通信NO,2
 
2008年11月
秋法座のご案内   13日(木)夜〜15日(土)日中             報恩講おとき日・・・14日(金)日中        日中9時半・夜7時半始 講師 福山市・光明寺・吉岡隆義殿
 
今、世界中、株が大暴落で、経済・経営の危機的状況のようです。
今後、暮らしも、倒産・失業といったことで、更に生活不安、社会不安で、残念ながら、自殺・犯罪なども増えるかもしれません。
親鸞聖人は、このような時代、どう語られるかを聞き開いてゆくのが報恩講の大事な意味と思います。
親鸞聖人の思いを勝手に想像してみます。
『私の生きた時代も、人が殺し殺され、だましだまされ、奪い、奪われ、争いと怨みのあふれた、真実というものの見えない世の中でした。
そして、この真実というものの見えない世の中で、この私にとって、真実とは、すべてを平等にいつくしまれ、すべてを真実「仏」になさしめんとされる、阿弥陀仏の無我・慈悲・利他・布施の心であり、その願いの本願であり、その働きかけの南無阿弥陀仏であり、平等と慈悲の、戦争も差別もない世界と表されたお浄土でした。
この苦悩の世界の真只中で、このわたしも、みんなも救われるということは、結局、この阿弥陀様やお浄土と表されたものから、真実というものにめざめ、そして、逆に、真実とはいえない、自己や、この世を慙愧し、そこから、それゆえにこそ、終生、どんなことがあっても、より、真実なる方向に向かう、自分と世の中を願い続けて生きてゆこうとする、確かな道が、開け、そして歩めて行くことでした。』と
 
ドゥホボール教徒の話2  (私の感動記録)
 
ドゥホボール教徒とは、ロシアのコーカサスの山奥に発生した土俗宗教で、多い時でも信徒2、3万を超えぬ小さな信仰集団だそうです。
聖書の中の
『汝、殺すなかれ』
『汝の隣人を愛せよ』
『悪「暴力」に抵抗するに悪「暴力」をもってすることなかれ』
『貯えるな、恵まれない人に施せ』
等を中心信条としています。
更に、彼らの何より重んずるのは霊「精神」で、教会、儀式、僧侶だのといった外形的なものには一切価値を置きません。
聖像も拝まなければ礼拝にも連ならないのです。
そういう、ひたすらに平和と無抵抗主義を実行する無智で純朴な山男の集団とあります。
ロシア政府は1888年から、このドゥホボール教徒に徴兵の義務を課しました。
ただ、彼らの、暴力全面否定という宗教信条を考慮し、
殺し合いの戦場には出さないが、ただ練兵して、軍務を覚えこめばよいという約束でした。
又、祭日の一切の宗教的儀式に出席は免除され、後の行進の時だけ参加しなければならないことになっていました。
ところが、行進の時間になっても、彼らは出てきません。
班長は『何をぐずぐずしとるか、早く出ろ』と怒鳴りつけました。
ところが、彼らは、『この軍隊というところは、どうも、日ごろ聞いていたキリストの教えに、背くように思えだしたので、今日限りで兵隊は辞めることに決めましたから、行進には加わりません』と宣言します。
班長は、『つけあがりゃあがって』などと叱り、脅し、ののしりました。
ドゥホボール教徒の一人は、それを黙って聞いて、銃を班長に返上しました。  『来月に続きます』
 
2008年10月 
聖典学習会のご案内                                21日(火)日中・夜 日中9時半・夜7時半始 学習聖典・「浄土三部経」 住職自修 参加費無用 どうぞ誘って来て下さい
 
10月1日、大阪の雑居ビルの火事で15人が亡くなりました。
犯人は、生活に困窮し、『生きていくのがいやになった、他の人が死ぬのはわかっていた。』などと言っていたといいます。
犯人の心の闇、そして、彼を取り巻く社会の闇ということを思います。
どんなに、最低、最悪の状況になっても、なお絶望せず、前向きに生きてゆけるという道が、彼に開けていなかったということでしょうか・・・・・・。
そして、彼を取り巻く社会の誰からも、あたたかいものがそそがれなかったということでしょうか・・・・。
この私も問われています。
さて聖典学習会の案内です。
聖典とはお経のことです。
お経には、仏教の説く「道」が説かれています。
人生や社会を導く「道」ですね。
ですから、このお経を学びながら、真実とはどういうものか?真実に生きるとはどういうことか?といったことを学びます。
人生最高の目的とは何かとか、生きる意味とは何かとか、本当の生きがいとは何かといった問題も学んでいます。
又、老、病、死や、別れ、憎しみ、欲望など様々な人生問題の解決についても学んでいます。
又、真実のあるべき社会とは何か?そんな、社会問題もお経の様々な表現から、考え学び続けています。
もちろん、およそ二千年ぐらい昔のものですから、表現に今の時代にそぐわないものもあります。
でもその中から、現代に生きる私たちの人生、社会問題の答えを考え学び続けています。
今学んでいる、浄土三部経を書いた人は不明です。
私が学んだところでは、およそお釈迦様が亡くなって500年ぐらい後に、どなたか匿名の人が、実際にはお釈迦様が口では説かれなかったけれども、お釈迦様の教えの本質を、お釈迦様の説かれたこととして創作されたもののようです。
ですから、阿弥陀様や、お浄土にしてもお釈迦様は実際には口では説かれなかったけれども、お釈迦様が亡くなって、500年後の匿名の作者が、当時の人々の悩みや、問題や、救いといったものに答えるものとして、お釈迦様の教えの本質の、無我、慈悲、利他、布施といったものがらを象徴的に、阿弥陀様とかお浄土といった内容で表現し、人々を救い、導こうとしたものと考えられます。
ですから、阿弥陀様やお浄土を実在するものとして、信じておまかせするということより、阿弥陀様やお浄土と象徴的に表現されたものから、仏教の教えの本質の無我、慈悲、利他、布施といったものがらを受け止めることが大事なことと考えられます。
そこから、他者を排し、自分・自国・自民族・自社・自組織中心が元凶となる、人間問題や、戦争や、差別・人権・環境破壊といった様々な国家・社会問題に気付き、その反省から、よりよい自分創り、社会創りに向かって歩んでゆく道が示されてあることを感じます。
ですから、阿弥陀様という表現で、真実が人格的に表現してあるんだな、又、同じように、お浄土という表現で、真実が場所的・環境的・社会的に表現してあるんだなと受け止められます。
ここで、真実というものを考えて見ましょう。
真実というものとは、やさしいもの、あたたかいもの思いやりのあるもの、平等なもの、といったようなものではないでしょうか。
こういう真実への願いを、誰しもいのちの底で願わない人は無いと思います。
又、この真実なるものは、自己中心な私たちを低いと見れば、高いものといえますし、自我の狭い私たちからいえば、広いものといえますし、真実でないものを真実へと浄化させようとするものともいえますから、誰しも真実から願われているとも言えると思います。
ここを象徴的に、阿弥陀様や、お浄土から呼ばれ、願われているとか、照らされているとか、導かれていると表現されていると解釈できます。
又、真実というものは、まことの無い不完全なものを排除せず、包むものといえますから、そこのところを、私たちは、阿弥陀様に抱かれているとか、お浄土の光に包まれていると象徴的に表現されているとうけとめることが出来ます。
このようなことを感じ、考えさせられる学びを続けています。
どうぞご一緒に学んでみましょう。 
前回には、仏の教えが行き渡る社会ということを考えさせられるところがありました。
以下は経典から読み取れたものです。
「仏が教えを説いて歩まれるところ、その教えに導かれないものは無い。
そのために、世の中が平和に治まり、自然環境も人間の煩悩のために汚染され異常気象ということは無い。
失政が原因の人災も、病気も無い。
国は豊かで、民衆は平穏で、戦争することは無い。
人々は何より、人徳を高めることを尊び、思いやりの心を持ち、礼儀を重んじ、お互い譲り合うのである。」などと読み取れるように表現してあります。
まことに、経典は暗号解読のような面白みがあります。
お経は、本願寺の出した、【現代語版】浄土三部経を使います。
皆さんの中には、すでに持っておられる方もあるはずです。
これは、わかりやすく現代風に訳されたものです。それをもとに、ご一緒に学んでみたいと思います。
お経を持っておられない方には、1260円でお分けします。     
ですが別にお経はなくてもかまいません。
聞くだけでも学びになりますから。
どうぞ気軽に誘い合ってきてみてください。
 
ドゥホボール教徒の話
 
 こんな純朴なキリスト教徒があるのかと感動しました。
仏教徒でもこれほど徹底した人々はいないのではないかと深く啓発されました。
それがこのドゥホボール教徒です。
山口での念仏者9条の会で、招かれた講師、阿満利麿さんの講話の中にこのドゥホボール教徒のことが紹介されました。
早速、木村毅著「ドゥホボール教徒の話」を買いました。
 それをもとに紹介します。
ドゥホボール教徒とは、ロシアのコーカサスの山奥に発生した土俗宗教で、多いときでも信徒2、3万を超えぬ小さな信仰集団だそうです。
聖書の中の
『汝、殺すなかれ』
『汝の隣人を愛せよ』
『悪「暴力」に抵抗するに悪「暴力」をもってすることなかれ』
を中心信条としています。
更に、彼らの何より重んずるのは霊「精神」で、教会、儀式、僧侶だのといった外形的なものには一切価値を置きません。
聖像も拝まなければ礼拝にも連ならないのです。
そういう、ひたすらに平和と無抵抗主義を実行する無智で純朴な山男の集団とあります。
私は、果たして彼らは無智といえるのかと思います。
私は、その純朴さに憧れます。
今のところ、報正寺も解散し、僧侶もやめ、本願寺からも離脱しそうにはありませんが、でも、今の現状のままにも、本願寺より、報正寺より、僧侶より、葬式法事より何より
この、『汝、殺すなかれ』『汝の隣人を愛せよ』
『悪「暴力」に抵抗するに悪「暴力」をもってすることなかれ』の精神、仏教的には、無我・慈悲・利他・布施といった精神を大事にしたいと思っています。
この精神は忘れたくないと思っています。
ドゥホボール教徒は、今までは何の気もなく服役していた徴兵を、人殺しの団体的訓練であることに、日清戦争の前後、ふと気がついて、急に銃剣を返納し、練兵を拒みだし、どうすかしても応じませんでした。
軍隊以外でもみんなそれに応じて、家にある鉄砲はもちろん鎌や農具まで、使いようによっては殺人道具になるといって、集めて焼き捨てました。 政府や国家組織も暴力だといって納税しなくなりました。
これが広がると国家は成り立たないと心配した政府は、あらゆる迫害、ついには大虐殺で絶滅させようと残虐な手段を用いましたが、信念は強固で、暴虐に耐え、殉教に徹底しました。
有名な作家、トルストイがこれを知りました。
ロシア政府の非人道を世界に訴えると、政府はドゥホボール教徒の国外追放を宣言しました。
幸い、カナダが引き受けてくれることになりましたが、大集団の渡航費、移住後の住まいの建築費、農地の購入費もありません。
トルストイの一声で、西欧のキリスト教諸団体が続々と金品を送ってきましたがまだ足りませんでした。
トルストイは最後の切り札を思いつきました。
小説を書くことです。
実は、彼は、これまで10年以上小説の著作をなぜか『悪』だと思い小説を書いていませんでした。
愛の実践とはならない、著作業を『悪』だと思ったのでしょうか。
その彼が、昔、書きさしのまま捨て置いた残稿を書き次いで完成させたのが、有名な『復活』でした。
この本の印税によって、2万あまりのドゥホボール教徒がカナダに移住できたのです。
『復活』を英訳した人もその印税をカナダのドゥホボール教徒に送りました。
ところがドゥホボール教徒は、『せっかくの好意はありがたいが、実はトルストイさんの恩恵も受けたくなかったのだ。 『復活』は趣旨は結構としても、読者は、本の中の、カチューシャ誘惑のところに興味をひかれて読むものが多いだろう。 今は移住もすんでひと落ち着きしたのだから。』 といってその翻訳印税を英訳者にそっくり送り返してきたというのです。
ドゥホボール教徒は、なんと、『貯えるな、恵まれない人に施せ』という精神でしたから。
 
2008年9月
 
秋彼岸法座のご案内  25日(木)日中・夜・26日(金)日中・夜     日中 9時半・夜、7時半始   前席、講話・後席、話し合い        『仏法と人生と社会』  住職自修   
 
絶望的な中、それでも・・・
 
大変、悲惨な火事がありました。
8月30日、兵庫県明石市の住宅火災で、小学3年の長男と5歳の次男と3歳の3男の3人の子がみんな焼け死にました。
一人は窓から上半身を乗り出すような姿勢で、残る二人は床に倒れたままでした。
家が燃えている最中、『助けて、開けられへん』と幼い兄弟は窓をたたいて悲鳴を上げていたといいます。
母親が駆けつけたときには子供の声も聞こえなくなっていました。
母親は黒煙に包まれた家に入ろうとしますが、警官らが押しとどめました。
母親は燃える家の前で泣き叫んでいたといいます。
母と子供3人の4人暮らしでした。
近所の主婦は、母親が自転車の前と後ろに二人の小さい子供を乗せ、保育園に送り迎えをしている様子をよく見かけたといいます。
長男が自転車でついて行っていたといいます。
焼死した、3人の子供たちの酷さ、不憫さ。
さらに、かわいい3人の子をいっぺんに焼死させ、家まで全焼させた、残された母の衝撃はいかばかりかと想像を絶します。
茫然自失がいつまで続くのでしょう。
自分を責めるつらい苦しさもあるでしょう。
わが子がどんなにか熱かっただろう、苦しかっただろうと、身がよじれるような思いではないだろうかとも思います。
どうして、どうして、なぜ自分だけがとか、何かのバチじゃあないか?タタリじゃあないか?とか、夜も眠られず、何も食べる気もしないかもしれません。
もし私がそんな目に遭ったらどうだろうと思います。
皆さんなら、どうでしょう?
希望をなくし、あとを追いたくなる人もあるでしょうね。
いやー、今まで、人類の歴史の中で、戦争や、災害、犯罪でこのような、いやもっとひどい目に遭われた人は、数知れないことを思います。
中には心身のバランスを崩して病気になった人もあったでしょう。
自殺をした人もあったでしょう。
自暴自棄になって、生活を破綻させてしまった人もあったでしょう。
でも何とか立ち直って、こころの傷を引きずりながらも、なお、前向きに生きて行けた人もあったことでしょう。
人それぞれとはいえ、出来ることなら、どんなに過酷な状況でも、なお、前向きに生きて行きたいと私も思うし、みんなそうであって欲しいと思います。
この明石のお母さんも、いつの日にか、これが自分の人生のめぐり合わせだったのだと、しっかり背負い込んで、自分なりになお、前向きに生きていって欲しいと思います。
何が前向きに生きさせてくれるでしょうか?
これもまた、人それぞれでしょう。
『あなたは人生に絶望しても、人生(いのち)はあなたに絶望していない』
という言葉はいい言葉だと思いますがいかがでしょう?
私の思いは、思いとして、絶望することはあっても、私のいのちは、いのちとしては決して絶望することなく、一呼吸、一呼吸、心臓の鼓動一打ち、一打ち、最後の最後まで「生きよ、生きよ」とうながし続けているように思います。
脈をさわっても、心臓に手を当ててみても・・・。
同じように、表層の思いは絶望感にからめとられていても、いのちの深い底には、『最後の最後まで、真実を求めよ、真実に生きよ』とうながし続けているように思うのですがいかがでしょう?
どんなに、極悪非道な人といっても、誰しも心の深い底には、『ましな人間になりたい、本当の人間になりたい』というような『真実』への願いを絶対秘めていると思います。
だから、『鬼の目にも涙』という言葉があるように、いかに極悪非道といわれる人でも、他人の『優しさ』にふれれば、心が『ほろり』とするものなんですね。
この明石のお母さんのように、これから私も誰しも、どんなに絶望的な状況に落ち込むことがあるとしても、でもその真っ只中で、最後の最後まで、いのちのうながし、真実のうながしにうなずいて生き続けたいものと思います。
いつも私は、仏様というのは、この『真実なるもの』の象徴表現と解釈しています。
ですから、みほとけは、いつでも、どこでも、どんなに絶望的な状況でも、凡愚で、虚仮不実、偽善の私を、導き照らし、続けていてくださっていると表現されていると受け止めます。        
 
チベット情勢についての声明
 
  この度、中国チベット自治区ラサにおいて、僧侶や市民による政府に向けての抗議行動に対して、武装警察隊が出動し、鎮圧にあたり、多数の死傷者を出しているとの報道に接しました。
現在、さらに混乱は広がりを見せているとの報道もあり、私たち浄土真宗本願寺派は、いよいよ事態が悪化していくのではないかと深く憂慮しています。
  チベット仏教の聖地とされるラサ市におけるこうした事態は、同じ仏教徒として大変悲しいことであります。
お釈迦さまは、「すべての者は暴力におびえ、すべてのものは死をおそれる。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。」(『ダンマパダ』)と説かれています。
  私たちは、宗祖親鸞聖人の「世のなか安穏なれ」との願いのもと、いのちの尊さにめざめ、それぞれのちがいを尊重し、ともにかがやくことのできる「御同朋の社会」をめざしています。
  暴力や武力による行動ではなく、あくまでもお互いの立場を尊重し合いながら、平和的な対話などによって、これらの深刻な事態の速やかな終結を望みます。
2008(平成20)年3月18日
     浄土真宗本願寺派
総長 不二川 公勝
 
チベット情勢についての声明
 
本年3月より、中国チベット自治区ラサをはじめ中国各地で起きている、僧侶や市民の中国政府への抗議行動に対する治安部隊の鎮圧により、多くの死傷者が出ていることは仏教徒として誠に悲しむべきことです。 釈尊は「殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ」と説かれ、また、親鸞聖人は「世の中安穏なれ」と私たちに教えてくださっておられます。 真宗教団連合は、その教えに基づき、他を犠牲とし武力によって平和を求めようとする現実を厳しく問い直し、他を犠牲としない平和とは何かを、念仏の み教えをもって全人類に問い続けていくことを宣言しております。
 よって、暴力や武力に訴えることなく、お互いの立場を尊重し、対話による問題解決を念願いたします。
以 上
平成20(2008)年6月25日
真宗教団連合
理事長 熊 谷 宗 惠
真宗教団連合加盟宗派
 
浄土真宗本願寺派 真宗大谷派 真宗高田派
真宗佛光寺派 真宗興正派   真宗木辺派
真宗出雲路派 真宗誠照寺派  真宗三門徒派
真宗山元派
 
首相・閣僚による靖国神社公式参拝中止要請のこと
 
 本年も、まもなく8月15日を迎えようとしています。
 
この日は、日本人はもとより、諸外国、とりわけアジア諸国の数知れない人たちが犠牲となった先の戦争が終結した日です。
 
 私たち真宗教団は、先の大戦において、釈尊や宗祖親鸞聖人の教えに背き、時の国家体制に追従して、仏法の名において戦争に加担してきた歴史に対する深い懺悔の中から、いのちの尊厳を踏みにじる戦争を繰り返さないよう、今日まで非戦・平和に向けた取り組みを積み重ねてきております。
 
 そのような中で、真宗教団連合は、昭和44(1969)年の結成より、「靖国神社法案」に対する廃案要請はもとより、今日に至るまで一貫して「首相・閣僚による靖国神社公式参拝中止要請」を行ってきています。
 
 申すまでもなく、靖国神社は明治政府の国家神道体制のもとで戦没者の英霊を祀る神社として創設されたものであり、国家による戦争を正当化するとともに、国家の戦争責任を曖昧にし、回避する機能を果たしてきた特異な一宗教施設であります。
 
 「日本国憲法」においては、「戦争の放棄・信教の自由・政教分離」の原則が確かめられ、恒久平和の願いが示されています。貴職並びに国務大臣たる閣僚が靖国神社に参拝することは、憲法の精神に反する違憲行為であることは自明のことであります。
 
 貴職並びに閣僚におかれましては、平和と共生の国際社会の実現が切に求められている時代にあって、靖国神社公式参拝のもつ問題性を十分に認識され、靖国神社への公式参拝をなされないよう要請いたします。
 
平成20(2008)年7月28日
 
真宗教団連合
 
浄土真宗本願寺派 総長 不二川公勝
真宗大谷派  宗務総長 熊谷 宗惠
真宗高田派  宗務総長 青木 眞曉
真宗佛光寺派 宗務総長 大谷 義博      
真宗興正派  宗務総長 藤井 浄行
真宗木辺派  宗務長  安田 義樹
真宗出雲路派 宗務長  平  弦月
真宗誠照寺派 宗務長  櫻井 徳良
真宗三門徒派 宗務長  黒田 昌英
真宗山元派  宗務長  佛木 道宗
 
内閣総理大臣
   福田 康夫 殿
  
 
 
 
2008年8月
 
盆会法座のご案内 17日(日)夜〜19日(火)日中                 初盆物故者・全戦没者追弔法要・・19日々中 日中 9時半・夜、8時始 『仏法と人生と社会』  住職自修     本郷親和会共催
 
こんなに涙したことは初めてでした。
 
『地獄のDECEMBER(12月)―哀しみの南京』―告白と懺悔―でした。
   (DVD・台本貸し出します)
渡辺義治さんと、横井量子さんという夫婦による実話で構成脚色された二人演劇でした。
渡辺さんの父親は、C級戦争犯罪人、横井さんの父親は、戦時中、兵士の日用雑貨を納める商人でした。
二人とも、戦争加害者の父を持ち、その父の犯罪、国の戦争という犯罪の血を受けている自分の、日本人としての、人間としての真摯な血の贖罪の懺悔と告白こそが、自分が本当に自分たりえる道であると、演劇人としても自らの命を、魂をぶっつけられていると感じ、感動したのです。
渡辺さんの父親は、軍人として転戦しながら反日の疑いをかけた中国人を捕らえ殺していました。
関東軍鉄道部隊の中尉として、敗戦の年の8月9日、ソ連が参戦した時、父始め関東軍の将校と家族は密かに軍用列車で逃げ、列車の後の線路や橋を爆破しました。
そのため、奥地の『満蒙開拓団』の人々は関東軍に捨てられ、過酷な逃避行で、飢え、病気、集団自決など、悲惨な地獄が現出しました。
父は、中国人を殺した罪と、満州の日本人を見捨てた罪を犯したのでした。
中国人捕虜殺害の指揮を取っている現場写真が見つかり、戦後、C級戦犯となりました。
渡辺さんは、「私だけでなく、家族は何か大きな『罪』をかかえている。そして決して幸せにはなれない。いや幸せになってはならない。いつかその『罪』の報いを受ける日が必ず来る、のろわれた家族・・・」そんな不安とおびえ、恐れを抱いて生きてこられました。
父は夜中突然うなされ飛び起き、脂汗を流し目はランランと恐怖に引きつり、鬼の形相で渡辺さんの心は凍りついたこともあり、父母の間は冷え切り、口論では食卓をひっくり返し、怒鳴って食器を投げつけ、母の髪をつかんで部屋中引きずり回すこともありました。
母は、暴力を振るわれるたびに自分を失くしてゆき、『自分は動物だ。動物になる』と言い出し家事も放棄し重いそううつ病になり、やがて自殺されます。
母の自殺7年後、父母が戦時中何を思い、どうしていたのかとその息使いを知りたいと妻の横井さんと中国へ行き一枚の生首写真に衝撃を受けます。
笑っている、日本人将校の足元に、中国青年の生首、さらし首の写真で、将校と父とが重なりました。
その生首は『自分たちだけ生き残って、そして幸せになろうなんて許せない。』と告発しているように受け止められました。
7年前夫婦は初めて南京に行き、渡辺さんは目の中が真っ赤になり、ひどい頭痛と次第に大きくなる、うなり声を聞く奇妙な体験をし、きちんと南京に向き合うことを決意します。
妻の横井さんは、以前、夫の戦争の呪縛を解放させようと、夫の暴力を受けながらもけなげに夫に寄り添い、ついに、南京演劇に夫婦で取り組むことになります。
南京から帰って3ヶ月、横井さんの母が亡くなったころ、南京虐殺現場写真に、父の商いの部隊の『目黒輜重連隊』の文字を発見し、父と南京虐殺との関係と罪業を知ります。
1937「昭和12」年12月から約2ヶ月、日本軍は南京を攻略します。
中国軍避難民は長江に追い詰められ、流され沈むもの、生きているものには海軍による掃討、その後、捕虜の始末命令で一斉射撃、殲滅のため放火というような虐殺で、中国では死者30万人以上といいます。
「自分の性病治しに中国人を殺し、脳ミソを食べた中年兵士たち、まっ昼間、人目もはばからず強姦輪姦をし、5歳から80歳の女性までが犯され、陰部に棒、ビン、銃身、手りゅう弾、あらゆるものが突っ込まれ地獄の叫びを上げていた。
子供に母を犯させ、父に息子の妻を犯させそれを家族に見せるよう命じた兵士たち」という語り。
横井さんは、「この数限りない大罪の中から得たお金を父は軍より貰い受け、もうけて大口開け笑い。父の得た金、それは血塗られた金。生まれ育った目黒の家もそして私の黄色いワンピースでさえそんな金で買った。父は軍人と同じ罪を犯していた。いやもっと重く深い。なぜなら兵士たちは返り血を浴びている。けれど父は人にやらせて金だけが入る。』と父を告発します。
私の祖父は日露兵士、祖母は愛国婦人会員、父も兵士、母も軍国乙女、渡辺さんや横井さんと同じです。
私の子供時代から今の生活が、やはりアジアの人々の流された血や慟哭、恨みの上にあることを重ね、観ながら涙が流れ続けたのでした。
締めくくりは、もう一度生まれ変わりがあるのなら幾重にもかけてこの罪と罰を魂に刻み込み、懺悔の「生」を生きてゆけたらと思う。「罪人」の私、その『罪』をどう償うのか。「地獄こそ我が住家」でした。
       
 
 
 
 
2008年7月
               聖典学習会のご案内                                26日(土)日中・夜   日中9時半・夜8時始 学習聖典・「浄土三部経」 住職自修    参加費無用 どうぞ誘って来て下さい
 
お経とは?
仏教の説く「道」といっていいと思います。
人生や社会問題を導く「道」でしょうね。
ですから、このお経を学びながら、真実とはどういうものか、真実に生きるということとはどういうことかといったことを学んでいます。
人生最高の目的とは何かとか、生きる意味とは何かとか、本当の生きがいとは何かといった問題を学んでいます。
又、老、病、死や、別れ、憎しみ、欲望など様々な人生問題についても学んでいます。
又、どんな社会が本当の社会なのかといったことも学んでいます。
そんな人生、社会問題をお経の様々な表現から、考え学び続けています。
もちろん、およそ二千年ぐらい昔のものですから、表現に今の時代にそぐわないものもあります。
でもその中から、現代に生きる私たちの人生、社会問題の答えを考え学び続けています。
今学んでいる、浄土三部経を書いた人は不明です。
私が学んだところでは、およそお釈迦様が亡くなって500年ぐらい後に、どなたか匿名の人が、実際にはお釈迦様が口では説かれなかったけれども、お釈迦様の教えの本質を、お釈迦様の説かれたこととして創作されたもののようです。
ですから、阿弥陀様や、お浄土にしてもお釈迦様は実際には口では説かれなかったけれども、お釈迦様が亡くなって、500年後の匿名の作者が、当時の人々の悩みや、問題や、救いといったものに答えるものとして、お釈迦様の教えの本質の、無我、慈悲、利他、布施といったものがらを象徴的に、阿弥陀様とかお浄土といった内容で表現し、人々を救い、導こうとしたものと考えられます。
ですから、阿弥陀様やお浄土を実在するものとして、信じておまかせするということより、阿弥陀様やお浄土と象徴的に表現されたものから、先の無我、慈悲、利他、布施といったものがらを受け止め、そこから、自分中心な生き方が元凶になる様々な人生問題や、そういう自我の欲望のとらわれから起こる、戦争や、差別といった様々な国家・社会問題に気付き、その反省から、よりよい自分創り、社会創りに向かって建設的に歩んでゆくことが示されてあることを感じます。
ですから、阿弥陀様として、真実が人格的に表現してあるんだな、又、同じように、お浄土として、真実が社会的に表現してあるんだなと受け止められます。
ですから、阿弥陀様や、お浄土から呼ばれているとか照らされているとか導かれているとかいうことも、言い換えれば、まことのない、私とこの社会が、真実に呼ばれ、照らされ導かれているということになります。
又、真実というものは、まことの無い不完全なものを排除せず、包むものといえますから、そこのところを、私たちは、阿弥陀様に抱かれているとか、お浄土の光に包まれていると表現されていると考えられます。
このようなことを感じ、考えさせられる学びを続けています。
どうぞご一緒に学んでみましょう。
前回は、私たちの哀れな有様を学びました。
以下は経典に表現されている内容です。
「みな、急がなくてもいいことを争いあっており、激しい悪と苦の中であくせくし、やっと生計を立てている。
身分の高いものも、低いものも、貧しいものも、富めるものも、老若男女みんな金のことで悩んでいる。
有ろうが無かろうが憂い、悩み、嘆き苦しみ、後先を心配し、欲に追い回され安らかでない。
田んぼ、家、家畜、使用人、金、衣食、生活用品あればあって憂い、ため息ついて嘆き恐れる。
思いがけない、水害、火災、盗難にあい、取り乱し、心落ち着かず、怒りで悩み続ける。
心は硬く閉ざして、気は晴れず、災難で死ねば、すべてを残してただ一人この世を去り、何も持ってゆけない。誰も憂いは様々で、苦しみ悩み痛ましい生活を続けている。」などとじつによく表現してあります。
まことに、経典は暗号解読のような面白みがあります。
お経は、本願寺の出した、【現代語版】浄土三部経を使います。
皆さんの中には、すでに持っておられる方もあるはずです。
これは、わかりやすく現代風に訳されたものです。それをもとに、ご一緒に学んでみたいと思います。
お経を持っておられない方には、1260円でお分けします。     
ですが別にお経はなくてもかまいません。
聞くだけでも学びになりますから。
どうぞ気軽に誘い合ってきてみてください。
 
ある死刑囚の話
 
彼は、今年、4月10日に61歳で死刑になりました。
彼は、18年前二人の人を殺しました。
彼は愛人の女性と共謀して資産家・ウメさん(当時82歳)をだまし、ウメさんの、長期入院している娘と勝手に知人とを結婚させ不動産をのっとり、ウメさんを殺し、その3日後に、金の配分でもめた知人を岐阜県の山林で射殺し首を切断して遺棄しました。
3年前の獄中で、自由短歌の本に接し、歌を読もうとします。
そして、短歌の師、光本さんに手紙を出します。
師は、『活字の世界は人生90年より長い。ぜひあなたも活字に頑張りましょう』と書きました。
そして、短歌を創って師に送るようになりました。
師は何か生きている間に楽しい思い出を作ってあげたいと思い歌集を出すことをいいます。
『そんなことが実現するならうれしいな』ということで歌集『終わりの始まり』が出来ます。
彼は世の中の役に立つということで、『献体』を考えました。
ある大学に申し込んで断られがっかりしたこともありましたが、歌集の広がりで、防衛医大で献体が可能になりました。
歌集には、賛否半々でした。
『死者のことを考えたら、そんな人の歌集なんて出せるはずがない』と言う批判もありました。
今年の1月1日付の遺言メッセージが師に届きます。
『最後のお便りです。
先生お別れのときがやってきました。思えば自分自身がコントロールできず、迷いの多い生活をする中で光本恵子先生とめぐり合い、歌の心を学び続ける中で不思議と心が落ち着きました。
汚れた自分がどんどん浄化されて、慈悲という、人の世の禁じ手を犯すことなく現世との償いをするための大きな力を短歌にもらいました。
短歌にのめりこむことで自分の中の本音の部分を吐き出せ、自らを裁けるほどの自分を取り戻すことが出来償いの日々を送ることが出来ました。  「中略」
お話したいことはたくさんあるのですが、書くほどに感極まり話きれません。遠からず最後の儀式を迎えることになりますので恥じぬ償いをいたします。
最後の私の死は万人の死とは違い、決して悲しくはありません。きれいな心を取り戻し、償いのため未来へと旅立てるのです。そのことを喜び、光本先生も私の命日を祝ってください。先生に出会えてよかった。きれいな心で人生を締めくくることが出来ました。
いつも甘えてばかりでした。そしてこぼれるほどの愛をありがとうございました。感謝の心をお伝えしてお別れです。これから安眠の世界へと入ります。おやすみなさい。』
彼は、今年いよいよだと思って遺言を元旦から、みんなに書き始め2月28日くらいまで書き続け、はがきを山のように買って、毎日毎日一人づつ遺言しょうと残していました。
師は、最後の3月12日の手紙の返事を死刑4日前に『私は教えることは何もありません。私は、あなたからいっぱいいろんなことを学びました。』と出しました。
師は『あなたこそ、どうしてこんなあなたが死刑にならなければいけないんでしょうか、本当に私は彼の短歌によって、かえって私自身が清められた感じがしました。』と語っています。
(歌集のあとがき)
『師から協力者を募って歌集を出さないかとのお話をいただいた。思いもよらぬ夢のような話に一瞬舞い上がった。すぐに私のような立場のものにそれが許されるのだろうか、との思いが強くなり真剣に悩んだ。悩みに悩んだ末、この歌集の上梓を決意した。理由は、尊い命を奪うという許されぬ過ちを犯した死刑囚であるがゆえに、その過ちの重大さを多くの人に伝えなければいけない。
私にはその責務があるとの意からであります。お読み頂き、許されぬ過ちを犯したものの人生とは・・・・と何かを感じてもらえ、反面教師にでもなって役立てればうれしい限りです』
(今年2月3日の支援者への手紙)
「私は、生きて償いを・・・の考えでありましたが、時の経過の中で、自らの命で償いたい、との思いにいたったのです。理由は存えても望み無い暮らしに耐え切れなくなり、見えぬ未来へ自ら活路を開きたく執行を受け入れることは、マイナス思考ではなく私にとって勇気ある決断でありました。いかなる罪も、人が他のものを裁くのではなく、罪人の各々が身らを裁くそんな時代が来るといいですね。そう願いながらお別れします。ありがとうございました。」
この手紙以後3月17日、長谷川弁護人が彼に面会し、『生きよう』と恩赦の出願を依頼します。
彼は恩赦を決意し委任状を書き、弁護人は準備を始めました。
ところがその最中にもかかわらず、それを無視して法務省は死刑を執行したようです。
世界では135ヶ国が死刑を廃止し、存置している国は62ヶ国といいます。
国連は去年12月に総会決議で、各国に死刑停止を求めていますが日本は、死刑存置国として、総会決議に反対する意見書を国連に送っています。
今、死刑をめぐって、死刑に代わる、永久終身刑が考えられています。
被害者遺族の中には、死刑を望まず、死刑は新たな殺人であり、死刑されたら泣く死刑囚の家族もあるとして、殺されたものが浮かばれるためにも、死刑ではなく更生をという人もありますが皆さんいかがでしょうね。
 
 
 
 
 
 
2008年6月
夏法座のご案内 6月29日(日)夜〜7月1日(火)日中 夜8時・日中9時半始め 『仏法と人生と社会と』 住職自修 ぜひさそいあっておいでください。
 
子供にどう説明する?
 
あるご講師から聴いた話です。
修学旅行の子供が西本願寺に観光で来ました。
そして、売店で「お守りをください」と言いました。すると、店員は、子供に、「ここの本願寺では、お守りは売っていませんよ」と申しました。
そのとき子供が発した言葉は
「へーっ、へんなお寺」だったというのです。
修学旅行で京都に来た子供が、あちこちの神社仏閣でお守りを買っていたのでしょう。
たいていのお寺やお宮にお守りやらお札やらを売っていますからね。
その子の家庭でも、お守りやら、お札やらが当たり前の家庭であり、友達同士でも当たり前のことだったのでしょう。
いや、世間全体が、お守りやら、お札のようなものを当たり前のごとく容認しているということでもあるでしょう。
その子は、お寺やお宮でお守りをいっぱい買って持っていれば何かいいことがあるとでも思っていたのでしょうか。
その子にしてみれば、どこのお寺でもお宮でも売っていて、買えたのだから、本願寺でも買えると思っていたところ、あてが外れたのですね。
さてこれからが考えどころです。
その子にわかるようにどう説明しましょう?
子供は遠慮せず正直に次々に問いますからね。
ここで想定問答をして見ます。
「あのね、ここの仏様はね、阿弥陀如来様といってね、私たちの病気や、怪我や安全などを守ってくださるお方ではないんよ。」
「へーっ、だったら意味無いじゃん」
「でもね、あなたや私たちの生き方をね、いつでもどこでも、いついつまでも、どこどこまでも、照らし、導き続けていてくださっているお方なんよ。」
「どういうこと?」
「私たちのやっていること、思っていることをよく調べてみると、その底に、自分中心なもの、わがままなものをかかえているんじゃない?」
「うーん・・・」
「そしてこのわがままなものが暴発すると、他者の心や体を傷つけるだけでなく、自分の心や、自分そのものを傷つけてしまうことになるよね。」
「そういえば・・・そう。」
「だから、こういう、私たちを、づーっと、いつまでもどこまでも照らし導き続けていてくださっているの。」
「へーっ、じゃあそういう、照らし導いてくださっているというしるしのお守りがあってもいいんじゃあないの?」
「いやいや、そんなお守りがあったら、そのお守りに何か力があるように間違って、かんじんの仏様や仏様の教えをよりどころにして生きてゆくということをほったらかしにするようになってはいけないからね。」
「ハア、でも、お守りというんじゃなくて、何か仏様の教えとともに生きるんだというような何かしるしは?」
「お数珠があるね」
「アー、お数珠はお守りじゃないんだ。」
「そうよ、お守りのように勘違いしたり、仏様を拝む道具のように誤解している人がかなり多いと思うけれどそれは違うね。」
「ふーん、わかった。
じゃあ、次に聞くけど、もしわがままが暴発して、悪いことをして、人を傷つけたりしたら、仏さんは怒って、罰を食らわして、地獄へ落としての?」
「いやあ、仏様の心は、慈悲の心だからね、怒って、罰を食わし、苦しめ痛めつけられるようなことをされるわけはなくて、ただ、誰よりも深く悲しまれ、その過ちに早くめざめ、更生できるようにじーっと、はぐくみ続けられるんよ。
地獄も仏様が作られたところじゃないよ。
自分が間違ったことをして、自分で作って自分で落ち込んで苦しんでいる世界のことよ。」
「へーっ、でもー、過ちにめざめて、更生するといっても、完全には無理と思うし、どうせ、一生の間には、大きな失敗も、罪も犯すこともあると思うし、そうして、死んでゆくものは結局、すくわれないんでしょう?」
「いいや、みんな救われる。」
「どうしてー」
「それはね、仏様は、さっき言ったように、慈悲の仏様といったでしょう。
慈悲という言葉の元の意味はね、みんなと一つになって、みんなの苦悩にうめき、最高の友情を抱くということなんよ。
そして、みんなもれなく、抱き、はぐくみ、そして、みんなの自分中心な心をクリーニングして、最高の慈悲の人つまり、仏様にさせるという最も広く深い心なのよ。
だから、仏様が、この人だけは救わないといって、仏様に無視される人は一人もいないの。
つまり、君だって、私も、みんな仏様に導かれ救われてゆくのよ。」
「へーっ、じゃあ、どんなに悪いことをしても、死にさえすれば、みんな自動的に救われるん?」
「いやいや、あのね、その問題に答える前に、確認しておきたいことがあるんよ。」
「あーっ、つかれるなー」
「ごめんごめん、もうちょっとしんぼうしてね。
さっき、仏様に導かれてといったでしょう。
その前には、過ちにめざめてとも言ったよね。」
「うん」
「たとえちょっとでも、過ちにめざめたことはめざめたのよね。
めざめたということは、逆に言えば、めざめさせられたということね。
何によって過ちにめざめさせられたと思う?」
「ウーン、何によってかというと・・・本当のことというか、真実というものかなあ。」
「そう、それよ、その本当のもの、真実なるもののことを仏様とか仏様の心とか、仏様の光と表現してあるのね。」
「じゃあ、仏様って、大きなタンコブのように、盛り上がった頭の髪がパンチパーマで、おでこにいぼがあって、そういうスーパーマンのような人じゃないん?」
「ハハハ、そうよ、さっき言った、真実といったもの、慈悲の心をそのように仏像として表現されたのよ。
だから、本当のことによって、めざめさせられたとか、真実といったものによってめざめさせられたとか、仏様によってめざめさせられたとか、仏様の光によってめざめさせられたということになるのね。
だから、大事なことだけど、過ちにめざめさせられたということは、同時に、まことなるもの、真実なるものにもめざめさせられていることなのね。
仏様の、全く、自分中心ではない、そして、最も広くて最も深い慈悲の心から、そういうものが真実というものだとめざめさせられるのね。
そして、同時に、逆の、自分中心でわがままで、狭くて浅い心や、そういう生き方や社会に、まことでないこと、過ちというものにめざめさせられるのね。
そして、そこから、よりよい自分と、よりよい人間関係、よりよい社会を創ってゆこうという前向きな願いや生き方がささやかでも生まれてくるのね。
それを救いというのね。
長くなったけど、はじめの君の問題に戻ると、どんな悪い事をした人でも死にさえすれば自動的に救われるのかということだけど、さっき言ったように、人生の上で、めざめさせられるということがまず何より大事なんだから、このめざめが無いままに、自動的に救われるということにはなっていないんだ。」
「アーっ、つかれるし、なんとなくわかるけど、じゃあ、めざめの全く無かった人は救われんの?」
「いいや、すくわれる。
たとえ一人でも、救うことが出来ない人がいたら、それでは、仏様とはいえないことになるからね。
仏様の慈悲ということから言ったら、みんな救われなければならないことになるのよ。
そこのところを説明しょう。
たとえ、めざめの無い救われなかった人生で終わったとしても、仏様の慈悲の悲しみやはぐくみの中に包まれていることには違いは無く、限りない、永遠の導きの中にいるんだから、いつの日にかめざまされ、救われることには違いないことになっているんだ。」
「それってどういうこと? ホント? 事実?」
「アー、やっぱり、君にしてみれば、無理もない問いと思うけどね、言っとくけど、仏教は、学校で教えるような事実を教えるものではないんだ。
さっきも何度も言っているように、仏教で教えているのは、事実ではなく、真実というものなんだ。
だから、お経に説かれているのは、真実というものの表現なのね。
だから、大事なことは、その表現された、仏様や仏様の国の浄土というようなものから、真実というものにめざめるということだといえるね。
さっき言った、(たとえ、めざめの無い救われなかった人生で終わったとしても、仏の慈悲の悲しみやはぐくみの中に包まれていることには違いは無く、限りない、永遠の導きの中にいるんだから、いつの日にかめざめさせられ救われることには違いないことになっている)
という、そういう表現のところに真実というものが表現されているね。」
「ウーン、『真実とはどんなものも排除されるということは無い』ということなんか」
「そういうことだね。」
「次に思うんだけど、めざめることなく死んでしまった人は、いつの日にかだけど、でも、すぐにはお浄土で仏様になれないことになっているでしょう?
事実ではなく、真実の表現だということだとしても、それじゃあ遺族のひとにとっては、なんとなく淋しい感じだと思うんだけど・・・。」
「うんうん。
それで、こういうように解釈してもいいんじゃないかと思っているんよ。
この人生で、ハチャメチャな人生を送ってしまって、全く、仏教の縁もなく、真実なるものにめざめることなく人生を終わってしまった。
けれども仏様のお慈悲の導きの中にはぐくまれていることには違いないのだから、人生を終わるままに、みほとけの慈悲に包まれて、お浄土にかえり、仏様に成らしてもらって、そこで深い真実の目覚めを与えられる。
そして、今までのめざめなき過ちの人生を深く慙愧させられる。
そして、この世に還って来て、世の人々に、
『どうか、過去の私と同じようなめざめなき空しい救いの無い人生に決してしないでください。
どうか仏法からちゃんと真実にめざめられ、よりよい人生と社会の創造に向かって歩んでください』と永遠に導き続けるというように解釈するんよ。どお。」
 
 
2008年5月
 
お経を学ぶ会のご案内                                         30日(金)日中・夜 31日(土)日中・夜 日中9時半・夜8時始        学習聖典・「浄土三部経」 住職自修 参加費無用                  どうぞ誘って来て下さい
 
お経とはなんだろう?
仏教の説く「道」といっていいと思います。
人生や社会問題を導く「道」でしょうね。
ですから、このお経を学びながら、真実とはどういうものか、真実に生きるということとはどういうことかといったことを学んでいます。
それは、人生最高の目的とは何かとか、生きる意味とは何かとか、本当の生きがいとは何かとかを学んでいます。
又、老、病、死や、別れ、憎しみ、欲望など様々な人生問題についても学んでいます。
又、どんな社会が本当の社会なのかといったことも学んでいます。
そんな人生、社会問題をお経の様々な表現から、考え学び続けています。
もちろん、およそ二千年ぐらい昔のものですから、表現に今の時代にそぐわないものもあります。
でもその中から、現代に生きる私たちの人生、社会問題の答えを考え学び続けています。
今学んでいる、浄土三部経を書いた人は不明です。
私が学んだところでは、およそお釈迦様が亡くなって500年ぐらい後に、どなたか匿名の人が、実際にはお釈迦様が口では説かれなかったけれども、お釈迦様の教えの本質を、お釈迦様の説かれたこととして創作されたもののようです。
ですから、阿弥陀様や、お浄土にしてもお釈迦様は実際には口では説かれなかったけれども、お釈迦様が亡くなって、500年後の匿名の作者が、当時の人々の悩みや、問題や、救いといったものに答えるものとして、お釈迦様の教えの本質の、無我、慈悲、利他、布施といったものがらを象徴的に、阿弥陀様とかお浄土といった内容で、人々を救い、導くために創作表現されたものと考えられます。
ですから、阿弥陀様やお浄土を実在するものとして、信じておまかせするということより、阿弥陀様やお浄土と象徴的に表現されたものから、先の無我、慈悲、利他、布施といったものがらを受け止め、そこから、自分中心な生き方や、そういう自我の欲望のとらわれから起こる、戦争や、差別といった社会問題に気付き、その反省から、よりよい自分創り、社会創りに向かって建設的に歩んでゆくことが示されてあることを感じます。
ですから、阿弥陀様として、真実が表してあるんだなと受け止められます。
同じように、お浄土として、真実が表してあるんだなと受け止められます。
ですから、阿弥陀様や、お浄土から呼ばれているとか照らされているとか導かれているとかいうことも、言い換えれば、まことのない、私とこの社会が、真実から呼ばれ、照らされ導かれているということになります。
又、真実というものは、まことの無い不完全なものを排除せず、包んでいるといえますから、そこのところを、私たちは、阿弥陀様に抱かれているとか、お浄土の光に包まれているとか表現されていると思います。
このようなことを感じ、考えさせられる学びを続けています。
どうぞご一緒に学んでみましょう。
前回は、お浄土の有様のところを学びました。
そこには、「その身を置く、家屋、宮殿、楼閣などはすべて天人や人々の姿かたちに応じて、高さや大きさが程よく整う。
それらは望みに応じて一つの宝や二つの宝、あるいは数限りない宝でできており、思いのままにすぐあらわれる。」とあります。
ここのところなどは、お浄土を手本に、今で言う、みんな楽に生きられ、不自由の無い世界、いわゆる、バリアフリーの社会、高福祉の社会が本当の社会ですよということが暗示されているように学びます。
又、無量寿経の上巻の最後には、「この仏がたが又それぞれ百千の光を放ち、広くすべてのもののために優れた教えをお説きになり、数限りない人々に仏の悟りの道を歩ませてくださるのである。」とあります。
ここに、お浄土は、高福祉の世界ということにとどまらず、無我、慈悲、利他、布施といったまことの道を自他共に歩むということが暗示されていると学びます。
やっと、無量寿経も下巻に入りました。
ここでは、上、中、下と人間の質を分類し、下の人間で、功徳を積むことが出来なくても、阿弥陀様を一回でも念じ、まことの心を持って、お浄土の真実の世界に生まれたいと思うなら、お浄土に往生することが出来るとあります。
ここに、どんなに、下の部類の人間であっても救うという真実が表現されてあり、又、どんなに下の部類の人間であっても、まことを願い求める心が生じるところに人間の救いがあることが示されてあります。
まことに、人間の救いとは、真実への目覚めと真実への願いと慙愧の生起するところと思います。
まさしく、論語にもある、「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」ではあります。
まことに、経典は暗号解読のような面白みがあります。
お経は、本願寺の出した、【現代語版】浄土三部経を使います。
皆さんの中には、すでに持っておられる方もあるはずです。
これは、わかりやすく現代風に訳されたものです。それをもとに、ご一緒に学んでみたいと思います。
お経を持っておられない方には、1260円でお分けします。
ですが別にお経はなくてもかまいません。
聞くだけでも学びになりますから。
どうぞ気軽に誘い合ってきてみてください。
 
チベット問題と中国の人権弾圧
 
中国側の報道も、チベット側の報道も、事実はどうなのか不明のところはあります。
ことに、中国側は、外国の報道関係者を入れないようにしていますから、問題です。
きっと、隠したい、うしろめたいところがあるのでしょう。
暴動は、中国側が、チベット人に変装して暴動を起こし、チベット人の仕業にして、チベットを弾圧したのだというようなことも言われていました。
とにかく、どちらにせよ、暴力で破壊行動で、ことを解決しょうとするというのは問題と思います。
ことに、仏教徒としては、無我、慈悲、利他、布施が生き方のルールですから、暴力、破壊活動というのは仏教徒の取る手段ではないはずです。
ダライラマも、暴力に訴える行動を続けるなら、私は退位するということをチベット民衆に訴えていました。
チベットの民衆の中には、ダライラマに反して破壊活動をしているものもいるのでしょう。
世界の中では、中国の人権弾圧政治に対し、反省を求めて、オリンピックの開会式に抗議のために、欠席するというヨーロッパの政府要人もいました。
中国の人権弾圧状況を、朝日新聞は勝彪さんほかその実態を次のように記事にしています。
勝彪さんは、中国の著名な人権活動家の胡佳さんを支援してきました。
胡佳さんは、エイズウイルス感染者の権利擁護から人権擁護へ活動を広げ、昨年12月に国家政権転覆扇動容疑で逮捕されました。
3月初旬に起訴され、北京市中級人民法院(地裁)は4月3日、懲役3年6カ月、政治権利剥奪1年の実刑判決を言い渡しました。
弁護士によりますと、胡氏が書いた文章6編の内容と外国メディア2社の取材を受けたことが「国家政権転覆扇動罪」に問われ、時効となっている1編を除く5編とメディア2社の取材に応じたことが有罪とされました。
 罪に問われた文章については、中国が香港やマカオに適用している「1国2制度」への論評などが挙げられたといいます。
胡氏の逮捕に対しては、欧州議会が1月に釈放を求める決議を採択し、ライス米国務長官も2月の訪中時、懸念を表明していました。
人権擁護を訴えた胡氏の「言論」を標的とした今回の有罪判決で、北京五輪を目前に控えた中国に対し、国際社会の批判がさらに高まることは必至のようです。
さて、この胡佳さんを支援した、勝彪さんは、3月6日、夜、4人の男に拉致され、頭に黒い布をかぶせられました。
3日間カーテンを閉め切った机と椅子だけの一室で尋問と説得が続き、夜は簡易ベッドが持ち込まれ、監視役のそばで体を休めました。
「北京五輪、チベット、胡佳については語るな」と男たちは入れ替わり立ち代り迫りました。
男たちは、「公安」とだけ名乗り氏名、肩書きを明かしませんでした。
又人権弁護士の李和平さんは、去年9月、男たちに、黒い布袋をかぶせられ拉致されたことがありました。
地下室のような部屋で、身分も明かさず、「北京はあなたを歓迎していない」と転居を求めました。
車に押し込められたときに殴られ、左耳の鼓膜が破れました。
ノートパソコン、携帯電話のメモリカード、手帳を奪われました。
共産党独裁政権の弾圧を恐れずに人権や民主、法治、言論や信教の自由を訴えている者は活動家だけでなく、彼らを支援する弁護士も身の危険にさらされます。
「五輪の囚人」とよばれる楊春林さんの代理人を手弁当で勤める李方平弁護士もその一人です。
彼の顧客に人口抑制の「一人っ子政策」が強制中絶を助長していると批判した、盲目の活動家陳光誠さんがいます。
陳さんは、強制中絶の被害者の法律相談を受けました。
一昨年8月、交通秩序攪乱罪などで懲役4年3ヶ月の判決を受けました。
同年、米タイム誌から、「世界を形づくる100人」に選ばれています。
翌年にはアジアのノーベル賞と呼ばれるマグサイサイ賞を授与されました。
この陳さんに面会に行った、李弁護士は、待ち受けの男たちに鉄の棒で頭を殴られ、全治3ヶ月の重傷を負いました。
暴漢逃走後、通報で駆けつけた警官は事件として受理することを拒みました。
それ以前にも2度公安に拘束され、陳さんの弁護をやめるよう説得されました。
「人権の尊重と保障」が中国の憲法に盛り込まれたのは、わずか4年前のことでした。
この憲法前文には「中国の各民族の人民は共産党の指導下にある」と定めています。
権力は党に集中し、党の幹部に不正がはびこり、メディアは沈黙し、大衆の不満でも、党批判は断罪されかねないし、罪に問われた被告を守ろうとすれば弁護士にも身の危険が迫るというものです。
日本もきちんと中国に申し入れるべきでしょう。
 
2008年4月
永代経法座のご案内 14日(月)夜席〜16日(水)日中席          おとき日・・・15日    夜7時半・日中9時半はじめ                講師 呉市 明円寺住職 竹田嘉円殿
 
エッ、こんなことが安芸太田町内にも、労働基準監督署も
 
この安芸太田町内の会社ニュースは、私がかねてから支援している、労働組合「スクラムユニオン」の3月号にあったものです。
この会社に中国から3人の研修生身分の労働者が入ってきました。
研修生というのは、外国から、日本に技術などを習得するという名目で来ている外国人労働者です。
そのうち二人は、この会社に嫌気がさして逃亡しました。
残った一人は今年5月にビザの期限が切れます。
彼はその前に未払い賃金を支払うよう会社に要求しました。
ところが、社長と専務は暴力的に押さえにかかりました。
彼は身の危険を感じ会社を飛び出し、つてを頼って労働基準監督署や入国管理局に訴えました。
5時間もかけて広島市内に歩いていったのです。
ですが、本気で相手にされず、途方に暮れNHKに飛び込み、スクラムユニオンを紹介されました。
ディレクターがスクラムユニオンをたまたま知っていたので何とかなりましたが、そうでなければ、なすすべも無く、本国へ強制送還の憂き目にあっていたかもしれないような状態でした。
運がよかったということのようです。
後日、本気で取り合ってくれなかった、労働基準監督署にスクラムユニオンの主担者といっしょに抗議に行きました。
このスクラムユニオンの主担者は、親鸞様に関心をもたれ私が親鸞様の本を紹介し、読んでくださった方でもあります。
その読後感に、
親鸞様に背いて、間違ったことを説いていた、親鸞様の長男善鸞になびいた人たちに対して、親鸞様が、「間違った考えになびいたということは、その人たちの信心が本当ではなかったということがはっきりしたということであり、むしろよいことである」と門弟の分裂状況の危機の中に、冷厳にも言っておられるところなどが心に残っていると記されていました。
空手の指導者で、報正寺でも2度ばかり、少年の空手合宿をされた人です。
広島北労署は、賃金台帳はきちんと作成されていて、そのとおり支払っているので問題は無いかなと思っていました等と答えました。
賃金台帳上は18万から20万で、本人も否定しなかったからだというのだそうです。
スクラムユニオンで、本人から聞くと、月に8万しかもらわず、給料明細書もなく、8万円の受取証にしかサインしていないことはすぐにわかったことなのにその確認もせず会社の言い分だけを鵜呑みにし、放置した監督署の責任は大きいとあります。
研修生・実習生が、強制送還の危険をおかして労基署に駆け込むこと自体大変なことなのに肝心な労基署の対応がこんなものでは、研修生、実習生は救われないとあります。
彼は溶接工として月に25日から26日仕事をしていました。
残業は、会社記録でも30〜60時間ぐらいでした。
溶接工、最低賃金の755円(現在は770円)で計算しても月に18万円ぐらいは間違いなくあります。
土日出勤があるはずなのにその分は残業代として計上されていませんでした。
手取り8万円ということは、賃金のごまかしがあります。
このごまかしの言い逃れに「家賃水光熱費2万5千円、管理費3万5千円、送迎費5千円、税金保険料などを残りの賃金から差し引くようなまねをしていました。
給料明細書を渡さないのですから、本人はなぜ手取り8万円になるのかわからず、不信感だけを増大させたようです。
そもそも、毎月労働日数が違うのに、いつも定額の8万円しか支払われないというのはおかしいはずなのに、労働基準監督署がわかっていないということになります。
会社のほうは賃金台帳だけは監督署の監査に耐えられるように作り、賃金は払ったと強弁して言い逃れをはかるもののようです。
賃金受取証も無いと言い張っているようで、これ以上の追求は出来ないと監督署もなっているのだそうです。
会社に賃金受取証がないというのはおかしいと思います。
会社は、すべてを隠して、彼をうそつき呼ばわりし、彼の方に、賃金台帳どおりには受け取っていないということを立証させようとしているそうです。
やり方が極めて悪質で、彼は立証できるものが無く、途方にくれているといいます。
入管や、労働局とも交渉しましたが、「彼を信じないわけではないが、証拠が何もないということが調査、指導に入ることを難しくしている」という反応です。
これは、研修生受け入れ団体の広島経済技術協同組合が参加企業に統一的に指導している可能性もありそうです。
早速電話で経過を聞きますと、うれしいことに、スクラムユニオン主担者の熱意ある対応によって未払い賃金百万円以上を取得、解決し、研修生は3月31日帰国しました。
労働問題も、御同朋の社会を目指す、真宗の課題です。
2008年3月 
春彼岸法座のご案内 20日(木)朝席・昼席 朝9時半・ 昼1時半はじめ 昼食500円弁当会食・中休みに注文 前席講話・後席話し合い    「仏法と人生と社会」住職自修
 
よいよのところ
 
よいよのところ、仏教とは何なのかを考えます。
七仏通戒の偈というものがあります。
七仏と言うのは、お釈迦様含めた過去の七仏をいいます。
この七仏ということで、すべての仏をあらわし、このすべての仏が総じて戒めている言葉ということで、通戒の偈と言っているようです。
つまり、仏教とはこういうものだと示したのでしょう。
それは、 諸悪莫作 (諸々の悪をなすなかれ )
     衆善奉行 (諸々の善を奉行せよ)
      自浄其意 (みずから其の意を浄くせよ)
      是諸仏教 (これ諸仏の教えなり)
ということです。
 これについて、面白い話があります。
昔の中国の詩人の白楽天が、道を求め、山中に鳥巣禅師と呼ばれ、樹の上で修行している道林和尚の噂を聞いて訪ねました。
和尚に対し白楽天は「仏教の真髄とは何か?」を問いました。
道林和尚は
この「諸悪莫作・   衆善奉行・自浄其意・是諸仏教」を言い、善い事をせよ、悪いことをするな云々と答えたといいます。
白楽天はさぞ深遠な答えが返ってくるだろうと思っていたのに、あまりにもあたりまえな答えに呆れて
「そんなことは三歳のこどもでも分かっていることではないか」と申しましたら、
「三歳の子供でもわかっていても、八十の老人が行えないぞ。」と言われて、白楽天は、参ったといいます。
よいよのところ、仏教とは、この、善い事をせよ、悪いことをするなということだといえば言えますね。
そして、善いことをし、悪い事をしなければ、こころがきれいになる。
こころがきれいになるから、善いことが出来、悪い事が出来なくなるということではあるのでしょう。
でもその善いこととは何か、悪いこととは何かが問題ですし、こころがきれいになるということも問題です。
善いこととは、いわゆる、無我、慈悲、利他、布施といったことを自己や社会に実践すること、命や、人間の尊厳を侵さないことというようなことになるでしょうか。
ですから、いくら憲法や法律、倫理道徳、宗教でも、戦争や死刑、差別など、命や人間の尊厳を侵すことを容認するものは善とは言えないということになるでしょう。
悪いこととは、その反対になりますから、自己中心で、冷酷で、利己的で、収奪し、他者の命や人間の尊厳を侵すことということになるでしょうね。
でも、さっきのとおり、三歳の子でも、わかっちゃいるけど、80になっても、いや、死ぬまで完全には、実行出来ないのですね。
なぜか?
それは、どんなに、願いとしては、きれいな心でありたいと思っていても、心の底には、我愛・煩悩というものが本来的にあり、すぐ、顔をのぞかせます。
じゃあどうすればよいのか?
そこに、「不断煩悩得涅槃」という言葉の示す世界があります。
これは、汚れた煩悩を断たずして、きれいな悟りを得ると読めます。
これは、煩悩を煩悩として、慙愧できることは、実は、真実なるものへの自覚が確立している証拠であるから煩悩のあるままに、悟りを得ていると解釈できます。
つまり、我愛、煩悩のあるままに、それを慙愧できる真実なるものへの自覚が確立しているから、この煩悩をあえて、増長させるということは無いから、我愛・煩悩のあるままに、こころは浄化されているということと受け取れます。
従来の阿弥陀仏信仰では、いつも包んでいてくださる仏を憶念するということで、六時礼讃といって、一日に6回も仏事勤行をしたり、絶え間なく念仏を称えるということも行いました。
今は、一日6回は大変だということで、せめて、ということから、朝夕の勤行になったのでしょう。
私は、従来からの、阿弥陀様のお慈悲にお任せするというような信仰ではなく、阿弥陀様の慈悲という表現から真実に目覚めるという真宗理解ですから、あまり勤行に重きを置きません。
以前から、いつもではありませんが、時々念仏より「無我・慈悲・利他・布施」ということを心に念じるようにしています。
つい、煩悩にとらわれる自分の生き方の軌道修正のようなものです。
心がざらついている時など小さく念仏をつぶやいたり、これを心に念じることがあります。
私なりの、煩悩の只中での心の浄化方法でもあります。
また、これもなかなか実行できていないのですが、平素から、上記の善なるもの、つまりは、無我、慈悲、利他、布施といったものにかかわる、平和、人権、福祉などの事柄、芸術、文学、宗教、哲学、倫理、思想、研究、集会、などに身を投じ、浸しておくことも大事なことと思っています。
これも、煩悩生活の中での、わたしなりの自浄其意ということになろうかと思っています。
又、さっき書きましたが、心がざらついている時、又、不安定な時、充実していない時などは、ちょっと勇気を出して、身の回りのこと、身近な人のこと、掃除でも片付けでも、誰か心にかけて、何かをやってみることによって、少しでもこころが浄化されるというか、ほっとしたり、ほんのりすることはありますね。
これは皆さん経験済みの事と思います。
それもおごりになると恥ずかしいことですが。
やはり、無我、慈悲、利他、布施といったことにかかわる生き方ですね。
ここがぬかると、つまり、自分だけの満足の世界では、本当には幸せ感も、充実感も、生きがいにも通じないということでしょうね。
一時はよいようでも、後から空しくなるということでしょう。
ここのところを、みほとけのお導きとか、みほとけのうながしとか言ってきたのでしょうね。
よいよのところ、大体、以上のような、悪いことをするな、善い事をせよ、こころを浄めよというような、ごくあたりまえのことにうなづけたら、別に、お経も、お寺も、僧侶も仏壇も、数珠も無くてもいいといえますね。
逆に言えば、そういう当たり前のことに目覚めるために、仏教があるということでしょう。
 
イージス艦事故から
 
最新鋭の軍艦と漁船が衝突し、漁船は切断され、親子の漁師が行方不明です。
大体、軍艦が、漁船に気をつけるのが筋のようですから、軍艦の責任でしょう。
レーダー係、監視係から、艦長まで、怠慢ということが言われています。
本来、事故は海上保安庁の管轄なのに、防衛省が先に関与したことに、証拠隠滅、口裏あわせの疑惑がもたれています。
すぐに事実を公開せず、証言が変わるのも、防衛省、自衛隊が、体面、保身を考えているように思えてなりません。
一番気になるのは、隊員が衝突即座に、漁船を助けようとすぐ動いたのかどうかです。
イージス艦1隻1400億円とか、大体、防衛予算に5兆円といわれていますが、いつも、自衛隊そのものの存在を考えます。
憲法9条を見てみます。
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権 の発動たる戦争 >と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権 は、これを認めない。
私は、まず、自衛隊はこの憲法9条にある「その他の戦力」に当たると解釈しています。
そういうところから、自衛隊は憲法違反の存在と考えます。
ですから、憲法9条を変えたい自民党や民主党の人々は、この憲法違反の自衛隊を憲法に合致させるために、この9条を変えて、自衛隊を正式な日本の国の軍隊にさせたいのでしょう。
もし憲法を変えずに、今の憲法のままで、自衛隊を憲法に合致したものとして認めるためには、自衛隊の軍装備を解除し、国外国内の災害救援隊に編成替えをする必要を考えます。
でも、国家の軍装備を解除し、軍隊を持たないというのは、無謀のように考える人は多いと思います。
ですが、今年5月に、日本だけでなく、世界中の人々によって、この日本の憲法9条を支持する世界の声を集め、9条を世界へ広げるための「武力によらない平和」の精神を世界にアピールする国際イベントが計画されているように、こういう非武装の考え方もあるのです。
今年、広島のアステールプラザで、5月5日に開催されます。
近日中に皆さんに紹介します。
この「武力によらない平和」ということについて考えて見ます。
米国では、個人に銃を持つ自由が認められています。ここに、米国の銃犯罪の深刻さがあると思います。
世界各国に於いても、銃は、本来、警察のみが保持し、個人に保持の自由を与えないほうが良いと思えます。
それと同じように、世界各国に軍隊があるのが、武力行使つまり戦争の発端のように思います。
ですから、非現実と一笑に付されるかも知れませんが、今後の人類の未来の平和に向けて次のように考えます。
それは、至難ながらも、日本も、世界各国も、軍隊を縮小解体する方向に向かうのです。
そして出来る限り公平に編成された国連のみが、国際警察としての軍事力を保持するのです。
そして、原則、軍事力によらず、相互協調協議によって、国際紛争に対処するよう努力するというような方向こそが、国際社会の未来の進歩への道として考えてみたいと思います。
皆さんいかがでしょうね。
その為には、生命および、人間の尊厳は、何人、国家といえども、侵してはならないというような、人間性の原理に根ざした国際世論が大きくならなければ始まら無いと思います。
私たち、仏教徒もそういうことに参画したいものと思います。
さる2月8日、広島別院で、安芸門徒9条の会発足に向けて学習会がありました。
4月には、安芸門徒9条の会が発足すると思いますから皆さんぜひ参加してください。
 
 2008年2月
釈尊涅槃会 益害平等一切有情追悼法座のご案内 15日(木)日中・夜 16日(金)日中・夜      日中9時半 夜7時半はじめ 前席・講話 後席・話し合い 「お釈迦様の一生から学ぶもの」 住職自修
 
死ぬる前に何を言い残すだろう?
 
今から23年前、坂本九ちゃんなどが犠牲になった飛行機事故がありました。(インターネットより)
そのときの犠牲者の一人河口さんが、子供や妻へタバコの包装紙の裏の紙に書いた遺書がありました。
皆さんも聞かれたことがあると思います。
警察から遺品として渡された手帳の中にあった走り書きのメモでした。
「マリコ 津慶 知代子 どうか仲良くがんばってママを助けてください パパは本当に残念だ きっと助かるまい 原因はわからない  今五分たった もう飛行機には乗りたくない どうか神様助けてください きのうみんなと食事したのが最後とは 何か機内で爆発したような形で煙が出て降下しだした どこえどうなるのか
津慶 しっかりた(の)んだぞ
ママこんなことになるとは残念だ さようなら
子どもたちのことを よろしくたのむ
今六時半だ 飛行機は回りながら 急速に降下中だ 
本当に今までは幸せな人生だったと 感謝している」
そのときの状況を思います。
飛行機の異常にみんな気がついて、乗務員もパニック、高度が上がらず、煙を吐く、激突する山が近づく、あー、もうだめだーというような。
河口さんは、そのパニックの中で、アー、もうだめだ、何か妻子にと、とっさに、震える手で、思いをタバコの紙に書かれたのでしょう。
大変な状況です。
私ならどうする?皆さんならどうでしょう?
何を言い残すでしょうか?
別に飛行機事故でなくとも、死ぬる前に、みんなに、言い残す言葉は何でしょう?
いよいよ最後に言い残す言葉
それは自分の正直な、命の叫びのようなものでしょうね。
何を叫びますか?
それは、平生いつも命の中に願っている叫びでしょうね。
川口さんは、はじめに子供3人の名前を書き、どうか仲良くがんばって、ママを助けてとつづきました。
まず、何よりも第一に、わが家族のことなんですね。
そして、「どうか神様助けてください」と続きます。
おそらくその時、みんなもという思いよりも、まず、自分が助かりたいという思いが強いと思います。
これが、「我愛」というものでしょう。
そのとき、神や仏の実在を信じようが信じまいが、助けて欲しいという緊迫した思いはわかります。
私は、いまだかつて、一度も、神や仏にお願いしたことはありませんが。
本来、浄土真宗は、神にも、仏にもお願いするということはありませんから。
また、仏とは、実際に働きかけている実体ではなく、無我、慈悲、利他、布施といった高度な観念の象徴的表現ととらえているからでもあります。
ですから、仏前においても、仏に対する祈願ではなく、仏の前に、慙愧と自らの真実なる方向に向かう生き方への確認ということになります。
お釈迦様の最後の言葉は、「自己をよりどころ、灯火とし、他をよりどころとすることなかれ、法をよりどころ、灯火とし、他をよりどころとすることなかれ、時は過ぎ行く、おこたり無く勤めよ」というものだったといいます。
親鸞様の最後は、ただ念仏ばかりであったといいます。
念仏をつぶやかれながら息を引き取られました。
私は、「菩提心」という言葉を言い残したいといつも思っています。
これは、願作仏心・度衆生心という言葉で、自分も、他者も、無我、慈悲、利他、布施といった自己実現への道を歩んでもらおうとする心と受け止めています。
つまり、究極の自分と世界を願う心と受け止めています。
みんな、「我愛」がありますが、でもそれを突き抜けて、みんなと手をとりあいたい憧れがあるから、夕焼け小焼けの歌も生まれたのではないかと想像します。
 
夕焼け小焼けで日が暮れて
山のお寺の鐘が鳴る
お手手つないでみなかえろう
カラスと一緒に帰りましょう。
 
子供がかえったあとからは
まるい大きなお月様
小鳥が夢を見るころは
空にはきらきら金の星
 
人生のたそがれを迎えて、そぞろ、仏の教えが身にしみてくる。
そうだ、やはり、みんな違うままにも
手に手をとってだなー。   
うらみあって人生を終えるのはむなしい、さみしい。
そうだ、嫌っていた者とも一緒にかえろう。
命のふるさと、願いのふるさとに帰ろう。
うらみ、憎しみを超えて、みんな帰ってゆく、命のふるさと、願いのふるさとは、欠け目の無い、もちろんトゲもカドも無い、満月のような、円満無垢な世界だ。
そここそ、みんな安らげ、憩われる世界だ。
そこは、みんな、それぞれにキラキラ輝いている世界だ。
そんなことを感じさせる歌です。
 今年も、ダーナ募金をよろしくお願いします
ダーナとは布施(ほどこし)というインドのことばで、ほどこしは、共に分かち合うという、仏教の生活実践です。
在韓被爆・渡日治療者、権連伊さんの証言
千田町で生まれ、体が弱く、9歳で入学。
体育のダンスが一等になったとき、朝鮮人がと、ねたまれて、友達は出来ませんでした。
朝食中に、ピカッと光り、家が崩れ、母と下敷きになり、首に材木が当たり意識不明になった。
今も痛みがひどい。
母も腰を痛め一生苦労しました。
姉は精神がおかしくなり、帰国してすぐ死亡
父はおおやけどで失明、兄は下半身大怪我をし、まもなくどちらも死亡。
母は再婚、そして一年後、一家で帰国
体調悪く、頭髪抜け落ち、頭痛、手足のしびれ、骨折した首の痛み、脊椎分離の腰・背中の痛みは今も続いています。
貧しくて学校に行けなかった。  10歳で養女に。
首の骨の傷で差別を受け、見合いが何回も駄目になり、20歳でやっと結婚。
韓国原爆被害者協会のことは長いこと知りませんでしたが、陝川支部から、おととし、広島で原爆手帳を取り今は手当てをもらっているが、病気が治ってないので不足しています。
昨年度、報正寺ダーナ募金総額は
          34,600円でした。
布原、2,000円・大井、2,500円・
小原、3,000円・萩原、2,500円・
数舟、3,500円・本一、2,800円・
本二、6,500円・本三、5,100円・
本四、6,700円
配分
山県太田組ダーナ募金会計・・・13,000円
在韓被爆者渡日治療委員会・・・10,000円
モンゴルの砂漠植林基金へ・・・11,600円
前年度山県太田組ダーナ募金総額は
           470,025円でした。
内訳
山県太田組内医療機関へ仏教誌施本
          ・・・ 223,080円
社会福祉法人芸北福祉会・・・150,000円
安芸教区連盟委託金等 ・・・ 96,945円
(厚く御礼申し上げます。 報正寺)
 
2008/12/4

 
2008年1月
過年・色々ありがとうございました。
本年もよろしくお願いいたします。
 
  親鸞聖人御命日法座のご案内                          17日(木)日中・夜 18日(金)日中・夜 日中9時半・夜7時半始め       前席講話・後席話し合い 「親鸞様の御一生から学ぶもの」 住職自修
 
生と死
 
毎年、年末、年始に、この生と死に思いを巡らします。
中学生のころからのこだわりです。
この天地自然万物を創造した創造神というものを考える考え方もありますが、私は、いまだ、踏み込めません。
インターネットなどで調べますと、宇宙は137億年前の真空の微細なビッグバンという一点から始まり、この宇宙の終末は、ブラックホールも蒸発し、絶対零度に向かって永遠に冷却し続け、冷え切った光のない空爆とした空間が残るだろうといいます。
それははるか先、10の100乗倍年といい、これは、10年の12乗倍が一兆年ですから、さらに、さらにとてつもない先ではあります。
もう物質は、ここでは永遠に生成されないそうです。
今のところは、すべて、宇宙万物、厳然たる、自然の現象と思い、万物の存在は、すべて、本来、『非』意味・『非』目的と考え続けています。
いつも思いますが、ちょうど、雨だれの水溜りに、泡が出来るようなものと思うのです。
雨も、水溜りも泡をつくろうという意思はなく、ただ、自然現象として、泡が出来るというようなものと思うのです。
宇宙が出来たのも、太陽や地球が出来たのも、生命が出来たのも、そのようなもので、格別、ある意味、目的があるとは思えないのです。
皆さんはどう思われますか?
この本来、『非』意味・『非』目的を踏まえた上で、生き物として存在している意味・目的を考えますと、それは、やはり種族保存ということだろうと思います。
人間は猿以上に、大脳の新皮質が発達したといいます。
この、新皮質は、知性、理性、人間性といわれるものをつかさどっているようです。
新皮質の進化の意味は、知的な創意工夫のみならず、自己中心性の本能、欲望の暴走を制御して、調和、共生に生きようとするものではないでしょうか。
その究極に、いわゆる、平等、平和、博愛等があると思います。
ですから人間として生きる意味・目的は、人類存続のため、自己中心的な本能・欲望の暴走を制御し、利他、共生、調和の博愛、平等、平和等の創造に生きてゆくということになるのではないかと思われます。
仏教は、この理性・人間性の究極を仏や浄土と象徴的に表現したものと思います。
ですから、仏教の説く生き方は、自己中心的な欲望の増長を慙愧し、制御しながらも、いつもふれますが、仏や浄土の本質としての無我、慈悲、利他、布施といった人格と社会の創造に生きようとするということになると思います。
これは、理知的な表現ですが、これを情的な味わいで表現しますと、阿弥陀様に抱かれながらも常に煩悩に狂わされて、阿弥陀様を悲しませているわが身とわが世をいといつつ、照らし導き続けてくださるお浄土に向かって、み仏とともに全ての命、あらゆる人々を御同朋と尊重し、歩ませていただこうというようなことになろうと思います。
こういう生き方を突き詰めてゆくと、物を公平に分かち合い、差別せず、暴力で解決せず、奪い殺すということのない、戦争のない、自然環境も汚染しない社会を、慙愧と共に歩むということになろうと思います。
こういう考え方が広く全人類世界に、浸透してゆくなら、社会の諸問題はより解決に向くことでしょう。
又、私たちは、この人生において、やがて、まちがいなく老・病・死します。
でも、どのようなことがおきようが、又、何があろうが、何にもなかろうが、とにかく、万物をうみだし、はぐくみ、命終われば、すべてを受容する、この母なる大宇宙、大自然のはたらきにうちまかせたいように思います。
花の咲いたのも、咲かなかったのも、実の結んだのも、結べなかったのも、破れ葉も、病み葉も、終える命のすべてを受け入れる大地のあればこそ、安心しきって、木の葉も舞い散るのではないでしょうか。
そして、来春の新芽の肥やしとなってやるのですね。
私たちもよりよき未来の、肥やしとなりたいものです。
こういうものの見方を基調としたいと思います。
宗教なら、人間宗でしょうか。
政党なら、人間党でしょうか。
資本主義でもない、社会主義でもないとすれば、人間主義というようなものになるでしょうか。
全国水平社綱領の「吾等は人間性の原理に覚醒し、人類最高の完成に向かって突進す。」や菩提心としての、願作仏心・度衆生心に感動しています。
私にとっての仏教・真宗解釈です。
2007年12月
 
お経を学ぶ会のご案内 21日(金)日中・夜 日中9時半・夜7時半始 学習聖典・「浄土三部経」 住職自修 参加費無用 どうぞ誘って来て下さい                                  引き続き浄土三部経をじかに学んでみようと思います。 いつものように、お経について、大事なことを確認しておきます。 これは大事なことですから、よく認識しておきましょう。 三部経は、今まで、お釈迦様の直説といわれてきました。 ところが、最近はそうではなく、おしゃか様が亡くなっておよそ500年後に匿名ですが、どなたかがお釈迦様の説かれたこととして創作されたものであるといわれるようになりました。 匿名の経典作者は、独創で阿弥陀仏物語や、浄土という象徴的な表現を通しておしゃか様の教え、つまり、無我、慈悲、利他、布施といった事柄を伝えようとしたのであろうと考えられます。 前回の学習では、極楽浄土の表現について、金銀や宝石で飾られてあるということが、しつこいほどに書かれてあり、こんなにくどく表現しなくてもよさそうなものよと感じました。
でも、そのように象徴的に表現して、如何に清浄真実なる、崇高な価値の世界であるかということを示し、逆に、現実の世界が、汚濁に満ちた世界であるかということを知らせようとしたものであろうと感じました。
又、輪廻思想で、死後、生まれ変わるという前世、来世観念にとらわれた時代の制約を思い、経典作者の限界、又不明ということを感じる表現もありました。
例えば貧しい乞人は、ほとんど人間らしい生活をしていないというような表現をし、そのわけは、すべては、過去の世に功徳を積まなかったからだと表現しています。
次に、財を蓄えて人に施さず、裕福になるほどますます惜しみ、ただ欲深いばかりで、むさぼり求めて満足することを知らず、少しも善い行いをしようとしないで、山のように悪い行いを積み重ねていたのです。
こうして蓄えた財産も、命が終わればはかなく消えうせ、生前にせっかく苦労して集め、あれこれと思い悩んだにもかかわらず、自分のためには何の役にも立たないで、空しく他人のものとなります。
頼みとなる善い行いはしておらず、頼りとなる功徳もありません。
そのため、死んだ後には地獄や餓鬼や畜生などの悪い世界に生まれて長い間苦しみ、それが終わってやっと人間の世界に生まれても、身分が低く、最低の生活を営み、どうにか人間として暮らしているようなことです。
と表現しています。 
又逆に、王様が尊ばれるわけは、前世で慈悲の心や哀れみの心で、人々を救い、善行を行い、争わなかったからだと表現しています。
もう、皆さんお分かりのように、これは、例えば被差別部落の人や、社会的に、地位や階級が低く、貧しい人々は、みんな前世で、悪いことをしていたのだと決め付けている表現になります。
そして、世の王や権力者の裕福さも、前世の功徳のおかげであると、現実の地位や身分や富を是認する表現になっています。
これでは、身分差別や貧困も富裕もが個人の前世の責任になり、現にある個人責任、社会責任、政治責任が問われないことになります。
このことは、実に多大な過ちでした。
でも当時、前世の報いの結果が現世であると説いていたとしても、ならば、今この現世で、どんなに被差別、貧困な現実であろうとも、奪わず、慈悲、哀れみの心で、善行を行い、人と世を救うという、尊い功徳を積めば未来よい果報が待っていますよ。
この現世で、たとえ、権力や富で裕福な状況であっても、今現に、あくどいことをして、奪い、差別し、抑圧し、貪欲で功徳を積まないなら、来世は間違いなく惨憺たる有様になりますよ。
だから、富めるものも、貧しきものも、今、現世で、奪わず、慈悲、哀れみの心で、善行を行い、人と世を救いなさいと、どこまで本気で説いていたものかとも思います。
考えますに、前世、来世に言及せずに、今現に、よい功徳を積めていることが、現世の救いであり、悪い行いをしていることが現世の迷いであるということが説けなかったものかと思います。
それほど、前世、来世というのは当時、あたりまえの考え方だったのでしょうね。
だから経典作者もこの前世・来世の考え方から脱出出来なかったのでしょう。
経典のこの箇所は、現在、訳注に、間違わないようにと注意をうながしていますが、経典の表現が間違っているとはなっていません。
そこで、本願寺のほうへ、その旨申し入れました。
これからも、このお経を読み解きながら、今を生きる苦悩の私たちが何をどう学ぶことが出来るか楽しみに学んでみたいと思います。
当然、決して、お経が絶対であるとも思い込まないで学んでみたいと思います。
何しろ、2000年前に作られたものですから。
時代の制約もあるでしょうし、批判精神をも持ち、暗号解読のような気持ちで学んでみたいと思います。
お経は、本願寺の出した、【現代語版】浄土三部経を使います。
皆さんの中には、すでに持っておられる方もあるはずです。
これは、わかりやすく現代風に訳されたものです。それをもとに、ご一緒に学んでみたいと思います。
お経を持っておられない方には、1260円でお分けします。
ですが別にお経はなくてもかまいません。
聞くだけでも学びになりますから。
どうぞ気軽に誘い合ってきてみてください。
 
「ブッダバーダーウィン(仏教徒)」通信
NO.1
2007 年11 月7 日発行
ビルマの僧侶に連帯する仏教徒の会
〒728-0003 広島県三次市東河内町237
? FAX 0824-63-8042
odake@orange.ocn.ne.jp
編集責任小武正教
 
仏教徒の皆さまへ、ビルマ難民キャンプの子どもたちへ
支援活動のご協力のお願い
 
9月26日、ビルマ(ミャンマー)で平和行進をしていた僧侶・市民に政府軍が発砲して多くの死傷
者でました。
さらには、今も多くの僧侶が逮捕・拘束され、主要な寺院は荒らされ軍隊が監視し、僧侶は中にいない状況が伝わってきています。
タイ(メーソット)に逃れることの出来た僧侶もあるようですが、今なお国境地帯に潜んでいる僧侶も多数あると言われますし、拘束されている僧侶・市民
の生命が案じられます。
この度のビルマの僧侶の行動は、政府の圧政に対して、覆鉢(托鉢の鉢を覆せ、布施を拒否し、その行いが仏法を誹謗するものであると教える)をして抗議するものでした。
それは、まさにお釈迦さまの「殺さない、殺させない」という慈悲の教えをその身にかけて生きる姿と私たちには映りました。
そしてこの度のデモに際しては、ビルマの僧侶から日本の僧侶そして市民に向けて、「私ビルマの僧
侶たちが現在取り組んでいる行動に注目し、共に実践してくださることを強く求める」という連帯の
行動を求めるメッセージが送られて来ていました。
そうした僧侶・寺院への支援は、どのようにすれば可能か、探っていきたいと思います。
ビルマでは1,988 年の政府の弾圧以来、多くの人々が難民として近隣諸国の国境地帯で生活していま
す。
その中にはこの度支援に訪れようとしているメラ
ウーキャンプのように国連の支援が十分に行き渡らない等、そこで生活する子どもたちも大変生活が困難な状況があると言われます。
今、ビルマからのメッセージに連帯する行動は何かと考えた時、難民キャンプの子どもたちに、私たち日本の仏教徒としての “志し”を届けることではないかと考えます。
義捐金のお願い
【届ける場所】MAELAOON(メラウー)キャンプ
タイ・チェンマイから車で6時間−
400 人ばかりの子どもたちが生活をしています。
その中には僧院もあり、僧侶が生活しています。
お寄せ頂いた「お志し」は、ビルマの政治難民・ココラットさん(名古屋在住)のルートを通じて、確実にお渡しさせて頂きます。
* 2008 年2月末の締め切りを第1次と考えています。
*郵便振替
口座名:ビルマの僧侶に連帯する仏教徒の会
口座番号01390―7―86201
 
 
2007年11月
                 秋法座のご案内                                    7日(水)夜〜9日(金)日中   報恩講おとき日・・・8日(木)日中      日中9時半・夜7時半始   講師 益田市・西楽寺 川本義昭殿
 
 
週末の大通りを黒猫が歩く
ご自慢の鍵尻尾を水平に、威風堂々と
その姿から猫は忌み嫌われていた
闇に溶けるその体めがけて石を投げられた
孤独には慣れていた、むしろ望んでいた
誰かを思いやることなんてわずらわしくて
そんな猫を抱き上げる、若い絵描きの腕
「今晩は素敵なおチビさん、僕らよく似てる」
腕の中もがいて、必死で引っかいて、孤独という名の逃げ道を
走った、走った、生まれて初めてのやさしさが、ぬくもりが、まだ信じられなくて
どれだけ逃げたって、変わり者はついてきた
それから猫は絵描きと二度目の冬を過ごす
絵描きは友達に名前をやった 
「黒き幸」ホーリーナイト
彼のスケッチブックは、ほとんど黒ずくめ
黒猫も初めての友達にくっついて甘えたが
ある日、貧しい生活に倒れる、なづけ親
最後の手紙を書くと、彼はこういった
「走って、走ってこいつを届けてくれ、夢を見て飛び出した僕の帰りを待つ恋人へ」
不吉な黒猫の絵など売れないが、それでもアンタは俺だけ書いた
それゆえアンタは冷たくなった
手紙は確かに受け取った
雪の降る山道を黒猫が走る
今は故き親友との約束を、その口にくわえて
「見ろよ、悪魔の使者だ!」 石を投げる子供
なんとでも呼ぶがいいさ、俺には消えない名前があるから
「ホーリーナイト」「聖なる夜」と呼んでくれた
優しさも温もりもすべてつめこんで呼んでくれた
忌み嫌われた俺にも意味があるとするならば
この日のタメに生まれてきたんだろう
どこまでも走るよ
かれはたどり着いた
親友の故郷に
恋人の家まであと数キロだ
走った、転んだ、すでに満身創痍だ
立ち上がるまもなく襲い来る罵声と暴力
負けるか、俺はホーリーナイト
千切れそうな手足を引きずり、なお走った、見つけた!この家だ!
手紙を読んだ恋人は
もう動かない猫の名に
アルファベット一つ加えて庭に埋めてやった
聖なる騎士を埋めてやった
*  *  *  *  *  *  *
これは、バンプオブチキンというバンドグループの「K」という歌です。
これを聞くたびに、たいてい泣くという青年もいます。
私も聞くたびに、涙が流れたりします。
生まれつき、どうしょうもない、真っ黒で、鍵のように曲がった尻尾。
それゆえ、世間から忌避されました。
忌避する世間が間違っているのに。
世間からどんなに嫌われ、いじめられ排除されても、でもこれが自分だと堂々と生きていたのですね。
だが、誰かを愛したい、愛されたい
でもみんなから拒否され、かなえられない孤独にいきがって、屈折していました。
そんな黒猫を、抱き上げてくれた貧乏画家がいました。
黒猫は、びっくりしました。
今まで、だれも信じられなかったので必死で逃げようと、もがいて、引っかきました。
でも、画家は追っかけてきてまで抱擁しました。
うまれて初めて、黒猫は『情』に心ふるえ、人を信じました。
『真実』なるものに出会ったのですね。
心が満ち足り、きっと、このこと(人)のために命がかけられる自分が誕生したのだと思います。
生まれてきた意味、生きる意味を実感したのですね。
黒猫はまさしく、救われたといえると思います。
黒猫の放つ、誇りとそして又、屈折の光と影、そして安らぎ
これを描き続けても、世間には、それが見えませんでした。
画家は絵が売れず、死にました。
画家が死ぬ前ことづけた恋人への手紙を命がけで、それこそ死にものぐるいで、世間の罵倒や暴力を執拗に浴びながらも、ついに恋人の手に渡し、そしてそのまま絶命します。
画家の手紙に象徴されたもの、それは、画家の魂であり、一切を無条件、無制限に、包摂する愛、大慈悲と味わうことも出来ると思います。
黒猫に、自分や親鸞様を、画家に阿弥陀様を当てはめて味わいました。
     
2007年10月
               お経を学ぶ会のご案内                                                                               25日(木)日中・夜 26日(金)日中・夜 日中9時半・夜7時半始 学習聖典・「浄土三部経」 住職自修 参加費無用 どうぞ誘って来て下さい                                                                                                      引き続き浄土三部経をじかに学んでみようと思います。 まずもって、お経について、大事なことを確認しておきます。 これは大事なことですから、よく認識しておきましょう。 三部経は、今まで、お釈迦様の直説といわれてきました。 ところが、最近はそうではなく、おしゃか様が亡くなっておよそ500年後に匿名ですが、どなたかがお釈迦様の説かれたこととして創作されたものであるといわれるようになりました。 匿名の経典作者は、独創で阿弥陀仏物語や、浄土という象徴的な表現を通しておしゃか様の教えつまり、無我、慈悲、利他、布施といった事柄を伝えようとしたのであろうと考えられます。 前回は、「阿弥陀仏の光に照らされるものは、煩悩が消え、身も心も和らぎ、善心が生まれる」 というような表現などを興味深く学びました。 そこから、やはり、真実の人間のあり方というものを考えさせられます。 又それは同時に、現実の自分が、いかに、煩悩に振り回され、自分中心な鎧で、身も心も硬くなっていて、悪い心に支配されているかということが逆に知らされることです。 ずっと学んできて、人間を超えるとも言うべき、尊い究極の人間像というものを学び続け、その崇高な精神に感動し続けています。
あわせて、私たちがいかに、小さな自分中心の欲望に振り回されていることかを知らされます。
ここまで学んできて、やはり仏教は、万人が、慙愧とともに、無我、慈悲、利他、布施への道を歩むことを示す教えであることを確認し続けています。
これからも、このお経を読み解きながら、今を生きる苦悩の私たちが何をどう学ぶことが出来るか楽しみに学んでみたいと思います。
又、決して、お経が絶対であるとも思い込まないで学んでみたいと思います。
何しろ、2000年前に作られたものですから。
時代の制約もあるでしょうし、批判精神をも持ち、暗号解読のような気持ちで学んでみたいと思います。
お経は、本願寺の出した、【現代語版】浄土三部経を使います。
皆さんの中には、すでに持っておられる方もあるはずです。
これは、わかりやすく現代風に訳されたものです。それをもとに、ご一緒に学んでみたいと思います。
お経を持っておられない方には、1260円でお分けします。
ですが別にお経はなくてもかまいません。
聞くだけでも学びになりますから。
どうぞ気軽に誘い合ってきてみてください。
 
私の浄土真宗
 
今まで雑学をし、仏教や真宗に愚考をめぐらして来て、今、「私の浄土真宗」というものをまとめてみます。
僧侶、住職ということより、一人のただの人間として考えてみます。
経典や、親鸞聖人の書物には、教義としての、阿弥陀仏、浄土、本願、南無阿弥陀仏、信心、などの言葉があります。
これらを実体、実在としては信じていません。
でも、これらを実体的に実在と信じられる人々の立場も、私とは違う解釈としては、認めます。
これら、阿弥陀仏、浄土、本願、南無阿弥陀仏、信心、といった用語は、無名の経典作者なりに受け止められた命の答を、物語的、象徴的に表現されたものと受け止めています。
私は、これら、阿弥陀仏、浄土、本願、南無阿弥陀仏、信心、といった表現から、いつもの常用語、無我、慈悲、利他、布施といったことを学びます。
わたしも、これら無我、慈悲、利他、布施といった事柄が命の真実というものであろうと感じています。
そして又、そのことから、逆に自分や社会の自己中心、冷酷、利己、収奪といった不実な事実も、逆の意味の命の真実であるとも感じています。
そういうところに立って、
身近には、連れ合い、子供の苦悩、気持ちを出来るだけちゃんと受け止めたいものだ。
そしてそれは、兄弟、親族にも
さらには、隣家、に広がり、
出合うすべての人にも。
そして、自己中心、おごり高ぶり、我執、威張り、逆に、ひがみ、劣等感、羨望など、あらゆる心のひずみから少しでも解放されたいものだ。
それは同時に、この社会、世界のあらゆることを正確に把握でき、命の尊厳や、人間の尊厳が侵されている、戦争や、差別、環境汚染などに対して、それに即座に公正に対処できる勇気と熱が与えられたいものだ。
そして、願わくは、私のみならず、みんな多くの人がそういうことを命の一番大事なこととして目覚めて生きていって欲しいものだ。
と、こんなような思いで生きてゆこうとすることが、目下のところの「私の浄土真宗」というものであろうかと思っています。
 
日本国内のすべての僧侶と皆さんへのお願い
アシン・ケマサラ
全ビルマ青年僧侶連盟(ABYMU)議長
2007年9月18日
 日本に住むすべての僧侶と、信仰心の厚い在家信者の皆さんに対し、以下の通り緊急のお願いを申し上げたい。ビルマ国内情勢についてはインターネットやマスコミなどを通じて多くの情報が流れているところですが、よりよく理 解していただくためにいくつか補足をさせていただきます。
 ビルマ軍事政権は、1988年の民主化運動の後、国内に民主主義を実現するという約束を反故にし、軍事独裁政治を続けています。軍政と、僧侶や学生、ビルマ国民との争いは絶えることはありません。
 法を無視する独裁政権により、今のビルマは、政治的に不安定で、内戦を抱え、経済発展が遅滞し、生活水準は低く、医療や保健、教育は劣悪な状況に陥っています。3百万人を超える人々が隣国に逃れざるをえない状況が存在しています。民主主義を求めて声を上げた人々の多くが投獄されています。
 こうした抑圧的な状況下で、ビルマ国内の学生と国民の間で、軍政に反対する動きが2007年8月第1週から始まっています。それまで教学に励んでいた多くの僧侶たちが、人々の苦しい生活を理解し、支持を表明して、抗議行動に参加しています。
 ビルマ全土には約40万の僧侶がいます。したがって僧侶の運動は全国に波及しています。
 2007年9月5日、ビルマ中部のパコック市内で僧侶たちが平和的な行進を行っていたときのことです。デモを解散させようとしたビルマ国軍は、投げ縄を使って僧侶たちを捕まえ、街灯に縛りつけて殴りつけ、逮捕連行し、強制的に還俗させました。8人の僧侶が未だに釈放されていません。
 政府によるこうした非道な行いに対して僧侶は謝罪を求めました。また同時に、逮捕された僧侶をすべて釈放すること、物価高騰への対策を講じること、対話によって政治問題を解決することも求め、回答期限を9月17日としました。軍事政権の独裁的な指導者たちはこの要求に応じることも歩み寄ることもなかったため、ビルマ全土の僧侶は9月18日に、教えに基づく覆鉢(鉢伏せ行、パッタムニックッジャナカンマ)を行いました。そして全国の街頭を行進して、抗議の意志を示しています。
 ビルマの僧侶による今回の宗教的抗議行動は仏陀の教えに基づくものです。アングッタラニカーヤ(増支部)の3の254頁とヴィナヤ、チューラヴァッガ(律、小品)に記されているとおり、8つの理由のいずれかに該当するとき、僧侶は覆鉢を行うことが許されています。
今回はそのうち6つに該当しています。
【訳注】仏典上の該当箇所によれば、「覆鉢(鉢伏せ行、パッタムニックッジャナカンマ)」の要件とは以下の8つの行為である。これのいずれかに該当することを為した在家に対しては、覆鉢をなすことが許されている。またこの覆鉢を解く為には、本人が過失を認め懺悔し、仏陀がそれを過失として認め、受け入れ、作法に則って覆鉢を解くことが記されている(参考、『南伝大蔵経』第4巻、律、小品、190頁6行目〜194頁9行目。大蔵出版、昭和15年)。
(1) 僧侶たちへの布施を妨げる(2) 僧侶たちの福利を損なう(3)僧侶たちの住処を荒廃させる
(4) 虚偽の中傷によって僧侶たちに汚名を着せる(5) 僧侶たちの和合を乱す(破和合僧)
(6) 仏陀を誹謗する(7) 仏法を誹謗する
(8) 僧団(サンガ)を誹謗する
 
 釈尊は私たちに次のように説いています。もしこうした抗議の話を聴く、もしくは知ったなら、それがどんなに離れた地域のことであっても、あるいは法臘の差に関わらず、また大乗か上座かを問わず、僧侶たちは皆、仏教を護るためにこの行動に加わるべきである、と。したがって覆鉢行は広く世界的に行われています。
 以上の理由から、私は日本に住む僧侶、尼僧、在家信者の皆さんに対し、ビルマの僧侶たちが現在取り組んでいる行動に注目され、共に実践してくださることを強く求めるものです。
abymuburma@yahoo.com 2007年9月18日
 
出典:Sd. Ashin Khemarsara, (Chair, All Burma Young Monks' Union: ABYMU), Appeal to all Venerable Buddhist Monks and People of Japan, September 18, 2007. なお日本語訳はビルマ語原文と英語版に基づいています。
 
          2007年9月                                                                                          秋彼岸法座のご案内   23日(日)日中・夜・24日(月)日中・夜          日中 9時半・夜、7時半始 前席、講話・後席、話し合い          『仏法と人生と社会』  住職自修   
 
狭山事件
 
まずこれは警察、検察、裁判所(国家権力)による、おぞましい犯罪であろう。
よくもこんな無実の人を犯人に仕立て上げられるものだ。
私でも、検事や、警察、裁判官の立場なら保身のため、そんな犯罪に手を貸すのだろうか。
もし、自分が人を殺してもいないのに、犯人にさせられて、死刑判決になったらどうだろうかなどと考える事件でした。
これはかれこれ二〇年ばかり参加して学習している部落解放同盟加計支部での学習課題でした。
この事件は
今も第三次再審請求中で、作家の故、野間宏さんも狭山裁判という本にされた有名な事件です。
今から44年も前、埼玉県狭山で、16歳の女子高生中田善枝さんが誘拐され、脅迫状による、身代金要求で、殺害された事件です。
この事件の一ヶ月前、吉展ちゃん事件という身代金誘拐事件で、警察が張り込みをしながら犯人を取り逃がすという、警察の失敗事件がありました。
それで、警察の威信が問われていたのに、この狭山事件でも、又、同じように、張り込みながら、犯人を取り逃がしてしまうという失敗を重ねました。
警察への非難に、警察庁長官は辞任し、「なんとしても生きた犯人を捕まえねば」という必死な捜査聞き込みがなされたようです。
でも手がかりはなく、当時あった被差別部落への差別偏見から、被差別部落に捜査の的を絞ったようです。
そして、アリバイのはっきりしない石川一雄さん(当時24歳)に狙いが定められます。
石川さんは、アリバイ上申書を書かされます。
貧しさの為、ほとんど学校に行っていない石川さんは、上申書を誤字交じりのたどたどしい文で出しました。
しかし、警察は、その文字と脅迫状との鑑定結果を待たず、ただ、友人の作業着を借りっぱなしであるというようなことでも窃盗ということで、また、バイク接触事故での相手への暴力といった別件を交えて、脅迫状による恐喝未遂ということで逮捕します。
そして、脅迫状を書いたことや殺したことを白状せよと責められますが、石川さんは否認します。
弁護士は、別件逮捕取調べは不当だと訴えます。
二度の家宅捜索が行われます。
弁護士とはほとんど会えない状態でした。
手錠をかけたまま取調べや追及を受けました。
時間もわからず、寝かせてもらえず、精神的にまいったそうです。
刑事からは「石川を殺して埋めてしまっても、俺たちは刑事だから親には逃げられたといえばわからない。」というような脅迫もあったそうです。
警視は「お前は9件の悪いことをしている。
これだけで10年や20年は出られないんだ。
でも殺したことを白状すれば10年で出してやる。
男同士の約束だ、必ず10年で出してやる。」といったそうです。
さらに、すでに石川さんのお兄さんにはアリバイがあったことはすでにわかっていたのに、お兄さんが犯人かもしれないと思い込ませられたそうです。
犯人の残した足跡とお兄さんの地下足袋の大きさが一致したといい、おまえでなければ兄貴が犯人だと取調官は言ったそうです。
一家を支えていた兄貴が逮捕されたら大変だと思い、ついに兄の身代わりになろうとの思いで自白しました。
事件から54日目でした。
第一審の裁判が始まり事件以後十ヶ月目に死刑判決でした。
でもはじめは、警視との約束で10年で出られると思っていましたが、刑務所の仲間との話から、自分で翌日控訴しました。
又、同じ冤罪を訴えている死刑囚の竹内さんから、警察にだまされているから弁護士に話したほうがよいという指摘を受け、第二審になって初めて、自白を覆し、無実を訴えます。
でも、その後10年目、無期懲役判決となり、即日最高裁へ上告します。
その後3年目に口頭弁論も行わず上告棄却され、無期懲役が最高裁で確定します。
その後、再審請求します。
3年後再審請求を棄却されます。
その5年後特別抗告は棄却されます。
翌年第2次再審を請求します。
その8年後、今から13年前やっと、32年間の獄中生活から仮出獄できました。
24歳の青年も56歳になっていました。
でもその11年後、一昨年、最高裁は特別抗告を棄却します。
そして昨年第三次再審請求しました。
事件を振り返ります。
石川さん自白の三日後、3度目の家宅捜索のとき、今まで見つからなかった被害者のものといわれる、万年筆が鴨居から不思議にも、見つかります。
ここのところを事件後29年たって、捜索担当者だった元刑事が重要な事実を述べます。
「私たちが捜したずっと後になって、鴨居のところから万年筆が発見されたといわれ全くびっくりしました。
発見されたところは私が間違いなく探して何もなかったところなのに本当に不思議に思いました。」と述べています。
そして、なぜ早くそのことを話さなかったのかという問いに、「なかなか言い出せませんでしたが、色々と大きな事件でしたので差しさわりがあると思って言えなかったのです。
これまで弁護士さんも何回もこられましたが、なかなか言えませんでした。
今日お話したことが本当です。」と告白します。
そして「私は自覚と責任を持って捜索したので間違いありません」と供述調書にすることに同意し、最後に、署名、押印、指印まで押しました。
又、当時の捜索責任者の元警部も裁判中は、万年筆の見つかったところは、よく調べなかったなどとうそを言っていましたが、退職し、体調が悪くなって、23年たったとき、死ぬ前と思うと全部話すけどといって鴨居の辺りをくわしく、調べたことを白状します。
万年筆は、石川さんを犯人に仕立て上げるために、被害者のものということにして捜査関係者がひそかに置いた疑惑があります。
万年筆のどこを調べても、石川さんの指紋はおろか、被害者本人の指紋も出ないのです。
しかも、万年筆のインクの色も違っていました。
又、筋書きの自白では、素手で書いて折ったというのに、脅迫状にも指紋が出ません。
警察が丹念に捜索した後から、被害者のかばん、教科書、時計などが不思議にも発見されますが、時計は、品物番号が違っているのです。
本当にでっち上げ事件ということを思わざるを得ません。
それでも、今まで、全く、事実調べがなされていないのです。
検察は、相当な物証を保持しているのだそうですが、それを弁護側に見せてくれないのだそうです。
他の諸国では、証拠物件は公平に開示すべきだとされているのに、日本の秘密性に遅れを思います。
脅迫状でも、当時の石川さんにはとても書けるものではないとか、字体の違いとかそのほかいろんなところに矛盾がいっぱいあります。
石川さんは、死刑判決を覆すために、獄中で、文字を覚え、書くことを必死で学び、支援を訴えてきました。
元死刑囚の免田栄さんは、第6次再審請求で、34年6ヶ月ぶりの無罪判決でした。
同じく元死刑囚の谷口繁義さんは34年目の無罪釈放でした。
戦後50件の冤罪事件でなんと42件が自白によるものだとテレビで言っていました。
いかに自白というものが脅迫されるものかということがよくわかります。
今年3月に冤罪で無実となった、鹿児島志布志、選挙買収でっち上げ事件の報道を見ますと、脅迫尋問で、3人が自殺未遂、10人が心身の不調で入院しています。
一日中怒鳴られ不眠でふらふらになったという告白もありました。
狭山事件は、まだ無罪判決となっていませんが、犯人に仕上げ、でっち上げるものの非道、卑劣、それを真に受けるもの、おかしいと思いながらも、上司に逆らえず、保身で加担するもの、私も含め、人間の恐ろしさ、弱さを考えさせられます。
一刻も早い無罪判決を切望します。
首相・閣僚による靖国神社公式参拝中止要請     私たち真宗教団連合は、昭和44(1969)年に「靖国神社法案」に対し廃案要請を行って以来、今日に至るまで「首相・閣僚による靖国神社公式参拝中止要請」を行ってまいりました。それは、申すまでもなく靖国神社が明治政府の国家神道のもとで創設され、国家の目的遂行のためである戦争を正当化するとともに、戦没者を英霊として祀ることにより国家の国民に対する戦争責任を回避する機能を果たしてきた特異な一宗教施設であることによります。
 その宗教施設に、首相・閣僚等の公職にある者が参拝することは、日本国憲法に定められた「信教の自由・政教分離」に抵触することは言を俟ちません。私たち真宗教団も、先の大戦において釈尊や宗祖親鸞聖人の教えに背き、軍国主義化の中で、国策としての戦争や国体護持に協力してまいりました。 私たちは、そのような罪責の歴史を深く慚愧し、戦争で亡くなられた全ての人々に対して深く哀悼の意を表すとともに、二度と同じ過ちを繰り返さぬよう、宗祖親鸞聖人の願われた「世の中安穏なれ、仏法ひろまれ」とのみ教えを体し、非戦・平和の願いを新たにするものであります。 そして、釈尊の「兵戈無用(ひょうがむよう)」という軍隊も武器も用いることのない平和な社会の実現に向け、今後も様々な取り組みを進めてまいりたいと存じます。
 以上のことから、貴職におかれましては、靖国神社のもつ問題性を十分に認識され、憲法の精神に背く違憲行為であります公式参拝を中止されますよう要請いたします。平成19(2007)年8月7日
内閣総理大臣 安倍 晋三 殿
真宗教団連合 浄土真宗本願寺派総長不二川公勝
真宗大谷派  宗務総長    熊谷宗惠
真宗高田派  宗務総長    青木眞曉
真宗佛光寺派 宗務総長  大谷 義博
真宗興正派  宗務総長  藤井 浄行
真宗木辺派  宗務長  安田 義樹
真宗出雲路派 宗務長  平   弦月
真宗誠照寺派 宗務長  櫻井 徳良
真宗三門徒派 宗務長  黒田 昌英
真宗山元派  宗務長  佛木 道宗
2007年8月
 
盆会法座のご案内  16日(木)夜〜 18日(土)日中  初盆物故者・全戦没者追弔法要・・・17日々中      日中 9時半・夜、8時始 前席、講話・後席、話し合い 『仏法と人生と社会』  住職自修 本郷親和会共催
 
親鸞聖人銅像建立ものがたり
 
『前からずーっと心の中に暖めていたことなんですけれど』とある女性が私に語りかけられました。
『実は、親鸞聖人の銅像を報正寺の境内に立てさせていただきたいのです。』と話し出されました。
思いがけないことでした。
女性は、そのとき、親鸞聖人銅像建立への思いとして
両親、ことに父上が、熱心な念仏者で、その父上の念仏から出てくる、言葉、態度が、今の自分の念仏につながっておられること
又、子供のときから、報正寺で遊ばれた思い出、又、報正園という地域の子供の仏教保育の創立時代、職員として勤めていただいていたことなどから、報正寺の境内の荘厳に、また、親族はじめ、子供たちや多くの方々への仏縁の一助となればというようなことを語られました。
私はそれを拝聴し、以前から、その女性の仏縁の深いことを知っておりましたので、ありがたくお受けさせていただいたことでした。
父上は、よく口癖のようなつぶやきで、『ハーッ、まこと、まことよ、なんまんだぶ』といつも申しておられました。
仏法を思われては、『ハーッ、仏様はまことよ、それに引きかえ、わしは、うそよ、まこと、まことよ、なんまんだぶ』とつぶやかれていたのであろうと拝察したことでした。
そこで、銘版は、『親鸞聖人御像』とせず、親鸞聖人の主著、顕浄土真実教行証文類に書かれている、親鸞様の言葉、『誠なるかな摂取不捨の真言云々』の『誠なるかな』と父上の『まこと、まことよ』の言葉から引用させていただくことにいたしました。
この文言は、親鸞様が、阿弥陀仏の『どんなに罪深きものをも決して捨てず、すべて抱きとって、みんなを自分中心でない、大慈悲の仏に必ず、なさしめる』という仏の無限に広い、深い慈悲の言葉を『誠なるかな』と感嘆されたものと受け止めます。
また、親鸞様は
『まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して(中略)恥ずべし、傷むべし』と悲歎の言葉を書き残しておられます。
これは、仏の大慈悲の心に引きかえ、この親鸞は、形だけの、食わんがための偽坊主であり、愛憎と欲望の果てしなく広く深い海に沈没し、名誉欲や利欲の深い山に迷い惑っているようなまことに悲しい凡愚の身で、アーッ恥ずべし、傷むべし』との嘆きの言葉といただきます。
施主の女性は、父上の思い出話の一つを語ってくださいました。
それは、あるとき、孫たちが、おじいさんである、父上の、背中を丸めて、火鉢にしわだらけの手を差し伸べてすわっておられる姿を見て、『サルじゃ、サルじゃ』とはやし立てていたことがあったそうです。
そのとき、施主が、『お父さん、孫が、あなたをサルじゃサルじゃ言うて騒ぎよるよ』というようなことを申されると
父上は、『ハーッ、サルじゃ言うてやー,サルに見えりゃあまだええよ、わしの心あ、鬼じゃがのお。なんまんだぶ。なんまんだぶ。』と念仏を申された、というようなことがあったと何度も話し聞かせてくださったことがありました。
『わしが様なものを親様(仏様)が・・・・』というようなことをよく申しておられたなあと、そのおじいさんの顔や声色が浮かんできます。
でもそのおじいさんは、平生一人暮らしのときに、部屋のあちこちに米粒を置いていたり、冬などは、雪のある庭先に豆をまいていたりしておられたということもよく聞いています。
それは、家に一緒に住んでいるネズミにも又、冬の寒中には、寒鳩に食わせるんだといって『あれらもひもじいんだけえ』とか言って、他の生き物にも食べ物を与えておられたというのです。
こんなおじいさんが、いつも、仏を仰いでは、『まことまことよ』申され、自分の煩悩のうそを見つめては、『まことまことよ』申されていたことから、銘版は、『まことなるかな』という言葉にさせてもらうことになりました。
これは、子供でも読めて、『これはどういうこと?』と問われると、これがきっかけで、この問うた子供さんに仏縁を結んであげることにもなると、施主ともども思ったことでした。
親鸞様の姿は、竹の杖をついて、ちょっとうつむき加減で伝道の旅をしておられる姿です。
自分の煩悩を見つめ、又世の悲しみ、人の悲しみ、迷いを憂いながら、それゆえにこその伝道のお姿と尊く拝ませていただいています。
あのわらじの伝道の旅姿を、づーっと私の戒めとさせていただこうと思っています。
 
参院選
 
自民党公明党の与党が議席を減らし、民主党が大幅に議席を伸ばし、参院第一党となりました。
社会保険庁の積年の事務ずさんが大きく、与党批判になったのでしょう。
松岡農水大臣の自殺から赤城大臣の事務所費不明問題など、利権、金の不透明さ、疑惑も原因でしょう。
柳沢厚生労働大臣の、女性は産む機械といった発言、久間防衛大臣の、原爆、しょうがない発言、又、麻生外相らによる、核兵器保持懸念発言などへの批判もあったでしょう。
又、非正規社員、サービス残業、住民税増税、大企業、富裕層優遇、貧困層増税、餓死など生活格差増大、不満もあったでしょう。
安倍首相の『戦後体制からの脱却』といった憲法9条、20条改変による、戦争の出来る国づくりへ移行することへの批判もあったと思います。
かなりな人気によって首相になった、安倍首相にとって、その政治成果が問われる、初めての国政選挙でした。
この選挙で民主党に逆転され、国民から大きく批判された結果になって、辞任が叫ばれても、自分の掲げた政治目標が実現していない限り、辞任しないということの安倍首相の心を想像してみます。
言われるように、安倍首相は、おじいさんの岸、元首相の影響で、国家としての敗戦の屈辱を晴らし、伝統と力を世界に誇示できる日本という国をぜひとも作りたいという思いが強いのであろうと思います。
武力、軍事力なくして何が国家といえるかという考えが強いのだろうと思います。
日本を丸腰にされ、軍事力をもぎ取られた、アメリカに押し付けられた憲法は、国家の威信と気概にかけて、作り変えるべきだという強い信念があるのだろうと思います。
ですから、この度の選挙で負けても、これは社会保険庁などの不祥事でたまたま運がわるかったのだ。
わしは、小泉さんの後を受け絶大な期待をになって首相になったのだから、こんなことでへこたれるものか、わしは、国家の栄光のためにやらねばならんのだ。
というような悲壮な使命感が辞任を押しとどめているのでしょう。
そういう国家至上主義的な考えは、民主党の小沢さん含め、多くの議員、人民も持っていると思います。
そういう国家主義的な考えに対して、無我、慈悲、利他、布施などを原理として説く仏教が導こうとしているものを考えてみます。
それは、武力、軍事力なくして何が国家といえるかという考え方に対し、軍事力を持ち、戦争を是認し、国内外の人民の何よりも大事な命を奪って何が国家といえようか。
又、諸外国から信頼されず、恨まれ、警戒され、しかも人民は、人民どうしで人間としての思いやりややさしさを失って、獣のように争い、生活の差別や格差を容認してそれで国家といえようかなどと考えるのですがいかがでしょう。
 
 
 
2007年7月
お経を学ぶ会のご案内  
                                                                                                              22日(日)日中・夜  日中9時半・夜8時始 学習聖典・「浄土三部経」 住職自修 参加費無用                                              どうぞ気楽に誘って来て下さい 引き続き浄土三部経をじかに学びます。                                          今、大無量寿経を学んでいます。 もとより、このお経は、どなたが創作されたのかは今もわかっていません。 この、匿名の創作者は、おしゃかさんの思想を基に、独創で、阿弥陀仏物語を創作されたと考えられています。 又、阿弥陀仏の物語は、この大無量寿経の、法蔵説話以外に、15通りの異説があるようです。 例えば、妙法蓮華経には、大通智勝如来の大九王子と説かれているそうです。 又、大宝積経には、焔意王と説かれているそうです。どんな内容で説かれているのか、まだ詳しくは知りません。 経典作者は、いろんな阿弥陀様物語を創作して、仏教を伝えようとしているのであろうと思います。 又、この15異説の創作者が同じ人か違う人かもわかりません。 ともかく、おしゃかさんの思想の基本は、いつも申しますように、無我、慈悲、利他、布施といった事柄と思えますので、経典作者は、阿弥陀様物語をとうして、この、無我、慈悲、利他、布施といったものを伝えようとされたものと考えられます。
前回の学習では、49ページに、浄土の世界のことが表現されてありました。
お釈迦様の言葉として『無量寿仏の国のものたちはみな、功徳の力により、その行いを原因としてもたらされたところに住んでいるのである。
そこで須弥山がなくても差し支えないのである。』と表現してあります。
ここに、はっきりと、浄土とは、物理的実在の世界ではなく、無我、慈悲、利他、布施といった功徳を積んで開かれている精神的、心理的な清らかな境地であるということが示されてあると受け止められます。
このように、暗号解読のような気持ちで学んでみたいと思います。
お経は、本願寺の出した、【現代語版】浄土三部経を使います。
皆さんの中には、すでに持っておられる方もあるはずです。
これは、わかりやすく現代風に訳されたものです。それをもとに、ご一緒に学んでみたいと思います。
お経を持っておられない方には、1260円でお分けします。
ですが別にお経はなくてもかまいません。
聞くだけでも学びになりますから。
どうぞ気軽に誘い合ってきてみてください。
 
反省その後
 
先月号で、私自身が今まで、家族初め、他者に、がさつで、ええかげんな対応で、自己中心でしかなかったことを、人間として、僧侶として恥ずかしかったとかなり神妙に、反省したことを述べました。
そして、この神妙で謙虚な気持ちがずっと続くことを願っていました。
それは、この心理状態の自分が本当の自分だと思い、今までの自分を恥ずかしいとかなり本気で思ったからです。
これは今も続いていると思っています。
でも、2〜3週間ぐらいたった頃、連れ合いは、もう全く元に戻ったねといいました。
それを聞いて、私も、やれやれ、確かに、神妙さは薄れているなとは思っていましたから、そうかもしれんとは思いましたが、でも、この反省の心のリズムは失ってはいけないと思って、いまもずっと、この心のリズムを失わないよう努力をしつづけています。
私は、子供の時から、なんとなく、心のどこかで自分は心が屈折しているなと感じていました。
そのわけは、多分、母の兄弟が早死にして、母が一人残り、父が養子縁組で入寺してくれ、皆さん待望の長男として私が生まれて、ずいぶんちやほや大事にされ、わがままな自分に育ったのだろうと思いました。
そして3年後、妹が生まれ、多分私は、妹に嫉妬したのだろうと思います。
妹に両親を取られたと思ったのでしょう。
子供の時、私は、いじわるで、ハサミで妹の目をついたことがありました。
子供ながらに、大変なことをしたと思った記憶があります。
でも、両親や祖母からひどく怒られた記憶がありません。
甘やかされたのでしょうか。
そして、生来の気弱さで大きい子が怖く、子供どうしではわがままが出来ず、萎縮しているのに、大人からは、『坊ちゃん』とおだてられ、そのギャップで屈折していったんだろうと思います。
子供のときの私のことを『けっか、悪かったけえのう』というようなことを幼なじみからいわれ、ヤレヤレと思ったこともありました。
運動の下手な劣等感、そのくせ自意識の強さ。
今はもう亡くなりましたが、体の一番弱い子を突き飛ばしたこともありました。
家ではわがままが通っても、学校や近所では思うようにならないストレスが、弱いものいじめになったと思っています。
下校中、怖い上級生からいじめられないように警戒し、いつもは普通に遊んでいる、朝鮮人の同級生に、谷掃除で引き上げられているトゲのあるタラの木を彼の足にぶっつけ、上級生からのいじめを避けるという卑劣なことをしたことを覚えています。
彼は『イタイイタイ』といって悲しい目をして逃げました。
このような生育暦の中で、ゆがんだものを持ちながら今に至りました。
周りの人を友と見るという意識よりも、どこかで、敵意を持ち、ハリセンボンのようなよろいを身に着けていたようにも思います。
それでも、いっぱしの正義感のようなものを誇っていたように思いますが、これも高ぶりになっていたと慙愧します。
頭や理屈や、文章では、無我、慈悲、利他、布施などと殊勝げに言っていましたが、その実、身についてはいませんでした。
そういうことで、父母にも連れ合いにも、兄弟、子供にもちゃんと親身になって向き合っていませんでした。
いまさらながら、もはや手遅れですが、すまないことです・・・。
まず身近なものにさえ、きちんと向き合わずにいて、他者に向き合うということは無理というものでしょう。
今この文章を読んでいてくださる皆さんにも、多々不快な思いをおあたえしていたことと思います。
月並みな言葉で、恥ずかしくも思いますが、実に、不徳の致すところで、お詫び申します。
人が死ぬとき、たいていの人が、もっと、もうけておけばよかったなどということより、もっと家族を大事にしておけばよかったと後悔するそうです。
なら、平生のとき、身近な人を大事にしておけばいいということはわかっているつもりなのに、なかなか、駄目です。
最近の思いです。
偽善でしかないことはもちろん重々承知の上ですが、平生の自分中心な思いの中にも、たとえ、相手に対し、良い結果になろうがなるまいが、また、理解されなくて、拒否されようとも、まず家族のものから始めて、他者が喜ぶであろう、ちっちゃいことでも何でも、やってみようとする、そういう思いがささやかでも、沸きあがってくるところを、これを何よりもありがたく思いたいと思っているところです。
「どうせそのうちもとの木阿弥よ」という声も聞こえてきますが。
 
参院選
 
国の選挙が近づいてきました。
争点が憲法改定であるとか言われてきましたが、社会保険庁の年金事務ずさんで、少し、与党も動揺し、憲法改定ということが、今ちょっと弱くなっているような感じです。
でも、過日、憲法改変の手続きとしての国民投票法案が通り、早ければ3年先には憲法改変が国会で持ち出される可能性もあります。
憲法改変の一番の力点は、憲法9条でしょう。
この不戦憲法といわれる9条を変えるということは、日本が、戦争の出来る国へと改変することですね。
そこで考えてみます。
米国では、個人の銃保持の自由が、銃犯罪の問題のように思い、世界各国に於いても、銃は、警察のみが保持し、個人に保持の自由を与えないほうが良いと思うのです。
それと同じように、非現実と一笑に付されるかも知れませんが、世界各国に軍隊があるから、戦争になるように思いますから、今後の人類の未来の平和に向けて、至難ながらも、日本も、世界各国も、軍隊を縮小解体する方向に向かい、出来る限り公正に編成された国連のみが、国際警察としての軍事力を保持し、可能な限り、非暴力で、国際紛争に対処するというような方向こそが、国際社会の未来の進歩への道として考えてみるということはいかがなものでしょうね。
ここで戦争というものを容認するか、否定するかということの本質を考えたいと思います。
これは、個人の命、個人の尊厳を何よりも尊重しょうとし、国家といえども奪ってはならないというところを厳密に踏まえたいとするかどうかにかかわると思っています。
 それはつまり、私を始め、万人の人間性への覚醒と共に、獣性への悲歎と、人間であろうとする願いの深まりとも言えるでしょうし、又人間としての熟度の高まりということでもあるでしょうね。
 
2007年6月
                     夏法座のご案内                                    6月27日夜(水)〜29日(金)日中      夜8時・日中9時半始め 『仏法と人生と社会と』 住職自修
 
反省したこと
 
つくづく、人間として、僧侶として、恥ずかしいと反省したことがありました。
これは、『鏡の法則』という実話に基づいた本を読んでからです。
この本は、もう百万部を超えて売れている本だそうです。
ある門徒さんから紹介されたものです。
以下、その内容を紹介してみます。
ある母親が子供のいじめで悩んで苦しい思いをしていました。
子供の力になりたいと思っても『ほっといて』と拒否され、子供にあれこれ聞きだそうとし、学校の転校も考えたりしたのですが、子供は、母親に心を閉ざしたままでした。
子供のいじめられる苦しさと、その子供が母親に心を開いてくれない二重の苦しさで胸が痛み苦しんでいました。そこで、ある専門家に相談しました。
わらをもすがる思いのようでした。
そこで彼は、子供がよその子からいじめられ、責められているのは、彼女が誰かを責めているからだといいました。
『あなたの人生の現実は、あなたの心を映し出した鏡で、自分の大切なお子さんが人から責められて困っているということは、あなたが大切にすべき人を責めてしまっているということです。』といいました。
ここの因果関係は、私にはちょっと、?です。
『感謝すべき人、それも身近な人を、あなた自身が責めているのではないですか?』と問われます。
そこで、夫との関係を聞かれました。
自分は大学出なのに、夫は高卒で、教養がないとか、読むのは週刊誌、トラックの運転手で、がさつでデリカシーなく、思慮の浅さを思い、どこか軽蔑していて、よく腹が立ちけんかになることもあったことを告白します。
夫を一番受け入れられないタイプということも告白します。
又、続いて、父親をゆるしていないこと、すきになれないこと、許すことができないことを告白します。
そして父親への怒り、悔しさなどを、『馬鹿やロー』とか『大嫌い』とか過去の嫌なことを気が済むまで書き出してみなさいといわれ、やってみます。
口やかましく、夕食が説教の時間、自分の思い通りにならぬと怒鳴りつける、酒を飲んでは、仕事の愚痴を言う。汚れた仕事着で食事をする等を思い出し、『人でなし、親じゃない』とか書いてぶっつけました。
少女時代、『お前はろくな女にはならん』といわれたのがきっかけで、あいだが冷え切っていました。
高校生のころから20年以上、他人行儀な付き合いで実家に帰っても挨拶程度の会話しかせず、電話でも、父が出れば、すぐお母さんに変わってというようなことでした。
『あんたこそろくな親じゃない』と書きながら涙が止まらなかったそうです。
次に、父に感謝できることを思い出し書くようにすすめられます。
働いてくれたおかげがあったこと、子供のとき、公園に連れて行って遊んでくれたことを思い出し書きました。
次に、父に謝りたいことを書くことをすすめられます。
心の中で反発し続けたことを書きます。
次に、勇気がいるが、今からお父さんに電話をかけて、感謝とお詫びを伝えてみてはとすすめられます。
実行は自分の判断に任せられます。
実感がわいてこなくても、書いたものを読むだけでもいいし、伝えてすぐ電話を切ってもいいとすすめられます。
自分が謝るのは筋違いだという思いがあるまま、不思議な自分を感じながら、電話をかけました。
母が出て、お父さんに取り次いでもらいます。
緊張が高まりました。
『な、なんだ?わしに用事か?』
自分では何を言っているのかわからないくらい混乱しつつ話し始めました。
『今まで言わなかったんだけど言っといたほうがいいかなーと思って、お父さんが働いてくれたこと、子供のときに公園で遊んでくれたこと、ありがたいってゆうか、感謝みたいなこと言ったことないと思うし、そして、私、心の中で結構お父さんに反発してたし、それも謝りたいなと思ったの。』等々
ちゃんとは、ありがとうもごめんなさいも言えませんでした。
父から返事がありません。
泣きくずれている夫の異常に、母が電話を取り、『お父さんに何を言ったの、ひどいこと言ったんでしょう』と
受話器の向こうでは父の嗚咽の声がきこえます。
生まれて依頼、父が泣く声を一度も聞いたことはなかったのです。
あの強かった父が。
自分も涙があふれてきました。
父は親子らしい会話もしたかったし、もっと愛したかったんだろうに、自分は父の愛を拒否して来た。
父はさびしかっただろうと思い、娘に愛が伝わらないことの辛さを思い、自分も嗚咽しました。
父は、涙声で『すまなかった。わしはいい父親じゃなかった。お前にはいっぱい嫌な思いをさせた。
うっ、うっ、うっ。』
『お父さんごめんなさい。私こそ悪い娘でごめんなさい。そして私を育ててくれてありがとう。うっ、うっ、うっ。
電話を切って、しばし呆然のなか、父の愛、父の弱さ、父の不器用さが見えていなかったことに気がつきます。
自分の息子に拒否される辛さが、自分が拒否した父親の辛さと同じことに気がつきます。
そして、口うるさい父親が嫌だったように、同じ口うるさい自分を息子が嫌って拒否していることを思いました。
押し付けがましい愛情が、息子にとって負担だったのだと気づきます。
そして、昔、父親に自分のことを信頼して欲しかったように、息子も、自分のことを信頼して欲しいと思っているに違いないと感じます。
自分が手助けしないとこの子は解決できないと思い、あれこれ問いただしたり、説教したりしていたことを反省し、もっと信頼してやりたいと思いました。
続いて、今度は、夫へのことを反省します。
夫に愚痴はぶつけても、ちゃんと相談することなく、夫からのアドバイスも受け付けられなかったこと。
ところが、息子は、父親に心を開いていて本音を言っているらしいことを思い出し、息子に信頼されている夫のよさに気がつき、又、自分が夫への感謝を失っていることや、軽蔑していることなどを反省してゆきます。
次に、父に感謝できること、父に謝りたいことを思い出し、書き出せるだけ書き出してみなさいとすすめられます。
そしてもう一つ、父に対してどのような考え方で接したらよかったのかも思い起こしてみなさいとすすめられます。
さらに、息子の寝顔に心の中で100回、ありがとうとささやきかけてくださいとすすめられます。
父への感謝
現場監督のきつい仕事を続けて、家族を養ってくれた。
肉体労働の疲れの中を、夜中に救急病院に連れて行ってくれた。
よく海や川で泳ぎを教えてくれた。
毎年誕生日には、好きなメロンを買ってくれていた。
いじめられたとき、その子の家に行って抗議してくれた。
家計の大きな負担になる、私立大学だったのに、文句言わず学費を出してくれた。
就職が決まったとき豪華な出前寿司を取ってくれた。
でも『寿司は好きじゃない』と私は食べなかった。
父はしょんぼりしていた。等
又感謝したいことに連鎖して、謝りたいことも涙とともに浮かびました。
許せないという思いにとらわれていて、父の愛に気がついていなかったのです。
愛されていながら、何もしてあげていないことに気づきます。
父の仕事を品がないとか、知的でないとか、尊敬していないことにも気づきました。
父の心の奥にある愛情に気づけばよかった。
自分も、父も不完全で不器用な人間であることを理解すべきだった。
感謝して、父を喜ばせようとすればよかった。
その上で、嫌なことは嫌と伝え、互いに居心地いい関係を築くべきだったなどと思い返し、これは夫とのあるべき関係でもあると感じました。
自分の人生のパートナーであり、働いていてくれる夫に感謝を忘れていたことに気づき、今日夫が帰ってきたら感謝の言葉を伝えようと決意しました。
やがて息子が帰ってきて、いじめっ子が『いつもいじめててごめんな』と言ってくれたと母に告げました。
私は、これは偶然ではないのかと思っていますが、
相談者は、母の心の変化との因果関係を考えられているようです。
母は、出前を取り、息子と話そうとします。
『今まで口出ししすぎてごめん。これからはなるべく口やかましくしないように気をつけるからね。助けが必要な時にはいつでも遠慮なく相談してほしい。あなたのことを信頼しているからね。』といいます。
出前が届き、自分はお父さんと食べるから先に息子に食べるようにいいます。
息子は、『えっ、どうして、いつもは先に食べるのに』といいます。
母は、『今日はお父さんと一緒に食べたいし、疲れて帰ってきて一人冷めた親子どんぶり食べるのさびしいでしょう。』といいます。
息子は『じゃあ僕もお父さんと一緒に食べる。』といいます。
会話の中で、母は夫をほめます。
息子は、『勉強しないとお父さんのような仕事くらいしか出来なくなるんでしょう』と問いますが、母は、間違っていたことを述べ、父に感謝しょうといいます。
夫が帰ってきました。自分の帰りを待っていてくれたことがうれしかったのか上機嫌でうまいうまいと食べました。
夜、息子の寝顔にありがとうを唱えながら息子が天使のように見え、又涙があふれてきたそうです。
その夜、お母さんからファックスが来ました。
お父さんは70年間生きてきて今日が一番うれしい日だといい、いつも晩酌するのに、酒によってしまって、このうれしい気持ちが味わえんかったらもったいないといって飲まなかったことなどが書いてありました。
又涙が出て、夫に今日のすべてを話し、妻は泣きながら謝り、夫は、泣きながら聞きました。
明日、相談者に夫婦でお礼を言い、彼は、彼女に、父、夫、子供に心の中で『ありがとうございます』と100回づつとなえる時間を持つようすすめます。
夕方息子は元気に帰ってきて、野球に誘われたことに喜んで遊びに行きました。
母は、声が詰まって行ってらっしゃいの一言が出ませんでした。
この実話のなかの、母の反省と、息子のいじめ解決との因果関係には?ですが、私自身感動し、私の過去の家族等への人間関係を反省し、恥じ入りました。
理屈は言っていても、ちゃんと家族の痛みに向き合わず、自分中心でしかなかったことに、人間として、又僧侶として恥じ入りました。
大体熱しやすく、さめやすい自分ですから、すぐに思い立ち、かなり神妙に、家族や妻の両親におわびを言ったしだいでした。妻は『気味が悪いようだ』といいました。
この心境、づっと続いてほしいのですが・・・。
 
2007年5月
お経を学ぶ会のご案内
 31日(木)夜〜6月2日(土)日中     日中9時半・夜8時始               学習聖典・「浄土三部経」 住職自修  参加費無用                              どうぞ誘って来て下さい                                                引き続き浄土三部経をじかに学んでみようと思います。 まずもって、お経について、大事なことを確認しておきます。       これは大事なことですから、よく認識しておきましょう。 三部経は、今まで、お釈迦様の直説といわれてきました。         ところが、最近はそうではなく、おしゃか様が亡くなっておよそ500年後に匿名ですが、どなたかがお釈迦様の説かれたこととして創作されたものであるといわれるようになりました。                匿名の経典作者は、独創で阿弥陀仏物語や、浄土という象徴的な表現を通しておしゃか様の教えつまり、無我、慈悲、利他、布施といった事柄を伝えようとしたのであろうと考えられます。               今、阿弥陀様の願いの総て48願まで学びました。 ずっと学んできて、仏の願いということで人間を超えるとも言うべき、尊い究極の願いというものを学び続け、その崇高な精神に感動し続けています。          あわせて、私たちがいかに、小さな自分中心の欲望に振り回されていることかを知らされます。                  ここまで学んできて、やはり仏教は、万人が、無我、慈悲、利他、布施への道を歩むことを示す教えであることを確認し続けています。これからも、このお経を読み解きながら、今を生きる苦悩の私たちが何をどう学ぶことが出来るか楽しみに学んでみたいと思います。 又、決して、お経が絶対であるとも思い込まないで学んでみたいと思います。
何しろ、2000年前に作られたものですから。
時代の制約もあるでしょうし、批判精神をも持ち、暗号解読のような気持ちで学んでみたいと思います。
お経は、本願寺の出した、【現代語版】浄土三部経を使います。
皆さんの中には、すでに持っておられる方もあるはずです。
これは、わかりやすく現代風に訳されたものです。             それをもとに、ご一緒に学んでみたいと思います。
お経を持っておられない方には、1260円でお分けします。
ですが別にお経はなくてもかまいません。
聞くだけでも学びになりますから。
どうぞ気軽に誘い合ってきてみてください。
 
科学的人生論
 
人間とは何か、人生とは何かということを問うのは今も昔も変らないだろうと思います。
イエスキリストや、お釈迦さんの時代と違って、今は、科学が進歩し、宇宙、生命等解明が進んでいます。
そこで、雑学ですが、科学的に人生を考えてみたいと思います。
もちろん、科学が絶対というわけではないと思います。
今後も、まだまだ、科学は進歩するでしょうから。
でも、一応は、今の文明は、科学によるところが大きいと思いますから、かなり、科学の解明したところを信用したいと思うのです。
人間とは何か?
猿の仲間です。
チンパンジーや、ゴリラ、オランウータンが私たちに近い猿だそうです。
猿と私たちは、もと、同じ先祖で、途中から枝分かれしたようです。
猿の前は、ねずみの仲間だったそうです。
ねずみの小便のにおいをかぎますと、人間の小便のにおいとよく似ていると思いますね。
その前は、哺乳類型は虫類であったり、陸に上がる前は、魚のように、水の中に生きていたそうです。
ですから、私たちも胎児のときには、えらの名残がありますね。
それ以前はバクテリア、微生物であったようです。
それ以前は、生命の元のたんぱく質や、核酸、アミノ酸などでした。
そしてそれらの元は水素、酸素、炭素などの元素でした。
そしてこの元素は、宇宙生成期や星の内部等で創造され、爆発によって、宇宙に飛散しています。
そして、この元素の元は原子であり、
これは、宇宙生成時に出来たものでした。
この宇宙の生成は、今から約137億年前にさかのぼります。
この宇宙生成は、『超ヒモ理論』によりますと
私たちの、この時間も空間もまだ出来ていない、高エネルギーに満ちた真空の場が動くことによって膨張し、やがてこの私たちの時間空間が出来た前後に、物質の元の『超ヒモ』ができ、ビッグバンという大爆発が起き、温度が下がるにつれて、素粒子から、原子やがて元素などが生成され、それらが引力で集合し、星や銀河が生まれていったといいます。
この『超ヒモ理論』は、今この物理学の世界で先端のようですが、まだまだ研究中で、今後の究明が待たれます。
さて次に星について調べました。
私たちの天の川銀河には、およそ2〜3千億の星が有るといいます。
三千億ですよ。
さらにこの銀河が近くに3〜40個あり、この銀河集団を局部銀河群というのだそうです。
さらにこの局部銀河群を含む数百から数千の銀河集団をおとめ座銀河団というのだそうです。
さらにこのおとめ座銀河団のような銀河の集団を数個以上包んでいるのが超銀河団というのだそうです。
今この宇宙に銀河が約一兆個あるといいます。
ですからこの私たちの宇宙の星の数は、ざっと、三千億×の一兆倍個という数になります。
そうとうな数です。
又、この星など見える物質はわずか1%で、後29%が、見ることが出来ない、暗黒物質で後の70%が真空のエネルギーだという説明もありました。
しかも、『M理論』という理論では、この私たちの宇宙意外に、11次元に私たちの宇宙とは全く違った、無数の膜宇宙があるとも論じています。
私たちの宇宙は、この無数にある膜宇宙の一つで、さっき論じたビッグバンという宇宙の始まりの大爆発は、膜宇宙と膜宇宙との衝突からだと論じています。
これも荒唐無稽な単なる空想ではなく、数式論究で導き出されるものなのだそうです。
私はとてもついていけません。
さて次に、未来を見てみましょう。
20億年後には、太陽が膨張し、そのために地球の海は蒸発するといいます。
又50億年後、肥大化した太陽は地球を飲み込むといっていましたが、今はそうではなさそうです。
いずれにせよ生命は滅びるのではありませんか。
その後、太陽は、収縮して小さな白色矮星になるといいます。
さてその後の宇宙の最後はどうなるのでしょうか。
昨年の観測結果では、将来、私たちの宇宙はずーっと膨張し続けると言います。
私は今度は、収縮するのかと思っていましたが当てが外れました。
今後も、宇宙は膨張し続け、さらに、銀河の中心にあるといい、周辺の星から吸い込んでいるという巨大なブラックホールに星は吸い込まれますが、やがてこのブラックホールも蒸発し、冷え切った光のない空爆とした空間が残るだろうといいます。
それははるか先、10の100乗倍年のことになります。
これは、10年の12乗倍が一兆年ですから、さらに、さらにとてつもない先ではあります。
そして、私たちの宇宙は、絶対零度に向かって永遠に冷却し続けてゆくといいます。
もう物質は、ここでは永遠に生成されないそうです。
こんな宇宙・生命、のはじめと終わりを本やら、インターネットで調べました。
キリスト教の聖書では、預言者のモーセが神から十戒を授けられ、五書を書いたといわれています。
ここに創世記として天地創造が書かれています。
旧約聖書を批判的に分析研究する学問を旧約聖書学というそうです。
それによると、バビロニアの神話に対抗する形で、自分たちの信仰書を作り出したものが創世記であるとか、バビロニア神話を含む、先行する神話を素材にして、それらを換骨奪胎して、新しい天地創造物語を作り出したというのが実態に近いなどと論じています。
そのように、仏教でも、昔は、お経は、すべて、おしゃかさんの直説だと信じられていましたが、今では、阿弥陀仏にしても、おしゃかさんの直説ではなく、おしゃかさん滅後、およそ500年ごろに匿名の作者が、創作したものであるということがわかるようになりました。
その意図も最初に書いていますように「匿名の経典作者は、独創で阿弥陀仏物語や、浄土という象徴的な表現を通しておしゃか様の教えつまり、無我、慈悲、利他、布施といった事柄を伝えようとしたのであろう」と考えられます。
つまりは、経典作者の理性の創造ですね。
ここで大脳を調べてみます。
旧皮質というのは生命の本能欲望をつかさどるところのようです。
それに対して、新皮質というのは、生物の進化の過程で、ことに人間に発達していて、知能、理性をつかさどるところのようです。
そういうところで、仏教を考えますと、仏教は、旧皮質としての、本能欲望、煩悩から離れられないままにも、新皮質のブレーキによって、より理性的に振舞う生き方を示す教えということになると思います。
そこに、親鸞様の真実への目覚めと同時に、逆に自己と社会への悲嘆と、そこを踏まえた、自己と社会への真実への願いの人生というものがあったことを思います。
本来一つの自然現象で、やがて、消滅する運命にある、意味のなさそうな存在ながらも、理性の進化した人間として生きる意味というものを考えるなら、無我、慈悲、利他、布施の実践できる自己と社会の創造というところにあるということになるでしょうね。
 


             2007年4月                                永代経法座のご案内                            15日(日)夜席〜17日(火)日中席 おとき日・・・17日            夜7時半・日中9時半はじめ                                講師 三次市 西善寺住職 小武正教殿
 
日の丸・君が代問題で県教育委員会へ
 
今年の卒業式での君が代斉唱不履行で教師が処分されたことに対し、『日の丸君が代の強制に反対する宗教者の会』のメンバーとして昨年に引き続き、4月5日に県教委に次のような意見書を提出します。
2007年4月5日
広島県教育委員会 教育委員長・教育長様 
                                
日の丸・君が代の強制に反対する宗教者の会
 
意 見 書(案)
 
私たちは、かねてより、「日の丸・君が代」強制反対、不起立・不服従の教職員への処分反対の申し入れをしてきました。
ところが、今年も、卒業式の不起立、不服従の教職員に対して、処分がなされました。
私たちは、このことに、深い無念の思いを抱いております。
私たちは、かねてから申し上げているように、今の政府や、文部科学省が、戦後体制からの脱却ということで、憲法を変え、教育基本法を変えて愛国心を盛り込み、防衛庁を防衛省に格上げし、戦争の出来る国家へと変革させようとしていることに憂慮しており、私たちはその方向を決して容認することが出来ません。
私たちは、文部科学省が、「日の丸・君が代」の強制を執拗に教育現場に押し付けることも、この戦争の出来る国づくりのための国家主義的教育として、同じく容認できません。
それはまた、この日の丸、君が代は、単に国の象徴としての、国旗、国歌であることよりも、戦前の軍国主義国家の国旗、国歌を無節操と思えるほどに踏襲するものでもあるからです。
県教委におかれても、近年、かつての文部省からの、是正指導のもと、「日の丸、君が代の」の強制を強めておられることを、文部省との一体の方向として、かねてより憂慮しておりました。
言うまでも無く、戦後の教育基本法の成立精神は、本来、「もう2度と、教育は、国家権力の行政支配に服従しない」という、かつてのような軍事国家による、教育支配からの独立というものであったはずで、教育委員会制度も、この、国家権力の教育支配からの独立のための制度でした。
とするなら、被爆県であり、平和を何より実現すべき広島県教委としての近年、および、このたびの「日の丸、君が代の強制、処分」ということで、文部科学省の是正指導に従順な態度というものは、国家の教育支配への服従であり、まさしく、本来の教育の中立性の精神の喪失でもあると断じざるを得ません。
また、かねて申し入れしておりましたように、この強制・処分というものは、憲法19条にうたわれている、基本的人権としての、思想良心の自由にも違背するものと考える上からも、また、児童生徒の人権教育指導上においても、容認できません。
確かに、去る、君が代ピアノ伴奏の最高裁判決では、裁判官4対1で君が代伴奏命令違反処分は憲法19条違反とはいえないという判決が出ています。
しかし、判決は裁判官全員一致ということではなかったわけで、裁判といえども相対的なものであることを次の外国の例で確認できます。
以下は、「国旗・国歌裁判、各国の判例」検索で、インターネットにあったものです。
(内閣総理大臣官房審議室、および外務大臣官房儀典官室による1985年資料「諸外国における国旗国歌について」から)
1)学校教育での国旗国歌の取扱い(主要40ケ国在外公館調査)
a.ヨーロッパの立憲君主国では学校での国旗掲揚や国歌斉唱をすることが殆ど無い。
イギリス: 普通の歴史と音楽の授業で取扱い、学校行事では掲揚せず歌わない。
d.米州・オセアニア各国での例
カナダ: 国旗も国歌も学校と特定の関係が見られない。アメリカ:国旗が掲揚されるが儀式強制はない。
国歌は学校と特定の関係が無い。キューバ:国歌は学校での規定はない。オーストラリア:国旗を政府が提供。掲揚も国歌も各学校
に委ねられている。ニュージーランド:学校のための統一された規準はない。
アメリカでは、1977年 マサチューセッツ州最高裁「公立学校の教師に毎朝、始業時に行われる国旗への宣誓の際、教師が子 どもを指導するよう義務づけられた州法は、合衆国憲法にもとづく教師の 権利を侵す。
バーネット事件で認められた子どもの権利は、教師にも適用 される。教師は、信仰と表現の自由に基づき、宣誓に対して沈黙する権利を有する。」とあります。
日本は、以上の国々に比べ、基本的人権である、思想良心の自由が認められていないということが判明します。
以上から、このたびの、処分の撤回、
ならびに、今後も強制、処分ということのなきよう、また、何より、国家権力の教育支配に屈しない、非戦平和を実現する本来の広島県教育委員会を回復されますよう、命や人権を絶対に侵し侵させたくない私たちとして、ここに、強く申し入れ、意見書を提出いたします。  以上
 
国民投票法案反対デモ
 
この4月9日に、私も加わっている真宗遺族会が京都で、国民投票法案反対デモを企画しています。
本願寺総局にも交渉し、念仏弾圧800年の今年、教団としても、戦争ができる国づくりへと戦後体制が改変され、御同朋の社会実現への方向とは逆行しょうとしている今、この世情に声明と行動を起こすべく申し入れることにしています。
私も参加予定です。
今、国会で論議されている、改憲の為の国民投票法案では、過半数というのが、有権者の過半数でなく、どんなに投票率が低くても、とにかく有効投票総数の過半数というように、憲法改定がしやすいように出されていることに、憲法を変えて戦争のできる国づくりに向かうものであることを憂えます。
 
2007年3月
  春彼岸法座のご案内
23日(金)夜席・24日(土)朝席夜7時半・朝9時半はじめ
前席講話・後席話し合い「仏法と人生と社会」住職自修
 
教育基本法改定への本願寺の抗議文について
 
2006(平成18)年12月20日
内閣総理大臣
   安 倍 晋 三  様
浄土真宗本願寺派
総長 不 二 川 公 勝
                 
「教育基本法」改定決議に対する抗議
 
 このたび、「教育基本法」改定案が第165回臨時国会において、衆参両院で可決されました。 すでに本年11月8日、浄土真宗本願寺派として、「教育基本法」の改定についてはまだ十分な論議が尽くされていない拙速の案であり、党派性を超えた国民的議論の積み重ねによる慎重な審議と対応が必要であるとの声明をお届けしたところであります。 しかしそれに反し、十分な議論が尽くされず可決されましたことに抗議いたします。 私どもは、宗教教育を中心として、教育に関わってきた長い歴史を有しています。その教育の当事者として、教育の最も根本となる「教育基本法」の影響力や現実的運用に思いを致すとき、今般の論議が尽くされていないなかでの改定案可決は、将来に禍根を残すものとの危惧の念を禁じえません。 今後、私どもは、教育行政を厳しく注視してまいりたいと思います。
以 上
 
浄土真宗の社会責任として、社会の問題に、声明を出すことは大事と思います。
 その声明のよりどころは、阿弥陀如来の仏心である、無我、慈悲、利他、布施の心によると思います。
 この仏心に基づけば、あらゆる差別や戦争につながるものを放置できなくなります。
 この度の教育基本法の改定は、憲法9条の改定と連動して、戦後体制からの脱却ということが考えられます。
つまり、戦後、もう戦争をしないと決め、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。と憲法9条2項に定めたのを削除するというのですから、戦争のできる国づくりへと国の形を変えようとするということと考えます。
そこで、新教育基本法に、国を愛するという『愛国心』が強調されたのでしょう。
この教育基本法改定への本願寺の抗議声明は、抗議としては弱いと思います。
又、この本願寺声明には、宗教教育を中心に教育に長くかかわってきたという自負めいたものがうかがえますが、これにも疑問です。
それは、戦時中は、軍国教育と一体化して、門主の声明などには『驕敵撃滅ニ突進スベキナリ』というように戦争をあおる宗門教育だったからです。
戦後の教育にしても、日の丸、君が代を強制する国家主義的な教育に対し、人権平和教育を尊重して、どれだけ批判をしてきたのかおぼつかないことですから。
最後に、今後、教育行政を厳しく注視していきたいと声明していますが、間違いなく、このままでは、今後教育は、戦争のできる愛国教育へと、国家管理教育が強まり、国家崇拝や奉仕、公共の精神など伝統の尊重ということで、国家神道色や国家主義が強まってくると思います。
何事も基から断たなきゃだめということがありますが、私たちの心の中、生き方に、『無我・慈悲・利他・布施』といった志向性がどれほど確かに成立してゆくかということに尽きるように思います。
 
柳沢厚生労働相発言問題への本願寺からの見解表明
 
柳沢厚生労働大臣の「(女性という)産む機械、装置の数は決まっている。あとはひとり頭でがんばってもらうしかない」とか「(若い人は)子供を2人以上持ちたいという健全な状況にある」というような発言がありました。
それに対して、本願寺から次のような見解の表明がありました。
2007(平成19)年2月5日
内閣総理大臣              
   安 倍 晋 三  様
浄土真宗本願寺派総局公室部長
    渉外・広報担当 中  村  澄  枝
                 
厚生労働大臣の「少子化対策」関連の発言問題に関する見解の表明
 
 このたびの柳沢伯夫厚生労働大臣による「女性の数は決まっている。産む機械、装置の数は決まっているから、あとは一人頭で頑張ってもらうしかない」などの発言の報道に接しました。この発言は、いのちの尊厳性という観点から、女性蔑視発言であり、まことに憂慮する発言といわざるを得ません。 2003(平成15)年に制定された「少子化社会対策基本法」では、「もとより、結婚や出産は個人の決定に基づくもの」と明確に定義した上で、「家庭や子育てに夢を持ち、かつ、次代の社会を担う子どもを安心して生み、育てることができる環境を整備し、子どもがひとしく心身ともに健やかに育ち、子どもを生み、育てる者が真に誇りと喜びを感じることのできる社会」をめざすため、一人ひとりの人格や価値観を尊重した施策を提示しています。 この基本法の精神に基づき、抜本的な少子化対策を講じるべき立場にある「少子化対策担当大臣」のこのたびの発言は、女性蔑視は言うまでもなく、さらには国の責務を個人の責任に押し付けかねない重大な問題をはらむ発言といわざるを得ません。 このような発言を行った厚労大臣の責任を軽視している首相の責任もまことに重大であります。一人ひとりを大切にできるわが国をめざす上で、国政をつかさどる首相・国務大臣の皆さまには、性差別を払拭するという課題と、自らの職責を自覚し、真摯にお取り組みいただきますよう、見解を表明します。
以 上
というものです。
これはもっともな見解と思います。
ですが、この表明が、本願寺の担当者からのもので、総長からのものでないところに不十分さを感じます。
私『男』としても、女性差別観念に絡められていることをふと感じたりしていますので、他人事ではありません。
 
ひどい労働状況の紹介
 
これは私がささやかですが応援している「働く者の相談室ひろしま」という労働運動のニュースからの転載です。
時給引上げを要求したら解雇通告          (27歳の男性、IT労働者)
時給の引上げ(七百円→八百円)とパートに支払われている交通費を自分にも出すよう要求していたら、会社は解雇を通告。理由は「賃金を支払えない、組合に入るような人とは一緒に働けない」ということ。
〈対応と結果〉
団交を要求したところ、会社は弁護士に委任。団交の結果、未払い賃金の支払いと、解雇予告手当て1か月分を出すことで確認。本人は新しい職場を探す方向で動いている。
会社にもよるでしょうが、労働者が弱い立場におかれていることがわかります。
泣き寝入りせず、声を上げることができた人は幸いですが、不満をどこへ取り次いでもらえるのかわからず、泣き寝入りしている人は多いと思います。
労災を認めず、社会保険での処理を迫る。         〈S急便で働くTさん〉
荷物の配達中に腰をひねり動けなくなり、救急車で病院に搬送され入院。労災を申請したが会社は労災を認めず社会保険で処理することを迫った。救急病院も書類への証明を拒んだため労災の手続きができない。
〈対応と結果〉
労基署は特例的に受け付けたものの、書類不備を理由になかなか認定を行わず。治療費と生活費が捻出できなくなり、やむなく退院して通院治療に切り替える。監督署と病院の間の往復を重ね書類不備を埋めていった結果、半年後ようやく労災認定に漕ぎ着けた。
会社保身のため、労災を認めたくないのですね。
でも、くじけず取り組み、「働く者の相談室ひろしま」の粘り強い対応の成果があったのですね。
御同朋の社会の実現を目指すのが浄土真宗です。
それは、個の尊厳、いのちや人間の尊厳が侵されることのない社会の実現を目指すものといえます。
それは又、生活格差のない、不公平のない社会の実現を目指すものといえるでしょう。
やはりこういう社会を実現しょうとする基は、みんな、経営者も、労働者も私も含め、利己的な思いを拭い去ることはできないけれども、なおその中に、何より、何があっても、何にもなくても、個の尊厳、いのちや人権の尊重をなによりも大事にするという考え方、生き方を一生かけてどれほど確かに成立させてゆくかということでしょうね。
 
「働く者の相談室ひろしま」
 
受   付: 月〜金曜日の16時〜19時
                (土・日祝日は休み)
相談方法: 電話または面談で 
電話・FAX: 082・ 262・3751
受付時間外・携帯 090・2296・3352(土屋) へ
●相談は無料、秘密は厳守します。
●ご相談に応じるとともに、問題解決のため積極的に協力します(相手方との交渉、労基署等との折衝、さまざまな手続き、裁判所や労働委員会の利用等々・・・)
●個人でも加入できる労組、「スクラムユニオンひろしま」と連携。足立修一弁護士(顧問)の協力を得ています。
 
〒732ー0057広島市東区二葉の里1〜3〜16 
吉村ビル3階
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