を解除して、国内外の災害救援隊へと編成替えがなされたいものです。
同じく幻想的ではありますが、将来的には、世界各国が、軍縮から軍備撤廃へと移行し、国際紛争には、五大国の拒否権を破棄して民主化された国連に、国際司法、国際警察として機能させたいものです。
 
今年も、ダーナ募金をよろしくお願いします
 
ダーナとは布施(ほどこし)というインドのことばで、ほどこしは、共に分かち合うという、仏教の生活実践です。         
(毎年のご協力を感謝します。)
 
在韓被爆・渡日治療者、パク・チョルウさんの証言
 
8月6日、4歳の時、友達と砂遊びの時、被爆。
左腕にやけど、左わき腹に傷跡が今も残っている。
友達はどうなったか、今まで会っていない。
母は私を背負い、弟を抱いて川に下り、血を洗い流した。
弟は頭髪が抜け、左側が大きく腫れ、帰国後ずっと寝ていたが、2か月で死んだ。
父の火傷は骨が見えるほどで、皮膚が溶けて垂れ下がりウジ虫がわいていた。
21年前に父が、そして、11年前に母が死んだ。
その後、被爆手帳を取得。
日本の支援者の協力でここまで来た。
感謝している。
今後の希望は、在韓被爆者を、援護法を完全適用し、日本の被爆者と同じ扱いにすることです。
 
昨年度、報正寺ダーナ募金総額は
          36,300円でした。
布原、1,500円・大井、2,000円・
小原、3,000円・萩原、2,000円・
数舟、2,000円・本一、4,800円・
本二、6,500円・本三、9,000円・
本四、5,500円
配分
山県太田組ダーナ募金会計・・・13,000円
在韓被爆者渡日治療委員会・・・10,000円
本願寺東日本大震災支援金・・・13,300円
前年度山県太田組ダーナ募金総額は
           405,896円でした。
過年度積立金含め配分
山県太田組内医療機関へ仏教誌施本
          ・・・ 205,920円
社会福祉法人芸北福祉会・・・150,000円
東日本大震災義援金  ・・ 500,000円
火災・雪害見舞金、三件・・  40,000円
安芸教区連盟委託金等 ・・・ 31,020円
災害援助等積立金繰越残額1,470,591円
 
 
 
2013年1月
 
過年・色々ありがとうございました。
本年もよろしくお願いいたします。
 
親鸞聖人御命日法座のご案内
19日(土)朝・昼、20日(日)朝・昼
朝、9時半・昼2時始め、夜席はありません
前席 講話・後席 話し合い
「親鸞様の御一生から学ぶもの」
住職自修
共に、親鸞様のご一生から、生と死と現在の世界
を考えさせてもらいましょう。
例年通りぜんざいをいただきます。
おさそいあっておいでください。
 
義母、大島マス子、往生
 
昨年2月7日、87歳でした。
竹原の地で往生いたしました。
生前のご厚誼に篤く御礼申し上げます。
 
26年前、一人息子を、突然の事故で失い、その後、体調すぐれないままにも、何とか健康を維持してこられました。
 
4年前、義父が重病のため、一緒に、私方、筒賀においでいただき、義父の居宅・病院介護を家族で一緒にしておりました。
 
その義父は、3年前、91歳で往生いたしました。
 
義父が往生して、しばらく、一緒に生活していましたが、竹原で生活してみるといわれ、2年前、竹原に帰られました。
 
元々、医師が、いつどう容態が悪化しても不思議ではないという体調だったので、心配していましたが、入院中、誤嚥がもとで亡くなりました。
 
坊守と結婚して以来、37年間、寺の新聞を毎月送り、折にふれて、仏教の話もしていましたが、どこまで仏法をお伝えできていたのかと反省しています。
 
あわせて、私の家族、親族、さらには、報正寺の門信徒さん始め、有縁の人々にさえも、果たしてどれほど仏法をたしかにお伝え出来ていることであろうかと案じます。
 
義母は、「大賢さん、あなたが、確かに、仏法を自分に、血肉化していない限り、ちゃんと伝わりませんよ」と厳しく諭してくださっているように思います。
 
越年哲学
 
一年の節目に、人生を哲学します。
 
人間、生命、自然、宇宙万物すべてについて、神とか、悪魔など、ある意思による、創造、支配というような考え方がありますが、それに付いては今なお?です。
 
いつもの持論ですが、未だ完璧に、科学で解明されているとは言えないにしてもいずれ、将来、科学で解明されることと期待しますが、やはり、意思を超えた、精妙な、厳然たる、自然の摂理のなせるものであろうと思っています。
 
過去を考えれば、宇宙誕生、約137億年の歴史と、それ以前の、無限の「時」と無限の「場」ということを思います。
 
未来を考えれば、太陽の膨張から、収縮冷却死、宇宙の膨張、巨大なブラックホール化とその蒸発、そして冷却という、その無限の「時」と「場」を思います。
 
私は、この無限の「時」と「場」の中で、一瞬生じて消滅する刹那の水泡のように思えます。
 
私は、猿の仲間の人間として生まれてきて67年。
 
明日が分かりませんが、人生80年として、あと13年あるかどうかの寿命です。
 
死ぬるまでどう生きる?
 
欲を言えばきりがありませんし、とりあえずは、生き物として、最低限の衣食住にこと欠かねば良いがと思います。
 
さらに願わくば、自分だけでなく、すべての人がそうあってほしいとは思います。
 
でも、思うだけのことのみで、中々体の動かぬ、根深い、我執という、生物としての自己中心性を思い知らされます。
 
人間は、こういう、根深い、自己中心の獣性に翻弄されながらも、なお、それへの慙愧と共に、人間性の本質である、やさしさや、おもいやりの世界からうながされている動物でもあります。
 
「物をできるだけ公平に分かち合い、奪わず、殺さず、差別せず、お互い尊重しあい、助け合って生きられ、生活格差が無い社会なら、原始生活でも結構だ。
 
たとえ、物があふれ、便利になっても、地球環境は汚染され、人間どうし、奪い合い、殺し合い、差別しあって、生活格差がどんどん拡大しているなら、それは、いい社会とは言えない。」
 
仏教とは、そういう生き方、社会のあり方へ導こうとする教えと思えます。
 
阿弥陀仏についても、浄土についても、その実在を信じて、そのはたらきにお任せして安心するというのではなく、その本質である、無我、慈悲、利他、布施といった真実に目覚めることが肝要と思えます。
 
そして、いつも申しますように、そのことによって、真実ならざる、我執、冷酷、利己主義で収奪の自分と社会を慙愧しつつ、優しさや思いやりの自分創り、社会創りにうながされて生きてゆくことが、仏教の示し導く道と思えます。
2012年12月
 
聖典学習会のご案内 20日(木)朝・昼 (本堂裏部屋にて) 朝・9時半〜正午  昼・1時〜2時半  学習聖典・親鸞聖人著「顕浄土真実教行証文類」 住職自修  参加費無用 聖典から人生・社会の諸問題を問うてみましょう。 どうぞ誘って気楽にご参加下さい。 この度は、夜はありません。 昼食を五百円ぐらいの弁当で会食しましょう。 弁当は住職が買いにいきます。
 
前回の学習内容から
 
『光明一切のときにあまねく照らす、ゆえに仏をまた不断光と号す。
聞光力のゆえに心断えずして、みな往生を得しむ、ゆえに頂礼したてまつる。』
 
そもそも、仏法というものは、概して、「真実」というものと逆の「虚仮不実」というものとを明らかにして、私達を導くものと思えます。
そういうことを心得て、この文章を味わって見ます。
まず、分かりよく、読み下してみましょう。
『仏の光明は、すべてのものをいつでも、どこでも照らしておられますから、仏を、断えざる光、すなわち不断光と申し上げます。
この断えざる仏の光という「真実」を聴聞すると、その聴聞した「真実」が、力と働きとなるゆえに、私たちの信心となり、この私達の信心も断えることが無く、仏は、みんな、浄土へ往生を得させられるのです。
それゆえに、仏を尊く礼拝するのです。』
さらにもっと解釈してみましょう。
 
仏とは
 
いつも申しますように、どこかに実在する不思議な実体というようなものではなく、自分中心でない無我、冷酷でない慈悲、利己主義でない利他、奪うことのない布施といった究極の尊きもの、つまり、「真実」というものを人格的に象徴表現されたものです。
そして、この、「無我、慈悲、利他、布施」といった尊いものは、逆の、「我執、冷酷、利己、収奪」といった醜いものを照らし出しますから、光にたとえて光明と表現してあると解釈できます。
そして、仏心は、自分中心で無い心ですから、仏以外の自分中心な、虚仮不実のものみなすべてをいつまでもどこまでも照らされるということで、不断光という表現になっています。
それにひきかえ、私達は、仏のように、いつまでもどこまでも誰をもいつくしむことができません。
家族や親族と、親族以外の人とでは、情に差異があります。
いや、家族、親族の中にも、情の差異があります。
そのように、仏の心は平等でも、私達の心は、不平等差別の心です。
仏の心は、いつまでも変わることはありませんが、私達の心は薄情で長続きしません。
また、仏の心は世界中、どこまでも広くいつくしまれる心ですが、私達の心は、外国の遠い人々のことには関心が薄く、実に狭いことです。
 
聴聞によって与えられる聞光力とは
 
この断えざる仏の光という「真実」を聴聞すると、その聞こえてきた「真実」が、力と働きとなって、私達に「真実」というものを自覚せしめ、逆に、私達の虚仮不実のすがたを恥じる心を開かしめ、この仏の真実が光のように私達の心の闇を照らし、私達の虚仮不実を慙愧せしめ、同時に、そこから、真実の方向に向かって生きてゆこうとする願いを生じさせます。
私達の心は、平生、表面上はいろんな煩悩に振り回されていますが、でもこの聞光力によって、心の中には、このように真実に向かって生きてゆこうとする願いが、生じて、断えることは無く、仏は、みんな、浄土へ往生を得させられるというのです。
 
往生浄土・成仏とは
 
浄土とは、先に仏について述べているように、この浄土も宇宙のどこかに実在するというような実体世界ではなく、自分中心でない無我、冷酷でない慈悲、利己主義でない利他、奪うことのない布施といった究極の尊い世界、つまり、「真実」の境涯を場所的に象徴表現されたものです。
そして、浄土に往き仏となるということですが、これも前述と同じく、この身に起きる実際上の事実ということではなく、真実なる仏が虚仮不実のものを真実に自己同化するという、「真実」の法則なり、作用というものを象徴表現されたものです。
最後に、こういうわけで、仏を尊く礼拝するのです。と親鸞様は記述されました。
 
学習会へのお誘い
 
このように、聖典から、『真実』と『虚仮不実』、仏教のものの見方、生き方を学びます。
そして、私達の現実の具体的な実際上の応用問題に取り組んでゆきたいと思っています。
「顕浄土真実教行証文類」は『浄土真宗聖典』を持っておられない方には、コピーします。
かたぐるしく思われずに、お茶を飲みながら、世間話もしながら、休み休みやりますから、どうぞご心配なく。
仏法と人生と社会を聞き学びましょう。
どうぞ、問題を持ち寄ってください。
 
衆議院議員選挙
 
議員や、政党を選ぶということは、どういう国家社会を選ぶのかということになると思います。
お互い、どういう国家社会を願っているでしょうか?
 
仏教徒の願う国家社会
 
私達仏教徒はどういう国家、社会を願うものかと問うてみます。
仏教の原理は、「縁起」でした。
「縁起」とは、万物が無限の歴史、宇宙の中で、みんな関係しあっているという法則です。
そこから、万物、個々の尊厳と平等を侵さず、慈しみ合い、尊びあい、分かち合って生きてゆこうという考え方、生き方が導かれます。
でも、また、生きるということには、大なり、小なり他者の犠牲ということがありますから、「慙愧」ということも忘れてはならないことも説かれています。
いつも申すことですが、仏教の大事な用語として、無我、慈悲、利他、布施といった用語があります。
ここに立脚しますと、国家というものが、他の諸外国に対して、自己中心性を持つものなら、むしろ、全世界、各国家が、国家の枠を超えて、地球全体、世界全体の、一つの社会となることを願うことも、仏教徒の願う社会ということになるでしょう。
でも、それははるか遠い理想ですから、とりあえずは、各国が、自国の国家主義を自制して、国際的な和平、協調、互恵路線を尊重することを願うのが仏教徒の願う国家社会と思います。
 
仏教徒の願う社会の原理としての仏国浄土
 
前述の、無我、慈悲、利他、布施といった生き方の極限、つまり、人格完成の極限に、仏という用語があります。
そして、仏の崇高な境涯、さらにはその展開された世界として、仏国、浄土という用語があります。
仏国浄土の本質から考えて見ます。
仏国浄土の本質は、我執、煩悩から解放された、前述の無我、慈悲、利他、布施の世界ですから、我執、煩悩の、権力、財力、暴力の国王、国家元首による、特権的、差別的な支配構造はありません。
また、奪うとか殺すとか、刑罰や死刑も、また、暴力装置としての武装戦力も、軍隊もありません。
それゆえ、当然、戦争をするということもありません。
お互い、個性の違うままにも、尊重し合って差別するということなく、施し合い、高まりあって、みんな輝きあっている世界です。
欲望を暴発させて自然環境を汚染させるということもありません。
一人は、みんなのために、みんなは、一人のためにという世界です。
生活格差も無い清浄無垢な世界です。
 
天皇の国家元首化
 
現実の象徴という地位から、さらに元首という地位に権威付けるということですが、天皇制は、歴史上、平等や平和に貢献したのではなく、それに逆行して、差別と戦争と支配という統治に君臨してきたものです。
さらに、皇族とされる人々は、国税で手厚く特権的に保護されながら、しかも、居住、信教、選挙、職業選択、婚姻、思想表現、行動の自由など、制限が加えられて、基本的人権が保障されていない制度であることを考えても、真の民主化のため、皇族は、保護制度から解放されて、自由が保障されることが望ましく思えます。
 
憲法9条の改定他
 
自衛隊を国防軍にし、集団的自衛権を行使して、国際紛争に出撃し、米軍などと共同で戦争することが出来るようにするということです。
現実に、日本の言う、尖閣諸島、竹島、北方領土問題がありますが、いずれも、過去、国の、海外進出、侵略戦争という過誤に関係するもので、そのことの国際的な公平な検証を元に、両国は国家主義の暴走を制御して、冷静に、協調和平の知恵を絞りたいものです。
国は、諸外国との信頼を高め、日米安保という軍事同盟を解消し、諸外国と和平条約を結び、治安は海上保安庁の任とし、自衛隊は軍装を解除して、国内外の災害救援隊へと編成替えがなされたらと思います。
元、日本軍慰安婦の問題も、軍、強制の証拠文書の有無はともかく、過去、実際、軍とは無関係とは言えない事実として、誠実に対処すべきと思います。
故人になられましたが、元、憲兵の森本さんから、「この問題に、軍が関与していないということは無いよ。」と聞かせてもらったことも思い出します。
 
原発問題
 
原発すべて無くしても、十分電力はあるようですから、溜まり続ける、半永久的に無毒化できぬ、猛毒の放射性廃棄物、ウラン採掘労働者から、原発関係労働者の被曝、地球上の放射線量の増加、発癌など健康問題、地震活動期で、突然の大地震、大津波による大事故の懸念を考え、即刻原発を廃止してはどうかと考えます。
目下の電力会社の化石燃料高騰の赤字には、当面、国家として補填し、早急に、再生可能、自然エネルギーなど新しい電力開発に尽力してほしいものと考えます。
 
2012年11月
 
秋法座のご案内 28日(水)夜〜30日(金)日中            報恩講おとき日・・・29日(木)日中 日中9時半・夜7時半始             講師 三和・光永寺・毛利慶典殿                     お誘いあっておいでくださいませ
 
生きるということ
 
老いも若きも、この「生きるということ」について思いわずらうものと思います。
あらためて「生きるということ」について問うてみます。
生きるということを問いますと、まず、生き物とは、さらに、人間とは、何のためにこの地球に現れてきたのか?ということになります。
 
生き物は、神の創造か、自然発生か
 
この世のすべて、宇宙も、地球も、生命も人間も、神様が創造したのだという考え方があります。
キリスト教や、ユダヤ教、イスラム教などが、創造神を語っています。
こういう神による創造という考え方に対して、一般的に科学では、自然発生説をとります。
 
神の創造説は?
 
私には、目下のところ、神による創造説は受け止められていません。
神が私を創造したというのなら、一体神は、何のために私を創造したのかと思います。
神は、直には、何も答えてはくれません。
神は、何も答えてくれませんが、何かある目的のために私を想像したというのなら、私は、神の意思に操られて生きているということになります。
でも、それならそれでも結構と思っています。
神に操られていようと、それとも、悪魔に操られていようと、私の思いでは、私なりに、私の自由な意思で生きているつもりですし、これからも自由に生きて行くつもりですから、一向に構わないと思っています。
 
自然発生説による、生物として生きるということ
 
私は、宇宙も、太陽も地球も、生命も人間も、意志や意図とは無関係な、自然現象として受け止めています。
そして、将来、太陽も、銀河もブラックホールに飲み込まれて宇宙は冷却するといいますから、いずれ、生物は絶滅するでしょうし、それまでは、ともかく、命に仕組まれた、固体と、種族保存の本能に突き動かされて生きるというのが、生物としての生きるということの事実と思います。
 
生物としてだけでなく、人間として生きるということ
 
人間は、大脳が進化発達した猿の仲間です。
大脳の旧皮質は本能をつかさどりますが、進化した大脳の新皮質は、精神の分野、知性、理性、人間性をつかさどるといいます。
ここに、生物としてだけでなく人間として生きるということを考えますと、欲望、本能と共に、精神活動に生きるという事になると思います。
 精神分野の、知性、理性は、物事を判断し、創意工夫する精神活動といえるでしょう。
又、人間性は、優しさ、思いやり、慈しみ、同悲、同苦するといった、共感する精神活動といえるでしょう。
ここに、生物としてだけでなく人間として生きるということは、創意工夫によって、自己や、家族、親族、民族の繁栄を願うことは自然ではあるけれども、その欲望本能を暴走させれば、他者を損ない、怨恨、報復、争奪合戦の泥沼になるゆえに、お互い、人間性を自覚して、我執の暴発に自律のブレーキをかけ、過ちには、慙愧をもってし、互いに尊重し合い、分かち合って、生きようとするということになると思います。
こういう生き方の確立するところ、なおさらに、宗教というものが必要なのであろうかと思います。
いや、こういう生き方を啓発するものとして、他の宗教はいざ知らず、本来仏教というものが説かれたのだと思います。
 
阿弥陀仏とは
 
創造神のような実体ではありません。
阿弥陀仏とは、完全な無我、慈悲、利他、布施といった崇高な精神概念の人格的象徴といえます。
ですから、阿弥陀仏の所在根拠は、人間の精神活動をつかさどる、大脳の新皮質といえます。
 
仏教の教える『生きるということ』
 
不可思議で、超越的な仏の実在を信じて、その仏の救いにおまかせして、安心するというものではないと受け止めます。     仏と表現されたものから、完全な無我、慈悲、利他、布施といった崇高な精神を自覚し、逆の、自己と世界の我執、冷酷、利己、収奪を慙愧し、それゆえにこそ、より真の自己と世界の創造に向かって生きてゆくということになると思います。
 
2012年10月
 
聖典学習会のご案内 22日(月)朝・夜 朝9時半・夜7時半始  学習聖典・親鸞聖人著「顕浄土真実教行証文類」 住職自修  参加費無用 聖典から人生・社会の諸問題を問うてみましょう。 どうぞ誘って気楽にご参加下さい
 
前回の学習内容から
 
 
世尊、もしわれ明らかによく衆生の もろもろの悪心を破壊せば、われ常に 阿鼻地獄にありて、無量劫の内に もろもろの衆生のために苦悩を受けしむとも、 もって苦とせず昔、お釈迦様在世の時、父を殺し、母を殺害未遂の上、部屋に閉じ込めた、アジャセという、悪逆非道といわれた、国王がありました。
彼は、縁あって、お釈迦様のお諭しによって、救われたのでした。
これは、その救われた時の、彼の告白内容です。
解説してみます。
世尊とは、お釈迦様のことです。
 
救われた心の世界
 
「お釈迦様、もし私が、明確に、よく、人々のもろもろの悪い心を壊してあげられて、良い心を生じさせてあげることが出来るなら、私は、いつまでも、一番最悪の地獄に於いて、永遠にもろもろの人々の救いのために苦悩を受けることがあったとしても、決して苦しみとは致しません。」
どうでしょう。
もし、私達が、様々な苦悩から、救われたいと思っているなら、こういう心になれるなら、救われたということになるということでしょうね。
つまり人間の心の変革、生き方の変革こそ救いということです。
 
救いとしての、真実への目覚め
 
実は、こういう心の変革には、その前段がありました。
彼は、両親への罪の後悔で体中に腫れ物が出来、その熱や膿の臭さに誰も近寄れないような状態になり、これは罪の報いによる、生きながらの地獄で、やがて死後は、地獄だと恐れ絶望していました。
そこで、縁あって、お釈迦様に出会うことになります。
そして、お釈迦様は、アジャセに対して、仏様の話をされます。
「仏とは、心のすさんで閉ざされたものの心を開いて真実を願い求める心を起させてやりたいために、この苦悩の世界に留まっておられるのだ」などと説かれます。
アジャセは、この説法を聞いて、仏というお方は、自分のようなものを救わんがためのお方であったかと、深い感動を覚えたはずです。
そして、おしゃかさまは、彼を、月光のような柔らかく暖かい慈悲の心で、包まれます。
アジャセは、そのおしゃか様の慈悲の心にどんなにか、満たされたことでしょう。
 今までは、自分を忌避したり、悪口を言って非難する者ばかりだったでしょうから。
さらに、お釈迦様に帰依していた、医師から、たとえば、親心はどの子にも平等であるが、わけても、非道、不遇な子にこそ重いように、仏の心もそうなのだという諭しなどによって、彼の心は洗われてゆきました。
彼は、生まれてきて、自分のわがまま、欲望のままに、生きることがごく当たり前だったのですね。
ところが、罪責の念と、生き地獄の重病、死後の地獄への恐怖の中で、お釈迦様の諭しにより、仏心の、平等で、深い慈悲というものから、真実というものに目覚め、今まで、気が付かなかった、「真実に生きる」ということに思い至ったのでした。
泥田から蓮の花が咲き出る様な人間変革でした。
 
救いとしての、真実に生きられるということ
 
救いとしての、真実に生きられるということは、自分のわがまま、欲望だけに生きるのではなく、たとえそういう生き方をしてきたとしても、そのことの過ちに深く慙愧できること。
そして、一番大事なことは、自分が慈悲の方向へと導かれるだけでなく、すべての人が、ことに、かつての自分と同じようにすさみきって、慈悲の方向へ生きることが見えなくなっている人に、その破綻した心を浄化させてあげられて、慈悲の方向へと、願い求める人間に自己変革させてあげられるように生きられることだ。
ということだったのですね。
 
学習会へのお誘い
 
このように、聖典から、仏教のものの見方、生き方を学びます。
そして、私達の現実の具体的な実際上の応用問題に取り組んでゆきたいと思っています。
「顕浄土真実教行証文類」は『浄土真宗聖典』を持っておられない方には、コピーします。
かたぐるしく思われずに、お茶を飲みながら、世間話もしながら、休み休みやりますから、どうぞご心配なく。
仏法と人生と社会を聞き学びましょう。
どうぞ、問題を持ち寄ってください。
 
非難された時に出る、正直な凡夫のすがた
 
まあ、いつもえらっそうなことを書いたり言ったりしていますが、前述でも、「慈悲に向かう生き方」などと書いていますが、どうしてどうして、とてもとても、「分かっちゃいるけど・・・・・」で、表向きは、カッコウつけますが、私自身、根は我執が強く、薄情な人間だと思っています。
それが証拠に、いつも、身近な、連れ合いや、娘からなじられっぱなしですから。
そんなこと、自分で言わなくても、とっくに見抜いていますよと皆さんから、言われそうです。
まあね、そりゃあ、家族や親族や、皆さんから、心から信頼されれば言うことありませんが、しかし、何ぼ、ええかっこしても、それは、自分を飾る煩悩ですね。
今まで、かなり、いや、今も、どこかで取り繕っていますが、しょせん凡夫なら、もうええカッコウせずに、ありべのままをさらしたいものだと思い始めています。
しかも、それも、自然体で。
気づくのが遅いかもしれません・・・。
大体お坊さんというものは、とか、寺の子というものはとか、どこかで、子どもの時から、衣を着せられているように思います。
そのために、外面を取り繕うことにがんじがらめになっているのかもしれません。
それはともかく、自分の凡夫さかげんが現れるのは、他人から、自分のことを非難されたり、批判された時ですね。
私は、小心者で、そして、結構、がんこで、手前勝手なプライドがあるものですから、そのとき「キッ」となります。
実に、凡夫が正直に出るところです。
そして、困ったことに、その「キッ」となった硬い心が中々柔らぎません。
それが自分の情けないことのひとつです。
一端、相手に腹を立て、憎しみの情が沸き起こったとしても、「待てまて、お互い凡夫、どちらにも言い分があるし、良し悪しがある」と、中々慈しみの心というわけにはいかなくとも、せめて柔らかい心に成れたらいいのだがといつも思います。
歯向かう、ダイバに対するお釈迦さん、殺害しょうとする、山伏、弁円に相対された親鸞さんを思います。
ともかく、一生かけてでも、取り繕うことなく、自然体のままに、心身に煩悩の相が出るなら出るままで、なお、柔らかく、人に相対することが出来るようでありたいものだがなーと思います。
 
8月5・6日、広島・反戦・反原発集会、デモに参加
 
 5日夜は、東大・大学院教授、高橋哲哉さんの講演を聞きました。
他の講演でも語っておられましたが、「痛みへの連帯」ということが心に残っています。
哲学者として、この現代の人間社会の諸問題を解いてゆく鍵は何かという時、この「痛みへの連帯」ということだと感じました。
この「痛みへの連帯」ということは、仏教の言葉で言えば、「慈悲」という言葉に通じると思いました。
仏教でも、人間社会の様々な問題を解いてゆく鍵は、「慈悲」ということにつづまると思えます。
福島の原発被曝者の人々の痛み、沖縄の人々の米軍基地を押し付けられた痛み、かつての戦争で侵略された、朝鮮、中国他アジアの被害者の人々の痛み、非正規雇用や、首切りで貧困、さらには、家庭崩壊、自死ということに追い込まれた人々の痛みなど、
その痛みへの共有は出来なくとも、ひとごとに出来ないで、せめて連帯して、その問題を共に解決してゆこうとする思い、生き方ということを、「あーそうだなー」と共感した次第です。
6日は平和公園原爆ドーム前から、中国電力本社前までデモ行進と抗議アピールに参加しました。
一人の市民としてだけでなく、仏教徒、そして、僧侶としての訴えを世に表明する意味で、袈裟衣と、「南無阿弥陀仏」の旗を掲げて参加しました。
今、首相官邸周辺でも、毎週金曜夜、万単位の反原発デモが起きています。
これは、今の、弱肉強食、競争原理、経済効率最優先で、命、自然、人権などが侵害されて、思いやりやあたたかさが喪失されていることに、「人間らしい生活、人間らしい社会、人間らしい文化を取り戻そう」という訴えと思いました。
 
8月19日、松山・伊方原発再稼動反対集会デモ参加
 
増え続ける、半永久的な猛毒の放射性廃棄物、原発ある限り、ウラン採掘の始めから、廃炉まで、被曝労働者、被曝立地など、人権侵害、命への冒涜の、原発の非道性を思い、安芸太田から、3人参加しました。
集会では、私もアピールしました。
私は、持論ですが、
「物を公平に分かち合い、殺さず、奪わず、差別せず、思いやりや優しさを大事に、お互い尊重しあって、生活格差無く生きられるなら、原始生活でも結構だ、便利に、豊かになるのも結構だが、戦争や、略奪や差別が無い事と平行でなければならない」と
訴えようとしていましたが、今年は、水平社創立90周年の大会があったと気づき、
『原発は差別です。水平社創立の綱領「吾等は人間性の原理に覚醒し、人類最高の完成に向かって突進す」との運動の一環として、私はこの原発反対運動に参加しています。』
と訴えたことでした。
 
 
2012年9月
 
秋彼岸法座のご案内 23日(日)日中〜24日(月)夜、 日中 9時半・夜、7時半始 『仏法と人生と社会』   住職自修 ご一緒に学びましょう
 
去る、太田部大会に、信楽先生をむかえて
 
待ちに待った大会でした。
およそ、40年ばかり、私がこの太田部大会に参加するようになって以来、私は、づーっと、この信楽先生を講師候補に挙げ続けていました。
ところが、多くの僧侶の方々は、この信楽先生を敬遠されているようでした。
それは今も、本願寺教団全体にあるように思います。
そのわけは、信楽先生は、若い時から、本願寺の伝統教学を、親鸞の教学とは違うといって、批判され続けておられる学者だからです。
私は、若い時から、この信楽先生らが起された、「教団改革」という組織に加わって、この信楽先生の教学から、ずいぶん、示唆を受けてきました。
そのわけは、私は若い時から、伝統の、いわゆる、「阿弥陀様にお任せして、安心する」といった、信仰に、づーっと、違和感を覚えていたからです。
そして、信楽先生から、「お任せして安心する信仰」ではなく、「目覚めて、社会的にも実践的に生き、脱皮、成長し続ける信心」ということを学び、私は、「あー、これでなければ」と思った次第でした。
そうして、やっと、信楽先生に来てもらうことになったのでした。
 
信楽先生の講話、阿弥陀如来について
 
阿弥陀さんは、どこかにおられるとする、特別な仏ではなく、これは、実は、お釈迦様なのですよということをまず申されました。
もう、ここに、すでに、阿弥陀様を特別な力を持った不可思議な仏様がおられることを、自分では分からなくても、信仰して、その力にお任せして、安心するというような信仰ではありませんよということを示唆されています。
また、お釈迦様の無我や慈悲の教え、覚りとは、永遠の真理であり、どこでも通用する真理であるということから、これを、無量寿、無量光の阿弥陀様と象徴的に表現されたのだと説かれました。
つまり、阿弥陀様のことを学ぶことによって、阿弥陀様と象徴的に表現された、お釈迦様の無我や慈悲の教え、覚りの内容に目覚めることが大事なんですよということを示唆されました。
 
一般の、信用と、信頼と信仰とは違う、信心
 
親鸞の信心とは、一般に言う信用、信頼、信仰とは全く違うということを明確に申されました。
他人や、神仏を、信じるといっても、たいてい、本当には、自分では、神仏の実在にしても、本当かどうかは、厳密には、分からないけれど、でも、昔から偉い人たちが説いてきたのだから、それを信用、信頼して、「神仏はいることにしょう」と「賭け事」のように信じる、ということになっていると説かれました。
つまり、神仏がいるかいないか、本当には、分からんが、いるということに賭けようというようなことです。
一般には、たしかに、本当には分からないからこそ、だからこそ、信じるというのですね。
分かっているのなら、信じるとは言いません。
唐辛子を食べて辛いと分かった人は、「私は、唐辛子を辛いと信じている」などとは言いません。
「唐辛子を食べたら、辛かった」が実感です。
実は、親鸞の「信心」とは、そのように、阿弥陀さんのことを学んだら、本当に、体験として、実感として、「あー、無我、大慈悲心のまさしく、真実なることよ、それに引き換え、私や、この世は、我執、煩悩、偽善、薄情だらけ、恥ずかしいことよと、確かに分かるということだと説かれました。
これは、明確にしなければいけませんが、たとえ、お経に書いてあり、お釈迦様や、親鸞様が説かれているからといって、その、お釈迦様や、お経や、親鸞様の権威を、信用、信頼して、阿弥陀様が実在することを信じ、信仰するということでは、全くありません。
「信心」とは、自分のまぎれもない実感の体験として、真実に目覚めた喜びと慙愧から、心が澄んできれいになるということだと、仏教の本質から、親鸞さんの信心を説明されました。
 
本願寺には、親鸞はいない
 
これも明確な論調でした。
親鸞さんの死後、曾孫の覚如、その子の存覚、そして、後の蓮如、そして、徳川時代、明治、そして、現在、本願寺の教学は、親鸞の教学ではなく、親鸞とは違う、今の浄土宗の西山流の教学になっている。
だから、本願寺の教学の中には、親鸞の教学は無いと説かれました。
 
親鸞の曾孫、覚如の親鸞から外れた信仰
 
浄土宗、西山流の影響で、阿弥陀仏を実体化し、それにお任せして安心するという信仰理解になり、そういう信仰に入るには、善智識として、生き仏としての親鸞の血を引く、門主によらねばならないという門主の権威化をはかり、念仏の生き方は、親に孝行、君に忠といった、封建社会に従順な儒教で行けと説きます。
つまり、あの世は、仏に任せ、この世は、封建制度によるといったようなことで、全く、世間を虚仮不実と悲歎し、同朋社会を願い続けた親鸞とは、全く異質でした。
 
覚如の子、存覚の親鸞から外れた信仰
 
同じように、阿弥陀仏を実体化し、それにお任せして安心するという信仰理解で、当時、経済対策として、死者追善思想を説き、日本の神を受容して、世俗化し、心の中だけ、仏法、生き方は、時の政治支配に従順といったものでした。
 仏に帰依せば、ついに、またその余のもろもろの天神に帰依せざれと、生きた、親鸞から外れてしまっているのです。
 
覚如没、42年後、生まれの蓮如の親鸞から外れた信仰
 
覚如、存覚と同じく、阿弥陀仏を実体化し、それにお任せして安心するという信仰理解でした。
非常に、権威主義で、自分の門主としての権威で、人によっては、往生を許さないとか、また、信心なくとも、往生を引き受けてあげるとかいったことを行ったようです。
同じように、仏法は、心の中だけにとどめ、生き方を仏法に基かず、世間どうりに、封建権力を仰いで、額に頂き、権力支配に従順に生きることを説きました。
 
江戸時代の教学の、親鸞から外れた信仰
 
同じく、覚如、存覚、蓮如教学を踏まえ、阿弥陀仏を実体化し、それにお任せして安心するという信仰理解で徳川幕藩支配を支えました。
ことに、門主の権威による、教学の統制をしました。
覚如、存覚、蓮如批判の学者は排斥されました。
 
明治時代の、親鸞から外れた信仰
 
明治4年の明如の通達に、「現生には、皇国の忠良となり、罔局の朝恩に酬い、来世には、西方の往生を遂げ云々」と、この世は、天皇に従い、あの世は、阿弥陀に従うといった、従来どおりの信仰を説いていました。
そして、戦争と一体化したのです。
 
アジア太平洋戦争時代の親鸞から外れた信仰
 
「日本の戦争は、それが天皇陛下の御名によって進められるのであるから正しい。
すなわち聖戦である。」との本山の学者、梅原真隆の表明
「神が人類を浄化せらるるみそぎはらいの活動である。」との、大谷派、学者、暁烏 敏の表明
「国難を救うものは三宝なり。
祖訓の本領ひとえに奉公に帰す。
今ぞ、その念仏を捧げて、皇国を護持すべきなり。」との本願寺派の戦時中のスローガン
 
神道イデオロギーへの妥協という、親鸞から外れた信仰
 
「国家のために死んだ人なら神となるのだ。
神になるなら仏にもなれる。
弥陀の本願と天皇の本願は一致している。」との大谷派学者、曽我量深の表明
 「されば神ながらの道とは、これをもって概括的に定義するならば、天壌無窮と天皇中心ということをその形式となし、天皇を現人神と仰ぎ、これに絶対随順し、何事につけ大御稜威と仰ぐ自然法爾性をその性格とする。」との本願寺学者、普賢大円の表明
 
天皇権威への拝跪という、親鸞から外れた信仰
 
「今上陛下の御真影の御前にお念仏を称えてまいることができるのであります。
そして生仏としての天皇陛下を仰がせてもらうことが出来るのであります。」との大谷派学者、暁烏 敏の表明
「真宗では根本弥陀の願意よりして、人の世に処し国民として生活をなすに於ては、王法をもって本とし、勅命に絶対随順したてまつれと教えているのである。
したがって反対に叛逆罪を犯すものは、弥陀もこれを救わないと除却してある。」との本願寺学者、佐々木憲徳の表明
 
現代における真宗教学の親鸞から外れた信仰
 
「真諦は衆生が阿弥陀仏を信仰して浄土に往生するという(中略)衆生と仏との関係、(中略)
これに対して俗諦とは、人間生活における人倫五常の道徳を教えるものであるから、これは世間法といわねばならぬ。
連師(蓮如)の王法為本、仁義為先といわれるのがそれである。
以上のように真俗二諦には、それぞれの立場があるが、この二諦は互いに相資相依、両輪両翼の関係であることを忘れてはならない。」との、1984年(昭和59年)の本願寺での教学研鑽(安居)での判決文
 
親鸞の教えたもの
 
阿弥陀仏や、浄土と象徴表現された、無我、慈悲の実質に目覚めるが故の、虚仮の世俗をいとうしるし、浄土の真実を願うしるしとしての、終生、脱皮成長し続けられる、仏道としての念仏道
 
 
 
 
2012年8月
 
盆会法座のご案内 16日(木)夜〜18日(土)日中 初盆物故者・全戦没者追弔法要・・18日々中 日中 9時半・夜、7時半時始 『仏法と人生と社会』  住職自修 本郷親和会共催
 
『盆』の現代的意味づけ
 
『盆』という言葉は、インドの『ウランバナ』という言葉から来ています。
ですから、『盆』を盂蘭盆とも言います。
 この『ウランバナ』という言葉の意味は、逆さ吊りの苦しみという意味です。
これは、亡くなった人の魂が、生前中の罪ゆえか、中空に逆さにつり下げられたような苦しい状況にいると考えられていたことから来るようです。
昔は、そんなことを本気で信じていたのでしょう。
だから、死者の苦しい魂を救ってやるために、供養するという『盆』の行事が始まったのでしょう。
今の時代、そんなことを本気で信じる人は少ないと思います。
今は、『盆』つまり、この『逆さづりの苦しみからの救い』ということの現代的な意味を考えなければと思います。
要は、道理にそむいたさかさまごとは、自分も、他人も、みんな苦しむことになるということですね。
ですから、この、道理にそむいた苦しみから、救われるためには、この道理にそむいていることを、あー、道理にそむいていることよと慙愧し、そして、道理にしたがって生きてゆこうとすることであるということになります。
 
道理にそむいた苦しみ
 
私には、苦しみというほどのことではありませんが、さえない思いというのはあります。
それは、連れ合い、子どもから、確かな信頼を受けていることには、程遠いと感じていることです。
それは、よく、連れ合いや、子どもから、『もう、お父さんとは話したくない』とか
『答えをもらおうとは思っていないの、ただ気持ちを聞いてもらいたかったの』とか
『それは、上から目線』とか
『そこに、無我、慈悲、利他、布施がありますか』などと言われることが多いことにも現れています。
私自身、言われるたびに、すこしは、反省するのですが、また、元に戻ります。
まことに、恥ずかしいことです。
私は、この『無我』『慈悲』『利他』『布施』といった道理を、口や文章でしょっちゅう、解いていますが、実生活のところ、私自身、身近な、家族に対しても、この道理が身についておらず、この道理に背いているという、さかさまごとなのです。
まことに、『無我』ではなく、わがままであり、『慈悲』ではなく、冷たさであり、『利他』ではなく、自分中心であり、『布施』ではなく、押し付けという、さかさまごとになっているのでした。
わたしの、優しさや、思いやりのなさ、といったさかさまごとのなせるものです。
それが、家族にいやな思いをさせ、私もさえない思いにさせているのです。
 
家事をめぐる、さかさまごと
 
我が家では、ほとんど、水道を使わずに、井戸水を使っています。
それも私の、独断と押し付けです。
井戸水は、水道料金が要らないからです。
井戸水は、冬は、暖かいからいいのですが、でも、坊守は、寒中には、冷たい水を飲みたいから、水道にしてほしいといいます。
でも私は、それを聞き入れません。
それも、水道と井戸水の切り替え箇所が、境内の端にあり、切り替えが、面倒だからです。
そして、今、夏には、井戸水は、手が痛いほどつめたいのです。
坊守は、その冷たさに、手が神経痛になります。
それで、坊守は、水道にしてほしいと言い続けてきました。
すべて、坊守が洗いをしていたわけではありませんし、
家族3人、それぞれにやれるものがやるようにしていました。
私も手が冷たいのですが、神経痛になることはありませんから、私はがんこに、水道にしませんでした。
とうとう今年の夏は、坊守の要望と、私のがんこさとを妥協させて、私が、食事のカタズケの洗いを引き受けることにしました。
私の我の押し付けという、さかさまごとで、井戸水にしている関係上、その罪と罰で、洗いは、私の役目となったわけです。
でも、坊守は調理で、井戸水の冷たさに困っていると言っています・・・・・・。
オスプレイへの抗議
 
オスプレイの岩国上陸に抗議に行きました。
オスプレイは、世界で一番事故の多い、危険な米軍機といわれています。
これが、世界一危険な沖縄の普天間飛行場に配備され、ようとし、一時的に岩国に、陸揚げされたのです。
このオスプレイの訓練が、日本の各地、この山県地域にも展開される心配があります。
それで、山口、広島の県知事も反対しています。
しかし、国は、アメリカに弱く、沖縄はじめ、反対の声を振り切って、住民の危険をさておいて、オスプレイ配備を認めようとしています。
アメリカ政権は、オスプレイを創る軍事産業との一体で、なんとしても配備しょうとしています。
北朝鮮、中国への戦略とも言われます。
国際紛争での、戦争、武力行使、軍隊保持、増強というのは、世界の常識ではあるのでしょう。
しかし、それを悲しいと思い、殺し合わない、平和を願うのも、人間性の常識といえるでしょう。
いかに、遠い理想でも、それを願い続けたいがゆえに、あらゆる、軍備に抗議の意思表示をするのが仏教徒と思い、僧衣をまとい、南無阿弥陀仏の旗を掲げて参加しました。
オスプレイは、『未亡人製造機』と揶揄されるように、飛行士の事故死が高いといいますのに・・・・。
 
政府のエネルギー意見聴取、広島会場で、意見表明
 
政府は将来、2030年に、原発を今の総電力の26%から、どう縮小するかということで、全国11箇所で国民から、意見を聴取しています。
それには、3案が示されました。
一つは、原発、0にするというものです。
二つは、15%にするというものです。
三つは、20〜25%にするというものです。
私は、どうせ、政府は、原発0にする気はなく、国の国民向けの原発見直しのポーズだと思っています。
私は、もちろん0案でしたが、その他の意見もよしというので、その他の意見で応募しますと、まぐれで当たりました。
私の意見は、京都大学、原子炉実験所の、小出裕章さんの受け売りで、2030年を待たず、即刻、全原発停止しても十分、電力は余っているとの主張でした。
さらに、考え方として、最強の武力や、経済制覇をめざす、欲望至上の価値観ではなく、物を公平に分かち、殺さず、奪わず、差別せず、格差無き相互尊重の人間らしい社会をめざすことを述べました。
そして、予測される大地震や、老朽原発の劣化による、原発大災害の危険、ウラン採掘地での原住民や、原発下請け労働者の被曝、危険なものは僻地へという、原発立地への差別、溜まり続ける、猛毒の廃棄物の100万年からの管理など、原発の問題を訴えました。
当日、仏教徒としての表明として、あえて、僧衣を着用しました。
 


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