報正寺通信NO,9
2024年12月
映像学習会へのおさそい
15日(日)午後2時~4時まで 報正寺
「いろめがね 部落と差別」 視聴と懇談
部落問題から、私たち人間度の確認
参加費無用
聖典学習会のご案内
23日(月)朝 10時~1時間
おにぎり会の中で
学習聖典 ・無量寿経
(現代語版浄土三部経)
住職自修 参加費無用
聖典から人生・社会の諸問題を
問うてみましょう。
節談説教を聞いて
去る、報恩講で、甥の高山泰秀さんの節談を拝聴しました。
ひいき目に聞いたせいなのかどうかわかりませんが、久しぶりに、説教で、涙が出ました。
最近は、老化のせいで、すぐ忘れますが、記憶に残っているところを思い出してみます。
私の聞き間違いもあるかもしれません。
一つは、順正寺さんでの説教
ある、老夫婦のうち、おじいさんは法話を喜ぶ篤信な人でした。
しかし、おばあさんは、さっぱり、仏縁がなく、お寺に参ったことがありません。
そこで、おじいさんは、何としても、おばあさんに信心をいただいてもらいたいと、高名なお坊様の法話を何日か全部聞いてもらいたいと思いましました。
せっかくのおじいさんの願いですから、おばあさんは、お寺に行きます。
おじいさんは家で留守番です。
おばあさんは、初めてのことで、戸惑いながらも聞きますが、法話が、心に落ちません。
おじいさんは、おばあさんの信心を心待ちにしていますが、とうとう最後の日となりました。
おばあさんは意を決して、今日こそは、講師の話を全部心にとどめようとして、全部聞き覚えました。
しかし、何ということか、寺を出て、一陣の風に、身をブルッと震わせたとたんに、聞いた法話をすべて忘れ去ってしまいました
途方に暮れたおばあさん、家に帰ってそのことをお爺さんにしょんぼりと話しました。
おじいさんはひどく落胆して、自分の部屋の布団に潜り込んでしまいます。
おばあさんは悲しく、ともかく、台所に用事をせねばと行こうとして、ふと、お仏壇の前を過ぎようとした時、なんと、阿弥陀様の目と自分の目が合いました。
まさに、その時、アッとおばあさんの心は動いたのでした。
あー、こんな私をじーっと、慈しんでいてくださっているのが、阿弥陀さんだったんだよなーという思いだったのでしょうか。
思わず、なもあみだぶつというお念仏が次から次へとこぼれ出ました。
それを聞いたおじいさん、驚いて、おばあさんのその心情を尋ね、おばあさんの思いを聞き受けますと、^おー、そこじゃ、そこじゃ、そうじゃ、そうじゃ、よかったのーと、共に、喜ばれたというようなお話でした。
次は、報正寺での節談説教
昔、本名は、鉄五郎でしたか、彼は、母へも危害を加えるという、極道もので、世間は、鬼鉄と呼んで恐れられていたとか。
とうとう、警察が家に踏み込んできました。
でも、母は、とっさに、けなげにもというか、やはり極道とはいえ、かわいいわが子というのか、警察の足に、母はしっかり、とりついて「鉄五郎、はよう逃げ」と叫びます。
鉄五郎は、逃げきりました。
そして、山小屋のようなところに逃げ延びて、そこから、どういうことがあったか、忘れましたが、捨て身の母の慈愛への感動と、申し訳なさとともに、自らの来し方の罪業への慚愧か、とにかく、不思議にも、お寺で、説法を聞き、法をこよなく喜ぶ篤信な念仏者となり、お寺の説法を喜んでいました。
ところが、同じ、念仏者の中に、鉄五郎を試すものが出てきます。
例えば、「おい、鉄五郎、「機法一体」とはどうことか」とか、いろいろ試します。
学問をしていない鉄五郎は、十分には答えられません。
連中は、なじりとも、あざけりとも取れる言動を浴びせかけます。
元来、気性の荒い、鉄五郎、堪忍袋の緒が切れそうになりましたが、耐えました。 連中は、帰りました。
鉄五郎は、本堂に残っていました。
そこへ、寺の住職が出てきて、鉄五郎は、ことのいきさつを語ります。
その後、いきさつを忘れましたが、御文章の、「末代無智章」を、住職も、鉄五郎も唱え合い、喜びあうということになってゆきます。
「末代無智の在家止住の男女たらんともがらは、こころをひとつにして阿弥陀仏とふかくたのみまゐらせて、さらに余のかたへこころをふらず、一心一向に仏たすけたまへと申さん衆生をば、たとひ罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくひましますべし。 これすなはち第十八の念仏往生の誓願のこころなり。
かくのごとく決定してのうへには、ねてもさめてもいのちのあらんかぎりは称名念仏すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。」です。
気性の荒さ、他者への怒りなど、煩悩は、いかんともしがたい、このような、末代無智の吾ら、「たとえ、罪業は、深重なりとも、必ず、弥陀如来は、救いましますべし」
煩悩、凡夫のこのままの救い、これを、住職、鉄五郎ともどもに、こよなく、有り難く、仰がれたというお話です。
節談説教というもの
これは、阿弥陀様の大慈悲を、節のついた独特の説法から、道理だけでなく、情緒的に、味わえるということでしょうか。
後日、甥、高山泰秀さんとの語らい
講師としてのお礼を申しながら、古来の、情緒的な味わいとしての節談説教の意味と、そして、今の、現代社会の、孤独、不安、人間不信などの現代人の苦悩や、戦争や人権侵害、環境破壊などの社会の問題への対応ということについて、課題が有ることを語り合いました。
私としては、昔の話だけでなく、現代人の絶望、苦悩の中からの救いと導きといった、現代的な節談説教を開拓してはどうだろうかと進言してみたことでした。
干からびて砂をかむような人間関係の中で、情緒に飢えている現代人の心を潤し、どう生きればいいのか、どういう世界を目指せばいいのかと苦悩の中にある人々に「あー、そうであったか」と納得できる道を、どのように共有することができるかということですね。
宗教を信じるも、信じられないも自由
人間は基本的に自由ですね。
ですから、宗教を信じられる人もあれば、信じられない人もあります。
浄土真宗でも、前述で、ご紹介したように、煩悩、凡夫のこのままの救い、これを、こよなく、有り難く、仰がれるというところから、とにかく、この広大な、阿弥陀様にお任せするばかりであると、阿弥陀様やお浄土を目に見えず、耳にも聞こえずといえども、何らかの実在として疑わず、信じられるという人もあれば、そうではなく、聞かせてもらってみれば、とにかく、有難いなあということは、わからないことはないけれども、でも、阿弥陀様やお浄土の実在といっても、そこは、どうも信じがたいといわれる方もあると思います。
それは、個々人、各人各様と思えます。
たとえ、阿弥陀様や浄土の実在が信じられなくとも
阿弥陀様やお浄土と表現された、その中身である、大慈悲ということ、一切へのはぐくみということ、一切を排除できないということ、一切を慈しむということ、無限大の広い世界ということ、無限大の深い世界ということ、絶対の平等ということ、絶対の平和ということ、そういう、古今東西、万人普遍の真実といえることにうなづかされるということをいつも、再確認します。
そして、そこから、同時に、阿弥陀様の慈悲に程遠い、自分を慚愧せしめられ、また、この慈悲の浄土に程遠い、この闘争対立の世界を慚愧せしめられ、
それゆえにこそ、慈悲に促される自己の実現へ、そして、この慈悲に促される世界の実現に向かって、慚愧とともに、歩ませてもらうという道の開けを思います。
具体的には、いつも申します、非武装絶対平和や、あらゆる、人権尊重、環境保全等への歩みをさせてもらうということになります。
2024年11月
17日(日)焼香日 朝、9時半~
湯来町 一松寺副住職 高山泰秀殿
節談説教
18日(月)朝、9時半~住職自修
お誘いあってお参りくださいませ
報恩講は、親鸞様有難う
ございますという行事です。
親鸞様の阿弥陀仏、浄土信仰
から、私たちの救い、
生きてゆく道というものを
確認させてもらいましょう。
皆様のご家庭でもぜひ
苦悩からの救いということ
みんな、大なり、小なり、苦悩というものがあると思います。
人によっては、あまりにも苦しい絶望の苦悩のために、悲しいことに、自らの命を絶たれるという方もあります。
私は、まだ、そういう絶望感に陥ったことがありません。
それは一面、運がよかったということでしょうか。
でも、いつも思うのは、本当は、絶望的なドン底に陥ってこそ、私のとらえているつもりの、死生観が、本物か、偽物か試されるのだから、本当は、究極の絶望状況に陥ることはいいことなんだということも、思うのです。
気楽な観念論かもしれません。
苦悩というもの
それが宗教によって救われる人があります。
どんなに苦しくても、つらくても、あー、私には、神様がいてくださる、天国もある、それが信じられるから、大丈夫、救われているという人々。
同じように、私には、阿弥陀様がいてくださるし、お浄土もあると信じられ、おまかせしているから、大丈夫、私は救われているという人々。
でも、人によっては、そういう信仰に入れる人もあれば、入れない人もありますね。
じゃあ、信仰に入れない人はだめなのかというと、そうとは言えないように思います。
信仰に入れない人は、ただ、世間的、科学的な良識の範囲でということか、ともかく、自分なりの死生観を保持しておられるということでしょう。
こういう人たちは、どんなに、絶望的な状況にあっても、これは、こういう、めぐりあわせなんだと受容して、その真っただ中にも、臨終まで、ともかく、自分の願うところを求め続けようとする人といえるでしょう。
ただ、その願うところが、どういうものかというのが、各人各様でしょうし、ともかく、その中身が問題であると思います。
その中身
それは、人によっては、欲望、覇権を求め続けるという人もあるでしょう。
また、反対に、人類の平等や平和といった、理念を求め続けるという人もあることでしょう。
でも、老衰でもすれば、やがてその行動の限界が来ます。
そうなれば、もはやこれまでと、あきらめなければならないでしょうね。
天下を取った、豊臣秀吉や、徳川家康などは、死ぬる時どんな心境だったのだろうかと思います。
天下を取ったにしても、虚しさはなかったのだろうかと思います。
一方、理念を求め続けて生きてきた人は、その活動ができなくなれば、その願いを同士仲間に託し、ただ、理念を念じ続けながら、死を受け入れるということでしょうか。
たとえささやかな一生であったとしても、その普遍の理念の願いの中に永遠なのだと。
でもまた、本来、意味を超えていると思える、この、大自然、大宇宙の中から現れ出でたものとして、また、この大宇宙、大自然も、終焉という、終わりがあるということを知らされれば、死なば、ただ、この大宇宙、大自然の中に帰るということでもありますね。
また、人によっては、こういう、理念を求めるということがあろうとなかろうと、虚無主義であれ、楽天主義であれ、思想、哲学、倫理、芸術の中に、自分なりの死生観をもって生きる人もあると思います。
この人たちも、自分なりの死生観を持っておられるのですから、その内容はともかく、その人はその人流として、受容します。
又、人によって、退廃的な生き方の人もあれば、そうでなく、高潔な生き方ができる人もあると思います。
でも、それも人様々で、できるだけ、尊い生き方ができればいうことはないと思いますが、私は、慚愧ばかりです。
また、退廃的といわれる人には、結局は、そういうめぐりあわせだったのかと受け止めて、自分だって、そういうめぐりあわせならば、同じようなことになるのかもしれないのだと、大きく受容できる、心の広さが培われれば幸いと慚愧とともに願い続けます。
(親鸞様から学ぶもの)
親鸞様の同じ念仏同行としての、当時の被差別民、「竹摩」さんのこと
これは、大谷派の僧侶、長田浩昭さんのユーチューブ法話からの引用です。
これは、大谷本願寺由緒通鑑にあるのだそうです。この竹摩さんは、沓つくりであったとあります。
親鸞様の導きで、念仏者となったとあります。 親鸞様が、流罪で、越後に流されたとき、この、竹摩さんは、毎年はるばる京都から、越後の親鸞様を訪れたというのです。
親鸞様は、京都のことをお尋ねになり、たいそう喜ばれたといいます。
親鸞様が京都に帰られると、竹摩さんは、親鸞様の元へ参詣絶えず、御教化を悦ばれたとあります。
そして、親鸞様の葬儀には、彼の一族6人が申し合わせて野辺の送りをしたとあります。
報正寺にも掲げられている、親鸞様の絵伝には、犬神人として、この6人衆が、描かれています。
犬神人とは、インターネットの、「コトバンク」によると
「鎌倉時代から江戸時代にかけて,京都の清水坂,建仁寺のあたりに集住した〈賤民〉の一種。本来の名称は〈犬神人(いぬじにん∥いぬじんにん)〉といい,祇園社(ぎおんしや)(八坂神社)に隷属して,最下級の神人(じにん)として境内地・墓所などの清掃や祇園御霊会(ごりようえ)(祇園祭)の神幸の警護,神幸路の清めなどを主要な任務にするとともに,とくに中世には比叡山延暦寺の末社であった祇園社の軍事的・警察的組織をなして縦横に活躍した。また,京都での葬礼に関する権益を保持して布施を得たことも知られている。」とあります。 改めて、親鸞様の、人間への同朋観を学ぶことができます。
聖典学習会のご案内
22日(火)朝 10時~1時間
おにぎり会の中で
学習聖典 ・無量寿経
(現代語版浄土三部経)
住職自修 参加費無用
聖典から人生・社会の諸問題を
問うてみましょう。
狭山事件、映像学習会のご案内
29日(火)昼2時~4時まで
○「報道の魂~次は私の番~動き始めた狭山裁判」
○「追跡(狭山事件)半世紀の謎
司法の罪、石川さん、無実の確認を(参加費無用)
どうぞ誘って気楽にご参加下さい
「狭山事件」とは 、1963年5月1日、埼玉県狭山市で下校途中の女子高校生が誘拐され、その夜、20万円を要求する脅迫状が自宅に届いた。
2日の深夜、40人態勢で待ち 受けていた警察は身代金を受け取りに来た犯人を取り逃がす。
4日、被害者の遺体発見、 23日、石川一雄さんが別件で逮捕される。
このとき彼 は24歳、被差別部落の出身だった。狭山署では頑強 に否認していたが、6月17日
釈放直後に違法にも 再逮捕され、川越署分室に移送、自白に及ぶ。
一審、 死刑判決、この後一転、二審の第一回公判以降、一貫 して無実を主張。
ところが、二審では無期懲役、1977 年、最高裁は上告棄却、刑が確定した。
1994年仮出 獄、31年7か月ぶりのことだった。 現在石川一雄さんは再審を求めて闘い続けている。 (部落解放・人権確立、山県通信より)
聖典を学ぶということは、聖典から、人生の根本問題や、社会のあるべきあり方を考えるということになります。 さて、この無量寿経の作者は不明です。
匿名にしてあるのだと思えます。
一般には、お釈迦様が説かれたということになっていますが、実はそうではなく、現代、研究が進んで、お釈迦様が亡くなって、約500年後に創作されたもののようです。
ということは、おしゃか様は、生きておられた時、阿弥陀仏や、その浄土などについて説かれてはいなかったということになります。
ですから、この無量寿経に説かれている、阿弥陀仏や浄土は、経典作者(達)の創作ということになります。
それでは、何のために、経典作者(達)は、おしゃか様が説かれなかった、阿弥陀仏や浄土について、お釈迦様の説法として、創作したのかが問題です。
それは、考えるに、おしゃか様の教えを基に、あらゆる人々の苦悩を、救い、導くということではないかと考えられます。
お釈迦様の教えと導きと救い
お釈迦様の教えとは、縁起の道理といわれます。
縁起の道理とは、万物個々がすべて無限の縁でつながっていて、それぞれが絶対的に尊い存在であるという道理です。
この道理を踏まえて、自分中心でない、無我・冷酷でない、慈悲・利己でない、利他・略奪でない、布施といった道がお釈迦様の導きであり、この道を自覚し、歩めるところに救いということが言われていると思えます。
浄土教の教えと救い
これは、阿弥陀仏や、浄土への信仰による救いと導きということでしょう。
しかし、これは、前述のように、実際には、お釈迦様が説かれたものではなかったようです。
そこで、経典創作者の意図を考えるのです。
多くの人々は、生まれてからこの方、様々な災難、奪われ、いじめられ、差別され、だまされ、殺される苦難や不安。
さらに、淋しい、孤独の悲哀、さらに、自らしでかした罪への苦悩、さらに、死への恐怖、さらに、死別した愛する者との再会への願望。
経典創作者(達)は、こういう苦悩の人々を救い、そして導くために阿弥陀仏や往生浄土信仰というものを表現されたものとうかがうのです。
それは、どんなに、私達が、不安で、孤独で、罪におののき、死が怖く、悲しく、さみしく、苦しくとも、私達には、目には見えないけれども、阿弥陀如来という、御仏の、不可思議な、大きな慈悲に、いつでも、どこでも、誰でも抱かれていて、必ず、みんな、御仏のまことをいただいて、御仏の浄土に迎えられ、尊い仏様にならせてもらい、すぐに、この苦悩の世界に帰ってきて、みんなを限りなく救い導き続かせてもらうということ。 なぜなら、この世界が、さまざまな、苦悩や悲しみや、争い対立に満ちているからということ。
たとえ信仰がなくとも
こういう、阿弥陀仏や浄土信仰を、素直に有難いことよと受け入れられる人は、言うことはないと思います。
でも、人によっては、聞いてみれば、阿弥陀様や浄土を、有難いということはわからないことはないけれども、実際の事実としては信じがたいといわれる人もあると思います。
でも、たとえ、阿弥陀様や浄土の事実が信じられないとしても、大事なことは、この、阿弥陀様や浄土と表現された、その中身の中に、全てをという、無限大の広い世界、さらに、最悪のものをこそという、無限に、深い世界、
差別の無い、絶対平等の世界、争い対立のない、絶対平和の世界、絶対の愛、絶対の大慈悲という、究極のあるべき、尊い世界と歩むべき道が示されてあるという、真宗理解があることを、いつも考え続けています。
絶対非暴力の人, マオズ・イノンさん
朝日新聞10月3日記事より
イスラエルに住む人です。
去年、10月7日、イスラム組織、ハマスの攻撃で、両親を亡くしました。
精神的にも、肉体的にも、悲しみと痛みの海でおぼれているような感覚でしたが、私自身の癒しのためにも平和の道を行こうと決めました。
復讐したいと思ったこともありましたが、それは、自分を内側から破壊するような感覚です。
私は、ハマスも、政府も許そうと決めました。
対立は、相手をモンスター化し、自分もモンスターになってしまう。
モンスターを倒すには、その目を見るべきです。
そして対話を始め、歴史や痛みを理解し、共感することで同じ人間として見ることができる。
テロリストとして生まれた人などいない。
殺害は答えになりません。
イスラエル人、ヨルダン川西岸とガザのパレスチナ人と対話を続けています。
2024年9月
聖典を学ぶということは、聖典から、人生の根本問題や、社会のあるべきあり方を考えるということになります。
さて、この無量寿経の作者は不明です。
匿名にしてあるのだと思えます。
一般には、お釈迦様が説かれたということになっていますが、実はそうではなく、現代、研究が進んで、お釈迦様が亡くなって、約500年後に創作されたもののようです。
今から、ざっと2千年前になります。
ということは、おしゃか様は、生きておられた時、阿弥陀仏や、その浄土などについて説かれてはいなかったということになります。
ですから、この無量寿経に説かれている、阿弥陀仏や浄土は、経典作者(達)の創作ということになります。
それでは、何のために、経典作者(達)は、おしゃか様が説かれなかった、阿弥陀仏や浄土について、お釈迦様の説法として、創作したのかが問題です。
それは、考えるに、おしゃか様の教えを基に、あらゆる人々の苦悩を、救い、導くということではないかと考えられます。
お釈迦様の教えと導きと救い
縁起の道理とは、万物個々がすべて無限の縁でつながっていて、それぞれが絶対的に尊い存在であるという道理です。
この道理を踏まえて、自分中心でない、無我・冷酷でない、慈悲・利己でない、利他・略奪でない、布施といった道がお釈迦様の導きであり、この道を自覚し、歩めるところに救いということが言われていると思えます。
浄土教の教えと救い
これは、阿弥陀仏や、浄土への信仰による救いと導きということでしょう。
しかし、これは、前述のように、実際には、お釈迦様が説かれたものではなかったようで、お釈迦様滅後、五百年、無名匿名の経典作者の創作といわれます。
そこで、経典創作者の意図を考えるのです。
それは、お釈迦様のように、この世の真理とは何か、と道を問うような人々はともかく、多くの人々は、それどころではなく、諸苦悩にあえいでいたと思えます。
生まれてからこの方、ともかく、次々と様々な災難が降りかかり、奪われ、いじめられ、差別され、だまされ、殺されるというような、苦難や不安の中で、誰でもいいから、助けてくれー、と叫んでいる。
さらに、誰も側にいてくれるものがいなくて、独りぼっち、寂しくて、わびしくてたまらない。
誰でもいいから、私の気持ちを聞いてほしい、わかってほしい、抱きしめてほしい、づーっと私の側にいてほしい、という孤独の悲哀。
さらに、自らの犯した罪を痛み、「誰か、私の罪を救ってくれー」と自らしでかした罪への悲嘆。
また、死後、いいところがあるなら、行きたいが、悪いところなら行きたくない、何より、永遠の命が欲しいという願望。
さらに、先立った、いとしい者たちはどこに行ったのか、もう、永遠に会えないのか、そんなことには耐えられない。
どうしても会いたい、会わせてほしい、との死後再会への願望。
経典創作者(達)は、こういう苦悩の人々を救い、そして導くために阿弥陀仏や往生浄土信仰というものを表現されたものとうかがうのです。
それは、どんなに、私達が、不安で、孤独で、罪におののき、死が怖く、悲しく、さみしく、苦しくとも、私達には、目には見えないけれども、阿弥陀如来という、御仏の、不可思議な、大きな慈悲に、いつでも、どこでも、誰でも抱かれていて、必ず、みんな、御仏のまことをいただいて、御仏の浄土に迎えられ、尊い仏様にならせてもらい、すぐに、この苦悩の世界に帰ってきて、みんなを限りなく救い導き続かせてもらうということ。 なぜなら、この世界が、さまざまな、苦悩や悲しみや、争い対立に満ちているからということ。
たとえ信仰がなくとも
こういう、阿弥陀仏や浄土信仰を、素直に有難いことよと受け入れられる人は、言うことはないと思います。
でも、人によっては、聞いてみれば、阿弥陀様や浄土を、有難いということはわからないことはないけれども、実際の事実としては信じがたいといわれる人もあると思います。
でも、たとえ、阿弥陀様や浄土の事実が信じられないとしても、大事なことは、この、阿弥陀様や浄土と表現された、その中身の中に、全てをという、無限大の広い世界、さらに、最悪のものをこそという、無限に、深い世界、
差別の無い、絶対平等の世界、争い対立のない、絶対平和の世界、絶対の愛、絶対の大慈悲という、究極のあるべき、尊い世界と歩むべき道が示されてあるという、真宗理解があることを、いつも考え続けています。
9月18日、非戦平和への鐘を撞きます
9月18日、午後1時30分、2018年から毎年、梵鐘を撞くことにしています。 そのわけを記します。
本願寺教団では、無量寿経に「兵戈無用」と示され、親鸞聖人が「世のなか安穏なれ 仏法ひろまれ」と願われたことをもとに、教団の戦争協力の責任を真摯に慚愧し、非戦・平和の願いを広く発信するために、1981年より毎年、9月18日に、国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑(東京都千代田区)で千鳥ヶ淵全戦没者追悼法要を勤めています。
千鳥ケ淵戦没者墓苑は、日本国政府が設置した、第二次世界大戦の時に国外で死亡した日本の軍人、軍属、民間人の遺骨のうち、身元不明や引き取り手のない遺骨を安置する施設です。
「千鳥ヶ淵全戦没者追悼法要」では、教団として日本国内外に恒久平和への願いを新たにするため「平和宣言」を行い、さらに「平和の鐘」を撞きます。
仏のみ教えと平和への決意を、響かせ届けたいという願いのもと、「平和の鐘」の取り組みがはじめられました。
各地の寺院でも法要と同時刻にいっせいに鐘を撞き、平和な世への願いを発信しています。
9月18日は、柳条湖事件勃発の日で、これは、日本の関東軍の謀略によって起こった、満州事変の発端となる鉄道爆破事件です。
1931年(昭和6年、)9月18日、満州(現在の中国東北部)の奉天(現在の瀋陽市)近郊の柳条湖付近で、日本の所有する南満州鉄道の線路が爆破された事件で、関東軍はこれを中国軍による犯行とでっちあげ、以後、日本の中国侵略戦争が拡大したのでした。
日本の罪ですが、この戦争と一体化した、教団の罪も慚愧し、もう、絶対、決して、このような過ちを侵さないことを決意させてもらいたいと思います。
2024年8月
盆会法座のご案内
15日(木)・16日(金)朝9時半~
初盆物故者・全戦没者追弔法要 16日中
『仏法と人生と社会』 住職自修
崇徳教社太田部大会のご案内
28日(水)晩席~30日(金)日中
晩席、7時半~・日中席、9時半~
講師 東京仏教学院講師 本多静芳殿
苦悩からの救いということ
これが、万人の大きな問題でしょう。
苦悩は、大なり、小なり、人それぞれですね。
それら苦悩を、どう克服できているでしょうか。
たとえ、克服できなくとも、どう納得できているでしょうか。
それも、人、それぞれでしょうね。
私は私自身、いつもそのことを確認し続けています。
私の、ユーチューブによる、4年以上の、ほとんど毎日の講話がそうです。
私なりの、人生観、世界観、思想観、宗教観、仏教観、浄土真宗観の確認の語りです。
思えば、絶望のために、悲しくも自死する人もあります。
それは実に悲しいことです。
どんな絶望状況でも、それを乗り越え、死ぬるまで生きてゆける、確かな道、それはどんな道でしょうか。
諸苦悩が、神や、仏や天国や浄土などの信仰によって救われる人もあります。
そういう信仰に入れる人は、それでいいかもしれません。
でも、いつも、思うのは、たとえ、そういう、何らかの信仰に入れたとしても、その信仰というものが、どれほど、その人の人間性を豊かにしているだろうか。
そして、この日本や、世界中の様々な戦争や、人権侵害や、貧困格差、環境破壊など、不条理に対して、どれほど、悲しみを持って、よりよい国家、社会、人類の未来の実現のために、行動出来ているだろうかということです。
また、人間は本来自由ですし、信仰を持てる人もあれば、信仰を持てない人もあります。
先の文では、信仰の持てる人のことを考えましたが、今度は、信仰の持てない人のことを考えたいと思います。
これは、科学的な考え方が進んだ、現在、宗教の信仰が持てる人は、少なくなっているかと思います。
ヨーロッパでも、教会離れが進んでいるということをだいぶ前から聞いています。
では、信仰の持てない人は、人生の苦悩をどう解決することになるでしょうか。
科学的には、宇宙の終焉ということをインターネットで見ても、この大宇宙の森羅万象のいとなみ、これは、ただ、意味や目的を超えて、生滅変化を繰り返しているだけのことなのかもしれません。
でも、科学もすべて解明できているとは言えません。
絶対的なところは明確ではありません。
だから、みんな死んでゆくが、死んでゆくまでは、とにかく、面白く、楽しく、好きなように、生きようじゃないかということにもなります。
そして、死んだなら、虫や、草木のように、ただ、自然に帰るんだということ。
また、生き物の本質として、闘争本能がある限り、この世はしょせん闘争だというのも分かります。
ですから、闘争で負けるなど、諸苦悩については、まあ、運が悪かったとあきらめるということになるでしょうか。
でも、それでは空しいでしょうね。
でも、一方、私たちには、闘争本能だけでなく、人間性というものがありますね。
まごころ、やさしさ、あたたかさ、思いやり、思い合い、といったものでしょうか。
たとえ、ささやかでも、感動を与え合います。
そして、この人間性から、自由、平等、博愛、平和、人権尊重、格差是正、環境保全、といった人類の理念が出てきます。
こういう、理念を求めるところに、人間性の本質というものがあるようです。
水平社の綱領をいつも確認します。
これは、被差別部落の人たちが、差別の苦悩の中から、差別解放に向かう、人間としての自覚宣言と読めます。
「吾等は、人間性の原理に覚醒し、人類最高の完成に向かって突進す」というものです。
人類最高の完成とは、絶対平和、絶対平等、絶対の万人公平な福祉ということでしょうか。
世界三大聖人、孔子の「仁」(思いやり)、イエスの「愛」、釈迦の「慈悲」、これら表現は違っても、その本質は、人間性の原理と思えます。
どんな国家や、民族の栄光、繁栄、正義であろうと、法律、憲法であろうと、国王であろうと、大統領であろうと、総理大臣であろうと、決して侵してはならないもの、それは、人の命であり、人権であるということ、こういう、人生観、世界観、価値観、世論が、至難ながら、9割、10割へと広がらなければ人間の諸苦悩は救われないといつも思います。
宗教が信じられるのも、信じられないのも自由、自由主義、社会主義、どういう思想を持とうが持つまいが、この人間性の原理である、仁(思いやり)友愛、博愛、人類愛、慈悲というものを大事に踏まえたいものと思います。 慚愧とともに。
2024年7月
聖典学習会のご案内
17日(水) 朝10時〜11時
おにぎり会の中で
学習聖典 ・無量寿経 (現代語版浄土三部経)
住職自修 参加費無用
聖典から人生・社会の諸問題を問うてみましょう。
どうぞ誘って気楽にご参加下さい
無量寿経を学ぶということ
聖典を学ぶということは、聖典から、人生の根本問題や、社会のあるべきあり方を考えるということになります。
さて、この無量寿経の作者は不明です。
匿名にしてあるのだと思えます。
一般には、お釈迦様が説かれたということになっていますが、実はそうではなく、現代、研究が進んで、お釈迦様が亡くなって、約500年後に創作されたもののようです。
今から、ざっと2千年前になります。
ということは、おしゃか様は、生きておられた時、阿弥陀仏や、その浄土などについて説かれてはいなかったということになります。
ですから、この無量寿経に説かれている、阿弥陀仏や浄土は、経典作者(達)の創作ということになります。
それでは、何のために、経典作者(達)は、おしゃか様が説かれなかった、阿弥陀仏や浄土について、お釈迦様の説法として、創作したのかが問題です。
それは、考えるに、おしゃか様の教えを基に、あらゆる人々の苦悩を、救い、導くということではないかと考えられます。
お釈迦様の教えと導きと救い
お釈迦様の教えとは、縁起の道理といわれます。
縁起の道理とは、万物個々がすべて無限の縁でつながっていて、それぞれが絶対的に尊い存在であるという道理です。
この道理を踏まえて、自分中心でない、無我・冷酷でない、慈悲・利己でない、利他・略奪でない、布施といった道がお釈迦様の導きであり、この道を自覚し、歩めるところに救いということが言われていると思えます。
浄土教の教えと救い
これは、阿弥陀仏や、浄土への信仰による救いと導きということでしょう。
しかし、これは、前述のように、実際には、お釈迦様が説かれたものではなかったようで、お釈迦様滅後、五百年、無名匿名の経典作者の創作といわれます。
そこで、経典創作者の意図を考えるのです。
それは、お釈迦様のように、この世の真理とは何か、と道を問うような人々はともかく、多くの人々は、それどころではなく、諸苦悩にあえいでいたと思えます。
生まれてからこの方、ともかく、次々と様々な災難が降りかかり、奪われ、いじめられ、差別され、だまされ、殺されるというような、苦難や不安の中で、誰でもいいから、助けてくれー、と叫んでいる。
さらに、誰も側にいてくれるものがいなくて、独りぼっち、寂しくて、わびしくてたまらない。
誰でもいいから、私の気持ちを聞いてほしい、わかってほしい、抱きしめてほしい、ずーっと私の側にいてほしい、という孤独の悲哀。
さらに、自らの犯した罪を痛み、「誰か、私の罪を救ってくれー」と自らしでかした罪への悲嘆。
さらに、自分が、この世から、永遠に消えてゆく、居なくなるという、死への恐怖。
また、死後、いいところがあるなら、行きたいが、悪いところなら行きたくない、何より、永遠の命が欲しいという願望。
さらに、先立った、いとしい者たちはどこに行ったのか、もう、永遠に会えないのか、そんなことには耐えられない。
どうしても会いたい、会わせてほしい、との死後再会への願望。
経典創作者(達)は、こういう苦悩の人々を救い、そして導くために阿弥陀仏や往生浄土信仰というものを表現されたものとうかがうのです。
それは、どんなに、私達が、不安で、孤独で、罪におののき、死が怖く、悲しく、さみしく、苦しくとも、私達には、目には見えないけれども、阿弥陀如来という、御仏の、不可思議な、大きな慈悲に、いつでも、どこでも、誰でも抱かれていて、必ず、みんな、御仏のまことをいただいて、御仏の浄土に迎えられ、尊い仏様にならせてもらい、すぐに、この苦悩の世界に帰ってきて、みんなを限りなく救い導き続かせてもらうということ。
なぜなら、この世界が、さまざまな、苦悩や悲しみや、争い対立に満ちているからということ。
たとえ信仰がなくとも
こういう、阿弥陀仏や浄土信仰を、素直に有難いことよと受け入れられる人は、言うことはないと思います。
でも、人によっては、聞いてみれば、阿弥陀様や浄土を、有難いということはわからないことはないけれども、実際の事実としては信じがたいといわれる人もあると思います。
でも、たとえ、阿弥陀様や浄土の事実が信じられないとしても、大事なことは、この、阿弥陀様や浄土と表現された、その中身の中に、全てをという、無限大の広い世界、さらに、最悪のものをこそという、無限に、深い世界、
差別の無い、絶対平等の世界、争い対立のない、絶対平和の世界、絶対の愛、絶対の大慈悲という、究極のあるべき、尊い世界と歩むべき道が示されてあるという、真宗理解があることを、いつも考え続けています。
2024年6月
夏法座のご案内
6月17日(月)・ 6月18日(火)
朝9時半~ 住職自修
「仏法から人生・社会を問う」
どうぞお誘いの上、御参詣くださいませ
動画学習会のご案内
6月19日(水)午後2時~5時まで
小出裕章氏「原発と戦争を推し進める愚かな国、日本」出版記念講演動画
原発・戦争・国家を問い学びましょう 無料
根源的に問うてみる
生まれて、生きているから思い煩うのでしょう。
生まれていなければ、思い煩うこともないはずです。
思い煩いも人それぞれ。
ただ、自死される人のことを思うと胸が痛みます。
どんなに絶望的な状況になっても、死ぬるまで、生きてゆける、確かな自覚の道ということにこだわります。
でも、そんなことはともかく、ただ、朝が来て、昼が来て、夜が来て、単に、生きているだけだという方もあるでしょう。
人間は、どう生きようと、どう考えようと、本来、自由ではありますね。
私たちは、根源的に、生物でした。
ですから、闘争性というものがありますね。
それゆえ、欲望、闘争、覇権という、野望に生きる流儀もわからなくはありません。
今、ロシアとウクライナの戦争、イスラエルとパレスチナ、ハマスの抗争、そして、ミャンマーの軍事政権による、民衆派への弾圧、スーダンの内戦等を知らされ、世界に暴力が覆い、「法の支配」といわれるものがないがしろにされていることを、憂います。
最近、この「法の支配」ということから、「法」とか、「道」とかいうことを考えます。
その他、「真理」とか「真実」とかいう言葉もあります。
その本質は何でしょう。
世界三大聖人という人のことを考えます。
それは、中国の孔子さん、キリスト教のイエスさん、仏教のおしゃかさんといわれています。
どんなことを言われているのでしょう。
孔子さんには、「仁」という言葉があります。
「仁」とは、思いやりといわれます。
イエスさんには「愛」という言葉があります。
おしゃかさんには、「慈悲」という言葉があります。
皆、それぞれ、「仁」といい、「愛」といい「慈悲」といい、言葉は違っていても、その中身は同じことを言っておられるのではないでしょうか。
それは、人間性の本質、人間性の真実、人間性の原理ともいえるかと思います。
これは、この世界三大聖人のみならず、「尊い人」というのは、みんな、この人間性の本質を踏まえられている人と思えます。
世の中には、さまざまな宗教、哲学、倫理、思想があります。
どんな宗教を信じようが、信じまいが、どんな思想を持とうが持つまいが、とにかく、この、人間性の本質に覚醒すること、それを選び取ること、そこに主体性を置くということが、全人類、八割、九割、十割へと広がらなければということを思います。
でも、現実には、そんな高尚げたどころの話ではないんじゃ。
今が苦しいんじゃ、悲しいんじゃ、つらいんじゃ、本当は死にたいんじゃ。
でも死に切れんのじゃという人もあると思えます。
そういう人には、神とか、仏とか、天国とか、浄土とかの信仰が救いをもたらすこともあろうと思います。
でもしかし、そういう信仰でなんらかの安心を得ることができたとしても、やはり、「思いやりとか、思い合いとか、やさしさとか、あたたかさといった、人間性の本質が乏しいところには、命の底からの充足感はないのではないかと思えます。
これは、私自身の反省からも申しています。
最近、「法の支配」ということで、憲法前文を再確認しています。
松元ヒロという芸人さんは、この憲法前文を暗唱していて、よく披露されます。
私もその実演を感動しつつ聞いたことがあります。
日本国憲法前文
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
2024年5月
映画鑑賞会のご案内
22日(水)昼2時~5時・報正寺本堂
「はだしのゲン実写版」出演、三國連太郎他
これは有名な、原爆漫画の映画です。
去年、戸河内で見て、実に感動しました。
映画を見て、語り合いましょう。
パソコンからの上映です。無料
聖典学習会のご案内 27日(月) おにぎり会の中で 学習聖典 ・無量寿経 (現代語版浄土三部経) 住職自修 聖典から人生・社会の諸問題を考えましょう。 どうぞ誘って気楽にご参加ください。 |
聖典を学ぶということは、聖典から、人生の根本問題や、社会のあるべきあり方を考えるということになります。
さて、この無量寿経の作者は不明です。
匿名にしてあるのだと思えます。
一般には、お釈迦様が説かれたということになっていますが、現代、研究が進んで、お釈迦様が亡くなって、約500年後に創作されたもののようです。
今から、ざっと2千年前になります。
ということは、おしゃか様は、生きておられた時、阿弥陀仏や、その浄土などについて説かれてはいなかったということになります。
ですから、この無量寿経に説かれている、阿弥陀仏や浄土は、経典作者(達)の創作ということになります。
それでは、何のために、経典作者(達)は、おしゃか様が説かれなかった、阿弥陀仏や浄土について、お釈迦様の説法として、創作したのかが問題です。
それは、考えるに、おしゃか様の教えを基に、あらゆる人々の苦悩を、救い、導くということであろうと考えられます。
お釈迦様の教えと導きと救い
お釈迦様の教えとは、縁起の道理といわれます。
縁起の道理とは、万物個々がすべて無限の縁でつながっていて、それぞれが絶対的に尊い存在であるという道理です。
この道理を踏まえて、自分中心でない、無我・冷酷でない、慈悲・利己でない、利他・略奪でない、布施といった道がお釈迦様の導きであり、この道を自覚し、歩めるところに救いということが言われていると思えます。
浄土教の教えと救い
これは、阿弥陀仏や、浄土への信仰による救いと導きということでしょう。
しかし、これは、前述のように、実際には、お釈迦様が説かれたものではなかったようで、お釈迦様滅後、五百年、無名匿名の経典作者の創作といわれます。
そこで、経典創作者の意図を考えるのです。
それは、お釈迦様のように、この世の真理とは何か、と道を問うような人々はともかく、多くの人々は、それどころではなく、諸苦悩にあえいでいたと思えます。
生まれてからこの方、ともかく、次々と様々な災難が降りかかり、奪われ、いじめられ、差別され、だまされ、殺されるというような、苦難や不安の中で、誰でもいいから、助けてくれー、と叫んでいる。
さらに、誰も側にいてくれるものがいなくて、独りぼっち、寂しくて、わびしくてたまらない。
誰でもいいから、私の気持ちを聞いてほしい、わかってほしい、抱きしめてほしい、ずーっと私の側にいてほしい、という孤独の悲哀。
さらに、自らの犯した罪を痛み、「誰か、私の罪を救ってくれー」と自らしでかした罪への悲嘆。
さらに、自分が、この世から、永遠に消えてゆく、居なくなるという、死への恐怖。
また、死後、いいところなら、行きたいが、悪いところなら行きたくない、何より、永遠の命が欲しいという願望。
さらに、先立った、いとしい者たちはどこに行ったのか、もう、永遠に会えないのか、そんなことには耐えられない。
どうしても会いたい、会わせてほしい、との死後再会への願望。
経典創作者(達)は、こういう苦悩の人々を救い、そして導くために阿弥陀仏や往生浄土信仰というものを表現されたものとうかがうのです。
それは、どんなに、私達が、不安で、孤独で、罪におののき、死が怖く、悲しく、さみしく、苦しくとも、私達には、目には見えないけれども、阿弥陀如来という、御仏の、不可思議な、大きな慈悲に、いつでも、どこでも、誰でも抱かれていて、必ず、みんな、御仏のまことをいただいて、御仏の浄土に迎えられ、尊い仏様にならせてもらい、すぐに、この苦悩の世界に帰ってきて、みんなを限りなく救い導き続けるということ。
たとえ信仰がなくとも
こういう、阿弥陀仏や浄土信仰を、素直に有難く受け入れられる人は、言うことはないと思います。
でも、人によっては、有難いということはわかるけれども、阿弥陀様やお浄土について、実際の事実としては信じがたいといわれる人もあると思います。
でも、たとえ、そうであったとしても、この、阿弥陀仏や浄土、そして、浄土から、この苦悩の世に還ってきて、永遠に、みんなを限りなく救い導き続けるという教義の中に、絶対平等、絶対平和、絶対の愛、絶対の慈悲という、究極のあるべき、尊い世界と歩むべき道がうなずけるという、真宗理解もあることをいつも思っています。
2024年4月
聖徳太子に見る、仏教と政治
政治は、政治家によって、良くも悪くもなります。
聖徳太子は、仏教を基にした政治家でした。
仏教の本質、慈悲を基にした政治家というのは、日本の政治上、聖徳太子だけではないでしょうか。
日本で初めての憲法といわれる、聖徳太子の、17条憲法から、見てみます。
ネットにある、日本まほろば社会科研究室のものを参考にします。
「十七条の憲法」が発布されたのは、西暦604年のことです。
第一条 以和爲貴
書き下し文
一にいわく、和をもちて貴しとなす、さからうこと無きを宗とせよ。人みな党あり、またさとれるもの少なし。これをもちて、あるいは君父にしたがわず、また隣里に違う。しかれども、上やわらぎ、下むつびて、事をあげつろうにかのうときは、即ち事理自ずから通ず。何事か成らざらん。
訳してみます。
一つに、和を尊重しましょう。誰だって、無視しないことを大事にしましょう。人にはみんな集団があります。また、真実を認知する人は少ないものです。だから、主君や父親に従わず、また、隣組や町内の決め事にも違反するのです。しかしながら、上の立場に立つ権力者も横暴をせず、市民もお互いに尊重しあって、物事に対処して、うまくいっているときは、すなわち、道理の真実が自然に通じているときなんです。道理の真実がおのずから通じれば、どんなことでも成就します。
第二条 篤敬三寶
書き下し文
二に曰く、あつく三寶を敬え。三寶とは仏・法・僧なり、すなわち四生の終帰、萬国の極宗なり。
いずれの世、いずれの人かこの法を貴ばざる。人、はなはだ惡しきものすくなし、よく敎えばこれに従う。其れ三寶に歸せずんば、何をもちてか、まがれるを直さむ。
訳してみます。
三つの宝を尊重しましょう。三つの宝とは、仏、仏法、そして教団です。すべての生き物の、終のよりどころであり、世界中の究極の真実です。どんな時代でも、どんな人であっても、この真実を尊重出来ない人はありません。人間には、極悪人という人は少ないものです。ですから、よく真実の教えを教えれば、この真実に従うものです。ですから、この三つの宝、すなわち、仏や仏法や教団をよりどころにしなければ、どうして曲がったものを直すことができましょうか。
第十六条 使民以時
書き下し文
十六に曰く、民を使うに時をもちてするは、古えの良き典なり。故に冬の月には、いとまあり、もって民を使うべし。春より秋に至るまでは、農桑の節なり。民を使うべからず。それ農、たがやさざれば何をか食くらい、桑いせずば何をか着む。
訳してみます。
「国民を労役に徴用するには時期を考えよう」という考えは昔からのよい教えです。ですから、冬の季節には暇があるので、その時に国民を動員するようにしましょう。春から秋までは、農作業や養蚕に力を入れる季節です。ですから、国民を動員しては
いけません。農業がなければ何を食べ、養蚕をしなければどうやって服を着るというのでしょうか。
民百姓、国民を尊重するという、慈悲の政治ですね。
山背大兄王
次に、聖徳太子の精神を受け継いだ、悲劇の息子、山背大兄王のネット紹介です。
山背大兄王は、蘇我入鹿に攻められて、一族を連れて、斑鳩宮から脱出し、生駒山に逃亡しました。
家臣の三輪文屋君は、「乘馬詣東國 以乳部爲本 興師還戰 其勝必矣」(東国に難を避け、そこで再起を期し、山背大兄王を攻める、入鹿を討つべし)と進言しますが、山背大兄王は戦闘を望まず「如卿所 其勝必然
但吾情冀 十年不役百姓 以一身之故 豈煩勞萬民 又於後世
不欲民言由吾之故 喪己父母 豈其戰勝之後 方言丈夫哉 夫損身固國
不亦丈夫者歟」(われ、兵を起して入鹿を伐たば、その勝たんこと定し。しかあれど一つの身のゆえによりて、百姓を傷りそこなわんことを欲りせじ。このゆえにわが一つの身をば入鹿に賜わん)と言いました。
山中で山背大兄王発見の報をうけた蘇我入鹿は高向国押に逮捕するように命じますが断られます。
結局、山背大兄王は生駒山を下り斑鳩寺に入り、十一月十一日(十二月三十日)に山背大兄王と妃妾など一族はもろともに首をくくって自害し、聖徳太子の血族はここに絶えることとなりました。
山背大兄王は、戦争で勝つ自信はあっても、父、聖徳太子の慈悲の精神を受けて、民百姓を犠牲にすることはいけないと、自ら、一族ともども、自死したのですね。
しかし、私は、自死しなくても、逃げる方法もあったのではないかと思うのですがね。
絶対に人の命は奪わないという、こういう、政治家は、極めてまれでしょうね。
ロシアのプーチン大統領も、ウクライナのゼレンスキー大統領も、イスラエルもガザのハマスも、ミャンマーの軍事政権も、民主派が創設した国民防衛隊(PDF)も、暴力是認ですからね。
本当は、絶対、戦争はしない、だから、どんな軍隊も持たずに、人道外交で国を守る、というのが、本来、絶対平和主義というものではないかと思えます。 憲法九条もそうですね。
「戦争の放棄
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」 ですからね。
仏教も、本来、そういう道だと思えます。
いつも、こういう、絶対平和主義が大きく、広がってほしいものと思います。
2024年3月
聖典学習会のご案内 21日(木) 朝10時〜11時 おにぎり会の中で 学習聖典 ・無量寿経 (現代語版浄土三部経) 住職自修 参加費無用 聖典から人生・社会の諸問題を問うてみましょう。 どうぞ誘って気楽にご参加下さい |
永代経法座のご案内
4月3日(水) 朝9時半~ 住職自修
4月4日(木)朝9時半~ 焼香日
呉市、明円寺住職 竹田嘉円殿
どうぞお誘いの上、御参詣くださいませ
絶望からの救いを考える
能登で大震災が起きました。
ニュースで人々の苦悩が報道されています。
以下、ネット情報からの引用です。
石川県警の警察官である大間圭介さんは、震災で土砂崩れにあい、妻のはる香さんと長女の優香ちゃん(11)、長男の泰介くん(9)、次男の湊介くん(3)を失いました。
ただ一人生き残った大間さんはその日、「私の宝物がたくさん奪われてしまった」と声を震わせたといいます。
「どこかで受け止めなければいけないのかもしれないのですが、今はできるだけ思い出さないようにしたいんです。
まだちょっと、夜は来ないでほしいです」と語られています。
こういうような、過酷な経験のない、私には、到底その苦悩は計り得ませんが、今、大間さんが、この苦悩の中から、御自身なりの、確かな生きてゆかれる道を把握していて下されば幸いと思っています。
お釈迦様の苦悩からの救いの道
お釈迦様は、息子に先立たれ、目連や舎利弗といった、高弟にも先立たれ、晩年、釈迦族の城は、大国に攻めこまれて、釈迦族は、全滅状態になったといわれています。
そんな中でも、お釈迦様を救ったのは、「道」でしたね。
それは、万物の無限の関係性と尊厳性を基に、全てを慈しむこと、施すこと、殺さないという道を最後まで伝道布教し続けられる道でした。
お釈迦様の臨終、喘ぎの中にも、お釈迦様は、周りのみんなに、「みんな、臨終だからといって、遠慮はしないでほしい、どんなことでも、疑問があれば遠慮なく問うがいい」と言い続けられたと伝記にあります。
これが、お釈迦様を最後まで救い続けた道でしたね。
親鸞様の苦悩からの救いの道
朝廷や幕府からの念仏弾圧があり、関東の念仏弾圧がようやく止んだのは、84歳であったといいます。
また、この年、息子善鸞への親子の縁切り、勘当、火事にも遭っておられます。
そんな中、親鸞様の救いの道は、阿弥陀様や浄土への信心による、救いと導きの道でした。
親鸞様にとって、阿弥陀様は、一切を慈しまれる、大慈悲という、真実のよりどころであり、浄土は、みんな全て迎え入れられる、絶対平等、争い対立の無い、絶対平和の世界であり、この阿弥陀様や、浄土の真実に導かれ、そして、みんなに伝道布教される、歓喜と慚愧の道でした。
私の救いの道
ほとんど、毎日、ユーチューブでも講話で確認し続けているところですが、私自身の人生観、世界観、思想観、宗教観、仏教観、浄土真宗観としての表明です。
このことは、何度も書き、語っています。
観念でしかありませんが、仮に、報正寺も、庫裏も火事で丸焼け、私の家族、親族もみんな焼け死んで、私自身、大火傷で生き残って、後、長くないとして、最後まで、どういう覚悟で生きるかというものです。
周りの人々に、最後まで、やさしい、暖かい振る舞いができて命終われたら、そして、少しでも、よりよい社会の実現のために何かできたら、いうことはないかということ。
最後までこういうことが語り続けられ、念じ続けられ、一生の罪や、失敗や迷惑を慚愧し続けられながら命終できたらいいかと思っていることです。
2024年2月
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2月14日(火)朝9時半 15日(水)朝9時半 おしゃか様のご一生から学ぶもの 住職・坊守自修 どうぞ、お誘い合ってお参りください。 |
慚愧すること
浄土真宗僧侶となって、60年ばかり。
自分なりに人生観、世界観、思想観、宗教観、仏教観、浄土真宗観を確立しているつもりですが、でも、家族、親族始め、知人、僧侶仲間にも、門信徒の方々にも、十分伝わっていないだろうと慚愧しています。
私自身も、ただ、理屈や観念でしかなく、私自身の人間性にまで、高まっていないことを慚愧します。
慚愧しつつもなお
慚愧といっても、おぼつかないことですが、でも、私なりに、できる限り、おごらず、高ぶらず、屈せず、柔軟に努力し続け、歩んでゆきたいと思っています。
僧侶の勤め、伝道布教、そして、人間、社会の問題に、ささやかでも、取り組んでゆけたらと思っています。
本願寺での騒動
この問題は、中国新聞にも記事になったそうですから、御存じの方もあると思いますが、大きな問題になっています。
これは、去年の宗祖親鸞聖人御命日法要に、門主の表明として出された、新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え) への是非の論争です。
以下、紹介します。
【南無阿弥陀仏
「われにまかせよ そのまま救う」の 弥陀のよび声
私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ「そのまま救う」が 弥陀のよび声
ありがとう といただいて
この愚身をまかす このままで
救い取られる 自然の浄土
仏恩報謝の お念仏
これもひとえに
宗祖親鸞聖人と
法灯を伝承された 歴代宗主の
尊いお導きに よるものです
み教えを依りどころに生きる者 となり
少しずつ 執われの心を 離れます
生かされていることに 感謝して
むさぼり いかりに 流されず
穏やかな顔と 優しい言葉
喜びも 悲しみも 分かち合い
日々に 精一杯 つとめます
この新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)を僧俗を問わず多くの方々に、さまざまな機会で拝読、唱和いただき、み教えの肝要が広く、また次の世代に確実に伝わることを切に願っております。
令和5年・2023年 1月16日
龍谷門主 釋 専 如】
さてどうでしょう。
反対派には、「新しい領解文を考える会」があり、「浄土真宗本願寺派勧学・司教有志の会」の声明「五」には、
「速やかに「新しい領解文」を取り下げて、宗門が目指すべき本来のあり方、すなわち正しい宗意安心にもとづく念仏の一門としてのあり方を示してしていただきたい。」とあります。
私は、この「新しい領解文を考える会」に対して、次のように意見を述べました。
「(中略)、感想です。
新しい領解文、賛成、反対、それぞれの言い分があるのでしょう。
どうも、どちらも、感情的な、強硬さが感じられ、どちらの方々も、柔軟に対応していただきたいと思いました。
ともかく、みんな各人各人、真宗領解は重要と思います。
私は、浅学、不遜かもしれませんが、従来の、領解文、これは、蓮如さんのものであり、宗祖と果たして同じといえるかという思いです。
信心における、阿弥陀仏への絶対の帰依ということについては同じかもしれませんが、自覚的な生き方ということについては、差異があるように思います。
宗祖は、熊皮や安城の御影に現れているように、また、みないし瓦、礫の如くなるわれらなりの文言にも見える如く、当時の被差別民とも、同朋視点があり、それゆえに、封建権力差別支配社会を厭われるものがあったことを思います。
それに対し、蓮如さんには、王法為本、仁義為先とか、院号や、色衣使用など、権威主義的で、世間通途、と封建権力差別支配社会を容認されるものがうかがえます。
領解文には、定められた掟として、守護・地頭を疎略にすべからずなどとあり、封建権力への従順な姿勢が見られます。
そういうところから、新しい領解文にも、虚仮の世間をいとい、同朋社会の実現ということが明確でないところを残念に思っています。
私が真宗領解を表現すれば、
「浄土真宗は、阿弥陀仏に帰依する教えです。
阿弥陀仏に帰依するということは、阿弥陀仏の無限の大悲を仰がしめられ、また、それゆえにこそ、慈悲に遠き、自己自身と、この世界を悲歎、慚愧せしめられ、そして、慚愧とともに、この阿弥陀仏の大悲にうながされて、あらゆる命、わけても人間の尊厳と平等が侵されない、御同朋の社会実現への歩みに導かれてゆく教えです。」
ということになるかと思っています。
新しい領解文、この内容は、じっくり時間をかけて、検討しなおしてもらいたいものと思っています。 合掌」
今年も、ダーナ募金をよろしくお願いします
ダーナとは、インドの言葉で、施し「布施」という意味です。
仏教の道は、無我、慈悲、利他、布施ですから、お互いに尊重し、助け合い、共に生きるということで、施しを仏教徒の生き方としています。
昨年度、報正寺ダーナ募金総額は33,733円でした。
小原、1,800円・萩原、1,200円
数舟、3,000円・本一、3,400円
本二、6,000円・本三、7,500円
本四、12,500円・
山県太田組ダーナ募金会計へ・・10,000円
ビルマ難民教育支援へ・・・・ 23,733円
前年度山県太田組ダーナ募金総額は 285,620円
予備費以外の配分
山県太田組内医療機関へ仏教誌施本費・77,220円
芸北福祉会へ・・・・・・・・・・・・50,000円
安芸教区仏婦連盟へ・・・・・・・ 30,000円
2024年1月
親鸞聖人御命日法座のご案内 16日(火) 朝9時半・ 17日(水)朝9時半 「親鸞様の御一生から学ぶもの」 住職自修 共に、親鸞様のご一生から、人生と社会の 諸問題を考えさせてもらいましょう。 |
過年を感謝し、本年もよろしくお願いいたします。
越年雑感
全て終わる、宇宙にも、私の存在にも、本来、その存在の意味はなさそうですがどうでしょう。
石ころでもない、生物としての私たちは、ただ、個体の維持と種族保存の本能に突き動かされているようです。
ともかく、どう生きようと本来自由。
宗教も思想も科学も様々、本当のことはわからない。
だから、とにかく、好きなように、面白く、楽しく、楽に生きようこともわかります。
また、闘争本能がある限り、この世はしょせん戦いだというのもわかります。
また、いや、それもあるが、人間性豊かに、やさしさや、あたたかさを大事にしようということもわかります。
仏教とは何だろう
それは、万物が、すべて、無限の関係性があって、尊い存在ということから、全てのものを尊び、いつくしみ、分かち合うということを示していると思えます。
浄土真宗とはなんだろう
それは、いつでも、どこでも、だれでも、どんなことがあっても、決して、私たちを離れてくださらず、必ず、救ってくださるという、阿弥陀様に、全てをお任せするという、こういう、いわゆる、信仰というものが受け入れられるというのが基本でしょう。
でも、たとえ、こういう信仰が、受け入れられなくとも、この、阿弥陀様や、浄土の真実から、根深い、自我の煩悩を慚愧せしめられながら、全てを、尊重しょうとする自分と、社会の実現に向かう道が示されていることを考えます。
本願寺派門主 大谷光淳様・本願寺派総長 池田行信様
2023年12月16日
私は親鸞さまの月御命日に意思表示をします。
仏願に背く、集団的自衛権を認める安全保障関連法への明確な反対声明を教団として早急に出して下さい。
(私の思い) 御同朋の社会実現への実践教学ということを考察します。
教団の過去現在の総体的教学を言い表せば、「如来にお任せ出来て、安心できる
教学」といえましょう。
こういう教学にかかわらず、真実に目覚めて、逆に虚仮の身と世をいとい、慚愧
と共に、真実、即ち慈悲なる方向に自己も社会も促される教学というものを明確
にする必要があると考えます。
「親鸞聖人のみ教えを現実社会の中でいかに発揮するか」について、私は、総理大
臣宛、2019年12月以来、項目を削除または追加変更して、今月も、以下の如
く要望しました。 「私は、我が宗祖、親鸞様の月命日に意思表示をします。
私ども、本願寺教団は、御本尊、阿弥陀仏をよりどころとする教団です。
阿弥陀仏の本質は、究極の無我、慈悲、利他、布施です。
ですから、私たちは、この、究極の無我、慈悲、利他、布施にうながされて、慚愧
と共に、命の尊厳、人間の尊厳を侵さない自己と社会の実現を目指します。
それ故に、仏教徒(浄土真宗門徒)として、この命の尊厳、人間の尊厳を侵さない
社会の実現に向けて、全ての人権尊重、戦争放棄、格差是正、環境保全、福祉充
実等に取り組みます。
上記の趣旨のもと、総理大臣におかれましては、次に上げます諸課題
アジア侵略戦争死傷者、慰安婦、徴用工等被害者への誠実謝罪と補償・国家主義、民族主義から解放され、人類の一員、国際人としての自覚と諸外国相互尊重互恵信頼外交・人間性涵養教育の重視・広範な全人的国際的教養取得にかかわる義務教育内容及び制度の改革・戦前からの、国旗(日の丸)、国歌(君が代)の変更と、国旗、国歌強制不執行・憲法九条改悪廃止・安全保障関連法、特定秘密保護法、緊急事態条項憲法規定、共謀罪廃止・自衛隊の軍装解除、内外救援隊改変・日米地位協定変更・日米安保解消・諸国和平条約締結・核兵器禁止条約批准・沖縄の辺野古新基地建設、日米ミサイル共同設置、軍事施設、防衛装備移転三原則、自衛隊、海外軍事派遣廃止・独立した憲法裁判所の設置・完全な三権分立・政教分離・首相、閣僚の伊勢神宮、靖国神社公式参拝廃止・政党交付金廃止・小選挙区制から中選挙区完全比例制へ選挙制度改革・外国人の一定期間後の選挙権取得の自由・天皇制、死刑、原発廃止・自然エネルギー変換・輸入食品、医療品、農薬、種子の安全・水及び山林等自然資源の安全確保・食糧自給の確保・廃棄物削減とリサイクル推進・カジノ等遊興事業への公的関与廃止・消費税廃止、累進課税の徹底・男女共同参画社会の推進・しょうがい者差別解消・部落差別解消推進法の具現・精神しょうがい者、長期入院の解放・犯罪者の厳罰化より人間性回復、更生システムの充実・アイヌ他少数民族への人権尊重と誠実な謝罪と権利補償・ハンセン病偏見、差別撤廃・性的少数者の人権尊重・同性婚、夫婦別姓選択自由認定・朝鮮学校への補助復活・外国人労働者、技能実習生への人権尊重・労働者の権利保障とゆとりのある生活保障・ホームレス、生活保護者、無国籍者などの生活保障・出入国在留管理局に長期収容されている外国人への人権的処遇改善・朝鮮民主主義人民共和国による、拉致被害者緊急救済・森友、加計学園、桜を見る会、疑惑解明・1億5千万支援の河井疑惑解明・日本学術会議委員6名否認理由解明・狭山事件、袴田事件など冤罪解明のための検察の証拠全面開示・低周波被害、環境保全等に危惧のある、風力発電見直し・行動の自由懸念の土地規制法撤回・非民主、強権的な中国、ロシア、朝鮮民主主義人民共和国、アフガニスタン、ミャンマー等への非難・国家の教科書介入撤回・ウクライナ停戦尽力・憲法九条堅持上、憲法審査会の審議中止・民主的国連改革・旧統一教会関係の犯罪究明、被害者救済・健康保険証存続・防衛費増強中止・福島原発汚染水、海洋放出中止・イスラエル、パレスチナの戦争中止、終息・政治家の収支透明化等々に積極的に取り組まれますことを切望いたします。」 と
非戦平和を願う真宗門徒の会会員 広島県 報正寺住職 城山大賢
2023年12月
聖典学習会のご案内
21日(木) 朝10時〜11時
おにぎり会の中で
学習聖典 ・無量寿経 (現代語版浄土三部経)
住職自修 参加費無用
聖典から人生・社会の諸問題を問うてみましょう。
どうぞ誘って気楽にご参加下さい
無量寿経を学ぶ
聖典を学ぶということは、聖典から、人生の根本問題や、社会のあるべきあり方を考えるということになります。
この無量寿経の作者は不明です。
匿名にしてあるのでしょう。
一般には、お釈迦様が説かれたということになっていますが、現代、研究が進んで、お釈迦様が亡くなって、約500年後、大乗仏教時代に創作されたもののようです。
今から、ざっと2千年前になります。
ということは、おしゃか様は、生きておられた時、阿弥陀仏や、その浄土などについて説かれてはいなかったということになります。
ですから、この無量寿経に説かれている、阿弥陀仏や浄土は、経典作者(達)の創作ということになります。
それでは、何のために、経典作者(達)は、おしゃか様が説かれなかった、阿弥陀仏や浄土について、お釈迦様の説法として、創作されたのかが問題です
それは、思うに、おしゃか様の教えを基に、あらゆる人々の苦悩を救い導くということであろうと考えられます。
お釈迦様の教えと導きと救い
お釈迦様の教えとは、縁起の道理といわれています。
縁起の道理とは、万物個々がすべて無限の縁でつながっていて、それぞれが絶対的に尊い存在であるという道理です。
この道理を踏まえて、自分中心でない、無我・冷酷でない、慈悲・利己でない、利他・略奪でない、布施といった道がお釈迦様の導きであり、この道を自覚し、歩めるところに救いということが言われていると思えます。
浄土教の教えと救い
これは、阿弥陀仏や、浄土への信仰による救いと導きということでしょう。
しかし、これは、前述のように、実際には、お釈迦様が説かれたものではなかったようで、お釈迦様滅後、五百年、無名匿名の経典作者の創作といわれます。
そこで、経典創作者の意図を考えるのです。
それは、お釈迦様のように、この世の真理とは何か、と道を問うような人々はともかく、多くの人々は、それどころではなく、諸苦悩にあえいでいたと思えます。
生まれてからこの方、ともかく、次々と様々な災難が降りかかり、奪われ、いじめられ、差別され、だまされ、殺されるというような、苦難や不安の中で、誰でもいいから、助けてくれー、と叫んでいる。
さらに、誰も側にいてくれるものがいなくて、独りぼっち、寂しくて、わびしくてたまらない。
誰でもいいから、私の気持ちを聞いてほしい、わかってほしい、抱きしめてほしい、ずーっと私の側にいてほしい、という孤独の悲哀。
さらに、自らの犯した罪を痛み、「誰か、私の罪を救ってくれー」と自らしでかした罪への悲嘆。
さらに、自分が、この世から、永遠に消えてゆく、居なくなるという、死への恐怖。
また、死後、いいところなら、行きたいが、悪いところなら行きたくない、何より、永遠の命が欲しいという願望。
さらに、先立った、いとしい者たちはどこに行ったのか、もう、永遠に会えないのか、そんなことには耐えられない。
どうしても会いたい、会わせてほしい、との死後再会への願望。
経典創作者(達)は、こういう苦悩の人々を救い、そして導くために阿弥陀仏や往生浄土信仰というものを表現されたものとうかがうのです。
浄土真宗の「信仰」というもの
それは、どんなに、私たちが、不安に満ち、孤独で、罪におののき、死が怖く、悲しくて、さみしくて、苦しくとも、
私たちには、目には見えないけれども、阿弥陀如来という、み仏の、不可思議な、大きな慈悲に、いつでも、どこでも、抱かれているということ。
だから、決して、独りぼっちではなく、どんなに最低、最悪の状態で、命が終わることがあったとしても、絶対、大丈夫、心配ないということ。
この阿弥陀如来様の無限の大慈悲に抱かれて、みんな、みんな、阿弥陀様のお浄土に、迎えられてゆくということ。
そして、この浄土は、この世とは違い、金銀宝で出来、美しい花で飾られた、素晴らしい世界で、この世のような、
略奪、詐欺、いじめ、差別、戦争などは絶対にないということ。
さらに、この浄土で、私たちの、醜い心は、導かれて、阿弥陀様と同じ、大慈悲の私、すなわち、仏にさせてもらうということ。
この浄土に、みんな、みんな、仏様の「まこと」をいただいて、遅かれ早かれ、漏れることなく、迎えられてゆくから、この浄土で、みんなと必ず会え、会えないということは決してないということ。
そして、この浄土は、行ったきりの世界ではなく、必ず、必ず、この現実世界に、還ってくるということ。
なぜなら、慈悲の仏さまにならせてもらうのだから、この現実に、奪い、いじめ、差別、戦争など、人間の苦悩や悲しみがある限り、この苦悩を放っておくことができないから、みんなを救い導かなければならないからということ。
そして、今度は、決して、死ぬるということは無く、永遠の命を持って、この迷いの世界を、永遠に導き続けるということが、この阿弥陀様の慈悲の中に、誓われ、完成されてあるのだから、この、不可思議で広大な、阿弥陀様のお慈悲に、すべて打ち任せ、安心しきって、この人生、どんなことがあろうと、歩ませてもらうということ。
歩むといっても、私たちは、死ぬまで自分中心な心から逃れられない。
でも、みんな阿弥陀様のお慈悲の中に抱かれているお互いどうし、そして、縁起ということで、みんな、つながりあっているということを知らされれば、慚愧とともに、できる限り、できる限り、全てを尊重し合い、慈しみ合い、分かち合うように歩ませてもらおうということ。
たとえ信仰がなくとも
こういう、阿弥陀仏や浄土信仰を、素直に有難く受け入れられる人は、言うことはないと思います。
でも、人によっては、有難いということはわかるけれども、阿弥陀様やお浄土について、実際の事実としては信じがたいといわれる人もあると思います。
ここは大事なところと思うのですが、
たとえ、この阿弥陀様やお浄土の所在が信じられないとしても、この、阿弥陀仏や浄土、そして、浄土から、この苦悩の世に還ってきて、永遠に、みんなを限りなく救い導き続けるという教義の中に、無限大の広い心、無限大の深い心、絶対の愛、絶対の慈悲、差別のない、絶対平等、
対立や戦争のない、絶対平和という、私達や、この社会の、究極のあるべき、方向性が知らされるという、真宗理解をいつも考えます。
浄土真宗とは
今、本願寺教団では、新聞でも取り上げられたように、「新しい「領解文」による、真宗理解をめぐって騒動があります。
真宗理解を、私自身が、端的に表現するなら、どう表現するかと考えてみました。
「浄土真宗は、阿弥陀仏に帰依する教えです。
阿弥陀仏に帰依するということは、阿弥陀仏の無限の大悲を仰がしめられ、また、それゆえにこそ、慈悲に遠き、自己自身と、この世界を悲歎、慚愧せしめられ、そして、慚愧とともに、この阿弥陀仏の大悲にうながされて、あらゆる命、わけても人間の尊厳と平等が侵されない、御同朋の社会実現への歩みに導かれてゆく教えです。」と
2023年11月
秋法座・報恩講のご案内 13日(月)朝、9時半~住職自修 14日(火)朝、9時半~ 安佐北区、教雲寺、藤井聡之殿 お誘いあってお参りくださいませ |
報恩講
報恩講は、親鸞様有難うございますという行事です。
私達は、親鸞様に何を有難うございますというのでしょうか。
それは、親鸞様の阿弥陀仏信仰から、私達も、救いと導きをいただいたということでしょうね。
阿弥陀仏信仰による、救いと導き
それは、誰だって、みんな、いつでも、どこでも、この阿弥陀様のお慈悲の中に抱かれ、導かれているということ。
どんなに、悲しい時、淋しい時、苦しい時、どんな時でも、誰だって、みんな、この阿弥陀様のお慈悲に抱かれているんだから、決して独りぼっちではなく、絶対安心なんだということ。
どんなにボロボロの人生で人生を終えることがあっても、みんな、この阿弥陀様のお慈悲に導かれて、阿弥陀様の「まこと」をいただいて、遅かれ早かれ、必ず、阿弥陀様のお浄土に迎えられるということ。
このお浄土は、この世とは違って、戦争や対立や、略奪や、人権蹂躙などの差別といった闇は、全くなく、清浄無垢な世界だということ。
さらに、私たちの心もきれいに導かれて、阿弥陀様と同じ、大慈悲の心、すなわち、仏様にならせてもらうということ。
この浄土へ、みんな迎えられてゆくのだから、愛しいものとも、絶対誰とも会えるということ。
決して会えないということはないということ。
そして、このお浄土は、決して行ったきりの世界ではないということ。
このお浄土では、みんな、尊い大慈悲の仏さまにならせてもらうんだから、すぐに、この世に還ってくるんだということ。
なぜなら、この世は、人々が、みんな、様々な苦悩や憂いに満ち、戦争や人権蹂躙などの闇が果てしなくあるから、みんなを絶対に救い導かなければならないからということ。
そして、今度は、もう、命が尽きるということはなく、永遠の命を持って、いつまでも、どこまでも、誰でもみんなを限りなく救い導かせてもらうということ。
こういうことが、阿弥陀様によって、誓われ、完成されていて、この阿弥陀様のお慈悲の中に今、抱かれているんだから、この人生、今、どうあろうと、こうあろうと、これから先、どんなことが起こって来ようとも、絶対に、安心しきって、この人生を歩ましてもらおう。
どう歩むかといっても、私たちは、自己中心な思いから、死ぬるまで、決して離れることはできない。
でも、聞かせてもらえば、みんな、誰だって、どんな命だって、みんな阿弥陀様のお慈悲に抱かれている、仲間どうしだということ。
そして、仏教の教えからも、「縁起」ということで、みんな、みんなつながり合いがあり、だから、みんな尊いんだということ。
そう知らされれば、私たちは、死ぬまで、自分中心の心から離れられないけれども、慚愧と共に、出来るだけ、出来るだけ、みんなを尊び合えるように、慈しみ合えるように、分かち合えるように生きてゆこうではないか。
ともかく、この阿弥陀様のお慈悲に抱かれていることに安心しきって。
ということになるでしょうね。
現代の浄土真宗を考える
親鸞様が亡くなられて、760年経ちました。
科学的、実証的にものを考える現代、阿弥陀仏や浄土を実際の事実として、おまかせして、信仰するというのは、中々受け入れがたい時代かと思えます。
こういう、信仰を、素直に受け入れられる人もあれば、素直には、受け入れられない人もあると思います。
人間は、本来、信じるも、信じないも、自由ですね。
たとえ、上記、「阿弥陀仏や浄土を実際の事実として、
おまかせして、信仰する」という信仰が持てないとしても この「阿弥陀仏や浄土」と表されたものの中に、絶対的な、平等や平和の真実があると、目覚めさせされ、そして、真実ならざる、自分と、この社会をいとい、それ故にこそ、真実なる自己と平等や平和な社会の実現に向かって、慚愧と共に、歩んで行ける、道としての浄土真宗ということを、いつも考えます。
今、世界は、ロシアによる、ウクライナ侵略、また、パレスチナのハマスとイスラエルの戦争、ミャンマーの軍事政権による、民衆派への弾圧等々。
しかし、どんな国家の繁栄、栄光であれ、法律や憲法であれ、国王であれ、大統領、総理大臣であれ、決して、何人の命も、人権も侵してはならないという、人生観、世界観を明示するところに、本来、仏法、浄土真宗の存在意義があるということを思います。
親鸞様の世界
親鸞様は、念仏の仲間へのお手紙の中に、「詮ずるところは、そらごとをまふし、ひがごとを、ことにふれて、念佛のひとびとにおほせられつけて、念佛をとゞめんと、ところの領家・地頭・名主の御はからひどものさふらふらんこと、よくよくやうあるべきことなり。
(中略)
善導和尙は、「五濁增時多疑謗 道俗相嫌不用聞 見有修行起瞋毒 方便破壞競生怨」(法事讚*卷下)とたしかに釋しをかせたまひたり。
この世のならひにて念佛をさまたげんひとは、そのところの領家・地頭・名主のやうあることにてこそさふらはめ。
とかくまふすべきにあらず。
念佛せんひとびとは、かのさまたげをなさんひとをばあはれみをなし、不便におもふて、念佛をもねんごろにまふして、さまたげなさんを、たすけさせたまふべしとこそ、ふるきひとはまふされさふらひしか。
よくよく御たづねあるべきことなり。」とあります。
昔の言葉遣いですが、親鸞様は、えてして、権力者達というものは、仏法、念仏を妨害するものだから、そういう権力に迎合することではなく、むしろ、哀れみや悲しみの心をもって助けるべきであるといわれているようです。
これは、権力者の価値観は、闘争、戦争の原理に基づくものであり、それに対し、仏法、念仏の価値観は、慈悲、平和の価値観であるという表明と思えます。
聖典学習会のご案内
17日(火) 朝10時〜11時
おにぎり会の中で
学習聖典 ・無量寿経 (現代語版浄土三部経)
住職自修 参加費無用
聖典から人生・社会の諸問題を問うてみましょう。
どうぞ誘って気楽にご参加下さい
聖典を学ぶということは、聖典から、人生の根本問題や、社会のあるべきあり方を考えるということになります。
この無量寿経の作者は不明です。
匿名にしてあるのでしょう。
一般には、お釈迦様が説かれたということになっていますが、現代、研究が進んで、お釈迦様が亡くなって、約500年後、大乗仏教時代に創作されたもののようです。
今から、ざっと2千年前になります。
ということは、おしゃか様は、生きておられた時、阿弥陀仏や、その浄土などについて説かれてはいなかったということになります。
ですから、この無量寿経に説かれている、阿弥陀仏や浄土は、経典作者(達)の創作ということになります。
それでは、何のために、経典作者(達)は、おしゃか様が説かれなかった、阿弥陀仏や浄土について、お釈迦様の説法として、創作されたのかが問題です
それは、思うに、おしゃか様の教えを基に、あらゆる人々の苦悩を救い導くということであろうと考えられます。
お釈迦様の教えと導きと救い
お釈迦様の教えとは、縁起の道理といわれています。
縁起の道理とは、万物個々がすべて無限の縁でつながっていて、それぞれが絶対的に尊い存在であるという道理です。
この道理を踏まえて、自分中心でない、無我・冷酷でない、慈悲・利己でない、利他・略奪でない、布施といった道がお釈迦様の導きであり、この道を自覚し、歩めるところに救いということが言われていると思えます。
浄土教の教えと救い
これは、阿弥陀仏や、浄土への信仰による救いと導きということでしょう。
しかし、これは、前述のように、実際には、お釈迦様が説かれたものではなかったようで、お釈迦様滅後、五百年、無名匿名の経典作者の創作といわれます。
そこで、経典創作者の意図を考えるのです。
それは、お釈迦様のように、この世の真理とは何か、と道を問うような人々はともかく、多くの人々は、それどころではなく、諸苦悩にあえいでいたと思えます。
生まれてからこの方、ともかく、次々と様々な災難が降りかかり、奪われ、いじめられ、差別され、だまされ、殺されるというような、苦難や不安の中で、誰でもいいから、助けてくれー、と叫んでいる。
さらに、誰も側にいてくれるものがいなくて、独りぼっち、寂しくて、わびしくてたまらない。
誰でもいいから、私の気持ちを聞いてほしい、わかってほしい、抱きしめてほしい、づーっと私の側にいてほしい、という孤独の悲哀。
さらに、自らの犯した罪を痛み、「誰か、私の罪を救ってくれー」と自らしでかした罪への悲嘆。
さらに、自分が、この世から、永遠に消えてゆく、居なくなるという、死への恐怖。
また、死後、いいところなら、行きたいが、悪いところなら行きたくない、何より、永遠の命が欲しいという願望。
さらに、先立った、いとしい者たちはどこに行ったのか、もう、永遠に会えないのか、そんなことには耐えられない。
どうしても会いたい、会わせてほしい、との死後再会への願望。
経典創作者(達)は、こういう苦悩の人々を救い、そして導くために阿弥陀仏や往生浄土信仰というものを表現されたものとうかがうのです。
浄土真宗の「信仰」というもの
それは、どんなに、私たちが、不安に満ち、孤独で、罪におののき、死が怖く、悲しくて、さみしくて、苦しくとも、
私たちには、目には見えないけれども、阿弥陀如来という、み仏の、不可思議な、大きな慈悲に、いつでも、どこでも、抱かれているということ。
だから、決して、独りぼっちではなく、どんなに最低、最悪の状態で、命が終わることがあったとしても、絶対、大丈夫、心配ないということ。
この阿弥陀如来様の無限の大慈悲に抱かれて、みんな、みんな、阿弥陀様のお浄土に、迎えられてゆくということ。
そして、この浄土は、この世とは違い、金銀宝で出来、美しい花で飾られた、素晴らしい世界で、この世のような、
略奪、詐欺、いじめ、差別、戦争などは絶対にないということ。
さらに、この浄土で、私たちの、醜い心は、導かれて、阿弥陀様と同じ、大慈悲の私、すなわち、仏にさせてもらうということ。
この浄土に、みんな、みんな、仏様の「まこと」をいただいて、遅かれ早かれ、漏れることなく、迎えられてゆくから、この浄土で、みんなと必ず会え、会えないということは決してないということ。
そして、この浄土は、行ったきりの世界ではなく、必ず、必ず、この現実世界に、還ってくるということ。
なぜなら、慈悲の仏さまにならせてもらうのだから、この世界に、奪い、いじめ、差別、戦争など、人間の苦悩や悲しみがある限り、この苦悩を放っておくことができないから、みんなを救い導かなければならないからということ。
そして、今度は、決して、死ぬるということは無く、永遠の命を持って、この迷いの世界を、永遠に導き続けるということが、この阿弥陀様の慈悲の中に、誓われ、完成されてあるのだから、この、不可思議で広大な、阿弥陀様のお慈悲に、すべて打ち任せ、安心しきって、この人生、どんなことがあろうと、歩ませてもらうということ。
歩むといっても、私たちは、死ぬまで自分中心な心から逃れられない。
でも、みんな阿弥陀様のお慈悲の中に抱かれているお互いどうし、そして、縁起ということで、みんな、つながりあっているということを知らされれば、慚愧とともに、できる限り、できる限り、みんなを尊重し合い、慈しみ合い、分かち合うように歩ませてもらおうということ。
たとえ信仰がなくとも
こういう、阿弥陀仏や浄土信仰を、素直に有難く受け入れられる人は、言うことはないと思います。
でも、人によっては、有難いということはわかるけれども、阿弥陀様やお浄土について、実際の事実としては信じがたいといわれる人もあると思います。
でも、たとえ、そうであったとしても、この、阿弥陀仏や浄土、そして、浄土から、この苦悩の世に還ってきて、永遠に、みんなを限りなく救い導き続けるという教義の中に、絶対の愛、絶対の慈悲、絶対平等、絶対平和という、私達や、この社会の、究極のあるべき、方向性が知らされるという、真宗理解をいつも思っています。
浄土真宗とは
今、本願寺教団では、新聞でも取り上げられたように、「新しい「領解文」による、真宗理解をめぐって騒動があります。
真宗理解を、私自身が、端的に表現するなら、どう表現するかと考えてみました。
「浄土真宗は、阿弥陀仏に帰依する教えです。
阿弥陀仏に帰依するということは、阿弥陀仏の無限の大悲を仰がしめられ、また、それゆえにこそ、慈悲に遠き、自己自身と、この世界を悲歎、慚愧せしめられ、そして、慚愧とともに、この阿弥陀仏の大悲にうながされて、あらゆる命、わけても人間の尊厳と平等が侵されない、御同朋の社会実現への歩みに導かれてゆく教えです。」と
18日(祝日)昼、2時
19日(火)朝、9時半
『仏法と人生と社会』 住職自修
9月18日、午後1時30分、2018年から毎年、梵鐘を撞くことにしています。
そのわけを記します、
本願寺教団では、無量寿経に「兵戈無用」と示され、親鸞聖人が「世のなか安穏なれ 仏法ひろまれ」と願われたことをもとに、教団の戦争協力の責任を真摯に慚愧し、非戦・平和の願いを広く発信するために、1981年より毎年、9月18日に、国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑(東京都千代田区)で千鳥ヶ淵全戦没者追悼法要を勤めています。
千鳥ケ淵戦没者墓苑は、日本国政府が設置した、第二次世界大戦の時に国外で死亡した日本の軍人、軍属、民間人の遺骨のうち、身元不明や引き取り手のない遺骨を安置する施設です。
「千鳥ヶ淵全戦没者追悼法要」では、教団として日本国内外に恒久平和への願いを新たにするため「平和宣言」を行い、さらに「平和の鐘」を撞きます。
仏のみ教えと平和への決意を、響かせ届けたいという願いのもと、「平和の鐘」の取り組みがはじめられました。
各地の寺院でも法要と同時刻にいっせいに鐘を撞き、平和な世への願いを発信しています。
9月18日は、柳条湖事件勃発の日で、これは、日本の関東軍の謀略によって起こった、満州事変の発端となる鉄道爆破事件です。
1931年(昭和6年、)9月18日、満州(現在の中国東北部)の奉天(現在の瀋陽市)近郊の柳条湖付近で、日本の所有する南満州鉄道の線路が爆破された事件で、関東軍はこれを中国軍による犯行とでっちあげ、以後、日本の中国侵略戦争が拡大したのでした。
日本の罪ですが、この戦争と一体化した、教団の罪も慚愧し、もう、絶対、決して、このような過ちを侵さないことを決意させてもらいたいと思います。
苦悩想念
あー、苦しい、苦しいー、誰かー、助けてくれー。
こんなに苦しいのならー、死んだほうがましー。
でも、死んでも真っ暗闇だー。
あー、神様でも仏様でもいいー、助けてくれー。
というような、苦悩に、私はまだ陥ったことがありません。
それは、一面、果報なことなのでしょう。
しかし、いつも思うのは、それは一面、また、不運なことでもあると思っているのです。
なぜかというと、それは、本当に、絶望感のどん底に陥って、なお、私の平生の覚悟が、微塵もたじろぐことがない、というようなところこそ、本当のものと思っているからです。
私は、平素、なんやかんやと、思いを文章につづったり、講話をさせてもらっていますが、それは、まだ、極楽トンボのたわごとかもしれません。
まだ私自身、絶望感に陥っていませんからね。
そういうことで、私は、私に、思わぬ不運、不幸といわれるものがやってくるごとに、私自身の平生の覚悟が試されると思っているのです。
ですから、私は、これから、嫌ではあっても、どんな不運なことがやって来ようとも、むしろ、それによって、私が試されるんだと、降りかかってくる苦悩を受容しょうと決意しているつもりです。
私は、皆さん、どんな覚悟をもって生きておられるのだろうかと思います。
皆さん、それぞれの苦悩や絶望感をどのように克服してこられているのかと思います。
神や仏、天国や浄土の信仰によって救われている人もあります。
神への信仰について、とことん、とことん、疑い、突き詰め語り尽くし合って、最後は、お互い安らぎに包まれたというようなことも聞きました。
また、神への実在の確証については、最後は賭けだという人のことも聞きました。
また、浄土真宗では、「こんな罪業を抱えた私がいるんじゃもの、救ってくださる阿弥陀様がおられなくてどうするか」という説法も聞いたことがあります。
また、「私にはお浄土は無くてもよろしゅうございます。
阿弥陀様がいてくださいますから」とほほ笑むように語ってくださった方もありました。
まことに、信仰によって救われる人はたくさんおられるのですね。
でもまた、宗教の信仰はなくても、自分なりの思想によって自らの死生観なり、覚悟を持っておられる人もあるようです。
科学者でも、信仰を持つ人もあれば、人格神は受け入れられないが、「サムシンググレート」といって、この宇宙大自然の働きそのものとしての、何らかの偉大なものという考え方の人もあるようです。
また、「神仏は頼るべからず、神仏は尊ぶべし」という考え方の人のことも聞きました。
この人は神仏の実在はともかく、神仏と表わされたその内容に尊いものを見出されているということでしょうか。
特定の宗教や信仰は持たずとも、宗教に表現された中身に、この人生や社会のあるべき方向性の原理を見出される人もあるということでしょうね。
宗教を持つ人、持たない人、それぞれ様々な人があり、みんな自由ですから、どんな人も尊重してゆかねばならないと思います。
でも、詐欺的な宗教は問題外です。
さて、次は、私の絶望状況想定です。
いつも、観念ではありますが、毎日のユーチューブ講話で確認しているのですが、
私の家も寺も火事で丸焼け、そして、家族親族がみな焼け死んで、私も重傷で、もう命が持たないという状況になったとして、どういう心境、覚悟で息を引き取るかということなんです。
しょせん、想念、観念ですがね・・。
私の今までの人生観、価値観の集約になります。
多分、病院に入院でしょう。
お医者さん、看護師さん、また、掃除人さん、そして、私を見舞ってくださる人々。
そういう、私の身の回りにいて下さる人々に、できる限り、できる限り、やさしい、暖かいものがふるまわれれば言うことはない。
そして、少しでも、よりよい世の中になるように、何らかのことができたらいい。
今、こうして書き綴っていて、気が付いたのですが、アーそうだ、今までの人生で、重ねてきた、すべての皆さんへの不徳の罪を慚愧し続けねばならないと思い至っています。
そして、もう何もできなくなり、ただかろうじて語り続けることができるとするならば、
「人生はどう生きようと自由ですね。
ただ、わがままな思いはとてもとても、しぶといものです。
そのわがままが、お互い損ない合うのですね。
でも、わかっていても、このわがままな思いは無くなりません。
でも、そのわがままなものを少しでも、慚愧させてもらい、人間として、尊いもの、やさしいもの、暖かいものを、自分の自己実現に、そして、この社会づくりに、ささやかでも生きてゆこうとするものが芽生えてくれるなら、それが、何より人間として、尊いことではないでしょうか。
それは、どんな宗教や思想を持とうが、持つまいが。そんなことが私のつたない人生の結論でした。」
というようなことが語られ続けられたらと思っているのです。
そして、もう語ることができないなら、そのままに、そのことをただ願い続けて命が果てられたらいいということかと思っているのです。
2023年8月
盆会法座のご案内
19日(土)朝・ 20日(日)朝
朝、9時半 始
初盆物故者・全戦没者追弔法要
20日(日)朝
『仏法と人生と社会』 住職自修
盆には、墓掃除をしたり、墓に参ると、亡き人々を思い、やがて自分も死ぬることを思いますね。
死をどうとらえるか、それは、人それぞれでしょう。
死が怖いという人もありますし、どうってことはないという人もありました。
思想、宗教によっても様々と思います。
子供も、大人も、それぞれに、自分なりの死に対する思いを持っていると思います。
それも、明確なものを持っている人もあれば、不確かな人もあると思います。
考え方や思いは、それぞれ自由ですから、どんな考え方を持たれようと、本来、自由であり、どんな考え方の人も尊重したいと思います。
自分とは考え方、とらえ方が違っていても、あー、そうですかと認めたいと思います。
自分の考え方を押し付けてはいけないと思います。
私は、いつも、自分なりの考え方を、こうして、発信していますが、これは、私の確認であり、読んでくださる方に、何らかのご参考になれば幸いと思っています。
元教師である、先輩の、自分の子供が死ぬかもしれないような重病の時の話です。
わが子が、死を怖がっているように見えた時、どう言ってやろうかと、焦られたようでした。
とっさに言われたのは、「おばあちゃんのところへ行くんで」という言葉だったようです。
その子供さんが亡きおばあちゃんを慕っておられたからでしょうね。
この先輩も、確かな死生観を持っておられたようには思えませんでした。
ただ、わが子の、ハアハアとあえいで、今にも、死にそうな不安と苦悩と恐怖のおびえた目で、父である自分を見つめて、助けてーと必死に訴えているその姿に、身も心も震われたと思います。
このわが子を、不安や恐怖のままで死なせてはならないという切なる思い。
そして言われたのが、「ばあちゃんのところへ行くんで」だったのですね。
ばあちゃんも待ってくれている筈だからという思いでもあったのでしょう。
以前、重病の方が、病院に入院されていて、私と目が合い、私もそばにより片言のお見舞いの言葉を申しますと、その方が、なんと、とても強い力で、私の手を握りしめられました。
そのことはよう忘れませんが、今思うに、それは、「院家さん、わしは、阿弥陀さんに救われるんよのー」という思いの自己確認の握りしめであったかと思えるのです。 私は、何も言わず、言えず別れました。
その方との出会いはそれが最後でした。
後悔です。
この前、3歳の孫の子守で、本堂で遊んでいた時の気づきです。
いつも、本堂の内陣、外陣で抱っこして、阿弥陀さん、七高僧、親鸞聖人、おしゃか様、聖徳太子の紹介をしているのです。
孫は、ウルトラマンが大好きで、私に、殺人光線をかける真似をします。
そして、ウルトラマンはカイジュウなどといつも戦うんよとしつこく言うのです。
そこで、私はいつも、ウルトラマンも、怪獣も、戦わんほうがええじゃろう、戦ったら、けがもするし死んでしまうじゃないかといい、ウルトラマンも、怪獣も、みんな仲良くすればいいんよ。
ウルトラマンも、怪獣も仲良く一緒にご飯食べたり、お風呂に入ったり、遊んだらいいんじゃないといいますが、孫は、しつこく、ウルトラマンは戦うんよといい続けるのです。
そこで、本堂で、「マンマンさんは、ウルトラマンとも、怪獣とも、戦っちゃ無いんよ、みんな、いいこ、いいこ言うて、みんな仲良くしょうね、みんな一緒にご飯食べよう、歌を歌おうと、言いよってんよ」などと言うのです。
そして、その後、はてさて、この子が瀕死の危機的な状況になったときに、どう言うてやればいいかとふと思ったのです。
やはり平生から、死の不安や恐怖に対して、決して心配も不安もないように話しておいてやることが大事ではないかと思った次第です。
他には、小学校の2年とⅠ年の孫、また、5歳、Ⅰ歳の孫もいますが、まだちゃんと話してやっていません。
思えば、私の3人の子供にも、小さい時から、ちゃんと話してやっていません。
私の祖母は、夫である住職に先立たれ、長男、次男、長女、三男、四男にも先立たれ、その苦難の中にも、阿弥陀さま信仰によって、戦病療養兵士にも、原爆重傷者にも、13歳で病死した娘さんにも、阿弥陀さま信仰を伝えて、その人たちの死の不安を救っていたことを聞いています。
原爆重症死者の娘さんは、両親が、死んでゆく娘が不憫で涙を流されるのに、その娘さんは、両親に、「泣きんさんな、私は、お浄土へ参らせてもらうんじゃけえ」といって、逆に両親の涙を拭かれたと聞いています。
13歳で亡くなった娘さんは、遺書を書いておられました。
それには、妹の名前や友達の名前を挙げて、よろしく伝えてくださいと、そして、私は極楽から見ていますというようなことが書かれていました。
また、両親には、「報恩講には、私の分までお膳を作っといて」と言っておられたと聞いています。
死の不安や恐怖のままで死なれたらかなわんですね。
私の父の遺言には、ご門徒の苦悩が書いてありました。
それは、「私の居場所は、この6畳一間になりました。どうして、院家さん、この私を引っ張ってでも、連れて聴聞の場に引き出してくださらなかったのか。
アー地獄だ、地獄だ」と炬燵のやぐらをつかんで揺さぶって嘆いておられたというのです。
私の孫たちには、とりあえず、「大丈夫よ、いつでもどこでも、みんなまんまんさんに抱かれているんよ。お母さん、お父さん、兄弟も、いなくなって、どんなに悲しい時も、苦しい時も、つらい時も、このまんまんさんに抱かれているんよ、そして、死んでゆかねばならなくなっても、大丈夫よ。
みんなみんな、まんまんさんの浄土に迎えられてゆくんよ。
父ちゃんも、母ちゃんも、このじいちゃん、ばあちゃんもまんまんさんの浄土へ往かせてもらうんだから、必ず浄土で会えるよ。 だから大丈夫だよ。そして、お浄土で仏様にならせてもらったら、すぐ、ここに帰ってくるんよ。 みんなを救ってあげるためにね。
今度は、死ぬるということはないんよ。いつまでも、どこまでも、みんなを救い励ましてあげるんよ。
だから、何があっても、これから何がやって来ようとも、心配ないんよ。
このじいちゃんも、やがて死んでゆくが、でも、お浄土でまんまん様にならしてもらって、みんなを励まし、導き続けるけえね。
でも、あんたたちが悲しいことに先に死んでしまったら、今度は、あんたたちが、お浄土にまんまんさんに抱っこされて往って、まんまんさんにならしてもらって、今度は、このじいちゃん、ばあちゃんを導いてね。
と、こんなことを何べんも何べんも語り続けて、子供なりに、受け止めてくれたらいいと思っています。
そして、大きくなって、でもさて、阿弥陀さんって
、お浄土って本当にあるのかというような疑問が生じてきた時には、また新たに、この子供たちに納得できるように語らなければと思っています。
この内容については、いつも、書かせてもらっているし、ユーチューブでも毎日確認させてもらっていることでもあります。
2023年7月
聖典学習会のご案内
20日(木) 朝10時〜11時
おにぎり会の中で
学習聖典 ・無量寿経 (現代語版浄土三部経)
住職自修 参加費無用
聖典から人生・社会の諸問題を問うてみましょう。
どうぞ誘って気楽にご参加下さい
聖典を学ぶということは、聖典から、人生の根本問題や、社会のあるべきあり方を考えるということになります。
お釈迦様の教えとは、縁起の道理といわれています。
縁起の道理とは、万物個々がすべて無限の縁でつながっていて、それぞれが絶対的に尊い存在であるという道理です。
この道理を踏まえて、自分中心でない、無我・冷酷でない、慈悲・利己でない、利他・略奪でない、布施といった道がお釈迦様の導きであり、この道を自覚し、歩めるところに救いということが言われていると思えます。
浄土教の教えと救い
これは、阿弥陀仏や、浄土への信仰による救いと導きということでしょう。
しかし、これは、前述のように、実際には、お釈迦様が説かれたものではなかったようで、お釈迦様滅後、五百年、無名匿名の経典作者の創作といわれます。
そこで、経典創作者の意図を考えるのです。
それは、お釈迦様のように、この世の真理とは何か、と道を問うような人々はともかく、多くの人々は、それどころではなく、諸苦悩にあえいでいたと思えます。
生まれてからこの方、ともかく、次々と様々な災難が降りかかり、奪われ、いじめられ、差別され、だまされ、殺されるというような、苦難や不安の中で、誰でもいいから、助けてくれー、と叫んでいる。
さらに、誰も側にいてくれるものがいなくて、独りぼっち、寂しくて、わびしくてたまらない。
誰でもいいから、私の気持ちを聞いてほしい、わかってほしい、抱きしめてほしい、づーっと私の側にいてほしい、という孤独の悲哀。
さらに、自らの犯した罪を痛み、「誰か、私の罪を救ってくれー」と自らしでかした罪への悲嘆。
さらに、自分が、この世から、永遠に消えてゆく、居なくなるという、死への恐怖。
また、死後、いいところなら、行きたいが、悪いところなら行きたくない、何より、永遠の命が欲しいという願望。
さらに、先立った、いとしい者たちはどこに行ったのか、もう、永遠に会えないのか、そんなことには耐えられない。
どうしても会いたい、会わせてほしい、との死後再会への願望。
経典創作者(達)は、こういう苦悩の人々を救い、そして導くために阿弥陀仏や往生浄土信仰というものを表現されたものとうかがうのです。
浄土真宗の「信仰」というもの
それは、どんなに、私たちが、不安に満ち、孤独で、罪におののき、死が怖く、悲しくて、さみしくて、苦しくとも、
私たちには、目には見えないけれども、阿弥陀如来という、み仏の、不可思議な、大きな慈悲に、いつでも、どこでも、抱かれているということ。
だから、決して、独りぼっちではなく、どんなに最低、最悪の状態で、命が終わることがあったとしても、絶対、大丈夫、心配ないということ。
この阿弥陀如来様の無限の大慈悲に抱かれて、みんな、みんな、阿弥陀様のお浄土に、迎えられてゆくということ。
そして、この浄土は、この世とは違って、金銀宝で出来、美しい花で飾られた、素晴らしい世界で、この世のような、
略奪とか、いじめ、差別、戦争などは絶対にないということ。
さらに、この浄土で、私たちの、醜い心は、きれいに洗われて、阿弥陀様と同じ、大慈悲の私、すなわち、仏にさせてもらうということ。
この浄土に、みんな、みんな、仏様の「まこと」をいただいて、遅かれ早かれ、漏れることなく、迎えられてゆくから、この浄土で、みんなと必ず会え、会えないということは決してないということ。
そして、この浄土は、行ったきりの世界ではなく、必ず、必ず、この現実世界に、還ってくるということ。
なぜなら、慈悲の仏さまにならせてもらうのだから、この世界に、奪い、いじめ、差別、戦争など、人間の苦悩や悲しみがある限り、この苦悩を放っておくことができないから、みんなを救い導かなければならないからということ。
そして、今度は、決して、死ぬるということは無く、永遠の命を持って、この迷いの世界を、永遠に導き続けるということが、この阿弥陀様の慈悲の中に、誓われ、完成されてあるのだから、この、不可思議で広大な、阿弥陀様のお慈悲に、すべて打ち任せ、安心しきって、この人生、どんなことがあろうと、歩ませてもらうということ。
歩むといっても、私たちは、死ぬまで自分中心な心から逃れられない。
でも、みんな阿弥陀様のお慈悲の中に抱かれているお互いどうし、そして、縁起ということで、みんな、つながりあっているということを知らされれば、慚愧とともに、できる限り、みんなを尊重し合い、慈しみ合い、分かち合うように歩
ませてもらおうということ。
たとえ信仰がなくとも
こういう、阿弥陀仏や浄土信仰を、素直に有難く受け入れられる人は、言うことはないと思います。
でも、人によっては、有難いということはわかるけれども、阿弥陀様やお浄土について、実際の事実としては信じがたいといわれる人もあると思います。
でも、たとえ、そうであったとしても、この、阿弥陀仏や浄土、そして、浄土から、この苦悩の世に還ってきて、永遠に、みんなを限りなく救い導き続けるという教義の中に、絶対の愛、絶対の慈悲、絶対平等、絶対平和という、究極のあるべき、尊い世界がうなずけるという、真宗理解があることをいつも思っています。
浄土真宗とは
浄土真宗を、私自身が、端的に表現するなら、どう表現するかと考えてみました。
「浄土真宗は、阿弥陀仏に帰依する教えです。
阿弥陀仏に帰依するということは、阿弥陀仏の無限の大悲を仰がしめられ、また、それゆえにこそ、慈悲に遠き、自己自身と、この世界を悲歎、慚愧せしめられ、そして、慚愧とともに、この阿弥陀仏の大悲にうながされて、あらゆる命、わけても人間の尊厳と平等不可侵への、御同朋の社会実現への歩みに導かれてゆく教えです。」と
夏法座のごあんない
29日(木)・30日(金) 朝9時半〜
住職自修
仏法から、人生・社会の諸問題を問います。
実の親には産み捨てられ、
育ての親には、幼い時から、性的にも、虐待されどおし。
身体も、目も不自由、体も病弱、才知に欠け、何もかも乏しい暮らし。
誰からも、からかわれ、いじめられ、馬鹿にされ、冷たい仕打ち、情けをかけられることなく、孤独の悲哀。
死のうに死ねず、ともかく、泣きながら、家を飛び出し、
あてもなくさまよい、衣食は、拾い、盗み、
なんとか、雨露、寒さをしのいで生きてきた。
世間の様々な、虐待の中で、実の親も、育ての親も、世間も恨み、人間不信。
心は荒み、自暴自棄、酒、麻薬、ギャンブルにおぼれ、殺人、強盗、種々の犯罪を重ね、あげく、死刑囚として獄につながれ、何度も、自殺未遂。
でも、死ねなかったが、しかし、いつか死刑を受ける。
あげくに、全身癌で苦痛にあえぎ、孤独のわびしさ。
あー、このわが人生、なんだったのか?
ええい、ヤケのヤンパチで死んでやるか。
でも、でも、なんだかなー!
苦悩の克服、想念、その①
えーっ、こんな私を、見捨てることなく、救ってくださる、阿弥陀仏という、み仏様がいてくださるんだって?
そして、こんな私を迎えてくださる、極楽浄土という、きれいな世界があるんだって?
そんな・・・・・・・・・・・・・
ほんとかいね・・・・・・・・・・・・・・
私をたぶらかさんでよー・・・・・・・・・
でもねー、よくよく思ってみれば・・・・・
たとえ、嘘でも、ありがたいねー・・・・・
嘘でも・・ありがたいよー・・・・・・・・
嘘でもいい・・
私は、有難いよ。
今まで、この私も、この世間も、みんな最悪、嘘だった。
でも、この阿弥陀様やお浄土は、嘘ではなく、本当に、まことそのものと言えると思う。
それはね、阿弥陀様は、誰でも、救い導くと言われ、分けても、どんな神仏からも、こりゃあ、絶対ダメじゃと、見放されたような、最悪の悪人をこそ、決して放置することはできない、どんなことがあっても、どんなに手間がかかっても、絶対、救い導かなければならんのだと育んでいてくださっていると言うんだからねえ。
お浄土も、この強欲や闘争に満ちた世界とは違って、慈しみに満ちた、やさしさの極限、すなわち、絶対平等、絶対平和の世界だというんだからねえ。
そして、お浄土は、往ったきりだけの世界ではなくて、尊い仏様にならせてもらったなら、すぐにこの、まことのない嘘の世界に還ってきて、みんなを、今度は、命尽きることなく、永遠に、救い、導き続けさせてもらうというんだからねえ。
ただね、私には、本当のところは、阿弥陀様といっても、お浄土といっても、本当にあるのかということには、やはりわからないという他ないけれど、でもねえ、やはり、有難いなあと、つくづく思うよ。
本当のところは、何もかもわからない、でも、私は、この阿弥陀様やお浄土を、ただ、ありがたく、仰がしてもらうよ。
知らなんだなー
阿弥陀様は、私の愚かさも、罪も、悲しみも、何もかも、すべて、引き受け、慈しんいてくださっていて、必ず救ってくださるというのか。
振り返れば、あー、なんという、悲惨で罪な、惨憺たる私の人生であったことか。
私が殺めた人、強奪、凌辱し、苦しめ、絶望のどん底に突き落とした人々、あー、どうお詫びしても、お詫びのしようがない。
でも、お詫びといっても、長続きはせず、嘘でしかない。
死刑はまだだ。
今、生きている。
ならば、そうか、そうだ、
死刑の日まで、一日、一日、一刻、一刻、私の罪の償いに、この獄中を、人間回復の道場として、慚愧と共に、できうる限り、誠心誠意、精進させてもらって、命を果てようか。
阿弥陀様の大悲の中で。
願わくば、私のような人間が二度と現れてこないように、そして、冷酷、非道な社会から、優しさや慈しみに満ちたあたたかい、だれしも侵し、侵されることのない、社会の実現に向かうために、
万人が、阿弥陀様に導かれることを、何よりも、切に、切に願って命を果てよう。
このような心境が開けてこそ・・・・・・・。
でも、このような心境が開けることもなく、ただ、絶望と自暴自棄のまま、死刑にされるということは見るに忍びない。
願わくば、死刑という残虐な刑罰は廃止され、清浄な、人間回復に更生されることを切に願う。
苦悩の克服、想念、その②
わたしは、死刑宣告を受け、この獄中で、わが人生を振り返り、わが罪業を振り返り、その罪に戦慄する。
ただただ、被害と苦悩と絶望を与えて、今なお、私への、恨みの中にある人々に、まことに慚愧に耐えない。
万死に値し、何べん死刑を繰り返されても、私の罪は償えるものではない。
今は、ただ、この死刑を、受け入れさせてもらう。
死刑のその日まで、一日、一日、一刻、一刻、私の罪の償いの慚愧に、この獄中を、ささやかでも、人間回復の道場として、できうる限り、誠心誠意、精進させてもらいたい。
さて、阿弥陀さま信仰というものを聞かされるが、
一体、誰が阿弥陀様のことを説いたのか?
最近の学説では、これは、おしゃか様の直説ではなく、おしゃか様滅後、およそ5百年、大乗仏教という時代になって、無名、匿名の人(達)が説かれたものだろうという。
無名、匿名の経典創作者(達)の意図は何なのか。
それは、間違いなく、庶民の様々な不安や苦悩、いわゆる、災難苦難、いじめ、だまし、略奪、差別、殺害、孤独、罪へのおののき、死への恐怖、死者との再会等々への救いということ、そして、仏法への導きということだろう。
その信仰とは、どんなに苦しくとも、悲しくとも、辛くとも、いつでも、どこでも、誰でも、みんな、この阿弥陀様の大悲の中に育まれているのだから、大丈夫だということ。
どんなに、最低、最悪で命が終わっても、みんな、阿弥陀様のお浄土に、御仏のまことをいただいて、遅かれ、早かれ、あのお浄土に迎えられるのだから、必ず、みんなと会えるということ。
あのお浄土には、この世のような、略奪とか、いじめ、差別、戦争などは絶対にないということ。
さらに、この浄土で、私たちの、醜い心は、きれいに洗われて、阿弥陀様と同じ、大慈悲の私、すなわち、仏にさせてもらうということ。
そして、この浄土は、往ったきりの世界ではなく、必ず、必ず、この現実世界に、還ってくるということ。
なぜなら、慈悲の仏さまにならせてもらうのだから、この世界に、奪い、いじめ、差別、戦争など、人間の苦悩や悲しみがある限り、この苦悩を放っておくことができず、みんなを救い導かなければならないからだということ。
そして、今度は、決して、死ぬるということは無く、永遠の命を持って、この迷いの苦悩の世界を、永遠に救い、導き続けるということ。 このみ教えの、尊さはわかる。
だが、私には、神、仏にも、天国や浄土や地獄への、実在としての信仰というものはない。
かといって、その信仰を持つ人々を否定するものではない。
人間は、基本的に、自由であると思い、どんな考え方であろうと、どんな信仰であろうと、持とうが持つまいが、誰だって、尊重しょうと思う。
聖典学習会のご案内
30日(火) 朝10時〜11時
おにぎり会の中で
学習聖典 ・無量寿経 (現代語版浄土三部経)
住職自修 参加費無用
聖典から人生・社会の諸問題を問うてみましょう。
どうぞ誘って気楽にご参加下さい
聖典を学ぶということは、聖典から、人生の根本問題や、社会のあるべきあり方を考えるということになります。
さて、この無量寿経の作者は不明です。
匿名にしてあるのだと思えます。
一般には、お釈迦様が説かれたということになっていますが、現代、研究が進んで、お釈迦様が亡くなって、約500年後に創作されたもののようです。
今から、ざっと2千年前になります。
ということは、おしゃか様は、生きておられた時、阿弥陀仏や、その浄土などについて説かれてはいなかったということになります。
ですから、この無量寿経に説かれている、阿弥陀仏や浄土は、経典作者(達)の創作ということになります。
それでは、何のために、経典作者(達)は、おしゃか様が説かれなかった、阿弥陀仏や浄土について、お釈迦様の説法として、創作したのかが問題です。
それは、考えるに、おしゃか様の教えを基に、あらゆる人々の苦悩を、救い、導くということであろうと考えられます。
お釈迦様の教えと導きと救い
お釈迦様の教えとは、縁起の道理といわれています。
縁起の道理とは、万物個々がすべて無限の縁でつながっていて、それぞれが絶対的に尊い存在であるという道理です。
この道理を踏まえて、自分中心でない、無我・冷酷でない、慈悲・利己でない、利他・略奪でない、布施といった道がお釈迦様の導きであり、この道を自覚し、歩めるところに救いということが言われていると思えます。
浄土教の教えと救い
これは、阿弥陀仏や、浄土への信仰による救いと導きということでしょう。
しかし、これは、前述のように、実際には、お釈迦様が説かれたものではなかったようで、お釈迦様滅後、五百年、無名匿名の経典作者の創作といわれます。
そこで、経典創作者の意図を考えるのです。
それは、お釈迦様のように、この世の真理とは何か、と道を問うような人々はともかく、多くの人々は、それどころではなく、諸苦悩にあえいでいたと思えます。
生まれてからこの方、ともかく、次々と様々な災難が降りかかり、奪われ、いじめられ、差別され、だまされ、殺されるというような、苦難や不安の中で、誰でもいいから、助けてくれー、と叫んでいる。
さらに、誰も側にいてくれるものがいなくて、独りぼっち、寂しくて、わびしくてたまらない。
誰でもいいから、私の気持ちを聞いてほしい、わかってほしい、抱きしめてほしい、ずーっと私の側にいてほしい、という孤独の悲哀。
さらに、自らの犯した罪を痛み、「誰か、私の罪を救ってくれー」と自らしでかした罪への悲嘆。
さらに、自分が、この世から、永遠に消えてゆく、居なくなるという、死への恐怖。
また、死後、いいところなら、行きたいが、悪いところなら行きたくない、何より、永遠の命が欲しいという願望。
さらに、先立った、いとしい者たちはどこに行ったのか、もう、永遠に会えないのか、そんなことには耐えられない。
どうしても会いたい、会わせてほしい、との死後再会への願望。
経典創作者(達)は、こういう苦悩の人々を救い、そして導くために阿弥陀仏や往生浄土信仰というものを表現されたものとうかがうのです。
浄土真宗の「信仰」というもの
それは、どんなに、私たちが、不安に満ち、孤独で、罪におののき、死が怖く、悲しくて、さみしくて、苦しくとも、
私たちには、目には見えないけれども、阿弥陀如来という、み仏の、不可思議な、大きな慈悲に、いつでも、どこでも、抱かれているということ。
だから、決して、独りぼっちではなく、どんなに最低、最悪の状態で、命が終わることがあったとしても、絶対、大丈夫、心配ないということ。
この阿弥陀如来様の無限の大慈悲に抱かれて、みんな、みんな、阿弥陀如来様のお浄土に、迎えられてゆくということ。
そして、この浄土は、この世とは違って、金銀宝で出来、美しい花で飾られた、素晴らしい世界で、この世のような、
略奪とか、いじめ、差別、戦争などは絶対にないということ。
さらに、この浄土で、私たちの、醜い心は、きれいに洗われて、阿弥陀様と同じ、大慈悲の私、すなわち、仏にさせてもらうということ。
この浄土に、みんな、みんな、仏様の「まこと」をいただいて、遅かれ早かれ、漏れることなく、迎えられてゆくから、この浄土で、みんなと必ず会え、会えないということは決してないということ。
そして、この浄土は、行ったきりの世界ではなく、必ず、必ず、この現実世界に、還ってくるということ。
なぜなら、慈悲の仏さまにならせてもらうのだから、この世界に、奪い、いじめ、差別、戦争など、人間の苦悩や悲しみがある限り、この苦悩を放っておくことができないから、みんなを救い導かなければならないからということ。
そして、今度は、決して、死ぬるということは無く、永遠の命を持って、この迷いの世界を、永遠に導き続けるということが、この阿弥陀様の慈悲の中に、誓われ、完成されてあるのだから、この、不可思議で広大な、阿弥陀様のお慈悲に、すべて打ち任せ、安心しきって、この人生、どんなことがあろうと、歩ませてもらうということ。
歩むといっても、私たちは、死ぬまで自分中心な心から逃れられない。
でも、みんな阿弥陀様のお慈悲の中に抱かれているお互いどうし、そして、縁起ということで、みんな、つながりあっているということを知らされれば、慚愧とともに、できる限り、みんなを尊重し合い、慈しみ合い、分かち合うように歩
ませてもらおうということ。
たとえ信仰がなくとも
こういう、阿弥陀仏や浄土信仰を、素直に有難く受け入れられる人は、言うことはないと思います。
でも、人によっては、有難いということはわかるけれども、阿弥陀様やお浄土について、実際の事実としては信じがたいといわれる人もあると思います。
でも、たとえ、そうであったとしても、この、阿弥陀仏や浄土、そして、浄土から、この苦悩の世に還ってきて、永遠に、みんなを限りなく救い導き続けるという教義の中に、絶対平等、絶対平和、絶対の愛、絶対の慈悲という、究極のあるべき、尊い世界がうなずけるという、真宗理解もあることをいつも思っています。
浄土真宗とは
浄土真宗を、私自身が、端的に表現するなら、どう表現するかと考えてみました。
「浄土真宗は、阿弥陀仏に帰依する教えです。
阿弥陀仏に帰依するということは、阿弥陀仏の無限の大悲を仰がしめられ、また、それゆえにこそ、慈悲に遠き、自己自身と、この世界を悲歎、慚愧せしめられ、そして、慚愧とともに、この阿弥陀仏の大悲にうながされて、あらゆる命、わけても人間の尊厳と平等不可侵への、御同朋の社会実現への歩みに導かれてゆく教えです。」と
永代経法座のご案内
17日(月) 朝9時半~ 住職自修
18日(火)朝9時半~ 焼香日
湯来、大通寺住職 沖和史殿
どうぞお誘いの上、御参詣くださいませ
苦悩、絶望からの救いということへの確認
誰か助けてくれー、という、苦悩の叫び。
そのままに、絶望の果て、悲しくも自死する人があります。
こういう絶望から救われる世界があるとすれば、それは何なのかといつも考えます。
私には、こういう、絶望に陥って、自死しょうと思った経験はありません。
それは、一面、運がよかったといえるでしょうが、半面、絶望状況から救われる道を獲得できたという実体験がないので、不幸ともいえると思っています。
そのままにも、ただ、どう生きるかということ、私の存在ということを問い続けています。
生まれながらに、自分から意思をもって生まれてきたわけではありません。
そんな私の存在とはそもそも、いったい、何なのか。
この私ら、生命は、何のために、この地球に現れたのか。
この宇宙には、銀河がおよそ2兆から有るといい、そして一つの銀河に、2千億とも3千億とも星の数はあるといいますが、しかし、今、現在、この地球以外に、生命は見つかっていません。
また、この宇宙には終わりがあるといいます。
今、五通りの終わり方が考えられるようです。
一つには、真空から始まって、真空に消えるというもの。
二つには、膨張し続けるままに活動が終わるというもの。
三つには、急激な膨張で、あらゆるものがばらばらに引き裂かれて終わるというもの。
四つには、膨張が収縮に転じて微細な一点につぶれて終わるというもの。
五つには、膨張し、収縮し、そしてまた膨張を繰り返すというもの。
宇宙も、すべて終わるということを考えれば、何がやって来ようと、どうってことはないとも考えられます。
そこで、まあ本来、宇宙も、生命も、私たちの存在も、意味や目的を超えた自然の現象ということでしょうか。
それに対して、この世には、絶対者とか、神とか、悪魔とか、霊魂とか、天国とか、地獄とか、それらを見たとか、その声を聞いたとかいうのは、宗教の世界ですね。
しかし、人間本来、自由と思いますから、宗教を信じるのも、信じないのも自由ではあるでしょう。
また、砂や石ころでもない、私たち生物の本質とは、個体の保持と種族保存というものでしょうが、本来自由ですから、結婚するもしないも、子供を持つも、持たないも自由ですね。
また、宗教も様々、思想も考え方も様々で、どれが絶対とも言えないと思えます。
また、科学もすべてを解明したということではないし、結局、本当のところはよくわからんのだから、とにかく、ただ、面白く楽しく、好きなように生きて死んで行くだけだというのも分かります。
また、この世はしょせん闘争だ、野性本能がある限り、戦いだ、勝ってこそ、負けてはつまらんという生き方も分かります。 また、いや、人間には、野性本能だけではない、人間性という尊いものがある。
それは、ささやかでも、人のやさしさ、暖かさ、思いやり、情けというものにふれれば、誰だって感動するし、そここそ真実、永遠といえるのではないか。
そして、この人間性に基づく、人類の理念理想として、自由、平等、博愛、平和、人権尊重、環境保全、格差是正というものがあるではないか。
こういう、人間性に基づく、自己や世界の実現に生きるという生き方も分かります。
世の中には、このような、様々な人生観、世界観、価値観、世論があると思い、どう生きようと自由と思います。
そして、私は仏教を学んでいます。
いつも紹介しますように、仏教の本質は、縁起という、すべて万物が、みんな関係性があって、みんな尊い存在だというところに根差すようです。
そこから、至難ながら、自己、我が家、わが国家、わが民族、わが集団、わが思想、わが宗教中心というものから解放される、利他、慈悲という考え方が導き出されます。
これは、友愛、博愛、そして、他者の苦悩を自分のこととしてうめくという、これも至難なことでした。
さらに、同じく至難ながら、奪うということをしない、布施、施しということを示しています。
至難ながら、こういう、自分やこの世界の実現に生きるという自覚の成立が仏教で、この自覚によって、どんな人生の絶望状況も、そこを乗り越えて、臨終まで生きてゆける道であると示していると受け止めています。
ですから、2月号にも紹介しましたように、たとえ、火事で寺も家も焼け、家族親族がみんな焼け死んで、私は、瀕死の重傷、でも、命の尽きるまで、周りの人に、ささやかでも、やさしさや暖かさがふるまわれ、少しでもよりよい社会の実現に向けて生きられたらいいと思い、そして、何もできなくても、そのことを願い続け、語り続けて死んでゆけたらいいと思っていることでした。
そして、私は浄土真宗を学んでいます。
いつもの浄土真宗の確認です。
浄土真宗というのは、
私たちは、生まれてこの方、様々な災難苦難、奪われ、いじめられ、だまされ、差別され、殺されるという苦難にあえぎ、孤独に打ち震え、罪におののき、死を恐れ、先立ちし、愛しきものへの再会への願望等という様々な苦悩を持っていますが、この苦悩への救いと導きですね。
それは、阿弥陀仏信仰と、往生浄土信仰というものとして伝えられています。
それは、阿弥陀様は、いつでも、どこでも、誰でも、大きな慈悲で抱いていてくださっているのだから、どんなに淋しい時、苦しい時、辛い時でも、いつも阿弥陀様と一緒だから、決して独りぼっちではない。
そしてどんなに最低、最悪で人生を終えようとも、み仏様の浄土へ迎えられてゆくんだから、絶対大丈夫。
その浄土は、清浄無垢な世界で、戦争、差別、いじめ、略奪といった事は全くなく、しかも、私たちの心も浄化され、阿弥陀様と同じ、大慈悲という、すなわち仏様にならしてもらうのだ。
みんなこの浄土へ、仏様のまことをいただいて、遅かれ早かれ、みんな迎えられるのだから、誰とも必ず会える。
会えないということは決してない。
そして、この浄土へは決して行ったきりということではなく 必ず、必ず、この世界に、すぐ帰ってくる。
なぜなら、尊い仏様にならせてもらうのだから、この世界の、憂いや悲しみ、苦悩、不合理、矛盾を放っておけず、みんなを、そして世界を救い導かなければならないからだ。
今度は、命尽きるということはなく、永遠の命をもって、みんなを限りなく救い導き続けてゆくのだ。
今、この阿弥陀様の大慈悲の真っ只中に包まれているのだから、この人生、どうあろうが、そして、今後どんなことがやって来ようが、安心しきって、この人生を歩ましてもらおう。
どう歩むといっても、私達は、悲しくも、死ぬまで、わがままな思いは無くなることはないが、仏の教え、つまりは、全て、縁起という、無限の関係性でつながっている、尊い存在だということを知らされれば、慚愧とともに、出来るだけ、みんなを尊重し、いつくしみ合い、分かち合って歩んでゆこうではないか。
阿弥陀様の大慈悲に安心しきって。
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この命が尽きるまで。
こういう信仰を素直にありがたくいただける人は、言うことはないでしょう。
しかし、ありがたいとは思うが、浄土や阿弥陀様が、実際実在するとは信じがたいという方もありますね。
でも、事実としては信じられなくとも、この阿弥陀様や、浄土とか、仏となって、無限に、みんなを救い導くという教義の中に、絶対の愛、絶対の慈悲、絶対の平等、絶対の平和といったことがうなずけ、それによって、信仰の有無を超えて、私たちの究極のあるべき方向性が受け止められるという、真宗理解もあることを常に思っています。
私なりの、いつもの観念でしかありませんが、「苦悩、絶望からの救い」ということの確認です。
2023年3月 聖典学習会のご案内
21日(火) 春分の日 朝10時〜12時
学習聖典 ・無量寿経 (現代語版浄土三部経)
住職自修 参加費無用
聖典から人生・社会の諸問題を問うてみましょう。
どうぞ誘って気楽にご参加下さい 聖典を学ぶということは、聖典から、人生の根本問題や、社会のあるべきありかたを考えるということです。 さて、この無量寿経の作者は不明です。 匿名にしてあるのだと思えます。 一般には、お釈迦様が説かれたということになっていますが、現代、研究が進んで、お釈迦様が亡くなって、約500年後に創作されたもののようです。 今から、ざっと2千年前になります。 ということは、おしゃか様は、生きておられる時、阿弥陀さんや、その浄土などについて説かれてはいなかったということになります。 ですから、この無量寿経に説かれている、阿弥陀仏や浄土は、経典作者(達)の創作ということになります。 それでは、何のために、経典作者(達)は、おしゃか様が説かれなかった、阿弥陀仏や浄土について、お釈迦様の説法として、創作したのかが問題です。 それは、思うに、おしゃか様の教えを基に、あらゆる人々の苦悩を、救い、導くということであろうと考えられます。 お釈迦様の教えと導きと救い お釈迦様の教えとは、縁起の道理といわれています。 縁起の道理とは、万物個々がすべて無限の縁でつながっていて、それぞれが絶対的に尊い存在であるという道理です。 この道理を踏まえて、自分中心でない、無我・冷酷でない、慈悲・利己でない、利他・略奪でない、布施といった道がお釈迦様の導きであり、この道を自覚し、歩めるところに救いということが言われていると思えます。 浄土教の教えと救い これは、阿弥陀仏や、浄土への信仰による救いと導きということでしょう。 しかし、これは、前述のように、実際には、お釈迦様が説かれたものではなかったようで、お釈迦様滅後、五百年、無名匿名の経典作者の創作といわれます。 そこで、経典創作者の意図を考えるのです。 それは、お釈迦様のように、この世の真理とは何か、と道を問うような人々はともかく、多くの人々は、それどころではなく、諸苦悩にあえいでいたと思えます。 生まれてからこの方、ともかく、次々と様々な災難が降りかかり、奪われ、いじめられ、差別され、殺されるというような、苦難や不安の中で、誰でもいいから、助けてくれー、と叫んでいる。 さらに、誰も側にいてくれるものがいなくて、独りぼっち、寂しくて、わびしくてたまらない。 誰でもいいから、私の気持ちを聞いてほしい、わかってほしい、抱きしめてほしい、ずーっと私の側にいてほしい、という孤独の悲哀。 さらに、自らの犯した罪を痛み、「誰か、私の罪を救ってくれー」と自らしでかした罪への悲嘆。 さらに、自分が、この世から、永遠に消えてゆく、居なくなるという、自らの死への恐怖。 また、死後、いいところなら、行きたいが、悪いところなら行きたくない、何より、永遠の命が欲しいという願望。 さらに、先立った、いとしい者たちはどこに行ったのか、もう、永遠に会えないのか、そんなことには耐えられない。 どうしても会いたい、会わせてほしい、との死後再会への願望。 経典創作者(達)は、こういう苦悩の人々を救い、そして導くために阿弥陀仏や往生浄土信仰というものを表現されたものとうかがうのです。 浄土真宗の「信仰」というもの それは、どんなに、私たちが、不安に満ち、孤独で、罪におののき、死が怖く、悲しくて、さみしくて、苦しくとも、 私たちには、目には見えないけれども、阿弥陀如来という、その、不可思議な、大きな慈悲に、いつでも、どこでも、包まれているということ。 だから、独りぼっちではなく、どんなに最低、最悪の、破綻した状態で、命が終わることがあったとしても、絶対、大丈夫、心配ないということ。 この阿弥陀如来様の無限の大慈悲に抱かれて、みんな、阿弥陀如来様の国、極楽浄土に、迎えられてゆくということ。 そして、この浄土は、この世とは違って、金銀宝でできた素晴らしい世界で、この世のような、略奪とか、いじめ、差別、戦争などは絶対にないということ。 さらに、この浄土で、私たちの、醜い心は、きれいに洗われて、阿弥陀様と同じ、慈悲の私、すなわち、仏にさせてもらうということ。 この浄土に、みんな、仏様の「まこと」をいただいて、遅かれ早かれ、漏れることなく、迎えられてゆくから、この浄土で、みんなと必ず会え、会えないということは決してないということ。 そして、この浄土は、行ったきりの世界ではなく、必ず、必ず、この現実世界に、還ってくるということ。 なぜなら、この世界に、奪い、いじめ、差別、戦争など、人間の苦悩や悲しみがある限り、この迷いの世界を放っておくことができないから、みんなを救い導かなければならないからということ。 今度は、決して、死ぬるということは無く、永遠の命を持って、この迷いの世界を、永遠に導き続けるということが、この阿弥陀様の慈悲の中に、約束されてあり、誓われてあるから、こういう、不可思議な広大な、阿弥陀様のお慈悲に、すべて打ち任せ、安心しきって、この人生、どんなことがあろうと、それを乗り越えさせてもらうということ。 そして、仏法の導きに促されて、慚愧とともに、みんなを尊重し、助け合い、分かち合うように歩ませてもらうということなどが信仰できるということ。 たとえ信仰がなくとも しかし、こういう、阿弥陀仏や浄土信仰を素直に受け入れられる人もあれば、そうではない人もあると思います。 たとえ、信仰は、受け入れられなくても、この、阿弥陀仏という表現に、あるべき、尊い人格が、そして、浄土という表現に、絶対平等、絶対平和という、尊い世界が、うなずけるという、真宗理解もあるといつも思っています。 戦争解放への願い ロシアとウクライナ、イスラエルとパレスチナ、ミャンマーの軍事政権と、民衆派等、世界が巻き込まれる戦争が今もあり、憂えます。 どこの国にも、権力者というものは、国家間の対立に、国家の威信をかけて国民の愛国心と犠牲をあおるものでしょうし、多くの国民もそれに応えようとするものでしょう。 しかし、中には、少数かもしれませんが、 「権力者は、戦争なんかやめてくれえ。 戦争が続く限り、たくさんな双方の国民が死傷し、国土は徹底的に破壊されてしまうじゃないか。 そんな、人の命が殺され、国土が破壊されて、何が国家の正義というものか。 どんな国家の繁栄や、栄光や、正義の為だろうと、どんな法律、憲法であろうと、国王であろうと、大統領であろうと、総理大臣であろうと、決して、決して侵し、侵されてはならないものがある。 それは人の命であり、人権だ。 どんな人も、殺し殺されてはいかんよ、どんな人の人権も侵し侵されてはいかんよ。」 という人もあると思います。 こういう世論が9割10割にならなければと、とても、至難ながら、願い続けます。 合掌 2023年2月 2月14(火)朝9時半 ・15日(水)朝9時半 おしゃか様のご一生から学ぶもの 住職・坊守自修 どうぞ、お誘い合ってお参りください。 救われるということ みんなだれしも、大なり小なり、悩み、苦悩を抱えていると思います。 私にもありますが、でも、深刻というほどのことではありません。 人によっては、何をやっても、わびしい、淋しい、空しい、苦しい、生きがいもなく、誰か助けてくれーというような方もあることでしょう。 苦悩の重さに耐えかねて、自ら、命を絶たれるということもあり、それは、実に、悲しいことと思います。 いつも考えるのは、どんな絶望状況でも、なお、そこを切り開かれる、確かな、生き方、道ということです。 おしゃか様も、親鸞様も、そのほか、様々な宗教家、思想家というのは、みんなこの問題を突き詰めたのでしょうね。 読者の皆さんも、皆さんなりに、この人生の諸苦悩の中で、何らかの答えを見出されていることでしょう。 確かな、信念を持ち、割り切っておられる方、また、確かではないが、大体こういうことだろうととらえておられる方、また、本当のところはようわからんが、まあ、とにかく生きているという方もあるでしょう。 救われるということ、それは、まあ何とか、不安定な精神状態から、何かによって、精神的に安定しているということでしょうか。 でも、その、何かによる精神の安定といっても、その中身が問題でしょうね。 おしゃか様の救い おしゃか様の苦悩とは、一般に、生、老、病、死の解決といわれます。 生、老、病、死の苦悩の真っただ中にも、この世の真理である「縁起」に従って生きるところに、この、生、老、病、死を切り開いて生きられる解決の道があるというのが、おしゃか様の教えの基本のように学んでいます。 そしてこの、「縁起」というのは、この、天地宇宙、すべてのものは、みんな、無限の関係性があるということです。 だから、そこから、みんな尊いということで、お互い、いつくしみあい、分かち合い、施し合い、戦争や、人権侵害をしない生き方が何よりも尊重されることになります。 そういうところに、この人生、何があっても、何にもなくても、おしゃか様の救いというものが示されてあると思えます。 親鸞様の救い 親鸞様の苦悩は、自らの、愛欲貪欲など、死ぬまで、この醜い煩悩に束縛されていること、自らの、念仏が、時の朝廷や、幕府によって弾圧されていること、自分の長男が、自分を裏切り、背いたことなどがありました。 しかし、その中で、親鸞様の救いは、ご自身の様々な苦悩の中にも、阿弥陀様が、この苦悩や、醜さ、すべてを引き受けて、しっかりと抱きとり、いつでも、どこでも、この自分をはぐくんでいてくださるということ、そして、どんな悲惨な臨終を迎えようとも、この苦悩の自分を、お浄土に迎えて、尊い、同じ仏様にしてくださるということ、そして、このお浄土から、仏となって、即座に、この現実の様々な苦悩の人々や世の中を、永遠に救い導くために還って来るという、こういう、阿弥陀様の大慈悲に抱かれてあるということに、安住しておられたということでしょう。 それともう一つ、親鸞様の救いに、親鸞様の自覚の道というものがあると考えます。 それは、阿弥陀様や、浄土に、大慈悲という、尊い真実に目覚めさせられ、そのことによって、真実ならざる、虚仮の自分と、虚仮の世界を慚愧せしめられ、それ故にこそ、慈悲に促される自己と、世界の実現の方向に、慚愧とともに歩ましめられるというものです。 それは、親鸞様は、決して、世間の政治権力に追従されることなく、どんなに、念仏停止と弾圧されても、その権力を敵対視されることなく、むしろ、憐れみ悲しまれていますし、当時の被差別民衆を「われら」朋、同行として歩まれたことに表れています。 私の救い 私は、少年時代から、私の存在は何か、この人類の存在も、生きとし生けるものの存在も、さらに、この大宇宙の存在にも、本来、一体、どこに、どういう意味があるのかなどと疑問を持っていました。 そして、「死」をどう納得するか、人生の究極の意味、目的は何か、国際社会や国家のあるべき方向性は何かとか、どんな絶望状況の中でも、それを切り開いて生きてゆける、絶対的な確かな自覚の道とは何かなどと考えていました。 そして、目下のところは、この宇宙の存在や、現象は、本来、意味や目的ということのない、意味や目的に関係ない、生滅や、その繰り返しの現象かととらえますし、ただ生き物としては、個体保持と種族保存に制約されていますが、本来、自由として、結婚や、子孫に縛られる必要はないとも考えています。 そして、宗教も、そのほか、思想も様々で、どれが絶対ともいえず、科学もまだすべてを解明したわけではなく、結局どういう宗教を信じようが、信じまいが自由、また、どんな思想を持とうが持つまいが自由、どう生きようと自由と思っています。 闘争本能がある限り、闘争、戦争も無理からんとも思いますが、しかし、闘争本能だけでなく、人間性の原理からは、どんな、国家の栄光や、正義や、愛国心や国家への献身以上に、何よりも、万人の命の尊厳、人権は、国王であろうと、どんな国家権力であろうと、法律制度であろうと、決して、決して、永遠に侵されてはならないという、考え方、生き方もあることを思い、それこそ重要と、今、たどり着いていると思っています。 おしゃか様のように、清貧に生きられてはいませんし、また、親鸞様のように、すべてをお任せする、阿弥陀仏、浄土信仰に徹底しているわけでもありません。 また、いつもの観念でしかありませんが、たとえ私の寺が火事でまる焼け、そして、家族親族がみんな焼け死んで、私も大やけどであと数日の命となったとして、私は命を引き取るまで、周りの人々に優しさや思いやりの言動がふるまわれたらいい。 そして、少しでもよりよい世界実現のために何かが出来たらいい。 でも何もできなくても、臨終まで、せめて願い続けて命を果てたいものだとは思っているつもりです。 私の救いといえば、まあこんなところかと思っています。 そして、いつも、たとえ一人でも、こんな私の心境が何らかのご参考になってくだされば幸いと思っています。 ダーナとは、インドの言葉で、施し「布施」という意味です。 仏教の道は、無我、慈悲、利他、布施ですから、お互いに尊重し、助け合い、共に生きるということで、施しを仏教徒の生き方としています。 昨年度、報正寺ダーナ募金総額は33,733円でした。 小原、1,800円・萩原、1,200円 本一、4,733円・本二、6,500円 本三、7千円・本四、12,500円・ 山県太田組ダーナ募金会計へ・・10,000円 ビルマ難民教育支援へ・・・・ 23,733円 前年度山県太田組ダーナ募金総額は 285,750円 予備費以外の配分 山県太田組内医療機関へ仏教誌施本費・85,800円 芸北福祉会へ・・・・・・・・・・・・50,000円 安芸教区仏婦連盟へ・・・・・・・ 30,000円 火事見舞い・・・・・・・・・・ 60,000円 2023年1月 親鸞聖人御命日法座のご案内 15日(日) 朝9時半・ 16日(月)朝9時半 「親鸞様の御一生から学ぶもの」 住職自修 共に、親鸞様のご一生から、人生と社会の 諸問題を考えさせてもらいましょう。
過年を感謝し、本年もよろしくお願いいたします。 越年雑感 わけの分からぬまま、生まれ出でて76年。 幸か不幸か、死んでしまおうというような思いに駆られたことはありませんでした。 物心がついて、生きるとは?死ぬるとは?宇宙、生命、人類、この私の存在の意味は?人生の究極の目的は?どんな絶望状況をも乗り越えて生きてゆける確かな道とは?この国や、この世界の人類のあるべき方向性とは?宗教とは?仏教とは?浄土真宗とは? と、問い続けています。 こんな、私自身の、人生観、世界観、宗教観、仏教観、浄土真宗観の確認と、聞いてくださる方に何らかの参考になってくだされば幸いと思い、そして、私なりの伝道、布教という思いで、2020年5月5日から、外出した3日間以外、毎日、ユーチューブ、ツイッター、フェイスブックなどで講話させてもらっています。 2020年8月の終わりごろから、浄土三部経に取り組み、今は、親鸞様の主著、顕浄土真実教行証文類に取り組んでいます。 いつもの持論ですが、科学的には、宇宙は、意味もなく目的もなく、生滅し、その繰り返しかと思います。 宗教も様々、そして、思想も様々、科学もすべてを解明したわけではなく、本当のところはわからないということかと思います。 生き方は自由、本当のところはよくわからんのだから、好きなように、面白く楽しく生きるというのもあれば、この世は戦いだ、負けてはつまらんと闘争、戦争に生きる生き方もあれば、いや、闘争本能もあるが、人間性を大事に、やさしさや暖かさを求め、人類の理念である、平和、人権、博愛等に生きるというのもあります。・・・・・さて。 「本願寺派門主、総長への要望」 2022年12月16日 私は親鸞さまの月御命日に意思表示をします。 仏願に背く、集団的自衛権を認める安全保障関連法への明確な反対声明を教団として早急に出して下さい。 (私の思い) 御同朋の社会実現への実践教学ということを考察します。 教団の過去現在の総体的教学を言い表せば、「如来にお任せ出来て、安心できる教学」といえましょう。 こういう教学にかかわらず、真実に目覚めて、逆に虚仮の身と世をいとい、慚愧と共に、真実、即ち慈悲なる方向に自己も社会も促される教学というものを明確にする必要があると考えます。 「親鸞聖人のみ教えを現実社会の中でいかに発揮するか」について、私は、総理大臣宛、2019年12月以来、項目を削除または追加変更して、今月も、以下の如く要望しました。 「私は、我が宗祖、親鸞様の月命日に意思表示をします。 私ども、本願寺教団は、御本尊、阿弥陀仏をよりどころとする教団です。 阿弥陀仏の本質は、究極の無我、慈悲、利他、布施です。 ですから、私たちは、この、究極の無我、慈悲、利他、布施にうながされて、慚愧と共に、命の尊厳、人間の尊厳を侵さない自己と社会の実現を目指します。 それ故に、仏教徒(浄土真宗門徒)として、この命の尊厳、人間の尊厳を侵さない社会の実現に向けて、全ての人権尊重、戦争放棄、格差是正、環境保全、福祉充実等に取り組みます。上記の趣旨のもと、総理大臣におかれましては、次に上げます諸課題 アジア侵略戦争戦死者、慰安婦、徴用工等被害者への誠実謝罪と補償・国家主義、民族主義から解放され、人類の一員、国際人としての自覚と諸外国相互尊重互恵信頼外交・人間性涵養教育の重視・広範な全人的国際的教養取得にかかわる義務教育内容及び制度の改革・戦前からの、国旗(日の丸)、国歌(君が代)の変更と、国旗、国歌強制不執行・憲法九条改悪廃止・安全保障関連法、特定秘密保護法、緊急事態条項憲法規定、共謀罪廃止・自衛隊の軍装解除、内外救援隊改変・日米地位協定変更・日米安保解消・諸国和平条約締結・核兵器禁止条約批准・沖縄の辺野古新基地建設、日米ミサイル共同設置、軍事施設、防衛費増強、防衛装備移転三原則、自衛隊、海外軍事派遣廃止・独立した憲法裁判所の設置・完全な三権分立・政教分離・首相、閣僚の伊勢神宮や靖国神社公式参拝廃止・政党交付金廃止・小選挙区制から中選挙区完全比例制へ選挙制度改革・外国人の一定期間後の選挙権取得の自由・天皇制、死刑、原発廃止・自然エネルギー変換・輸入食品、医療品、農薬、種子の安全・水及び山林等自然資源の安全確保・食糧自給の確保・廃棄物削減とリサイクル推進・カジノ等遊興事業への公的関与廃止・消費税廃止、累進課税の徹底・男女共同参画社会の推進・しょうがい者差別解消・部落差別解消推進法の具現・精神しょうがい者、長期入院の解放・犯罪者の厳罰化より人間性回復、更生システムの充実・アイヌ他少数民族への人権尊重と誠実な謝罪と権利補償・ハンセン病偏見、差別撤廃・性的少数者の人権尊重・同性婚、夫婦別姓選択自由認定・朝鮮学校への補助復活・外国人労働者、技能実習生への人権尊重・労働者の権利保障とゆとりのある生活保障・ホームレス、生活保護者、無国籍者などの生活保障・出入国在留管理局に長期収容されている外国人への人権的処遇改善・朝鮮民主主義人民共和国による、拉致被害者緊急救済・森友、加計学園、桜を見る会、疑惑解明・1億5千万支援の河井疑惑解明・日本学術会議委員6名否認理由解明・コロナ禍での、医療、生活困窮者対応の十全・狭山事件、袴田事件など冤罪解明のための検察の証拠全面開示・低周波被害、環境保全等に危惧のある、風力発電見直し・原発事故汚染水海洋投棄反対・行動の自由懸念の土地規制法撤回・非民主、強権的な中国、ロシア、朝鮮民主主義人民共和国、アフガニスタン、ミャンマー等への非難・イスラエル、パレスチナ紛争緩和・国家の教科書介入撤回・ウクライナ停戦尽力、避難民積極受容・憲法九条堅持上、憲法審査会の審議中止・民主的国連改革・旧統一教会関係の犯罪究明、被害者救済・健康保険証、マイナンバーカード化中止・防衛費増強への増税中止等々に積極的に取り組まれますことを切望いたします。」 と 非戦平和を願う真宗門徒の会会員 広島県 報正寺住職 城山大賢 2022年12月
12月19日(月)朝、10時~1時間 (おにぎり会の中で) 現代語版、浄土三部経中、無量寿経 住職自修 参加費無用 聖典から人生・社会の諸問題を問うてみましょう。 どうぞ誘って気楽にご参加下さい 聖典を学ぶということ 聖典、ことに、無量寿経は、仏教を開かれたお釈迦様が、実際には口で説かれたものではなく、お釈迦様が亡くなって、約、5百年後、今からおよそ2千年前に、作者は不明ですが、創作されたもののようです。 その中には、女性差別や、死後の生まれ変わりであるとか、差別の偏見を認めるような個所もあり、現代の私たちからは、容認できないものもあります。 ですから、聖典の中でも、問題の箇所は、批判的にとらえながら、現代にも通じる、尊いものを尋ねてゆきます。 聖典から、その、応用問題として、人生や社会の諸問題を考えています。 無量寿経は何のために創作されたのか 無量寿経には、阿弥陀さんやお浄土について書かれています。 作者は不明といいます。 お釈迦さまも実際には説かれてもいなかったものを、経典作者は、お釈迦さんの説かれたものとして、阿弥陀さんや浄土について、一体どういうわけで、書いたのかと考えます。 いつも考えるのは、インドの昔、多くの民衆は、生まれてからこの方、いろんな災難や苦悩の中で、様々に迷い苦しんで、救いを求めていた、ということを想像します。 いじめられる、奪われる、だまされる、差別される、殺されるという中で、とにかく、不安で、助けを求めている人をどう救ってあげるかということ。 さらに、まさに、独りぼっち、誰もそばにいて、支えてくれるものがいなくて、寂しくてかなわないという孤独な人をどう救ってあげるかということ。 さらに、罪を犯してしまって、この罪をだれか救ってくれないかと、その罪におののいている人をどう救ってあげるかということ。 また、死ぬのが怖い、消えてしまうのはいやだ。 永遠の命が欲しい、死んで、いい所があるのなら行きたいが、いやな所なら行きたくないといった、死の恐怖におびえる人をどう救ってあげるかということ。 また、先立って逝った、いとしいものと絶対会いたい。永遠に会えないなんて絶対嫌だという人を、どのよう に救ってあげるかということ。 こういう、様々な苦悩や不安におびえている人々を、とにかく、どのように救ってあげるかということが、経典作者の思いであったのではないかと考えるのです。 もちろん、ただ、このような、不安や苦悩を救うだけではなく、生き方も導いてあげなければならないということも、ともにあったと思うのです。 その導きとは、 この世界は、縁起といって、すべて万物、みんな関係性があって、みんなすべての存在が尊いということから、すべてを尊びあって、いつくしみあって、助け合って、分かち合って生きてゆきましょうというような導きですね。 このように、万人の苦悩への救いと導きということが、この無量寿経を創作された方の意図と思えるのです。 阿弥陀仏・往生浄土信仰による救いと導き 私たちが、どんなに最低、最悪で、苦しくても、つらくても、悲しくても、空しくても、不安でも、恐ろしくても、孤独でも、自暴自棄になった絶望の中でも、いつでも、どこでも、誰をも、いつくしんで抱き導き続けていてくださる、阿弥陀様がいてくださるのですよ。 そして、この人生が、どんなに最低最悪で終わることがあったとしても、みんな阿弥陀様の尊い、浄土という世界に迎えられてゆくんですよ。 その浄土は、この世とは違う、金銀宝やきれいな花で飾られていて、いじめや差別や戦争など、醜いものが全くない清浄な世界で、私たちの心も阿弥陀様と同じ、大慈悲の心、つまり、仏様という尊い私にならせてもらう世界なのですよ。 そして、その浄土の世界に行ってしまって、それで終わりということでは決してありませんよ。 今度は、必ず、必ず、この世の人間の苦悩の世界に還ってくるのです。 それも、即座に帰ってくるのです。 なぜなら、この現実が、どこまでも、人間の苦悩に満ち、世界の戦争や差別など、どこまでも憂いが果てしないから、みんなを救い導かなければならないから、還ってくるのです。 今度は、死んでしまうということはありません。 仏様という永遠の命をいただいて、限りなく、いつまでも、どこまでも、誰をも隔てなく、みんなを導き続けさせてもらうのですよ。 そのことが、阿弥陀様のお慈悲の中に、誓われ、約束され、完成されていて、私たちは、今、この阿弥陀様のお慈悲の真っ只中に、抱かれているのですから、絶対大丈夫、心配ないのですよ。 だから、決して独りぼっちではありません。 ですから、この人生、どうなろうと、どう転ぼうと、安心しきって、この人生を歩ませてもらいましょう。 そして私たちは、どうしても、自分中心なものから、死ぬまで離れられませんが、でも、仏教の教え、縁起という、みんな関係があって、みんな尊いということから、できる限り、お互い、尊びあい、いつくしみあい、分かち合って生きてゆきましょうよ。 と、こういうようなところに、阿弥陀仏、往生浄土信仰による、万人の救いと、導きというものが示されてあるように思えます。 たとえ、この阿弥陀仏や浄土が信じられなくても これも、いつも申すことですが、たとえ、この阿弥陀仏や、往生浄土ということが、実際の事実として、信じられなくても、この、阿弥陀仏や、浄土の表現、また、浄土から、この世に還ってきて、限りなく、この世のみんなの苦悩や、闇を救い、導き続けるという、表現の中に、無限に広くて、深い、慈悲というもの、絶対の平等、絶対の平和という、尊いものが見出され、それが、醜い、自分と、この世界を慚愧せしめるものとなって、そこから、より良き、自己と世界の創造に向かって歩ましめられる道が明らかになってゆくという、そういう、真宗理解もあることを思っています。 最近いつも確認すること 今、ウクライナへの、ロシア侵攻や、朝鮮民主主義人民共和国による、度重なるミサイル実験、 中国による、台湾侵攻への危惧と、沖縄、南西諸島への米軍、自衛隊双方による、ミサイル軍事整備強化、それに伴う、政府による、今後5年間、軍事費1,5倍強、43兆円という防衛費増大、さらには、国民負担増大に、危惧を抱きます。 さらに、原発は、縮小して自然エネルギーへと変換されるべきものと思いますが、最近では、原発再稼働、さらには、新増設、運転期間延長ということも言っています。 国際社会に於いても様々な戦争、人権侵害、環境破壊の問題があります。 この元凶を考えますと、やはり、私たちの人生観、世界観、価値観、世論によることを思います。 これらの世界の価値観、世論というものの、8割から9割というものを考えます。 それは、有史以来、集団や国というものがある限り、そのお互いの繁栄や栄光を求めて競うものと思い、そこに、武力を持ち、武力も競い、いざとなったら戦争するということ。 そして、国家の最高の正義、道徳、美徳というものは、国民、愛国心をもって、国家の為に、命を捧げるというもの。 こういう、闘争性に基づく、世論、価値観が大多数である限り、この世界に、軍隊も戦争もなくなることはないということかと思います。 ではどうするか? いつも、とても至難なことと思いますが、結局は、これら、闘争的、世論、価値観の転換ということでしかないであろうと思うのです。 つまり、どんな国家の栄光や繁栄の為であろうと、どんな法律、憲法であろうと、どんな国王であろうと、大統領であろうと、総理大臣であろうと、ともかく、絶対に侵し、侵されてはならないもの、それは、人命であり、人権であるということ。 こういう、人間性の原理に基づく、価値観、世論が、とても、至難ながらも、主体的、自覚的に確立され、9割10割へと広がり、先の、闘争的価値観、世論が転換されてゆかなければと思うのです。 以下、持論です。 「物を公平に分かち合って、お互いに尊重し合い、奪わず、殺さず、差別せずに生きられるなら原始生活でも結構ではないか。 たとえ、便利さや豊かさを求めても、物を公平に分かち合って、お互いに尊重し合い、奪わず、殺さず、差別せずに生きることと同時でなければならない。」 そして、憲法九条については、日本は絶対にもう戦争しないことにしたから、どんな戦力も絶対持たないのだと解釈しています。 それ故、自衛隊は、憲法違反だから、軍装を解いて、内外災害救援隊などに編成替えするという考え方です。 でも、「そんな甘いことで、外国から攻められたらどうする」という反論が必ずあるはずです。 それについては、「いや、攻められるということの以前に、平素から、攻めようにも攻めることが出来ないほどに、諸外国と、人道的、信頼、尊敬、互恵、協調外交努力をして、諸外国から信頼を得るようにすることが何より第一」と応えたいと思います。 でも、それでも攻められることがあったとしたなら、こちらには、全く非は無く、当然、攻めてきた国の方に非があるので、あくまでも非暴力不服従で抵抗し、国連はじめ諸外国や、攻めてきた国の人民の良心に訴え、国際世論の喚起によって、攻撃がやむのを待つまでだと考えます。 それで、たとえ、無念ながら殺されることはあったとしても、決して、我々は殺すということはしなかったという、崇高な人道に永遠であるという矜持に生きたいものだと考えています。 護憲派内でもこういう、丸腰論は少数と思います。 護憲派の多数は、国を守るための自衛隊、これは、必要として合憲だが、でも、同盟国や、世界の紛争に、諸国と一緒になって戦争協力することは違憲だというものでしょう。 私は、さらに、諸外国は、警察力は保持しても、国家としての軍隊は、国連に移管し、国連のみが、諸国の軍備を統括するけれども、それ以前に、五大国が拒否権を持つ非民主的な国連を、民主的に改正し、民主的に新生した、国連のみが、国際的な警察力、裁判権を持ち、国際紛争解決にあたるというものです。 2022年11月 秋法座のご案内 12月3日(土)・4日(日)朝、9時半~ 報恩講・・・4日(日) 講師、湯来町、一松寺副住職・高山泰秀殿 講談説教 お誘いあってお参りくださいませ
報恩講によせて 報恩講は、親鸞様有難うございますという行事です。 私達は、親鸞様に何を有難うございますというのでしょうか。 思いますと、昔はともかく、今、報正寺の行事にも、参詣者は少なく、まことに、いつも、 住職として、その責任を感じています。 しかし、相変わらずではありますが、私なりに、伝道布教は努めているつもりです。 最近、3日ほど、外出で、インターネット講話を休みましたが、おととしの5月5日からの、動画講話は、聴衆は少数ですが毎日続けています。 私なりの、30~40分の人生観、世界観、宗教観、仏教観、浄土真宗観の確認です。 一人でも聞いてくださる方に、何らかの参考になってくだされば幸いと思っているところです。 これから、さらに老化し、病気でもして、語ることも、書くことも出来なくなるまで、僧侶の責任として、命の尽きるまで、伝道布教に努めたいとは思っているつもりです。 親鸞様の世界 親鸞様の世界というものを考えますと、およそ、二つの世界があると思っています。 一つは、阿弥陀仏や浄土への信仰です。 親鸞様は、若い時、ともかく、自分で、仏になることを目指されました。 しかし、仏という、完全な人格完成はとても不可能であり、それは幻想でしかないということに思い至られます。 そして、先生の法然上人のところで、阿弥陀仏への信仰というものが確立されていったようです。 それは、私たちが、どんなに努力しても、仏という完全な人格の完成は不可能であることをすでに見抜かれている阿弥陀仏であるからこそ、阿弥陀仏の方から、私たち総てを、仏にさせてくださるという、この阿弥陀仏にお任せする以外には、私たちの仏になる道はないと受け入れられたからだとうかがいます。 親鸞様にとって、この阿弥陀仏という仏様については、たくさんなお経に書かれているし、インド、中国、日本の高僧方が信仰されていることでもあるし、目にも見えず、耳にも聞こえないが、実際に、この私達を育んでいてくださる、不可思議な、大慈悲の阿弥陀様がいてくださると、有難く信仰されていたとうかがいます。 ですから、親鸞様は、どんなに苦しい時にも、どんなにつらい時にも、どんなに淋しい時にも、いつでもこの阿弥陀様の大慈悲に抱かれているのだから、安心であるし、どんなに哀れな死に方をしても、阿弥陀様の浄土に迎えられて、尊い仏様にならせてもらうのだから、安心だという、大きな安堵の中に、90年の苦難の人生を乗り越えられたと思います。 次に、もう一つの親鸞様の世界を考えます。 それは、前述の親鸞様の阿弥陀仏信仰とともにある、目覚めの世界と思うのです。 それは、阿弥陀仏信仰、浄土信仰だけでなく、阿弥陀仏や、浄土に、無限に広い世界、無限に深い世界、絶対の、自己中心性から解放された世界、絶対平等の世界、絶対平和の世界、絶対清浄な世界とでもいえるものに目覚めさせられた世界と思っています。 ですから、そういう目覚めによって、同時に、逆に、親鸞様ご自身の、虚仮不実の有様、そして、戦争や、人権侵害など、親鸞様の生きておられる、醜い世界への悲歎、慚愧というものがあったことを思わせられます。 親鸞様が、「悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり修善も雑毒なるゆえに 虚仮の行とぞなづけたる」と、悲歎述懐しておられるところにも、親鸞様の深い自己慚愧として、感動させられます。 さらに、親鸞様は、念仏の仲間へのお手紙の中に、「詮ずるところは、そらごとをまふし、ひがごとを、ことにふれて、念佛のひとびとにおほせられつけて、念佛をとゞめんと、ところの領家・地頭・名主の御はからひどものさふらふらんこと、よくよくやうあるべきことなり。 そのゆへは、釋迦如來のみことには、念佛するひとをそしるものをば名无眼人ととき、名无耳人とおほせをかれたることにさふらふ。 善導和尙は、「五濁增時多疑謗 道俗相嫌不用聞 見有修行起瞋毒 方便破壞競生怨」(法事讚*卷下)とたしかに釋しをかせたまひたり。 この世のならひにて念佛をさまたげんひとは、そのところの領家・地頭・名主のやうあることにてこそさふらはめ。 とかくまふすべきにあらず。 念佛せんひとびとは、かのさまたげをなさんひとをばあはれみをなし、不便におもふて、念佛をもねんごろにまふして、さまたげなさんを、たすけさせたまふべしとこそ、ふるきひとはまふされさふらひしか。 よくよく御たづねあるべきことなり。」とあります。 昔の言葉遣いで、理解しにくいかもしれませんし、又、目や耳が無いという、「无眼人、无耳人」という不適切な表現もありますが、親鸞様は、えてして、権力者達というものは、仏法、念仏を妨害するものだから、そういう権力に迎合することではなく、むしろ、哀れみや悲しみの心をもって助けるべきであるといわれているようです。 これは、権力者の価値観は、闘争、戦争の原理に基づくものであり、それに対し、仏法、念仏の価値観は、慈悲、平和の価値観であるという表明と思えます。 現代の浄土真宗を考える 親鸞様が亡くなられて、759年経ちました。 科学的、実証的にものを考える現代、阿弥陀仏や浄土を実際の事実として、おまかせして、信仰するというのは、中々受け入れがたい時代かと思えます。 こういう、信仰を、素直に受け入れられる人もあれば、素直には、受け入れられない人もあると思います。 人間は、本来、信じるも、信じないも、自由ですね。 たとえ、上記、「阿弥陀仏や浄土を実際の事実として、 おまかせして、信仰する」という信仰が持てないとしても この「阿弥陀仏や浄土」と表されたものの中に、絶対的な、平等や平和の真実があると、目覚めさせされ、そして、真実ならざる、自分と、この社会をいとい、それ故にこそ、真実なる自己と平等や平和な社会の実現に向かって、慚愧と共に、歩んで行ける、道としての浄土真宗ということを、いつも考えます。
21日(金) 朝10時〜11時 学習聖典・無量寿経 (現代語版浄土三部経) 住職自修 参加費無用 聖典から人生・社会の諸問題を問うてみましょう。 どうぞ誘って気楽にご参加下さい 聖典を学ぶということ 聖典、ことに、無量寿経は、仏教を開かれたお釈迦様が、実際には口で説かれたものではなく、お釈迦様が亡くなって、約、5百年後、今からおよそ2千年前に、作者は不明ですが、表現されたもののようです。 その中には、女性差別や、死後の生まれ変わりであるとか、差別の偏見を認めるような個所もあり、現代の私たちからは、容認できないものもあります。 ですから、聖典の中でも、問題の箇所は、批判的にとらえながら、現代にも通じる、尊いものを尋ねてゆきます。 聖典から、その、応用問題として、人生や社会の諸問題を考えています。 無量寿経は何のために創作されたのか 無量寿経には、阿弥陀さんやお浄土について書かれています。 作者は不明といいます。 お釈迦さまも実際には説かれてもいなかったものを、経典作者は、お釈迦さんの説かれたものとして、阿弥陀さんや浄土について、一体どういうわけで、書いたのかと考えます。 いつも考えるのは、インドの昔、多くの民衆は、生まれてからこの方、いろんな災難や苦悩の中で、様々に迷い苦しんで、救いを求めていた、ということを想像します。 いじめられる、奪われる、だまされる、差別される、殺されるという中で、とにかく、不安で、助けを求めている人をどう救ってあげるかということ。 さらに、まさに、独りぼっち、誰もそばにいて、支えてくれるものがいなくて、寂しくてかなわないという孤独な人をどう救ってあげるかということ。 さらに、罪を犯してしまって、この罪をだれか救ってくれないかと、その罪におののいている人をどう救ってあげるかということ。 また、死ぬのが怖い、消えてしまうのはいやだ。 永遠の命が欲しい、死んで、いい所があるのなら行きたいが、いやな所なら行きたくないといった、死の恐怖におびえる人をどう救ってあげるかということ。 また、先立って逝った、いとしいものと絶対会いたい。永遠に会えないなんて絶対嫌だという人を、どのよう に救ってあげるかということ。 こういう、様々な苦悩や不安におびえている人々を、とにかく、どのように救ってあげるかということが、経典作者の思いであったのではないかと考えるのです。 もちろん、ただ、このような、不安や苦悩を救うだけではなく、生き方も導いてあげなければならないということも、ともにあったと思うのです。 その導きとは、 この世界は、縁起といって、すべて万物、みんな関係性があって、みんなすべての存在が尊いということから、すべてを尊びあって、いつくしみあって、助け合って、分かち合って生きてゆきましょうというような導きですね。 このように、万人の苦悩への救いと導きということが、この無量寿経を創作された方の意図と思えるのです。 阿弥陀仏・往生浄土信仰による救いと導き 私たちが、どんなに最低、最悪で、苦しくても、つらくても、悲しくても、空しくても、不安でも、恐ろしくても、孤独でも、自暴自棄になった絶望の中でも、いつでも、どこでも、誰をも、いつくしんで抱き導き続けていてくださる、阿弥陀様がいてくださるのですよ。 そして、この人生が、どんなに最低最悪で終わることがあったとしても、みんな阿弥陀様の尊い、浄土という世界に迎えられてゆくんですよ。 その浄土は、この世とは違う、金銀宝やきれいな花で飾られていて、いじめや差別や戦争など、醜いものが全くない清浄な世界で、私たちの心も阿弥陀様と同じ、大慈悲の心、つまり、仏様という尊い私にならせてもらう世界なのですよ。 そして、その浄土の世界に行ってしまって、それで終わりということでは決してありませんよ。 今度は、必ず、必ず、この世の人間の苦悩の世界に還ってくるのです。 それも、即座に帰ってくるのです。 なぜなら、この現実が、どこまでも、人間の苦悩に満ち、世界の戦争や差別など、どこまでも憂いが果てしないから、みんなを救い導かなければならないから、還ってくるのです。 今度は、死んでしまうということはありません。 仏様という永遠の命をいただいて、限りなく、いつまでも、どこまでも、誰をも隔てなく、みんなを導き続けさせてもらうのですよ。 そのことが、阿弥陀様のお慈悲の中に、誓われ、約束され、完成されていて、私たちは、今、この阿弥陀様のお慈悲の真っ只中に、抱かれているのですから、絶対大丈夫、心配ないのですよ。 だから、決して独りぼっちではありません。 ですから、この人生、どうなろうと、どう転ぼうと、安心しきって、この人生を歩ませてもらいましょう。 そして私たちは、どうしても、自分中心なものから、死ぬまで離れられませんが、でも、仏教の教え、縁起という、みんな関係があって、みんな尊いということから、できる限り、お互い、尊びあい、いつくしみあい、分かち合って生きてゆきましょうよ。 と、こういうようなところに、阿弥陀仏、往生浄土信仰による、万人の救いと、導きというものが示されてあるように思えます。 たとえ、この阿弥陀仏や浄土が信じられなくても これも、いつも申すことですが、たとえ、この阿弥陀仏や、往生浄土ということが、実際の事実として、信じられなくても、この、阿弥陀仏や、浄土の表現、また、浄土から、この世に還ってきて、限りなく、この世のみんなの苦悩や、闇を救い、導き続けるという、表現の中に、無限に広くて、深い、慈悲というもの、絶対の平等、絶対の平和という、尊いものが見出され、それが、醜い、自分と、この世界を慚愧せしめるものとなって、そこから、より良き、自己と世界の創造に向かって歩ましめられる道が明らかになってゆくという、そういう、真宗理解もあることを思っています。
孫からもらい、療養期は、12日に明けたのですが、万全を期して中止しました。 重症にはならなかったのでご安心ください。 9月18日、午後1時15分、2018年から毎年、梵鐘を撞くことにしています。 そのわけを記します、 本願寺教団では、無量寿経に「兵戈無用」と示され、親鸞聖人が「世のなか安穏なれ 仏法ひろまれ」と願われたことをもとに、教団の戦争協力の責任を真摯に慚愧し、非戦・平和の願いを広く発信するために、1981年より毎年、9月18日に、国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑(東京都千代田区)で千鳥ヶ淵全戦没者追悼法要を勤めています。 「千鳥ヶ淵全戦没者追悼法要」では、教団として日本国内外に恒久平和への願いを新たにするため「平和宣言」を行い、さらに「平和の鐘」を撞きます。 各地の寺院でも法要と同時刻にいっせいに鐘を撞き、平和な世への願いを発信しています。 1931年(昭和6年、)9月18日、満州(現在の中国東北部)の奉天(現在の瀋陽市)近郊の柳条湖付近で、日本の所有する南満州鉄道の線路が爆破された事件で、関東軍はこれを中国軍による犯行とでっちあげ、以後、日本の中国侵略戦争が拡大したのでした。 日本の罪ですが、この戦争と一体化した、教団の罪も慚愧し、もう、絶対、決して、このような過ちを侵さないことを決意させてもらいたいと思います。 彼岸に思うこと 彼岸は、彼の岸、つまりは、仏教では、仏様の世界です。 仏様の世界といっても、それがどこかに実在していると信仰できる人もあれば、信じられない人もあると思います。 人間は、本来、自由ですから、仏様の世界の実在を信じられるのも、信じられないのも自由と思います。 どちらにしろ、仏様の世界と表現されたものの中に、尊いものが受け入れられればと思います。 仏様の世界は、徹底した慈悲の世界、徹底したやさしさの世界、徹底した、平和の世界、徹底した、平等の世界といえるでしょう。 それは、人間性の原理の世界といえるでしょうか。 それに対し、私らの世界には、冷たい世界、恐ろしい世界、戦争の世界、差別の世界が渦巻いています。 それは、人間性ではなく、野性の原理に翻弄されている世界といえるでしょう。 ですから、この私たちにとって、仏様の世界は、あこがれの世界、すなわち、彼岸の世界ということになりますね。 ウクライナ戦争他、人類諸問題の解決を思う ロシアが、ウクライナを支配しょうとし、ウクライナは、ロシアに徹底抗戦し、ヨーロッパのナトーもアメリカも、日本も、ウクライナを支援し、軍事力を提供し、戦争が終結しないということ。 そのほか、人権侵害、環境破壊、などなど。 結局は、政治家だけでなく、私たち、みんなの、考え方、生き方、価値観、人生観、世界観、国際世論の質によるのではないかと思います。 いつもの再確認です。 「しょせんこの世は戦いだ、勝ってこそだ、負けて何になる。 国家というものも、その繁栄、栄光、権益の拡大を願い、他国と覇権を競うもの、それ故に、国家の富国強兵は、国家の本能。 国家の国防、軍備は必是、最強の軍備をこそ。 いざとなれば、戦いだ、愛国心をもって、国家のために命を捧げる、これが、最高の道徳、美徳、正義、栄誉だ。」 というようなものが、国際世論の大半であろうと思います。 こういう世論が古来、大半を占めている限り、戦争、人権侵害など、人類の諸問題は、解決しようがないと思われます。 こういう世論に対し、「どんな国家の栄光、名誉であろうと、ともかく、国王であっても、大統領であっても、総理大臣であっても、何人も、『人の命は殺されてはならない、人の人権は侵されてはならないのだ』」というような国際世論が9割10割へと自覚的主体的に確立され拡大しなければ、戦争も何もかも人類の諸問題は、解決しないのではないかと。 いつも紹介します、水平社の綱領ですね。 「吾等は人間性の原理に覚醒し、人類最高の完成に向かって突進す」の精神の確立です。 この確立も拡大もとても至難なことと思っています。 安倍元総理の国葬と、元、統一教会について まず、殺害された安倍元総理、その犯人の心の闇、そして、元統一教会関係団体による、霊感商法、家庭崩壊などの反社会的犯罪を痛みます。 また、そういう宗教と関係のあった、与野党問わず、政治家の質を憂います。 元統一教会のインターネットには、「文鮮明総裁は1935年4月17日の朝、イエス・キリストが霊的に現れ、神のみ旨を完成しなければならない使命があるという啓示を受けるとあり、教義には、神と霊界の存在をはっきりと認め、人生の目的は人が神のみ言に従って生きることによって愛を完成することであり、死後においても霊界で永遠に生きるようになると考えています云々とあります。 教祖の霊的啓示とか、死後の霊界への信仰とか、そのほか、先祖の霊を救うために多額の献金を勧めるとか聞きますが、ともかく、よくも信じ込ましもし、信じ込まされるものだと驚きます。 安倍元総理の「国葬」を、9月27日に行うといいます。 歴代最長の総理大臣だったし、自民党及び、国家結束の好機ということだったのでしょうか。 しかし、安倍元総理は、総理夫婦で関与する、森友学園土地取得に関する、公文書改ざん問題では、近畿財務局の職員が、自殺に追い込まれるという実に悲惨なことがあり、まだ解明はされていません。 また、加計学園、桜を見る会などの疑惑も、かつての参議院選挙、河井案里候補への破格な選挙資金一憶5千万円党費投入問題も解明されておりません。 そして、安倍元総理が、反社会的犯罪を犯してきている、元統一教会関係団体に、ビデオメッセージを送ったという、大きな、広告塔の役割が果たされたという関与も決して評価できません。 ことに、2015 年9月 19
日、憲法九条の従来の解釈を変えて、一般に戦争法といわれる、安保法制を強行しました。 これは、アメリカなど、同盟国が攻撃され、日本の存続が危険にさらされるような危惧が生じたときには、武力行使するというものでした。 とにかく、憲法九条を変えて、戦争をしない国から、戦争のできる、戦争する国づくりへと強い意志をもって推進させた総理大臣でした。 非武装、絶対平和主義の見解からは、容認できません。 9月20日のニュースでは、この、国葬について、「FNNの世論調査で、賛成が31.5%で反対は62.3%と、反対意見が大きく上回る結果になっています。」とあり、国葬執行は容認できませんね。 沖縄、この国の不安 ノーモア沖縄戦 命どぅ宝の会 メルマガ第57号参考 沖縄の宮古島とか、石垣島とか、与那国島とか、南西諸島に、自衛隊と米軍が共同で、ミサイル配備を進めているといいます。 これは、尖閣諸島をめぐる、日中の緊張、そして、台湾への中国による軍事侵攻への懸念によるものと思えます。 アメリカは、台湾に中国が軍事侵攻した場合は、台湾を守るために、実力行使するといっています。 また、アメリカと中国は、覇権を競っています。 最近、アメリカのペロシ下院議長が中国のブレーキにもかかわらず、台湾訪問を強行しました。 それに怒って、中国は、台湾を取り囲むように、大がかりな軍事演習をやりました。 27年ぶりといわれますが、中国は、台湾に向けミサイルを発射しました。 それが一部日本の排他的経済水域に落下したことから日本も緊張しました。 台湾有事は日本有事と日本中が恐怖しました。 落下地点に近い与那国島や波照間島は悲鳴を上げ、漁 業者は操業を見合わせ、島のリーダーたちは県や国に対応を求めたといいます。 「もう安心して住めない」という島民のコメントが全国に流れました。 沖縄本島もにわかに慌ただしくなり、米軍嘉手納基地から弾道ミサイル観測機コブラボールが出動、自衛隊基地からもミサイルを装着したF15戦闘機4機が緊急発進したといいます。 アメリカは、軍産複合体といわれ、軍事産業は、どこかで、紛争があり、戦力が消耗されないと利益がない、つまり、死の商人といわれています。 そういうところで、今、アメリカやナトー、日本も含め、ロシアに徹底抗戦する、ウクライナを支援して、高度な軍事力を提供していることを考えますと、やはり、アメリカの軍産複合体の利益が、ひいては、アメリカのロシア制圧が、このウクライナ支援の裏にあることを考えます。 アメリカは、アメリカ本土への被害もなく、アメリカ兵の血が流されることもなく、ただ、ウクライナの兵士や市民の犠牲の上に、ロシアの国力低下とアメリカの利益と優位性が得られているということを考えます。 同じようなことを、この度の、日米軍事共同による、沖縄、南西諸島へのミサイル配備も考えます。 台湾有事には、中国は、まず、台湾そして、日本全土の、岩国、横須賀など米軍基地、近い、沖縄、南西諸島の日米共同基地に攻撃するでしょう。 アメリカ本土は無傷、被害は、台湾と、台湾住民、台湾兵、そして、参戦のアメリカ兵、中国兵とその人民、そして、日本の自衛隊員、基地周辺の住民であり、拡大すれば、日本全土も焼土になります。 中国もアメリカも国益の覇権を競う限り、核兵器も用いれば、全世界の破滅につながります。 人間でありつつ、尚、獣であろうとするのか、獣でありつつ、尚、人間であろうとするのかと・・・・。 2022年8月 盆会法座のご案内 19日(金)朝・ 20日(土)朝 朝、9時半 始 初盆物故者・全戦没者追弔法要 20日(土)朝 『仏法と人生と社会』 住職自修 生きるということを考える みんな、訳も分からぬまま、とにかく、この世に生み出されてきました。 生まれてきた以上、ともかく、生きようとする本能に突き動かされて生きざるを得ませんでした。 死んで生まれてくる命もあります。 100年以上生きられる命もあります。 一生、生まれてから、この方、災難、不運、苦難続きの人もあります。 一生、あまり波風のない、平坦な一生の人もあります。 人は、様々なめぐりあわせの中で生まれてきて、ともかく、生きて必ず死んでゆきます。 何のための人生か、生きるということはどういうことか、生きるということをどう納得するか。 悲しくも、自らの命を絶たれる人もあります。 しかし、どんな絶望状況でも、なお、そこを乗り越え、切り開いてゆける、確かな生き方とは何か。 そんなことを物心がついて、ずーっと確かめ続けています。 人によっては、そんなことより、ともかく、日々、あれこれやってゆかねばならんのじゃという方もあることでしょう。 ⓷とおりの生き方 人間は基本的にどう生きるのも自由と思います。 自由な生き方ですが、大体、③通りに分けられるかと思います。 ①つは、宗教といっても、いろいろあって、どれが絶対ともいえない。 そして、思想、哲学、倫理なども様々で、自由主義、資本主義もあれば、社会主義、共産主義というものもある。 また、無政府主義というものもあれば、世界連邦といって、世界が一つになればいいという考え方もある。 様々な考え方があるが、どれも、絶対といえるものではなさそうだ。 また、科学だって、日々、研究は進んでいるが、まだ、絶対的なことが解明できたということではない。 とすれば、結局、本当のところは、わからないということではないか。 訳も分からぬまま生まれ出て、うごめいて、そして死んでゆく。 その中で、運のいい者もおれば、運の悪い者もおる。 ただ、確かなことは、楽をしたい、面白いのがいい、楽しいのがいい。 ただそれだけだ。 訳も分からず、生まれてきて、うごめいて、そして死んでゆく中で、ともかく、人生、楽に、面白く、楽しく生きりゃあそれでええ。 という生き方もあると思います。 ②つは、この世は、しょせん闘争よ。 勝ってこそ、負けてはつまらん。 生存競争、弱肉強食よ。 暴力、権力、財力、そして、軍事力によって、世界を制覇する。 人類の歴史は、原始時代からこの方、闘争、戦争ではないか。 敵か味方か、敵なら殺す。 理想もへったくれもない。 人の命も、人権も、奪い放題、蹂躙し放題。 野性本能むき出しの生き方。 ③つは、いや、人間は、野性だけではない。 人間には、「人間性」という 尊いものがあるじゃあないか。 それは、たとえ、どんなにささやかなことであっても、人のまごころ、やさしさ、暖かさ、思いやり、思い合いの心が通じ合えば、みんな感動を覚えるではないか。 これこそ、永遠よ、真実よ。 この人間性に基づいた人類の理想、理念というものがあるではないか。 すなわち、束縛のない自由、差別のない平等、憎しみを超えた広い愛の博愛、戦争のない、平和、そして、どんな命もどんな少数者もどんな人も平等に尊重されねばならない、人権尊重。 そして、貧富の格差の是正。 さらに、人間の勝手な欲望のために、海がどんどん汚れている。大地も、大気も汚れている。 そんなことがあってはならないという、環境保全。 今言われる、SDGS、持続可能な開発目標といわれるもの。 つまりは、人間性の原理として、わかりやすい言葉で言えば、「優しい心」「暖かい心」。 そういう、やさしい、あたたかい、私自身、この人類世界を願い求めて生きるということ。 いつも思うことですが、大体、人間の生き方は、この3とおりに分けられて、人々は、この3通りの生き方をめぐって、様々な人生観、世界観、そして生き方をしているかと思います。 人は、生き方は本来自由ではあります。 世論が変われば世界が変わるか ユネスコ憲章に、「戦争は人の心の中で生れるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」とうたわれています。 最近、いつも確認することですが、世界の大多数の世論は、国家には、軍隊は必要だ、しかも、最強に越したことはない。 この世はしょせん闘争だから、紛争になれば、必ず、戦う。富国強兵は、国家の本能だ。国家の権益の拡大こそ、国家の栄光。この国家の栄光の為に、愛国心をもって、国家の為に命を捧げる。これこそが、国民、最高の道徳、最高の正義、最高の美徳である。 と、こういうものではないでしょうか。 しかし、どんな国家の正義であろうと、国王、総理大臣、大統領の命令であろうとも、絶対、人は殺されてはならない、人権は侵されてはならない。生活も破壊されてはならない。 という明確な、自覚が国際世論の9割、10割に拡大されなければ、世の中、良くなりようがないということを、まことに、至難なことであろうが、大事なことと思っております。 2022年7月 聖典学習会のご案内 21日(木) 朝10時〜11時 学習聖典・無量寿経 (現代語版浄土三部経) 住職自修 参加費無用 聖典から人生・社会の諸問題を問うてみましょう。 どうぞ誘って気楽にご参加下さい 聖典を学ぶということ 聖典、ことに、無量寿経は、仏教を開かれたお釈迦様が、実際には口で説かれたものではなく、お釈迦様が亡くなって、約、5百年後、今からおよそ2千年前に、作者は不明ですが、表現されたもののようです。 その中には、女性差別や、死後の生まれ変わりであるとか、差別の偏見を認めるような個所もあり、現代の私たちからは、容認できないものもあります。 ですから、聖典の中でも、問題の箇所は、批判的にとらえながら、現代にも通じる、尊いものを尋ねてゆきます。 聖典から、その、応用問題として、人生や社会の諸問題を考えています。 無量寿経は何のために創作されたのか 無量寿経には、阿弥陀さんやお浄土について書かれています。 作者は不明といいます。 お釈迦さまも実際には説かれてもいなかったものを、経典作者は、お釈迦さんの説かれたものとして、阿弥陀さんや浄土について、一体どういうわけで、書いたのかと考えます。 いつも考えるのは、インドの昔、多くの民衆は、生まれてからこの方、いろんな災難や苦悩の中で、様々に迷い苦しんで、救いを求めていた、ということを想像します。 いじめられる、奪われる、だまされる、差別される、殺されるという中で、とにかく、不安で、助けを求めている人をどう救ってあげるかということ。 さらに、まさに、独りぼっち、誰もそばにいて、支えてくれるものがいなくて、寂しくてかなわないという孤独な人をどう救ってあげるかということ。 さらに、罪を犯してしまって、この罪をだれか救ってくれないかと、その罪におののいている人をどう救ってあげるかということ。 また、死ぬのが怖い、消えてしまうのはいやだ。 永遠の命が欲しい、死んで、いい所があるのなら行きたいが、いやな所なら行きたくないといった、死の恐怖におびえる人をどう救ってあげるかということ。 また、先立って逝った、いとしいものと絶対会いたい。永遠に会えないなんて絶対嫌だという人を、どのよう に救ってあげるかということ。 こういう、様々な苦悩や不安におびえている人々を、とにかく、どのように救ってあげるかということが、経典作者の思いであったのではないかと考えるのです。 もちろん、ただ、このような、不安や苦悩を救うだけではなく、生き方も正しく導いてあげなければならないということも、ともにあったと思うのです。 このように、万人の苦悩への救いと導きということが、この無量寿経を創作された方の意図と思えるのです。 阿弥陀仏・往生浄土信仰による救いと導き 私たちが、どんなに最低、最悪で、苦しくても、つらくても、悲しくても、空しくても、不安でも、恐ろしくても、孤独でも、自暴自棄になった絶望の中でも、いつでも、どこでも、誰をも、いつくしんで抱き導き続けていてくださる、阿弥陀様がいてくださるのですよ。 そして、この人生が、どんなに最低最悪で終わることがあったとしても、みんな阿弥陀様の尊い、浄土という世界に迎えられてゆくんですよ。 その浄土は、この世とは違う、金銀宝やきれいな花で飾られていて、いじめや差別や戦争など、醜いものが全くない清浄な世界で、私たちの心も阿弥陀様と同じ、大慈悲の心、つまり、仏様という尊い私にならせてもらう世界なのですよ。 そして、その浄土の世界に行ってしまって、それで終わりということでは決してありませんよ。 今度は、必ず、必ず、この世の人間の苦悩の世界に還ってくるのです。 なぜなら、この現実が、どこまでも、人間の苦悩に満ち、世界の戦争や差別など、どこまでも憂いが果てしないから、みんなを救い導くために還ってくるのです。 今度は、死んでしまうということはありません。 仏様という永遠の命をいただいて、限りなく、いつまでも、どこまでも、誰をも隔てなく、みんなを導き続けさせてもらうのですよ。 そのことが、阿弥陀様のお慈悲の中に、誓われ、約束され、完成されていて、私たちは、今、この阿弥陀様のお慈悲の中に、抱かれているのですから、絶対大丈夫、心配ありません。 決して独りぼっちではありません。 ですから、この人生、どうなろうと、どう転ぼうと、安心しきって、この人生を歩ませてもらいましょう。 そして私たちは、どうしても、自分中心なものから、死ぬまで離れられませんが、でも、仏教の教え、縁起という、みんな関係があって、みんな尊いということから、できる限り、お互い、尊びあい、いつくしみあい、分かち合って生きてゆきましょう。 と、こういうようなところに、阿弥陀仏、往生浄土信仰による、万人の救いと、導きというものが示されてあると思えます。 たとえ、この阿弥陀仏や浄土が信じられなくても これも、いつも申すことですが、たとえ、この阿弥陀仏や、往生浄土ということが、実際の事実として、信じられなくても、この、阿弥陀仏や、浄土の表現、また、浄土から、この世に帰ってきて、限りなく、この世のみんなの苦悩や、闇を救い、導き続けるという、表現の中に、無限に広くて、深い、慈悲というもの、絶対の平等、平和という尊いものが見出され、それが、醜い、自分と、この世界を慚愧せしめるものとなって、そこから、より良き、自己と世界の創造に向かって生きる道が明らかになってゆくという、そういう、真宗理解もあると思っているのです。 平和の実現への思い この、ウクライナの戦争だけではありません、原始時代から、人間は、闘争、戦争の歴史でした。 戦争をしない、平和ということを、最近、特に考えさせられます。 人間に、闘争本能がある限り、戦争は無くなることはないかとも思います。 しかし、人間には、闘争本能だけということはなく、人間性という、尊いものを求めるものも保持しているということも思います。 一般に、タカ派、ハト派といいます。 タカ派は、戦争絶対是認派ということでしょう。 一方、ハト派というのは、戦争絶対否定、絶対平和志向派ということでしょうか。 世界の大多数の世論は、国には軍隊は絶対必要、より強力な戦力を保持し、争いになれば、国家の権益、国家の栄光をかけて、愛国心をもって、国家のために命をささげる、これが最高の正義、最高の道徳だというものかと思います。 こういう世論が大多数として世界中の人々の心の中に当然としてある限り、まず、戦争は無くならないかと思います。 戦争が無くなるとすれば、こういう戦争是認の世論が翻されなければならないのではと思います。 いつも確認するのですが、つまりは、どんな国家の権益や、栄光や、どんな正義や道徳や、愛国心であろうと、また、どんな国王や、大統領や総理大臣の命令であろうと、何よりも、大事で、決して、決して、侵してはならないのは、人の命であり、人権であり、生活であるというような、徹底した自覚の世論が、とても至難なことと思いますが、とにかく、大きく、大きく、世論の大多数へと翻されなければならいだろうと思うのです。 夏法座のご案内 28日(火) ・29日(水) 朝、9時半、始め 「仏法から人生、社会の諸問題を考えます」 住職自修 苦悩からの救いということ 苦悩のない人はないと思います。 また、苦悩は、みんな、大なり小なり、それぞれちがうと思います。 苦悩が行き詰まると、絶望し、消えてしまいたい、死にたいという思いに落ち込む人もあるでしょう。 そういう時、人によっては、このたまらない苦悩を、神様でもいい、仏様でもいい、誰でもいいから、とにかく助けてほしいという、何かにすがりたい気持ちになる人もあるでしょう。 そして、求めて、求めて、やっと、何らかの信仰を得ることによって、苦悩から救われるという人もあるでしょう また、人によっては、神仏とか言っても、とても信じることはできないという人もあるでしょう。 そして、ともかく、この絶望状況の苦悩の真っただ中ではあるが、とにかく、今まで、何とはなしに、ただ、惰性で生きてきたが、この際、この自分というものの存在を明らかに極めてみよう。 本来、この宇宙、万物、生命、人間存在、そして人間であるこの私の存在に、どんな意味があるのか、無いのか。 また、意味が有っても、たとえ、意味が無くても、この絶望感の中、ともかく、死ぬまで生きるとして、求むべき、願うべき、人生の究極の目標と、生きる道とは何なのかを極めたい。 と、尋ね尋ねて、どんな絶望状況でも、命の尽きるまで、求めて生きてゆける、究極の生きる道や目標が見出されて、救われるという人もあると思います。 浄土真宗による救い その① 阿弥陀様は、無限の過去から、無限の未来にわたって永遠に存在していてくださるということ。 そして、無限の大きな慈悲によって、この大宇宙を包んでいてくださるということ。 ですから、この私達、みんな、誰も、漏れることなく、この阿弥陀様の大慈悲に抱かれているということ。 誰だって、この阿弥陀様の大慈悲に育まれていない人はないということ。 なぜなら、私達は、どんなに、優しい心、暖かい心、思いやりや、思い合いの心が、大事だということは、わかってはいても、とてもとても、わがままな、とらわれの心から離れられず、ともすると、互いに、争い、傷つけあってしまうような不完全な存在だからなんだということ。 阿弥陀様は、こんな不完全な私達だから、私達を、いつも、抱いて、育くみ、導いて、阿弥陀様の浄土という、清浄な大慈悲の世界に、迎えようとしていてくださっているということ。 阿弥陀様は、いつでも、どこでも、誰であっても、悲しい時も、淋しい時も、失敗している時も、悔やんでいる時も、私たちを、決して離れてはくださらないんだということ。 だから、私達は、決して独りぼっちということはないということ。 そして、私達が、どんなに最低最悪の状態で、命が終わろうとも、私達を必ず、阿弥陀様の浄土に迎えてくださるんだということ。 そして、阿弥陀様の浄土は、この世とは違って、金銀宝でできていて、しかも清浄な花で飾られているということ。 この浄土には、決して、奪われるとか、いじめや差別やだましや殺しというようなことはなく、しかも、浄土に迎えられた私たちは、みんな、心がきれいに洗われて、阿弥陀様と同じ、大慈悲の人格、すなわち、仏様になさしめられるということ。 この浄土に、みんな迎えられてゆくのだから、誰だって排除されないのだから、必ず、誰とでも会えるということ。 そして、この浄土へは、往ったきりではないのだということ。 必ず、必ず、また、この世へ還ってくることになっているということ。 なぜなら、この世には、限りなく、人々の悲しみ、苦悩があり、戦争や差別や略奪などの闇があるから、この世の苦悩や闇を救わなければならないからこの世に帰ってくるということ。 そして、もう命は尽きるということはなく、限りない命をもって、限りなく、誰をも救い導き続けてゆくということになっているといこと。 こういう、阿弥陀様の大慈悲の働きを、何より、ただ、こよなく、ありがたく受け入れられて、阿弥陀様にお任せしきって、安心できているという、すなわち、信仰に安んじられているということ。 さらに、この、阿弥陀様や浄土に、尊いもの、浄らかなもの、すなわち、平等な大慈悲、最も広い世界、最も深い世界、自分中心な世界から解き放たれた、平等な世界が知らされて、そこから、自分の愚かさ、醜さが慚愧せしめられ、また、この世界の醜さが慚愧せしめられ、それ故、より良い、暖かい、優しい自分と、よりよい、戦争や差別のない、社会の実現に向かって、臨終まで歩ましめられて行こうということ。 浄土真宗による救い その② 上記の「こういう阿弥陀様の大慈悲の働きを、何より、ただ、こよなく、ありがたく受け入れられて、阿弥陀様にお任せしきって安心できているという、すなわち、信仰に安んじられているということ」について、 こういう、いわゆる信仰といわれるものが、人によって、受け入れられる人もあれば、どうも、受け入れられないという人もあると思います。 こういう、信仰を受け入れられる人はともかく、たとえ、信仰が受け入れられなくても、 同じく、上記 「この、阿弥陀様や浄土に、尊いもの、浄らかなもの、すなわち、平等な大慈悲、最も広い世界、最も深い世界、自分中心な世界から解き放たれた、平等な世界が知らされて、そこから、自分の愚かさ、醜さが慚愧せしめられ、また、この世界の醜さが慚愧せしめられ、それ故、より良い、暖かい、優しい自分と、よりよい、戦争や差別のない、社会の実現に向かって、臨終まで歩ましめられて行こうということ」が成立しているということの救い。 ウクライナ戦争におもうこと これは、朝日新聞社が、ウクライナ戦争に対する思いを読者に募っていて、応募し、没になりましたが、その内容の紹介です。 「かつて、ベトナム戦争も、イラク戦争もあったのに、この度、こんなに、戦争について、考えたことはありません。 古来、戦争が絶えません。 戦争が無くなることをどう考えたらいいのでしょう。 ロシアも、ウクライナも、アメリカもNATOも日本も、しかりで、ほとんどの国家や、人民が、とにかく、この世はしょせん闘争だ、だから、国家には、軍備が当然で、それも、最強に越したことはないとし、とにかく、何よりも、国家の権威や権益こそ至上、国家のイデオロギーこそ至上、国家の正義こそ至上というような見解を、自明のこととして持っている限り、決して戦争は止むことはないと思えます。 ですから、この見解に対して、「どんな国家の権威、権益よりも、どんな国家のイデオロギーよりも、どんな国家の正義よりも、何よりも、人の命や人権や生活こそが、何より大事なものなんだ」というような見解が、国際世論として、とにかく、大きく、大きく広がらなければ、決して戦争はなくならないだろうと考えます。 これは、「陸海空軍、その他の戦力は、これを保持しない、国の交戦権はこれを認めない」という、非武装、絶対平和主義と解釈できる、日本国憲法9条の精神でもあると思っています。」 2022年5月 聖典学習会のご案内 24日(火) 朝10時〜11時 学習聖典・無量寿経 (現代語版浄土三部経) 住職自修 参加費無用 聖典から人生・社会の諸問題を問うてみましょう。 どうぞ誘って気楽にご参加下さい 聖典を学ぶとは 聖典、ことに、無量寿経は、仏教を開かれたお釈迦様が、実際には口で説かれたものではなく、お釈迦様が亡くなって、約、5百年後、今からおよそ2千年前に、作者は不明ですが、表現されたもののようです。 その中には、女性差別や、死後の生まれ変わりであるとか、差別の偏見を認めるような個所もあり、現代の私たちからは、容認できないものもあります。 ですから、聖典の中でも、問題の箇所は、批判的にとらえながら、現代にも通じる、尊いものを尋ねております。 聖典から、その、応用問題として、人生や社会の問題を考えています。 宗教というものを考える 原始時代から、今に至るまで、世界中、沢山な宗教といわれるものがあります。 これらは、いったい何なのでしょうね。 天国とか地獄とか、神仏とか悪魔とか、絶対者だとか、霊魂とか、過去世とか、来世とか、生まれ変わりだとか、バチとか、タタリとか、いろんなことが言われています。 思うに、科学が発達していない原始時代から、人間は、考える動物として、また、大脳の発達した、サルの仲間として、いろんなことを思いめぐらして想像したものではないかと思えますがどうでしょう。 また、宗教体験といわれるものがあります。 みんなには、見えない、聞こえないものが、見えたとか、聞こえたとか言われるものですね。 これは、思いますに、神経や、脳内物質や、脳内ホルモンというものの、特異な体質の人が、特異な体験をし、その体験を語って、多くの人が、それを信じるというものかと思うのですがいかがでしょう。 また、宗教は、生きる上での、苦しみや悲しみや悩みを抱える中で、神でも、仏でも、何でもいいから、「助けてくれー」と苦悩する人々に、救いをもたらすものとして解かれたものということができるでしょうか。 ですが、人間は自由だと思いますから、宗教が信じられる人も自由、信じられない人も自由と思っています。 そして、宗教が信じられる人も、信じられない人も、どちらも尊重はしなければならないと思います。 そして、また、宗教とは、文字通り、「宗の教え」ということで、「大事な教え」ととらえられます。 つまり、私の求むべき、究極の目標や、この世界のあるべき方向性が見つかって、どんな絶望状況であろうと、臨終まで生きてゆける、大事な自覚の道の教えということでもあると思えます。 とすると、既成の宗教が信じられても、信じられなくても、ともかく、この「私の求むべき、究極の目標や、この世界のあるべき方向性が見つかって、どんな絶望状況であろうと、臨終まで生きてゆける、大事な自覚の道」が明らかになっている人は、「宗の教え」つまり、自分なりの「宗教」を持っている人といえるでしょう。 ウクライナ戦争に思うこと 万を超す兵士、市民の戦死者、都市の破壊、さらには、人類滅亡につながる、世界大戦への危惧に、暗澹たる思いです。 以下、「九条の会 山県」の会報に投稿した、原稿の紹介です。 「恥ずかしいことですが、こんなに、現実の戦争について、思いを巡らしたことはありません。 今までの、イスラエル、パレスチナ戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争、そして、アフガニスタン戦争、シリア戦争、等々についても、この度の、ウクライナ戦争ほどには心が動いてはいませんでした。 又、これは、日本もかかわる、全世界の問題であるとは思いつつも、当事者ではないので、やはり、第三者意識でしかないことを反省します。 そして、この、ウクライナ戦争、いろんな情報がある中で、すべてを把握しているわけでもありません。 しかし、どう考えたらいいのか、どこに解決の鍵があるのか、そして、結局、私自身、どう生きるかということにもつながることとして考えています。 この度の、ロシアのプーチン政権による、非道な、ウクライナ侵略は、結局、ロシアの大国意識、横暴な覇権主義で、アメリカ始め、ナトー諸国、それになびくウクライナに抗し、ウクライナを支配下に置くということなんでしょうね。 ロシアが対抗意識を持つ、アメリカや、ナトー諸国や、それを支持する日本などというのは、一応、自由とか民主主義とか、人権というものを尊重しょうとしていると思えます。 ところが、ロシア初め、ロシアを支持する、ベラルーシ、朝鮮民主主義人民共和国、シリア政権等は、自由とか、民主主義とか、人権とかいうものが全く理解出来ないということはないと思いますが、とにかく、それらより、何よりも、覇権こそ至上ということなんだろうと思います。 でも、この、覇権至上、さらには、国家至上というものは、ロシアを支持する国々のみならず、ウクライナも、アメリカも、ナトー諸国も、同調する日本も、大多数の国々の権力というものがそうであろうと思います。 そして、この国家権力だけでなく、世界中、多くの国民市民も、そういう思いを当然のこととして保持していると思われます。 そこに、世界の大多数の国が、国家間で、対抗意識を持ち、国家防衛には、軍隊は当然とし、さらに、最強の軍事力を保持しょうと、競い合っているということかと思えます。 そして、国家権力は、各国それぞれの愛国的イデオロギーや正義観を持っていて、それを、国家そのものと同様、至上としていると思えます。 ですから、そこには、どんな国家の権威よりも、どんな国家のイデオロギーよりも、どんな国家の正義よりも、何よりも、人の命や人権や生活を、何より尊重されねばならないというような見解は、ほとんど無いといえるように思えます。 実は、そこに、この戦争始め、人類社会の諸問題の根本的な原因があると思っています。 ですから、ロシアは、ロシアの国家権威拡大、至上で、それに反抗する、自国民も、ウクライナも、徹底的に弾圧し、ウクライナに同調する、アメリカ、ナトー諸国にも敵対するということになっているのでしょう。 そして、ウクライナは、ウクライナで、ウクライナの愛国とウクライナの正義の為、男性、18歳から60歳までは出国禁止で、国家防衛に束縛し、多数の兵士の戦死も、国民市民の虐殺や都市の破壊もあえて耐え、とにかく、ナトー、やアメリカ始め諸国にも軍事支援を求め、ロシアに対し、徹底抗戦して勝利を果たすということになっているのでしょう。 そして、ナトーやアメリカやウクライナを支援する諸国は、ウクライナの要請にこたえ、軍事支援を拡大してロシア制圧に加担しているということでしょう。 そのため、アメリカ始め、諸国の、軍事産業は巨利を得ることでしょう。 中国は、今後の世界制覇に向け、ロシアにつかず、離れず、計算をしているようです。 日本はじめ、他の諸国は、それぞれが国の損得も思い図って、ロシアとの距離間を取っているようです。 そして、憂うることは、この度のウクライナ戦争によって、日本も、諸国も、国防つまりは軍事力の強化ということに世論が高まっていることです。 結論的には、上記のごとく、「どんな国家の権威よりも、どんな国家のイデオロギーよりも、どんな国家の正義よりも、何よりも、人の命や人権や生活を、何より尊重されねばならないというような見解」のようなものが、国際世論として、とにかく、大きく広がらなければと思います。 これは、非武装、絶対平和主義の、日本国憲法9条の精神でもあると思っています。 2022年4月 永代経法座のご案内 14日(木) 朝9時半~ 住職自修 15日(金)朝9時半~ 焼香日 三次、西善寺住職 小武正教殿 どうぞお誘いの上、御参詣くださいませ 永代経法座とは これは、仏教、浄土真宗の教えが、孫子の代だけでなく、永代、つまり、いつまでも、存続して、みんなが仏教の教えに導かれてゆくようにと願う仏教の行事です。 仏教の教えとは 「縁起」ということが仏教の基本的な考え方です。 この「縁起」とは、天地自然宇宙の万物が、みんな関係性をもって存在しており、そして、みんなそれぞれが尊いものだという考え方です。 ですから、そこから、みんなつながっているのだから、自分中心な考え方や、執着はすまいという「無我」という考え方が出てきます。 次に、「慈悲」という考え方があります。 これは、インドの言葉で、「マイトリー」と「カルナー」という言葉でできているといわれます。 この「マイトリー」という言葉は、「友愛」「博愛」と訳されています。 つまり、みんなつながっているのだから、みんな、友達の愛、広い愛に生きてゆこうということのようです。 次に、この「カルナー」という言葉は、「うめく」という言葉だそうです。 これは、みんなつながっているのだから、誰かが、苦しんだり、つらい思いをしている時に、決して、他人事にはできず、自分のこととして、うめくということのようです。 次に、「利他」という考え方があります。 これは、みんなつながっているのだから、利己主義ではいけない、他を利する、つまり、他を助けるという考え方です。 「他」といっても、みんなお互い、つながりあっているという考え方です。 次に、「布施」といった考え方があります。 これは、みんなつながっているのだから、決して、奪い、略奪、侵略ということはせず、お互い、施しあうという考え方です。 でも、私たちは、自分中心なものから、完全には解き放たれることはありませんから、とても、完全に、このように生きることはできません。 でも、こういう自己と、社会の実現に向かって生きることが最高の生き方だと自覚できた人は、どんな人生の絶望状況の中でも、それを乗り越え、切り開いて、臨終まで、生きて行けると説いています。 浄土真宗の教えとは 一般的には、阿弥陀仏や、浄土を信仰する教えといえます。 これは、実際には、仏教を開かれたお釈迦様が説かれたものではなく、お釈迦様が亡くなられて、約500年後に創作されたもので、創作者(達)は不明といいます。 思いますに、経典創作者(達)は、民衆の苦悩、すなわち、 生まれてこの方、種々の災難、いじめ、略奪、差別、殺りくなどの苦悩、不安や孤独、罪へのあえぎ、死の恐怖、死者との再会という、苦悩への救いというものとして、阿弥陀仏、浄土信仰というものを表現されたものとうかがうのです。 つまり、目には見えないけれども、大いなる阿弥陀様のお慈悲に、いつもはぐくまれていて、どんなにボロボロの人生で命終わったとしても、必ず、阿弥陀様の浄土に生まれさせてもらうのだ。 そして、その浄土は、この世と違って、金銀宝でできていて、実に美しい世界で、醜い争いは無く、私たちも醜い心が洗われて、阿弥陀様と同じ、「慈悲」の私、つまり、「仏」に完成させられるのだよ。 この浄土に、みんな迎えられてゆくのだから、この浄土で、絶対、みんなと会える。 会えないということはない。 そして、この浄土へは、行ったきりではない。 必ず、必ず、この世界に帰ってくる。なぜなら、この世に憂いや悲しみや醜さがあるかぎり、みんなを救わねばならないからなんだ。 そして、今度は、もう命が尽きるということはない。 永遠の命で、皆を救い導き続けさせてもらうのだ。 こういったことが、あの阿弥陀様に、すべて約束され、誓われ、完成されているのだから、私たちは、この大いなる阿弥陀様のお慈悲にうち任せるだけだ。 この人生どう転ぼうとも、安心しきって、歩んでゆこう。と、こういうものと思えます。 しかし、現代、この阿弥陀仏や浄土を素直に信仰できる人もあれば。信仰できない人もあります。 でも、たとえ、信仰できなくても、この、阿弥陀仏や、浄土と表された内容に、絶対の慈悲、無我とか、絶対の平等、平和の原理を見出すことができると受け止めています。 ウクライナの戦争 実に、おぞましい、悲しい現実。 ロシアの非道、ウクライナも、徹底抗戦。 ナトーもアメリカも、武器支援。 国家の紛争に、軍事力保持、行使、当然ということ。 これが、古来、大多数の考えでしょう。 しかし、たとえ、少数でも、非武装、絶対平和の考え方があります。 自衛隊は、軍装を解いて、内外災害救援隊に編成替え。 でも、外国から攻められたらどうするか? いや、攻められるということの以前に、平素から、攻めようにも攻めることが出来ないほどに、諸外国と、人道的、信頼、尊敬、互恵、協調外交努力をして、諸外国から絶対の信頼を得るようにすることが何より第一。 でも、それでも、非道に、攻められることがあったとした場合、こちらには、全く非は無く、当然、攻めてきた国の方に非があり、あくまでも非暴力不服従で抵抗し、国連はじめ諸外国や、攻めてきた国の人民の人道的良心に訴え、国際世論の喚起によって、侵攻をやめさせようとする。 たとえ、無念ながら全滅することがあったとしても、決して、我々は殺すということはしなかったという、崇高な人道精神に永遠であるという矜持に生きたい。 諸国は、警察力は保持しても、国家の軍隊は、国連に移管し、国連のみが、諸国の軍備を統括するが、それ以前に、五大国が拒否権を持つ非民主的な国連を、民主的に改正し、民主的に新生した、国連のみが、国際的な警察権、裁判権を持ち、国際紛争解決にあたる、ということ。 現状を見ればとても至難なことですが、でも、どうしてもこういう世論が広がらなければと、切に思います。 聖典学習会のご案内 24日(木) 朝10時〜12時 学習聖典 ・無量寿経 (現代語版浄土三部経) 住職自修 参加費無用 聖典から人生・社会の諸問題を問うてみましょう。 どうぞ誘って気楽にご参加下さい 聖典を学ぶということは、聖典から、人生の根本問題や、社会のあるべきありかたを考えるということです。 さて、この無量寿経の作者は不明です。 匿名にしてあるのだと思えます。 一般には、お釈迦様が説かれたということになっていますが、現代、研究が進んで、お釈迦様が亡くなって、約500年後に創作されたもののようです。 今から、ざっと2千年前になります。 ということは、おしゃか様は、生きておられる時、阿弥陀さんや、その浄土などについて説かれてはいなかったということになります。 ですから、この無量寿経に説かれている、阿弥陀仏や浄土は、経典作者(達)の創作ということになります。 それでは、何のために、経典作者(達)は、おしゃか様が説かれなかった、阿弥陀仏や浄土について、お釈迦様の説法として、創作したのかが問題です。 それは、思うに、おしゃか様の教えを基に、あらゆる人々の苦悩を、救い、導くということであろうと考えられます。 お釈迦様の教えと導きと救い お釈迦様の教えとは、縁起の道理といわれています。 縁起の道理とは、万物個々がすべて無限の縁でつながっていて、それぞれが絶対的に尊い存在であるという道理です。 この道理を踏まえて、自分中心でない、無我・冷酷でない、慈悲・利己でない、利他・略奪でない、布施といった道がお釈迦様の導きであり、この道を自覚し、歩めるところに救いということが言われていると思えます。 浄土教の教えと救い これは、阿弥陀仏や、浄土への信仰による救いと導きということでしょう。 しかし、これは、前述のように、実際には、お釈迦様が説かれたものではなかったようで、お釈迦様滅後、五百年、無名匿名の経典作者の創作といわれます。 そこで、経典創作者の意図を考えるのです。 それは、お釈迦様のように、この世の真理とは何か、と道を問うような人々はともかく、多くの人々は、それどころではなく、諸苦悩にあえいでいたと思えます。 生まれてからこの方、ともかく、次々と様々な災難が降りかかり、奪われ、いじめられ、差別され、殺されるというような、苦難や不安の中で、誰でもいいから、助けてくれー、と叫んでいる。 さらに、誰も側にいてくれるものがいなくて、独りぼっち、寂しくて、わびしくてたまらない。 誰でもいいから、私の気持ちを聞いてほしい、わかってほしい、抱きしめてほしい、ずーっと私の側にいてほしい、という孤独の悲哀。 さらに、自らの犯した罪を痛み、「誰か、私の罪を救ってくれー」と自らしでかした罪への悲嘆。 さらに、自分が、この世から、永遠に消えてゆく、居なくなるという、自らの死への恐怖。 また、死後、いいところなら、行きたいが、悪いところなら行きたくない、何より、永遠の命が欲しいという願望。 さらに、先立った、いとしい者たちはどこに行ったのか、もう、永遠に会えないのか、そんなことには耐えられない。 どうしても会いたい、会わせてほしい、との死後再会への願望。 経典創作者(達)は、こういう苦悩の人々を救い、そして導くために阿弥陀仏や往生浄土信仰というものを表現されたものとうかがうのです。 浄土真宗の「信仰」というもの それは、どんなに、私たちが、不安に満ち、孤独で、罪におののき、死が怖く、悲しくて、さみしくて、苦しくとも、 私たちには、目には見えないけれども、阿弥陀如来という、その、不可思議な、大きな慈悲に、いつでも、どこでも、包まれているということ。 だから、独りぼっちではなく、どんなに最低、最悪の、破綻した状態で、命が終わることがあったとしても、絶対、大丈夫、心配ないということ。 この阿弥陀如来様の無限の大慈悲に抱かれて、みんな、阿弥陀如来様の国、極楽浄土に、迎えられてゆくということ。 そして、この浄土は、この世とは違って、金銀宝でできた素晴らしい世界で、この世のような、略奪とか、いじめ、差別、戦争などは絶対にないということ。 さらに、この浄土で、私たちの、醜い心は、きれいに洗われて、阿弥陀様と同じ、慈悲の私、すなわち、仏にさせてもらうということ。 この浄土に、みんな迎えられてゆくから、この浄土で、みんなと必ず会え、会えないということは決してないということ。 そして、この浄土は、行ったきりの世界ではなく、必ず、必ず、この現実世界に、還ってくるということ。 なぜなら、この世界に、奪い、いじめ、差別、戦争など、人間の苦悩や悲しみがある限り、この迷いの世界を放っておくことができないから、みんなを救い導かなければならないからということ。 今度は、決して、死ぬるということは無く、永遠の命を持って、この迷いの世界を、永遠に導き続けるということが、この阿弥陀様の慈悲の中に、約束されてあり、誓われてあるから、こういう、不可思議な広大な、阿弥陀様のお慈悲に、すべて打ち任せ、安心しきって、この人生、どんなことがあろうと、それを乗り越えさせてもらうということ。 そして、阿弥陀様の導きに促されて、歩ませてもらうということなどが信仰できるということ。 たとえ信仰がなくとも しかし、こういう、信仰を受け入れられる人もあれば、素直には受け入れられない人もあると思います。 たとえ、信仰は、受け入れられなくても、この、阿弥陀仏という表現に、あるべき、真実の人格が、そして、浄土という表現に、絶対平等、絶対平和という、あるべき真実の世界が、うなずけると、いつも思っています。 ウクライナの戦争 仏教の応用問題・・・ 鍵は、非道なロシア、プーチン大統領の、人間変革こそと思っても、それは、幻想でしかないでしょう。 結局は、諸国の経済制裁等で、ロシア国民のプーチン批判沸騰による、彼の失脚期待しかないかと思います。 一方、ウクライナ、ゼレンスキー大統領の、愛国決死の徹底抗戦を、称賛する人は多いと思います。 しかし、そのことは、ウクライナ国民も、ロシア兵も、膨大な命が失われることではあります。 国を守るため、命をささげると、志願する人もあります。 欧米は、ウクライナ支援に、軍備を提供といいます。 軍事闘争やむなし、これが古来、全世界、多数の見解でしょうか。 しかし、ごく少数でしょうが、「たとえ、外国から攻められるこということは、あったとしても、攻められる以前に、平素から、攻めようにも攻めることが出来ないほどに、諸外国と、人道的、信頼、尊敬、互恵、協調外交努力をして、諸外国から絶対の信頼を得るという、軍隊不保持、絶対平和主義、丸腰の国防論」という見解があります。 たとえ、我らは、殺され全滅しても、殺すことはなかったという理念に永遠に生きるという考え方、すなわち、人間性の原理、愛、慈悲に徹底しょうという見解です。 2022年2月 釈尊 涅槃会の中止 コロナウイルスが、世界でも、日本でも広がっています。この安芸太田町でも、ポツポツと感染者が出ています。 そのため、去年に引き続き、今年も、この「涅槃会」は中止とし、紙面法座としました。 釈尊とは、おしゃか様を尊んだ呼び名です。 お釈迦様は、インドの北、今のネパールに、釈迦族の中の一人として、一般には、紀元前463年4月8日に生まれ、383年、2月15日、80歳で亡くなられたといわれます。 釈尊とは、釈迦族の中の尊い人という意味です。 涅槃会とは、おしゃか様ご命日の法要です。 この通信では、仏暦を使っています。 これは、おしゃか様の亡くなられた年に基づく、仏教徒としての暦です。 今年は、おしゃか様が亡くなられて、2405年ということになります。 (ただし、仏暦には、諸説あります) 涅槃とは インドの言葉の「ニルヴァーナ」に中国語の漢字をあてたものです。 意味は「吹き消すこと」です。 欲や怒りやねたみなど、一切の煩悩の火を吹き消した最高の境地のことです。 この「涅槃」には2つあります。 「有余涅槃」と「無余涅槃」です。 「余」とは、残余のことで、肉体のことです。 「有余涅槃」とは、肉体のあるままの、最高の境地ということになります。 お釈迦さまは、35歳でこの境地を開かれたといいますが、しかし、肉体がありますので、お腹もすかれたでしょうし、亡くなられたのは、一般には、キノコの食あたりといわれていますが、どうやら、野ブタの肉料理の食あたりで病気になって下痢がついて亡くなられたということですから、やはり苦しかったに違いありません。 空腹や苦痛への煩悩が無くなることはあり得ないと思います。 一般に、釈尊は、欲など、全ての煩悩を無くした人だと言っていますが、これは、おしゃか様を超人化しすぎていると思います。 本当は、欲や怒りなど、一切の煩悩が完全にはなくならないままにも、それを超える、無我、慈悲、利他、布施の道を明らかにされたということでしょう。 お釈迦様の晩年には、おしゃか様一族の、釈迦族滅亡という大事件があったといわれています。 釈迦族の、マハーナーマンという、長老が、大国、コーサラ国のビルリ王を差別し、そのことによって、ビルリ王から怒りを買い、釈迦族は滅亡させられたというのです。 おしゃか様は、悲しかったに違いないと思います。 しかし、この悲しみを超えて、戦乱や差別のない、平和や平等への伝道布教の道をいよいよ強固にされたことと思います。 「無余涅槃」とは、肉体のない涅槃、つまり、いのちの終わる臨終をもって、完全に煩悩から解放されることを言います。 命が終われば、欲など煩悩もありませんからね。 ですが、生きている時に、仏法に目覚める、「有余涅槃」こそが何より肝要のはずです。 親鸞様の、煩悩を断ぜずして涅槃を得るを味わいます。 お釈迦様の求道 おしゃか様は、釈迦族の国、カピラ国の王子として生まれますが、子供の時から、多感で、老、病、死、に悩み、とうとう、29才の時、妻、子供、両親を置いて、城を出て行ったといいます。 老、病、死が無くなることはないですが、それを乗り越える道、真理の道を尋ねられたといいます。 お釈迦様の悟りと道 35才の時、苦行をやめて、瞑想に入り、「万物と自己と一体、同根」というような境地を開かれたといいます。 この境地を基に、「縁起」という考え方があります。 この「縁起」とは、文字通り、全ての万物は、様々な、因縁、関係性によって、起こり、存在し、万物個々は、絶対に、尊い存在であるということです。 そして、この「縁起」を基にして、人間の生き方は、自分中心ではいけない、他者を対等に尊重し、他者と共に生きて行かねばならないという、「無我の道」ということが示されます。 そして、「慈悲という道」が示されます。 この慈悲という言葉は、インドの言葉で、マイトリーとカルナーという言葉から出来ています。 マイトリーと言うのは、友愛、博愛と訳されます。 最高の友情ということのようです。 カルナーというのは、他者の苦悩に共感して、他人ごとにできず、共にうめくということのようです。 そして、「利他の道」が示されます。 これは、他を利する、つまり、他者を助け、支え、救うということです。 他者といっても、「縁起」の道理の通り、みんな関係性のある、つながった者同士ということになります。 そして、「布施の道」が示されます。 この「布施」というのは、施しということで、分かち合う、プレゼントする、共に生きるということで、他者をないがしろにできないということ、決して、略奪、強奪とか、侵略という生き方はできないという道なんですね。 こういう、「縁起」という、万物個々の無限の関係性と、絶対尊厳性ということを踏まえた、「無我の道」、「慈悲の道」「利他の道」「布施の道」を歩むところに、老、病、死など、あらゆる苦難と共に、それを乗り越えて、臨終まで、生きて行ける道があると示されているように思われます。 でも、とても、わかっているつもりでも、なかなかそのようには生きられませんから、浄土真宗では、阿弥陀仏の慈悲に促されつつ、慚愧と共に、生きてゆくのですね。 お釈迦様の遺言 汝、自らをよりどころとせよ、自らをともしびとせよ。 他をよりどころとすることなかれ。 汝、法をよりどころとせよ、法をともしびとせよ。 他をよりどころとすることなかれ。 時は過ぎゆく。 怠りなく勤めよ。 涅槃会の、古老の思い出 昔、涅槃会には、子供たちが、道のほとりに、あちこち、草などを燃やして、火をともしていたそうです。 そして、口々に、「お釈迦様は死なされて、何を釈迦にしょうやら」と唱えていたと聞いています。 ほほえましい習慣だと思いました。 今は、絶えて有りません、100年も前のことでしょうか。 ダーナとは、インドの言葉で、施し「布施」という意味です。 仏教の道は、無我、慈悲、利他、布施ですから、お互いに尊重し、助け合い、共に生きるということで、施しを仏教徒の生き方としています。 昨年度、報正寺ダーナ募金総額は36,796円でした。 小原、1,800円・萩原、1,200円 数舟、二千円・本一、4,196円・本二、6,500円 本三、8千円・本四、12,100円・その他、千円 山県太田組ダーナ募金会計へ・・10,000円 ビルマ難民教育支援へ・・・・ 26,796円 前年度山県太田組ダーナ募金総額は 297,800円 配分は、予備費を加えて 山県太田組内医療機関へ仏教誌施本費・214,500円 芸北福祉会へ・・・・・・・・・・・・150,000円 安芸教区仏婦連盟へ・・・・・・・ 30,000円 火事見舞い・・・・・・・・・・ 30,000円 2022年1月 親鸞聖人御命日法座のご案内
15日(土) 朝9時半・ 16日(日)朝9時半
「親鸞様の御一生から学ぶもの」
住職自修
共に、親鸞様のご一生から、人生と社会の
諸問題を考えさせてもらいましょう。 過年を感謝し、本年もよろしくお願いいたします。 越年雑感 戦争、人権侵害、環境破壊、災難、生活苦、老衰、病気、死、人間不信、罪、しょうがい、不安、孤独等、様々な人生の苦悩、どう、解決したらいいのでしょうね。 神様でも、仏様でも、誰でもいいから、とにかく助けてほしいと、その信仰に、救いを求める人もあると思います。 でも、その苦悩の中にあっても、決して、信仰に救いを求めず、ともかく、その苦悩の中で、とにかく、生きる究極の道、究極の人生の意味を見出して、生きてゆこうというような人もあると思います。 お釈迦様には、神様や、仏様などへの信仰によって、苦悩を解決するということは無かったようですね。 お釈迦様は、ただ、縁起という法則に従って生きるということが、解決の道だったようです。 縁起とは、万物が、無限に関係し合っていて、万物の個々が、絶対的に尊いということでしたから、お釈迦様の人生苦の解決方法は、人生苦の真っただ中にも、とにかく、すべてのものを平等に尊重しょうとする生き方を貫くだけだったと言えると思えます。 親鸞様は、お釈迦様と違って、阿弥陀如来という仏様を信仰されるところに、救いの道を受け入れておられました。 つまり、どんな災難の中にも、阿弥陀様といつも一緒、そして、命終後は、阿弥陀様の浄土に迎えられて往き、すぐに、この苦悩の現実に還ってきて、互いに、尊び合い、慈しみ合い、分かち合う道へと、導き続けるという信仰への安住と、同朋社会実現への実践でした。 私は、この宇宙は、やがて消えてゆくということから、本来、意味や目的は無いと思いつつも、どんな思想や信仰を持とうが、持つまいが、この、お釈迦様、親鸞様から、万物の尊厳と平等不可侵ということを、臨終まで、どんな最悪の状況でも願い続けてゆきたいものだと思っています。 本願寺派門主、総長への要望 2021年12月16日 非戦平和を願う真宗門徒の会会員 広島県 報正寺住職 城山大賢 私は親鸞さまの月御命日に意思表示をします。 仏願に背く、集団的自衛権を認める安全保障関連法への明確な反対声明を教団として早急に出して下さい。 (私の思い) 御同朋の社会実現への実践教学ということを考察します。 教団の過去現在の総体的教学を言い表せば、「如来にお任せ出来て、安心できる教 学」といえましょう。 こういう教学にかかわらず、真実に目覚めて、逆に虚仮 の身と世をいとい、慚愧と共に、真実、即ち慈悲なる方向に自己も社会も促される 教学というものを明確にする必要があると考えます。 「親鸞聖人のみ教えを現実社会の中でいかに発揮するか」について、私は、総理大臣宛、2019年12月以来、項目を削除または追加して、今月も、以下の如く要望しました。 「私は、我が宗祖、親鸞様の月命日に意思表示をします。 私ども、本願寺教団は、御本尊、阿弥陀仏をよりどころとする教団です。 阿弥陀仏の本質は、究極の無我、慈悲、利他、布施です。 ですから、私たちは、この、究極の無我、慈悲、利他、布施にうながされて、慚 愧と共に、命の尊厳、人間の尊厳を侵さない自己と社会の実現を目指します。 それ故に、仏教徒(浄土真宗門徒)として、この命の尊厳、人間の尊厳を侵さ ない社会の実現に向けて、全ての人権尊重、戦争放棄、格差是正、環境保全、福祉充実等に取り組みます。 上記の趣旨のもと、総理大臣におかれましては、次に上げます諸課題 アジア侵略戦争戦死者、慰安婦、徴用工等被害者への誠実謝罪と補償・国家主義、民族主義から解放され、人類の一員、国際人としての自覚と諸外国相互尊重互恵信頼外交・人間性涵養教育の重視・広範な全人的国際的教養取得にかかわる義務教育内容及び制度の改革・戦前からの、国旗(日の丸)、国歌(君が代)の変更と、国旗、国歌強制不執行・憲法九条改悪廃止・安全保障関連法、特定秘密保護法、緊急事態条項憲法規定、共謀罪廃止・自衛隊の軍装解除、内外救援隊改変・日米地位協定変更・日米安保解消・諸国和平条約締結・核兵器禁止条約批准・沖縄、辺野古新基地建設、自衛隊弾薬庫等増強、米軍機購入、防衛費増大、防衛装備移転三原則、自衛隊、海外軍事派遣廃止・独立した憲法裁判所の設置・完全な三権分立・政教分離・首相、閣僚の伊勢神宮や靖国神社公式参拝廃止・政党交付金廃止・小選挙区制から中選挙区完全比例制へ選挙制度改革・外国人の一定期間後の選挙権取得の自由・天皇制、死刑、原発廃止・自然エネルギー変換・輸入食品、医療品、農薬、種子の安全・水及び山林等自然資源の安全確保・食糧自給の確保・廃棄物削減とリサイクル推進・カジノ等遊興事業への公的関与廃止・消費税廃止、累進課税の徹底・男女共同参画社会の推進・しょうがい者差別解消・部落差別解消推進法の具現・精神しょうがい者、長期入院の解放・犯罪者の厳罰化より人間性回復、更生システムの充実・アイヌ他少数民族への人権尊重と誠実な謝罪と権利補償・ハンセン病偏見、差別撤廃・性的少数者の人権尊重・同性婚、夫婦別姓選択自由認定・朝鮮学校への補助復活・外国人労働者、技能実習生への人権尊重・労働者の権利保障とゆとりのある生活保障・ホームレス、生活保護者、無国籍者などの生活保障・出入国在留管理局に長期収容されている外国人への人権的処遇改善・朝鮮民主主義人民共和国による、拉致被害者緊急救済・森友、加計学園、桜を見る会、疑惑解明・1億5千万支援の河井疑惑解明・日本学術会議委員6名否認理由解明・コロナ禍での、医療、生活困窮者対応の十全・狭山事件、袴田事件など冤罪解明のための検察の証拠全面開示・低周波被害、環境保全等に危惧のある、風力発電見直し・ミャンマーの軍事政権徹底批判と民主化支援 ・原発事故汚染水海洋投棄反対・行動の自由懸念の土地規制法撤回・強権的な中国、ロシア、朝鮮民主主義人民共和国、アフガニスタン等への非難・従軍慰安婦、強制連行の記述変更という、教科書介入撤回等々に積極的に取り組まれますことを切望いたします。」 と 聖典学習会のご案内 23日(木) 朝10時〜11時 学習聖典・無量寿経 (現代語版浄土三部経) 住職自修 参加費無用 聖典から人生・社会の諸問題を問うてみましょう。 どうぞ誘って気楽にご参加下さい 無量寿経を学ぶということは、無量寿経から、人生の根本問題や、社会のあるべきありかたを考えるということになります。 さて、無量寿経について、いつも確認します。 このお経の作者は不明です。 匿名にしてあるのだと思えます。 一般には、お釈迦様が説かれたということになっていますが、現代、研究が進んで、およそ、お釈迦様が亡くなって、500年後に創作されたもののようです。 今から、ざっと2千年前になります。 ということは、おしゃか様は、生きておられる時、阿弥陀さんや、その浄土などについて説かれてはいなかったということになります。 ですから、この無量寿経に説かれている、阿弥陀仏や浄土は、経典作者(達)の創作ということになります。 インドのサンスクリット語で書かれたものが原本で、チベット語訳と5通りの漢訳があるようです。 インドの原本に無いものが挿入されたものもあり、漢訳でも、24願経、36願経、48願経と様々です。 それでは、何のために、経典作者(達)は、おしゃか様が説かれなかった、阿弥陀仏や浄土について、お釈迦様の説法として、創作したのかが問題です。 それは、おしゃか様の教えを基に、あらゆる人々を、導くだけでなく、人々の様々な苦しみや、悲しみを救う手立てということであろうと考えられます。 お釈迦様の教えと導きとは では、このお釈迦様の教えと導きとは何だったのでしょうか? これも、いつもご紹介します、縁起の道理という事柄です。 縁起の道理とは、万物個々がすべて無限の縁でつながっていて、それぞれが絶対的に尊い存在であるという道理です。 この道理を踏まえて、自分中心でない、無我・冷酷でない、慈悲・利己でない、利他・略奪でない、布施といった道がお釈迦様の教えと導きと言えます。 経典創作者(達)は、この教えと導きを、あらゆる人々に伝え、導くだけでなく、諸苦悩、絶望などへの救いをもたらすために、阿弥陀仏や往生浄土信仰として、説話表現されたものとうかがいます。 それは、お釈迦様のように、この世の真理とは何か、と道を問うような人々はともかく、多くの人々が、それどころではなく、生まれてからこの方、ともかく、次々と様々な災難が降りかかり、奪われ、いじめられ、差別され、殺されるというような、様々な苦難や不安の中で、誰でもいいから、助けてくれー、とあえいでいる。 さらに、誰も側にいてくれるものがいなくて、独りぼっち、寂しくて、わびしくてたまらない。 誰でもいいから、私の気持ちを聞いてほしい、わかってほしい、抱きしめてほしい、づーっと私の側にいてほしい、という孤独の悲哀。 さらに、自らの犯した罪を痛み、「誰か、私の罪を救ってくれー」と自らしでかした罪への悲嘆。 さらに、自分が、この世から、永遠に消えてゆく、居なくなるという、自らの死への恐怖。 また、死後、いいところなら、行きたいが、悪いところなら行きたくない、何より、永遠の命が欲しいという願望。 さらに、先立った、いとしい者たちはどこに行ったのか、もう、永遠に会えないのか、そんなことには耐えられない。 どうしても会いたい、会わせてほしい、との死後再会への願望。 こういう、多くの人々の、様々な苦悩、願望への、救いと、導きという事の為に、先に述べたように、阿弥陀仏信仰、往生浄土信仰というものが、無名、匿名の経典作者によって表現されたものとうかがうのです。 浄土真宗の「信仰」というもの ここで、この、信仰というものの中身を考えてみましょう。 それは、私たちが、この世に、生を受けて以来、次々に、降りかかってくる、災難の中で、どんなに、私たちが、不安に満ち、孤独で、罪におののき、死が怖く、悲しくて、さみしくて、苦しくとも、 私たちには、目には見えないけれども、阿弥陀如来という、不可思議な、大きな慈悲の仏様がいてくださるのですよ。 この阿弥陀様は、いつでも、どこでも、誰にでも、大きな慈悲で包んでいてくださっています。 私が生まれる前、無限の過去から、無限の未来にわたって、永遠に、そして、この大宇宙を無限に包んでいてくださっているのです。 この大きな大慈悲に包まれているのですから、決して誰も独りぼっちではありません。 私たちが、どんなに淋しい時も、苦しい時も、悲しい時も、この阿弥陀如来様の大慈悲に包まれているのですから、絶対に、独りぼっちではないのです。 ですから、絶対、大丈夫、心配ありません。 この人生が、どんなに最低、最悪の、破綻した状態で、命が終わることがあったとしても、絶対、大丈夫、心配ありません。 この阿弥陀如来様の無限の大慈悲に抱かれて、みんな、阿弥陀如来様の国、極楽浄土に、迎えられてゆくのですから。 そして、この浄土は、この世とは違って、金銀宝でできた素晴らしい世界で、この世のような、略奪とか、いじめ、差別、戦争などは絶対にありません。 さらに、この浄土で、私たちの、醜い心は、きれいに洗われて、阿弥陀様と同じ、慈悲の私、すなわち、仏にさせてもらうのです。 この浄土には、みんな迎えられてゆきます。 ですから、この浄土で、みんなと必ず会えます。 会えないということは決してありません。 そして、この浄土は、行ったきりの世界ではありません。 必ず、必ず、この現実世界に、還ってきます。 なぜなら、この世界に、奪い、いじめ、差別、戦争など、人間の苦悩や悲しみがある限り、この迷いの世界を放っておくことができないからです。 みんなを救い導かなければならないからです。 今度は、決して、死ぬるということは無く、永遠の命を持って、この迷いの世界を、永遠に導き続けるということが、この阿弥陀様の慈悲の中に、約束されてあり、誓われてあるのですから、こういう、不可思議な広大な、阿弥陀様のお慈悲に、すべて打ち任せ、安心しきって、この人生、どんなことがあろうと、それを乗り越えさせてもらいましょう。 そして、阿弥陀様の導きに促されて、歩ませていただきましょう。と、 こういう信仰と思えます。 しかし、こういう、信仰を受け入れられる人もあれば、素直には受け入れられない人もあると思います。 たとえ、信仰は、受け入れられなくても、この、阿弥陀仏や、浄土という表現に、あるべき、真実の人格や、絶対平等、絶対平和という、真実の世界の在り方に目覚めさせられるものがあると、いつも思っています。 無量寿経に、阿弥陀仏や浄土が、どのように表現されているか、それを学ぶことによって、その表現から、仏教の本質を学び、そのことによって、人生の救いと社会のあるべき答えを見出そうと思っています。 この無量寿経の解釈は、去年の8月の終わりごろから、インターネット、ユーチューブや、フェイスブックでも、少しずつ解釈させてもらっています。 「報正寺住職 城山大賢 講話」で検索してみてください。(今は、無量寿経を終え、阿弥陀経も終え、観無量寿経です。) 講話の終わりごろに、語らせてもらっています。 2021年11月 秋法座のご案内 22日(月)朝、9時半~ 住職自修 23日(火)朝、9時半~ 昼、1時~ 報恩講・・・23日(日) 講師、湯来町、大通寺住職・沖 和史殿 お誘いあってお参りくださいませ
報恩講 報恩講は、親鸞様有難うございますという行事です。 それでは、私達は、親鸞様に何を有難うございますというのでしょうね。 考えると、それは、どんなことがあっても、臨終まで、求めて、生きて行ける道を、知らせてもらったということでしょうか。 親鸞様が、仲間、性信さんへのお手紙の中に 「詮じ候ふところは、御身にかぎらず念仏申さんひとびとは、わが御身の料はおぼしめさずとも、朝家の御ため国民のために念仏を申しあはせたまひ候はば、めでたう候ふべし。」というのがあります。 これを訳してみますと 「要するに、あなたに限らず、念仏に生きる者は、自分のことはともかくも、朝廷の為、国民の為に念仏に生きられるなら結構なことです。」 ということになりますがどうでしょうか。 ここで注意しなければならないことがあります。 それは、「朝廷の為」ということです。 朝廷というのは、念仏の仲間4人を死刑にし、親鸞様や師の法然様など8人を流罪にしたほどに、念仏を弾圧した側ですからね。 親鸞様が、自分達を弾圧した朝廷を支援されるわけはありません。 ここは、権力を振るい、横暴支配をしている、間違った朝廷を導く為と読まねばなりませんね。 つまり、親鸞様は、念仏に生きるということは、要するに、自分のことはさておいても、煩悩に汚れ切った政治社会や国民の苦悩を救い導く為に生きることですと言われたようです。 末文には、「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべしとぞ、おぼえ候ふ。 よくよく御案候ふべし。 このほかは別の御はからひあるべしとはおぼえず候ふ。」とあります。 つまり、「世の中が安らかであるように、その為に、仏法が広まるようにと思われるべきと思います。 よくよく考えてください。 この他には、別に、考えるべきものがあるとは思えません。」とあります。 これが親鸞様の念仏の生き方の要と思えます。 親鸞様の信仰の歌、(和讃)の中に 「安楽浄土にいたるひと、五濁悪世にかえりては、釈迦牟尼仏のごとくにて、利益衆生はきわもなし」 というのがあります。 これを訳してみます。 安楽浄土という所は、決して、欲望満足の世界ではありません。 そこは、我欲から解放されて、争いや差別のない、安楽の世界です。 ですから、この浄土に至った人は、決して、そこに安住することはありません。 五つの濁り、つまり、①時代、②考え方、③煩悩、④生きとし生けるもの、⑤命が我欲で濁っている、この、濁りの悪世に還ってきます。 そして、おしゃか様が、王様も、差別された人も、殺人鬼も、知的しょうがい者も誰をも導かれたように、このお釈迦様のように、限りなく、人々を救い導く働きをさせてもらうことになるのです。 どうでしょう。 親鸞様は、阿弥陀様やその浄土を実際に見られたわけではありません。 でも、この和讃は、親鸞様の、阿弥陀仏、往生浄土信仰そのものというものでしょう。 阿弥陀様は、全てを導き、浄土に迎え、仏と成し、今度は、この苦悩の世界に帰り来たらしめて、みんなを永遠に救い導かせて下るということ。 親鸞様は、この阿弥陀様の、不可思議にも、尊いものを、ただ、有難く頂かれたものと思います。 そして、さらに大事なことは、親鸞様の信仰は、この、阿弥陀様にお任せし、お浄土へ迎えられてゆくということを、ただ、単に有難く頂かれただけということではないと思います。 親鸞様には、この阿弥陀様や、浄土に、誰が何と言おうと、ともかく、いわゆる、「真実、まことそのもの」というものがあることを、確かに、うなずかれていたと思えます。 それは、阿弥陀仏や、浄土には、絶対、誰であろうと決して排除するということは無く、たとえ、世界中の誰もが、見放しても、この阿弥陀様だけは、絶対、見放されるということは無く、悪人をこそ救う という、絶対の慈悲の世界だからです。 それ故、親鸞様は、「この阿弥陀仏や浄土の「真実」によって、真実ならざる、自分と、この社会を、痛み、「世をいとうしるし」ということを申されたのだと思います。 ですから、親鸞様の、信仰というものは、阿弥陀仏への絶対帰依というものと、阿弥陀仏や浄土に対する、絶対的な、「真実」へのうなずきという両面があると思えます。 現代の浄土真宗 親鸞様が生涯を閉じられて、758年、科学的にものを考える現代、親鸞様の、「阿弥陀仏や浄土を絶対的に信仰し、お任せして、安心できるという信仰」というものは、中々受け入れがたい時代かと思えます。 こういう、親鸞様の信仰を、素直に受け入れられる人もあれば、素直には、受け入れられない人もあると思います。 人間は、本来、信じるも、信じないも、自由ですから。 たとえ、上記、「阿弥陀仏や浄土を絶対的に信仰し、 お任せして、安心できるという信仰」が持てないとしても この「阿弥陀仏や浄土」と表されたものの中に、絶対的な、「真実、まことそのもの」があると、うなずかされ、真実ならざる、自分と、この社会をいとい、それ故にこそ、真実なる自己と社会の創造に向かって、慚愧と共に、歩んで行ける、道としての浄土真宗ということも、いつも考えます。 2021年10月 聖典学習会のご案内 21日(木) 朝10時〜11時 学習聖典・無量寿経 (現代語版浄土三部経) 住職自修 参加費無用 聖典から人生・社会の諸問題を問うてみましょう。 どうぞ誘って気楽にご参加下さい 無量寿経を学ぶということは、無量寿経から、人生の根本問題や、社会のあるべきありかたを考えるということになります。 さて、無量寿経について、いつも確認します。 このお経の作者は不明です。 匿名にしてあるのだと思えます。 一般には、お釈迦様が説かれたということになっていますが、現代、研究が進んで、およそ、お釈迦様が亡くなって、500年後に創作されたもののようです。 今から、ざっと2千年前になります。 ということは、おしゃか様は、生きておられる時、阿弥陀さんや、その浄土などについて説かれてはいなかったということになります。 ですから、この無量寿経に説かれている、阿弥陀仏や浄土は、経典作者(達)の創作ということになります。 インドのサンスクリット語で書かれたものが原本で、チベット語訳と5通りの漢訳があるようです。 インドの原本に無いものが挿入されたものもあり、漢訳でも、24願経、36願経、48願経と様々です。 それでは、何のために、経典作者(達)は、おしゃか様が説かれなかった、阿弥陀仏や浄土について、お釈迦様の説法として、創作したのかが問題です。 それは、おしゃか様の教えを基に、あらゆる人々を、導くだけでなく、人々の様々な苦しみや、悲しみを救う手立てということであろうと考えられます。 お釈迦様の教えと導きとは では、このお釈迦様の教えと導きとは何だったのでしょうか? これも、いつもご紹介します、縁起の道理という事柄です。 縁起の道理とは、万物個々がすべて無限の縁でつながっていて、それぞれが絶対的に尊い存在であるという道理です。 この道理を踏まえて、自分中心でない、無我・冷酷でない、慈悲・利己でない、利他・略奪でない、布施といった道がお釈迦様の教えと導きと言えます。 経典創作者(達)は、この教えと導きを、あらゆる人々に伝え、導くだけでなく、諸苦悩、絶望などへの救いをもたらすために、阿弥陀仏や往生浄土信仰として、説話表現されたものとうかがいます。 それは、お釈迦様のように、この世の真理とは何か、と道を問うような人々はともかく、多くの人々が、それどころではなく、生まれてからこの方、ともかく、次々と様々な災難が降りかかり、奪われ、いじめられ、差別され、殺されるというような、様々な苦難や不安の中で、誰でもいいから、助けてくれー、とあえいでいる。 さらに、誰も側にいてくれるものがいなくて、独りぼっち、寂しくて、わびしくてたまらない。 誰でもいいから、私の気持ちを聞いてほしい、わかってほしい、抱きしめてほしい、づーっと私の側にいてほしい、という孤独の悲哀。 さらに、自らの犯した罪を痛み、「誰か、私の罪を救ってくれー」と自らしでかした罪への悲嘆。 さらに、自分が、この世から、永遠に消えてゆく、居なくなるという、自らの死への恐怖。 また、死後、いいところなら、行きたいが、悪いところなら行きたくない、何より、永遠の命が欲しいという願望。 さらに、先立った、いとしい者たちはどこに行ったのか、もう、永遠に会えないのか、そんなことには耐えられない。 どうしても会いたい、会わせてほしい、との死後再会への願望。 こういう、多くの人々の、様々な苦悩、願望への、救いと、導きという事の為に、先に述べたように、阿弥陀仏信仰、往生浄土信仰というものが、無名、匿名の経典作者によって表現されたものとうかがうのです。 浄土真宗の「信仰」というもの ここで、この、信仰というものの中身を考えてみましょう。 それは、私たちが、この世に、生を受けて以来、次々に、降りかかってくる、災難の中で、どんなに、私たちが、不安に満ち、孤独で、罪におののき、死が怖く、悲しくて、さみしくて、苦しくとも、 私たちには、目には見えないけれども、阿弥陀如来という、不可思議な、大きな慈悲の仏様がいてくださるのですよ。 この阿弥陀様は、いつでも、どこでも、誰にでも、大きな慈悲で包んでいてくださっています。 私が生まれる前、無限の過去から、無限の未来にわたって、永遠に、そして、この大宇宙を無限に包んでいてくださっているのです。 この大きな大慈悲に包まれているのですから、決して誰も独りぼっちではありません。 私たちが、どんなに淋しい時も、苦しい時も、悲しい時も、この阿弥陀如来様の大慈悲に包まれているのですから、絶対に、独りぼっちではないのです。 ですから、絶対、大丈夫、心配ありません。 この人生が、どんなに最低、最悪の、破綻した状態で、命が終わることがあったとしても、絶対、大丈夫、心配ありません。 この阿弥陀如来様の無限の大慈悲に抱かれて、みんな、阿弥陀如来様の国、極楽浄土に、迎えられてゆくのですから。 そして、この浄土は、この世とは違って、金銀宝でできた素晴らしい世界で、この世のような、略奪とか、いじめ、差別、戦争などは絶対にありません。 さらに、この浄土で、私たちの、醜い心は、きれいに洗われて、阿弥陀様と同じ、慈悲の私、すなわち、仏にさせてもらうのです。 この浄土には、みんな迎えられてゆきます。 ですから、この浄土で、みんなと必ず会えます。 会えないということは決してありません。 そして、この浄土は、行ったきりの世界ではありません。 必ず、必ず、この現実世界に、還ってきます。 なぜなら、この世界に、奪い、いじめ、差別、戦争など、人間の苦悩や悲しみがある限り、この迷いの世界を放っておくことができないからです。 みんなを救い導かなければならないからです。 今度は、決して、死ぬるということは無く、永遠の命を持って、この迷いの世界を、永遠に導き続けるということが、この阿弥陀様の慈悲の中に、約束されてあり、誓われてあるのですから、こういう、不可思議な広大な、阿弥陀様のお慈悲に、すべて打ち任せ、安心しきって、この人生、どんなことがあろうと、それを乗り越えさせてもらいましょう。 そして、阿弥陀様の導きに促されて、歩ませていただきましょう。と、 こういう信仰と思えます。 しかし、こういう、信仰を受け入れられる人もあれば、素直には受け入れられない人もあると思います。 たとえ、受け入れられなくても、この、阿弥陀仏や、浄土と表現されたものの中に、あるべき、真実の人格や、真実の世界の在り方に目覚めさせられるものがあるといつも思っています。 無量寿経に、阿弥陀仏や浄土が、どのように表現されているか、それを学ぶことによって、その表現から、仏教の本質を学び、そのことによって、人生の救いと社会のあるべき答えを見出そうと思っています。 この無量寿経の解釈は、去年の8月の終わりごろから、インターネット、ユーチューブや、フェイスブックでも、少しずつ解釈させてもらっています。 「報正寺住職 城山大賢 講話」で検索してみてください。 講話の終わりごろに、語らせてもらっています。 2021年9月 秋彼岸法座のご案内 18日(土)朝・昼 19日(日) 朝 朝、9時半~ 昼、2時~、 『仏法と人生と社会』 住職自修 9月18日、午後1時15分、2018年から毎年、梵鐘を撞くことにしています。 そのわけを記します。 本願寺教団では、無量寿経に「兵戈無用」と示され、親鸞聖人が「世のなか安穏なれ 仏法ひろまれ」と願われたことをもとに、教団の戦争協力の責任を真摯に慚愧し、非戦・平和の願いを広く発信するために、1981年より毎年、9月18日に、国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑(東京都千代田区)で千鳥ヶ淵全戦没者追悼法要を勤めています。 「千鳥ヶ淵全戦没者追悼法要」では、教団として日本国内外に恒久平和への願いを新たにするため「平和宣言」を行い、さらに「平和の鐘」を撞きます。 各地の寺院でも法要と同時刻にいっせいに鐘を撞き、平和な世への願いを発信しています。 1931年(昭和6年、)9月18日、満州(現在の中国東北部)の奉天(現在の瀋陽市)近郊の柳条湖付近で、日本の所有する南満州鉄道の線路が爆破された事件で、関東軍はこれを中国軍による犯行とでっちあげ、以後、日本の中国侵略戦争が拡大したのでした。 日本の罪ですが、この戦争と一体化した、教団の罪も慚愧し、もう、絶対、決して、このような過ちを侵さないことを決意させてもらいたいと思います。 秋彼岸に思うこと 彼岸花が咲き、実りの秋を迎えます。 彼岸花は、面白いですね。 たいていの植物が、春、芽を出し、やがて葉を茂らして、花を咲かせて、実を結ぶのに、この彼岸花は、夏の間は、地中に潜んでいて、秋彼岸になって、まず、最初に、花芽がグーっと出て、花を咲かせます。 そして、花は、一週間ぐらいで枯れて消えて、あとから、葉っぱが出てきます。 葉っぱは、冬~初夏ごろまで地上に出ていて、その後、消え、夏の間は、地下に潜んでいるのですね。 こういう、変わり者の、彼岸花を思えば、人間にも、変わり者、特異な人もあるものだと認めてゆきたいものと思います。 春の彼岸は、花の咲く彼岸で、秋の彼岸は、実りの彼岸といえます。 イネも、クリもカキも、イチジクも実ってゆきます。 実るということは、柔らかくなり、色づき、香りもよくなり、熟して、他の生き物の命の糧となってゆくのですね。 自らも、種を残して種族保存に生きますが、また、自らの全てを他に与えて、他の命となって生きてゆくのでもありますね。 実るということは、自己を熟させて、他者に自己を与えるという、実に尊いものを教えてくれます。 また、彼岸は、彼の岸、つまり、仏様の国、阿弥陀仏の浄土ということになります。 また、仏の悟りの世界、悟りの境地ということにもなります。 ですから、彼岸の実質とは、慈悲の世界であるということが言えます。 慈悲は、インドの言葉で、マイトリーとカルナーという言葉です。 マイトリーという言葉は、友愛、博愛といわれます。 カルナーという言葉は、呻くという意味です。 ですから、慈悲というのは、すべてのものに、慈しみの心を持って、すべてのものの悲しみや苦しみを他人ごとにできず、自分のこととして、同悲、同苦して呻くということになります。 ですから、慈悲深き人というのは、熟成の人格、すなわち、実った人格ということができます。 花の咲く、春の彼岸には、人格熟成への自覚の開花を思い、秋の彼岸には、柔軟で、香り高い、人格の熟成を思いたいものです。 消えたい、死にたいという心情の克服を考える よく聞く、この、消えたい、死にたいという心情。 人によっては、この絶望感の中で、自ら、命を絶たれる方もあることに、実に、無念な思いを抱きます。 この死にたい、消えたいという、絶望感というものは、人それぞれと思いますから、一概には言えないと思います。 行きづまった、人間関係、人間不信、政治社会不信、重責、劣等感、孤独、貧困、生活苦、心身の重病、重症、不治の病、強迫観念、財産、家族等全喪失、夢、目標、希望の喪失、 大宇宙、全生命、全人類、自分を含め、全存在への不可解と虚無感、総じて、生きる意欲の喪失ということでしょうか。 これら、絶望感というものは、経験したものでなければ絶対、分からないと思います。 私は、幸か、不幸か、こういう、絶望的な心情に陥ったことがありません。 「不幸」というのは、こういう、絶望感に、実際、陥って、そこから、立ち上がることができたという実体験がないからということです。 ですから、私は、どんなことを言っても、この文章でも、私自身の観念でしかないと思っています。 いつもの仮の話ですが、本堂、庫裏が焼け、家族親族が、皆焼け死んで、私が、重症で生き残ったとして、なお、臨終まで、生きていく「意味」や「目的」を喪失せずにおれるかどうかということです。 なってみなければわかりません。 うつ病などになって、病のせいで、発作的に、自死する可能性もないとは言えません。 さて、こういう、絶望感の克服として、神仏や来世などの信仰に入る人もあるでしょう。 また、信仰によらず、自らの思想や、哲学などで、生き方や生きる道を自覚して生きる人もあるでしょう。 それは、各人各様と思います。 いつも思うのは、宗教が信じられようが、信じられまいが、どんな思想を持とうが、持つまいが、生き方も本来、自由で、ただ、刹那的に、快楽を求めて生きるというのも自由、また、野生の暴力むき出しで、世界支配に生きるというのも自由でしょう。 でも、人間性の本質としての、「優しいもの」「暖かいもの」を、何より大事にして生きようとすること。 そういう、「優しい、暖かい」、自分を願い、そういう「優しい、暖かい」、社会を願い、人類の理念である、自由、平等、博愛、平和、人権尊重、格差是正、環境保全といったものの実現に、何があっても、何にもなくても、臨終まで生きてゆこうとすること・・・。 しかし、こういうことを、いつも、思って、生きてはおらず、ただ、何とはなしに、漫然と生きていることを、いつも慚愧しますが、でもこういう願いを持続して、命が果てられたらと思っています。 コロナに思うこと 世界中、コロナの感染がやまず、日本も緊急事態や、蔓延防止の都道府県が増え、困ったことです。 専門家の中には、この2~3年、コロナの災いが続くのではないかといっていますし、ヤレヤレと思います。 もう、この年ですから、もう、死んでもいいのではありますが、一応コロナにかかっても、人にうつしてもいけないので、ワクチンは受けました。 このワクチンは、急いで作って、充分な、検証ができていないというようで、将来、体に異変を起こすかもしれません。 何より、ワクチンの普及不足、検査の不十分、医療崩壊、営業、生活破綻者への対応不十分、緊急事態の中、無理な、オリンピック、パラリンピックの開催など、政府の責任を思います。 コロナが、次々と変異してきているようですし、また、違ったウイルスが出てきて、人類が大量死することが起きるかもしれません。 でも、この宇宙も、はるか先とはいえ、いずれ、消えてゆくというようなことを知るにつけ、たとえコロナで人類消滅するとしても、そういうものとして受け入れるよりほかなさそうです。 また、このコロナであろうと、なんであろうと、いずれ、死んでしまうとして、私らの人生に何が残るかということも考えます。 何らかの社会的な業績が残されれば、いいですが、でもたとえ、何ら業績らしきものが残されなくても、誰かの心に、やさしいもの、暖かいものが少しでも残されたら、そこに、永遠といえるものがあるといえるのではないかと、いつも思っています。 でも、思いはしても、とても、ふるまわれていないことを、いつも慚愧するということの繰り返しではあります。 自民党総裁選、衆議院選挙に思うこと コロナ対策の不備だけでなく、森友、加計学園に見る、公文書改ざんでも、疑惑は晴れていません。 桜を見る会でも、元、河井議員への1億5千万円選挙支援の疑惑も、解明されていません。 日本学術会議の新会員任命拒否問題でも釈明なしです。 沖縄の民意多数の、反対にもかかわらず、辺野古、米軍新基地建設をすすめていること。 全世界、約7割が事実上死刑廃止国で、また、国連からの度々の、死刑廃止条約批准勧告にもかかわらず、受け入れていないこと。 原発廃止世論の多数にもかかわらず、原発維持の姿勢。 ことに、憲法九条を変えて、戦争ができる国づくりへと変えようとしていること。 元、従軍慰安婦問題や、元、戦時、徴用工補償問題他、日本のかつてのアジア、侵略戦争に対する、きちんとした、罪責への反省の希薄。 非正規雇用の増大、現代の奴隷労働ともいわれる、外国人技能実習生など、乏しい労働状況。 食料、自給率の低さ、貧富の格差の増大。 同性婚、夫婦別姓の自由の未決定、男女不平等の現実 等々 諸課題、人類の理念である、自由、平等、博愛、平和、人権尊重、格差の是正、環境保全といったこと に誠実に取り組める政治家であってほしいものです。 それは、総裁であれ、議員であれ、与党、野党にかかわらず、誰であってもと思えます。 2021年8月 盆会法座のご案内 18日(水)朝・ 19日(木)朝 朝、9時半 始 初盆物故者・全戦没者追弔法要 19日(木)朝 『仏法と人生と社会』 住職自修 盆に思うこと 盆は、古来、亡くなった方々をしのぶ行事です。 現実には、先立って行った者とは、もう会うことはありませんから、多くの人が、死後の世界や、そこでの再会を願ってきたものでしょう。 そういう、庶民の願望に応え、そして、真の道へと導くために、阿弥陀仏、往生浄土信仰というものが表現されて来たのであろうと、いつも思います。 いつも、その信仰というものの内容を思います。 それは、 「どんな、ひどい、災難が降りかかって来ようと、どんなに、いじめられ、差別され、奪われ、殺されるようなことがあったとしても、 どんなに孤独でさみしくて、どんなに罪への不安があっても、 どんなに死が怖くても、また、どんなに、先立って行った、いとしいものとは、もう会えないのかと、絶望感に陥っていても、 そして、どんなに、ボロボロで、最低、最悪というような状況で、この人生を終わることになったとしても、とにかく、どんなことがあっても、 絶対大丈夫、心配ない。 私たちには、目には見えないけれども、阿弥陀如来という尊いお慈悲の仏様が、いつでも、どこでも、誰のところにも、私たちが、生まれる前から、 いかなる過去よりも過去から、づーっと、永遠に、大きな慈悲で、慈しみ、育んでいてくださっているのだから。 だから、絶対、大丈夫。心配ない。 みんな、もれなく、この、阿弥陀様の大慈悲に導かれてゆく。 導かれないものはいない。 そして、命終われば、みんな、阿弥陀様の国、すなわち浄土に、迎えられてゆく。 誰だって、迎えられない人はない。 だから、みんな、このお浄土で、必ず会える。 会えないということは無い。 そして、その、お浄土は、金銀など、宝でできた、尊く、美しい世界である。 しかも、みんなが、尊い、仏様にならせてもらう世界である。 つまり、阿弥陀様と同じ、大きな慈悲の私にならせてもらう世界だから、そこには、いじめや、差別や、略奪とか、戦争という、暗闇は、全くない、素晴らしい世界である。 そして、しかも、その、お浄土へは、行ったきりではない。 必ず、この苦悩の多い世界に還ってくる。 なぜなら、お浄土は、きれいな清浄無垢な世界であるから、この世の醜い、悲しみや、苦悩の世界がほっておけないからである。 この世に、戦争やいじめや差別、略奪の苦悩等、あらゆる、悲しみ、苦しみが満ち満ちているから、それを、 救い、導きに来るのである。 そして、もはや、命終わるという事は無く、永遠の命を持って、この世の暗闇、苦悩を救いに還って来るということが、この、阿弥陀様の大慈悲の中に、誓われ、約束されているのである。 だから、絶対、大丈夫。 この阿弥陀様の、お慈悲に、任せきり、安心しきって、この人生の山坂を超えさせていただきましょう。」 というようなものといえるでしょう。 こういう、信仰が、受け入れられる人もあれば、受け入れられない人もあると思います。 でも、たとえ、信仰は受け入れられなくとも、 この阿弥陀様や、お浄土と表されたものに、「尊いもの」は感じられることと思えます。 去る5月通信の続き 去る5月通信の続きが残っているのに気が付き、遅まきながら、追加します。 これは、仏の身にそなわる三十二種類のすぐれた特徴ということについての解説のところです。 以下、続けます。 さらに、仏が、智慧に満ちあふれているというのは、森羅万象、一切のものを、他人ごとにできず、自己と同一に観る知恵に満ちあふれているというのですね。 私等のように、自分と他者とを区別して、利己主義な考えは全くないというのですね。 そして、すべてのものの本性をさとっているというのは、全てのものの本性は、尊いものである、ということを認知しているというのですね。 ということは、全てのものを決して粗末にしないということでしょう。 なんと尊いことでしょう。 そして、教えのかなめをきわめ尽し、というのは、教えの要としての、先にご紹介した、「縁起」の道理から、無我、慈悲、利他、布施といった事柄を極めつくしているということでしょうね。 次に、自由自在な神通力を得て、というのは、自由自在な、超能力(神通力)を得るというのですね。 この神通力というのは、 神足通(- 自由自在に自分の思う場所に思う姿で行き来でき、思いどおりに外界のものを変えることのできる力。飛行や水面歩行、壁歩き、すり抜け等をし得る力。) 天耳通(世界すべての声や音を聞き取り、聞き分けることができる力。) 他心通(- 他人の心の中をすべて読み取る力。) 宿命通(- 自他の過去の出来事や生活、前世をすべて知る力。) 天眼通( 一切の衆生の業による生死を遍知する智慧。一切の衆生の輪廻転生を見る力。) 漏尽通(- 煩悩が尽きて、今生を最後に二度と迷いの世界に生まれないことを知る智慧。生まれ変わることはなくなったと知る力。)とあります。 経典作者は、こういう超能力を保持するということで、他者を救い導くということを表そうとしていると思えます。 次に、すべてを明らかに知ることができる。 というのは、すべてを明らかに知ることができなければ、 やはり、人々を救い導くことができないからだと思われ ます。 今夏、報正寺受け・太田部大会の延期 残念ですが、コロナ故、2024年に延期です。 2021年7月 聖典学習会のご案内 25日(日) 朝10時〜12時 学習聖典・無量寿経 (現代語版浄土三部経) 住職自修 参加費無用 聖典から人生・社会の諸問題を問うてみましょう。 どうぞ誘って気楽にご参加下さい 無量寿経を学ぶということは、無量寿経から、人生の根本問題や、社会のあるべきありかたを考えるということになります。 さて、無量寿経、重要と思い、いつも確認します。 このお経の作者は不明です。 匿名にしてあるのでしょう。 一般には、お釈迦様が説かれたということになっていますが、現代、研究が進んで、およそ、お釈迦様が亡くなって、500年後に創作されたもののようです。 今から、ざっと2千年前になります。 ということは、おしゃか様は、生きておられる時、阿弥陀さんや、その浄土などについて説かれてはいなかったということになります。 ですから、この無量寿経に説かれている、阿弥陀さんやお浄土は、経典作者(達)の創作ということになります。 インドのサンスクリット語で書かれたものが原本で、チベット語訳と5通りの漢訳があるようです。 インドの原本に無いものが挿入されたものもあり、漢訳でも、24願経、36願経、48願経と様々です。 それでは、何のために、経典作者(達)は、おしゃか様が説かれなかった、阿弥陀さんや浄土について、お釈迦様の説法として、創作したのかが問題です。 それは、おしゃか様の教えを基に、あらゆる人々を、真実の道へと導くだけでなく、人々の苦悩を救う手立てと考えられます。 それは、多くの人々の、様々な不安へのおびえ、孤独の悲哀、罪へのおののき、死への恐れ、愛しき者との、死後の再会ということ等、苦悩への、阿弥陀仏と往生浄土信仰によるすくいと、真実の道への導きということとうかがいます。 さて、このお釈迦様の教えと導きとは何だったのでしょうか? これも、いつもご紹介します、縁起の道理という事柄です。 縁起の道理とは、万物個々がすべて無限の縁でつながっていて、それぞれが絶対的に尊い存在であるという道理です。 この道理を踏まえて、自分中心でない、無我・冷酷でない、慈悲・利己でない、利他・略奪でない、布施といった道がお釈迦様の教えと導きと言えます。 経典創作者(達)は、この教えと導きを、あらゆる人々に伝え、導きだけでなく、救いをもたらすために、阿弥陀仏や往生浄土等と、説話表現されたものとうかがいます。 無量寿経には、阿弥陀仏や浄土は、どのように表現されているか、そして、その表現から、仏教の本質を学び、そのことによって、人生と社会の様々な問題の答えを見つけようとしています。 この無量寿経の解釈は、去年の8月の終わりごろから、インターネット、ユーチューブや、フェイスブックでも、少しずつ解釈させてもらっています。 「報正寺住職 城山大賢 講話」で検索してみてください。 講話の終わりごろに、語らせてもらっています。 救われるということ 救われるということは、どういうことでしょうか? それは、人によってさまざまでしょう。 人には、それぞれ、悩みは違うでしょうから、その救われるということもまちまちでしょう。 世間でよく言われる、消えたい、死にたいという心情の中身もみんなそれぞれでしょう。 人によっては、神様、仏様、誰でもいいから、いてくださるのなら、救ってくださいというような願望の人もあると思います。 それは、神仏の存在を、今はまだ信じられないが、すぐにでも、その実在と救いを確信できて、救われたいということでしょうか?
また、人によっては、神仏の存在は、信じられないが、この諸苦悩、絶望等を、どう切り開いてゆくか、その道を獲得したいという人もあろうと思います。 皆さんはどうでしょうか? 人間は、基本的に、どんな宗教も、思想も、信じるのも信じないのも自由ですね。 救われるということ、それは、どんな宗教や、思想を信じようが、信じまいが、ともかく、心が得心しているということではあるでしょうね。 ただ、その心の得心という中身が問題と思います。 お釈迦様ご自身の救い お釈迦様ご自身の救いということを考えてみます。 お釈迦様には、どんな災難にも、神仏や、来世の実在を信じて、それにお任せして救いを感じておられたということは無さそうです。 お釈迦様ご自身の救いとは、35歳の時に、前述の、縁起の道理を自覚され、それを、臨終まで、伝道布教され、共に歩む人があったということだろうと思われます。 息子の、ラゴラや、高弟のシャリホツ、モクレン等が先立っていたという、哀しみの中にも。 親鸞様ご自身の救い 親鸞様ご自身の救いというものを伺います。 親鸞様ご自身の救いには、一つには、阿弥陀仏や、浄土に対する、絶対的な信仰というものと思えます。 それは、念仏弾圧のさ中にも、息子、善鸞の義絶のさ中にも、いつでも、どこでも、阿弥陀様の大悲や、浄土の光に育まれているという、得心でしょうね。 さらに、もう一つ、阿弥陀様や、浄土の大悲に、「究極の真実」といえるものが見出され、そして、真実ならざる、我が身と、我が世が厭われ、万人を朋、同行と尊重してゆく道に、「真実の道」を見出され、同朋と歩めることができたということかと思われます。 私自身の救い 果たして、私自身の救いとは、一体、どういうことになるだろうかと考えます。 絶対の確信というほどのものではないとしても、まあ何とか、臨終まで、願い求める、自分と世の中の実現の方向に、促されて生きてゆける道があるつもり、ということだろうかと思います。 私が、臨終まで願い求める、自分と世の中というのは、要するところ、不可能であることは承知ながら、慚愧と共に、より、やさしい自分と、そういう世の中、つまりは、平和とか、人権とか、徹底して、尊重される社会の創造ということになるかと思っています。 それは、どんな思想や宗教を持とうが、持つまいが、 とも思っています。 私にとっては、75年の人生の今、神仏や、来世などの実体的な実在への信仰というものは、成立しておりません。 ですから、今まで、苦悩に陥った時、神仏に助けを求める心情になったことはいまだかつて一度もありません。 私にとって、阿弥陀仏や、浄土とは、「絶対の慈悲」という、「理念」と、とらえておるわけです。 この「絶対の慈悲という理念」を基に、煩悩にまみれた、自分や、世の中を、慚愧とともに、より良く創造すべく、おぼつかなくも、歩んでゆきたいというものが、何とか成立している、ということが、私自身の救いということかと思っているわけです。 家や、寺が壊れ、家族親族がみな死に、自ら重病になっても、臨終まで、この道をなんとか、歩んでゆこうとする、覚悟はしているつもりではあるわけです。 でも、実際は、そういう、絶望状況になってみなければわかりませんがね。 孫の守あれこれ 4番目の孫は、「葉佑」といい、この前、1歳の誕生を迎えました。 上の歯が、かろうじて4本か、下の歯は2本が見えます。 まだしっかり歩くことはできません。 娘の体調などで、しょっちゅう、私方に来たり、娘のところへ行ったりして、子守をしています。 連れ合いよりも、私になついて、すぐ、私のほうに、手を出して来ます。 離乳食を食べさせたりします。 オムツ替えに、じっとしてくれないので、困ります。 来ればかわいい、しかし、用事ができないので、くたびれます。 今は、離乳食ですが、以前は、ミルクを飲ませながら、私なりに、赤ん坊に、説教していました。 「葉佑の葉は、葉っぱ、佑は助ける。 葉っぱは、炭酸ガスを吸って、酸素を出して、みんなを助ける。 じゃから、葉佑君は、葉っぱのように、みんなを助ける人になってください。」 などと、わけがわからんでも、語り続けて、私自身の自己満足ではあります。 お内仏や、本堂では、阿弥陀様、親鸞様のご絵伝、七高僧、親鸞様、お釈迦様の涅槃図、聖徳太子の前に抱いて参らせて、説法します。 本堂で、遊ばせながら、亡くなられた人の事を思い、私も、この子も、みんな死んでゆくことを思いつつ、子守をしながら、自分流の哲学を思い回らしています。 2021年6月 夏法座のご案内 23日(水) 夜~24日(木)朝、昼 夜、7時半、朝、9時半、昼、2時始め 「仏法から人生、社会の諸問題を考えます」 住職自修 心のふりかえり(少年時代) 私は、小学校の高学年ごろから、「どう生きたらいいのか」ということを考え始めたと思います。 そのころは、ただ「正しく生きる」ということだったと思います。 その当時の辞書の表や、裏に、「正しく」と書いていました。 でも、その、「正しく」ということの中身は、漠然としていて、 今から思えば、その当時の決まりを守るとか、世間一般の道徳的に生きるということだったであろうと思います。 心のふりかえり(青年時代) 中学生ごろからの関心は、人間の存在、生命の存在、宇宙の存在の意味を問い始めたと思います。 天文物理、生物に関心を持ちました。 そして、この私の存在を含め、全宇宙が、すべて消えてゆくとすれば、本来的に、意味も目的も無いというような、虚無的な思いになったと思います。 でも、「正しく生きる」というような思いは無くなってはいなかったと思います。 浄土真宗の法話も聞いていました。 しかし、阿弥陀仏や、浄土の実在については信じられませんでした。 でも、法話を聞いて、私なりに、有り難いと感じ、感動もしていました。 やがて、真宗学を学びましたが、阿弥陀仏や浄土の実在への信仰に対する疑念はずーっとありました。 後に、哲学や、その他の思想、禅宗に関心を持ち、禅寺に飛び込んでもみました。 しかし、悟りという体験は得られませんでした。 寺に帰って、浄土真宗を、私なりに、学び続けていました。 その頃、仏教、浄土真宗の、戦争責任、部落差別など、差別責任ということ、そして、我が身と、我が世を厭うという、親鸞様の世界に心が動きました。 そのことによって、親鸞様の信心とは何か、そして、その信心によって、生きる、人間の在り方、そして、社会の在り方を問うということで、国家、社会、教団も批判するということに重点が置かれてきました。 心のふりかえり(壮年期から、老年期の今) 理論もともかく、実際に、社会運動、平和運動、人権・環境問題、教団改革への取り組みということで、いろんな、運動に、ささやかながら、関与してきています。 この十数年、私なりの、人生観、社会観、仏教観、浄土真宗観というものの、伝道布教の総まとめとして、「生と死を考える」という文章にして、通夜、葬式などで配布し、ホームページの最初にも上げています。 目下のところは、お釈迦様も、親鸞様も、絶対視してただ、従うということはしていません。 お経も、ことに、浄土真宗の根本聖典といわれる、「無量寿経」は、釈尊滅、約、500年後の創作で、しかも、創作者は不明ということでもあるし、漢字で訳された、5通りの訳本も、それぞれ表現が違うようで、インドの原本には無いものが付け加えられているということを知り、お経も絶対視していません。 大変おこがましいことですが、私の75年の、限られた人生経験、乏しい才能、知識でしかありませんが、ただ、自分に正直に、是は是、非は非で学んでいるつもりです。 私の考え方は、基本的に、科学的、実証的、合理的に考えるということでやっています。 もちろん、科学が、すべて絶対だとは思っていません。 科学は、常に探求し続けていますから。 宇宙は、真空の中から、138億年前、ビッグバンという、高熱から始まり、今、2兆からの銀河(一つの銀河には、2千~3千億の星がある)が出来たといいます。 しかし、永遠不滅とは言えないようで、はるか先ですが、10の100乗年先には、この大宇宙が、ブラックホールという、強い重力に飲み込まれ、このブラックホールが蒸発するというのです。 また、こういうことを繰り返しているかもしれないともいうのです。 そういうことで、私らも含め、この大宇宙の全存在は、「非」意味、「非」目的な現象だと思えています。 その、本来的な、「非」意味の存在のままに、私らの100年前後の人生を考えます。 人間は、本来、自由であり、結婚するもしないも、子供をもうけるのも、もうけないのも自由、考え方も、資本主義、社会主義、共産主義、無政府主義だろうと何であろうと自由、宗教を信じるも、信じないも自由と考えます。 生き方では、宗教も思想も、科学も何が本当かわからん、ただ、はっきりしているのは、好きなように、楽に、面白く楽しく生きられたらいいということだ。 そうでないなら、運が悪かったとあきらめるほかしょうがない。 みんな死んでゆく、死なぬ者はいない。 だから、わけのわからぬままに、死んでゆくだけだというのもわかります。 また、いや、わしは、わしの思いに正直に生きる。 しょせんこの世は、闘争だ。 権力を握り、世界の富を奪い、暴力、戦力で世界を制覇する。 敵か味方か、敵なら殺せ、人の命も人権も奪い放題という、動物性むき出しの野望に生きるというのもわからんではありません。 また、いや、人間は、動物性だけでなく、人間性というものを持つ動物だ、やさしさ、温かさというものが、人間性の本質だ。 これを踏まえて、自由、平等、博愛、平和、人権尊重、貧富の格差の是正、環境保全といった、人類の理念を求める自己と世界の創造に向けて、臨終まで生きるという生き方。 こういう、覚悟の確立が、どんな宗教や思想を、信じようが、信じまいが、人間の救い、自覚というものではないかと思えています。 そこに、本来、「非」意味のままにも、尊い、生きる「意味」ということがあるのではないかと思っています。 仏教の救いの道は、縁起という、万物個々の、無限の相関性を踏まえての、無我、慈悲、利他、布施の道と思えます。 浄土真宗の救いの道は、奪われ、殺され、いじめられ、 差別され、孤独で、だれか抱きしめてほしい、罪を救ってほしい、死の恐怖を救ってほしい、死後、死んだものと会わせてほしい、誰か助けてーというような、苦悩を救い、導く信仰と思えます。 それは、大丈夫だよ、目には見えなくても、いつでもどこでも、だれでも、生まれる前から、寂しい時、つらい時、苦しい時、どんなに最低、最悪の状態で命を引き取る時も、私たちを大きな慈悲で抱いて、お浄土という、宝でできた、素晴らしい仏様の世界、戦争もいじめも差別もない、尊い世界に迎えて下る、阿弥陀如来という御仏様がいてくださるから、大丈夫。 みんな、一人ぼっちではないよ。 阿弥陀様の国、お浄土で、みんな最高のやさしさの私、つまり、仏にさせてもらえることを約束していて下っているのが、この阿弥陀様で、そこへみんな迎えられてゆくんだから、みんなそこで、必ず会えるんだよ。 そして、そのお浄土で終わりではなく、今度は、死ぬことのない、永遠の命を持って、この世に帰ってきて、この世の、戦争や、略奪や、いじめや差別で苦悩している人々を永遠に救い導く仏様にさせてもらうことが約束されてあるのだから、大丈夫。 この阿弥陀様の尊いお慈悲に、すべてをお任せして、この苦悩の人生を渡ってゆきましょう。と こういう信仰で、苦悩の人々を救い、導くことが意図されているのが、無量寿経といえるものと思えます。 このようなことを、去年の5月5日から、インターネットのユーチューブで、私なりの、伝道布教として、毎日、約30分、語り続けています。 2021年5月 聖典学習会のご案内 19日(水) 朝10時〜12時 学習聖典・無量寿経 (現代語版浄土三部経) 住職自修 参加費無用 聖典から人生・社会の諸問題を問うてみましょう。 どうぞ誘って気楽にご参加下さい 無量寿経を学ぶということは、無量寿経から、人生の根本問題や、社会のあるべきありかたを考えるということになります。 さて、無量寿経、重要ですから、いつも確認します。 このお経の作者は不明です。 一般には、お釈迦様が説かれたということになっていますが、現代、研究が進んで、およそ、お釈迦様が亡くなって、500年後に創作されたもののようです。 ということは、おしゃか様は、生きておられる時、阿弥陀さんや、その浄土などについて説かれてはいなかったということのようです。 ですから、この無量寿経に説かれている、阿弥陀さんやお浄土は、経典作者(達)の創作ということになります。 インドのサンスクリット語で書かれたものが原本で、チベット語訳と5通りの漢訳があるようです。 インドの原本に無いものが挿入されたものもあり、漢訳でも、24願経、36願経、48願経と様々です。 それでは、何のために、経典作者(達)は、おしゃか様が説きもされなかった、阿弥陀さんやお浄土について創作したのかが問題です。 それは、おしゃか様の教えを基に、あらゆる人々を、真実の道へと導くだけでなく、人々の苦悩を救う手立てだと考えられます。 それは、多くの人々の、様々な不安へのおびえ、孤独の悲哀、罪へのおののき、死への恐れ、愛しき者との、死後の再会ということ等、苦悩への、阿弥陀仏と往生浄土信仰による救済と、真実の道への導きということとうかがいます。 さて、このお釈迦様の教えと導きとは何だったのでしょうか? これも、いつもご紹介します、縁起の道理という事柄です。 縁起の道理とは、万物個々がすべて無限の縁でつながっていて、それぞれが絶対的に尊い存在であるという道理です。 この道理を踏まえて、自分中心でない、無我・冷酷でない、慈悲・利己でない、利他・略奪でない、布施といった道がお釈迦様の教えと導きと言えます。 経典創作者(達)は、この教えと導きを、あらゆる人々に伝え、導きだけでなく、救いをもたらすために、阿弥陀仏や往生浄土などと、説話表現されたものとうかがいます。 無量寿経には、阿弥陀さんやお浄土はどのように表現されているか、そして、その表現から、仏教の本質を学び、そのことによって、人生と社会の様々な問題の答えを見つけようとしています。 前回の学びから (意訳文) 阿難よ、だれでもその国に生れたものは、みな仏の身にそなわる三十二種類のすぐれた特徴を欠けることなくそなえて、智慧に満ちあふれ、すべてのものの本性をさとって教えのかなめをきわめ尽し、自由自在な神通力を得て、すべてを明らかに知ることができる。 おしゃか様が、いとこであり、弟子である、阿難に申されました。 誰でも、その阿弥陀仏の国である、浄土に生まれたものは、みんな、仏の身に備わっている、32種類の優れた特徴をかけることなく備えるのであるというのですね。 この32種類の優れた特徴というのは、インターネットには、 1.足下安平立相(そっかあんぺいりつそう) 足の裏が平ら。 2.足下二輪相(そっかにりんそう) 足裏に千幅輪が描かれている。 3.長指相(ちょうしそう) 手足の指が長い。 4.足跟広平相(そくこんこうへいそう) 足のかかとが広い。 5.手足指縵網相(しゅそくしまんもうそう) 手足の指の間に水掻きがある。 6.手足柔軟相(しゅそくにゅうなんそう) 手足が柔軟で高貴の相を示す。 7.足趺高満相(そくふこうまんそう) 足の甲が高く盛り上がって、亀の甲のようである。 8.伊泥延膝相(いでいえんしつそう) 鹿の膝のように円く、繊かである。 9.正立手摩膝相(しょうりつしゅましつそう) 直立した時、手が膝に届く位長い。 10.陰蔵相(おんぞうそう) 陰部が平常は体内に隠されている。 11.身広長等相(しんこうちょうとうそう) 身長は手を横に広げた長さに等しい。 12.毛上向相(もうじょうこうそう) 全ての毛が上に向かって生えている。 13.一一孔一毛生相(いちいちこういちもうしょうそう) 毛穴には全て一本ずつの毛が生えている。 14.金色相(こんじきそう) 全身が金色に輝いている。 15.丈光相(じょうこうそう) 体の周りに一丈の長さの光が輝いている。 16.細薄皮相(さいはくひそう) 体の皮が薄く、一切の塵も汚れも付いていない。 17.七処隆満相(しちしょりゅうまんそう) 両手、両足、両肩、首筋の肉が円満で、柔軟微妙である。 18.両腋下隆満相(りょうえきかりゅうまんそう) 腋下にも肉が付いていて、凹所を作らない。 19.上身獅子相(じょうしんししそう) 上半身の威容端厳なること獅子のようである。 20.大直身相(だいちょくしんそう) 体は広大で、端直無比である。 21.肩円好相(けんえんごうそう) 両肩が円満で、豊かである。 22.四十歯相(しじゅうしそう) 40本の歯が美しく並び、鮮白で、清潔である。 23.歯斉相(しせいそう) 歯の大きさが一定しており、隙間が無く、離れて見ると一本に見えるように美しい。 24.牙白相(げはくそう) 上下4本の牙は鮮白で、鋭利である。 25.獅子頬相(ししきょうそう) 獅子のように両頬が膨らんでいる。 26.味中得上味相(みちゅうとくじょうみそう) 何を食べても、いつも最上の味である。 27.大舌相(だいぜつそう) 舌が軟薄で、広長で、口より出せば顔全体を覆い、髪の生え際まで届く。しかし、口に入っていても口中に一杯にはならない。 28.梵声相(ぼんじょうそう) 梵天王の5種の声のように美しく、大きく、聞く者を感嘆させる。 29.真青眼相(しんせいがんそう) 眼は青蓮華のように、紺青色である。 30.牛眼睫相(ぎゅうがんしょうそう) 牛王のようまつげが長く美しく、乱れてない。 31.頂髻相(ちょうけいそう) 頭頂の肉が隆起しており、その形が髻のようである。肉髻の事。 32.白毫相(びゃくごうそう) 眉間に白い毛が右旋しており、常に光りを発している。 とあります。 経典作者は、よくも、奇妙にも思えるような、表現をしたものだと思いますが、仏とは、人を救う尊いものとして、このように、超人的に表現したのでしょうね。 (続きは次回にします。) 2021年4月 永代経法座のご案内
10日(土)朝9時半~・昼1時~ 能美町・勝善寺・住職、法林英俊殿 どうぞ、誘い合ってお参りください ] 仏教の「縁起」と生活 仏教の基本的な考え方に、「縁起」があります。 これは、全ての物は、みんな、様々な縁によってつながっているということです。 これは、およそ、138億年前といわれる、宇宙の始まりの、ビッグバンから、星や万物、生命が現れたということから考えましても、万物は、みんなつながっているということは言えますね。 そして、万物、個々は、みんな尊いということを言います。 それは、この世界に、何一つ、全く同じものは無いということでもあり、みんなそれぞれに違っていて、みんな、それぞれに、この世界、宇宙を表現しているということでしょうね。 そういうところから、万物、全てのものが尊いという考え方が出てきます。 そして、どんな命も、どんな人も対等に大事にしょうという考え方も出てきます。 しかし、私たちは、生きる仕組みとして、どうしても、他の命をいただかなければ生きてゆけません。 そこに、生きてゆくということの、他の命への罪ということを思います。 しかし、平生は、なんともなしに、うまいとか、まずいとか言って、申し訳ない次第です。 この罪ということを、実感として、身に沁みておられるのは、実際に、魚や獣の命を取って生活している人々でしょうね。 私も、畑で、ミミズや、虫や、カエルを傷つけますから、その都度、罪を思います。 そこで、できるだけ、無益な殺生はせんようにしょうと思いますし、食べ物も、粗末にせんように、残さないように、腐らせないようにと思いはします。 しかし、冷蔵庫などで、忘れていて、腐らしたりしますから、申し訳ないことです。 それは、食べ物だけでなく、着物など、身の回りの物にしても大事にしたいものです。 経済上のこともありますが、性分としても、仏教徒としての心がけとしても、物を大事にする努力はしています。 50年前に亡くなった、亡父の髭剃りを使っていますし、息子のお古を、お下がりとして着ています。 亡き、義父の着物ももらって着ています。 いくらかは捨てますが、どうももったいないのです。 殺しあう、戦争というものは容認できない そして、食べ物はともかく、人間の命を奪う、戦争ということについては、絶対に、仏教徒としては、容認できるものはないと思っています。 ということは、戦争を肯定する、国王も総理大臣も、そういう国家も政治も、本来、容認することはできないということになります。 ここは大事なことと思います。 いつもの、おしゃか様の言葉を確認します。 「すべてのものは、暴力におびえ、死をおそれ、己が身がいとしい、己が身にひきくらべて、殺してはならない、殺させてはならない」というものです。 この、殊に、「殺させてはならない」ということを大事にしたいと思います。 これは、「戦争させてはならない」ということでもあると思います。 これは、誰であっても、国王、大臣であっても、国家、政治であっても、ということと解釈します。 戦争を企てるのは、国家であり、政治であり、国王、大臣なのですからね。 ですから、戦争を企てる、国家、政治、国王、大臣さえも、仏教徒は容認できない、妥協できないということになります。 無量寿経には、いつも紹介しますように、「仏所遊履、平戈無用」という言葉があります。 これを、私は、「仏の教えの行き届くところには、兵隊も、武器も必要ない」と読みます。 それは、戦争があり、兵隊や、武器があるということは、結局、国王や大臣や諸国民が、仏の教えを受け入れていないということになります。 ここでは、仏の教えといって、仏教としていますが、この「殺すな、殺させるな、戦争するな」ということは、仏教以前に、万人の尊い命の願いといっていいと思います。 ということは、戦争するな、殺すな、殺させるなということは、国王、大臣はじめ戦争を容認する諸国民に対して、みんな、「命の尊い願いを自覚し、そこにゆるぎなく立脚してほしい」ということだと思えます。 ですから、もし、国家、政治、国王、大臣が戦争を容認する限り、仏教徒は、仏教の本来性を踏まえて、決して、それらを容認することはできないということになろうと思います。 過去、仏教徒でありながら、様々な戦争を是認してきたということは、実に、そのまま、仏教の本来性を失ってきたということであったといえると思います。 戦争中、国家からの弾圧を覚悟しながらも、自らの非戦平和の信念を揺るがさず、その戦争に反対して、弾圧を受けた、教団や、宗教者もあったというのに、本願寺教団は戦争に一体化して戦争に協力してきました。 これは実に、仏教の本来性に背いた、まことに恥ずべき、忘れてはならない、づーっと慚愧し続けねばならないことだと思っています。 今、私は、平和への実現の道として、「九条の会、山県」に参画しています。 そして、平和への考え方、道筋を、検討し続けていますので、少し紹介します。 憲法九条は、日本は、絶対に戦争はしない、戦力は保持しない、絶対平和主義の宣言と解釈しています。 しかし、それは甘い、外国から攻められたらどうするかという批判へは、次のように考えています。 他国から攻められる以前に、平素から、攻めようにも攻めることができない国づくりを目指す。 内政・外交において、九条を前面に掲げ、人道に根差した互恵、協調外交を展開し、同時に、「憲法第九条堅持」を国連総会をはじめあらゆる場で宣言し、世界から、「戦争放棄、平和の国」であるとの、絶対の信頼と尊敬を受ける日本国となる。 自衛隊を、国内外「災害・医療救援隊」に改編 等。 2021年3月 聖典学習会のご案内 22日(月) 朝10時〜12時 学習聖典・無量寿経 (現代語版浄土三部経) 住職自修 参加費無用 聖典から人生・社会の諸問題を問うてみましょう。 どうぞ誘って気楽にご参加下さい 無量寿経を学ぶということは、無量寿経から、人生の根本問題や、社会のあるべきありかたを考えるということになります。 さて、無量寿経、重要ですから、いつも確認します。 このお経の作者は不明です。 一般には、お釈迦様が説かれたということになっていますが、現代、研究が進んで、およそ、お釈迦様が亡くなって、500年後に創作されたもののようです。 ということは、おしゃか様は、生きておられる時、阿弥陀さんや、その浄土などについて説かれてはいなかったということのようです。 ですから、この無量寿経に説かれている、阿弥陀さんやお浄土は、経典作者(達)の創作ということになります。 インドのサンスクリット語で書かれたものが原本で、チベット語訳と5通りの漢訳があるようです。 インドの原本に無いものが挿入されたものもあり、漢訳でも、24願経、36願経、48願経と様々です。 それでは、何のために、経典作者(達)は、おしゃか様が説きもされなかった、阿弥陀さんやお浄土について創作したのかが問題です。 それは、おしゃか様の教えを基に、あらゆる人々を、真実の道へと導くだけでなく、人々の苦悩を救う手立てだと考えられます。 それは、多くの人々の、様々な不安へのおびえ、孤独の悲哀、罪へのおののき、死への恐れ、愛しき者との、死後の再会ということ等、苦悩への、阿弥陀仏と往生浄土信仰による救済と、真実の道への導きということとうかがいます。 さて、このお釈迦様の教えと導きとは何だったのでしょうか? これも、いつもご紹介します、縁起の道理という事柄です。 縁起の道理とは、万物個々がすべて無限の縁でつながっていて、それぞれが絶対的に尊い存在であるという道理です。 この道理を踏まえて、自分中心でない、無我・冷酷でない、慈悲・利己でない、利他・略奪でない、布施といった道がお釈迦様の教えと導きと言えます。 経典創作者(達)は、この教えと導きを、あらゆる人々に伝え、導きだけでなく、救いをもたらすために、阿弥陀仏や往生浄土などと、説話表現されたものとうかがいます。 無量寿経には、阿弥陀さんやお浄土はどのように表現されているか、そして、その表現から、仏教の本質を学び、そのことによって、人生と社会の様々な問題の答えを見つけようとしています。 前回の学びから (意訳文) 釈尊が阿難に仰せになった。 「 その国の菩薩たちは、みな一生補処の位に至ることができる。 ただし、その菩薩の願によっては、人々のために尊い誓願の功徳を身にそなえて、その位につかないでひろくすべての人々を救うこともできる。 阿難よ、その国の声聞たちが身から放つ光は一尋であるが、菩薩の放つ光は百由旬を照らす。 中でもふたりの菩薩がもっともすぐれていて、その神々しい光はひろく世界中を照らすのである」 ここで阿難が釈尊にお尋ねした。 「 そのふたりの菩薩は何というお名前なのでしょうか 」 釈尊が仰せになる。 「 ひとりを観世音といい、ひとりを大勢至という。 このふたりの菩薩は、かつてこの娑婆世界で菩薩の修行をし、命を終えた後、無量寿仏の国に生れたのである。 おしゃか様が、いとこであり、弟子である、阿難に申されました。 阿弥陀仏の国の浄土で、成仏を求める菩薩達は、みんな、その一生を終えると、すぐに、仏に成れるという、尊い地位に至ることができる。 とありますが、親鸞様は、浄土では、みんな成仏するものとして、往生、即、成仏させていただくのだと解釈されています。 次に面白いことが表現されています。 ただし、その菩薩たちの中で、願いによっては、自分の成仏ということはさておいても、他の人々を救うということを優先するために、この、せっかくの、尊い、一生補処の位という、位に就かずに、広く、全ての人々を救うこともできるというのです。 これは、まだ成仏という最高の理想の境地にはまだ届いていないが、もう、すでに、成仏できるほどの境地に近づいているのだから、自分の自己完成よりも、苦悩や迷いを深めている人のことが気がかりで、まずその苦悩の人々を救い導きたいという、けなげな菩薩には、それがかなえられるというのですね。 次に、阿難よ、浄土の中の、声聞たち(仏の声を聞いて、道を求める者)が、身から放つ光は一尋(両手幅ぐらい)であるが、菩薩の放つ光は百由旬(約、千キロ前後)を照らす。 中でもふたりの菩薩がもっともすぐれていて、その神々しい光はひろく世界中を照らすのである。と ここで阿難が釈尊にお尋ねした。 「 そのふたりの菩薩は何というお名前なのでしょうか 」 釈尊が仰せになる。 「 ひとりを観世音といい、ひとりを大勢至という。 このふたりの菩薩は、かつてこの娑婆世界で菩薩の修行をし、命を終えた後、無量寿仏の国(浄土)に生れたのである。と 観世音菩薩とは、阿弥陀仏の、「慈悲」を表現しているといい、勢至菩薩とは、阿弥陀仏の、一切を自己とみられる、智慧を表現しているといいます。 経典作者は、阿弥陀仏とか、浄土とか、声聞とか、菩薩とか言った、象徴表現を通して、いわゆる、「真実なる事柄」というものを示さんとしているように思えます。 阿弥陀仏や浄土を仰ぐ、浄土真宗を考える 阿弥陀仏や浄土は、実際には、目には見えないが、決して架空の話などではなく、実際、私たちに働きかけてくださっている、有難い、慈悲の働きとして、信仰し、お任せするというのが、大体の従来の浄土真宗の信仰とか、信心とか言われるものと思います。 ところが、かなりな人が、聞かせてもらえれば、確かにありがたく聞かせてもらえるが、しかし、阿弥陀様や浄土が本当に有るのだろうかと不信に思われる方もあるのではないでしょうか。 ある、篤信なキリスト教徒が、神がいらっしゃるかどうかは自分では確証がつかめないが、でもしかし、最終的には、神がいらっしゃることに私は賭けますといわれたそうですが、それと同じように、阿弥陀様や浄土があることを信じて疑わぬという方もあると思います。 私は、前述のように、阿弥陀様は、おしゃか様が実際に説かれたものではなく、作者不明ですが、おしゃか様滅後、約500年の後に、創作された無量寿経という説話と受け止めておりますから、阿弥陀様も、浄土も実在とはとらえず、無我とか、慈悲とかいった、真実という事柄の象徴的表現として受け止めています。 ですから、阿弥陀様や浄土が本当に有るか、無いかというような信仰に悩むということはありません。 阿弥陀仏や浄土の実在に、信仰が持たれるか、持たれ無いかは、各人各様と思います。 大事なことは、阿弥陀仏や浄土の実在が信じられようと信じられまいと、ともかく前述のごとく、阿弥陀仏や浄土の本質である、無我や慈悲に、真実を知らされ、同時に、自分や、この世の、自己中心や、無慈悲の不実を慚愧せしめられ、それ故にこそ、無我や慈悲に促されて、慚愧とともに、より良い自己や社会の実現に向かって歩ましめられてゆくことと思われます。 風力発電批判 今、Jパワーという会社が、この筒賀の市間、立岩や、吉和、湯来の山頂に、風力発電の風車、36基を立てようとしています。 風車一基の敷地は、山頂を切り崩して、約50メートル四方といいますから、大変な広さです。 風車の高さは、なんと驚きですが、150メートルといい、広島のリーガロイヤルホテルと同じぐらいの高さです。 日本地質学会会員・防災士の越智秀二さんは、去る、1月19日、広島県知事あて、この風力発電事業に、大変厳しい意見を提出されています。 その意見書には、「土砂災害危険地帯全国一の県として、開発災害を危惧され、深刻な土砂災害多発で、取り返しのつかない自然破壊と災害の最悪の事業として、認可されぬよう求める」とあります。 ここの、筒賀断層は、活断層で、いつ大きな地震を起こすかもわからないといい、もし地震が来ると大きな土砂災害が心配されるといいます。 風力は、風が吹かないときは、停電せぬよう、火電などで待機して補わねばならず、地球温暖化の炭酸ガスを減らせないという専門家もいます。 自然景観も損なわれ、騒音、低周波による不眠など健康被害の心配、獣が里へ下りる心配もあり、水源汚染の心配もあり、広範な山を切り崩したら、もう元には戻りませんし、大自然を大事にするため、この風力発電事業は撤回してもらいたいと思っています。 2021年2月 釈尊 涅槃会の中止 最近、コロナ自粛の効果で、コロナ感染者が、日本だけでなく、世界でも縮小気味でよかったと思っています。 しかし、この安芸太田町では、最近、ポツポツと感染者が出ています。 それで、この度は、法座は中止とし、紙面法座としました。 釈尊とは、おしゃか様を尊んだ呼び名です。 お釈迦様は、インドの北、今のネパールに、釈迦族の中の一人として、一般には、紀元前463年4月8日に生まれ、383年、2月15日、80歳で亡くなられたといわれます。 釈尊とは、釈迦族の中の尊い人という意味です。 涅槃会とは、おしゃか様ご命日の法要です。 この通信では、仏暦を使っています。 これは、おしゃか様の亡くなられた年に基づく、仏教徒としての暦です。 今までは、南方仏教諸国が1956年に、おしゃか様亡くなられて2500年式典を行ったことに基づいた暦を用いていました。 これによると、おしゃか様の亡くなられたのは、紀元前、544年になりますので、今年が2565年目ということになります。 去年の2月からは、一般説の仏暦をとることにしましたので、今年は、おしゃか様が亡くなられて、2404年ということになります。 涅槃とは インドの言葉の「ニルヴァーナ」に中国語の漢字をあてたものです。 意味は「吹き消すこと」です。 欲や怒りやねたみなど、一切の煩悩の火を吹き消した最高の境地のことです。 この「涅槃」には2つあります。 「有余涅槃」と「無余涅槃」です。 「余」とは、残余のことで、肉体のことです。 「有余涅槃」とは、肉体のあるままの、最高の境地ということになります。 お釈迦さまは、35歳でこの境地を開かれたといいますが、しかし、肉体がありますので、お腹もすかれたでしょうし、亡くなられたのは、一般には、キノコの食あたりといわれていますが、どうやら、イノシシの肉料理の食あたりで病気になって下痢がついて亡くなられたということですから、やはり苦しかったに違いありません。 空腹や苦痛への煩悩が無くなることはあり得ません。 また、欲や怒りやねたみなど、一切の煩悩の火を吹き消した最高の境地を開かれたといいますが、これは、おしゃか様を超人化しすぎていると思います。 本当は、欲や怒りやねたみなど、一切の煩悩が完全にはなくならないままにも、それを超える、無我、慈悲、利他、布施の道を明らかにされたということでしょう。 お釈迦様の晩年には、おしゃか様一族の、釈迦族滅亡という大事件があったといわれています。 釈迦族の、マハーナーマンという、長老が、大国、コーサラ国のビルリ王を差別し、そのことによって、ビルリ王から怒りを買い、釈迦族は滅亡させられたというのです。 おしゃか様は、やはり、悲しかったに違いないと思います。 しかし、この悲しみを超えて、戦乱や差別のない、平和や平等への伝道布教の道をいよいよ強固にされたことと思います。 「無余涅槃」とは、肉体のない涅槃、つまり、いのちの終わる臨終をもって、完全に煩悩から解放される時を言います。 大般涅槃とも言います。 ですが、生きている時に、仏法に目覚める、「有余涅槃」を得ることが何より肝要です。 親鸞様の、煩悩を断ぜずして涅槃を得るを味わいます。 お釈迦様の求道 おしゃか様は、釈迦族の国、カピラ国の王子として生まれますが、子供の時から、多感で、老、病、死、に悩み、とうとう、29才の時、妻、子供、両親を置いて、城を出て行ったといいます。 老、病、死が無くなることはないですが、それを乗り越える道、真理の道を尋ねられたといいます。 お釈迦様の悟りと道 35才の時、苦行をやめて、瞑想に入り、「万物と自己と一体、同根」というような境地を開かれたといいます。 この境地を基に、「縁起」という考え方があります。 この「縁起」とは、文字通り、全ての万物は、様々な、因縁、関係性によって、起こり、存在し、万物個々は、絶対に、尊い存在であるということです。 そして、この「縁起」を基にして、人間の生き方は、自分中心ではいけない、他者を対等に尊重し、他者と共に生きて行かねばならないという、「無我の道」ということが示されます。 そして、「慈悲という道」が示されます。 この慈悲という言葉は、インドの言葉で、マイトリーとカルナーという言葉から出来ています。 マイトリート言うのは、友愛、博愛と訳されます。 最高の友情ということのようです。 カルナーというのは、他者の苦悩に共感して、他人ごとにできず、共にうめくということのようです。 そして、「利他の道」が示されます。 これは、他を利する、つまり、他者を助け、支え、救うということです。 他者といっても、「縁起」の道理の通り、みんな関係性のある、つながった者同士ということになります。 そして、「布施の道」が示されます。 この「布施」というのは、施しということで、分かち合う、プレゼントする、共に生きるということで、他者をないがしろにできないということ、決して、略奪、強奪とか、侵略という生き方はできないという道なんですね。 こういう、「縁起」という、万物個々の無限の関係性と、絶対尊厳性ということを踏まえた、「無我の道」、「慈悲の道」「利他の道」「布施の道」を歩むところに、老、病、死など、あらゆる苦難の道を切り開いて、臨終まで、生きて行ける道があると示されているように思われます。 でも、とても、わかっているつもりでも、なかなかそのようには生きられませんから、浄土真宗では、慚愧と共に、「縁起」に促されつつ、生きてゆくのですね。 お釈迦様の遺言 汝、自らをよりどころとせよ、自らをともしびとせよ。 他をよりどころとすることなかれ。 汝、法をよりどころとせよ、法をともしびとせよ。 他をよりどころとすることなかれ。 時は過ぎゆく。 怠りなく勤めよ。 ダーナとは、インドの言葉で、施し「布施」という意味です。 仏教の道は、無我、慈悲、利他、布施ですから、お互いに尊重し、助け合い、共に生きるということで、施しを仏教徒の生き方としています。 昨年度、報正寺ダーナ募金総額は28,400円でした。 小原、2,100円・萩原、1,200円 本一、2,100円・本二、6,500円 本三、7,500円・本四、9,000円 山県太田組ダーナ募金会計へ・・10,000円 ビルマ難民教育支援へ・・・・ 18,400円 前年度山県太田組ダーナ募金総額は 319,300円 配分は、予備費を加えて 山県太田組内医療機関へ仏教誌施本費・214,500円 芸北福祉会へ・・・・・・・・・・・・150,000円 安芸教区仏婦連盟へ・・・・・・・ 30,000円 報正寺通信2021年1月 親鸞聖人御命日法座のご案内 15日(金) 朝9時半・ 16日(土)朝9時半 「親鸞様の御一生から学ぶもの」 住職自修 共に、親鸞様のご一生から、人生と社会の 諸問題を考えさせてもらいましょう。 コロナの具合では、中止するかもしれません。
過年・色々ありがとうございました。 本年もよろしくお願いいたします。 越年雑感 コロナ禍の中、いかがお過ごしですか? ウイルスは、他の動物に移って、増殖するのが本性なので、仕方ありませんが、でも、困ったことです。 毎年、年の変わり目に、自分の生き方を確認します。 去年も紹介させてもらいましたが、私のフェイスブックに、自己紹介として掲げている、次の内容です。 「物を公平に分かち合って、お互いに尊重し合い、奪わず、殺さず、差別せずに生きられるなら原始生活でも結構じゃあないか。 つまりは、やさしい私と世の中を願うということ。 今まで、人生や社会の問題を愚考し、仏教はじめ、雑学をしてきて、結局、私の臨終まで、生きてゆく指針というものはこういうものだと思っています。 でも、しょっちゅう、こういう自覚で生きているわけではなく、いつも、わがままな思いで生きていることを恥じます。 そして、こうして、毎月、通信を出したり、去年5月5日から毎日、約30分、ユーチューブなどで、動画講話を披露しているのも、結局、こういうことを皆様と共感出来たら幸いと思っているということです。 この宇宙は、もと、真空の絶対零度からの、インフレーション後、138億年前、ビッグバンから始まり、未来、10の百乗年先、宇宙万物は、強大なブラックホールに飲み込まれ、そのブラックホールは蒸発し、元の絶対零度に向かって冷え切ってゆく等ということを知りますと、万物全て、本来、意味を超えて、「非」意味と思います。
でも、その「非」意味なままにも、前述の、やさしい自分と世界創造への願いにうながされて生きるところに、生きる「意味」を見出したいと思っています。 本願寺派門主、総長への要望 2020年12月16日 私は親鸞さまの月御命日に意思表示をします。 仏願に背く、集団的自衛権を認める安全保障関連法への明確な反対声明を教団として早急に出して下さい。 (私の思い) 御同朋の社会実現への実践教学ということを考察します。 教団の過去現在の総体的教学を言い表せば、「如来にお任せ出来て、安心できる教学」といえましょう。 こういう教学にかかわらず、真実に目覚めて、逆に虚仮の身と世をいとい、慚愧と共に、真実、即ち慈悲なる方向に自己も社会も促される教学というものを明確にする必要があると考えます。 「親鸞聖人のみ教えを現実社会の中でいかに発揮するか」について、私は、総理大臣宛、2019年12月以来、新たに項目を追加して、今月も、以下の如く要望しました。 「私は、我が宗祖、親鸞様の月命日に意思表示をします。 私ども、本願寺教団は、御本尊、阿弥陀仏をよりどころとする教団です。 阿弥陀仏の本質は、究極の無我、慈悲、利他、布施です。 ですから、私たちは、この、究極の無我、慈悲、利他、布施にうながされて、慚愧と共に、命の尊厳、人間の尊厳を侵さない自己と社会の実現を目指します。 それ故に、仏教徒(浄土真宗門徒)として、この命の尊厳、人間の尊厳を侵さない社会の実現に向けて、全ての人権尊重、戦争放棄、格差是正、環境保全、福祉充実等に取り組みます。 上記の趣旨のもと、菅総理大臣におかれましては、次に上げます諸課題 アジア侵略戦争戦死者・慰安婦・徴用工等被害者への誠実謝罪と補償、国家主義・民族主義の偏執から解放され、人類の一員・国際人としての自覚と諸外国相互尊重互恵信頼外交、人間性涵養教育の尊重、広範な全人的国際的教養取得にかかわる義務教育内容及び制度の改革、国旗(日の丸)・国歌(君が代)の変更、国旗・国歌強制不執行、憲法九条改悪廃止、安全保障関連法廃止、特定秘密保護法廃止、緊急事態条項憲法規定廃止、共謀罪廃止、自衛隊・軍装解除・内外救援隊改変、日米地位協定見直し、日米安保解消、核兵器禁止条約批准、沖縄・辺野古新基地建設廃止、沖縄・自衛隊弾薬庫等増強廃止、米軍機購入・防衛費増大廃止、防衛装備移転三原則廃止、自衛隊・中東海域への調査研究派遣廃止、独立した憲法裁判所の設置、完全な三権分立、政教分離、首相・閣僚の伊勢神宮や靖国神社公式参拝廃止、政党交付金廃止、小選挙区制から中選挙区完全比例制へ選挙制度改革、外国人の一定期間後の選挙権取得の自由、天皇制廃止、死刑廃止、原発廃止~自然エネルギー変換、輸入食品・医療品・農薬・種子の安全、水及び山林等自然資源の安全確保、食糧自給の確保、廃棄物削減とリサイクル推進、カジノ等遊興事業への公的関与廃止、消費税廃止、累進課税の徹底、男女共同参画社会の推進、しょうがい者差別解消、部落差別解消推進法の具現、犯罪者への厳罰化より人間性回復・更生システムの充実、アイヌ他少数民族への人権尊重と誠実な謝罪と権利補償、ハンセン病偏見・差別撤廃、性的少数者の人権尊重、同性婚の認定、夫婦別姓選択自由認定、朝鮮学校への補助復活、外国人労働者・技能実習生への人権尊重、残業等労働時間見直し他労働者の権利保障とゆとりのある生活保障、ホームレス・生活保護者・無国籍者などの生活保障、出入国在留管理局に長期収容されている外国人への人権的処遇改善、森友・加計学園・桜を見る会・カジノ賄賂疑惑解明、国家の検察支配懸念の検察庁法改正廃案、河井疑惑解明、日本学術会議委員6名否認理由解明、コロナの終息・生活困窮者への国庫補償の十全、狭山事件、袴田事件など冤罪解明のための検察の証拠全面開示、低周波被害、環境保全等に危惧のある、風力発電見直し等々に積極的に取り組まれますことを切望いたします。」と 報正寺通信2020年12月 聖典学習会のご案内 15日(火) 朝10時〜1時間(おにぎり会の中) 学習聖典・無量寿経 (現代語版浄土三部経) 住職自修 参加費無用 聖典から人生・社会の諸問題を問うてみましょう。 どうぞ誘って気楽にご参加下さい 無量寿経とは何でしょう。 重要ですから、いつも確認します。 このお経の作者は不明です。 一般には、お釈迦様が説かれたということになっていますが、現代、研究が進んで、およそ、お釈迦様が亡くなって、500年後に創作されたもののようです。 ということは、おしゃか様は、生きておられる時、阿弥陀さんや、その浄土などについて説かれてはいなかったということです。 ですから、この無量寿経に説かれている、阿弥陀さんやお浄土は、経典作者(達)の創作です。 インドのサンスクリット語で書かれたものが原本で、チベット語訳と5通りの漢訳があるようです。 インドの原本に無いものが挿入されたものもあり、漢訳でも、24願経、36願経、48願経と様々です。 それでは、何のために、経典作者(達)は、おしゃか様が説きもされなかった、阿弥陀さんやお浄土について創作したのかが問題です。 それは、おしゃか様の教えを基に、あらゆる人々を、真実の道へと導くだけでなく、人々の悩みを救う手立てだと考えられます。 それは、多くの人々の、様々な不安へのおびえ、孤独の嘆き、罪へのおののき、死への恐れ、愛しき者との、死後の再会ということ等、苦悩への、阿弥陀仏と往生浄土信仰による救済と、真実の道への導きということとうかがいます。 さて、このお釈迦様の教えと導きとは何だったのでしょうか? これも、いつもご紹介します、縁起の道理という事柄です。 縁起の道理とは、万物個々がすべて無限の縁でつながっていて、それぞれが絶対的に尊い存在であるという道理です。 この道理を踏まえて、自分中心でない、無我・冷酷でない、慈悲・利己でない、利他・略奪でない、布施といった道がお釈迦様の教えと導きと言えます。 この教えを、経典創作者(達)は、あらゆる人々に伝え、救いと導きをもたらすために、阿弥陀仏や浄土と物語的、象徴的に表現されたものとうかがいます。 無量寿経には、阿弥陀さんやお浄土はどのように表現されているか、そして、その表現から、仏教の本質を学び、そのことによって、人生と社会の様々な問題の答えを見つけようとするのがこの聖典学習です。 前回の学びから (意訳文) そもそも人として生れることは難しく、仏のお出ましになる世に生まれることもまた難しい。 その中で信心の智慧を得ることはさらに難しい。 もし教えを聞くことができたなら、努め励んでさとりを求めるがよい。 だからさとりを求める心を起すがよい。 み、教えを聞くがよい。 人々を救うであろう 」 と。 そもそも、私らが、この世に生まれて来るといっても、人間以外の、他の生き物に生まれて来るという可能性は大きくても、人間という生き物に生まれて来ることは難しいということを言っています。 多分、経典作者は、こういう表現で、「道を求める、精神的な動物である人間は、他の沢山な生き物の中では、実に稀な存在であり、せっかく人間として生まれたのだから、単に、我欲の享楽にふけるだけの人生ではなく、道を求める人生を歩もうではありませんかということを示唆しているように思えます。 そして、無我や慈悲の道を究めた、仏のいる世に生まれるということも、また、難しいといっていますが、これも、ただ、我欲だけにとらわれ、無自覚に一生を終わりがちな中に、仏の教えに遭うということはむつかしいことだということを言っているように思われます。 そして、仏の教えに遭ってはいても、信心の智慧を得ることはさらに難しいといっています。 信心の智慧とは、仏や仏の世界の、究極の無我や慈悲に、真実を目覚め、同時に、自分や、この世の、自己中心や、無慈悲の不実を慚愧せしめられ、それ故にこそ、無我や慈悲に促されて、より良い自己や社会の実現に向かって歩ましめられてゆく智慧のことですが、この智慧を得ることは、仏の教えに遭ってはいても、さらに難しいといわれています。 そして、もし、教えを聞いて、この信心の智慧が開かれたなら、努め励んで、無我や慈悲の究極である、さとりを求めることがよろしいといわれます。 そして、だから、仏の崇高な境地である、さとりを求 める心を起すがよいと申されるとあります。 るまず進んで、教えを聞くがよいと申されます。 く迷いの人々を救うであろう と、申されるとあります。 経典創作者達は、こういう表現を通して、万人が、どんなひどい状況であっても、真実の道を求めて、それを体得して、歩んでゆけば、世界中のみんなが救われるということを示しているとうかがえます。 阿弥陀仏や浄土を仰ぐ、浄土真宗を考える 阿弥陀仏や浄土は、実際には、目には見えないが、決して架空の話などではなく、実際、私たちに働きかけてくださっている、有難い、慈悲の働きとして、信仰し、お任せするというのが、大体の従来の浄土真宗の信仰とか、信心とか言われるものと思います。 ところが、かなりな人が、聞かせてもらえれば、確かにありがたく聞かせてもらえるが、しかし、お任せするということになると、しっくりこないという人があるのではないかと想像します。 というのは、本当に、阿弥陀仏や浄土の実在が確かだと信じられたら、お任せするということもわかるが、どうも、その実在を信じるということが難しいから、阿弥陀様にお任せするということも難しいということではないかと思うのです。 しかし、阿弥陀様がおられるかどうかを問い詰めれば、きりがないと思えます。 ある、篤信なキリスト教徒が、神がいらっしゃるかどうかは自分では確証がつかめないが、でもしかし、最終的には、神がいらっしゃることに私は賭けますといわれたそうですが、それと同じように、阿弥陀様にお任せする信仰を持たれる方もあると思います。 私は、前述のように、阿弥陀様は、おしゃか様が実際に説かれたものではなく、作者不明ですが、おしゃか様滅後、約500年の後に、創作された無量寿経という説話と受け止めておりますから、阿弥陀様も、浄土も実在とはとらえず、無我とか、慈悲とかいった理念の象徴的表現として受け止めています。 ですから、阿弥陀様や浄土が本当に有るか、無いかというような信仰に悩むということはありません。 阿弥陀仏や浄土の実在に、信仰が持たれるか、持たれ無いかは、各人各様で、自由と思います。 大事なことは、阿弥陀仏や浄土の実在が信じられようと信じられまいと、ともかく前述のごとく、信心とは、阿弥陀仏や浄土の本質である、無我や慈悲に、真実を知らされ、同時に、自分や、この世の、自己中心や、無慈悲の不実を慚愧せしめられ、それ故にこそ、無我や慈悲に促されて、慚愧とともに、より良い自己や社会の実現に向かって歩ましめられてゆくことと思われます。 報正寺通信2020年11月 秋法座のご案内 21日(土)夜、7時半~ 住職自修 22日(日)朝、9時半~ 昼、1時~ 報恩講・・・22日(日) 講師、広島市、法光寺住職・築田哲雄殿 お誘いあってお参りくださいませ
報恩講によせて 報恩講は、親鸞様有難うございますという行事です。 それでは、私達は、親鸞様に何をありがとうございますというのでしょうね。 それは、どんなことがあっても、臨終まで、生きて行ける、確かな道を、知らせてもらったということでしょう。 親鸞様が、同朋、性信さんへのお手紙の中に 「詮じ候ふところは、御身にかぎらず念仏申さんひとびとは、わが御身の料はおぼしめさずとも、朝家の御ため国民のために念仏を申しあはせたまひ候はば、めでたう候ふべし。」というのがあります。 これを訳してみますと 「要するに、あなたに限らず、念仏に生きる人々は、自分のことはともかくも、朝廷のため、国民のために念仏に生きられるなら結構なことです。」ということになります。 ここで注意しなければならないことがあります。 「朝廷の為」ということです。 朝廷は、念仏の仲間4人を死刑にし、親鸞様や師の法然様など8人を流罪にしたほどに、念仏を弾圧した側ですからね。 親鸞様が、自分たちを弾圧した朝廷を支援されるわけはありません。 ここは、権力によって横暴支配をしている間違った朝廷を導くためと読まねばなりません。 つまり、親鸞様は、念仏に生きるということは、要するに、自分のことはさておいても、煩悩に汚れ切った政治社会や国民の苦悩を救い導くために生きることですと言われたようです。 末文には、「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべしとぞ、おぼえ候ふ。 よくよく御案候ふべし。 このほかは別の御はからひあるべしとはおぼえず候ふ。」とあります。 つまり、「世の中が安らかであるように、その為に、仏法が広まるようにと思われるべきと思います。 よくよく考えてください。この他になすべきものがあるとは思えません。」とあります。 これが親鸞様の念仏の生き方の要と思えます。 親鸞様の和讃の中に 「安楽浄土にいたるひと、五濁悪世にかえりては、釈迦牟尼仏のごとくにて、利益衆生はきわもなし」 というのがあります。 これを訳してみます。 安楽浄土という所は、御馳走食べて楽チンという所ではありませんね。 煩悩から解放され、争いや差別のない、安楽の浄土に至った人は、そこに安住することはありません。 五つの濁り、つまり、①時代と、②考え方と、③煩悩と、④生きとし生けるものと⑤命の濁りといわれるこの悪世に還ってきます。 そして、おしゃか様が、王様も、差別された人も、殺人鬼も、知的しょうがい者も誰をも導かれたように、そのお釈迦様のように人々を救い導くことに限りない働きをさせてもらうことになるのです。 どうでしょうか。 親鸞様は、阿弥陀様やその浄土を実際に見られたわけではありません。 また、浄土から還って来たぞと言って、みんなを導いている人を見られたわけでもありません。 この和讃は、親鸞様の、まことということへの味わいですね。 阿弥陀様は、みんなを導いて、浄土に迎え、仏と成さしめて、今度は、この迷いの世界に帰り来たらしめて、みんなを永遠に救い導かせて下るという、阿弥陀様の限りない慈悲というまことを、まこととして受け止められた上での味わいですね。 真実というまことの事柄とはそういうことでしょう。 まことの世界にただ安住しているだけでは、まこととは言えませんね。 まこととは、まことに生きられない世界を悲しみ、慈しみ、他人ごとならず、自分の事として、まことに同化させるべく、どこまでも永遠に働き続けるということですね。 親鸞様は、念仏弾圧の後鳥羽上皇等権力者等への「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」の道に永遠です。 私達も、この親鸞様のように、まことに目覚めた、救われた人生なら、命終わっても、みんなを救い導く道に永遠であるということを味わいたいものです。 ご家庭でも、この親鸞様の道を確かめる、報恩講を大事にしましょう。 最近、この問題を、度々、ユーチューブで語りつつ、考え続けています。 私は、こういう、死にたいという、絶望に陥ったことのない、ある意味、不運な人間です。 なぜなら、絶望からよみがえった体験者こそ、説得力があるからと思うからです。 でも、お釈迦さんや、親鸞さんには、死にたいというような、絶望に陥られたことはなかったようですね。 お釈迦さんは、悟りを開く前、親鸞さんは、信心開発の前、どんなに苦悩しても、絶望で、死にたいということはなく、一途に、真実の道を求め続けられました。 お釈迦さんが悟りを開かれて後には、ダイバという悪者に殺されそうになったり、晩年には、お釈迦さん一族は、ルリ王という悪王によって、ほとんど全滅させられたことも起きました。 又、一人息子の、ラゴラや、高弟の、モクレン、シャリホツは、お釈迦さんより先に亡くなりました。 そして、80歳の時、下痢による衰弱の中、「自らと法をよりどころとせよ」と訴えて亡くなりました。 瀕死の中にも、ただ、ひたすら、伝道布教の意思は消えることはありませんでした。 親鸞さんも、13回の朝廷、幕府による念仏弾圧、晩年の長男勘当、火災、夫婦別居の苦難の中、上記のごとく、世の中安穏なれ、仏法広まれの願いで、決して、絶望ということなく、90歳の念仏の息を終えられました。 自死願望の多い、コロナ禍の中、救いを考えます。 報正寺通信2020年10月 聖典学習会のご案内 31日(土) 朝 10時〜1時間(おにぎり会の中) 学習聖典・無量寿経 (現代語版浄土三部経) 住職自修 参加費無用 聖典から人生・社会の諸問題を問うてみましょう。 無量寿経とは何でしょう。 重要ですから、いつも確認します。 このお経の作者は不明です。 一般には、お釈迦様が説かれたということになっていますが、現代、研究が進んで、およそ、お釈迦様が亡くなって、500年後に創作されたもののようです。 ということは、おしゃか様は、生きておられる時、阿弥陀さんや、その浄土などについて説かれてはいなかったということです。 ですから、この無量寿経に説かれている、阿弥陀さんやお浄土は、経典作者(達)の創作です。 インドのサンスクリット語で書かれたものが原本で、漢訳されたものが5通りあります。 インドの原本に無いものが挿入されたものもあり、漢訳でも、24願経、36願経、48願経と様々です。 それでは、何のために、経典作者(達)は、おしゃか様が説きもされなかった、阿弥陀さんやお浄土について創作したのかが問題です。 それは、おしゃか様の教えを基に、あらゆる人々を救い導く手立てだと考えられます。 それは、多くの人々が、様々な不安へのおびえ、孤独の嘆き、罪へのおののき、死への恐れ、愛しき者との、死後の再会ということへの、阿弥陀仏と往生浄土信仰による救済と、真実の道への導きということとうかがいます。 このお釈迦様の教えとは何だったのでしょうか? これも、いつもご紹介します、縁起の道理という事柄です。 縁起の道理とは、万物個々がすべて無限の縁でつながっていて、それぞれが絶対的に尊い存在であるという道理です。 この道理を踏まえて、自分中心でない、無我・冷酷でない、慈悲・利己でない、利他・略奪でない、布施といった道がお釈迦様の教えと言えます。 この教えを、経典創作者(達)は、あらゆる人々に伝え、救いと導きをもたらすために、阿弥陀仏や浄土と物語的、象徴的に表現されたものとうかがいます。 無量寿経には、阿弥陀さんやお浄土はどのように表現されているか、そして、その表現から、仏教の本質を学び、そのことによって、人生と社会の様々な問題の答えを見つけるのがこの聖典学習です。 前回の学びから (意訳文) そして数限りない如来に仕えるため、神通力によりさまざまな国に往き、如来を敬い、喜びを得て、無量寿仏の国に帰るのである。 もし人が功徳を積んでいなければ、この教えを聞くことはできない。 清らかに戒を守ったものこそ正しい教えを聞くことができる。 以前に仏を仰ぎ見たものは、無量寿仏の本願を信じ、 うやうやしく教えを尊び、仰せのままに修行をして喜びが満ちあふれるに至る。 おごり高ぶり、誤った考えを持ち、なまけ心のある人々は、この教えを信じることができない。 過去世に仏がたを仰ぎ見たものは、喜んでこの教えを聞くことができる。 声聞や菩薩でさえも、仏の心を知りきわめることはできない。 まるで生れながらに目が見えない人が、人を導こうとするようなものである。 これは、全世界の諸菩薩が阿弥陀さんの国であるお浄土に往き、阿弥陀さんを供養するという内容です。 菩薩というのは、仏という、無我の智恵や慈悲の完成である仏を目指すものです。 以下、解説してみます。 如来というのは、仏の別名です。 如とは、一如とか真如とか言って、万物と一体の智恵と慈悲の世界です。 絶対平等と平和の世界といってもいいでしょう。 来とは来るということです。 ですから、如来とは、絶対平和、平等の如の世界から、差別と戦争のこの私とこの世界に来て限りなく導き続けている仏ということです。 数限りない如来というのは、そんなにたくさんな如来が実在しているということではないはずです。 経典作者が、そんな数限りない如来を見ることができる超能力を保持しているとは考えられませんから。 この表現は、経典作者が、先の、万物と一体の智恵と慈悲の世界とは、古今東西、永遠不変の真実ということ、つまり、真実はどこにもあるということを示したものとうかがいます。 次に、如来に仕えるとは、この如来の本質の、智恵と慈悲に従って生きるということでしょう。 神通力というのは、すべてを見聞きするというような超能力ということです。 これは、人を救おうという慈悲の象徴表現と受け止めます。 様々な国に行きというのは、全世界に行くということでしょう。 如来を敬うというのは、万物と一体の智恵や慈悲の仏を尊重するということでしょう。 喜びを得るということも、自他共に、この智恵と慈悲の道に目覚め、それを生きることへの喜びということでしょう。 無量寿仏の国に帰るというのは、無量寿仏の国とは、浄土のことですから、智恵と慈悲の究極、絶対平等と平和という、帰るべき原点に帰るということでしょう。 次は、功徳を積む、つまりは、人が、この智恵や慈悲を真実と見聞きすることのできる、素養を積み重ねていなければ、いくら、教えを見聞きしても、心に響かず聞こえないということでしょう。 次は、戒を守る、つまりは、智恵と慈悲の真実に促されて、自分とこの社会の戦争や差別の不実を慚愧し、それ故に、平和で平等な、より良き自己と社会の創造に向けて実践しょうとする人こそが、教えの真実にうなずくことができている、すなわち、教えが聞こえているということでしょう。 次は、仏を仰ぎ見たものとありますが、これは、実際に仏を目で見たものということではないでしょう。 これは、万物と一体の智恵と慈悲の人格として、象徴的にあらわされた仏に、真実をうなずけたものはということでしょう。 この人は、阿弥陀仏の一切を救うという本願を信じる、すなわち真実にうなずけ、丁重に教えを尊び、教えのままに実践して、心に喜びが満ち溢れると言います。 次は、おごり高ぶり、誤った考えを持ち、なまけ心を慚愧もなく当然とする人々は、当然、そのままが、この教えを真実とうなずける、すなわち信じることができていないということでしょう。 次は、今までに、仏を仰ぎ見たもの、すなわち、これも、仏を実際にこの目で見たというのではなく、先のごとく、万物と一体の智恵と慈悲の人格として、象徴的にあらわされた仏に、真実をうなずけたものは、喜んでこの教えを聞くことができるということでしょう。 次に、声聞が出てきます。 この声聞とは、仏の教えを聞いて道を求めるものをいいます。 ここは、仏は完全、究極の智恵と慈悲の世界だから、そこに到達しない声聞や菩薩は、まだ仏の境地は計り知れないというのでしょう。 次は、経典作者の目の不自由な人への配慮不足、差別表現で残念です。 ここは、仏以外は、人を導くことは出来ないとのたとえに、目の不自由な人を用いていますが、本来なら、赤子は大人を導けない等とすべきと考えます。 報正寺通信2020年9月
秋彼岸法座のご案内 18日(金)昼・夜 19日(土) 朝 昼、2時、夜、7時半、朝、9時半始 仏法と人生と社会』 住職自修 9月18日、午後1時15分、一昨年から毎年、梵鐘を撞くことにしています。 そのわけを記します。 本願寺教団では、無量寿経に「兵戈無用」と示され、親鸞聖人が「世のなか安穏なれ 仏法ひろまれ」と願われたことをもとに、教団の戦争協力の責任を真摯に慚愧し、非戦・平和の願いを広く発信するために、1981年より毎年、9月18日に、国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑(東京都千代田区)で千鳥ヶ淵全戦没者追悼法要を勤めています。 「千鳥ヶ淵全戦没者追悼法要」では、教団として日本国内外に恒久平和への願いを新たにするため「平和宣言」を行い、さらに「平和の鐘」を撞きます。 各地の寺院でも法要と同時刻にいっせいに鐘を撞き、平和な世への願いを発信しています。 1931年(昭和6年、)9月18日、満州(現在の中国東北部)の奉天(現在の瀋陽市)近郊の柳条湖付近で、日本の所有する南満州鉄道の線路が爆破された事件で、関東軍はこれを中国軍による犯行とでっちあげ、以後、日本の中国侵略戦争が拡大したのでした。 ペアレントトレーニング体験会のお知らせ 日時 9月21日(祝日)午前10時~12時 会場 報正寺本堂 講師 (宮原浩智/精神保健福祉士,スクールカウンセラー,スクールソーシャルワーカー、真宗門徒) (講師 宮原浩智さんからのメッセージ) ペアレントトレーニングは子育ての方法について練習するプログラムです。 簡単に言うと「しつけ」の方法を学ぶことですが,「しつけ」というと,どこか暴力的な印象がもたれます。 ペアレントトレーニングは,良いコミュニケーションを学ぶことを中心に,肯定的で効果の長続きする「しつけ」の方法を系統的に学ぶことができます。 わざわざ学ぶほどのことはないというご意見の方もいらっしゃいます。 しかし子育ての環境が大きく変化し,「ワンオペ育児」という言葉があるように,子育てに関わる人が少なくなっている現代においては,少しばかり効率的で長続きする方法を学ぶ意味は大きいと思います。 現在,子育て中の若い方々も,それを見守っておられる年配の方々も体験していただけますよう,ご案内申し上げます。 (参加費ご無用) 予告、来年、太田部大会は報正寺が会場です。 来年、8月28日(土)夜~30日(月)朝 約20年に一度回ってくる、大きな行事です。 講師 東京都・万行寺住職、東京仏教学院講師、 アーユス仏教国際協力ネットワーク理事 本多静芳先生 (アーユスの理念) すべてのものは、互いに関係し支え合っているという仏教の縁起の法に則り、智慧と慈悲の精神に基づき、あらゆる生命(いのち)に目を向け、不当な支配や抑圧、差別、紛争などに苦しむ世界の人々の現実を直視し、その原因を人間の精神および社会構造の両面から究明し、個人や民族の相互理解に基づく平和な社会の実現をめざす。 (定款より) 門信徒の皆様には、準備、お世話など、何かとお願いしなくてはなりません。 その節は、どうかよろしくお願いいたします。 ただ、コロナで中止にならぬことを念じます。 ユーチューブ動画で、無量寿経講話を 去る5月5日から、思い立って、ユーチューブ動画での講話発信を始めています。 毎朝約30分の講話です。 去る、8月23日、阿弥陀仏の本願、48願を、1日、Ⅰ願ずつ考究し、それを終えました。 今度は何を学んで考えて行こうかと思いました。 そこで、そうだ、無量寿経こそが、浄土教の基本的な経典であるから、これを、じっくり考究してみようと思い立ちました。 今は、無量寿経を、最初から少しずつ考究しています。 これも、本願寺の意訳聖典を教材にしています。 それも、講話の終わりごろでの考究です。 もっと、時間をとればいいのですが、ほとんどの講話の中身が、私なりの、宇宙観、生命観、人間観、人生観、社会観、仏教観、浄土真宗観の確認になっています。 これらの考え方を基にした、無量寿経考察です。 聖書の批判的研究 インターネットで見ると、キリスト教の聖書でも、研究の仕方に、「高等批判」というものがあります。 これは、文学分析の一分野で、文書の起源の批判的調査というものだそうです。 これは、聖書は、神意であり、一字一句、絶対的に信仰するというようなものではなく、作者は誰かと批判的、成立史的に学ぶもののようです。 見ますと、旧約聖書のエステル記、マカバイ記などは、無名の著作者となっています。 イザヤ書では、3人の主要な著作者「歴史的イザヤ」による創作文書とあります。 新約聖書でも、マルコ伝、マタイ伝でも無名の著作者とあります。 ヨハネによる福音書でも、無名の著作者の創作した最後の福音書で、史的イエスを反映していない、複数人による作とあります。 無量寿経の批判的研究 無量寿経でも、仏教学者の中村元先生は、「浄土教・浄土経典は部派仏教がいちおう確立したのちに出現したものとし、一四〇年頃かそれ以前には、『無量寿経』・『阿弥陀経』が漢訳された」と論じています。 信楽峻麿先生は、「この阿弥陀仏思想が、いつごろ、どのようにして成立したかについては、それを解明する客観的な資料がとぼしく、種々の問題が残るところである。 しかし、現在にいたる研究成果によれば、この阿弥陀仏思想は、大乗仏教興起の初頭、一世紀のころに成立したものと考えられ、またその成立事情については、多くの異説が存在するが、それらを整理すると、インド以外の外来思想に基づくとする説、インドのヴエーダ神話に基づくとする説、仏教内の神話に基づくとする説、および釈尊観の展開に基づくとする説がある。 その中でも最も妥当な見解としては、インド内外の諸思想の影響を認めつつも、基本的には、釈尊観の展開によるとする説であろう。 すなわち、原始仏教以来の釈尊観の発展や、法蔵菩薩説話における仏伝の投影などからすれば、この阿弥陀仏思想は、基本的には、大乗仏教における菩薩思想の深化の中で、釈尊観の展開として、生成、発展してきたものと理解されるのである。」と論じています。 藤田宏達先生は、「原始仏教とは、一般に釈尊時代より部派に分裂までの仏教を指すが、この時代には、阿弥陀仏や極楽浄土の観念、あるいはその浄土に往生するという思想は存在しなかった。」と論じています。 このように、無量寿経を、批判的に考究しています。 報正寺通信2020年8月 盆会法座のご案内 19日(水)朝・夜 20日(木)朝 朝、9時半 夜、7時半始 初盆物故者・全戦没者追弔法要・20日(木)朝 『仏法と人生と社会』 住職自修 盆と言えば、墓参りというように、亡くなった人や先祖に思いをはせる行事になっています。 ところで、死者に霊魂というようなものが有るのか、無いのか、また、あの世という死後の世界が実在するのか、そうで無いのか、それは分かりません。 私には未だ信じられませんが。 でも、信じようが、信じまいが、それは、個人の自由ということでしょう。 ところで、浄土真宗では、盆を、歓喜会と呼ぶことがあります。 これは、先立てるものとの喜びの集いということになります。 これは、尊い道に目覚めさせられてよかったねと、先立てる者も、この世に残れるものも、共に喜び合うということになります。 尊い道、それは、阿弥陀様や、お浄土とあらわされた、無我への道、慈悲への道、利他への道、布施への道ということになるでしょうね。 でも、もちろん、実際には、そのようには中々生きられませんから、それは、慚愧と共にということになるでしょう。 恥じながら、反省しながら、なお、優しさへの道、共に支え合う道、助け合う道、尊び合う道、分かち合う道を、ということになるでしょうね。 先立てる者は、この道を歩んできてねと導き、残れる私たちは、はい、この道を歩んで行かせてもらいますと応えさせてもらうということでしょうね。 盆は、先立てる者も、残れるものも、共に、この道に導かれてよかったねと喜び合う集いということになるでしょう。 このように、お盆を考えます。 ユーチューブで語っていること 去る5月5日から、毎日、ほぼ毎朝、約30分、フェイスブックやツイッターに上げています。 これは、私自身の人生観、社会観、仏教、浄土真宗理解の確認です。 茶道や華道の稽古のように、同じようなことの繰り返しの中で、道を習得するようなつもりです。 人間誰しも、問うものではと思いますが、 どこから来て、どこへ行くのか? 何のために生まれてきたのか? 私の存在の意味は? 一度限りの人生、どう生きればいいのか? この大宇宙、大自然の存在の意味は? この無数の様々な生き物の存在の意味は? 人類が誕生した意味は? などと尋ね、自分なりの考え方、物の見方を確認しているのです。 一般に、科学では、この宇宙は、約一三八億年前、微細な一点の、ビッグバンという大爆発から始まったといいます。 初めての原子が誕生したのは、約、38万年後、 そして、星や銀河が誕生したのは、約、1億年~10億年後といいます。 太陽や地球が誕生したのは、約、92億年後、生命が誕生したのは、約、98億年後で、今から約40億年前のことです。 そして、様々に進化し、恐竜も現れましたが、今から約、6500万年前、大隕石の衝突といいますが、生物の約七〇%が消滅し、恐竜も滅びたようです。 そして、今から約、700万年前、類人猿から、猿人、原人、旧人、そして我々、現生人類が現れたたといいます。 今、白人、黒人、黄色人種といいますが、しかし、姿形は違っても、みな同じ遺伝子で、元々、私たちはアフリカが故郷のようです。 今まで二〇種類以上の人類が現れたようですが、我々現生人類以外はみんな絶滅しました。 これから、太陽は、約、20億年後、膨張し、地球を飲みこむ位になり、海は蒸発するといいますから、ほぼ地球の生命は絶滅でしょう。 太陽は今後、約50億年後、白色矮星となって一生を終えるといいます。 いや、太陽だけでなく、この大宇宙も終わるようです。 約、一〇の一〇〇乗年後、大宇宙は巨大なブラックホールになり、このブラックホールも蒸発して、光のない、暗い、冷え切った宇宙になるのではともいいます。 一体、こういう宇宙に、意味はあるのでしょうか? ある意志を持った創造の神がいるのでしょうか? それは、私には中々信じられませんが、この宇宙、生命の生滅は、まだ完全には解明できていなくとも、大宇宙、自然の法則のなせる現象とは思えます。 そういう意味で、この大宇宙、大自然、全生命、人間の存在も本来、「非」意味と思えます。 しかし、本来、「非」意味ながら、意味を考えれば、我々生命は、種属の永続という本能に突き動かされているので、人類永続ということに、私たち人類の存在の意味ということが言えるでしょう。 しかし、どう生きようと、自由です。 さらに、人類は大脳が発達した精神的動物として、知性、理性、人間性において、理想を求める動物と言えると思います。 それは、人類の理念として、国連や日本の憲法の精神としての、自由、平等、博愛、平和、人権といったものを求める動物と言えるでしょう、 この理念を、自己実現に於いても、また社会創造に於いても、願い求めるところに、人間としての生きる意味ということが言えるかと思います。 しかし、人によっては、こんな理想どころか、ともかく、自分の欲望の、わがまま放題、他者を無視、蹂躙し、他者の全てを奪い尽くし、ともかく、権力、財力、暴力、武力で、世界の覇者となろうとすることに血道を上げる人もあろうと思います。 元来、生き方は全く自由でしょうから。 しかし、こういうような人々にこそ、何とかして、少しでも、人類の理念に目覚めてもらい、自己変革してもらうべく、はたらきかけ続けられる私でありたいものと思います。 こういう理念を願い求める私が成立するなら、宗教を信じようが、信じまいが、社会主義や共産主義であろうと、自由主義であろうと、無政府主義であろうと、かまわないのではないかと思えます。 仏教は、縁起の道理を言います。 縁起とは、全て、万物が、無限の宇宙空間、時間の中で、関係しあっていて、個々、絶対尊厳なるものであるという考え方です。 そこから自己中心でない、無我という考え方、そして、他者への友愛、博愛と、他者の苦悩へのうめきという、慈悲の考え方、そして、利他、さらには、布施といった、略奪、侵略しない考え方が導き出されます。 これは、人類の理念の、自由、平等、博愛、平和、人権といった考え方につながると思います。 そして、人には、様々な不安や孤独、罪の報いへのおびえ、死の恐怖、いとしい人への再会の切望など、救いへの願望があると思えます。 そういう人々への救いと共に、導きをもたらすために創作された教典として、無量寿経を考えます。 この無量寿経には阿弥陀仏や浄土のことが説かれています。 しかし、この阿弥陀仏や浄土について、生前、お釈迦様は、説かれてはいなかったようなのです。 教典成立の学問が進んで、これは、お釈迦様滅後、およそ五〇〇年、経典作者は不明ですが、創作されたもののようです。 しかし、この阿弥陀仏や浄土を従来通り、信仰できる人も、そうでない人も、重要なことは、阿弥陀仏や浄土の本質である、無我とか慈悲に通じる、人類の理念の、自由、平等、博愛、平和、人権を自己と社会に実現しょうとする自覚の成立ということであろうと、そういうことをユーチューブで発信し、確認し続けています。 報正寺通信2020年7月 聖典学習会のご案内 27日(月) 朝10時〜1時間(おにぎり会の中) 住職自修 参加費無用 聖典から人生・社会の諸問題を問うてみましょう。どうぞ誘って気楽にご参加下さい 無量寿経とは何でしょう。 重要ですから、再確認します。 このお経の作者は不明です。 一般には、お釈迦様が説かれたということになっていますが、現代、研究が進んで、およそ、お釈迦様が亡くなって、500年後に創作されたもののようです。 ということは、おしゃか様は、生きておられる時、阿弥陀さんや、その浄土などについて説かれてはいなかったということです。 ですから、この無量寿経に説かれている、阿弥陀さんやお浄土は、経典作者(達)の創作です。 それでは、何のために、経典作者(達)は、おしゃか様が説きもされなかった、阿弥陀さんやお浄土について創作したのかが問題です。 それは、おしゃか様の教えを基に、あらゆる人々を救い導く手立てだと考えられます。 このお釈迦様の教えとは何だったのでしょうか? これも、いつもご紹介します、縁起の道理という事柄です。 縁起の道理とは、万物個々がすべて無限の縁でつながっていて、それぞれが絶対的に尊い存在であるという道理です。 この道理を踏まえて、自分中心でない、無我・冷酷でない、慈悲・利己でない、利他・略奪でない、布施といった道がお釈迦様の教えと言えます。 この教えを、経典創作者(達)は、あらゆる人々に伝え、救いと導きをもたらすために、阿弥陀仏や浄土と象徴的に表現されたものとうかがいます。 無量寿経には、阿弥陀さんやお浄土はどのように表現されているか、そして、その表現から、仏教の本質を学び、そのことによって、人生と社会の様々な問題の答えを見つけるのがこの聖典学習です。 これは、全世界の諸菩薩が阿弥陀さんの国であるお浄土に往き、阿弥陀さんを供養するという内容です。 菩薩というのは、仏という、無我の知恵や慈悲の完成である仏を目指すものです。 以下、解説してみます。 この菩薩達に対して、阿弥陀仏が、雷のような大音声で、しかも、優しい徳のある声をもって説法されるというのです。 阿弥陀仏の徳は、全ての者を、どうしても、救い導こうとする、情熱と優しさということでしょう。 これら、菩薩は、仏という、無我の知恵や慈悲の完成である仏を目指すものですから、その志を激励して、この菩薩たちは、すでに成仏へのレールに乗っているのだから、間違いなく、成仏できると約束されたというのですね。 阿弥陀仏が、これら菩薩の願いを全て、ちゃんと把握しているということも、これら菩薩の願いである、成仏という真実の自己実現と、一切衆生の救済という利他の精神を称賛されているということでしょう。 菩薩たちの願いである、清らかな国を作りたいということは、自他ともに成仏して、戦争や、差別などのない、慈しみに満ちた、平等で平和な国を作りたいということであり、その高い志の実現に、阿弥陀仏は、太鼓判を押されたというのですね。 さらに、阿弥陀仏は、これら菩薩たちは、みんなこの世は、無常で、映りゆくものであり、夢、幻、あるいは、こだまのように、実体無く消えゆくものであると自覚しながらも、自己と世界の完成というような崇高な願いを成満して、必ず、きよらかな国を作ることが出来ると保証されていますね。 さらに、言葉を重ねて、これら菩薩たちは、すべては、稲妻や幻のようであると知りながらも、自利利他の菩薩の道をきわめ尽し、さまざまな功徳を積んで、必ず仏になることができると確証を与えておられます。 また、さらに、これら菩薩たちは、すべての存在、その本性は、様々な縁によって生じ、縁によって消滅するという、空・無我であると見とおしながらも、ひたすら清らかな国を求めて、必ず清らかな国をつくることができると認定されています。 このような表現を通して、経典創作者「達」は、真実という事柄に基づく人格として、阿弥陀仏、諸菩薩とあらわし、清らかな国として、仏国浄土と表現して、私たちに真実ということを自覚せしめようとされたものとうかがいます。 私は、経典作者は、阿弥陀仏や菩薩という、慈悲の人格を表現して、人間のなるべき、慈悲なる人格像を示していると受け止めます。 この、慈悲の仏、菩薩を鏡とすると、慈悲には程遠い自分中心でしかない、私が照らし出され、慚愧させられます。 また、この永遠に、すべてを慈しみ続ける、慈悲の浄土という表現に、あるべき、慈悲なる社会像が示されてあることがうかがえます。 この慈悲の浄土を鏡とすると、慈悲には程遠い、自己中心で闘争的、差別的な家庭、親族、民族、集団、組織、国家、社会が照らし出され慚愧させられます。 みんな、コロナにかかりたくない、コロナにかかっていたら、他人にうつしたくないというのは、自然な感情でしょう。 それには、みんな努力したいし、努力しなければならないと思います。 しかし、どんなに努力していても、うつるときにはうつるものでしょう。 今まで、ペストや、天然痘、コレラなどで沢山な人が死んでゆきました。 これから、どんな毒の強いウイルスが出てくるかわかりません。 人類のほとんどが死滅するときが来るかもしれません。 将来、太陽は膨張して地球を飲み込むぐらいになるといいますから、地球の生命はほとんど絶滅するでしょう。 本来、「非」意味な存在ながら、「意味」を見出すとすれば、先の、「慈悲」にうながされる、自己と世界の創造に見いだされませんか? 「この秋は、作か不作かしらねども、この日の業の田草取るなり」 「雨も嵐もあるであろ、照る日、曇る日それぞれに、生きる道をば恵まれて、心晴れ晴れ生きて行く(詠人不知) 報正寺通信2020年6月 夏法座のご案内 20日(土)朝・昼 21日(日)朝 朝9時半 昼2時始め 『いろんな人生・社会問題を 住職・坊守・副住職 法蔵、自修 インターネットに動画講話を上げています {ユーチューブ・フェイスブック・ツイッター} 思いついて、去る5月5日から、毎日、インターネットに講話を上げております。 この通信は、文章で伝える伝道ですが、これは、音声動画で伝えるものです。 文章を読むより、話を聞く方が楽かもしれません。 私自身の頭の中、心の中を探って、自分なりの人生観、世界観、仏教、真宗理解の披瀝です。 自己確認でもあり、聞いてくださる方に少しでも参考になってくだされば幸いと思っています。 横着で、あまり準備もせず、ぶっつけ本番のようなことで、ほぼ30分をめどに語っています。 言い間違い、表現のまずさなどがあればお詫びします。 インターネット上で消されぬ限り、私が死んでも、残ることでしょう。 毎日の講話は、私の遺言となります。 時には夜の時もありますが、ほぼ毎朝の語りで、私自身の命の洗顔です。 私の生きる姿勢の自己確認になっています。 よろしければどうぞ。 聞く人なしの一人語りはむつかしいものです。 いつまで続くかわかりません。 今のところ、毎日の日課として、自分に課しています。 三日坊主で終わるかと思いましたが、何とか、1月以上続いています。 はじめは意気込んで恥ずかしくも、いい気になっている自分がいました。 今も、無いことはないと思いますが、気恥ずかしさはあります。 しばらくしてから、「分かったようなつもりで、話をしているが、本当に、本当にわかっているのか?」との問いが沸き起こってきました。 今まで、得意になっていた自分に霧がかかったようになりました。 そして、「わしが、ほんまに語りたいのは何なのか」と自問し、1時間ばかりもパソコンの前で心の中を探って、思いめぐらすことが今もあります。 そのように、自分を点検することがいやおうなしに続いています。 そして、そのおかげか、爾来、私自身、いつものガサツな自分から、神妙に思える自分になれています。 これは、私の母を1998年に見送った時の心境とかなり近いものです。 この事は、私のホームページの「生と死を考える」に上げております。 「母に死なれて、あーほんとに、一期一会、人と人との出会いに、出来る限り真心を尽くさねばならないということをしみじみ感じたものでしたが、7日後には、はや忘れてしまっている凡夫でした。」と 当時、母に死なれて、あー、申し訳なかった。 もう何も話し合えない、何もしてあげられないという後悔から、「あー、生きておる間の事じゃなあ、死んでしまえばもう何も出来ん、わしらもお互い、いつ死ぬかわからん、そう思えば、今、ガサツな対応ばかりしていて、死に別れると、絶対後悔が残る。 ならば、今、生きておる時、今、今を大事に、心深く相対しておかねばならんぞ」というような思いに、かなり本気で神妙に思ったことがありました。 その心境に近いものです。 こういう心のリズムを、母の死以来、22年ぶりに回復したように思います。 これは、理屈だけの世界ではありませんでした。 今までは、理屈で、「阿弥陀仏の無限に広く、無限に深い平等の大慈悲から、小慈小悲も無い、この自分とこの世の中を慚愧せしめられ、それ故にこそ、この大慈悲にうながされて、よりよき自分とよりよき社会の実現に向かって歩ましめられる道」というように、いつも書いたり、語ったりしていました。 しかし、それは、頭だけでわかったつもりになっていただけのことで、具体的に、家庭生活、社会生活の上での私の態度に、そのように現れるほどにまでなっていないものでした。 でも、今、それほど変わったといえるようなものではありませんが、何とか、かろうじて、このリズムが保持できています。 いつまで、続きますことやら、また元のガサツな自分に逆戻りするかもしれません。 逆戻りしないよう、自分の為にも、毎朝の講話を続けさせてもらおうと思っています。 これは、私なりの、仏教、真宗理解による、社会問題に対する首相あての要望表明です。 2020年5月16日 私は、我が宗祖、親鸞様の月命日に意思表示をします。 私ども、本願寺教団は、御本尊、阿弥陀仏をよりどころとする教団です。 阿弥陀仏の本質は、究極の無我、慈悲、利他、布施です。 ですから、私たちは、この、究極の無我、慈悲、利他、布施にうながされて、慚愧と共に、命の尊厳、人間の尊厳を侵さない自己と社会の実現を目指します。 それ故に、仏教徒(浄土真宗門徒)として、この命の尊厳、人間の尊厳を侵さない社会の実現に向けて、全ての人権尊重、戦争放棄、格差是正、環境保全、福祉充実等に取り組みます。 安倍総理大臣におかれましては、上記の趣旨のもとに、次に上げます諸課題 アジア侵略戦争戦死者・慰安婦・徴用工等被害者への誠実謝罪と補償、国家主義・民族主義の偏執から解放され、人類の一員・国際人としての自覚と諸外国相互尊重互恵信頼外交、人間性涵養教育の尊重、広範な全人的国際的教養取得にかかわる義務教育内容及び制度の改革、国旗(日の丸)・国歌(君が代)の変更、国旗・国歌強制不執行、憲法九条改悪廃止、安全保障関連法廃止、特定秘密保護法廃止、緊急事態条項憲法規定廃止、共謀罪廃止、自衛隊・軍装解除・内外救援隊改変、日米地位協定見直し、日米安保解消、核兵器禁止条約批准、沖縄・辺野古新基地建設廃止、宮古島自衛隊弾薬庫建設廃止、イージスアショア配備廃止、米軍機購入、防衛費増大廃止、防衛装備移転三原則廃止、自衛隊・中東海域への調査研究派遣廃止、独立した憲法裁判所の設置、完全な三権分立、政教分離、首相・閣僚の伊勢神宮や靖国神社公式参拝廃止、政党交付金廃止、小選挙区制から中選挙区完全比例制へ選挙制度改革、外国人の一定期間後の選挙権取得の自由、天皇制廃止、死刑廃止、原発廃止から自然エネルギー変換、輸入食品・医療品・農薬・種子の安全、水及び山林等自然資源の安全確保、食糧自給の確保、廃棄物削減とリサイクル推進、カジノ等遊興事業への公的関与廃止、消費税廃止、累進課税の徹底、男女共同参画社会の推進、しょうがい者福祉充実・人権尊重、犯罪者への厳罰化より人間性回復・更生システムの充実、アイヌ他少数民族への人権尊重と誠実な謝罪と補償、ハンセン病偏見・差別撤廃、性的少数者の人権尊重、同性婚の認定、夫婦別姓選択自由認定、朝鮮学校への補助復活、外国人労働者・技能実習生への人権尊重、残業等労働時間見直し他労働者の権利保障とゆとりのある生活保障、ホームレス・生活保護者・無国籍者などの生活保障、出入国在留管理局に長期収容されている外国人への人権的処遇改善、新型コロナウイルスへの・検査・調査の徹底・生活困窮への国庫補償の十全、森友・加計学園・桜を見る会・カジノ賄賂疑惑への完全解明、国家の検察支配懸念の検察庁法改正廃案、等々に積極的に取り組まれますことを切望いたします。 合掌 非戦平和を願う真宗門徒の会会員 広島県 報正寺住職 城山大賢 報正寺通信2020年5月 5日から連日、Facebook・YouTubeに講話を上げています。 画像での講話です。 今回も、紙面での聖典学習とします。 コロナ禍の中、よろしければこの寺報で、仏教を学んでくだされば幸いです。 この紙面への疑問、質問にかかわらず、どんなことでもお聞きされたいこと、話してみたいことがありませば、どうぞご遠慮なく申してください。 おうかがいもさせてもらいますし、おいでくださっても結構です。 この時節ですから、お互いの感染予防のため、マスク使用や、適当な間隔をあけての対話をしなければと思っています。 手紙や電話でもお受け致します。 いったい、お経とは何なんだと思われていることでしょう。 大事なことですから、繰り返します。 とにかく、このお経の作者は不明です。 一般には、お釈迦様が説かれたということになっていますが、現代、研究が進んで、大体お釈迦様が亡くなっておよそ500年ごろに創られたもののようです。 さらにびっくりされるでしょうが、おしゃか様は、生きておられる時、阿弥陀さんや、その浄土などについて説かれてはいなかったということです。 ですから、この無量寿経に説かれている、阿弥陀さんやお浄土は、経典作者(達)が、創作したものです。 それでは、何のために、経典作者(達)は、おしゃか様が説きもされなかった、阿弥陀さんやお浄土について創作したのかが問題です。 それは、おしゃか様の教えを伝える手立てに、阿弥陀さんやお浄土と創作表現したものと考えられます。 では、このお釈迦様の教えとは何だったのでしょうか? これも、いつもご紹介します、自分中心でない、無我・冷酷でない、慈悲・利己でない、利他・略奪でない、布施といった事柄と言えます。 この事柄を読者に感得させるために、経典創作者(達)は阿弥陀仏や浄土と象徴的に表現されたものとうかがうのです。 無量寿経には、阿弥陀さんやお浄土はどのように表現されているか、そして、その表現から、仏教の本質を学び、そのことによって、人生と社会の様々な問題の答えを見つけようとするのがこの聖典学習です。 (意訳文) そして数限りない如来に仕えるため、神通力によりさまざまな国に往き、如来を敬い、喜びを得て、無量寿仏の国に帰るのである。 これは、全世界の諸菩薩が阿弥陀さんの国であるお浄土に往き、阿弥陀さんを供養するという物語です。 菩薩というのは、仏という、無我の智慧や慈悲の完成である仏を目指すものです。 以下、解説してみます。 阿弥陀仏の浄土にやってきた、この全世界の諸菩薩は、 数限りない如来(仏)に仕え学ぶために、神足通という、欲するところに自由に現れることが出来る超能力によって様々な仏の国に往き、仏を敬い、真実に目覚めた喜びを得て、阿弥陀仏の国に帰ってくるのである。 もし、人が、ひたすらに真実を求めるというような功徳を積むことが全く無く、ただ、安易に、自分のわがまま、欲望のみに生きているようなことでは、この仏菩薩の教えを聞いても、頭を素通りするだけで、いのちに深く感得するというような聞き方は出来ない。 真実を求め、真実に目覚めたものこそが、少しでも清らかに自らを戒めようと、自ら戒めを守ることが出来、正しい教えを正しい教えと納得して聞くことが出来るのである。 今までに、仏を真実なるものとして仏を仰ぐことが出来たものは、阿弥陀仏の、一切衆生をもれなく仏にするという本願を、まさしく、真実なるものとうなずくこと、即ち信じることが出来、うやうやしく阿弥陀仏の教えを尊び、阿弥陀仏の大慈悲への促しのままに道を歩んで、喜びが満ち溢れるに至ります。 先に述べたように、ひたすらに真実を求めるというような功徳を積むことが全く無く、ただ、安易に、自分のわがまま、欲望のみに生き、おごり高ぶり、誤った考えを持ち、なまけ心のままでは、この人々は、この教えの真実に目覚めた、即ち、信じたということはできない。 この教えの真実に目覚めた、即ち信じたということは、今まで、ひたすらに真実を求めるというような功徳を積むことが全く無く、ただ、安易に、自分のわがまま、欲望のみに生き、おごり高ぶり、誤った考えを持ち、なまけ心であったことへの慚愧が生じているはずだからである。 過去において、たとえ一度であっても、この仏の真実に目覚めることのできたものは、それゆえ、自然に、喜んでこの教えを聞くことができる。 私は、経典作者は、阿弥陀仏や菩薩という、慈悲の人格を表現して、人間のなるべき、慈悲なる人格像を示していると受け止めます。 この、慈悲の仏、菩薩を鏡とすると、慈悲には程遠いわがままでしかない、私が照らし出され、慚愧させられます。 また、永遠に、清浄、平等、平和にして慈悲なる、浄土という表現に、あるべき、社会像が示されてあることがうかがえます。 この慈悲の浄土を鏡とすると、慈悲には程遠い、自己中心で闘争的、差別的な家庭、親族、民族、集団、組織、国家、社会が照らし出され、慚愧させられます。 コロナ対策を評価される、台湾、ドイツ、韓国に比べ、日本、中国、アメリカなどの不評に、為政者、政治の質、それを選ぶ私たちの責任を考えざるを得ません。 感染者、重病者、死者ご遺族、休業を余儀なくされ、再起や倒産の不安、生活困窮の人々の苦悩、悲しみに思いをはせます。 何より、医療従事者の命がけの献身に低頭します。 今、この世の不確かさ、危うさというものを思い知らされています。 そして、こんな目に遭いながら、生きるということはどういうことか、幸せを求めているとして、本当の幸せとは何なのか、今までの文明社会はこれでよかったのか、本当に納得できる人類の生き方、世界とは、などと自問自答があると思われます。 先月24日、福岡市南区のうなぎ店で元従業員の男が、店主の子どもで6歳と3歳の姉妹を人質に、6時間立てこもった事件がありました。 警察と犯人の交渉で姉が先に解放されようとする時、姉は犯人から包丁で二本の指や首筋には何本も傷つけられていながらも「妹がまだいる」と解放を拒んだといいます。 早く助かりたい、恐怖の中にも、妹のことがほっておけない6歳の子供のけなげさに感動です。 古今東西、不変の真実でしょう。 この子の純な魂に、70過ぎの私は恥じました。 報正寺通信2020年4月 この度も、新型コロナウイルスの為、聖典学習会を中止します。 それで、今回は、前回の聖典学習会の内容をお知らせしてみます。 コロナウイルスで、いろんな行事も取りやめになり、不要不急の外出も自粛している時、よろしければこの寺報で、仏教を学ばれる縁を結んでくだされば幸いです。 もし、疑問やご意見がありませば、お互いのコロナウイルスへの感染予防のため、対話は出来かねますが、手紙や電話でお受け致します。 どうぞご遠慮なくご自由に。 何時も紹介しますが、とにかく、このお経の作者は不明です。 一般には、お釈迦様が説かれたということになっていますが、現代、研究が進んで、大体お釈迦様が亡くなっておよそ500年ごろに創られたもののようです。 さらにびっくりされるでしょうが、おしゃか様は、生きておられる時、阿弥陀さんや、その浄土などについて説かれてはいなかったということです。 ですから、この無量寿経に説かれている、阿弥陀さんやお浄土は、経典作者(達)が、創作したものです。 それでは、何のために、経典作者(達)は、おしゃか様が説きもされなかった、阿弥陀さんやお浄土について書いたのかが問題です。 それは、おしゃか様の教えを伝える手立てに、阿弥陀さんやお浄土と表現したものと考えられます。 この無量寿経に表現されている、阿弥陀さんやお浄土には何の意味が示されているか、そして、その意味から、人生と社会の様々な問題の答えを見つけるのがこの聖典学習です。 (意訳文) 「この仏の本願の力により、仏の名を聞いて往生を願うものは、残らずみなその国に往き、おのずから不退転の位に至る。 これは、全世界の諸菩薩が阿弥陀さんの国であるお浄土に往き、阿弥陀さんを供養するという内容です。 菩薩というのは、仏という、無我の知恵や慈悲の完成である仏を目指すものです。 以下、解説してみます。 この菩薩が、阿弥陀仏の本願の力(阿弥陀仏が、全てのものを阿弥陀仏と同じ真実の人格に成就させるという阿弥陀仏の根本的な願いの働き)によって、阿弥陀仏、即ち、永遠の命と働きという、その名前を聞いて、 この阿弥陀仏の慈悲の国に生まれることを願うものは、残らず、みんなその慈悲の国に往き、そこで自然に、決して退転することのない地位に至るのです。 ですから、みんな慈悲を目指して進むばかりです。 そこで菩薩は、全ての人にも世にも、慈悲を完成させようとの優れた願いを立て、自分の国も、等しくこの阿弥陀仏の浄土のような国にさせようと願い、 広く世界中の全てのものを慈悲に向かわせて救いたいと思い、阿弥陀仏の名前を全世界に表明したいと望むのです。 私は、経典作者は、阿弥陀仏や菩薩という、慈悲の人格を表現して、人間のなるべき、慈悲なる人格像を示していると受け止めます。 この、慈悲の仏、菩薩を鏡とすると、慈悲には程遠い自分中心でしかない、私が照らし出され、慚愧させられます。 また、この永遠に、すべてを慈しみ続ける、慈悲の浄土という表現に、あるべき、慈悲なる社会像が示されてあることがうかがえます。 この慈悲の浄土を鏡とすると、慈悲には程遠い、自己中心で闘争的、差別的な家庭、親族、民族、集団、組織、国家、社会が照らし出され慚愧させられます。 新型コロナウイルスから 早く収束してくれればいいですね。 ウイルスというのは、生物と物質との中間的なもののようです。 生物学者の福岡伸一さんによると、ウイルスは、生命発生時から存在していたのではないそうです。 生命の進化で高等生物の登場後、この高等生物の遺伝子の一部が外に飛び出したもので、もともと私たちのものだったといいます。 また、このウイルスは、生命の進化に役立っているといいます。 他の生物の細胞を利用して増殖するそうです。 ですから、私ら、人間の細胞にとりついて増え、増えすぎると、私らを病気にしたり、死なせたりします。 でも、私らが死ねば、私にとりついたウイルスは増殖できませんから、滅びます。 しかし、他の生物に次々にとりついて増える。 それがウイルスの性質なんですね。 ですから、ウイルスを恨んでも、ウイルスは、「これがわしの性質じゃけえ、どうしょうもないんよ、悪気はないけえこらえてくれ」というでしょうね。 それは、私らに食われる、他の生き物が、私らに、「わしらを食うな」と怒っても、私らは、「そう言うてくれるな、わしらもあんたらも、みんな、生き物は、他の命を食わにゃあ生きられんことになっとるけえこらえてくれえ」というのと同じことでしょうね。 造物の神というのがいるというのなら、「神さんよ、他の生き物を食わんでも生きられるように作ってくれればよかったのに」となじりたくなります。 運がよければ、自然に治ることもあるようです。 沢山なウイルスがいて、未知のウイルスもあるようです。 このウイルスも、突然変異する可能性もあるといいます。 これからどんなウイルスが出てくるかわかりません。 今や、抗生物質という抗菌薬が効かない、耐性のできた菌が出ているといいますからね。 どんな薬も、どんなワクチンも効かないウイルスが出るかもしれません。 でも、人類が減少したり、全滅するのは嫌ですね。 しかし、どう努力しても、そうなるならそういう自然の摂理と受け止めねばしょうがないようにも思います。 人間が滅ぶと、人間に食われる他の動植物は、 「あーよかった。 私らをさんざん犠牲にし尽くした、あのわしらにとって悪魔のような人間がやっと滅んで、せいせいした。 バンザーイ」と大喜びでしょうね。 すでに絶滅した生物は沢山いますから、人類も滅びても仕方ありませんね。 太陽にしてもこれから膨張し、やがて大きさは現在の数百倍、明るさは現在の約1万倍になり、地球を飲み込むほどで、すべてを焼き尽くされた地球も終わりを迎えるといいます。 その後、今から、約50億年先のことですが、太陽は、不安定な赤い「変光星」となり、最期には暗く小さな「白色わい星」となって収縮するといいますから、ほとんど生物は絶滅でしょう。 すると、約、138億年前に始まったというこの大宇宙も、約40億年前出現し、進化してきた動物植物など沢山の生物も、私ら約700万年前出現してきた人間の存在も、もともと、意味はなさそうですね。 新型コロナウイルスへの心構え(良寛、親鸞様の示唆) さあ、新型コロナウイルスにかかって死ぬ時にはどう腹をくくったらいいでしょうね。 「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 死ぬ時節には死ぬがよく候 これはこれ災難をのがるる妙法にて候」 これは良寛さんの言葉です。
どうでしょう。 この良寛さんの心構えを伺ってみましょう。 これは、どんなに、災難に遭うまいと思って努力していても、地震や津波など、どうしょうもない災難に遭う時には遭うものである。 これが自分の人生の巡り合わせというものだとちゃんと受け止めようということでしょうね。 同じように、誰しも死にたくなくとも、みんな必ず死ぬものであり、病気や事故で死がやってくれば、これが、我が人生の終わりの時だとそのまま受け入れようということでしょうね。 これは、ただ災難や死を避けようとする凡人にはなかなか受け入れられないものでしょう。 これは、良寛さんならではの人生観が確立していればこそ言える世界だと思えます。 それは、良寛さんには、仏道という、死ぬるまで、どんなことがあっても、仏の道を歩むという、揺るがない人生の指針があったからでしょう。 ですから、良寛さんには、災難に遭えば、災難に遭うまま、死がやってくれば死ぬるまま、そのままにただひたすらに、仏道を歩み続けさせてもらい、与えられた命を全うさせてもらうばかりであるという覚悟があったからでしょうね。 この覚悟、心構えが、災難に遭わないのではなく、災難に遭うままに、災難と共に生きる、つまり、災難を逃れる、良寛さんの妙術、妙法だったのでしょうね。 次に、親鸞様に問うてみましょう。 親鸞様なら、災難や死をどう受け止められるでしょうか。 親鸞様には、歴史書を見ると、比叡山や奈良の仏教による非難、後鳥羽上皇、土御門天皇や鎌倉幕府による、念仏弾圧禁止令が、35才から往生される前年、89才まで13度も繰り返されました。 35才の時の承元の弾圧には、親鸞様も、始めは斬首刑が宣告され、中納言親経によって死刑は取りやめになりましたが、念仏の仲間が4人斬首刑、8人が流罪で、親鸞様は、越後に流罪となりました。 83才の時には火災に遭い、84才の時には、長男、善鸞への親子の縁切りもありました。 晩年は、連れ合いの恵信尼さんは実家の越後に住まわれ、夫婦別居生活でした。 親鸞様なら、「凡夫の吾等は、喜怒哀楽の煩悩にまとわりつかれて容易に離れることは出来ませんが、どんな災難も死もこの現実をきちんと受け止めて、辛いままにも、悲しいままにも、身もだえつつも、阿弥陀様の大慈悲にうながされ、慈しみの通い合うよう、世の中安穏なれ、仏法広まれと、臨終までおぼつかなくとも歩ませてもらいましょう」と申されるかと想像します。 報正寺通信2020年3月 永代経法座、中止のご案内 しばし、気をもんでおりましたが、新型コロナウイルスの心配のため、中止といたしました。 「これから先の日暮らしは、幸か不幸かしらねども、どちらになってもよろしいと、確かな覚悟が出来ました」 という歌、いかがでしょう? しばらく、住職の各戸訪問も控えます。 皆様からのご訪問はどうぞご遠慮なく。 どう生きる? これが、私もそうですが、多くの人の問題でしょうね。 皆さんには、皆さんなりの思いや考えがあることでしょう。 どんな思いやお考えでしょう? 相変わらずですが、私の思いや考えを確認させてもらいます。 本堂前の掲示板に、同じようなことをいつも掲げていますが、 仏 やさしさ、あたたかさ 私 ひどさ、冷たさ と書いています。 皆さんとともに、どう生きるかということについて、冷たい、ひどい私をすこしでも反省出来て、少しでもあたたかい、やさしい生き方が出来たらいいと願って生きて行くというようなことを共感出来たら幸いと思った次第です。 至難ですが、死ぬるまで、冷たい、ひどい私と世の中を慚愧して、やさしい、あたたかい、私と世の中を願って生きて行くということ。 お笑いくださるかもしれませんが、これが、今まで私が仏教も含め、いろんなことを見聞きしてきた結論ではあります。 死をどうとらえる? これもみなさんは、皆さんなりの思いや考えがおありでしょう。 私もいつも同じようなことを言ったり書いたりしていると思いますが あらためて確認してみます。 死は、生命活動の終わりで、土葬、火葬で、大自然に溶けて帰ってゆくということでしょう。 私には、目下、霊魂などは信じられません。 もちろん、信じ、信じないは、各人自由です。 ただ、一生の、やったことの全てが、いいことも、悪いことも、残った人の思い出や社会の中に残ります。 でも、「いいこと」の中身が一番問題ですね。 「いいこと」の中身、それは、よく言われる、愛とか慈悲とか、正義とか平和とか平等とか言われるものにつながるものでしょう。 できるだけいいことの思い出や行いを残したいものですが・・・中々 次に、所で、死について、浄土真宗の教義ではどう説かれているか見てみましょう。 それによると、まず、私たち真実でない不完全な凡夫は、いつでも、どこでも、誰でも、真実である阿弥陀さまから「みんな必ず真実(仏)にする」と育まれているということでした。 それは、臨終でもそうであり、この阿弥陀様に帰依し、死後は、阿弥陀さまの大慈悲に抱かれて阿弥陀様の世界である浄土に生まれさせてもらって、仏(真実)にさせてもらい、永遠に、みんなを真実(仏)へと導いてゆく働きをさせてもらうというようになっていますね。 でも人によっては、こういう 教義を、素直にありがたく信仰受容できる人もあれば、出来ない人もあると思われます。 私もそうですが、阿弥陀様の慈悲の尊さは味あわれても、事実としては、信仰受容できないのは、合理的に経典も教義も理解し、納得しょうとしているからだと思われます。 私にとって、浄土真宗の教義は、科学的な実際の事実だとはとらえません。 教義というものは、真実という、精神的な世界のことであり、この真実という、あくまでも精神の分野の世界を、象徴的に仏や浄土と表現したものととらえています。 この真実という精神的な理念を考えてみると、真実とは、真実でないものを、例外なく、すべて真実へと自己同化すべく働きかけるものと言えます。 この真実の道理の世界を、経典作者(達)は先のように阿弥陀様と私の関係の教義として象徴的に表現したものととらえます。 ですから、阿弥陀様、浄土といっても、一般の宗教のように、それがどこかに実際に実在していることを信じるというようなとらえ方ではありません。 ただ、大事なことは、こういう教義が信仰受容出来るか、出来ないかではないと思えます。 一番大事なことは、こういう仏様や浄土と表現されているものから、真実ということに思い至り、逆に、真実とは言えない、自分や、この世の世界を慚愧させられながら、だからこそ、より真実に叶う自分や世の中の実現に向かって促されて生きて行くということと思えます。 以上から、私としての浄土真宗の死のとらえをまとめます。 浄土真宗の教義としての、「死後は、阿弥陀さまの大慈悲に抱かれて阿弥陀様の世界である浄土に生まれさせてもらって、仏様にさせてもらい、永遠に、みんなを真実(仏)へと導いてゆく働きをさせてもらう」ということは、実際の事実としてはとらえません。 この教義は、前述の、真実の道理、「真実は真実ならざるものを全て真実に自己同化するものである」との、あくまでも、真実という精神的な理念の象徴表現としてとらえます。 肖像に見える親鸞様自らの仏道の矜持 親鸞様の肖像画に、「安城の御影」というのがあります。 この肖像は国宝で、西本願寺が所蔵しています。 これは、親鸞様83才の肖像です。 この肖像を紹介します。 これは、タヌキの毛皮の上に座られ、猫の毛を編み込んだ草履も描かれ、鹿杖という杖の取手にも、猫の毛皮が巻き付けてあります。 もちろん衣は黒衣、墨袈裟で、下着は、白衣でなく、なんと赤色ですから、びっくりします。 実に異様です。 この画像の上下に親鸞様自筆の讃と言われているものがありますから、この肖像画には、親鸞様の強い自負が示されてあると思えます。 最近の感慨ですが、私は、ここに、親鸞様自らの仏道の矜持というものを感じるのです。 当時の比叡山や京都、奈良の、天皇、貴族、武家などの国家権力によって保護を受けている宗旨の管長とか、大僧正というような高僧といわれる人々には、とても信じられない肖像画です。 この人たちは、金襴や、赤や紫といった豪奢な衣を身にまとっていたはずですからね。 親鸞様の他の宗旨等への悲嘆の歌を思い起こします。 「五濁増のしるしには この世の道俗ことごとく 外儀は仏教のすがたにて この意味を考えます。 これは、五つの濁り、一、劫濁(時代)の濁り、二、見濁(見解の濁り)、三、煩悩濁、四、衆生濁(人間の濁り)五、命濁(短命)という世の中の濁りが増大している、情けないしるしには、この世の僧侶も、世間の人々も、みんな外形だけは仏教ではあるが、内心は、仏教ではないということです。 つまり、世間では、僧侶さえも、仏法の本質である、平等、慈心不殺の心を失って、戦争や人間を尊いとか卑しいとか言って差別する考え方を容認してしまっていて実に哀しいとの親鸞様の嘆きです。 親鸞様の書物の中には「りょうし・あき人、さまざまのものは、みな、いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり」という言葉があります。 この意味は、「当時、石ころや瓦のかけらや小石のように足蹴にされ、差別されていた、猟(漁)師、商人、さまざまな人々も、国家から弾圧を受け、罪人とされ、排除されたこの親鸞も阿弥陀仏の平等な大悲の中で、皆共にわれら、同朋なのです。」と読めます。 この、世間から、差別されていた人々と、このように同朋として歩まれる親鸞様に、差別されている人々は、真実の道を共感されたのでしょう。 その親鸞様への信頼の上から、寒さのこたえる老体の親鸞様をいたわって、タヌキの敷皮、猫の毛の編み込まれた草履などを差し上げたのだと思われます。 報正寺通信2020年2月 釈尊 涅槃会 益害平等一切有情追悼法座のご案内 15日(土) 朝、9時半・ 昼、2時始め 「お釈迦様の一生から学ぶもの」 お誘いあってお参りください 釈尊 涅槃会によせて 釈尊とは、おしゃか様を尊んだ呼び名です。 お釈迦様は、インドの北、今のネパールに、釈迦族として、一般には、紀元前463年4月8日に生まれ、383年、2月15日、80歳で亡くなられたといわれます。 釈尊とは、釈迦族の中の尊い人という意味です。 涅槃会とは、おしゃか様ご命日の法要です。 この通信では、仏暦を使っています。 これは、おしゃか様の亡くなられた年に基づく、仏教徒としての暦です。 今までは、南方仏教諸国が1956年に、おしゃか様亡くなられて2500年式典を行ったことに基づいた暦を用いていました。 これによると、おしゃか様の亡くなられたのは、紀元前、544年になりますので、今年が2564年目ということになります。 今年の2月からは、一般説の仏暦をとることにしましたので、今年は、おしゃか様が亡くなられて、2403年ということになります。 涅槃とは インドの言葉の「ニルヴァーナ」に中国語の漢字をあてたものです。 意味は「吹き消すこと」です。 欲や怒りやねたみそねみなど、一切の煩悩の火を吹き消した最高の境地のことです。 この「涅槃」には2つあります。 「有余涅槃」と「無余涅槃」です。 「余」とは、残余のことで、肉体のことです。 「有余涅槃」とは、肉体のあるままの、最高の境地ということになります。 お釈迦さまは、35歳でこの境地を開かれたといいますが、しかし、肉体がありますので、お腹もすかれたでしょうし、なくなられたのは、一般には、キノコの食あたりといわれていますが、どうやら、イノシシの肉料理の食あたりで病気になって下痢がついて亡くなられたということですから、やはり苦しかったに違いありません。 空腹や苦痛への煩悩が無くなることはあり得ません。 また、欲や怒りやねたみそねみなど、一切の煩悩の火を吹き消した最高の境地を開かれたといいますが、これは、おしゃか様を超人化しすぎていると思います。 本当は、欲や怒りやねたみそねみなど、一切の煩悩が完全にはなくならないままにも、それを超える、無我、慈悲、利他、布施の道を明らかにされたということでしょう。 お釈迦様の晩年には、釈迦族の、マハーナーマンという、長老による、大国、コーサラ国のビルリ王への差別によって、ビルリ王から怒りを買い、釈迦族は滅亡させられますから、おしゃか様は、やはり、悲しかったに違いないと思います。 しかし、この悲しみを超えて、戦乱や差別のない、平和や平等への伝道布教の道をいよいよ強固にされたことと思います。 「無余涅槃」とは、肉体のない涅槃、つまり、いのちの終わる臨終をもって、完全に煩悩から解放される時を言います。 大般涅槃とも言います。 ですが、生前に、仏法に目覚める、「有余涅槃」を得ることが何より肝要です。 親鸞様の、煩悩を断ぜずして涅槃を得るを味わいます。 2020年1月16日 先月、海上自衛隊の中東派遣の閣議決定に対する、大谷派の宗派声明では、 「このたび、安倍晋三内閣が中東海域での航行の「安全確保」を目的とした海上自衛隊の派遣を閣議決定したことに、深い悲しみを覚えます。 本派におかれましても、同様な声明を、教団内外、殊に安倍首相宛、出されることを切望いたします。 さらに、「親鸞聖人のみ教えを現実社会の中でいかに発揮するか」について、 仏教徒(浄土真宗門徒)の実践伝道布教として、御同朋の社会の実現に向け、全ての人権尊重、戦争放棄、格差是正、福祉充実、環境保全、憲法九条改悪廃止、安全保障関連法廃止、自衛隊・軍装解除、内外救援隊変更、日米地位協定見直し、日米安保解消、沖縄、辺野古新基地建設廃止、宮古島自衛隊弾薬庫建設廃止、イージスアショア配備廃止、米軍機購入、防衛費増大廃止、防衛装備移転三原則廃止、死刑廃止、原発廃止から自然エネルギー変換等々、時宜に即して意見表明をされることを切望いたします。 合掌 非戦平和を願う真宗門徒の会会員 安芸教区山県太田組報正寺住職 城山大賢 ダーナとは、インドの言葉で、施しという意味です。 仏教の考え方は、慈悲ですから、お互いに尊重し、助け合い、共に生きるということで、施しを仏教徒の生き方としています。 昨年度、報正寺ダーナ募金総額は31,551円でした。 布原、500円・ 小原、2,300円 萩原、1,200円・数舟、1,500円 本一、3,051円・本二、6,500円 本三、7,500円・本四、9,000円 山県太田組ダーナ募金会計へ・・10,000円 ビルマ難民教育支援へ・・・・ 21,551円 前年度山県太田組ダーナ募金総額は 322,650円 山県太田組内医療機関へ仏教誌施本費・214,500円 芸北福祉会へ・・・・・・・・・・・・150,000円 事務費・・・・・・・・・・・・・・・・・・・340円 安芸教区仏婦連盟へ・・・・・・・ 30,000円 7月集中豪雨災害義援金・・・・・・・200,000円 山県太田組、災害救援基金 ・・380,659円 報正寺通信2020年1月 親鸞聖人御命日法座のご案内 15日(水)朝・昼、16日(木)朝 朝、9時半・昼、2時始め 「親鸞様の御一生から学ぶもの」 住職自修 共に、親鸞様のご一生から、生と死と現在 の世界を考えさせてもらいましょう。 例年通りぜんざいをいただきます。 おさそいあっておいでください。 過年・色々ありがとうございました。 本年もよろしくお願いいたします。 越年雑感 毎年、年の変わり目に、自分の生き方を確認します。 年々、年を重ねながら、どういう自分を願って生き、どういう世界を願って生きているのだったかと。 それは、時折紹介させてもらっていますが、私のフェイスブックに、自己紹介として掲げている、次の内容ということになります。 「物を公平に分かち合って、お互いに尊重し合い、奪わず、殺さず、差別せずに生きられるなら原始生活でも結構じゃあないか。 つまりは、やさしい私と世の中を願うということ。 今まで、人生や社会の問題を愚考し、仏教はじめ、雑学をしてきて、私の目下のところの願う自分と世界の在り方はこういうところに行きついたようです。 でも、しょっちゅう、こういう実践をして生きているわけではなく、平素は、わがままな思いに翻弄されて生きていることを恥じます。 そして、こうして、毎月、寺の新聞を出したり、法座や法事で法話をさせてもらうのも、結局、こういうことを皆様と共感出来たら幸いと思っているということです。 私達は、138億年前、この宇宙が始まって以来、意味があるとは思えませんが、自然現象によって、40億年前、現 れた生命現象の一つなのでしょう。
この宇宙も、太陽もいつか消滅に向かうといいますし、恐竜も滅んだように、人類もいつか滅ぶでしょうが、ともかく、私たちも、一、生物として、種族保存の本能などに突き動かされて生き、死ねば、大自然の世界に溶けて還ってゆくのでしょう。 でも、そのままにも、前述のような、やさしい自分と世界への願いにうながされて、おぼつかなくも、臨終まで生きて行けたらありがたいと思っています。 安倍内閣総理大臣への要望 2019年12月16日 私は、我が宗祖、親鸞様の月命日に意思表示をします。 私ども、本願寺教団は、御本尊、阿弥陀仏をよりどころとする教団です。 阿弥陀仏の本質は、究極の無我、慈悲、利他、布施です。 ですから、私たちは、この、究極の無我、慈悲、利他、布施にうながされて、慚愧と共に、命の尊厳、人間の尊厳を侵さない自己と社会の実現を目指します。 それ故に、仏教徒(浄土真宗門徒)として、この命の尊厳、人間の尊厳を侵さない社会の実現に向けて、全ての人権尊重、戦争放棄、格差是正、環境保全、福祉充実等に取り組みます。 安倍総理大臣におかれましては、上記の趣旨のもとに、次に上げます諸課題 アジア侵略戦争戦死者・慰安婦・徴用工等被害者への誠実謝罪と補償、国家主義・民族主義の偏執から解放され、人類の一員・国際人としての自覚と諸外国相互尊重互恵信頼外交、 人間性涵養教育の尊重、広範な全人的国際的教養取得にかかわる義務教育内容及び制度の改革、国旗(日の丸)・国歌(君が代)の変更、国旗・国歌強制不執行、 憲法九条改悪廃止、安全保障関連法廃止、特定秘密保護法廃止、緊急事態条項憲法規定廃止、共謀罪廃止、自衛隊・軍装解除・内外救援隊改変、日米地位協定見直し、日米安保解消、核兵器禁止条約批准、 沖縄・辺野古新基地建設廃止、宮古島自衛隊弾薬庫建設廃止、イージスアショア配備廃止、米軍機購入、防衛費増大廃止、防衛装備移転三原則廃止、自衛隊・中東海域への調査研究派遣廃止、 独立した憲法裁判所の設置、完全な三権分立、政教分離、首相・閣僚の伊勢神宮や靖国神社公式参拝廃止、政党交付金廃止、小選挙区制から中選挙区完全比例制へ選挙制度改革、 外国人の一定期間後の選挙権取得の自由、天皇制廃止、死刑廃止、原発廃止から自然エネルギー変換、輸入食品・医療品・農薬・種子の安全、水及び山林等自然資源の安全確保、食糧自給の確保、廃棄物削減とリサイクル推進、カジノ等遊興事業への公的関与廃止、消費税廃止、 累進課税の徹底、男女共同参画社会の推進、しょうがい者福祉充実・人権尊重、犯罪者への厳罰化より人間性回復・更生システムの充実、アイヌ他少数民族への人権尊重と誠実な謝罪と補償、ハンセン病偏見・差別撤廃、性的少数者の人権尊重、同性婚の認定、 夫婦別姓選択自由認定、朝鮮学校への補助復活、外国人労働者・技能実習生への人権尊重、残業等労働時間見直し他労働者の権利保障とゆとりのある生活保障、ホームレス・生活保護者・無国籍者などの生活保障、 出入国在留管理局に長期収容されている外国人への人権的処遇改善等々 に積極的に取り組まれますことを切望いたします。合掌 非戦平和を願う真宗門徒の会会員 広島県 報正寺住職 城山大賢 報正寺通信2019年12月
最近の聖典学習会は、おにぎり会の中で、30分だけでした。 思いを聞き合う時間が少なかったので、充分時間をとり、仏教以外、世界中の地理、歴史、科学、思想、文学、芸術、音楽などあらゆるものを、皆さんと一緒に、映像を見て堅苦しくなく、学び語り合う、レクレーションでもある会にしてみたいと思いました。 皆様からのリクエストにも応じようと思います。 飲食、お酒も持ち込み自由で入出も自由です。 ただし、飲酒運転厳禁です。 どうぞご自由に寺でのひと時を共有してみませんか。 何時も紹介し、びっくりされるでしょうが、とにかく、このお経の作者は不明です。 一般には、お釈迦様が説かれたということになっていますが、現代、研究が進んで、大体お釈迦様が亡くなっておよそ500年ごろに創られたもののようです。 さらにびっくりされるでしょうが、おしゃか様は、生きておられる時、阿弥陀さんや、その浄土などについて説かれてはいなかったということです。 ですから、この無量寿経に説かれている、阿弥陀さんやお浄土は、経典作者(達)が、創作したものです。 それでは、何のために、経典作者(達)は、おしゃか様が説きもされなかった、阿弥陀さんやお浄土について書いたのかが問題です。 それは、おしゃか様の教えを伝える手立てに、阿弥陀さんやお浄土と表現したものと考えられます。 この無量寿経に表現されている、阿弥陀さんやお浄土には何の意味が示されているか、そして、その意味から、人生と社会の様々な問題の答えを見つけるのがこの聖典学習です。 (意訳文) 「みなともに美しい音楽を奏で、みやびやかな音色を響かせ、すぐれた徳をうたいたたえて、次のように無量寿仏を供養したてまつる。 これは、全世界の諸菩薩が阿弥陀さんの国であるお浄土に往き、阿弥陀さんを供養するという内容です。 菩薩というのは、仏という、無我の知恵や慈悲の完成である仏を目指すものです。 この菩薩たちが阿弥陀さんにきれいな音楽で供養し、阿弥陀さんの徳も歌い、讃え、「まことに、阿弥陀様は、神通力と智慧を極め、深い慈悲に徹底し、功徳を円備し、自他一如の智慧は最尊です。(後に続く) 仏教で仏・菩薩などが持っているとされる6種の超人的な能力の表現です。 ① 神足通(じんそくつう)欲する所に自由に現れることができる能力。 どんな困難なところへも自由に出向いて救いたいという慈悲を表しているのでしょう。 ② 天眼通(てんげんつう)人々の未来を予知する能力。 やはりこれも、全て何もかも見通して、みんなを救いたいという慈悲を表しているのでしょう。 ③ 天耳通(てんにつう)世間一切の苦楽の言葉、遠近の一切の音を聞くことができる能力。 同じくみんなを救うために、みんなの苦悩のつぶやきやため息を決して聞き漏らさないという慈悲の表現でしょう。 ④ 他心通(たしんつう)他人の考えていることを知る能力。 これも、他者の心を全て知り通してみんなを救いたいという慈悲の表現でしょう。 ⑤ 宿命通(しゅくみょうつう)自己や他人の過去のありさまを知る能力。 同じく、全ての人の、生い立ち、過去を全て知りとおして、みんなを救いたいという慈悲の表現でしょう。 ⑥ 漏尽通(ろじんつう)煩悩ぼんのうを滅尽させる智慧。 万人の煩悩こそが自他ともに苦悩させる基と知り抜くがゆえに、万人のこの煩悩をことごとく解放させたいとの矢張り同じく慈悲を表現していると思われます。 つまりこの六神通力というのは、経典作者が慈悲というものの願いを象徴的に表現したものとうかがえます。 仏の智慧は、自他対立の世を照らし、その迷いを晴らしてくださいます」と供養します。 丁重に、阿弥陀さんの周りを右回りに3度回り、ひれ伏してこの無上尊の仏を礼拝し奉ります。 お浄土は清らかで、自我対立の世界にある私らには、思いはかられぬほどの世界であることを知り、それ故、菩薩たちは、無上の仏の悟りの境地を求める心を起こし、自分の国も、このようでありたいと願います。 その時、阿弥陀さんは、にっこり微笑まれ、口から無数の光を放たれて、すべての国々を照らされるのです。 以上が解説です。 どうでしょう、皆さんはこの経典から何を学ばれますでしょうか。 私は、経典作者は、仏、菩薩という自他一如の慈悲の人格を表現して、人間のなるべき人格像を示していると受け止めます。 この、仏、菩薩を鏡とすると、関東の台風災害はじめ、世界の難民の人々へのボランティアどころか、寄付さえおぼつかない、慈悲には程遠い私が照らし出され、慚愧させられます。 また、この自他対立の世を照らすという表現に、自他相互尊重というあるべき社会像が示されてあることがうかがえます。 また、自他相互尊重を鏡とすると、現在、もう二度と戦争には巻き込まれないし、戦争しないと平和を願って沖縄、辺野古、米軍新基地建設反対を訴えている、沖縄の人々への連帯もおぼつかないことを慚愧します。 さらに、沖縄の宮古島では、自衛隊、宮古島弾薬庫建設が国によって進められています。 島民の人たちは、もしこの弾薬庫が爆撃されたら、島民が巻き添えを食うことになり、もう二度と、戦争による被害はごめんだと反対運動されています。 しかし、宮古島の人々への連帯もおぼつかない自分を恥じます。
秋法座のご案内
16日(土)夜、7時半~ 住職自修 17日(日)朝、9時半~ 昼、2時~ 報恩講おとき日・・・17日(日)
報恩講は、親鸞様有難うございますという行事です。 それでは、私達は、親鸞様に何をありがとうございますというのでしょうね。 それは、どんなことがあっても生きて行ける、確かな道を知らせてもらったということでしょう。 親鸞様が、同朋、性信さんへのお手紙の中に 「詮じ候ふところは、御身にかぎらず念仏申さんひとびとは、わが御身の料はおぼしめさずとも、朝家の御ため国民のために念仏を申しあはせたまひ候はば、めでたう候ふべし。」というのがあります。 これを訳してみますと 「要するに、あなたに限らず、念仏に生きる人々は、自分のことはともかくも、朝廷のため、国民のために念仏に生きられるなら結構なことです。」ということになります。 ここで注意しなければならないことがあります。 「朝廷の為」ということです。 朝廷は、念仏の仲間4人を死刑にし、親鸞様や師の法然様など8人を流罪にしたほどに、念仏を弾圧した側ですからね。 親鸞様が、自分たちを弾圧した朝廷を支援されるわけはありません。 ここは、権力によって横暴支配をしている間違った朝廷を導くためと読まねばなりません。 つまり、親鸞様は、念仏に生きるということは、要するに、自分のことはさておいても、煩悩に汚れ切った政治社会や国民の苦悩を救い導くために生きることですと言われたようです。 末文には、「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべしとぞ、おぼえ候ふ。 よくよく御案候ふべし。 このほかは別の御はからひあるべしとはおぼえず候ふ。」とあります。 つまり、「世の中が安らかであるように、その為に、仏法が広まるようにと思われるべきと思います。 よくよく考えてください。この他になすべきものがあるとは思えません。」とあります。 これが親鸞様の念仏の生き方の要と思えます。 親鸞様の和讃の中に 「安楽浄土にいたるひと、五濁悪世にかえりては、釈迦牟尼仏のごとくにて、利益衆生はきわもなし」 というのがあります。 これを訳してみます。 安楽浄土という所は、御馳走食べて楽チンという所ではありませんね。 煩悩から解放され、争いや差別のない、安楽の浄土に至った人は、そこに安住することはありません。 五つの濁り、つまり、①時代と、②考え方と、③煩悩と、④生きとし生けるものと⑤命の濁りといわれるこの悪世に還ってきます。 そして、おしゃか様が、王様も、差別された人も、殺人鬼も、知的しょうがい者も誰をも導かれたように、そのお釈迦様のように人々を救い導くことに限りない働きをさせてもらうことになるのです。 どうでしょうか。 親鸞様は、阿弥陀様やその浄土を実際に見られたわけではありません。 また、浄土から還って来たぞと言って、みんなを導いている人を見られたわけでもありません。 この和讃は、親鸞様の、まことということへの味わいですね。 阿弥陀様は、みんなを導いて、浄土に迎え、仏と成さしめて、今度は、この迷いの世界に帰り来たらしめて、みんなを永遠に救い導かせて下るという、阿弥陀様の限りない慈悲というまことを、まこととして受け止められた上での味わいですね。 真実というまことの事柄とはそういうことでしょう。 まことの世界にただ安住しているだけでは、まこととは言えませんね。 まこととは、まことに生きられない世界を悲しみ、慈しみ、他人ごとならず、自分の事として、まことに同化させるべく、どこまでも永遠に働き続けるということですね。 親鸞様は、念仏弾圧の後鳥羽上皇等権力者等への「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」の道に永遠です。 私達も、この親鸞様のように、まことに目覚めた、救われた人生なら、命終わっても、みんなを救い導く道に永遠であるということを味わいたいものです。 ご家庭でも、この報恩講を大事にしましょう。 報正寺通信2019年10月 聖典学習会のご案内 23日(水) 朝 10時〜30分(おにぎり会の中) 学習聖典・無量寿経 (現代語版浄土三部経) 住職自修 参加費無用 聖典から人生・社会の諸問題を問うてみましょう。
本願寺から僧籍剥奪、衆議院副議長になった高津正道 (三次の西善寺、小武正教さんの資料他) 高津正道さんは、1893(明治26)年、三原、久井の真宗寺院、南光寺に生まれました。5才の時、父が、6才の時母が亡くなり、寺総代の家など転々として育てられました。
12才~18才まで、地元の学者から仏教、真宗を学び、20才頃~2年半、京都でも学びます。 そこで、社会主義者、幸徳秋水の読書から貧富の格差などの社会問題に目覚めました。 他宗の金襴の袈裟、大名、武家への出入りを、仏教の堕落とし、親鸞の墨衣に対して、本願寺の貴族的あり方に疑問を持ち、同志と同人雑誌を発刊するほどに、宗教改革、本願寺改革にも熱心でした。 23才、帰郷し、南光寺住職となり、学ある住職として期待され、盛大な住職披露もしてもらいました。 しかし、彼は、都会の富豪の贅沢に対して、農民の貧困を説き、その為、「あれは従順な勤労農民を扇動することになる」ということで、要注意人物との批判を受けることに変わっていきました。 結婚もしていましたが、ついに25才頃、妻と共に寺を出、東京に行きます。 正道の評伝に、その契機は、僧や寺の格の上位なものが威張り、下位の者は正論を言っても無視されるというような封建制への嫌気もあったであろうと有ります。 東京の早稲田大学哲学科に入学し、新入生弁論大会で一位となります。 その時の結びの狂歌です。 「お金持衆のコップに光は何ですェ、シャンペン、 いえいえ違います。かわいい百姓の汗あぶら」 「貴族の妾の頭に光は何ですェ、ダイヤモンド、 いえいえ違います。かわいい女工の血の涙」 「大臣大将の胸に光は何ですェ、金鵄勲章、 いえいえ違います。かわいい兵士のシャレコウベ」 これは、妻、多代子と一緒に作ったものです。 26才頃、雄弁会左派によって、「民人同盟会」を設立、翌年、労働者と学生の行動隊「暁民会」を結成し、ついに、27才、大学から退学処分を受けます。 国際共産党(コミンテルン)日本支部準備会結成に関係し、検挙され、禁固8ヶ月の刑を受け、妻子共々刑務所に入りました。 28才、共産党(非合法)設立に参画し、総務幹事に選出されています。 30才、ソ連に亡命し、約1年滞在し、帰国、治安維持法違反で8ヶ月の刑を受けます。 妻も社会主義を信奉し、貧しい中、裁縫の内職、社会主義関係の本やパンフレットを売って生活を支えます。 32才の時、妻は、貧困故の体調不良か、盲腸で28才で死にます。 去る、9月30日、「高津正道の僧籍剥奪を問う」の研修会で聞いた話では、正道さんの妻の内、一人は、貧しさの為去り、この多代子さんの葬儀では、貧しさのため、ムシロに荷車で火葬場に送られたといいます。 どんなに悲痛なことであったか! 仲間に火葬場まで送られたそうです。 この年、共産党を離党し、翌年、33才、労働農民党に参画します。 しかし、また治安維持法違反で10ヶ月の入獄。 そのため、本願寺は、正道の僧籍を剥奪しました。 その理由は、当時の本願寺の法度17条に「国法の処分により禁固以上の処刑を受けたるもの」によるものでした。 それは、つまりは、親鸞様滅後、長く、仏法は心の中の世界で、生活は世法に従わねばならないというように変質していたからです。 仏法は、本来、いのちや人間の尊厳と平等不可侵の道なのに、戦争や差別など非道な世の中に対する、親鸞様の、「世をいとうしるし」という念仏が失われていたのでした。 さらに、44才、人民戦線事件で2ヶ年の入獄。 敗戦の52才まで労働農民党メンバーを自らの運動の場として活動を展開します。 自ら、敗戦まで、投獄4回、検挙300回と言っていたそうです。 また、労働運動とともに、反宗教運動として、共産党離党後、共産党とは一線を画して38才、日本反宗教同盟を結成して展開します。 その宗教批判のスローガンに、 「宗教は支配階級の特権維持の精神的用具である」 「宗教は労農大衆の解放の進路をくらます毒ガスである」などがあります。 43才の時、読売新聞に「宗教が支配階級擁護の役割を勤めること、即ち宗教が(鎮護国家)(王法為本)などの立場から、大衆が悪政に苦しんで反抗する場合でも、その味方とはなりえない。 次に婦人を蔑視する。(中略) 女人成仏を説く蓮如すらも、女人の(五障三従)を説く、こんなことを聞かされた女人がどうして躍起して男女同権を説き得るか。(中略) 真宗の説く極楽往生説は、現世で科学的方法(社会主義)によって苦痛、不安を除く方法に民衆が向かわんとするを阻止する。」などと発表しました。 また、著書「無産階級と宗教」に「日本において仏教徒の平和運動と認むべきものはほとんど存在しない。 反戦運動がないというよりも、仏教者は戦争の場合には、出征軍のために軍隊布教使を送って、ひたすらに戦争激励に奔走したのである。 そして今日に至ってもそれを悔いないのみか、名誉と心得ている。」 ① 前世の業を説いて、現世のアキラメ」を説く。 ② 来世主義を説いて忍従を説く。 ③ 社会改造ではなく、精神修養を説く。 ④ 権威や力に従属し他律で生きることを説く。」等 それほどに、正道の生き方は、社会改革、宗教改革、本願寺改革の道でした。 敗戦の年、52才、日本社会党創立に参画し、中央執行委員に選出され、1964年、71歳まで5回当選、5回落選、61才、衆議院副議長に就任、社会党左派として活動し、1974年、80歳で脳卒中にて死去。 勲一等、従二位の叙勲を辞退。 高津正道さんの人柄が偲ばれる語録。 「つよい心がなければ生きてゆけない。 やさしい心がなければ生きていても幸せではない。」 高津正道さんの、僧籍剥奪の名誉回復を願います。 8月24日,報正寺本堂をお借りして,前・日本キリスト教団南部牧師の濱田裕三さんのお話をお聴きする会を開催しました。 いろいろと興味深いお話だったのですが,通信9月号を読んでいて思い出したことを書きます。 濱田さんによると,教会にお参り(というのかどうかは聞き忘れましたが)する方は少なくなってきて高齢化していて,無住(これもそういうのかどうかは聞き逃しました)の教会も増えているのだとか。 若い人たちの話を聞いていると,宗教に恵みを求めている人は居るけれど,自分が果たす役割にはあまり関心を持っていないようで,そこが伝統的な宗教に近寄らない原因かもしれないと話しておられました。 聖書には「イエスとともにある食卓」という言葉があって,イエスは誰であっても助けてくれるのだから,洗礼を受けているとかいないとかで区別するのはおかしいけれど,そういう意識はあるのだとも。 キリスト教と仏教はずいぶんと違いもあるけど,何か通じるところもあるように思ったひとときでした。 千代田 宮原浩智 宮原さんは、ソーシャルワーカーです。 ソーシャルワークとは、人権と社会正義を一番の基本として大切にするということのようで、この度、牧師さんとの学びを報正寺でしました。
秋彼岸・前住職、釈晃峰50年法座のご案内 18日(水)朝、9時半・昼、2時始 『仏法と人生と社会』 住職自修 9月18日、午後1時15分、昨年から毎年梵鐘を撞くことにしました。 そのわけを去年どおり記します。 本願寺教団では、無量寿経に「兵戈無用」と示され、親鸞聖人が「世のなか安穏なれ 仏法ひろまれ」と願われたことをもとに、教団の戦争協力の責任を真摯に慚愧し、非戦・平和の願いを広く発信するために、1981年より毎年、9月18日に、国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑(東京都千代田区)で千鳥ヶ淵全戦没者追悼法要を勤めています。 「千鳥ヶ淵全戦没者追悼法要」では、教団として日本国内外に恒久平和への願いを新たにするため「平和宣言」を行い、さらに「平和の鐘」を撞きます。 各地の寺院でも法要と同時刻にいっせいに鐘を撞き、平和な世への願いを発信しています。 1931年(昭和6年、)9月18日、満州(現在の中国東北部)の奉天(現在の瀋陽市)近郊の柳条湖付近で、日本の所有する南満州鉄道の線路が爆破された事件で、関東軍はこれを中国軍による犯行とでっちあげ、以後、日本の中国侵略戦争が拡大したのでした。 前住職、釈晃峰は、1970年9月3日、56歳で往生いたしました。 入寺以来、25年、有縁の皆様からのご恩恵、ご厚誼に厚く御礼申し上げます。 報正園の創設、別府、本願寺参拝、宗祖、関東ご旧跡巡りなど、聞法旅行も手掛けていました。 前住職の真宗理解は、やはり、伝統的な信仰で、大慈悲の阿弥陀様にお任せ出来て、生活も死後も安心できる生き方というものであったと思います。 しかし、私は、こういう伝統的な信仰に今なお、疑念を抱いています。 そこには、残念ながら、そういう信仰から、憲法、政治、経済、法律、福祉、教育、環境、人権、平和、国際問題等を、具体的にどうとらえ、どう実践してゆくのかというような方向性がおぼつかないからです。 親鸞様には、煩悩虚仮の身と世をいとうということがあります。 慈悲に欠ける自分と社会をいとい、慈悲に促される自分と社会の創造というのが親鸞様の道とうかがいます。 ですから、このような、実践性おぼつかなき、前住職はじめ、現在、多数の伝統的な真宗理解を反省し、自分と、社会のよりよい創造への、仏道としての真宗を明確にしてゆきたいというのが、私の終生の課題であり、おしゃか様や親鸞様や前住職に真の意味で報いる道と思っています。 「死後、阿弥陀仏によって、浄土に迎えられ、仏となさしめられて、今度は、この世に還ってきて人々を救うということ」は事実でしょうか。 これは、はっきり言えば、これは身に起きる、実際の事実ということでなく、「真実とは真実でないものを真実に自己同化するものである」ということの象徴表現であると言えます。 こういう、阿弥陀仏や、浄土については、無量寿経というお経に書かれていますが、このお経は、おしゃか様が実際に説かれたのではなく、おしゃか様が亡くなって、およそ500年、無名ですが、経典作者達が創作したものです。 教典創作者達は、みんなを仏教に導き、救いたいと願って、創作したことは違いないと思います。 皆を仏教に導くとは皆を、自己中心な欲望煩悩から解放し、大慈悲の人格者(成仏道)へと導くことです。 しかし、当時、そのように、仏を目指して修行するような人はまれで、多くの人が、それどころではなく、生きて行くのに精いっぱいで、さまざまな苦悩に振り回されていたと思います。 生い立ち、家庭の不遇、人間関係の不信、心身の不調、しょうがい、罪悪感、病苦、老苦、死苦、孤独、不安、死後の恐怖、死者との再会への憧れなど。 そこで、この苦悩の人々をいかにして救い、そして、仏道に導くかということが、経典創作者達の問題であったことでしょう。 そこで、経典作者達は、この苦悩の私たちを、いつでもどこでも育み、導き、命終わって、必ず、皆を仏にしてくださり、そして、今度はこの世に還ってきて、いつまでも、どこまでも限りなく、この世の苦悩のみんなを導き続けさせてくださる、阿弥陀仏という仏がいてくださることを信仰できるように、そして、みんなにこの阿弥陀仏への信仰によって、救いと癒しと安心をもたらし、仏道に導かれるように表現されたものと思えます。 この阿弥陀仏のことを聞いた、苦悩の民衆は、「アー、今までついぞ知らなかったが、こんな不遇で、不幸で、罪な、そして、老、病、死におびえ、孤独で淋しく、悲しく、空しく、不安な私達のことを、すでに見抜いて、いつまでもどこまでも、支え、育み、導き、そして、命終われば、清らかなお浄土に、みんなを迎えて、今まで思いさえもしなかった、大慈悲の人格の仏になさしめてくださり、それで終わりではなく、今度は、この世の同じく苦悩するみんなのところに還り来たらしめて、みんなを限りなく導き続ける身にさせてくださるという阿弥陀如来というみ仏がいてくださったことを初めて知らせていただいた。 そして、真実というものとは、こういう阿弥陀様の世界であることも知らせてもらった あー、なんと有難い、私は、生まれて初めて、安心と救いと真実への目覚めをいただいた。 今度は、今まで欲望煩悩に沈み込んで自他共に損ないあってきた生き方を改めて、命のある限り、この御仏のことをみんなに伝え、そして、この御仏の願いに促されて、成仏という、慈悲の方向に向かう、私と世の中の実現のために歩み続けさせてもらおう。」と救われてゆかれたと思われます。 報正寺通信2019年8月 盆会法座のご案内 17日(土)朝・夜 18日(日)朝 初盆物故者・全戦没者追弔法要・18日(日)朝 『仏法と人生と社会』 住職自修 本郷親和会共催 一般に、盆とは、 亡くなった人を供養するために、あの世から迎え、盆のひと時を過ごし、そしてまたあの世へ送ってあげる行事というように受け止められています。 昔はそういった事を素朴に信じておられたかもしれませんが、現代、こういうことを事実として信じる人はないでしょう。 現代流に、盆を考えるなら、「亡くなった人は今、この私たちに何を願っておられるかと、私たちの今とこれからに思いをめぐらす行事といえるでしょう。 盆は、盂蘭盆といい、インドの言葉で、ウランバナという言葉から来ています。 ウランバナとは、逆さ吊りの苦しみという意味です。 昔は、亡者が、地獄で逆さ吊りの苦しみを受けているから、彼らを救ってあげるために、供養するということでした。 これも、今、こういうことを信じる人はないでしょう。 これも現代流にとらえるなら、盆とは、亡くなった人も、今、生きている私たちも、共に、道理に逆行して、逆さ吊りのような苦しみを受けているから、本当の道理に目覚めて、この苦しみから逃れる道を尋ねる行事ととらえることが出来そうです。 仏教では、「縁起」といいます。 「縁起」とは、万物が無限の時間と無限の空間の中で無限に関係しあっているということです。 ですから、この「縁起」を踏まえて生きるなら、自己中心性を超えて、お互いに尊び合うことが縁起の道理ということになります。 しかし、過去だけでなく、現在の幾多の人間どうしの争いも、民族や国の争いも、全て、この「縁起の道理」の逆行によるもので、逆さづりのような苦しみを、昔も今も繰り返しているということになります。 よりよい国を目指すための選挙でした。 仏教徒は、先の「縁起の道理」にのっとり、あらゆる命や人間の尊厳や平等が侵されない国を目指すのでした。 戦争に向かわせない国創り、生活格差のない国創り、 環境を大事にする国づくり、みんなが尊重される国創りを目指します。 しかし、投票率、戦後2番目の低さということに、人々の政治への関心の低さかと残念に思います。 真宗門徒は、臨終まで、身をいとい、世をいとうて生きて行こうとするものですから、決して、あきらめることなく、選挙にも棄権はできないはずです。 投票率の低さに、私たち仏教徒の責任も思います。 この度の選挙の争点に、憲法九条の改定というのがありました。 これは、日本は、もう戦争をしないと決めたのに、戦争が出来る国創りの為に、憲法に自衛隊を規定し、アメリカなど友好国の紛争に、日本も危ういとなると、自衛隊を、アメリカなどと一緒に戦争することが出来るようにするというものでした。 こういう改憲には、衆議院、参議院の3分の2が賛成して、国民投票にかけ、有効投票数の過半数が必要といいます。 既に、憲法改定のための衆参両議院の3分の2は、自民、公明、維新で確保できていましたから、この選挙も心配でしたが、改憲議席3分の2には4議席不足ということで、ほっとしました。 しかし、国民民主党には、改憲派もいますので、油断なりません。 公明党は、創価学会(仏教)との連携がありますので、この憲法九条の改定には、反対でなければならないはずで、是非反対してほしいものです。 無量寿経の「兵戈無用」(兵も武器も用いることなし)を掲げる仏教徒、真宗門徒として、いかなる戦争も容認出来ませんから、憲法九条の改定には反対でしかありません。 これが、おしゃか様や、親鸞様に沿う生き方では。 自分は選挙区で、当選できるのに、真に平和と福祉を実現する為、公明党党首に対抗する人を立てました。 自分は比例で落選しましたが、しょうがいを持たれている人の声を直に、政治の世界で訴えてもらわねばならないということで、重度のしょうがいを持たれる、舩後靖彦さんと、木村英子さんを優先させました。 彼の考えは、だれ一人、ないがしろにされてはならない国創りというものでした。 生活苦、貧困、差別などで、自殺に追い込まれるような国は、そういう国にした政治の責任であり、不遇を全て個人の責任とすることは間違いであると熱を持って訴えていました。 「今でさえ生産性で人間の価値が測られる。 会社の役に、世の中の役に、何かの役に立ってなくちゃ、生きてちゃいけない。 そんな空気、蔓延してるじゃないですか。 その世界が、極まれば、命の選別につながる。 そんなのおかしいでしょ? 自分は生きてていいんだろうか? 消えてしまいたい、死にたい、そう思ってしまう世の中のほうが間違ってんですよ。 死にたくなる社会から、生きてたくなる社会を皆んなで実現するために、この熱い熱が放出されてんですよね。実現しますよね。実現しましょうね。 あなたは生きてるだけで価値がある。 生きててよかったと思える社会にしようよ、だったら。それができるのが政治ですよ。」等と 自分の当選はさておいても、ともかく、弱い立場に置かれた人の声を政治に届けて、今までの非情な政治を変え、最も優しい国創りにしたいという心意気。 それは、一切を救いたいという、衆生無辺誓願度や、自分よりまず、他者を救いたいという、自未得度先度他の菩薩の心を思わせられて、感動しました。 私自身、慚愧させられました。 政治家に限らず、全ての人が、このような社会づくり、国創りに目覚められたらいいですね。 聖典学習会のご案内 22日(月) 朝10時〜30分(おにぎり会の中) 学習聖典・無量寿経 (現代語版浄土三部経)住職自修 参加費無用 聖典から人生・社会の諸問題を問うてみましょう。 「 次に下輩のものについていうと、すべての世界の天人や人々で、心から無量寿仏の国に生れたいと願うものがいて、たとえさまざまな功徳を積むことができないとしても、この上ないさとりを求める心を起こし、ひたすら心を一つにしてわずか十回ほどでも無量寿仏を念じて、その国に生れたいと願うのである。 もし奥深い教えを聞いて喜んで心から信じ、疑いの心を起さず、わずか一回でも無量寿仏を念じ、まことの心を持ってその国に生れたいと願うなら、命を終えようとするとき、このものは夢に見るかのように無量寿仏を仰ぎ見て、その国に往生することができ、中輩のものに次ぐ功徳や智慧を得るのである
」 お釈迦さまが、道を求める、人間の資質を上輩、中輩、下輩という三通りに分けて、その中の下輩について説法されたということになっています。 上、中輩については、前々回に学びましたので省略します。 (以下、お釈迦様の説法ということです。) 「次に下輩のものについていうと、すべて、全世界の、人間や、有頂天の、架空の存在である、天人たち、つまりは、迷える者たちで、心から、大慈悲の世界である、無量寿仏(阿弥陀仏)の国に生まれたいと願うものがいて、 たとえ、さまざまな無我や慈悲、利他、布施といった善い行いを積むことができないとしても、この上ない真実を求める心を起こし、ひたすら心を一つにしてわずか十回ほどでも無量寿仏を心に念じて、その国に生れたいと願うのです。 もし、命の底でうなづける、奥深い教えを聞いて喜んで、心から領解して、疑いの心など起きることなく、わずか一回でも無量寿仏を念じ、まことの心を持ってその国に生れたいと願うなら、命を終えようとするとき、この人々は夢に見るかのように無量寿仏を仰ぎ見て、その国に往生することができ、中輩のものに次ぐ功徳や智慧を得るのです。」と 実は、上輩の者には、阿弥陀仏は、その身のままに、ハッキリ、姿を現せられますが、次の中輩の者には、そのままの姿ではなく、化身という姿で現れ、下輩の者には、実体としてでなく、夢のように現れるといい、さらには、得る功徳にも、それぞれに差異があり、この経典作者の表現に疑念を感じます。 なぜなら、本来的には、阿弥陀仏は平等の慈悲ですから、上、中、下、どんな人であろうと、平等に導かれ、功徳も平等に与えられるべきはずのものですからね。 それ故、親鸞様が、阿弥陀仏からの、臨終来迎をたのむことなく、今、常に阿弥陀仏の大悲と共にあると受け止められ、その上、浄土に往生してさらに行を励んで成仏するという従来の解釈を改められて、往生すれば即、成仏すると解釈された事に、これでこそ真実とうなずけます。 無量寿経は、経典作者が、お釈迦様の悟りの内容を、多くの人に理解していただけるようにと、経典作者なりに表現したものと言えます。 お釈迦様の悟りとは、全ての物が、無限の時間空間、宇宙大自然の中で関係しあっていて、万物と自分と一体であることを感得した境地と言えます。 それ故に、みんな全てが、自分と同じく、いとしく尊いものとして、同悲、同苦する、大慈悲の境地と言えます。 ですが、無量寿経は、上記のように、経典作者の表現に問題を感じるところは他にもありますが、お釈迦様の悟りの内容である、大慈悲の世界を伝えようと様々に工夫し表現されていることは思います。 そしてさらに、この他者の苦しみ、悲しみに、他人ごとならず、自分のこととして、同悲、同苦するという境地というものは、同時に、人々を苦しめ、悲しめている、政治社会含め全ての虚偽、邪悪への怒り、悲しみであり、悲憤の慈悲というものであろうと思います。 こういう悲憤の慈悲というものこそ、宗教、道徳、倫理、思想、哲学の違いを超えて、崇高な真実というものではないかと思います。 無量寿経の表現の中から、是は是、非は非として、真実と虚仮を学び続けたいと思います。 私は、戦時中、島根、古志原、第九航空教育隊、整備兵、電気工手として、今のマレーシア、クルアンで勤務していました。 仕事は、特攻兵の爆撃機に50キロの爆弾をボルトで取り付け、それが電気でうまく作動するかを試し、特攻兵にも確かめてもらうというものでした。 私が爆弾を取り付けている最中、やがて出撃する決死の特攻兵の顔は、死刑直前とも思えるような、悲壮感漂う面持ちであったことが忘れられません。 死に往く彼の爆撃機に爆弾を取り付ける私は何とも辛かった。 彼の顔は、今なお私の心の中にはっきりとあります。 私が死んだら彼の顔も消えます。 哀れでした。 将校当番だったことがありました。 二等兵は、麦飯梅干しなのに、下士官、さらに、将校は豪勢な食事、日本は負けると思いました。 捕虜になり、日本兵は、靴下に米1升と金平糖5~6粒、オーストラリア兵は、蝋引きパラフィン紙の中に、チョコ、缶詰、スープ、タバコなど、イギリス兵は、ジュラルミン弁当箱、この違いにも、日本は負けると思いました。 イギリス兵たちは、階級が違っても、同じ食事内容で、しかも、それぞれが食堂の窓口で食事を受け取り、日本は、階級によって、当番が付き、食事内容も違う、この違いにも日本はだめで負けると思いました。 今の平和憲法は、絶対変えてはいけません。 一、 燃料片道 テンツルシャン 涙で積んで 行く は琉球 死出の旅 エーエ 死出のたび 二、地上離れりや テンツルシャン
この世の別れ 想ひだします 母の顏 エーエ 母の顏 三、雨よ降れ降れ テンツルシャン せめても雨よ 整備する身のこの辛さ エーエ この辛さ
夏法座のご案内
18日(火)朝・昼 19日(水)朝 いろんな人生・社会問題を
「親鸞会」という団体から、こんな問いかけがありました。 私は、この問いよりも、「どう生きる」という方が大事ではないかと思いました。 というのは、なぜ生きるといっても、それは、生まれてきたからには、しょうがないように、生きねばならないように体がなっているから、生きるのだと思うからです。 そこで、しょうがなくとも生きねばならないとして、では、どう生きるところに、本当に生きる意味があるのかということの方が大事ではないかと思ったということです。 親鸞会というのは、よく、新聞やチラシなどで見られたことがあると思います。 親鸞会は、本願寺教団とは別の教団です。 私も、その方と話したこともあり、冊子を目にしたこともあります。 私のとらえでは、親鸞会は、死後の問題が本当にきちんと解決しているかどうかということが人間にとって、一番大事だということを主張しているようです。 この死後のことが解決できていないと、人生、本当の安心とは言えないというのです。 どんなにお金があっても、地位や名誉があっても、いざ、臨終にはうろたえるものだというのです。 例えに、動物園でトラを見ても、怖くないが、山で、実際に、トラに遇ったら、怖いではないかというのです。 そのように、平素、「アー、みんな死ぬんよ、だから、わしもいつか死ぬことになっとるんよ」と思っていても、実際に、死がおそいかかると、怖くて死後についても、確かなことがわからず、動転するというのです。 そこで、今のうちに、阿弥陀仏と浄土往生の信仰を確立することが何より大事ということのようです。 私は、この親鸞会のとらえ方に対して、死後の問題は、ごく一般的な常識として、大自然から父母を通して、命をもらってきたのだから、命終われば、また大自然の世界に帰ってゆくでいいと思っています。 そして、阿弥陀仏は、実体的な実在ではなく、究極の、無我、慈悲、利他、布施といったいわゆる真実なることがらの象徴的表現であると受け止めます。 象徴的表現とは、例えて言えば、大きなタイを釣った姿のエビスさんが、大漁の象徴であり、米俵に座って打ち出の小槌をふるうダイコクさんが、豊作と財宝の象徴のようなものです。 実際に、エビスさんやダイコクさんがいるわけではありませんね。 ですから、全てのものが、いつでも、どこでも、いつまでも、どこまでも、阿弥陀仏に抱かれているということも、そういう表現によって、真実という事柄の本質を現してあるということだと受け止めます。 それはそうですよね、悪いから、嫌いだからといって、排除したり、切り捨てたりする世界は、真実とは言えないですよね。 同じように、阿弥陀仏に抱かれて、お浄土に参らせてもらって、仏にさせていただいて、今度は、この世に還ってきて、みんなを永遠に救い導く身にさせていただくということも、真実という事柄の本質を現してあるということだと受け止めます。 こういう表現によって、真実という事柄の本質とは、真実でないものを排除せず、真実でないが故に、どこまでも捨てられず、どこまでも抱いて、真実への目覚めを与えて、完全な真実に自己同化せしめるものであるということが示してあると受け止めます。 先の「この世に還ってきて、みんなを永遠に救い導く身になる」ということもそうです。 真実なることがらの本質とは、真実でないものがいる限り、真実に安住することができず、真実でないものを、全て、絶対に真実に自己同化せしめる作用をするものという事柄が示してあると受け止めます。 ですから、死後の解決ということもあるでしょうが、真実という事柄への目覚めと、この真実にうながさ れて、真実に向かってどう生きるかということが大事 と受け止めるのです。 「物を公平に分かち合って、お互いに尊重し合い、奪わず、殺さず、差別せずに生きられるなら原始生活でも結構じゃあないか。 これが、私にとっての、阿弥陀仏や浄土の真実なることがらによってうながされて、慚愧と共に生きる生き方ということになります。 本願寺派門主・総長宛要望書 2019年5月16日 私は親鸞さまの月御命日に意思表示をします。 仏願に背く、集団的自衛権を認める安全保障関連法への明確な反対声明を教団として早急に出して下さい。 (私の思い) 御同朋の社会実現への実践教学ということを考察し ます。 教団の過去現在の総体的教学を言い表せば、「如来にお任せして安心できる教学」といえましょう。 こういう教学にかかわらず、真実に目覚めて、逆に虚仮の身と世をいとい、慚愧と共に、真実、即ち慈悲なる方向に自己も社会も促される教学というものを明確にする必要があると考えます。 仏教徒(浄土真宗門徒)として、御同朋の社会の実現に向けて、教団内外、殊に安倍首相宛、憲法九条改悪反対、日米地位協定見直し、日米安保解消、沖縄、辺野古新基地反対、死刑廃止、原発廃止から自然エネルギー変換等々、意見表明をされることを要望いたします。 合掌 非戦平和を願う真宗門徒の会会員 安芸教区山県太田組報正寺住職 城山大賢 報正寺通信2019年5月 26日(日)朝席 呉市、西教寺、岩崎智寧殿 降誕会・・26日(日)(小豆むすび、くじ引き) 筒賀5ヶ寺連合主催 これは、浄土真宗を開かれた、親鸞聖人のご誕生(1173年5月21日)に、ありがとうございますという法座です。 なぜ「誕生」と言わずに「降誕」と言うのか確かめてみます。 「降誕」とは高いところから低いところへ降りて誕生するということですからね。 と、すると、降誕とは、親鸞様が、仏や浄土の崇高なまことを、虚仮不実の低劣なこの身とこの世に伝道し、救い、導くために誕生くださったことだと受け止めることが出来そうです。 仏や浄土の崇高なまこととは、いつも申しますように、究極の、自己中心性のない、無我の世界、慈悲の世界、利他の世界、布施の世界、つまりは、絶対の平等と平和の世界といえます。 次に、虚仮不実の低劣なこの身とこの世とは、これもいつも申しますように、先の、仏や、浄土とは真反対で、自己中心性のない、無我ではなくて、自我中心そのもので、慈悲ではなくて、冷酷で、利他ではなくて、利己的で、布施ではなくて、奪い合いという、低く劣った、つまりは、差別と戦争の、この身とこの世ということになります。 次に、親鸞様ありがとうございますということを考えます。 それは、親鸞様は、仏や浄土のまことをまこととして仰ぎ、そして、この身とこの世のまことで無いことをまことでないと慚愧せしめられ、慚愧と共に、仏や浄土のまことにうながされ、導かれて生きて行く道、 つまりは、一生かけて、少しでも、優しい、暖かい、私に成れるように生きて行く道、同じように、少しでも優しい、暖かい、平等で平和な世の中になるように、人生、最後まで生きて行こうとする道を、90年の一生をかけて、示してくださったことに、ありがとうございますとお礼申すことではないでしょうかね。 親鸞様の生き方 親鸞聖人の手紙に 「この世のならいにて念仏をさまたげんひとは、そのところの領家・地頭・名主のやうあることにてこそ候はめ。 とかく申すべきにあらず。 念仏せんひとびとは、かのさまたげをなさんひとをばあはれみをなし、不便におもうて、念仏をもねんごろに申して、さまたげなさんを、たすけさせたまふべしとこそ、ふるきひとは申され候ひしか。 よくよく御たづねあるべきことなり。」とあります。 これを解釈します。 「この世のよくあることで、「念仏」を妨害する者は、「領家」(荘園の領有者)つまり今で言えば「財界」 「地頭」(幕府任命の荘園管理者)今で言えば「政界」「名主」(名田を経営管理し、年貢・公事の徴収に当たった者)今で言えば「官僚」などのようあることでございましょう。 それはいつものことでとやかく言うべきほどのことでもありません。 私達、念仏者は、あの妨害者を哀れみ、ふびんに思うて念仏をこそ、大事に申して、妨害者をたすけてあげることですと、先輩は申されていたようでしたが。 よくよくこのことをお考えなさるべきです。」と。 親鸞様御一生の念仏弾圧を紹介します。 35才、朝廷による念仏停止(死罪4人・流罪8人) 39才、後鳥羽上皇、四天王寺へ念仏停止 47才、朝廷、嵯峨清涼寺へ念仏取り締まり 50才、專修念仏停止 52才、比叡山、朝廷に專修念仏弾劾文を送る。 55才、專修念仏停止(親鸞聖人親友隆寛他3人流罪) 63才、鎌倉幕府、專修念仏禁圧 67才、念仏停止令 68才、念仏停止令 83才、関東の念仏者弾圧激化 このように念仏弾圧は続き、やっと84才頃関東の念仏弾圧は止みました。 この年表見ても、親鸞聖人の一生はほとんど念仏弾圧の一生で、それほどに、念仏の精神の拡大に対して、権力者や、権力者に守られている既成仏教は危機感を覚え弾圧したのでしょう。 たとえ、朝廷や、幕府や、比叡山、奈良等既成仏教から、どんなに迫害されても、ゆるがない念仏の精神を確認します。 ことに、重要なのは、念仏者は、弾圧者に対して敵対するというのではなく、その弾圧者に対して、どんなに弾圧されても、その弾圧者こそ、真理に暗い、悲しむべき人として、むしろ哀れみの心を持って、ふびんに思って、彼らを助けてあげようという精神があるということですね。 報正寺通信2019年4月 聖典学習会のご案内 24日(水) 朝10時〜30分(おにぎり会の中) 学習聖典・無量寿経 (現代語版浄土三部経) 住職自修 参加費無用 聖典から人生・社会の諸問題を問うてみましょう。 どうぞ誘って気楽にご参加下さい 次に中輩のものについていうと、すべての世界の天人や人々で、心から無量寿仏の国に生れたいと願うものがいて、上輩のもののように修行者となって大いに功徳を積むことができないとしても、この上ないさとりを求める心を起し、ただひたすら無量寿仏を念じるのである。 そして善い行いをし、八斎戒を守り、堂や塔をたて、仏像をつくり、修行者に食べものを供養し、天蓋をかけ、灯明を献じ、散華や焼香をして、それらの功徳をもってその国に生れたいと願うのである。 このものが命を終えようとするとき、無量寿仏は化身のお姿を現してくださる。 その身は光明もお姿もすべて報身そのままであり、多くの聖者たちとともにその人の前に現れてくださるのである。 そこでその化身の仏にしたがってその国に往生し、不退転の位に至り、上輩のものに次ぐ功徳や智慧を得るのである」 お釈迦さまが、道を求める、人間の資質を上輩、中輩、下輩という三通りに分けて、その中の中輩について説法されたということになっています。 上輩については、前々回に学びましたのでここでは省略します。(以下、お釈迦様の説法ということです。) 「心から、大慈悲の世界である、無量寿仏(阿弥陀仏)の国に生まれたいと願う、天人(架空の迷いの世界の人物)や人間で中輩の者は、上輩の者のように、修行者となって大いに功徳を積むことができないとしても、この上ないさとり(真実の体得)を求める心を起し、ただひたすら無量寿仏を念じるのです。 そして、無我や慈悲、利他、布施といった善い行いを し、一日一夜の期限を限って、僧侶と同じように、心身の行いを慎み、- 生き物を故意に殺さず、物を盗まず、よこしまな性行為をせず、-嘘をつかず、酒を飲まず 衣食住に贅沢をしないことを守り、お堂や塔を建て、仏像をつくり、修行者に食べものを供養し、天蓋(仏像や祭壇などの上の装飾用のおおい)をかけ、灯明を供え、花びらを撒き、焼香をして、それらの功徳をもって仏の国に生れたいと願うのです。 命を終えようとする時には、無量寿仏は、化身という姿を現わしてくださいます。 この化身の身は光明もお姿もすべて尊い願と行に報われた姿であり、多くの聖者たちとともにその人の前に現れてくださるのです。 そこでその化身の仏にしたがってその国に往生し、退転することのない位に至り、上輩のものに次ぐ功徳や智慧を得るというのです。」以上 実は、上輩の者には、阿弥陀仏は、その身のままに姿を現せられますが、この中輩の者には、そのままの姿ではなく、化身という姿で現れるというように差異があり、この経典作者の表現に疑念を感じます。 また、本来的には、阿弥陀仏は平等の慈悲ですから、上、中、下、どんな人であろうと、平等に同等の仏となし、同等の功徳を与えられるべきはずのものですから、この表現にも経典作者に疑念を感じます。 それ故、親鸞様が、阿弥陀仏からの、臨終来迎たのむことなく、常に阿弥陀仏の大悲と共にあると受け止められ、浄土に往生してさらに行を励んで成仏するという従来の解釈を改められて、往生すれば即、成仏すると解釈された事に、これでこそ真実とうなずきます。 無量寿経は、経典作者が、お釈迦様の悟りの内容を、多くの人に理解していただけるようにと、経典作者なりに表現したものと言えます。 お釈迦様の悟りとは、全ての物が、無限の時間空間、宇宙大自然の中で関係しあっていて、万物と自分と一体であることを感得した境地と言えます。 それ故に、みんな全てが、自分と同じく、いとしく尊いものとして、同悲、同苦する、大慈悲の境地と言えます。 ですが、無量寿経は、上記のように、経典作者の表現に問題を感じるところは他にもありますが、お釈迦様の悟りの内容である、大慈悲の世界を伝えようと様々に工夫し表現されていることは感じます。 そしてさらに、この他者の苦しみ、悲しみに、他人ごとならず、自分のこととして、同悲、同苦するという境地というものは、同時に、人々を苦しめ、悲しめている、政治社会含め全ての虚偽、邪悪への怒り、悲しみであり、悲憤の慈悲というものであろうと思います。 こういう悲憤の慈悲というものこそ、宗教、道徳、倫理、思想、哲学の違いを超えて、崇高な真実というものではないかと思います。 無量寿経の表現から、是は是、非は非として、真実と虚仮を学び続けたいと思います。 仏教は、本来、平等の思想で、この平等の仏や仏国浄土を真実として生きようとする仏教徒は、特権身分も、被差別身分も無い、みんな平等に尊重される御同朋の社会の実現を目指します。 ここに立脚しますと、この天皇制という制度は、平等に反し、仏教の目指す、御同朋の社会の実現に反するとは言えませんか。 なぜなら、天皇制は、国家として、皇族の人々を特権的に、国費で保護し、しかし、居住、信教、職業選択、思想言論、選挙等の自由が著しく侵害され、皇位継承者の場合、婚姻の自由も不完全で、皇位継承においても、長男優位、女性排除の差別があります。 天皇は、古来、武力支配、統合の権力で有ったり、他の支配権力に権威を付与する貴なる権威であったりして、民衆の平和や人権平等の社会の実現には相反するものでしかなかったのではないでしょうか。 こういう血統身分を引く、生身の個人が、国の象徴であり、日本国民統合の象徴であることは、民主主義には相いれないと思います。 こういう、国家の制度としての天皇制、皇室制度というものは、国の民主主義のため、また、皇族の人々の人権尊重の為にも、国民世論の広がりにより廃止され、皇族の人々は、自由な市民として解放されることを願います。 もとより、国家の保護制度から自由になった皇族の人々が、皇族存続について、自由であることは言うまでもありません。 報正寺通信2019年3月
21日(木) 朝10時〜30分(おにぎり会の中) 聖典から人生・社会の諸問題を問うてみましょう。 どうぞ誘って気楽にご参加下さい 3日 (水)朝席・昼席 おとき日・・・3日(水) どうぞ、誘い合ってお参りください 文字どおり、浄土の真実を宗とする教えと言えます。 浄土とは、阿弥陀仏の慈悲の世界です。 阿弥陀仏の慈悲の世界は、限りなく広く深く、全て漏らさない平等の慈悲ですから真実です。 ですから、浄土真宗とは、この浄土の真実を宗、つまり、大事なこととして、反対に、狭く、浅く、不平等で無慈悲な自分と世の中を恥じつつ、慈悲の真実にうながされながら生きて行く教えと言えます。 コスタリカは、中米の小さな国で、1948年(71年前)軍隊を捨てた国として有名です。 教育費、医療は無料です。 3年前、世界、151ヶ国のうち、地球幸福度指数で生活の上でも、精神面でもトップでした。 30年前、ソ連とアメリカの対立でコスタリカはアメリカから参戦を迫られました。 窮地の中、モンへ大統領は、アメリカの圧力に対抗し、ヨーロッパに行き、各国首脳に支援を訴えました。 帰国後、永世中立を宣言し、「平和が精神的武器だ」と述べました。 カトリック教会と世界各国がこの宣言を歓迎、コスタリカ世論も83%が支持しました。 33年前、中米は、アメリカとソ連の対立を受け、血みどろの戦争状態でした。 当時、アメリカは、コスタリカの中立路線に、資金援助を打ち切ると脅しました。 しかし、アメリカの軍事路線に断固反対し、平和への道を選び、アメリカ寄りの候補を破って当選したのが、当時44歳のアリアス大統領でした。 コスタリカの国民は、外交も、政治方針も軍事化に反対だったのです。 アメリカは、コスタリカに圧力をかけ続けました。 アリアス大統領は、外交支援をヨーロッパに求め、ローマ法王や、ヨーロッパのほぼ全首脳を尋ね、「何百万という中米人の命が私たちにかかっている、何としても失敗できない。」と訴え、説得しました。 その後、中米各国の大統領たちをホテルの一室に集めて協議するのに、アリアス大統領は、ドアに鍵をかけ、合意に達するまで出ませんでした。 中米各国はめでたく合意し、紛争を留めました。 アリアス大統領は、アメリカもソ連も驚いたはずといっていますが、世界中が称賛し、ノーベル平和賞をもらいました。 アメリカは、コスタリカを脅しましたが、アリアス大統領は、「援助を失おうとも、未来を見据えよう、この道が国益だ」と非暴力を訴えたのでした。 そして、多くの人々の支持を得て中米に対するアメリカの圧力を退けました。 16年前、アメリカ、イギリスなどは、イラクに侵攻しました。 37年前から、コスタリカは、永世中立国だったので、国民は猛反対したのですが、当時のコスタリカのアメリカ大使が、当時のコスタリカのパチェコ大統領に「国益のために参加しなければならない、とにかくイラク侵攻に賛同すべきだ」と強く勧めました。 コスタリカのパチェコ大統領は、イラク戦争にとても消極的だったのに、今までのコスタリカの平和主義に反して、アメリカのイラク攻撃の有志連合に参加を決めてしまいました。 そこで、当時法学生だった、サモラさんは、大統領を訴えました。 コスタリカ、99%の国民がイラク戦争に反対でした。 法学生の友人は「法を学ぶものとして何かすべきだよ」と言いました。 サモラさんは「訴えよう」と言いましたが、みんなに反対されました。 同級生たちは、生涯、渡米を禁じられるかもと、個人への報復を恐れていました。 大統領を訴えない理由を聞いても説得力のないみんなに怒り、サモラさんは訴状を提出しました。 コスタリカの最高裁は「イラク侵略支援が、コスタリカ憲法と平和的伝統に反する」との判決を下し、大統領が負け、学生のサモラさんが勝ちました。 9年前、隣のニカラグア軍が突然挑発的にコスタリカ領の島を占拠しました。 もしコスタリカに軍隊があれば戦争になっていました。 ニカラグア軍は軍隊を倍にしました。 ところが、当時のコスタリカのチンチャージャ大統領は平和主義に反して、国民に予備軍への参加を求め、国境警備訓練を強化したのです。 チンチャージャ大統領の支持率は急速に下がっていました。 そこで、支持率を回復するために、大統領は、ニカラグアを攻める姿勢で、国家主義的な勢いを得ようとしました。 コスタリカ外務大臣は自衛軍の必要性を説きました。 しかし、この意見には多くの人々が反対しました。 紛争が始まり、コスタリカはニカラグアの侵入を確認すると、国際司法裁判所に訴えました。 コスタリカはこれまで、国際司法機関や国連や人権合意に積極的に参加し、世界の様々な問題に取り組み、貢献してきました。 結果は国際法の大勝利、国際政策、自衛政策としての平和の大勝利で、一発の発砲なしに国際紛争が解決しました。 「ラテンアメリカを非武装が守った。軍隊は、特定の集団にとって権力を得るための道具だった。だから危険な状態を避けるためには軍をなくせばいい」とサエンツさんという人が語っています。 アリアス元大統領は「紛争解決の可能性について、外交や対話を通じ、武力に訴えず交渉し、若い人々に諦めないことの大切さを教えるのです。無防備こそ最大の防御です。軍を持たないことで弱くではなく、強くなったのです。」と語っています。 「コスタリカの非武装中立が支持されているため、我が国を攻撃すれば国際社会が黙っていません。これこそ、歴代のコスタリカ大統領が「道徳的な力」が盾になると発言するゆえんです。」と解説しています。
2回目だったのですが、1回目には見逃していた場面もいくつか発見して良かったです。 院家さんの書かれているように、コスタリカでは兵器に使うお金を社会サービス=教育費や医療費などに振り向ける政策がとられています。 実は軍備は廃棄したわけではなく、法的にはまた軍隊を持つことは可能なんだけれど、「私たちの誰も望んでいないからあり得ない」のだそうです。 確か市場のおっちゃんの、この言葉が一番印象に残りました。 自衛隊をどう考えるかはいろんなご意見があるとは思いますが、兵器を持たないでほしい、少なくとも使わないですませてほしい、という願いはかなり多くの賛成をいただけるのではないかと思います。 映画は内容が盛りだくさんで1回で理解するのは困難だと思います。 私も機会を見つけてまた見てみようと思っています。 (報正寺通信への投稿歓迎します。) 報正寺通信2019年2月 釈尊 涅槃会 ,益害平等一切有情追悼法座のご案内 16日(土)朝・昼、17日(日)朝 朝、9時半・ 昼、2時始め 「お釈迦様の一生から学ぶもの」 住職・坊守・若院 自修 お誘いあってお参りください。 今年に入ってから、思い立って、皆さんのご家庭に訪問させていただいています。 突然で、迷惑かもしれないと、ためらいながら。 それは、今まで、法話、この通信など、一方的なものですから、ともかく、何でもいいから聞かせてもらおうと思ったのです。 ただ何もなしに訪問というのも気が引けるので、平和、人権、環境等を大事にする署名運動を兼ねて訪問しています。 署名もともかく、聞かせてもらい、会話させてもらう中で、何かを、お互い共感させていただければ幸いと思っています。 故人との感動の思い出、若い時の思い出、戦時中の体験など,私も感動しながら聞かせてもらっています。 人間、まさしく文字通り、人と人との間で生かされ、学ばせてもらうものなのですね。 今後とも、迷惑でない限り、よろしくお願いいたします。 飲み物は持参しますから、心配御無用です。 去る12月8日、千代田で、この映画の実行委員に名を連ね、鑑賞しました。 コスタリカは、中南米の小さな国で、1948年(71年前)常備軍を廃止し、翌年、憲法に規定した国です。 外国軍の基地もなく、国防は、警察が担っています。 条約や国際法、国際機関との関係を強化しながら隣国との摩擦などに対処しています。 軍事費がいりませんから、医療や学費が無料です。 軍隊を捨てたのは、後の大統領、フィゲーレスでした。 彼はトルストイ、ウエルズなど平和主義者の本を読み漁る勉強家でした。 ウエルズは「未来には軍も失業者も貧富の差も存在しない」と論じた人でした。 フィゲーレスが大統領になる前、第二次世界大戦中、コスタリカでは、政治が腐敗し、民衆を恐怖で支配し、批判するものを押さえつけ、暴動が発生しました。 彼は、ラジオで政府の無能ぶりと不寛容を痛烈に批判し、話し終える前に警察に逮捕され、国外追放されました。 そこで、彼は、コスタリカの民主化のため、武力革命集団と手を組み武力革命で政府を倒します。 4千人以上が戦死します。 しかし、その後、共産主義者に理解され、共産主義者の武装を解き、そして軍を排除、そして自分たちも武装解除し、国軍を解散しました。 彼は、その時の国軍、廃止に対する、記者からの問いに、 「なぜかって?、軍隊など本来は不要ですよ、我々は民主主義を大切にしてきました。武装を解いて理想を現実にするのです。」と答えました。 彼は晩年「軍隊は過去のもの、戦争は人にとっても、地球にとっても正常ではなく、戦争は病気で平和が普通、健康のため、原因を取り去るべき。戦争は人間の原始性の表れだ」と言いました。 後の、ノーベル平和賞受賞者、アリアス大統領は、「私たちは世界に実例を示していました。軍が無くても国は成り立ちます。むしろ、コスタリカには軍隊を持つことが経済的、社会的発展の妨げです。 戦車か、生活基盤か選ばねばなりません。病院と学校をとるか、機関銃をとるかです。 我が国は福祉国家になると決めました。一方、近隣の国は軍事国家になっていきます。コスタリカが政治的社会的に安定しているのは人々の基本的な要求が満たされているからです。」と語りました。 やはり、こういう人が国のリーダにならないといい国にはならないでしょうね。 3年前、地球幸福度指数で、生活でも、精神面でも世界一でした。 「こんにちは」というような、平生の挨拶は、「プラヴィーダ」と言います。 その直訳は、「純粋な人生」という意味ですが、通常は「最高だよ」「元気でね」「楽しんでね」といったような意味だそうです。 町のおじさんが「やたらと戦争をしたがる国もあるけど、俺たちの性には合わないね。陽気な性格だからさ。集まってパーティをするのが好きなんだよ。プラヴィーダ」と言っていました。 若い父親が「この子が軍に入らずに済むように願うよ。おもちゃでも武器では遊ばせない。それが自然だ」と語っていました。 町の母親も「母親として有難いのは、この国の子たちが戦争しなくていいこと、軍隊に入らなくていいことよ」と語っていました。 ある人は、「コスタリカ人は争いを嫌います。けんかして罵り合ってもそれでも相手を呼ぶのには敬称を使うんです。とにかく万策尽くして対立を避ける国民性なんです」と言っています。 コスタリカの国連平和大学の碑文には「コスタリカ人の母は幸福にも子の誕生から兵士の道なしを知る」とあります。 ソリス大統領は、「これこそコスタリカの人々の心に深く刻まれている信念です。 【絶対に兵士にはならないと】」と語っています。(続く) 昨年度、報正寺ダーナ募金総額は37,000円でした。 布原、1,000円・大井、500円 小原、1,800円 萩原、1,200円・数舟、1,500円 本一、3,130円・本二、11,000円 本三、7,500円・本四、9,370円 山県太田組ダーナ募金会計へ・・13,000円 ビルマ難民教育支援へ・・・・ 24,000円 前年度山県太田組ダーナ募金総額は 366,454円 山県太田組内医療機関へ仏教誌施本費・240,240円 芸北福祉会へ・・・・・・・・・・・・150,000円 山県太田組内、災害見舞金へ・・・・・・40,000円 安芸教区仏婦連盟へ・・・・・・・ 30,000円 九州北部豪雨災害義援金・・・・・・・200,000円 山県太田組、災害救援基金 ・・・622,844円 報正寺通信2019年1月 親鸞聖人御命日法座のご案内
14日(月)朝・昼、15日(火)朝 朝、9時半・昼2時始め、夜席はありません 「親鸞様の御一生から学ぶもの」 ご一生から、生と死と現在の世界を考えさせてもらいましょう。 親鸞様ご絵伝、絵解き説法をします。 例年通りぜんざいをいただきます。 おさそいあっておいでください。 過年・色々ありがとうございました。 本年もよろしくお願いいたします。 越年つれづれ いつも、変わり映えありませんが、 年末年始に自分なりの思いを確かめます。 毎年、新年に遺言を書くという人がありました。 そのような思いでもあります。 年々思いは同じようでも、変化しているように思います。 年輪を重ねるごとに、経験が加わるからでしょう。 私は、中学生頃から、とにかく、「真実」とは何かということにこだわり続けていると思います。 もともと、理屈が好きで、僧侶になるのに躊躇はありませんでした。 目下も、真宗僧侶として伝道のつもりで、こだわって、毎月、寺の通信を出しています。 私なりの仏教、真宗理解と、「真実」探求表明のつもりです。 最近、「やがていつか死ぬ、だからちゃんと自分で納得できる生き方をしておかねばならない」ということを改めて思いました。 私は、ええ加減な雑学でしかなく、おこがましく恥ずかしくもありますが、私なりの仏教なり、真宗なり、物の見方、考え方を、たとえ一人でも、そして、少しでも共感してくだされば幸いと、そのためにできるだけ誠意を尽くさねばならないと思い定めた次第です。 今まで、連れ合いや、家族、親族、有縁の方々とのぞんざいな触れ合い、語り合いを反省したからです。 人の話や思いをできるだけちゃんと聞かせてもらわねばならない。 思いは、決して押し付けになってはならない。 雑談も悪くはないが、真実なる琴線に響くような会話にならなければならない等々。 いつまで続くか問題です・・・・。 今までが今までですから、期待できませんが、努力することは忘れないでおきたいと思っています。 最近、日本の安倍政権、アメリカのトランプ大統領、ロシアのプーチン大統領、中国の習近平国家主席、朝鮮民主主義人民共和国の金正恩委員長などの強権、 企業トップの超高所得、企業の内部留保金や富裕層の資産はだんだん増えても、一般労働者の実質賃金は逆に低下、粗悪品の製造等、財界の問題、公文書改ざんなどの忖度官僚の腐敗、セクハラ、パワハラ、ヘイトスピーチ、いじめ、環境汚染等々の社会問題を思います。 これらの元凶は、結局は、政界、財界、私も含め、万人、人間性への自覚の問題ということに行き着くように思いますがいかがでしょう。 人間性とは、古来、キリスト教の「愛」、仏教の「慈悲」孔子の「仁、恕」などと言いあらわされたものでしょう。 解りやすい言葉では、優しさ、暖かさ、思い合いといったものでしょう。 この人間性というものが、他の動物と違った、 人間という動物の特性と思われます。 しかし、人間も、もともと、自己や種族永続本能の動物ですから、自己中心的な獣性から完全に離れることはできません。 そこに、苦悩と慚愧がありますが、この苦悩、慚愧と共に、「愛・慈悲・仁・恕・優しさ、暖かさ、思い合い」とかいった人間性に促されて生きて行こうとする道が開けることを、救いというのであろうと教えられます。 そうではなく、慚愧なき、自己中心的な獣性むきだしの世界を迷いと教えられます。 私達は、138億年前、意味があるとは思えませんが、自然現象によってこの宇宙が始まって以来、40億年前、現れた生命現象の一つではあるのでしょう。
この宇宙も、太陽もいつか消滅に向かうといいますし、恐竜も滅んだように、人類もいつか滅ぶでしょうが、ともかく、生物は、種族保存の本能に突き動かされて生き、死によって、大自然の世界に帰ってゆくのでしょう。 人間だけが、考える動物として、利己的な種族保存の欲望、本能の獣性と、利他的な人間性との間で葛藤します。 そこから、生き方、考え方、思想、宗教、価値観、人格などに様々な違いが出てきます。 概して、獣性的欲望闘争体質のタカ派といわれる人々と人間性的人権平和体質のハト派といわれる人々に分かれてくるようです。 仏教は、この、人間性を根拠とする人権平和の究極を仏や、浄土と象徴し、この、獣性を根拠とする、欲望闘争の究極を地獄、餓鬼、畜生と象徴し、この迷妄を慚愧せしめ、人権平和の方向に導き救済しょうとする教えといえるでしょう。 報正寺通信2018年12月 聖典学習会のご案内 20日(木) 朝 10時〜30分(おにぎり会の中) 学習聖典・無量寿経 (現代語版浄土三部経)住職自修 参加費無用 聖典から人生・社会の諸問題を問うてみましょう。 「釈尊が阿難に仰せになった。 さて、無量寿仏の国に生れる人々はみな正定聚に入る。 なぜなら、その国に邪定聚や不定聚のものはいないか らである。 すべての世界の数限りない仏がたは、みな同じく無量 寿仏のはかり知ることのできないすぐれた功徳をほ めたたえておいでになる。 無量寿仏の名を聞いて信じ喜び、わずか一回でも仏を 念じて、心からその功徳をもって無量寿仏の国に生れ たいと願う人々は、みな往生することができ、不退転の位に至るのである。 ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれる 」 お釈迦様が弟子の阿難に話されたことになっています。 しかし、お経は、実際の事実ではありません。 経典作者「達」が「真理」を伝えるために創作したものです。 お経から「真理」を探りましょう。 無量寿仏(阿弥陀仏)の国に生まれる人々は、みんな、間違いなく、正定聚(仏に成ることに決まった地位)に就くとあります。 これは、仏(真理)の国に行ったものは、もう退転しないということで、真理によって、真理を目指すことが出来たものは、もう、真理に向かって、進むばかりで決して退転することが無いと読めます。 次の、阿弥陀仏の国に、邪定聚(間違った人々)や、不定聚(不確かな人々)がいないというのは、阿弥陀仏の国(真理の世界)には、自分の力で完全な真理の完成者になることが出来ると思い上がっているような人はいないし、仏を信じ、行じているつもりでも、本当はまだ、仏に成れるかどうか、不確かだというような人はいないということです。 これは、真理に目覚めたものは、逆に、真理にほど遠い自分とこの世の中を慚愧せしめられ、それ故にこそ、もはや迷うことなく、ただひたすらに、真理に導かれて歩んで行けると読めます。 次は、全世界の諸仏が、阿弥陀仏の徳を讃嘆されるということで、これは、真理の体得者は、阿弥陀仏という、無限に広く、無限に深い慈悲(真理)を讃えられないことはないと読めます。 次は、諸仏の阿弥陀仏を讃える声を聞き、その「真理」に感動し、喜び、仏の名を一回でも称え讃嘆し、心からその功徳をもって仏の国に生れたいと願う人々は、みな仏の国に行くことができ、退転しない地位に至るとあります。 これも、前述のように、真理によって、真理を目指すことが出来たものは、もう、真理に向かって、進むばかりで決して退転することが無いと読めます。 次は、ただし、五逆の罪⦅母を殺すこと,父を殺すこと,阿羅漢(真理を悟った人)を殺すこと,仏身より血を出させること,僧団の和合を破壊すること⦆を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれる
とあります。 このような、悪逆を侵して、慚愧もないものは、その慚愧もないということで、確かに、自分が救われていないので、救いからは、自ら外れています。 しかし、阿弥陀仏からすれば、このような逆悪者をこそ救わねばならないという大慈悲でいつまでも、どこまでも永遠に包んでおられます。 ですから、いつの日にか、この逆悪者も、この阿弥陀仏の大慈悲に目覚めて、慚愧せしめられて、必ず救われることになっています。 ですから、逆悪者は除かれるというのは、阿弥陀仏は、救わないというのではなく、逆悪の罪の重いことを知らせようとするための手立ての表現と、古来、言い伝えられています。 大意は、逆悪者も含め、全て、一切を救済するという無限の大慈悲というものこそが(真理)というものであるということでしょう。 2015,6年の朝日新聞記事から 高坂朝人(三五才)さんの紹介です。 自分はダメな人間、勉強苦手、運動不得意、自信がない子供でした。 狭い2DKアパート、絶えない父母のけんか、自分の部屋はありませんでした。 校則違反の、菓子、ゲーム機を学校に持参、没収され、先生に反抗して、友人の「すごい」に「認められた」と初めて感じました。 タバコを吸えば「すごい」、髪を染めると「かっこいい」で、「悪い道なら認められる」と暴走族へ、高校は一ヶ月で退学、集団暴走、窃盗、金庫破り、逮捕15回、少年院に2回入りました。 肩から腕に入れ墨を入れ、自分は変われないと思っていました。 少年審判で、自分に箔が付くと思い、「少年刑務所に行きたい」と希望しました。 その時、家庭調査官が、裁判官に、「少年院送致にしてください、この子は絶対に立ち直れると涙ながらに訴えました。 「こんな大人がいるんだ」と心に残りました。 暴力団準備構成員の時、妻の妊娠で、生まれてくる子供のために、足を洗いたいと、暴力団から逃亡しました。 生活のため、高齢者介護の仕事につき、少し話するだけで「ありがとう」と手を握られ、「金より大切なものがある」と感じました。 やがて、非行少年を支援するボランティアを始め、四年前、仲間と、NPO法人「再非行防止サポートセンター愛知」を設立し、理事長を務めています。 鑑別所や少年院に入っている少年と面会し、社会に出た後もかかわって就学や就職を応援しています。 「僕自身が犯罪を増やしたので、人生をかけて犯罪を減らす活動をしたい」と。 支援中の一人が、再び、少年院送致となったことがありました。 警察署に飛んでゆき、本を差し入れました。 「一人じゃない」と伝えたかったからです。 その少年は、高卒認定試験に合格したことは伝えましたが、悪いことは言えなかったと打ち明けました。 本当の信頼関係が出来ていなかったと支援を再開しました。 秋法座のご案内 13日(火)朝・夜 14日(水)朝 報恩講おとき日・・・14日(水)朝 朝、9時半・夜、7時半始 講師・呉市・明圓寺住職・竹田嘉円殿 お誘いあってお参りください 報恩講とは 親鸞様有難うございますという行事です。 私は、親鸞様から、阿弥陀仏や浄土の本質である、慈悲にうながされて、慈悲には程遠い自分とこの社会を慚愧せしめられつつ、なお、慈悲に向かう、自分と社会の創造に、臨終まで歩み続ける道を教えてもら ったと、そのことを有難く思っています。 人間模様・尾畑春夫さん(朝日新聞記事等) 尾畑さんは、今年、8月、山口の周防大島で、行方不明になっていた2歳の男の子を探すボランティアで、たった一人で山中に分け入り、見つけて有名になった人です。
「人の命は地球より重い」と、休む間もなく2日後には、西日本豪雨で被災した呉市に向かいました。 ボランティア歴20年以上です。 軽ワゴン車に食料寝袋など積んでのボランティアで、神様と称賛される人です。 世の中に恩返しをしたいと、今はボランティアにのみ専念しています。 貯金はなく、活動資金は、年金5万5千円だけだそうです。 お礼は一切受け取らず、節約を心がけ、車中泊をしながら全国の被災地を回っています。 7年前の東日本大震災の際は、南三陸で五〇〇日にもわたって活動しました。 九州、大分の人で、今、78才です。 大分県国頭半島の貧しい家庭に生まれました。 父は下駄職人でしたが、履き物がゴム製品に変わる頃で、商売は順調ではありませんでした。 食べるものが無かった戦後、小学校5年生の時にお母さんが栄養失調のようで、41歳で亡くなりました。 父は酒好きで、母の死後7人もの子供を抱え、下駄は売れず厳しい現実から逃れるため、やけ酒に走りました。7人兄弟の4番目で「大飯喰らいだから」という理由で、一人だけ近所の農家に、母が亡くなった、小学5年生で奉公に出されました。 この時、「世の中なるようにしかならない、やるだけやってやろう」と心を入れ替え、奉公先の主人や家族を親だと思い、何でも言うことを聞くような生活に入りました。 必死に働き、馬の餌を横から盗み食いしていました。 中学校へは4か月しか通えませんでした。 すべては生きるためでしたが、この時の経験が宝になっていると感じるに至り、恨みの対象だった父がいつしか感謝の対象に変わるのを経験したといいます。 中学を卒業すると、すぐに姉の紹介で別府の鮮魚店の小僧となりました。 別府駅に向かう際、父から30円持たされ、珍しく大盤振る舞いだなと喜んだものの、それは片道切符代に過ぎないことを知り、帰ることはできないと知りました。 鮮魚店ではアラの煮つけが出ましたが、 イモとカボチャの日々だったので「こんなうまいものはない」と衝撃を受けます。 下関、神戸で魚屋修行をし、29歳 の時、別府で魚屋を開きました。 人柄なのでしょう、人気で商売も順調 で、結婚し、二人の子供を育てました。
「かけた情けは水に流せ、受けた恩は石に刻め」という言葉が好きです。 65歳の時、なんと、「世間に広く恩返ししたい」と、惜しまれながら、店をたたみました。 そんな尾畠さんのもとには来客が絶えません。 中には人生相談をしに訪れる人もいるといいます。 「死にたい」という人の話を数日間聞くこともあります。 「人生終わるまで楽しみましょうよ」 「いのちは一つ、人生は一度、せっかく親からもらった命を無駄にしちゃいけん」と やりたいことさえできれば十分なので寄付の申し出を断っています。 将来は、沖縄のガマに生き、死にたくないのに自ら命を絶った人の骨をきれいに洗わせてもらいたいそうです。 そして、中学は四ヶ月しか登校できなかったので、八五歳になったら夜間学校にも行きたいし、最低でも後、五〇年は生きたいといわれます。(今、78才ですよ) 「今一番望むことは?」と聞かれると、「おふくろに思い切り抱きしめてもらいたい」でした。 すごい人だと、新聞を切り抜き、インターネットで調べ、紹介しました。 私たち、仏教徒、真宗門徒は、この尾畑さんのような真似はとてもできそうにありませんが、慚愧しつつ、少しでもこのように、慈悲に向かうような生き方が出来たらいいですね。 報正寺通信2018年10月 聖典学習会のご案内 25日(木) 朝 10時〜30分(おにぎり会の中) 学習聖典・無量寿経 (現代語版浄土三部経) 住職自修 参加費無用 聖典から人生・社会の諸問題を問うてみましょう。 7月は住職都合で学習できませんでした。 どうも、寺参りは、気が向かん。 足も悪いし、耳も遠い。 聞いても、聞いても、分ったような、分らんような。 報正寺の新聞も、ようわからんし、気にいらんし。 人前で住職、坊守に聞くのも気が引ける。 誰にも言えんことがある。 誰かに話して聞いてもらいたいものがある。 話して解決することでもないが、誰かに聞いてもらえりゃあとも思うが、話す相手がおらん等々。 一人でも、数人でも、昼でも夜でも。 どうぞ、気軽に、報正寺にご来訪ください。 また、気軽に、お宅にお伺いさせていただきます。 また、電話でも、手紙でもけっこうです。 何も、宗教、仏教のことにかかわりません。 何でもご自由に話してください。 お話の内容は、口外しません。 もとよりお心づかいはご無用です。 おうかがいする時は、自分用、飲み物持参します。 電話で、日時を決めさせていただきます。 今まで、思ってはいたことでした。 話し甲斐のない住職とは思いますが、遅まきながら、お知らせさせていただきます。 大変申し遅れていまして、慚愧しています。 もっと早くから皆様に申しておればよかったです。 これが本来の僧侶の務めでした。 葬式、法事などは本来の僧侶の務めではありません。 お釈迦様も、親鸞様も、誰かの葬式や法事をされたということを聞いたことがありません。 心臓が止まり、血流が止まり、目も耳も体の全ての働きが終わります。 土葬や火葬で、 肉も血も骨も大自然に溶け入ります。 一生の間の良いも悪いも含め、言ったこと、したこと願っていたこと等全てが、家庭や、地域社会、歴史の中に残ります。 それ故、一生、何をどう願って生きたかが問われます。 願いでも、個人的な願いは、記憶に残る限り、家族、親族知人友人の心の中に残るでしょう。 願いの中には、自由、平等、博愛、平和など、万人の命の中に潜在している、人間としての、人類普遍の願いがあります。 この願いを自覚的に願って生きることの出来た人はもちろん、でもたとえ、自覚的には生きられなかったとしても、死者はみんな、肉体は死んでも、この人類普遍の願いの中に永遠に生きていると言ってもいいのではないでしょうか。 霊魂などは考えにくいですが、死後の世界とは、死んで、どこか行く世界ではなく、ただこの私がいないだけの、この世界ということでしょう。 仏教の教えは、「縁起の道理」です。 「縁起の道理」とは、万物が、無限の時間、空間の中で、相互に関係しあっているということです。 この「縁起の道理」に完全に目覚めて、完全に、煩悩から解脱し、完全な、無我、慈悲、利他、布施の実践者を仏といいます。 そして、この、「縁起の道理」に完全に目覚めて、完全に、煩悩から解脱した、仏の覚りの境地を、涅槃とも滅度とも言います。 この涅槃、滅度とは、煩悩の炎の吹き消えた状態という意味です ですから、おしゃか様は、35歳で、覚りを開かれて、精神的に、煩悩から解放され、涅槃に入られましたが、肉体がある限り、生理的煩悩は無くなっていませんから、80歳で亡くなられた時を大般涅槃といって、煩悩から完全に解放されたと表現しています。 ですから、仏教から、死ぬるということをとらえれば、覚りを開こうが、開くまいが、誰にとっても、死は、煩悩から解放されるのではありますが、この、道を求めることも無く、死ぬるということは、人生を空しく生き、空しく終わるということになります。 真宗一般の教義では、みんな、阿弥陀仏の慈悲の中に、罪悪、信心の有無、異教徒にかかわらず、もらされることなく、包まれ、導かれているということになっています。 信心とは、端的に言えば、仏やその浄土に真をうなずかされ、自己や社会に真ならざることを慚愧せしめられる世界といえます。 そして、今生で信心の開かれた人はもちろん、信心の開かれない人も、阿弥陀仏に、永遠にいつまでも、信心の開けが待たれてあり、そして、いつか必ず、信心の開けによって、みんなもらされることなく、死後、浄土に往生成仏せしめられ、今度はこの世に帰ってきて、みんなを永遠に救い導く身とならせていただくということになっています。 どうでしょう。 こういう、阿弥陀様におまかせ出来て安心できるという信仰は、まず、色形なくとも阿弥陀様が何らかの形で実際にいらっしゃるという信仰が前提になっていると思います。 でも、現代、こういう阿弥陀仏や浄土の信仰を実際の事実として、有難く信仰できる人は、少ないのではと思います。 でも、こういう信仰には立ちがたくとも、阿弥陀仏を有難く思える味わいは、味わいとして成立します。 そして、阿弥陀様の差別なき、限りなく広き深き慈悲という「真」にうなずかされ、同時に、自分の慈悲ならざる、自我に閉ざされた、狭き、浅き心を恥じしめられ、それ故にこそ、その慚愧と共に、慈悲なる自己と社会の実現に向かって願わしめ、歩ましめられるものも成立す ですから、従来の信仰に立ちがたい人々は、死後については、科学からの事実そのままに、私達は、私達を生み出した、大自然の中に帰ってゆくのだと受け止められることでしょう。 そして、信仰ではなく、先に述べました、信心として、阿弥陀仏や浄土の教義の中から、「真」にうなずかされ、同時に、自己や社会の慈悲ならざる、自我に閉ざされた狭き浅き世界を恥じしめられ、それ故にこそ、その慚愧と共に、慈悲なる自己と社会の実現に向かって願わしめ、歩ましめられることでしょう。 報正寺通信2018年9月 秋彼岸法座のご案内 18日(火)朝、昼 朝、9時半・昼、2時始 『仏法と人生と社会』 住職自修 報正寺も今年から毎年、9月18日、午後1時15分に梵鐘を撞くことにします。 そのわけを記します。 本願寺教団では、無量寿経に「兵戈無用」と示され、親鸞聖人が「世のなか安穏なれ 仏法ひろまれ」と願われたことをもとに、教団の戦争協力の責任を真摯に慚愧し、非戦・平和の願いを広く発信するために、1981年より毎年、9月18日に、国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑(東京都千代田区)で千鳥ヶ淵全戦没者追悼法要を勤めています。 「千鳥ヶ淵全戦没者追悼法要」では、教団として日本国内外に恒久平和への願いを新たにするため「平和宣言」を行い、さらに「平和の鐘」を撞きます。 各地の寺院でも法要と同時刻にいっせいに鐘を撞き、平和な世への願いを発信しています。 これは、日本の関東軍の謀略によって起こった、満州事変の発端となる鉄道爆破事件です。 1931年(昭和6年、)9月18日、満州(現在の中国東北部)の奉天(現在の瀋陽市)近郊の柳条湖付近で、日本の所有する南満州鉄道の線路が爆破された事件で、関東軍はこれを中国軍による犯行とでっちあげ、以後、日本の中国侵略戦争が拡大したのでした。 結局、誰しも、これが大きな問題なんでしょうね。 「ソ、ソ、ソクラテスかプラトンか、ニ、ニ、ニーチェかサルトルか、みーんな悩んで大きくなった。」 昔、故、野坂昭如さんがテレビのコマーシャルで歌っていましたね。 釈迦も、イエスも、宗教家も哲学者もみんな悩んでそれぞれの答えを見出したのでしょう。 私達は、これら、先人の答えを参考にして、是は是、非は非で、決して、単に追従するということではなく、私ら一人一人が自分で答えを見つける他ないでしょうね。 私は、変わりばえのないことをいつもこの報正寺通信に書いています。 色々な表現を通して、自分を確認させてもらっているつもりです。 皆様に何らかのご参考になっておれば幸いです。 人間も生物の一種です。 生物は今、この地球以外の宇宙の星には見つかっていません。 生物は、この地球に約、40億年前発生して、50億種も出てきて、多くが絶滅し、今、約3千万種ですが、約50億年先の太陽の衰滅までには絶滅するだろうといいます。 本来、この大宇宙含め、生物も、全て、自然現象であって、どうしても存在しなければならないような意味はなさそうです。 人間も、本来、存在の意味は無さそうで、やがて絶滅する運命にありながら、存在する意味を考えれば、ただ、ヒトという種の存続ということになるでしょう。 そのために我欲の食欲、性欲などが仕組まれています。 また、人間は大脳が発達した猿の仲間で、大脳の古皮質が、本能欲望をつかさどり、新皮質が、理性、人間性をつかさどるといいます。 以上、科学から生きるということを考えると、本来「非」意味ながら、この欲望性と人間性との間で葛藤しつつ、自由に生きるということになるでしょう。 この世の法則「縁起」に従って生きるということです。 「縁起」とは、全ての物が、限りない宇宙大自然の中、そして歴史、時間の中で相互に関係し合っているということです。 しかも、生きることは、他の命をもらうことですから、慚愧と共に、出来得る限り、全ての物、全ての命、全ての人間、個々の尊厳性、平等性を侵さず、自己中心な考えや振る舞いを離れ、相互に、慈しみ合い、分かち合い、助け合って、奪わず、殺さず、平等、平和に生きようとするという事になります。 真宗の教義には、阿弥陀仏、その浄土、その働きの南無阿弥陀仏、浄土に行く、往生、そして浄土からこの世に還ってくるということ、悪人正機、そしてそれらを仏力(他力)として領受する信心ということなどがあります。 これらの教義の元は、無量寿経です。 この無量寿経は、おしゃか様がじかに説かれたのではなく、作者不明ですがおしゃか様が亡くなって、約5百年後に、創作されたものの様です。 このお経には、創作者がお経を何のために創作したのかも直接に書いてありません。 それは、このお経の内容から推測するしかありません。 私は、孤独、不安、罪、絶望、死後の不安、死者との再会などの苦悩を抱えた人々への救いと生き方への導きと推測しています。 阿弥陀仏のことを聞いた人々は 「こんなに罪深く、不遇で孤独で死後に不安な私らのことを、すでに見抜いて、私らをいつまでもどこまでも、支え、育み、導き、そして、命終われば、浄らかなお浄土にすべて迎えて、今まで思いさえもしなかった、大慈悲の人格の仏になさしめてくださり、そして、この世の同じく苦悩するみんなのところに還り来たらしめて、みんなを限りなく仏へと導き続ける身にさせてくださるという、尊い阿弥陀如来というみ仏様のことを初めて知らせていただいた。 あー、なんと勿体ない、今度は、今まで、煩悩によって自他共に損ないあってきた生き方を慚愧し、命のある限り、このみ仏の慈悲なる育みに促され、慈しみのある私と世の中の創造に向かって歩み続けさせてもらおう。」 (死ぬるということについては、次回に) 盆会法座のご案内
18日(土)朝・夜 19日(日)朝
初盆物故者・全戦没者追弔法要・19日(日)朝
『仏法と人生と社会』 住職自修
盆は、亡き人々をしのびつつ、仏教から、生きるということ、死ということなどを考えさせてもらう行事といえます。 父親の精子と、母親の卵子が結合して、私たちの命は始まりました。 それは、40億年前、数千分の1ミリという、原始生命誕生以来からの命の連続の中の営みでした。 宇宙は、何のために、生命を誕生させたのでしょうね。 たぶん、宇宙に、意図はなく、唯、自然の物質の様々な現象変化の中で、現れてきたのでしょう。 この40億年の地球の生命の歴史の中で、約50億種の生命が誕生し、そして絶滅し、今約3千万種の生命がこの地上に存在しているそうです。 でも、一日、約100種の生命が絶滅していて、1年に約4万種の生命が絶滅しているそうです。 いずれ、人類も絶滅すると思いますが、それも、自然現象の成り行きならどうしょうもありません。 出来るだけ、人類だけでなく、全生命の為にも、自然を汚染させないようにしたいものです。 私達が、人類という、生命の一種として生きているということは、やはり、人類という種を永続するために生きているということなのでしょうね。 私達の命の中に、そう仕組まれているのでしょう。 でも、そのように、種族の永続ということが仕組まれていても、私たちは、それに逆らって、自由に生きることは出来ます。 結婚しょうとすまいと、子供をもうけようと、もうけまいと、全く自由です。 また、人類は、大脳が発達して、他の生物と違って、精神活動をする動物です。 いろんな考え方、生き方があります。 どんな考え方を持とうと、どういう生き方をしょうとそれも全く自由です。 仏教は、慈悲という考え方に基づいた生き方を、慚愧と共に示していると思えます。 慈悲とは、友愛、博愛と、他者へのうめきという意味を持っています。 慈悲の究極を、仏や仏の世界として表現しています。 やはり、欲望のまま、自己中心のままに、わがままで、他者をないがしろにして生きる生き方では、心がとがめ、結局、より慈悲なる方向にうながされる、自分創り、社会創りに生きようとするところに、命の底からうなずける道があるように思えます。 事実では、いのちが終わり、母なる大自然の世界に、溶け入り、還って行くということでしょう。 次に、この事実とは別に、慈悲ということを味わう教義の上では、慈悲なる阿弥陀様に導かれて、慈悲なる浄土に迎えられ、慈悲なる仏と成さしめられて、いついつまでも、どこどこまでも、全ての人々を慈悲なる方向に導き続けさせてもらうということになります。 2018年7月16日 私は、我が宗祖、親鸞様の月命日に意思表示をします。 平等、平和、慈悲の仏願に背く、憲法九条改悪、集団的自衛権を認める、安全保障関連法や共謀罪、死刑、原発を即刻廃止してください。 私の思い 仏教徒(浄土真宗門徒)として、安倍首相に対し、死刑廃止施策への要望 去る、6日、オウム真理教の麻原彰晃死刑囚含め7人という、異例の死刑執行がなされました。 かねてより、慈心不殺の仏教徒として、この死刑廃止の訴えをしておりましたので、まことに無念に思いました。 国連におきましても、この死刑廃止条約は、1989年 12月,国連総会にて採択され,91年7月に発効しました。 しかし、日本はいまだこの条約を採択していません。 アムネスティーインターナショナルの昨年の統計では、死刑を法律、事実上廃止している国は142ヶ国で、全世界の国連加盟国である193ヶ国に対し、約74%となります。 死刑廃止は、国際的な人権尊重の流れの中にあります。 犯罪者のことは、個人の自己責任もありますが、犯罪を生む、国家的政治責任も考えます。 犯罪者には、命を奪う死刑ではなく、どんなに時間がかかっても、更生こそが大事と考えます。 ノールウエイを取材した、森達也さんのことがネットにあります。 ノールウエイは、死刑も無期懲役もなく、懲役は最高刑で21年、再犯率はとても低いそうです。 懲役を終えた囚人は、住まいと仕事が保障されることが、出所の条件になります。 もしもこの条件が満たされない場合には、国が住まいと仕事を保障します。 森さんは、ノールウエイの人から、「犯罪者のほとんどは、貧しい環境や愛情の不足などが原因で犯罪を起こしている。 ならば彼らに与えるべきは罰ではない。 良好な環境と愛情、そして正しい教育だ」と聞かされています。 受刑者たちの個室にはテレビが置かれていて、共同のキッチンには包丁もあり、インターネットも使えるし、家族に電話することもでき、刑務所内には学校や職業訓練校が併設されていて、受刑者たちはここで仕事の技術を身につけるそうです。 実に素晴らしいと思います。 私達のご本尊、阿弥陀様の心は、無我、慈悲の心でした。 ですから、阿弥陀様に、死刑を容認されるものは、何一つないと考えます。 阿弥陀様のこの、無我、慈悲の心に叶うように生きようとする私たちは、上記の見解のもとに、安倍総理におかれまして、死刑廃止への施策を強めてくださるよう切望いたします。 合掌 非戦平和を願う真宗門徒の会会員 広島県、報正寺住職、城山大賢 聖典学習会のご案内 25日(水) 朝 10時〜30分(おにぎり会の中) 学習聖典・無量寿経 (現代語版浄土三部経) 住職自修 参加費無用 聖典から人生・社会の諸問題を問うてみましょう。 「無量寿仏の名を聞いて信じ喜び、わずか一回でも仏を念じて、心からその功徳をもって無量寿仏の国に生れたいと願う人々は、みな往生することができ、不退転の位に至るのである。 ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれる 」 お経には何が書いてあるのでしょうか お経を学ぶということは それは、お経に表現された「真実ということがら」を学んで、自分のよりよい生き方や、世の中のよりよい在り方を学ぶことになります。 無量寿仏とは、阿弥陀仏のことです。 無量の寿命をもって、永遠にすべてを救い導く仏として、「慈悲」ということの本質を表しています。 無量寿仏の名を聞いて信じ喜ぶとは、その名の本質である、無限の広さと深さの「慈悲」に感動するということですね。 たとえ、ただ一回でもこの阿弥陀仏の慈悲への感動からこの仏を念って、心底から、この阿弥陀仏の慈悲に感動させられた功徳をもって、「この私も、この社会も、偽りの慈悲でしかないことを思い知らされて、アー、あの阿弥陀仏の完全な慈悲の国に生まれたいと願うことの出来る人々は、全て、もれることなく阿弥陀仏の国に往生することが出来、「慈悲」を仰ぎ願って生きてゆく道から、もはや退転することのない、確かな地位につくことが出来るのです。 ただし、五逆罪といわれる、父を殺し、母を殺し、真理に到達した尊い人を殺し、仏の身から出血させ、教団の和合を破るものや、仏の教えを謗るものだけは除外します。 と釘を刺して、こういう五逆罪といわれる罪の重大さを諭されます。 しかし、仏の本質は、底のない、深い「慈悲」ですから、「実は、このような重大な罪を犯すような人をこそ、大慈悲のうちに抱きとって、必ず、救い導く」との阿弥陀仏の大悲が込められています。 そして、五逆罪の、父殺し、母殺しとは、実際に命を奪わなくとも、冷たい言葉や態度で、父や母の心を殺したことでしょう。 そして、真理に到達した尊い人を殺すとは、そういう尊い人に反逆することと思えます。 そして、仏の身から出血させるということは、仏の本質の「慈悲」に背いて、冷酷なふるまいによって、自分も人も傷つけることと思えます。 次の、教団の和合を破るとは、教団の精神である、無我、慈悲、利他、布施に背いて、自己中心、冷酷、利己主義、収奪といった行いで、調和を破ることと思えます。 これら、五逆罪とは、私たちが大なり小なりやっていることで、そのことが、阿弥陀仏の心を悲しめていることと思って、行いをたしなめたいことです。 今まで、「非戦平和」などと書かれたTシャツを、色があせ、衿が少々ほつれて破れていても着続けていました。 このTシャツは、仏教徒の平和運動のアピールや、資金カンパのために、買っていたものです。 夏は、ほとんど毎日着続けていました。 ところが、この夏、私のタンスを開けると、それがすべて捨てられて、ありふれたTシャツが2〜3枚しか残されていませんでした。 以前から、坊守が、「ダサイ」とか、もう汚いとか言っていて、「もう捨ててしましなさい」などと言っていたものですから、「アー捨てられたんだ」と思いました。 一言「捨てるよ」と言ってくれればよかったのにとも思いましたが、私が、着続けることを知っているので、こっそり捨てたのでしょう。 私は、仕方ないなと、なじりもせず、残った普通のTシャツを着ています。 過日、広島では、第六回九条世界宗教者会議があり、沖縄でも、辺野古新基地反対に連帯する、真宗者の集いに参加しましたが、多くの人が、「非戦平和」や憲法九条の文言を書いたTシャツを着ているので残念に思いました。 大谷派の沖縄別院に、「兵戈無用」のTシャツが売ってあり、カンパのつもりで買えばよかったのですが、とうとうケチってあきらめました。 Tシャツがもうなければ買ったのですが、普通のTシャツがまだありますので、もったいないとも思ったのです。 私の衣類は、ほとんど、親戚からもらったもの、亡き義父の遺品、息子の要らなくなったものの貰い受け等です。 もう死ぬまでの一生分の衣類は、下着以外、買う必要はないでしょう。 私は、「仏者の一物」を理想として、物を無駄にしてはいけないと、必要に迫られないと、衣服も何もかも買いません。 実は、経済的な問題もありですがね・・・。 キリスト教のシスターなどは、衣類は、着替え用のため、ただ二枚しか持っていないと聞きます。 まあ、「愛」とか「慈悲」といったものを大事にしょうとする宗教者というものは、質素にするのが自然でしょうね。 金銀の刺しゅうなど、けばけばしい派手な衣装は宗教者としてはいかがなものかといつもいぶかしく思います。 それで、親鸞様にならって、高価な色衣を着用せず、安価で質素な黒衣で良しとしている次第です。 でも、それをおごり高ぶってはだめですがね。 見るに見かねた、坊守が、たまにあれこれと買ってくれますが、「有難迷惑だ」などと可愛げのない返事で、坊守の機嫌をいつも損ねさせています。 南無阿弥陀仏 夏法座のご案内 29日(金)昼・30日(土)朝・昼 朝9時半 昼2時始め
父の思い出です。 父がお説教に行くために、バスに乗っていた時、ご門徒の一人から「また大ウソを言いに行きんさるの」と言われたということを、母に語っていたのをそばで聞いたことがあります。 その時、ずいぶんひどいことを言われる人があるものだと驚いた記憶があります。 多分その人は、「阿弥陀さんじゃ、死んでから、お浄土へ行くんじゃいうても、本当にあるとは、とても信じられん。 そりゃあ、ウソに決まっとる。」と思い込んでおられて、私の父をなじられたのでしょう。」 この人のように、多くの人々は、宗教というのは、神さんや、仏さんや、死んでからの天国や地獄や浄土など、本当にあるものと、信じるものだと思っておられると思います。 果たしてそうと言い切れるでしょうか。 宗教とは、文字通り、宗「むね」の教え、つまり、大事な教えというとらえ方があります。 それは、神仏や、死後の世界を、本当にあるものと、信じようと、信じまいと、神仏や、死後の世界などの教えの中から、大事なことを受け止める教えというとらえ方で、私はこのとらえ方に納得します。 以前「仏教は、宗教ではない、仏教は仏教だ」という言葉にも納得したことがあります。 多分、この意味は、仏教は、一般の宗教のように、神仏や、来世、前世等、本当にあるものと信じるように説くだけの教えでは無く、仏とか、前世とか来世とかそういう表現を通して、「大事なこと」を知らせる教えだから、一般の宗教とはちがって、仏教は、仏教だと言うのでしょうね。 仏教では、仏とは、真理に目覚めたものという意味があります。 仏教の言う真理は、縁起です。 縁起とは、万物が限りなく関係しあって存在しているということです。 ですから、この縁起に目覚めたものである、仏とは、自分中心な心を離れて、全てのものを慈しむ、慈悲という、もっとも広く深い慈愛の心の実践者だということです。 さらに、ですから、仏は、この縁起の真理に目覚めていない為、自分中心で、慈悲が無く、お互いに損ないあっている、すべてのものを真理に目覚めさせて、同じ慈悲の実践者、つまり仏にしなければならないと限りなく導き続けるものということです。 これは、私たちが、人間に生まれ変わる前の命というのではなく、私たちの命に宿されている、全人類の殺しや奪いの罪の歴史、さらには、人類以前の全生命の殺し合いの罪の歴史の全体と言えます。 これも、私たちが死んでから行く実際の未来というのではありません。 先の縁起の真理に目覚めぬまま、自己中心でお互いに損ないあうだけの人生の行方を地獄等と表現し、殊に、浄土真宗の場合、阿弥陀仏の世界(浄土)として、私たち皆がもれなく、阿弥陀仏によって、導かれ、生まれさせていただくという、自分中心の煩悩から離れた、慈悲に満ちた世界として表現されたものと言えます。 文字通り、浄土の真実を宗「むね」つまり、大事にする教えと言えます。 浄土とは、先の、自分中心の煩悩から離れた、慈悲に満ちた世界ですから、こういう、真実を大事にして、反対に、自分中心で、慈悲の無い、つまり真実でない自分と、この社会を慚愧させられながら、この浄土の真実に導かれて、臨終まで、おぼつかなくも歩まされる教えということが出来ます。 2018年4月16日 私は親鸞さまの月御命日に意思表示をします。 仏願に背く集団的自衛権を認める安全保障関連法への明確な反対声明を教団として早急に出して下さい。 自民党の改憲条文案が、去る3月22日に提示されました。 それには、 「第9条の2 (第1項)前条の規定は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げず、そのための実力組織として、法律の定めるところにより、内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する。 (第2項)自衛隊の行動は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。」とあります。 本来の憲法9条の精神に於ける、自衛の措置、国防とは、あくまでも、非武装に徹し、諸国との相互信頼、互恵、協調、尊敬、対話重視外交のはずです。 我々念仏者も、殺さない、殺させない、慈心不殺、兵戈無用で、武力放棄、戦争放棄に立つべきと思います。 しかるに、自民党は、この本来の憲法九条の精神を、意図的に否定し、読み違えていると思えます。 なぜなら、自民党の国家観は、国家に、国防のための武力組織(軍隊)は必是との考え方であろうと思うからです。 我々念仏者としては、軍装の実力組織としての自衛隊は違憲であると断じ、そして、自衛隊は、軍装を解除して、内外災害救援隊等に編成替えをとの世論の高揚をはかりたいと思います。 阿弥陀様の心は、無我、慈悲の心でした。 ですから、阿弥陀様に、戦争を容認されるものは、何一つないと言えると思います。 阿弥陀様のこの、無我、慈悲の心に叶うように生きようとするなら、兵戈無用、つまり、武力放棄、戦争放棄で、国防は、諸外国との信頼、尊敬、互恵協調外交とすることと考えられます。 悲しいことは、教団の過去、阿弥陀様を仰ぎながら、戦争と一体化してきたことでした。 このような無残なことは二度と繰り返してはならない筈です。 しかるに、現実は、武力保持も、武力行使も当然とされています。 殊に、安倍首相は、上記、自民党改憲条文案に見られるように、憲法九条を改変して、自衛隊を憲法に位置づけ、国防や世界の平和貢献の名のもとに、戦力装備、拡大と、本来、戦争を絶対しないと誓ったはずの国から、戦争のできる国へと大きく国の形を変えようとしています。 教団が、この国の動きを黙認するなら、かつての戦争と一体化し、仏祖に背いた無残な過去と同じ轍を踏むことになると考えます。 改憲発議への懸念のあるこの時期、是非、早急に、教団として、内外に、殊に、自民党、安倍政権に、この、自民党改憲条文案を批判され、不戦・憲法九条堅持の表明をなされることを強く要望いたします。 合掌 非戦平和を願う真宗門徒の会会員 安芸教区山県太田組報正寺住職 城山大賢 報正寺通信 2018年5月
22日(火) 朝 10時〜30分(おにぎり会の中) 学習聖典・現代語訳・無量寿経(映像から) 住職自修 参加費無用 聖典から人生・社会の諸問題を問うてみましょう。 どうぞ誘って気楽にご参加下さい 前回の学習内容(経典の過ち)から 無量寿経は、釈尊直説ではなく、作者不明ですが、釈尊滅して、約五百年後に創作されたようです。 しかも、次に紹介する内容は、インドの原本には無いので、後に中国で漢字に訳された時、漢訳者が挿入したものと考えられます。 ですから、経典は絶対的なものとは言えません。 ここの箇所は、浄土の人々が、他の世界の人々に比べて、とても崇高な人々であるということを示そうとして、例えとして、王と貧しい人とを比べています。 少し長い内容ですが、読んでみてください。 「すべては、過去の世に功徳を積まなかったからです。財を たくわえて人に施さず、裕福になるほどますま す惜しみ、ただ欲深いばかりで、むさぼり求めて満足することを知らず、少しも善い行いをしようとしないで、山のように悪い行いを積み重ねていたのです。 こうしてたくわえた財産も、命が終わればはかなく消え失せ、生前にせっかく苦労して集め、あれこれと思い悩んだにもかかわらず、自分のためには何の役にも立たないでむなしく他人のものとなります。 たのみとなる善い行いはしておらず、たよりとなる功徳もありません。 そのため、死んだ後には地獄や餓鬼や畜生などの悪い世界に生れて長い間苦しみ、それが終ってやっと人間の世界に生れても、身分が低く、最低の生活を営みどうにか人間として暮らしているようなことです。 それに対して世の中の王が人々の中でもっとも尊ばれるわけは、すべて過去の世に功徳を積んだからであります。 慈悲の心でひろく施し、哀れみの心で人々を救い、まごころをこめて善い行いに努め、人と逆らい争うようなことがなかったのです。 そこで、命が終ればその徳によって善い世界にのぼることができ、天人の中に生れて安らぎや楽しみを受けるのであります。 さらに、過去の世に積んだ善い行いの徳は尽きないので、こんどは人間となって王家に生れ、そのためおのずから尊ばれる身となるのです。」 どうでしょうか。 貧乏で身分の低いものは、前世で悪いことをしていた報いであり、裕福な王は、前世で善いことをした報いだというように、前世、来世と、生まれ変わりを断定していますが、今ではほとんど通用しませんね。 また、貴賤の身分も、時の権力者たちが、自分を上位に置いて、民衆の分裂支配を固定するために作った不当なものでした。 そして、仏教は本来、命の尊厳、人間平等を説いて、貴賤の身分や権力差別支配などを正さねばならないものなのに、その不当さを正すことなく、容認を前提とする過ちを犯しています。 本来なら、まず、世間の貴賤の身分差別を、人間の尊厳と平等不可侵の真理(法)を説く仏法からは、過ちであると指摘しなければならない筈です。 そして、為政者の王といえども、無我、慈悲、利他、布施、平等、平和といった真理(法)に背いた生き方をすれば、自らを卑しめることになり、たとえ、身分を低く卑しめられた人であっても、無我、慈悲、利他、布施、平等、平和といった真理(法)に従って生きようとする人は、尊いのだ、というような表現をとらねばならない筈でした。 凡夫の念仏 「わしが大抵、洗濯し、干し入れをするんだけえ、ちいたあ、洗濯するわしのことを考えて、そがあに、度々着替えて、えっと洗濯物、出すなやあ」となじり発言 とはいえ、おしゃれ着などは、坊守まかせ、度々、一緒に洗濯して叱られる有り様で、ナンマンダブ 「あなたの洗濯物が少ないのは、横着で、めったに着替えんからでしょうが、それで、加齢臭がひどく、あなたの洗濯物は、汚れは落ちていないし、まだ体臭が残っていますと言われ、ヤレヤレとナンマンダブ 「冷蔵庫の食べ物が腐っとるじゃあないか、食べ物を粗末にするなあ、仏教徒としてナッチョラン、冷蔵庫の管理怠慢じゃ」と坊守を攻めると、「冷蔵庫も共同責任でしょうが、あなたは、好きなものから食べて、嫌いなものはほっといているじゃないですか」と批判され、ナンマンダブ 去る4月17日、朝日新聞の読者の投稿欄「声」に、5月3日の憲法記念日に、「私と憲法」特集をするということで、9条と自衛隊、改憲の是非、基本原理(平和主義、国民主権、基本的人権の尊重)への思いなど憲法にまつわる投稿をお待ちしていますとありましたので、投稿してみました。 多分、連絡がないので、不採用でしょう。 「私と憲法九条と自衛隊」 私は、私の考え方を、フェイスブックに、「物を公平に分かち合って、お互いに尊重し合い、奪わず、殺さず、差別せずに生きられるなら原始生活でも結構じゃあないか。 そして、憲法九条については、日本は絶対にもう戦争しないことにしたから、戦力を、コスタリカのように、絶対持たないのだと解釈しています。 それ故、自衛隊は、憲法違反だから、軍装を解いて、内外災害救援隊などに編成替えするという考え方です。 そんなことで、外国から攻められたらどうするかについては、 平素から、攻められないように、諸外国と、信頼、互恵、協調外交をして諸外国から信頼を損なわないようにすることが第一で、それでも攻められたら、非暴力で抵抗し、 国連はじめ諸外国や攻めてきた国の人民の良心に訴え、国際世論の喚起によって、攻撃がやむのを待つという方法を考えます。 たとえ、無念ながら殺されることはあったとしても、決して、我々は殺すということはしなかったという、崇高な人道に永遠であるという矜持に生きたいものだと考えています。 報正寺通信 2018年4月 永代経法座のご案内 16日 (月)朝席、夜席・17日(火)朝席 おとき日・・・17日(火)朝 ( 湯来町・一松寺・副住・高山泰秀殿 日暮らしの中の仏教 まだ寝ている家族のことを配慮せず、起きて自分勝手にごそごそすると、よく非難されます。 クソー、でも、ごもっともと ナンマンダブ。 男女平等を気負って、洗濯、食事の片付け、掃除、風呂、ゴミ係など、「わしは家事の8割をやっているとのおごりに非難されます。 「何、言ってんの、食事作りは家事の50%よ」との非難に ナンマンダブ だが、少しは食事作りも炊飯もやっていると、又おごりに ナンマンダブ 脱原発、節電、節電で、コンセント抜きまくり、「録画取れなかった、勝手に部屋に入るな等」と非難され、 ナンマンダブ 「慈悲」が仏教の根本などといつも言っているのに、「優しさや、配慮がない、話をするのが嫌になる等」とよく非難され、仏教が身についていないということかと ナンマンダブ 2018年3月16日 私は親鸞さまの月御命日に意思表示をします。 仏願に背く集団的自衛権を認める安全保障関連法への明確な反対声明を教団として早急に出して下さい。 私の思い・・・・(如来の本願に立脚した、実践伝道として、先月に引き続きます。) 仏教徒(浄土真宗門徒)として、御同朋の社会の実現に向けて、現実の諸問題に対して、意見表明されることの要望 去る、2月27日、当、安芸教区、山県太田組の研修会の講師に、本山、教学研究所から出向がありました。 私は、講師に、「無量寿経の兵戈無用を踏まえるなら、憲法九条においても、武力放棄が妥当と思いますが、どう思われますかと問いました。 講師は、私の受け止めでは、「大谷派では、原発や、安保法制などに、意見表明をされているが、世論では、賛否両論があるので、大谷派のように、一方的な態度表明はしないで、論議する場を持つことがいいと思う」というような思いを述べられました。 確かに、原発、安保法制などに、僧侶、門信徒、世論にも、賛否両論があり、判断しかねる人々も多いことでしょう。 だからこそ、無我、慈悲の本願を踏まえて、御同朋の社会の実現を目指して、大谷派のように、先ず第一に、本山が意見表明をすべきで、本派でも、本願寺、及び、宗派が率先して、誠実に、内外に意見表明をすることが、世間の惑いを晴らし、仏祖の意に沿う、実践伝道布教ということになると思います。 もちろん、本山の見解に反対の人々への、排除、忌避ではなく、宗祖の如き、憐れみをなし、悲しみの心、つまり歎異を踏まえた表明でなければならないことは言うまでもない、大事なことと思います。 そして、そういう歎異を踏まえた表明を基に、各教区、各組、各布教団、仏教婦人会、仏教壮年会などの全組織を挙げて、研修、伝道布教の成果を上げるようにしたいものと思います。 阿弥陀様の心は、無我、慈悲の心でした。 ものは、何一つないと言えると思います。 阿弥陀様のこの、無我、慈悲の心に叶うように生きようとするなら、兵戈無用、つまり、武力放棄、戦争放棄で、国防は、諸外国との信頼、尊敬、互恵協調外交とすることと考えられます。 悲しいことは、教団の過去、阿弥陀様を仰ぎながら、戦争と一体化してきたことでした。 このような無残なことは二度と繰り返してはならない筈です。 しかるに、現実は、武力保持も、武力行使も当然とされています。 殊に、安倍首相は、憲法九条を改変して、自衛隊を憲法に位置づけ、国防や世界の平和貢献の名のもとに、戦力装備、拡大と、本来、戦争を絶対しないと誓ったはずの国から、戦争のできる国へと大きく国の形を変えようとしています。 教団が、この国の動きを黙認するなら、かつての戦争と一体化し、仏祖に背いた無残な過去と同じ轍を踏むことになると考えます。 改憲発議への懸念のあるこの時期、是非、早急に、教団として、内外に、殊に、安倍政権に、不戦・憲法九条堅持の表明をなされることを強く要望いたします。合掌 非戦平和を願う真宗門徒の会会員 安芸教区山県太田組報正寺住職 城山大賢 報正寺通信 2018年3月 聖典学習会のご案内 17日(土) 朝、9時半・昼、2時(各2時間) 住職自修 参加費無用 聖典は、仏教の原典です。 聖典から人生・社会の諸問題を問うてみましょう。 どうぞ誘って気楽にご参加下さい 前回の学習内容から 「それらの聖者たちは智慧が深く明らかで、自由 「それらの聖者たち」とは、仏国浄土の聖者のことです。 仏国浄土の聖者といっても、もちろん、実在ではなく、まことの世界の、まことの人としての、象徴的な表現です。 この聖者たちは、たとえ、どんなに罪が深い者であっても、彼らを他者と見ず、自分と一体に観ることができるという、そういう智慧が深く、しかも、明瞭であると表わしてあります。 去年、神奈川県座間市のアパートで9人の女性を誘って、殺害し、遺体を切断した事件がありました。 このような罪悪深重な犯罪者であっても、決して忌み 嫌うことなく、その犯人と一体となれる智慧と慈悲を 持つというのですから、我々のような好き嫌いの分別 世界を超えています。 そして、自由自在な力を持ちというのは、これは、体の力ではなく、どんな、凶悪な人でも、自由自在に、自己慚愧せしめて、本来のまことの人間に立ち返らせることが出来るという、精神的な力のことですね。 そして、手の中にすべての世界を保つことが出来るというのは、世界の全てを自分のこととして保持し、慈しみ、担うことが出来て、全ての人間や社会の苦悩を自分の責任として抱きかかえて、決して、他人事として放置することが出来ないという世界ですね。 東日本大震災による津波や、福島原発事故による、故郷、家族喪失・離散の悲嘆も、沖縄の米軍基地による、沖縄の人々の苦悩も、テロによる親族殺害の悲惨なども他人ごとならず、全人類、人間の同じ罪や悲しみとして、担うことが出来るというのですね。 浄土の聖者とは、こういう尊い人達であるということを表現して、私たちやこの社会の自己中心的で、好きか嫌いか、敵か味方かといった取捨選別の無慈悲で冷たいあり方に自己内省をはかる諭しと受け止めることが出来ます。 爺さんの、手前勝手な孫育てということで、私は、この子が生まれてからずーっと、同じことを語りかけ続けています。 ミルクを飲ませる時、寝かせる時、抱いて、本堂の階段などで気分転換させる時、 家族は、また、洗脳しているなどとなじりますが、やめません。 紹介します。 「灯里さん、あんたはね、わしらも、138億年前の宇宙からやって来たんよ。 太陽や、地球が出来て46億年、 生命が誕生して、40億年、 人類が出てきて700万年、 わしらがアフリカで出てきて20万年、 アフリカから、飛び出してきて10万年 日本へ来たのが4万年前 づーっといのちは続いてきたんよ。 あんたの名前は灯里さん。 あんたのお父さんお母さんがつけてくれたのよ。 あんたの名前は、灯りの里よ。 この暗い世界に灯りを灯してください。 この暗い世の中を明るくしてください。 自由のあかり、平等のあかり 博愛のあかり、平和のあかり。 人権尊重のあかり、格差是正のあかり、 環境保全のあかり。 仏様の教えではね、無我のあかり、慈悲のあかり、 利他のあかり、布施のあかり、 人々の心の中に、菩提心(願作仏心・度衆生心)のあかりを灯してください。」 等と語り続けています。 黙ってあやすのも芸がないと思い、自分にも言い聞かせるつもりで語っています。 ハイハイも出来ない時、寝かせる時は、 「四弘誓願」 (衆生無辺誓願度 .煩悩無数誓願断 .法門無尽誓願学 .仏道無上誓願成)や、 「法の深山」 法のみ山のさくら花 昔のままに匂うなり 法のみ山のほととぎす
昔のままに名のるなり を歌っていました。 今は、言葉と言えば、「アーッ」といって眼新しいものに、関心を示したり、「マンマンマンマン」といって、食べ物を催促するぐらいです。 いつも、私の語りには上の空ですが、繰り返し同じようなことを語り聞かせていると、いつか、覚えてくれてもいいなと期待しているのです。 報正寺通信2018年2月 釈尊 涅槃会 14日(水)朝・昼、15日(木)朝 「お釈迦様の一生から学ぶもの」 ( かつて紹介しましたが、インターネットのフェイスブックに、自己紹介としたものを再度紹介してみます。 それは、「物を公平に分かち合って、お互いに尊重し合い、奪わず、殺さず、差別せずに生きられるなら原始生活でも結構じゃあないか。 これが、私の今まで、仏教やその他のささやかな学びの中でとらえた、私なりに願う自分の生き方と、社会の在り方です。 多分に、理屈だけで、とても自分の身についていないことを恥じつつ。 毎月、寺の通信を出し、布教をしているが、一体、私は何を伝えようとしているのかの確かめです。 それは、前述にあるように、私なりに仏教やその他のささやかな学びを通して、私の願いとさせていただいたものを、少しでも、皆さんに共感していただければ幸いと思っていることが私の伝道布教です。 度々述べさせてもらっていますが、阿弥陀仏や、浄土の実在への信仰を勧めているのではありません。 阿弥陀仏や、浄土と象徴表現されたものから、その中身である、無我とか慈悲といった意味を受け止める、信心というものを勧めています。 釈尊は阿難に仰せになった。 「 今よりはかり知ることのできないはるかな昔に、錠光という名の仏が世にお出ましになり、数限りない人々を教え導いて、そのすべてのものにさとりを得させ、やがて世を去られた。次に光遠という名の仏がお出ましになった。その次に月光(他の49仏、中略)処世という名の仏がたが相次いでお出ましになって、みなすでに世を去られた。 その次にお出ましになった仏の名を世自在王といい、如来・応供・等正覚・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊と仰がれた。そのときひとりの国王がいた。世自在王仏の説法を聞いて深く喜び、そこでこの上ないさとりを求める心を起し、国も王位も捨て、出家して修行者となり、法蔵と名乗った。才能にあふれ志は固く、世の人に超えすぐれていた。この法蔵菩薩が、世自在王仏のおそばへ行って仏足をおしいただき、三度右まわりにめぐり、地にひざまずいてうやうやしく合掌し、次のように世自在王仏のお徳をほめたたえた云々」 阿弥陀仏の前身が法蔵菩薩です。 阿弥陀仏は、元、国王であって、仏の説法を聞いて、感動し、王や国への欲望を捨て、無我、慈悲を完成した一切の救済者としての成仏を求めたという物語です。 このように、神話(いや、仏話)のような表現から、仏教の本質の「無我」」慈悲」といった意味を受け止めます。 2017年12月16日 私は、我が宗祖、親鸞様の月命日に意思表示をします。 平等、平和、慈悲の仏願に背く、憲法九条改悪、集団的自衛権を認める、安全保障関連法や共謀罪、死刑、原発を即刻廃止してください。 (仏教徒(浄土真宗門徒)として、天皇制についての意見表明) 仏教は、平等の思想です。仏も、仏国浄土も平等の象徴表現です。この平等の仏や仏国浄土を真実として生きようとする仏教徒は、特権身分も、被差別身分も無い、みんな平等に尊重される社会を目指します。 ここに立脚しますと、この天皇制という制度は、平等に反します。 なぜなら、天皇制は、国家として、皇族の人々を特権的に、国費で保護し、しかも、居住、信教、職業選択、思想言論、選挙等の自由が著しく侵害されているからです。 皇位継承者の場合、婚姻の自由も不完全で、皇位継承においても、長男優位、女性排除の差別があります。 日本国憲法 〔第1条〕には、「 天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であってこの 地位は主権の存する日本国民の総意に基づく」とあります。 天皇は、古来、武力支配、統合の権力で有ったり、他の支配権力に権威を付与する貴なる権威であったりして、民衆の平和や人権の平等には相反するものでしかありませんでした。 こういう血統身分を引く、生身の個人が、国の象徴であり、日本国民統合の象徴であることは、民主主義には相いれないと思います。 天皇の、国家および国民統合の象徴というのは、国民の総意に基づくとされていますが、国民世論の総意がはかられたことはいまだに一度もありません。 こういう、国家の制度としての天皇制、皇室制度というものは、国の民主主義のため、また、皇族の人々の人権尊重の為にも、国民世論の広がりによって、廃止され、皇族の人々は、自由な市民へと解放されることを願います。 もとより、国家の関与を離れた皇族の系譜の人々が、皇族の存続について、自由であることは言うまでもありません。 非戦平和を願う真宗門徒の会会員 広島県、報正寺住職、城山大賢 昨年度、報正寺ダーナ募金総額は24,400円でした。 布原、1,000円・小原、1,500円 萩原、1,200円・数舟、1,500円 本一、3,000円・本二、6,000円 本三、6,500円・本四、3,700円 山県太田組ダーナ募金会計へ・・13,000円 ビルマ難民教育支援へ・・・・ 11,400円 前年度山県太田組ダーナ募金総額は 376,091円 山県太田組内医療機関へ本願寺新報・仏教誌施本と事務費 ・・・ ・・・・222,580円 芸北福祉会へ・・・・・・・・・・・・150,000円 山県太田組内、災害見舞金へ・・・・・・20,000円 安芸教区仏婦連盟へ2年分・・・・・・・60,000円 山県太田組内、災害救援基金総額・・・916,622円 報正寺通信2018年1月 過年・色々ありがとうございました。 本年もよろしくお願いいたします。 15日(月)朝・昼、16日(火)朝 朝、9時半・昼2時半始め、夜席はありません 「親鸞様の御一生から学ぶもの」 住職自修 共に、親鸞様のご一生から、生と死と現在の世界を考えさせてもらいましょう。 例年通りぜんざいをいただきます。 おさそいあっておいでください。 年越しの節目にいつも生と死を再確認します。 私は、この宇宙の、地球の、日本という国の、広島山中の筒賀の、報正寺という寺に、あの父や母のもとに、サルでもなく、人間の男として、私なりの体質や気質などをもって生まれてきました。 自分で選んだわけではありません。 この、いろんなめぐりあわせの中で、思えば生かされて、そして生きてきて、やがて死にます。 なぜ存在しているのか? それは、138億年前の宇宙が始まって以来の自然現象のなせるもので、この世界や私を創り、支配し、操っている、意志を持った何かがいるとは、今も考えられません。 生まれたものは必ず死ぬるが、生とは、死とは? この宇宙も、太陽もいつか消滅に向かうだろうといいますし、恐竜も滅んだように、人類もいつか滅ぶでしょうが、ともかく、生物は、種族保存の本能に突き動かされて生き、死によって、自然の世界に分散してゆくのでしょう。また、人間は、考える動物であるゆえに、欲望、本能だけでなく、理性、人間性との間で葛藤します。 そこで、考え方、思想、宗教、価値観、人格などに千差万別の違いが出てきます。 概して、金権戦争体質のタカ派といわれる人々と人権平和体質のハト派といわれる人々に分かれてくるようです。 仏教は、この、人権平和の究極を仏や、浄土と象徴し、この、金権戦争の迷妄を慚愧せしめ、人権平和の方向に導き救済しょうとする教えといえるでしょう。 全世界が危惧する大きな問題です。 仏教徒として、考えてみます。 まず日本としては、北朝鮮も含め、中国、韓国他アジア諸国に対して、かつて日本が侵略戦争を仕掛けて甚大な被害を与えてしまったという、国家としての罪を誠実に謝罪し、被害を受けた市民にきちんと補償することをしなければならないと思います。 このこと抜きには、この北朝鮮始め、諸外国に真に信頼されることはありえないと思います。 ドイツは、ナチスドイツ時代の罪責を内外に誠実に謝罪し ましたが、日本は、かつての戦争国家を容認する、教科書を認定するなど、日本の戦争への国家罪責が、未だにきちんと果たされていない状況です。 まず、この日本が、世界に信頼される国に回復しなければなりませんが、それはこの北朝鮮のみならず、世界のどの国にとっても大事なことと思われます。北朝鮮においては、 金正恩委員長はじめ、その体制を支える人々が、今までの強権政治を誠実に慚愧し、核兵器、ミサイル開発をやめ、朝鮮人民の生活安定を優先し、恐怖政治をやめ、諸外国と互恵和平、人道友好路 線をとるように変革すればいうことはありません。 それは、タカ派体質の、安倍総理にも、アメリカのトランプ大統領にも、中国の習主席にも、ロシアのプーチン大統領にも韓国の文大統領にも言えることで、武力によらぬ、諸外国との互恵和平、人道友好路線をとることを われわれ仏教徒は、全世界に訴え続けるしかないように思います。 たしかに、金正恩体制は、特異な横暴政権と思います。 しかし、アメリカ、ロシア、中国も、核兵器を持っていて、北朝鮮はじめ、そのほかの国に、核兵器を持つなというのも、勝手な横暴と思います。 日米韓が、軍事演習などで、北朝鮮に敵意や恐怖を煽るようなことを強める限り、金正恩体制は、とても核兵器を手放さないでしょう。こういう状況の中で、アメリカも、金正恩体制も武力暴発をすれば、世界的な破滅危機を招く恐れがあります。北朝鮮の民衆には、気の毒ですが、金正恩体制の核兵器開発中止まで、経済制裁を続けるのが有効かと思います。 本来なら、日米韓はじめ諸国は、金正恩体制に対しては、核兵器を手放せと圧力をかけ続けるより、一端、やむなくも、核兵器保持を容認しておいて、 でも、全世界お互いに、核兵器縮減、廃絶に 向けて努力しょうと持ち掛け、ともかく、人民の疲弊困窮をなくし、恐怖政治を終えるよ うに進言し続けることが大事であろうにと思うことです。 繰り返しますが、我々、慈悲を踏まえて生きようとする仏 教徒としては、徹底して、兵戈無用の絶対平和主義、戦争放 棄で、武力行使ではなく、どこまでも、諸外国との互恵和平、 人道友好路線を、全世界に訴え続ける以外にないと思います。 報正寺通信2017年12月 聖典学習会のご案内 24日(日) 朝 9時半〜 昼2時半~ 学習聖典・無量寿経 住職自修 参加費無用 聖典から人生・社会の諸問題を問うてみましょう。 前回の学習から 「この光明に照らされるものは、煩悩が消え去って身も心も和らぎ、喜びに満ちあふれて善い心が生れる。 もし地獄や餓鬼や畜生の苦悩の世界にあってこの光明に出会うなら、みな安らぎを得て、ふたたび苦しみ悩むことはなく、命を終えて後に迷いを離れることができ 解説 この光明とは、阿弥陀如来の光明です。 阿弥陀如来の光明とは、阿弥陀如来の智慧です。 阿弥陀如来の智慧とは、阿弥陀如来が全てのものを、他人ごとに見られず、慈悲をもって、自分と一体に見られる智慧のことです。 すべてのものを他人ごとにしか見られない私らとはまるで違います。 この阿弥陀如来の、万物を一体に見られる智慧に照らされるということは、先に述べた、すべてのものを、家族ですら、他人ごとにしか見られない、私らの世界を慚愧せしめられ、またそれ故にこそ、阿弥陀如来の全てを他人ごとにできない尊い世界を、「真実なること」として仰ぎ、あこがれる世界が心の中に開けるということと思われます。 次に、この阿弥陀如来の光明に照らされて煩悩が消え去るということを考えます。これは、阿弥陀如来の智慧の世界が真実だと知らされ、自分中心な自分が恥ずかしいと知らされているものは、自分中心な心が起きた時、それを恥ずかしいことと恥じる心も起こされ、同時に、他者のことを配慮して生きて行かねばならないという、生き方にうながされてゆくがゆえに、たとえ一時でも、自分中心な煩悩が消えてゆくということを表してあると思います。 そして、そこには、次の文章の「身も心も和らぎ、喜びに満ちあふれて善い心が生れる。」にあるように、わがままでかたくなな身(態度)も心も柔らかくなり、満ちあふれるということではなくとも、ささやかでも喜びが生まれ、自然に、善い心(向上への願心)も生まれているということでしょう。 次に、「もし地獄や餓鬼や畜生の苦悩の世界にあってこの光明に出会うなら、」とあります。 地獄というのは、シリアなどの、戦争状態のようなことと受け止めます。 餓鬼とは、戦争を仕組む、強欲為政者やその戦争の被害者である難民などの飢餓状態と受け止めます。 畜生とは、戦争という欲望、煩悩を是認する為政者や、彼らに従属させられている国民と受け止めます。 たとえこういう、悲惨な状況にあっても、この阿弥陀如来の、一体の知恵と慈悲に、「真実なること」ということを受け止めることが出来るならばということですね。 「みんな安らぎを得て、ふたたび苦しみ悩むことはなく」ということは、みんな、どんなに過酷な状況でも、真実に生きて行こうとする姿勢だけは、ゆらぐということが無く安定しているので、何のために生きるのかというようなことで、不安で苦しみ悩むということはないということでしょう。 真実に生きて行こうとするということは、煩悩から完全に離れることはできないけれども、慚愧と共に、阿弥陀如来の知恵や慈悲と表わされた、「真実なること」に促されて、あるべき自己とあるべき社会の創造に向かって、どんな苦悩があっても、臨終まで生きて行こうとすることと思えます。 こういう生き方が成立せしめられるという、安らぎを得てもなお、苦しみ、悩みから完全には逃れられることはないけれども、決して、苦しみや悩みに落ち込んでしまいっぱなしになるということはないということでしょうね。 最後の、「命を終えて後に迷いを離れることができる。」 これは、みんな、浄土真宗の教えに遇えて、命終えて、阿弥陀如来にすくわれて、浄土に往生させられて、阿弥陀仏と成さしめられるがゆえに、完全に煩悩の迷いから離れることが出来るということです。 このことは、従来、実際の事実として、ありがたいことと、信仰の上でうけとめられてきましたね。 現代、こういう従来の、阿弥陀如来と往生浄土信仰というものを、そのままに、受容できる方と、そうでない方があると思います。 大事なことは、従来の信仰が受容できようと出来まいと、阿弥陀仏や往生浄土の教義に、「真実なること」と受け止めることが出来るかどうかということと思えます。 この阿弥陀如来によって、往生成仏し、阿弥陀如来と同等の仏となるという教義、ここに、「真実なること」とは、真実ならざるものを常に育み、必ず、もれなく、一切を真実なるものに自己同化せしめるという、「真実なること」の法則、道理というものが物語られていることがうかがえます。 安倍総理宛要望書 2017年11月16日 私は、我が宗祖、親鸞様の月命日に意思表示をします。 仏願に背く、憲法九条改悪、集団的自衛権を認める、安全保障関連法や共謀罪、死刑、原発を即刻廃止してください。 私の思い 仏教徒(浄土真宗門徒)としての国防論について。 仏教の開祖、おしゃか様の言葉として伝わっている、ダンマパダ 129、130に すべての者は暴力におびえる すべての者は死を恐れる 自分がされたらと思って 殺してはならぬ、殺させてはならぬ (129) すべての者は暴力におびえる すべての者には命は愛しい 自分がされたらと思って 殺してはならぬ、殺させてはならぬ (130)とあります。 また、浄土真宗門徒の所依の経典である、無量寿経に、「仏所遊履、兵戈無用」という文言があります。 これは、「仏の教えの行き渡るところ、兵隊も武器も用いることが無い」と読めます。 以上から、兵戈無用の仏教徒、真宗門徒の国防論としては、自衛隊違憲論で、大事なことは、国が攻められるようなことになる以前から、無軍備、丸腰で、諸外国との互恵、尊敬、人道的協力、支援という、諸外国から信頼され、攻めようにも、とても攻めることが出来ないような崇高な国創りによって、国防とする国づくりを目指し、それを世界にも広げるという、絶対平和主義といわれるような考え方で、自衛隊は、軍装を解いて、内外救援隊にという論です。 そして、諸外国は、警察力は保持しても、国家としての軍隊は、国連に移管し、国連のみが、諸国の軍備を統括するけれども、それ以前に、五大国が拒否権を持つ非民主的な国連を、民主的に改正し、民主的に新生した、国連のみが、国際的な警察、裁判権を持ち、国際紛争解決にあたるというものです。 我が国においても、アメリカ等と共なる武力行使でなく、あくまでも、戦時中のアジア侵略という国家の過誤を誠実に謝罪し、朝鮮民主主義人民共和国含めアジア諸国・諸外国から信頼されるべく、決して妥協ではなく、是々非々で、互恵相互尊重外交を粘り強く展開されるよう切望します。 合掌 城山大賢 報正寺通信2017年11月 秋法座のご案内 29日(水)日中~30日(木)日中 報恩講おとき日・・・30日(日)日中 日中、9時半・夜、7時半始 講師・三次市・西善寺住職・小武正教殿 お誘いあってお参りくださいませ 報恩講とは 親鸞様有難うございますという行事です。 私は、親鸞様から、阿弥陀仏や浄土の本質である、慈悲にうながされて、慈悲には程遠い自分とこの社会を慚愧せしめられつつ、なお、慈悲に向かう、自分と社会の創造に、臨終まで歩み続ける道を教えてもらったと、そのことを有難く思っています。 仏教徒としての、衆議院選挙への思いその1 選挙に投票しない人が半数近くあるということは、それほど政治に絶望か、無関心の人があるほどに、政治の責任、ひいては、そういう政治にした民衆の責任、もっと言えば、そういう政治、民衆にした、僧侶の責任を思います。 「五濁増のしるしには、この世の道俗ことごとく、外儀は仏教のすがたにて、内心外道を帰敬せり。」 「世の濁りが増した証拠に、この世の僧侶も俗人もみんな、形だけは仏教だが、心の中は、仏教でない」との親鸞様の嘆きを思います。 小選挙区では、自民党48%の得票で、議席は75%を占め、一票の格差が2倍以上あるとは、この選挙制度が民主的でありません。 一票の格差なく、得票に応じた、公平な、比例議席配分の制度に変えねばならないと思います。 従来の、首相の特権的解散権は、イギリスも首相の専横だと変更したように、変更しなければならないと思います。 本来、日本国憲法第41条『国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である』のとおり、国会の解散権は、内閣でも首相でもなく、国会そのものであると思います。 この解散の実質は、言われるところの、安倍首相による、森友、加計学園疑惑からの逃避と 民進党の弱体化と希望の党の準備不足を見ての勝利予測という、姑息さを思います。 選挙の大義を安倍首相は、北朝鮮の脅威と消費税の教育無償化への転換などと言っていました。 アメリカのトランプ大統領に追随し、武力行使含む圧力路線で、対話柔軟路線の消極的な安倍首相や、武力行使容認の自民党候補者40%、維新、約78%は、兵戈無用の仏教徒の、非武装、絶対平和主義とは相いれないと思います。 教育費無償化も、1千兆円以上の借金財政を考えれば、一律ではなく、所得制限をすべきだと思います。 立憲民主党 綱領(2017年10月2日)には 「五. 国を守り国際社会の平和と繁栄に貢献する」 私たちは、専守防衛を前提に外交安全保障における現実主義を貫く。 我が国周辺の安全保障環境を直視し、自衛力を着実に整備して国民の生命・財産、領土・領海・領空を守る。日米同盟を深化させ、アジアや太平洋地域との共生を実現する等とあります。 このように自衛隊の武力行使是認論であり、我々戦争放棄の仏教徒としては相いれません。 2017年1月18日の日本共産党第27回大会決議には「安保条約を廃棄した独立・中立の日本が、世界やアジアのすべての国ぐにと平和・友好の関係を築き、(中略)かなりの長期間にわたって、自衛隊と共存する期間が続くが、こういう期間に、急迫不正の主権侵害や大規模災害など、必要に迫られた場合には、自衛隊を活用することも含めて、あらゆる手段を使って国民の命を守る。」とあります。 このように自衛隊の武力行使活用論であり、我々戦争放棄の仏教徒としては相いれません。 我々仏教徒としては、ともかく、武力によって解決することをしないので、自衛隊の軍装を解除する、世論拡大につとめます。 社会民主党宣言には、「国連憲章の精神、憲法の前文と9条を指針にした平和外交と非軍事・文民・民生を基本とする積極的な国際貢献で、世界の人々とともに生きる日本を目指します。(中略) 現状、明らかに違憲状態にある自衛隊は縮小を図り、国境警備・災害救助・国際協力などの任務別組織に改編・解消して非武装の日本を目指します。 等とあります。 非軍事・文民・民生を基本とするとありますから、われわれ仏教徒の考えに近いと思えます。 自衛隊違憲論で、大事なことは、国が攻められるようなことになる以前から、無軍備、丸腰で、諸外国との互恵、尊敬、人道的協力、支援という、諸外国から信頼され、攻めようにも、とても攻めることが出来ないような崇高な国創りによって、国防とする国づくりを目指し、それを世界にも広げるという、絶対平和主義といわれるような考え方で、自衛隊は、軍装を解いて、内外救援隊にという論です。 そして、諸外国は、警察力は保持しても、国家としての軍隊は、国連に移管し、国連のみが、諸国の軍備を統括するけれども、それ以前に、五大国が拒否権を持つ非民主的な国連を、民主的に改正し、民主的に新生した、国連のみが、国際的な警察、裁判権を持ち、国際紛争解決にあたるというものです。
聖典学習会のご案内 18日(水) 朝 10時〜30分(おにぎり会の中) 学習聖典・無量寿経 住職自修 参加費無用 聖典から人生・社会の諸問題を問うてみましょう。 「死後、阿弥陀仏によって、浄土に迎えられ、仏となさしめられて、今度は、この世に還ってきて人々を救うということについて」 さて、信じられますか? これは、一般的な真宗の教えです。 こういう阿弥陀仏、往生浄土信仰 というのは、無量寿経によります。 無量寿経は、作者不明ですが、およそお釈迦様が亡くなられて500年後、今から約2千年前、インドで創作されたといいます。 どういうわけで、創作されたのかは、推測するしかありません。以下、私の推測です。 本来仏教は、この世で仏になる教えです。 仏になるとは、煩悩から解放され、 大慈悲の人格者になることです。 これが仏道の基本です。 お釈迦様が、悟りを開いて、仏になられたといいますし、その他、弟子たちも悟りを開いたといわれていますが、実際は、お釈迦様でも、生身の身を持っている限り、煩悩から完全に解放されて、完全な慈悲を実現されたということは言えないと思います。 しかし、完全な慈悲への道を歩まれたということはできると思います。 当時、そのように、仏を目指して修行するような人はまれで、多くの人が、それどころではなく、生きて行くのに精いっぱいで、さまざまな苦悩に振り回されていたと思います。 生い立ちや、家庭の不遇、人間関係の不信、心身の不調、しょうがい、罪悪感、病苦、老苦、死苦、孤独、不安、死後の恐怖、死者との再会への憧れなどを思います。 そこで、この苦悩の人々をいかにして救い、そして、仏道に導くかということが、経典創作者の問題であったと思います。 そこで、経典とは、経典作者が、この苦悩の私たちを、いつでもどこでも育み、導き、命終わって、必ず、皆を最高の仏にしてくださり、そして、今度はこの世に還ってきて、いつまでも、どこまでも限りなく、この世の苦悩のみんなを導き続けさせてくださる、阿弥陀仏という仏がいてくださることを信仰できるように説かれたものと推測するのです。 そうして、みんなにこの阿弥陀仏への信仰によって、救いと癒しと安心をもたらして、仏道に導かれるようになっているものと考えます。 この阿弥陀仏のことを聞いた、苦悩の民衆は、「アー、今まで知らなかったが、こんな不遇で、不幸で、罪な、そして、老、病、死におびえ、孤独で淋しく、悲しく、空しく、不安な私のことを、すでに見抜いて、私をいつまでもどこまでも、支え、育み、導き、そして、命終われば、清らかなお浄土に、みんなを迎えて、今まで思いさえもしなかった、高大な、大慈悲の人格の仏になさしめてくださり、それで終わりではなく、今度は、この世の同じく苦悩するみんなのところに還り来たらしめて、みんなを限りなく導き続ける身にさせてくださるという高大な阿弥陀如来というみ仏がいてくださったことを初めて知らせていただいた。 あー、なんと有難いことであろう、 私は、生まれて初めて、安心と救いをいただくことが出来た。 今度は、今まで自我の煩悩に沈み込んで自他共に損ないあってきた生き方を改めて、命のある限り、この御仏のことをみんなに伝え、そして、この御仏の願いに促されて、成仏という、慈悲の方向に向かう、私と世の中の実現のために歩み続けさせてもらおう。」と救われてゆかれたと思います。 ですから、上記の「死後、阿弥陀仏によって、浄土に迎えられ、仏となさしめられて、今度は、この世に還ってきて人々を救うということ」は、この阿弥陀仏信仰の教えの中身を語っているのです。 ですから、こういう、阿弥陀仏信仰を素直にそのまま受け入れられる人はそれでいいと思います。 ですが、こういう信仰をどうしても受け入れられない人は、信仰というのではなく、この教えの中の意味する、真実というものを受け止められて、その真実の方向に向かって生きて行かれればそれでいいと思います。 阿弥陀仏とは、最も広く、最も深い、無限の大慈悲ということであり、浄土もそういう大慈悲の世界であり、そこに真実というものが象徴表現されてあります。 浄土から、この世に還ってきて、みんなを救い導くということも、浄土は、単なる、自己の欲望満足の世界ではなく、利他の世界で、他者を救い導くという、真実の象徴表現であると受け止めることが出来ます。 私が仏になる時が、死後ということにしてあるのは、この世で、生身を抱え、自我の煩悩から離れられない身である限り、最高の大慈悲の完成者の仏になることは不可能ですから、この自我の煩悩から解放される時、即ち、死後という表現にしてあるわけですね。 以上から、阿弥陀仏や往生浄土の信仰を素直に頂かれる方は、そのままに、そして、そういう信仰を受容できにくい方も、そのままに、ともかく、阿弥陀仏や、浄土に表現されてある、大慈悲という真実にうなずいて、その真実に促されて、よりよい人生とよりよい社会の実現に向かって人生を歩ませていただきたいものです。 浄土は、大慈悲の世界ですから、私たちの心の根源的な願いの世界であり、本来の願いの故郷とでもいえると思います。 ですから浄土は、心のよりどころであり、生きて行く目標であり、また命終わって帰るべき世界といえます。 そして、そこから、みんなを願い導く世界といえます。 私たちの死の事実としては、肉体は自然に帰り、行いは、社会に残り、願いの中でも個人的な願いは、有縁の人々に注がれ、心の底の人類普遍の自由、平等、博愛、平和、などの願い、仏教における、無我、慈悲、利他、布施の願いは、万人共通で、永遠であると受け止めることが出来ると思います。 そここそが、先立ったものも、残れるものも一緒の世界であるということが出来ると思います。 自民、公明、希望、維新などは、 憲法を変えて、戦争のできる国づくり路線にあります。 それに対して、立憲民主、共産、社民、自由などは、反対しています。 仏教に限らず、愛や慈悲を目指すものは、どういう国を目指すのでしょうか。 お釈迦様の言葉に 「すべてのものは、生命、いとしく、暴力におびえ、死をおそれる。 己が身にひきあてて、殺してはならない 殺させてはならない。 「ダンマパダ」 とあります。 国家にも殺し、殺させてはなりません。 どこの国も、殺し殺させる国にしてはなりません。 自民党は、憲法九条改変と緊急事態条項を入れて、改憲し、戦争できる国にしょうとしています。 緊急事態条項は、「国民主権でなく、総理大臣主権となり、国会の事前決議が必要なく、基本的人権が制限され、地方自治より国が優先され、 集会・結社・言論・表現の自由が制限され、内閣は衆議院の任期を延長することができる。」等と、国民すべてが首相権力に従わざるをえない状況になります。 これでは、憲法九条を変えなくても、この緊急事態条項のみで、戒厳令のように、総理大臣主導で、戦争が出来るようになりそうです。 憲法九条改変もですが、この緊急事態条項のほうに、より危険性を感じます。 ナチスドイツは「全権委任法」という、この緊急事態条項のような権力独裁によって、ヒットラーによるユダヤ人等の虐殺、非道がありましたが、強い権力の政権が誕生すると、そのようなことになる懸念が払拭できません。 憲法改悪し戦争する国にするのは、仏の道に背きます。 報正寺通信2017年9月 秋彼岸法座のご案内 23日(土)秋分の日 朝、9時半始 「暑さ寒さも彼岸まで」と昔から言われてきました。 彼岸には、春と秋とがあります。 春彼岸は、冬の寒さがやわらぐ彼岸です。 冬の寒さにとっては、春の暖かさは、文字通り、待ち望まれる彼の岸の世界です。 秋彼岸は、夏の暑さがやわらぐ彼岸です。 夏の暑さにとっては、秋の涼しさは、同じく文字通り、待ち望まれる彼の岸の世界です。 彼岸は、もともと仏教に由来します。 仏教の教えは、仏を目指す教えです。 仏を目指すとは、いつも申します、自己中心でない、無我の自己、冷酷でない慈悲の自己、利己的でない利他の自己、奪わない布施の自己の完成(成仏)を、自分だけでなく、全ての人々と共に目指すということです。 これを「自行化他」といいます。 そして、こういう自行化他の究極の境地を悟り(成仏)の世界といいます。 ですから、全ての人が、この自行化他の究極の境地を開き、そういう崇高な境地で生きること(成仏)を目指しますから、絶対平等にして、絶対平和の世界を目指すのが仏教ということが出来ます。 ですから、この崇高な悟り(成仏)の世界は、自我に固執する、戦争や差別の私たちの醜い世界からは、彼の岸、即ち「彼岸」として、あこがれの世界でもあり、逆に言うと、醜い私達の世界が待ち望まれている世界ということが出来ます。 浄土真宗では、この悟りの世界を、場所的、象徴的に阿弥陀仏の浄土と表現されています。 浄土真宗では、彼岸とは、阿弥陀仏の浄土です。 この、彼岸である、崇高な自己の完成、即ち成仏は、この人生では絶対不可能であり、この絶対不可能な私たち全てを仏の責任において、自己完成、即ち仏にすると誓われている、阿弥陀如来に「崇高な真実」を知らしめられ、同時に、逆に、真実ならざる自らを慚愧せしめられ、慚愧と共に、おぼつかなくも、阿弥陀仏や浄土の本質である、無我、慈悲等「彼岸」の方向に促されて歩ましめられるのが浄土真宗ということになります。 ですから、彼岸の仏事とは、故人追悼の有無にかかわらず、現実の醜いこの身とこの世界を慚愧せしめられながら、崇高な悟りの世界や浄土を仰ぎ、その悟りの世界や浄土の促しにうながされて歩んで行くことを確かめさせてもらう行事といえます。 阿弥陀仏も、浄土も、実際に、誰かが見たり、行ったり来たりした事実ではありません。 匿名ですが、教典創作者「達」が、いつも申します、無我、慈悲、利他、布施といった、言うなれば「真実なることがら」を読者に受け取ってもらいたい為に、象徴表現されたものということで、「事実ではないが真実である」ということが出来ます。 私は親鸞さまの月御命日に意思表示をします。 仏願に背く集団的自衛権を認める安全保障関連法への明確な反対声明を教団として早急に出して下さい。 私の思い・・・・如来の本願に立脚した、実践伝道として、先月に引き続きます。 「御同朋の社会の実現への教学考察」 「原始仏教とは、一般に釈尊時代より部派に分裂するまでの仏教をさすが、この時代には、阿弥陀仏や極楽浄土の観念、あるいはその浄土に往生するという思想は存在しなかった」という、本願寺派、教学本部編『伝道』29号・仏教学者・藤田宏達氏の論述のように、現代は、三経を釈尊直説とする時代ではありませんね。 とすれば、三経、ことに大経は、釈尊滅後約500年、匿名の、個人か集団による、創作表現だということになるでしょう。 とすれば、阿弥陀仏も、実体でも実在でもない、経典創作者たちによる、仏教思想の人格的象徴表現、もしくは、釈尊の人格的永遠化というのが妥当であろうと思えます。 そして、この大経創作者たちの思想とは、法蔵菩薩の精神として象徴化された、縁起を基にした、「無我、慈悲、利他、布施」等の思想だと了解します。 現代は、この阿弥陀仏の実質としての「無我、慈悲、利他、布施」等の思想から、自己と社会を厭い、それゆえの自己と社会のよりよき解放と、創造の道を学びたいと思います。 それゆえ、宗祖に明確にあった、世をいとうしるしとしての、権力支配差別社会相対化と同朋社会実現への姿勢は当然是認できても、世間通途、真俗二諦で世俗に埋没した列祖の教学、江戸期、明治期はじめ戦時教学、ひいては、現代の同朋運動に消極的な教学は宗祖からの逸脱と思えてなりません。 「御同朋の社会の実現を目指す教団として、内外に表明すべき具体的な実践課題」 安倍首相は、この秋にも、自民党憲法改正案を提示し、国会で発議し、来年末に任期を迎える、衆議院選挙に併せて、国民投票にかけ、東京オリン、パラリンピックの2020年には、憲法9条を改悪させるという懸念があります。 憲法九条改悪は、最大の人権侵害といわれる、戦争する国への道と懸念し、如来の大悲や、宗祖の念仏に違背するものとして、教団として、一刻も早く、内外に、反対表明されることこそが、仏祖の意に叶い、仏法の伝道責任が果たされることになると考えます。 このことは、教団の戦後責任といえ、今、声を挙げねば、また同じ、戦前と同じ轍を踏むことになり、大きな過誤を侵すことになると懸念します。 非戦平和を願う真宗門徒の会会員 安芸教区山県太田組報正寺住職 城山大賢 報正寺通信2017年8月 盆会法座のご案内 19日(土)朝席 ・ 20日(日)朝席 『仏法と人生と社会』 住職自修 本郷親和会共催 盆によせて 15日は、敗戦記念日です。 以前の国、大日本帝国という、明治以来のアジア侵略国家が滅んだ日です。 戦争と平和、国家とは何かを考える盆です。 アジア侵略と吉田松陰 誰が、アジア侵略を画策したかを調べると、明治政府を作り上げた、長州、(山口)の、高杉晋作、伊藤博文、木戸孝允などを育てた、吉田松陰に行き当たります。 松陰の「幽室文稿」には、 「すきに乗じて蝦夷を墾き、朝鮮を取り、満州をくじき、支那を圧し、印度に臨み、以って進取の勢を張り、神功皇后の未だ遂げざりし所を遂げ、豊国(秀吉)の未だ果たしざりし所を果たすに如かず」とあります。 これは、「ロシアの隙に乗じて、千島、樺太に乗り込み、朝鮮をとり、満州、中国を武力制圧し、インドまで手を伸ばし、進取の気勢を張って、三韓征伐という、朝鮮侵略の、神功皇后や、豊臣秀吉の完遂できなかったことを完遂させるにこしたことはない」というのですからね。 吉田松陰を倒幕に踏み切らせる考えに変えさせたのは、浄土真宗僧侶の宇都宮黙霖(広島県呉市広長浜)と僧月性(山口県柳井市大畠)といいます。 これら僧侶は、仏教本来の、「慈悲」の原則を失っていたから、武力討幕を是認し、松陰に、アジア侵略の思想を醸成させたと思われ、この真宗僧の責任、ひいては、倒幕、明治政府樹立に莫大な財政支援をし、「本願寺隊」という武力集団を組織した、教団の責任は重大です。 1995年4月15日、大谷光真門主の言葉 「終戦五十周年全戦没者総追悼法要」 省みますと、私たちの教団は、仏法の名において戦争を肯定し、あるいは賛美した歴史をもっております。たとえ、それが以前からの積み重ねの結果であるとしても、この事実から目をそらすことはできません。人類の罪業ともいうべき戦争は、人間の根源的な欲望である煩悩にもとづいて、集団によって起こされる暴力的衝突であります。そこでは非人間的行為が当然のこととなり、「いのち」は物として扱われ環境が破壊されます。それへの参加を念仏者の本分であると説き、門信徒を指導した過(あやま)ちを厳しく見据えたいと思います。宗祖の教えに背(そむ)き、仏法の名において戦争に積極的に協力していった過去の事実を、仏祖の御前(おんまえ)に慚愧(ざんき)せずにはおれません。 国は、もう絶対に二度と戦争をする国にしないと、憲法九条で、いかなる戦力も交戦権も持たないと決めたはずでしたが、自衛隊を創設し、去る2015年には、違憲論多数なのに、安保関連法を強行採決しました。 大谷派は即座に「私たちは仏の教えに基づく教団として、このたびの安全保障関連法の撤廃を求めるとともに、今後も引き続き、戦争に繋がるあらゆる行為を未然に防ぐ努力を惜しみません。 そして、武力に頼るのではなく、積極的な「対話」によって「真の平和」を希求することをここに表明いたします。」と反対声明を出しましたが、本願寺派では何ら教団として、声明を出していません。 本願寺派は戦後責任を果たしているとは言えません。 『ナチが共産主義者を襲つたとき、自分はやや不安になった。 けれども結局自分は共産主義者でなかつたので何もしなかつた。 それからナチは社会主義者を攻撃した。 自分の不安はやや増大した。 けれども自分は依然として社会主義者ではなかつた。 そこでやはり何もしなかつた。 それから学校が、新聞が、ユダヤ人が、というふうに次々と攻撃の手が加わり、 そのたびに自分の不安は増したが、なおも何事も行わなかつた。 さてそれからナチは教会を攻撃した。 そうして自分はまさに教会の人間であつた。 そこで自分は何事かをした。 しかしそのときにはすでに手遅れであつた。』 丸山眞男訳「現代における人間と政治」(1961年) 報正寺通信2017年7月 聖典学習会のご案内 31日(月) 朝 10時〜30分(おにぎり会の中) 学習聖典・無量寿経 / 住職自修 参加費無用 聖典から人生・社会の諸問題を問うてみましょう。 前回の学習内容から 無量寿仏を、無量光仏・無辺光仏・無碍光仏・無対光仏・焔王光仏・清浄光仏・歓喜光仏・智慧光仏・不断光仏・難思光仏・無称光仏・超日月光仏と名づけるのである。 お経を学ぶとは この無量寿仏とは、阿弥陀仏のことです。 次の無量光仏〜超日月光仏は、阿弥陀仏の別名です。 経典作者「達」は、こういう別名をつけて、阿弥陀仏の本質である、「無我」とか「慈悲」といった事柄を表現したものと考えられます。 ですから、阿弥陀仏は、歴史上の実在、物理的な実体とは考えられません。 先に述べましたように、自分中心でない「無我」とか、「慈悲」といった内容を、経典作者「達」が、阿弥陀仏という仏として表したということでしょう。 無量の寿命の仏、即ち限りない命をもって、いついつまでもみんなを救い導くということを表わしてあります。 「無量光仏」とは 無量の光をもって、どこどこまでも、みんなを救い導くということを表してあります。 「無量光仏」と同じで、辺り無く、世界中、どこどこまでも、みんなを救い導くということを表してあります。 「無量光仏」と同じで、どんなに暗黒の人心や世界で有ろうと、障碍なく、世界中、どこどこまでも、みんなを救い導くということを表してあります。 最高の徳の仏として、相対するもの無き仏であるということを表してあります。 焔の王仏として、万物と一体の智慧と慈悲の焔によって、全ての者の我執、煩悩を焼き尽くし、すべての者の冷酷な心を暖める仏と味わうことが出来ます。 万物と一体の智慧と慈悲の清浄な光によって、全ての者の不浄な心を浄化する仏と味わうことが出来ます。 同じく、万物と一体の智慧と慈悲の光によって、全ての者に慚愧と、この智慧と慈悲を願って生きる、歓喜を与える仏と味わうことが出来ます。 万物と一体の智慧と慈悲の光によって、全ての者の自己中心な我執の闇を破って、慚愧とともに、この一体の智慧と慈悲を願わしめる仏と味わうことが出来ます。 同じく、一体の智慧と慈悲の不断の光によって、いつまでも、いつまでも、絶え間なく、導き続ける仏と味わうことが出来ます。 仏の、この万物と一体の智慧と慈悲の光とは、私ら、自己中心で我執の身には、思慮を超え、思慮し難い、崇高な光の仏と味わうことが出来ます。 同じく、仏の、この一体の智慧と慈悲の光とは、私ら、自己中心で我執の身には、あまりにも、広大で、崇高で、どんなに称賛しても称賛しきれない尊い光の仏と味わうことが出来ます。 月は出ない闇夜があり、太陽は、夜はかくれます。 しかも、心の中までは照らしてはくれません。 しかし、阿弥陀仏の光明は、いついつまでも、どこどこまでも、誰をも、私たちの心の闇を照らし導いてくださるということで、太陽や、月を超えた光と表わしてあると味わうことが出来ます。
六月15日、参議院、 法務委員会の審議を打 ち切って、中間報告という、奇策で強行採決されました。 九条の会山県から、北広島町議会と安芸太田町議会へ反対、廃案の請願を出しましたが、継続審査となりました。 安倍政権は、二度と戦争しない国から、戦争の出来る、戦争する国へと変えようと、安保関連法制からこの共謀罪も強行し、国民市民の国政批判封殺を危惧します。 夏法座のご案内 28日(水)朝・29日(木)朝 お釈迦様の悟りが基です。 お釈迦様の悟りとは、縁起と言われます。 縁起とは、全てのものが、みんなそれぞれ違うまま、みんな無限の過去から、そして無限の大宇宙自然の中で関係しあっているということです。 ですから、仏教の教えとは、みんなつながりがあるのだから、それぞれを尊び合い、助け合い、分かち合って生きて行きましょうという教えということになります。 それは、他者のものを奪うような、自分中心な生き方をしないようにしましょう。 他者を慈しみ合い、他者の悲しみ、苦しみを自分のこととして生きていきましょう。 ということになります。 もっと言えば、そういう優しい自分になるように、そして、そういう優しい社会にするように生きて行きましょうという教えともいえます。 さらには、そういう生き方を、どんなに老いようとも、どんな病気に見舞われようとも、どんな過酷な人生に見舞われようとも、臨終まで、そういう優しい自分と、そういう優しい社会づくりのために生きて行こうとする、そういう生き方が揺らぐことなく確立されてくることを本当の意味で「救い」というのだと教えられます。 阿弥陀如来やその浄土に、(全てを、もれなく平等に慈しみ、全ての悲しみ、苦しみを自分のこととして悲しみ苦しむことが出来る、完全な慈悲)ということを教えられる教えといえます。 そして同時に、そのことによって、この自分や、この社会が、慈悲にほど遠く、どんなに努力しても、自分も、絶対に完全な慈悲の自分になることはできず、また、この社会も絶対に、完全な慈悲の社会を実現することはできないことを知らしめられ、慚愧せしめられる教えでもあるといえます。 そして、大事なことですが、このように慚愧させられながら、この阿弥陀仏や浄土の慈悲に照らされ、うながされて、慚愧と共に、少しでも、やさしさに潤う自分とこの世の中になるように生きて行こうとする自分に育てられてゆく教えと言えると思います。 私は、気が引けますが、平素は、朝晩の本堂や庫裏の仏壇での僧衣を着けた勤行らしい勤行をしておりません。 たいていは、平服のまま、本尊の前に座り、手を合わせ、「真実、不実、まこと、うそ、平等、差別、」と口ずさんでナムアミダブツ、ナムアミダブツと念仏をつぶやいています。 つまり、仏は、真実、まこと、平等で、私は、不実、うそ、差別と見つめつつ、念仏をつぶやいています。 たまには、さらに、仏は、平和、私は戦争、仏は、立っているが、私は座りこんでいる、仏は広いが、私は狭い、仏は暖かいが、私は冷たい、仏は明るいが、私は暗い、仏は深いが、私は浅い、などと確認のようにつぶやくこともあります。 横着な理屈で、勤行よりも、仏教のみならず社会勉強、お経の心を生きることが大事だと・・・・・。 恥じるところは、家族から、よく、「人の気持ちが分かってない、そんなことを言ったら傷つく」などとなじられることや、自意識、我執も強く、意固地なことも、冷淡さも感じるところがあります。 つまりは、仏法が身についていないということで、家族や人々からの信頼もおぼつかないことです。 坊守は、持病で体調が悪いこともあり、坊守助けもありますが、私自身、ルーズなところもあるのに、神経質なのか、かなり家事に精出しているつもりです。 でもおおざっぱで嫌われていますが・・・。 朝起きて、洗濯機を回し、干すことは私が多く、取り込みでは、たたまず、私のものだけとタオル類、台所のアクリルたわし、布巾だけ取り込みます。 家族みんなの洗濯物を、きちんとたたむほどの几帳面さはありません。 風呂掃除、風呂焚き(薪や紙類を燃料)、ゴミ出しは私の専権作業です。 (恥じと自慢、次回に続きます。) 組織的犯罪処罰法改正案反対を求める請願 「九条の会 山県」から安芸太田、北広島両町議会へ提出 趣旨 この法案は、衆議院で可決し、参議院に送られました。 この法案は、与党からは、国際組織犯罪防止条約の締結に必要なものとして、来る東京オリンピックにおいてもテロ対策上必要とのことで審議されています。 しかし、この国際組織犯罪防止条約は、もともと、資金洗浄などの犯罪対策で、テロという文言もなく、テロ対策のものでは無いようです。 テロ対策としては、すでに、我が国は、これまでに13本のテロ防止関連諸条約を締結していますから、十分と考えられます。 今まで、共謀罪は、3回廃案になっていて、このたびの、組織的犯罪処罰法改正案は4度目の共謀罪法案といわれます。 この法案を、国連特別報告者のジョセフ・カナタチさんは、安倍首相に、「プライバシーや表現の自由を制約する恐れがある。」と指摘し、さらに、「日本政府は実質的な反論を送付できていない。 これだけ拙速に、深刻な欠陥のある法案を押し通すことを正当化することは絶対にできない。」と指摘しています。 この法案が通りますと、捜査摘発のために、国民の電話、メールなどが警察など、捜査機関によって捜査され、国民の自由が著しく侵害される恐れがあります。 かつての治安維持法のように、最初は、一般市民は対象にならないといっていても、時の政権や捜査機関による、恣意的な拡大解釈によって、国家の政策に反対するものへの摘発が厳しくなる可能性を秘めています。 以上のような理由でこの組織的犯罪処罰法改正案に反対いたします。 よって、この度以下の請願をいたします。 請願事項 組織的犯罪処罰法改正案反対を求める意見書を、国及び関係機関に提出すること。 以上、地方自治法124条の規定により請願いたします。 報正寺通信2017年5月
「 世尊、もしその国土に須弥山がなければ、その中腹や頂上にあるはずの四天王の世界や刀利天などは、何によってたもたれ、そこに住むことができるのでしょうか
」 「 では、夜摩天をはじめ色究竟天までの空中にある世界は、何によってたもたれ、そこに住むことができると思うか
」 「 それらの天界は、それぞれの行いを原因としてもたらされた不可思議なはたらきとしてそうあるのでございます
」 そこで須弥山がなくても差し支えないのである 」 ここは、浄土という世界が、物の世界ではなく、精神の高い境涯の世界であるということがはっきりと示されてある大変重要な個所であると思われますので、読者の皆さんもよく吟味してみてください。 おしゃか様の弟子の阿難が、おしゃか様に尋ねました。 「お釈迦様、もし、その浄土に須弥山という山がないとすれば、その須弥山の中腹にあるはずの毘沙門天など四天王の神々の世界や、頂上にあるはずの、仏法の守護神となった帝釈天が住むといわれる刀利天の世界などは、何によって保持され、どのようにして住むことが出来るのでしょうか?空中にでも浮かんでいるのですか?」 すると、おしゃか様が、その問いに直接答えられず、逆に、阿難に問われました。 「では、須弥山の上空にあるという夜摩天という世界をはじめ、欲を離れた清らかな世界といわれる色究竟天の世界までの空中にある世界は、何によって保持され、そこに住むことができると思うか
」 阿難がお釈迦様に答えました。 「 それらの天界は、その世界の人々の行いが基となった不可思議なはたらきの世界として存在しているのでございます
」 おしゃか様がおっしゃいました。 そこで須弥山がなくても差し支えないのである 。」 実際の事実としては、おしゃか様は、この浄土や、阿弥陀仏について、説かれていないようです。 この阿弥陀仏などの説かれた無量寿経は、おしゃか様滅後、約500年、匿名の創作者「達」が創作したものと考えられています。 ですから、この創作者「達」が、大衆に、浄土を、どこかにある、物の世界と心得違いをせず、善行(清浄行)によって到達することの出来る高い精神的な境涯の世界であることを強調するために、阿難とお釈迦様の問答として表現されたものとうかがえます。 私たちも、お浄土や、阿弥陀仏について、くれぐれも、決して物の世界ではなく、崇高な精神的な世界だとして、間違わないようにしたいものです。 (海渡 雄一弁護士所論参考) これは、共謀罪といわれています。 本来、処罰とは、現実に犯罪が引き起こされてから、するものといいます。 ところが、この、277もの多くの犯罪について共謀の段階から処罰できることとする共謀罪法案は、今までの刑法体系を覆し、国家が市民に大きく介入するものといいます。 共謀罪の捜査ということになりますと、会話、電話、メールなどを収集することになります。 そのため,警察の恣意的な検挙が行われたり,日常的に市民の生活に立ち入って監視したりするような捜査がなされるようになる可能性があります。 共謀罪は監視社会になる懸念があります。 私も、去る12月、参加しましたが、沖縄など基地建設に抵抗する市民団体が、工事阻止のために道路に座り込みを計画し、現地の地理を調べただけで組織的威力業務妨害罪の共謀罪に問われかねないといいます。 沖縄では、基地建設反対の闘いに威力業務妨害罪が発動され、リーダーの山城博治さんが5ヶ月も勾留されました。 山城さんは4月16日の東京新聞のインタビューの中で、「リーダーと呼ばれる人間を屈服させ、同時にすべての関係者の連絡先を押さえる。 沖縄の大衆運動そのものを取り締まっていく国策捜査だと思う。」と述べています。 家宅捜査で関係者の住所と電話番号はすべて把握され、警察は山城議長の演説に拍手したことを「賛同」、説明を受けたことが「協議」として事件を立件しています。 山城議長は「もう恐怖、共謀罪が発動した時の準備がされたのだと感じた」と述べています。 政府は、決して、一般市民を取り締まることはないといっていますが、戦前の治安維持法でも、初めは、そのようなことを言っていて、ひどいことになりました。 戦時下、国に批判的な者を思想犯として検挙拷問したようなこともあり、今は、もっともらしくとも、将来、拡大解釈によって、戦争反対、原発反対、沖縄など米軍基地反対等、国の政策に反対の運動をすると、国を批判する集まりや、そのメンバーなどが、共謀罪として摘発される心配をはらんでいるように思い、戦争のできる国創りへの布石の一つと反対します。 永代経法座のご案内 14日 (金)朝席、夜席・15日(土)朝席 朝、9時半・夜、7時半始め 講師 呉・西教寺・岩崎智寧殿 仏教、一般には、故人に対して、永代、経を読むということのようですが、真宗では、そうではありません。 真宗では、永代、経の心が、全ての人々に伝えられて、全ての人々が導かれるようにという意味です。 ですから、一番大切なことは、私たちが、「経」の心をちゃんと受け止めるということです。 何時も紹介しますが、仏や、浄土としてあらわされた、全く自己中心の無い、無我の心、冷たさというものの全く無い、慈悲の心、我欲の利己主義というものの全く無い、他者を利することしかない、利他の心、 ですから、他者のものを奪おうとすることの全く無い、施しの心、分りやすい言葉で言えば、純粋に優しい、あたたかい、平等、平和の心といえます。 永代、こういう経の心が、広く、伝えられて、全ての人々が導かれるように、寺院の護持や、伝道教化に対する懇志といえます。 今まで、2度ばかり、この貼り出しをやめて、今は貼り出しています。 それだけ、躊躇するところがありました。 お寺によっては、全く貼り出されていないところもあります。 このことなどについて、4年ばかり、安芸教区の同朋研修ということで、寺の過去帳など、個人情報の保護ということをめぐって研修をし続けています。 報正寺では、去年から、永代経懇志を御上納いただいたお方に、受領証に、(本堂でのご氏名掲示を望まれぬ場合、ご一報くださいませ)と但し書きを加えることにしています。 はじめから、本堂への掲示を辞退される方もありましたが、後日、本堂での氏名の表示を望まないとご連絡くださったお方には、そのようにしています。 安倍首相に、阿弥陀様ならどうおっしゃるでしょうね 何時もの私の持論ですが、阿弥陀様が、実際に、実在されているとは、もちろん考えません。 阿弥陀様とは、いつも紹介します、前記の、無我、慈悲、利他、布施といった事柄を人格的に仮に表現されたものだと受け止めていますから。 それゆえ、阿弥陀様の安倍首相への言葉といっても、これはもちろん、私の推量です。 「晋三さんよ、安倍家のお祖父さんの安倍寛さんは、戦前、金権腐敗打破、東条内閣退陣要求、戦争反対、戦争終結などを主張した人だったのに、残念ながら、岸信介という、戦争推進、元A級戦犯だった、母方のお祖父さんの思想の遺伝子を受け継いだのだね。 それは、人には、誰しも、利己的な、欲望、闘争、差別志向と、その真反対の、利他的な、博愛、慈悲、平和、平等志向という相矛盾するものがあるから、無理もないと思います。 こんな歌がありますね。 赤い鳥 小鳥 なぜなぜ赤い 赤い実を食べた 青い鳥 小鳥 晋三さんには、安倍寛お祖父さんの、平和志向の実を食べる縁が薄くて、岸信介お祖父さんの戦争志向の実を食べる縁がとても強かったのだね。 晋三さん、仏である、私の世界は、友愛という平等と、他者の苦悩をうめく、非戦平和の慈悲の世界です。 ですから、真反対のあなた達のことがこの上なく悲しくてならず、ずーっと、無限の過去から、はぐくみ続けているのです。 あなたを、戦争差別、欲望の道から、非戦平和、平等慈悲の道へと一刻でも早く、目覚めさせたい。 晋三さん、私は、あなただけでなく、全ての人が、この慈悲への道に目覚めてくださるよう、永遠にいつまでも慈しみ、はぐくみ続けます。 たとえ、あなたが、一生、目覚めることなく命終することがあったとしても、いついつまでも。」 報正寺通信2017年3月 聖典学習会のご案内(おにぎり会の中で) 18日(土) 朝 10時から30分 どうぞ誘って気楽にご参加下さい (現代語訳)「釈尊が阿難に仰せになる。 法蔵菩薩はすでに無量寿仏という仏となって、現に西方においでになる。 その仏の国はここから十万億の国々を過ぎたところにあって、名を安楽という 」 おしゃか様が、弟子の阿難に語られました。 王位を捨て、城を出て修行者となった法蔵菩薩は、修行が完成して、無量寿仏という仏(阿弥陀仏)となって、今、西の方にいらっしゃる。 その阿弥陀仏の国(浄土)はここから十万億の国々を過ぎたところにあって、名を安楽という。 いつも申しますように、この無量寿経は、実際にお釈迦様が説かれたものでは無いようです。 お釈迦様が亡くなられて、およそ五百年後、名前を伏せた創作者「達」が、おしゃか様が説かれたこととして、仏教の心を物語として表現されたものと考えられます。 ですから、お経の表現から、仏教の心を学ばせてもらいましょう。 法蔵菩薩とは、「法」を蔵する、つまり、「法」を心身に保つ菩薩ということを表現していますね。 この「法」とは、「縁起の法」といって、全て万物個々が、無限の時間と無限の空間の中でお互いに関係しあっているということです。 そういう、「法」を心身に保持しているということですから、生き方として、「無我」「慈悲」「利他」「布施」の究極、すなわち「仏」を求める人格として、「菩薩」と表現されています。 法蔵菩薩が、王位を捨て、城を出たということは、権力、財力、武力による支配、戦争、差別といったものを求めない生き方を選び取ったということになります。 この法蔵菩薩の修行が完成して、無量寿仏(阿弥陀仏)になったという、この無量寿とは、量られない、限りない寿命ということで、つまりは、さっきの「縁起の法」は永遠に変わらない法則であるということを示しています。 また、西方に存在しているという、この西方とは、夕日の沈む、憩いの世界、安らぎの世界、帰るべき世界といえます。 つまり、阿弥陀仏の西方浄土は、権力、財力、武力の横暴から解放された、戦争も差別もない、平安な、往くべき、帰るべき世界ということですね。 これは、阿弥陀仏の浄土とは、この世の、十万億ともいえるほどの、たくさんな、争いや差別による、悲しみ、憎しみ、恨み、愚かさの世界をはるかに過ぎた、安らかで、本当の意味の「楽」の世界であるということを表わしてあると受け止めることが出来ます。 今年の正月明け、精神病院から、彼が癌で死んだと知らせがありました。 去年の11月ごろであったと知らされました。 兄弟も来ず、一人で亡くなったのでした。 最近は、文通も、面会もしていなくて、年賀新聞を送っていたところでした。 臨終に、職員が、彼に、私に面会に来てもらおうかと尋ねますと、彼は固く辞退したそうです。 それを聞いて、私の人間度を恥じました。 両親が亡くなり、兄弟とは疎遠、電気の無い、自給自足の日暮らしの中で症状が悪くなり、強制入院されて、10年がたっていたかと思います。 彼との縁は、20年以上になるでしょうか。 親鸞様の「小慈小悲もなき身にて、有情利益は思うまじ云々」を思います。 今、政府で審議されています。 テロ等とありますから、テロだけではなく、様々なことが、犯罪と指定され、そのはかりごとと準備と断定されると、摘発されるといいます。 これは、共謀罪ではないのかとの心配です。 テロ対策には、すでに、国際的な法整備は十分整えていて、現状の法律で十分だという識者もいます。 政府は、決して、一般市民を取り締まることはないといっていますが、戦前の治安維持法でも、初めは、そのようなことを言っていて、ひどいことになりました。 戦時下、国に批判的な者を思想犯として検挙拷問したようなこともあり、今は、もっともらしくとも、将来、拡大解釈によって、同じように、国を批判する集まりや、そのメンバーなどが、犯罪として摘発される心配をはらんでいるように思います。 戦争反対や、原発反対や、沖縄など米軍基地反対等の国の政策に反対の運動をすると逮捕されることになる懸念があります。 警察による、電話、メールの通信傍受など、監視が強められる心配もあります。 すでに、政府は、2013年に、特定秘密保護法を決め、国民に目隠しをし始めました。 そして、2014年、今までは憲法違反とされていた、集団的自衛権を閣議決定で認め、米軍などとの戦争への一歩を踏み出しました。 さらに、2015年、強行採決で、安保関連法を制定し、自衛隊の武力行使の世界的な拡大で、さらに戦争できる国創りへと進みました。 そして、今、この、「テロ等準備罪」との名目の「共謀罪」、やがて、本命である、戦争放棄をうたう、憲法9条の改変へと一つ一つ、戦争のできる、戦争する国へと布石を打っているように思えてなりません。 釈尊 涅槃会
15日(水)朝・昼、16日(木)朝 「お釈迦様の一生から学ぶもの」 住職・坊守自修 お誘いあってお参りください。 釈尊 涅槃会によせて 釈尊とは、お釈迦様のことです。 お釈迦様は、インドの釈迦族という一族の出身で、釈迦族の中で、尊い人という意味で、釈尊といいます。 「涅槃会」とは、お釈迦様が亡くなられた日(2月15日といわれています)にお釈迦様をしのぶ行事です。 「涅槃」とは、自分中心のとらわれが無くなって、世界の全てを慈しむことが出来、煩悩という、私たちの恨み、憎しみ、威張り、ひがみなどの醜い心の火が消えた心境を言います。 ですから、「涅槃」とは、「真実」の世界と言えます。 この心境が開かれたことを「悟りを開いた」とも、「仏となった」とも言います。 お釈迦様は、35歳の時に悟りを開かれ、すなわち、涅槃を得て、仏に成られたといいます。 これを、生身の肉体を持ったままでの「涅槃」として「有余涅槃」といいます。 そして、80歳で亡くなられた時、即ち、肉体の欲求から完全解放された臨終を「大般涅槃」「無余涅槃」といいます。 私たち仏教徒とは、みんなこのお釈迦様と同じ、悟りの心境、つまり、「涅槃」「成仏」すなわち、「真実」を目指すものと言えます。 私たち、浄土真宗門徒もそうです。 しかし、ご承知のように、私たちは、死ぬまで、この煩悩から離れて、悟りを開き、「涅槃」を得て、成仏すること、すなわち「真実」になることはできません。 浄土真宗では、こういう死ぬまで、煩悩にまみれて成仏できない、すなわち、真実になれない、私たちをこそ、みんな必ず、もれなく成仏させるという阿弥陀如来という仏様に「真実」をうなづかしめられ、「真実」にほど遠い自分への慚愧と共に、この「真実」なる方向に、うながされて歩ましめられて行くのでした。 益害平等とは、人間にとって、家畜の様に利益になるとする生き物であろうと、蚊やムカデのように、人間にとって害になるとする生き物であろうと、本来、大自然においては、生き物はみんな平等だということです。 これが、仏教の考え方でした。 お釈迦様が亡くなられたお姿を絵に表わしたものを「釈尊涅槃図」といいます。 この「涅槃図」には、おしゃか様のご遺体の周りに、植物初め、鳥も虫も蛇も、たくさんな生き物が、おしゃか様の臨終を悼んで集まっています。 ここに、仏教の、全ての命を平等に慈しむという考え方が表わされています。 「一切有情」とは、一切のいのちある、生きとし生けるものという意味です。 ですから、この法座は、私たちが生きる上で、家畜であれ、害虫であれ、命を奪って生きなければならない宿命の罪を見つめさせてもらい、出来るだけ、無益な殺生をしないよう心掛けさせてもらおうとする法座です。 お釈迦さまの一族、釈迦族は、お釈迦様の平等の教えにもかかわらず、釈迦族の血筋を誇りにしていました。 釈迦族の国、カピラ国を支配するコーサラ国王が、妃を釈迦族から差し出せと言いつけました。 釈迦族の長老は、成り上がりものの王に、血筋を誇る釈迦族の娘を差し出すわけにはいかぬと、長老が、奴隷身分の女性に産ませた娘を偽って差し出しました。 やがて、ルリ王と呼ばれる王子が生まれます。 今まで釈迦族のカピラ国である母の里に行くことの無かった、ルリ王が、不審に思って、カピラ国に行きます。 カピラ国のものは、奴隷の子として、ルリ王をけがれ者として蔑み忌避します。 ルリ王は、不審に思って母に問い詰め、そして自分の出生の秘密を知ります。 父である王は、王妃もルリ王も奴隷に戻して奴隷の仕事をさせます。 やがて、奴隷扱いから解放されますが、ルリ王の恨みは固く、父から王位を奪い、そのさなかで、王は死にます。 ルリ王は、釈迦族を皆殺しにすべく、大軍を率いて、カピラ国を攻めようとします。 しかし、そのことを知った、お釈迦様は,釈迦族の差別の罪を悲しみつつも、釈迦族も殺されぬよう、また、ルリ王にも殺させぬよう、弟子たちと座り込みの抵抗をされます。 そのことが3度繰り返されました。 しかし、ルリ王の怒りは固く、4度目には、おしゃか様の座り込みを突き切って、カピラ国を攻め、釈迦族はほとんど滅亡したといいます。 お釈迦様の悲痛はいかほどかと察します。 お釈迦様の、たとえ、釈迦族は滅んでも、国は滅んでも、「殺さない、殺させない」を貫かれた意志に合掌します。 昨年度、報正寺ダーナ募金総額は29,500円でした。 布原、1,000円・大井、2,000円・ 小原、3,000円・萩原、1,200円・ 数舟、1,500円・本一、2,600円・ 本二、6,500円・本三、8,000円・ 本四、3,700円 山県太田組ダーナ募金会計へ・・13,000円 ビルマ難民教育支援へ・・・・ 16,500円 在韓被爆者渡日治療は活動を終えました。 約30年間ご支援ありがとうございました。 前年度山県太田組ダーナ募金総額は378,243円 山県太田組内医療機関へ本願寺新報・仏教誌施本 ・・・ ・・・・209,160円 芸北福祉会へ・・・・・・・・・・・・150,000円 山県太田組内、災害救援基金へ・・・・・19,083円 山県太田組内、災害救援基金総額・1,492,959円 報正寺通信2017年1月 過年・色々ありがとうございました。 本年もよろしくお願いいたします。
去年、何のために、何をして生きてきたのでしょうね。 今年、何のために、何をして生きるのでしょうね。 アンパンマンの心 子どもの好きな、アンパンマンの歌詞を思います。 ♬「なんのために生まれて なにをして生きるのか なにが君のしあわせ なにをしてよろこぶ だから君はいくんだほほえんで そうだ うれしいんだ生きるよろこび たとえ どんな敵があいてでも いけ! みんなの夢まもるため」♬ アンパンマンは、生きる目的、生きる幸せ、生きる喜びがわからないまま生きて、そして人生が終わるのは嫌だーといっていますね。 アンパンマンは、おなかのすいた人に自分のほっぺをちぎって、あげるんだそうですね。 そして、アンパンマンに敵対するバイキンマンを決して殺すのではなく、吹き飛ばすのだそうですね。 アンパンマンは、言っています。 人生はあっという間ですよ、とげのある顔ではなく、ほほえみをもって生きて行きましょう。 戦争を仕掛け、略奪をするどんな敵であろうと、どんな国の首相、大統領であろうと、優しいアンパンマンは、殺すのではなく、吹き飛ばして、みんなの自由、平等、博愛、平和の夢を守り続けるのですね。 そこにアンパンマンは生きるうれしさと喜びを感じているというのですね。 いいですね。 初孫の「文音」ちゃんは、このアンパンマンが大好きで、この歌を流すと、体をゆすって喜びます。 物心がついて、いつか、このアンパンマンの心を感じ取って人生の指針にしてもらいたいものと思っています。 私もいつか命が消えますが、この命が消えるまで、このアンパンマンの心を忘れないように生きたいものと思っています。 でも、また、今年も、「優しさというものがない」と坊守や子供からなじられ続けることでしょうが… 最近、ふと思いますのは、真宗門徒とは、阿弥陀様の慈悲を鏡に、自分の無慈悲を慚愧し、浄土の慈悲の世界を鏡に、この世の無慈悲を慚愧せしめられ、おしゃか様や、親鸞様の生き方を手本に生きて行こうとするものと言えるだろうということです。 一日一食、捨て布を拾い集めた、つぎはぎの着物、殺さない、殺させない、軍備不保持、万民平等、不差別 神仏に、国家、人民の欲望を祈らない、非僧非俗、在家仏教、肉食妻帯、朝廷、幕府等権力非妥協、念仏敵対者、弾圧者への非敵対、哀れみの情、被差別民衆含め、万民同朋観、自らの死体は、賀茂川へ流せと遺言、出世、権威志向からの離脱、色衣金襴不着用、黒衣墨染の衣、自分のことはさておいても、間違った朝廷、間違った国民の救済こそ念仏の道、弟子一人も持たずとの自覚 日本の憲法改悪の懸念、軍事費拡大、沖縄への差別と圧力、愛国心強化、原発再稼働、シリア、南スーダンを見ても、世界各国、自爆テロと空爆、軍事力行使、武器売買当前、移民排除、人種差別、格差拡大、国家主義と極右勢力の台頭、 報正寺通信12月 聖典学習会のご案内 24日(土) 朝9時半・昼2時半始 住職自修 参加費無用 聖典から人生・社会の諸問題を問うてみましょう。 どうぞ誘って気楽にご参加下さい 「不生欲覺 瞋覺害覺
不起欲想 瞋想害想 不著色聲香味觸法 これは、阿弥陀仏の前身である、法蔵菩薩の修行の内容を表わしたものです。 以下読み下してみます。 以下もっと味わってみましょう。 「法蔵菩薩とは、経典創作者「達」が最高の人格として表現したものと考えられます。 最高の人格ですから、他者を配慮しない、自分だけの欲に生きることはなく、全ての生きとし生けるものへの慈悲ゆえに、他者への敵意も怒りも害心というものも無いのでした。 それ故、見えるもの、聞こえるもの、匂うもの、味わえるもの、触れるもの、感じ思うどんなものにも、自分中心な好き嫌いにとらわれないのでした。 さらに、どんな誹謗中傷があっても、自己の不徳を顧み、相手を憎むことなく、相手の非道を悲しみ慈しみ、どんなにつらくても、それを試練と耐える力を成就されました。 そして、他者の苦悩には慈悲をもって苦悩しても、自らの苦痛は計らわず、衣食住にしても、最低限の生活に甘んじ、当然ながら、世間の過ちには悲憤はあっても、他者に対する、敵意による怒りというものや、自己中心な愚かさに染まるということはありませんでした。」 無量寿経の大意 この個所でも、どこでも、学んでみますと、この無量寿経の大意とは、「真実なること」の表明と思えます。 これら、阿弥陀仏、浄土物語をとうして、「真実なること」と反対の「真実ならざること」を私たちに気づかせて、真実の自己実現と、真実の世界実現への自覚と実践をうながしているものとうかがえます。 念仏者、真宗門徒として、安倍首相あて抗議文 安倍晋三 内閣総理大臣 念仏者九条の会 共同代表.木村真昭.季平恵海.藤本信隆.松嶌澄雄.小武正教 非戦平和を願う真宗門徒の会 呼びかけ人.石橋純誓 抗議文 政府がこの11月中にも、昨年9月19日に成立させた「安全保障関連法」(以下「新安保法」)を発動し、「駆けつけ警護」等の任務を課し、南スーダンに自衛隊を派遣しようとしていることに強く抗議し、実施に移さないことを求めます。 私たちは安倍政権が昨年9月19日、それまでの歴代の自民党政権でさえ「現憲法の下では集団的自衛権の行使は認められないとしてきた考えを一変させ、また圧倒的多数の憲法学者が「憲法違反である」とし、8割を超える国民の反対・今国会での可決には慎重という意見を無視して「安全保障関連法」を強行採決したことは1年経った今も決して忘れてはいません。 さらに現政府は、すでにPKO派遣された中国などの他国の軍隊が避難している南スーダンに、新たに自衛隊を「新安保法」を適用した「駆けつけ警護」等の任務を課して派遣しようとしていることは、自衛隊員の生命を大変軽視したもので見逃すことは出来ません。 特に「駆けつけ警護」は戦闘行為を伴うもので、そこでは戦死者が予想されます。 今の安倍政権のやり方は、何が何でも「戦闘地域に自衛隊を派遣する」ことが第一の目的ということが明白になっています。 メディアでは安倍総理が9月26日の衆院本会議で行った、自衛隊員等への感謝を示すために拍手促し、自民党議員などが起立して拍手した映像が流されましたが、その一方ですでに政府は戦死者のでることを予想して、「弔慰金を通常の6,000万円から9000万円にした」とも報じられています。まさにその光景は「政府はこの度の自衛隊派遣で戦死者が出れば、起立して拍手して感謝の意をささげるから、安心して戦ってくれ」とでも言っているようでした。 政府の最大の使命は、「自衛隊員を含めた、すべての国民の生命と生活をまもること」でありましょう。 「新安保法」を適用し、自衛隊を派遣すれば、戦後はじめて「戦死者」が生まれる可能性は大であります。そしてさらなる戦闘地域への自衛隊の派遣に繋がっていくことは、71年前の日本の姿への逆戻りです。 むろん「他国と戦争をしない」という平和憲法を持つ日本だから行うことの出来た支援を投げ捨ててしまうことにもなります。 かつて私たち浄土真宗の宗祖親鸞聖人は、仏法に背く天皇とその臣下を厳しく糾弾し、仏法を謗るものとは同座せざれと言い切られました。いま、「殺してはならぬ殺さしめてはならぬ」と教える仏法に背き、「世のなか安穏なれ」と願われた宗祖に背く安倍晋三内閣総理大臣を、私たち全国の念仏者は満腔の怒りを込めて抗議し指弾いたします。 以上 念仏者九条の会 広島県三次市東河内街237 西善寺内 ☎0824―63―8042 非戦平和を願う真宗門徒の会 広島県呉市阿賀中央2―4―14 ☎0823―74―9222 (秋法座のご案内) 25日(金)夜~27日(日)日中 報恩講おとき日・・・27日(日)日中 日中9時半・夜7時半始 講師・益田市・西楽寺住職・川本義昭殿 お誘いあってお参りくださいませ 親鸞様有難うございますという行事です。 私とすれば、まず、 「真実に生きようとする生き方を教えられた」 ということを、ありがとうござい ますと言いたいですね。 親鸞様の求めたもの 下級貴族に生まれ、幼少の頃、母に死別され、9歳で比叡山に上って仏教の勉強、修行に入られました。 伝説では、「明日ありと思う心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかわ」とその出家の時に読まれたといいます。 伝説が事実なら、9歳にして、自分だけでなく、みんな死んでゆく、ということへのおののきから、死を超える、救いなり、永遠に変わらぬ真実を求められたということになるでしょうか。 つまりは、財産、名誉、快楽、出世などを求められたのではなかったということですね。 ですから、名門出身で、比叡山トップの座主に4回も就いた、慈鎮和尚によって僧侶になりながら、この世俗是認の慈鎮和尚からは離れて行かれます。 比叡山を下りられる 比叡山では仏に成ることが目的で、仏に成るとは、欲望、煩悩を完全に無くし、自分中心性からの完全な脱却、慈悲、利他、布施、円満の人格完成でした。 それ故、当然、成仏は絶対不可能と絶望されました。 さらに、比叡山にも不信が募りました。 殺す武器は本来仏教には無用のはずなのに、あろうことか、僧兵という武装した僧侶がいました。 また、日柄の良し悪しを占い、国家権力や、人民の吉凶禍福を祈ることなどにも、これは、仏教ではないと悲歎されました。 「かなしきかなや道俗の良時吉日えらばしめ天神地祇をあがめつつト占祭祀つとめとす」と嘆かれました。 法然上人の阿弥陀仏説法から真実へのうなづき 比叡山や、奈良の伝統仏教に決別し、同じく比叡山を出て、街中で阿弥陀如来の伝道布教しておられる、法然様のところへ行かれます。 真実に生きられぬ(仏に成れぬ)ものをこそ、必ず真実なる仏にすると誓われ、いつまでも、どこまでも、罪にまみれようと誰をも、平等に慈しまれる阿弥陀仏の大悲に、まさしく、「真実なること」をうなづかれました。 親鸞殺害謀略者、山伏弁円の導き 山伏を改め、明法坊と名乗る同行になります。 念仏弾圧者(朝廷・幕府)への非妥協 調べますと、35歳から、死の前年の89歳まで、朝廷、幕府からの念仏禁止等の弾圧が13回もあります。 しかし、親鸞様は、この朝廷、幕府の弾圧者達に迎合するなと手紙に書かれます。 「余の人々を縁として、念仏をひろめんとはからいあわせたまうこと、ゆめゆめあるべからず候」 (御消息17通) 念仏弾圧者(朝廷・幕府)への憐れみ 親鸞様は、この念仏弾圧者達に対して、憎しみを超えて、憐れみで相対されます。 お手紙27通には「「念佛せん人々は、かの妨げをなさん人をば憐れみをなし、ふびんに思うて、念仏をもねんごろに申して、妨げなさんを、助けさせたまうべしとこそ、古き人は申されしか。」とあります。 親鸞様は、当時差別されていた、商人、猟師・漁師も、吾等(同朋)と、とらえられていました。 「屠は、よろずのいきたるものを、ころし、ほふるものなり。これは、りょうしというものなり。沽は、よろずのものを、うりかうものなり。これは、あき人なり。これらを下類というなり。(中略)りょうし・あき人、さまざまのものは、みな、いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり (著書、唯信鈔文意) ですから、金襴色衣の豪華な衣は着用されず、親鸞様を信頼した、猟師から寄進されたと思われますが、熊皮、狸皮の敷物、猫の毛の草履を用い、清楚な黒衣で貫かれました。 聖典学習会のご案内 学習聖典・無量寿経 どうぞ誘って気楽にご参加下さい 前回の学習内容《重誓偈》から 教典とは何でしょうね。 教典とは、その説かれている内容を、ただ疑わずに信じなさいと説かれたものとは思えません。 教典とは、その説かれている内容から「真実なること」に目覚めるべく表現されたものとうかがえます。 ですから、経典を学ぶということは、その説かれた内容から、「真実ということ」を学んでゆくことと考えます。 無量寿経、重誓偈の一句の紹介です。 「常於大衆中、説法師子吼 、供養一切仏
具足衆徳本、願慧悉成満
、得為三界雄」 読み下します。 「常に大衆の中に於いて、法を説きて獅子吼せん。 一切の仏を供養して、もろもろの徳本を具足し、 願と慧、ことごとく成満して、三界の雄になることを得ん。」と読めます。 この意味を考えてみましょう。 これは、阿弥陀仏が、自分の先生である、世自在王仏に誓った誓願を、さらに、重ねて誓った偈ということになっています。 法蔵菩薩(阿弥陀仏)のさらなる決意 「私は、常に、全世界の大衆の中において、ライオンの吼える声のように、世界に轟く説法をしょう。」 ここに、「おーい、みんな聞いてくれ」と、すべてのものを「真実」に目覚めさせ、救わずんばおかぬという大誓願が表現されています。 実に尊いことです。 次に、「一切の仏の徳を讃えてお仕えしょう。」 「仏と同じ、諸々の尊い徳を具えよう。」 「吾も諸人も共に「真実」たらんとの願いや、すべてを自己と一体に観る智慧も円満に成就しょう。」 「欲望、物質、精神的迷いの世界において、最高の徳に満ちた英雄になろう。」 というのですね。 まさしく、ここには、我欲の満足などというものは一切なく、ただひたすらなる、自己と他者、万人への最高の人格完成ということが表現されてあります。 さあ、はてさて、私たちは、どこまで、こういう願いを、あるべき本当の願いとして踏まえて生きようとしているでしょうかね。 島根原発再稼働中止等を求める請願・陳情 (9月議会、安芸太田町へ陳情・北広島町へ請願) 趣旨 目下、中国電力(以下中電)は、島根原発2号機の再稼働に向けて、「新規制基準適合審査」の2013年12月提出以来、2年以上が過ぎ、適合審査は76回(2016年5月末現在)になっています。 また、中電は、原発からわずか南2kmのところに東西に走る宍道断層を、西に3km延長し、総延長25kmにし、基準地振動の600ガルを800ガルにして、検討し直すことにしましたが、もっと長くなる可能性があります。 中電の大きな事件として、原子力規制委員会の適合審査で、耐震需要度をBクラスからCクラスに引き下げたこと(これは、規制委員会委員から厳しく反論され、原発を運転する資格はないともいわれたもの)は、人の命より経営を重視した、絶対許されないものと断じざるを得ません。 以前、中電は、2006年土用ダムデータ改ざん、2010年島根原発点検漏れなど一連の不適切事件を二度と繰り返さないと約束しましたが、昨年新たに低レベル放射性廃棄物の処理をめぐる虚偽記録事件が発覚しました。 こんなことでは、まことに、もう原発を運転する資格はないといわざるを得ません。 また、島根原発は、全国唯一の県庁所在地に立地し、いざという時の実効性ある避難計画がされていない現状にあり、立地自治体の松江市民をはじめ、30キロ圏内に居住する多くの住民が反対の意志を表明しています。 7月2日の朝日新聞デジタルニュースによりますと、政府の地震調査研究推進本部は1日、中国地方の活断層を評価し、地域ごとに今後30年以内にマグニチュード(M)6・8以上の地震が起こる確率を公表し、鳥取市や松江市を含む北部で40%とあり、島根原発の再稼働中止は当然のことと言わざるを得ません。 また原発の存在そのものは、その燃料であるウラン採掘現場労働者、および、現場地域住民の被曝、原発下請け労働者の被曝、原発施設地域周辺住民の被曝、海洋放射能汚染、海水温上昇による、魚など、海中生物被害、たまり続ける、放射性廃棄物の満杯に近い状況、高レベル放射性廃棄物の最終処分場の未解決と100万年もの安全管理の必要、核兵器への製造転用危惧など、全人類、全生命への冒涜といえます。 また、福島原発震災事故に見られるように、地震列島のこの国で、迫りくる東南海大地震等による原発事故、メルトダウンの危険、テロリストからの攻撃危惧、原発発電コストは、将来の原発解体費用などを考慮しても、水力、火力よりハイコストであること、 過去、2年近く、原発止まっていても、電気はまかなえていたという事実もありました。 また、イタリア、ドイツなどは、脱原発、自然エネルギー化への移行を決断しました。 よって、この度以下の請願・陳情をいたします。 請願・陳情事項 島根原発および、国内すべての原発の再稼働中止、ならびに、脱原発、再生可能エネルギーへの移行を求める意見書を、国及び関係機関に提出すること。 安芸太田町議会へは町内外、15名で陳情し、安芸太田町議会事務局からは、残念ながら、電話で、本会議に上げられることなく、議長預かりという結果報告でした。 北広島町では、二人の紹介議員によって、3名で請願しましたが、審議の中で、全国の原発は分からないが、島根は中電がデータ改ざんを行っており、信用できないとかで、島根原発に限定して再稼働反対の意見書を発議しようとの方向になりつつも、これまた残念ながら、継続審議となりました。 秋彼岸法座のご案内 22日(秋分の日) 朝、昼 『仏法と人生と社会』 住職自修 宗教 一般に、神や仏を信じるといいます。 神を信じるというのは、たいてい、神の実在を信じるということなのでしょうね。 ですが、仏、ことに、阿弥陀仏を信じるということは、その実在を信じるということではありませんね。 阿弥陀仏を信じるということは、阿弥陀仏と表現されたその様々な表現の中身に、深く「真実なること」をうなずかされることでしょう。 それはまた、逆に、自分や、世の中の「真実でないこと」をうなずかされることでもありますね。 ここで「真実なること」というのは、いつも申しますように、完全な、自己中心で無い、無我の世界でしょう。 また、同じく完全な慈悲の世界でしょう。 さらに、同じく完全な、利他、布施といった、完全な平等、平和の世界といえるでしょうね。 宗教の「宗」というのは、大事なものという意味でした。 「教」とは、教えでした。 ですから、「宗教」とは、私にとって、「教え」を学んで、深く「真実なること」にうなずき、同時に「真実ならざる、自分と世の中を慚愧せしめられて、真実に向かって、生きて行こうと、うながされる、大事な教えということになると思います。 仏教 浄土真宗 阿弥陀仏を、目には見えない、電力や磁力のような、何らかの、不思議な働きの事実と受け止めて、その働きにおまかせする信仰というものが従来からの真宗理解というものと思えます。 そういう理解とは別に、阿弥陀仏とは、上記、無我、慈悲などといった、「真実なること」の人格的象徴表現と受け止め、その阿弥陀仏と象徴表現されたものから、「真実なること」に目覚め、慚愧と共に、真実にうながされて生きて行くという、自覚実践の信心の道という真宗理解を明確にしたいと思い続けています。
宗教上の理由などで兵役拒否をして懲役になる人は年間、数百人いるそうです。 兵役を拒否して外国に亡命する人は極めて珍しいそうです。 「李イェダ」さんは、韓国で、兵役拒否をしてフランスへ亡命した人です。 李さんは、一匹の蚊も殺せない性格だそうです。 中学生の頃、釈迦の生涯をえがいた手塚治虫の漫画(ブッダ)に感動しました。 「人の命を奪う権利はなく、殺人の訓練は受けられない」との決意でフランスへ亡命しました。 母は、「遠くへ行かないで。 刑を終えれば会えるじゃない」と泣きました。 兵役を終えないと非国民扱いで、就職も出来ない。 国を捨てる決意は固かったのです。 こういう、兵役拒否の亡命が相次ぐのを恐れたのか、韓国の大手報道機関は、ほとんど李さんの亡命を報じていません。 日本語を短大で学び、日本行きも考えましたが、難民認定が難しかったのです。 入隊直前に、約600ドルと片道切符を手にしてパリに行きました。 「社会の構成員からの迫害と収監への恐怖」を理由にフランス政府から難民認定されました。 作家の雨宮処凛さんの招きで来日し東京で講演しました。 韓国軍では、ときどき、いじめ殺人や銃乱射が起きることに、「社会から隔絶され、緊張を強いられる非人間的生活のせいだと訴えました。 日本の集団的自衛権の容認で、徴兵を心配する聴衆に、「正しいと思うことをするためには、外国に行くか、刑に服すしかない。こんな社会にしてはいけない。」と訴えました。 家族とは会えていません。 言葉を学び、フランスの国籍を得ることを目指してパン屋で働いているそうです。 「九条の会 山県」通信NO・5から ①世論の動きに注目を 七月一三日、中国新聞は次のように報道している。 「共同通信社が参院選を受け実施した全国緊急電話世 論調査によると、改憲勢力が三分の二を超える議席を 占めた結果について、『よかった』は二四・二%、『よ くなかった』は二八・四%で、評価が割れた。『どちら ともいえない』は四六・○%に上った。安倍首相の下 での改憲に、反対は四八・九%、賛成の三五・八%を 上回った」 さらに「与党支持層にも戸惑い」という見出しで、 次のように述べている。 「改憲勢力が三分の二を超える議席を占めた結果につ いて、『よかった』と回答したのは自民党支持層で四 一・六%、公明党支持層で二四・六%にとどまった。 与党支持層でも肯定的な受け止めは半数を下回り、改 憲が現実味を帯びたことに戸惑いがうかがえる。・・・ 民進党の支持層は『よくなかった』が七六・七%で、 否定的な受け止めが圧倒的に多かった」 これら、自民党支持層を含めた世論への働きかけが 今後の重要な課題となるのではないか。
盆会法座のご案内 19日(金)夜〜21日(日)朝 夜、7時半・朝、9時半始 初盆物故者・全戦没者追弔法要・21日(日)朝 『仏法と人生と社会』 住職自修 本郷親和会共催 盆に寄せて 「わしに会いたい思やあ、寺へ参って聴聞してくれえ。 墓へ参らんでもええ。 墓のこたあ心配せんでもええ。」 と平生から言っておられたというのは、小原の、故、森本梅太郎さんです。 かつて、ご紹介したことがありますが、この森本さんの逸話を紹介します。 戦時中、反戦的な言動はタブーであった時、「森本」さんは、法座に参詣されたみんなの前でこのように語られたといいます。 「今、国を挙げて、戦争に勝て勝て言うて、神さんや仏さんの前で言うたり、願ったりしとるが、皆さんはどう思われるかしらんが、戦争いうもんは人が殺し、殺されるいうことじゃが、それを、神仏の前で、言うたり願ったりするということは、わしはどう考えてもおかしなことじゃと思うんですがのう」と。 そばにいて、「あがあな事を言うてええんか」とびっくりした人は、戦後、「今になって思えば、当時とても言えん時に、よう思いきって言われたもんじゃ、たいした人じゃったと思いますよ」と感嘆しておられました。 また、平生、いつもよく言っておられたという、素晴らしい言葉が今なお残っています。 「この世にゃあ、他人はおりませんけえのお」という言葉です。 そして某女性の記憶にある言葉として 「朝鮮の人じゃけえいうて、差別しちゃあいけんので」という言葉です。 又、まだ社会同和教育ということが言われていない時から、竹細工の行商に来ていた人々を、たいてい森本さんは休ませてあげていました。 そして、森本さんの言われた言葉です。 「どこでどういうことだったのかしらんが、あなた方が世間で、いわゆる差別ということで、難儀されておられるということはのお」というようなことを申しておられたという家族の思い出も残っています。 仏教徒・念佛者とは 仏教徒・念佛者とは、無我、慈悲、利他、布施といった仏教の理念を、慚愧と共に、人間として、あるべき、自由、平等、博愛、平和、人権など、仏願や人間性の原理に根差した理念を、より自己と世界に実現させようとする者と言えます。 去る参院選で、憲法を変える勢力が三分の2を取りました。 戦争を絶対しないと決めた国が、ずんずん戦争が出来る国へと変わって行っています。 今後、憲法九条など、変えることについて、天下分け目の国民投票がやってくることでしょう。 「慈心不殺」の仏教徒としては、なおさらこれに対処せねばならないと思います。 この、改憲勢力三分の2取得に、無念感と共に、私達、憲法九条堅持の仏教徒含め、非戦、護憲派の力量不足、行動不足を反省します。 また、私自身の、非戦の思いがどこまで確かなのかを振り返り、観念のみの行動であったかと今も自省しています。 近年相変わらずの低投票率に、ないものねだりですが、政治に関心の薄い市民や、選挙どころではない生活に精一杯の市民への政治責任を思います。 また、増大している高齢者、認知症の、入院先での投票の困難さ、同じく国外邦人の投票手順のめんどうさによる投票しぶりなどを考えます。 護憲側といわれている、民進党内にも、改憲勢力が22%ぐらいいるようですし、護憲勢力内にも、攻められたら、戦うという、個別的自衛権是認、自衛隊是認論者も多いです。 私たち、非武装、自衛戦争も放棄の、絶対平和主義者は極少とすれば、この国は、諸外国並みに、軍隊を持ち、戦争のできる国創りに着実に進むのでしょう。 しかし、私たちは、国がこれからどんなに、戦争国家に突き進もうとも、愚直と蔑まれようと、非武装、絶対平和主義を堅持し、拡大するしかないと思います。 私が再確認するのは以下の持論です。 「大事なことは、国が攻められるようなことになる以前から、無軍隊、丸腰論で、諸外国との互恵、尊敬、人道的協力、支援という、諸外国から信頼され、攻めようにも、とても攻めることが出来ないような崇高な国創りによって、国防とする国づくりを目指し、それを世界にも広げるという、絶対平和主義といわれるような考え方で、自衛隊は、軍装を解いて、内外救援隊にという論です。 そして、諸外国は、警察力は保持しても、国家としての軍隊は、国連移管とし、国連のみが、諸国から移管された軍備を軍隊としてではなく、あくまでも警察力としてのみ統括するということ。 しかしそれ以前に重要なことがあります。 それは、現在、拒否権を持つ、五大国が牛耳る非民主的な国連を民主的に解放し、民主的に新生させることです。 そして、民主的に新生した、国連のみが、国際的な警察、裁判権を持ち、国際紛争解決にあたるということ。 そのためには、何としても、諸国民に、こういう、絶対平和主義が浸透しなければ始まらないと思います。 「戦争法」違憲訴訟原告・サポーター募集 広島でも6月に弁護団が結成され、原告とサポーターを募集しています。 今回の政府の横暴に疑問を覚えた多くの方の力を結集し、平和憲法を守るため、思いを同じくする皆さん、何か行動に移したいと感じた皆さんに呼びかけます。 このヒロシマから「戦争をさせない・戦争をしない」ために、「軍事立国」への政策をストップさせるために、是非多くの人たちで原告団をつくりましょう。 皆さんの参加をお待ちしています。 年会費2千円です。 申し込みは私方、城山まで 聖典学習会のご案内 23日(土) 朝・昼 聖典から人生・社会の諸問題を問うてみましょう。 どうぞ誘って気楽にご参加下さい 前回の学習内容《重誓偈》から 経典を学んで、真実というものを考えています。 「開彼智慧眼 滅此昏盲闇 閉塞諸悪道 通達善趣門」 読み下しますと 「彼の智慧の眼を開いて、この昏盲の闇を滅ぼし、諸の悪道を閉塞し、善趣の門に通達せしめん」と読めます。 この意味を考えます。 仏の悟りの智慧の眼、即ち、全てを自己と一体に観ずる真実の智慧を開かせて、この世の人々の、自己中心で、冷酷で、利己的で、収奪ばかりの暗い、即ち、仏の智慧の真実がわからない暗闇を滅ぼして、こういう自己中心で、冷酷で、利己的で、収奪の諸悪の道を閉じて、究極の善、即ち、無我、慈悲、利他、布施の門に通達させたいと読めます。 これは、阿弥陀仏の全てを救うという、先の48願をさらに重ねて誓われた偈(詩)ということになっています。 ですから、阿弥陀仏の救いとは、言うまでもないことですが、世間の健康、長寿、財産、名誉などのご利益ではなく、自己中心で、冷酷で、利己的で、収奪の生き方を慚愧せしめて、無我、慈悲、利他、布施の生き方を確立せしめ、さらに、その究極の完成をかなえさせるということになります。 ここに、仏教の「真実」が象徴的に表現してあります。 ここが仏教の基本で、こういう「真実」が言葉を変え、表現を変えて、いたるところに示してあります。 私たちが、経典を学び、仏法を学ぶということは、こういう「真実」に目覚めさせられ続けるということだと思います。 次に問題があります。 それは,「昏盲」という文字です。 元の、インドの原典を冥暗と漢訳するのならわかりますが、この「昏盲」という訳に問題を感じます。 「昏盲」という字は、暗くて目が見えないという字です。 この経典の意味は、真実に暗くて、真実がわからないということです。 そういうことを表現するのに、「盲」という、目の見えない人を指す文字を使っているのです。 私は、これは、目の見えない人に失礼だと思い、この「昏盲」という文字を変えて、「無明」という文字にしました。 「九条の会 山県」 全体会アピール 「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」 (日本国憲法前文) 「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」 (第二章 戦争の放棄 「第九条」) 私たち「九条の会 山県」に集まる者は、「日本国憲法前文」の平和の精神と、「第九条」の不戦の誓いを、自己自身の決意とします。 人を殺し、人に殺される戦争に、加担することも、巻き込まれることも、協力することも、賛同することも、黙って認める事さえ、断固、徹底して拒否します。それが、子や孫を守り抜く道だからです。 いいえ、子や孫だけではない、母親も父親も、親しい人も親しくない人も、知人も他人も、日本人も外国人も、すべて守らなければならない命を、守り抜く唯一の方法だからです。 戦争という限りなく恐ろしい行為の、悲惨と地獄の極限の現実を、憲法改悪論者たちは見つめることができないのでしょうか。 景気がどうの、経済がどうのという前に、戦場に駆り出されていった若者たちの無念さを思い起こすべきです。 「きけわだつみのこえ」に充満する、特攻隊として死ななければならない状況に追い込まれた青年の身もだえするような苦しみ、戦死しなければならなかった子への狂おしいばかりの母の悲しみ、それらを自分事としてとらえるべきです。 美化したりごまかしたりすることこそ、若くしてすべての望みを絶たれた死者たちへの、許すことのできない冒涜なのです。 戦争の悲惨な現実を直視するならば、「国防軍」などという戦前回帰の発想が持てるわけがありません。それは戦争で利益をあげようと企むものの犯罪的行為であると断じます。“国際情勢は緊迫している”“国際間はそんな甘いものではない”“隣国は核武装をしているではないか!”・・・そういう状況下であればなおのこと、「九条」は光り輝くのです。 絶対平和の道を、迷うことなく誠意を尽くして共に進もうとする中でこそ、共存の活路が開けます。 それがまさに前文に言う「人間相互の関係を支配する崇高な理想」であり、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」することなのです。「武力で平和は守れない」のです。 しかしながら、憲法改悪の企みは、否応なく目前に迫っています。六月二二日に公示され、七月一○日に投開票が予定され、いまやその只中である参議院議員選挙がそれです。安倍首相は、この選挙で改憲勢力である三分の二以上を当選させ、勢いに乗って憲法を改悪しようとねらっています。 なんとしても、この選挙で、安倍首相の意図を阻止・粉砕しましょう! そのため、親戚や友人や知人に、この選挙の意味を訴え、改憲阻止の声を広げましょう! 戦争がいかに恐ろしいものであるか、いま日本はどんな危機的状況にあるかを伝えましょう! そして、参議院選挙後にもつながり広がるように、草の根の平和の声を育て強めましょう! 以上、「九条の会 山県」全体会に集う者の総意として宣言し、平和を希求するすべての人へのアピールとします。 二○一六年六月二四日 「九条の会 山県」全体会参加者一同
大瀛和上奉賛法要のご案内 日時 12日(日)午前9時半
講師 報正寺住職
主催 筒賀七ヶ寺・大瀛和上奉賛会 夏法座のご案内 夜7時半・朝9時半・昼2時半始め 『仏法と人生・社会』 住職自修 人間とは 何もわからないままに、生まれてきました。 「何のために産んだんね?」 と親に聞いても、親自身も、何もわからないまま生まれてきたのでした。 人間だけでなく、犬も猫も虫も魚も草も何もわからないまま生まれてきています。 さてさて、なぜこの地球に生き物が存在するのか? いやその前に、なぜ地球が存在するのか? もっとその前に、なぜ宇宙が存在するのか? 物理学では、この宇宙は将来、光も熱も失って空漠とした空間だけになるともいいますのに。 宇宙はまた、復活するのでしょうか? まだわかりません。 この世を創った『創造神』がいるのか? でもそれはちょっと信じがたいです。 ただ、宇宙の自然法則のなせるものということならわかりますが。 ともあれ、私は人間という動物として生まれ、死んでゆくのは事実。 動物の宿命は、固体と種族、存続のための生存競争。 人間は、大脳進化による、考える動物。 考えるところに、思想、哲学、倫理、宗教などが生まれました。 また、人間には、自己中心的な闘争的動物性と、また一方、利他的人間性という、相矛盾する二つの志向性があります。 利己的な闘争、差別性が強いか、それとも利他的な和平、平等性が強いか。 奪うか、与えるか、憎しみか、慈しみか その間で煩い悩み続けるのが人間なんですね。 仏教とは お釈迦様の悟りの本質とは、万物の相関性に基づく、個の尊厳。 実践的には、無我、慈悲、利他、布施の行であり、社会的には、平等、平和を願う思想、哲学、倫理、宗教ととらえます。 匿名の経典作者「達」の創作した、特に、「無量寿経」に説かれた阿弥陀仏や浄土の思想、哲学、倫理、宗教ととらえます。 阿弥陀仏や浄土とは 経典成立の学問が進んだ現在としては、匿名の経典作者「達」による、仏教の本質である、無我、慈悲、利他、布施の、人格的、場所的象徴表現であり、実体的な実在ではないととらえるべきでしょう。 また、主著、「顕浄土真実教行証文類」には、『「真実」というは、すなわちこれ如来なり。如来はすなわちこれ真実なり。』とあるように、阿弥陀仏説話に対する、「真実」への自覚もうかがえます。 当然、同時に、虚仮の身と世への慚愧もありました。 そのように、親鸞聖人には、阿弥陀仏に対する、何らかの実体的な信仰面と、「真実なること」としての自覚的領解と慚愧の面が見られます。 親鸞聖人以後の信心 親鸞聖人の、信仰面は受容しても、「世を厭うしるし」としての真実への自覚と慚愧面を喪失して、封建権力支配、差別社会を容認してゆきました。 曾孫の覚如さんの「改邪鈔」には、「世法では仁義礼智信を守り、内心に仏法」というように、仏法は、内心の信仰だけに閉じ込めて、封建社会の儒教倫理を容認するというように変質します。 次に、覚如さんの子「存覚」さんの「破邪顕正抄」では、「仏法と王法(政治)を鳥の両翼、車の両輪のように対等に崇める」ようになっています。 次に、親鸞聖人滅後およそ200年の「蓮如」さんの「御文章」には、「内心には他力の信心を、外には仁義礼智信を」というように、やはり封建社会の儒教倫理を容認しています。 次に、親鸞聖人滅後500年、江戸時代、大瀛さんの頃、性海という学者は「仁義忠孝を行い仁王(国王)に従う」ということで、やはり、封建社会の倫理を容認し、仏法で悲嘆するというものが失われています。 三業惑乱 これに対して、功存や智洞という本願寺の最高学者が、それは違う、信心は、(身・口・意の三業)つまり、身で阿弥陀仏に向かって礼拝し、口では、後生たすけたまえと述べ、意では、同じく一心に願うということだと述べました。 そこでこの説に反論したのが大瀛さんを代表とする人たちでした。 大瀛さん側は、阿弥陀仏に向かって、こちらから身と口と意で助けて下さいなどと祈願請求するのではなく、「助けてやるぞと言われる阿弥陀仏に帰依信順することである」と主張されました。 やはりこの大瀛和上側の説に真実性を感じます。 しかし、この大瀛さんにも、大瀛さんのいとこでしたが、大瀛さんとは真宗理解を違えて、本願寺から、異端の扱いを受けながらも、生活実践を主張した石泉さんにも共に限界がありました。 江戸幕藩体制という封建支配差別社会を親鸞聖人のようには、きちんと悲歎し、対峙されることはなかったのです。 三業惑乱後 明治になると、門主の「広如」は「現生には皇国の忠良となり云々」というように、軍国の天皇政権を容認し、 次の「明如」は、「後の世は弥陀の教えにまかせつつ、生命を君に安くささげよ」と陸海軍人へ寄せて詠っています。 そして戦時中「前々門主」は「あくまで驕敵撃滅に突進すべし云々」等と声明を出しています。 教団ではこうした過去の反省が課題になり、8年前、戦後63年目にして、宗門はやっと、これら戦争中、戦争肯定した門主の言葉の聖教扱いを廃止しました。 しかし、西本願寺は、現在、憲法学者の9割が憲法違反だという、この度の安保関連法に対して、未だ、きちんと批判の声明を出していません。 東本願寺は、すでに批判声明を出していますのに。 報正寺通信5月 聖典学習会のご案内 24日(火) 朝・昼 学習聖典・無量寿経 聖典から人生・社会の諸問題を問うてみましょう。 どうぞ誘って気楽にご参加下さい
阿弥陀仏の願いを学んで、真実というものを考えています。 「第41願」 「願名」 「聞名具根の願・諸根具足の願」 「原文」 「設我得佛 他方國土 諸菩薩衆
聞我名字 至于得佛 諸根闕陋 不具足者 不取正覺」 「諸根」とは、眼、耳、鼻、舌、身、意などのことを言います。 「具足」とは、完全に欠けることなく備わっているという意味です。 「意訳」 「わたしが仏になるとき、他の国の菩薩たちがわたしの名を聞いて、仏になるまでの間、その身に不自由なところがあるようなら、わたしは決してさとりを開きません。」 これは、阿弥陀仏が、すべての者に、阿弥陀仏の仏名を聞かせ、そしてこの仏名に込められた真実に目覚めさせ、阿弥陀仏を仰いで修行させ、往生成仏する間、決して心身にしょうがいが無いようにさせたいとの願いということです。 これは、阿弥陀仏が、自分の国の人民だけでなく、他国の人民も救い導き仏道を歩ませるのに、心身にしょうがいがあったなら、修行が十分出来にくいから、仏に成るまでの間、みんなに、心身にしょうがいが無いようにさせたい。 もし、誰かが、心身にしょうがいが出るようなら、決して悟りを開きません、という願いです。 これは、経典創作者「達」が、心身のしょうがいがある人は、修行が出来にくいと思う上から、成仏するまで、心身のしょうがいが無いようにとの願いを仏願として表明したものかと考えます。 誤った解釈 しかし、いつのころからか、この41願を額面どおり、実際の事実と信じ込んで、過ちに陥りました。 それは、「阿弥陀仏は、修行者が仏に成る間、決して心身しょうがい者にはさせないと誓っておられるではないか。 そして、すでに十劫の昔に仏に成られているのだから、修行中、決して心身しょうがい者になるわけがない。 だから、お浄土には、しょうがい者は誰一人いないのだ」という誤った解釈が出てきました。 この無量寿経が創作されて、およそ400年後に出られた、天親の「浄土論」には、
「大乗善根の界は、 等しくして譏嫌の名なし、
女人および根欠、 二乗の種生ぜず」 とあります。 つまり、 浄土は平等なさとりの世界であるから、そしり、嫌われる、 女人としょうがい者と二乗の三種は生まれないから、存在しないと説かれています。 ここでいわれる譏嫌とは、 成仏出来ないものとしてそしり、嫌われることを意味しています。 このように浄土には、女性や、しょうがい者や、菩薩以下の、二乗といわれる、声聞、縁覚などはいないのだという表現になったということは、当時の社会の女性、しょうがい者差別を受け入れてしまった仏教の過ちと言えます。 本来なら、阿弥陀仏は、女性であろうと、しょうがい者であろうと、だれであろうと、真実に目覚めさせて、仏道を歩ましめ、みんな仏にさせるというものでなければならないし、浄土では、女性は女性のまま、しょうがい者はしょうがい者のまま、悟りを開いて仏に成さしめるということでなければならないはずですから。 念佛者9条の会、非戦平和を願う真宗門徒の会要望書 2016 年4月⒏日 浄土真宗本願寺派総長 石上智康様 念仏者九条の会共同代表 季平恵海.藤本信隆. 木村真昭 松嶌澄雄.小武正教 非戦平和を願う真宗門徒の会 石橋純誓 この夏・7月に予定されています国政選挙に際して、本願寺派が今まで取り組んできました「靖国神社公式参拝反対」、そして「非戦平和」の活動に対して、背反する行動や言動をされている候補者への「総長推薦」を出 されないことを強く要望します。 私たち浄土真宗本願寺派では、1971 年以降、真宗教団連合の名前で、最初「靖国神社国家護持反対声明」、そして後には「総理大臣の靖国神社公式参拝反対声明」を出し続けてきました。 また前大谷光真門主の導師の下、1981 年以降は、毎年9月18
日千鳥ヶ淵墓苑で全戦没者追悼法要を営んできました。 それは千鳥ヶ淵法要の趣旨にありますように、「本願寺教団として、悲惨な戦争を再び繰り返してはならないという平和への決意を確認する」ことを目的とするものであります。 また2015 年度に表明いただきました石上総長の平和宣言には、「武器によっては世界の平和、人類の幸福はもたらされない」と述べられています。 さらに大谷光淳門主は、千鳥ヶ淵の法要の表白で、「教団は戦前に時代の常識に迎合し戦争に協力してきた歴史があります」とやはり慚愧の言葉を述べ、同じ過ちを繰り返さないことを誓われています。 「言行一致」こそが今求められています。 私たち浄土真宗本願寺派は、「靖国神社公式参拝賛成」の言動をする候補者を推薦すべきではありません。 また昨年9月19 日に成立した「安保関連法」という「日本を再び戦争する国にする法」に賛成した議員、また賛成する候補者、そして現憲法を変え、戦前の帝国憲法かと思われるような 2012 年の自民党の「日本国憲法改正草案」へ変えようとする行動をしている候補者も推薦すべきでないことはいうまでもありません。 総長推薦を出される場合は「浄土真宗のみ教えに基づき活動をして頂く」ということをお願いするという文章を渡されると聞いております。 「靖国公式参拝に賛成」する活動をしても、「戦争する国にするため」の行動をしても、「推薦する」とするなら、「み教えに基づく」とは有名無実となり、中味はなきに等しいといわざるを得ません。 この夏予定されている国政選挙に際して、私たちの教団がお釈迦樣の教え、親鸞聖人のみ教えを社会に伝える教団として存在するからには、「総長推薦」においても、世間に対して恥ずかしくない一本筋の通った姿勢を強く求めます。 以上
10日 (日)夜席~12日(火)日中席 ・おとき日・・・12日(火)日中 夜、7時半・日中、9時半はじめ 講師 坂・西林寺・河野行昭殿 ・どうぞ、誘い合ってお参りください
ご存知のように、去年、安保関連法(戦争法)が、元、最高裁長官や、憲法学者、9割の憲法違反との声明、そして、大学生、高校生、若いお母さんなど、全国の市民の反対を押し切って、強行採決されました。 それ以前から、自民党改憲草案では、自衛隊を「国防軍」という軍隊にするということもありました。 これでは、憲法九条が殺され、日本はもう二度と戦争をしないと決めたのに、戦争のできる国にまるで変ってしまうし、この法は、(戦争に向かう法)だと思い、皆さんに呼びかけて、この会が、発会しました。 反対、市民連合のアピールで、精神科医の「香山リカ」さんが、この反対運動は、政党、イデオロギーなどの違いによる運動ということ以前に、「人間であることを守る運動」だというようなことを言っておられて、私は感動しました。 「殺さない、殺させない、つまり、戦争放棄」は、イデオロギー以前の、人間性の原理の問題ということでしょう。 無我、慈悲を行動の原理としょうとする、仏教徒としての行動でもあると思った次第です。 この会の目的として、『この会は、「人間としてあるべき、反戦・平和の道を求めるため、日本国憲法第九条を守る」ことを目的にします』と、人間としてあるべきということを強調されて掲げられました。 参加者は、NHK取材班含め、30人ばかりでした。 講師の、北広島町議会議員、梅尾泰文さんは、 「安倍政権は今、そして私たちは~」と題して、 軍事費アップより、福祉の充実、反原発、千代田の、米軍、低空飛行、爆音抗議、日米地位協定下の、独立国とは言えない日本の状況、ことに、沖縄への憂い、野党連携による、安保関連法(戦争法)廃止への署名行動等、訴えられました。 私たちは、本日、ここに「九条の会 山県」 を結成いたしました。 奇しくも、本日は、昨年、9月19日未明、強行採決された安全保障関連法いわゆる戦争法施行の日です。 私たちはこの暴挙を決して忘れることはできません。 当、翌日の朝日新聞全国緊急世論調査でも、「賛成」は30%、「反対」は51%で、法律が成立してもなお反対が半数を占めました。 国会での議論が「尽くされていない」は75%、安倍政権が国民の理解を得ようとする努力を「十分にしてこなかった」は74%に上りました。 私たちは、この強行採決に危機感を覚え、日本をかつてのような、戦争する国にしてはならない、世界に誇るべきこの憲法九条は絶対、堅持しなければならないとの思いをもって、 この「九条の会 山県」を結成いたしました。 思い起こせば、12年前、2004年6月10日、大江健三郎さんはじめ文化人が、この国の、しだいに、戦争に近づいて行く歩みに懸念を抱き、国民世論を喚起するため「九条の会」を立ち上げました。 そして、この思いに賛同する人々が、日本各地に、現在、7500以上、九条の会を立ち上げ、活動をし続けています。 しかし、政府は、アメリカからの強い圧力の下、日米軍事同盟を強め、着実に、この国がまた戦争のできる国へとその政策を推し進めてきました。 2012年の、自民党改憲草案、これは、憲法9条を変えて、自衛隊を国防軍に変えることをはじめ、権力を縛り国民を守る憲法でなく、国民を統制する憲法へ、「国旗・国歌」を強制し、「元首天皇を戴く」国家へ変貌させようとするものでした。 さらに、2013年の特定秘密保護法の成立、一昨年の、集団的自衛権閣議決定、昨年のいわゆる戦争法の採決がそうでした。 そのため、元、最高裁判所長官初め、憲法学者の大多数がこれに反対し、さらに、高校生、大学生や、若いお母さんたち多くの市民が、この政権と将来の不安から連日国会に反対のデモを繰り出しました。 絶対この悪法を廃止させようと、今もその反対行動は続いています。 安倍首相は、今年夏の参議院議員選挙では、憲法改定を争点にあげると公言しました。 私たちは、危機感をもって、この動きに反対しなければならないと思います。 非戦への道には退転なし! この憲法9条・戦争放棄の精神を、ここ山県の地から声を上げ、若い世代に広げてゆきましょう。 そして山県の人権と平和を守る拠点として、私たちの「九条の会 山県」を共に歩み育ててゆきましょう。 2016年3月29日 「九条の会 山県」 結成会参加者一同 報正寺通信3月 聖典学習会のご案内 前回、35願を学びました。 これを読んで、経典の女性差別を考え、経典といえども、時代、社会の影響をうけ、過ちがあることを考えました。 教典創作者(達)の差別観念を考えました。 第35願 私が仏となったとして、十方の数限りない、不可思議な諸仏世界の女性たちが、私の名前を聞いて、喜び、まことに目覚め、真実を願い求める心を起こして、女性であることの身を厭い嫌って、そして命が終わって、また女性となるようなことがあるなら、決して悟りを開きません。 解説 女性の出家者の始まりは、お釈迦さんの義理のお母さんでしたが、これも、義理のお母さんの必死の出家願望と、弟子の阿難の勧めでやっと出家が許されたということです。 その後も、女性の出家者は、男性の出家者よりも戒律が多く、男性の出家者に従わなければならないなど、やはり、お釈迦さんといえども、女性への偏見、差別にからめられていたということを思います。 お釈迦さんは、女性の成仏を認めていましたが、お釈迦さんが亡くなってだいぶ後、情けないことに、女性軽視のヒンズー教の影響のようですが、女性は仏に成れないということになっていきました。 (女人成仏へ) そこで、お釈迦さんが亡くなって、およそ500年後の経典作者「達」は、このことに疑問を持ったのでしょう。 女性の成仏を考えて、この無量寿経の35願を考案したことと推察します。 しかし、その内容は不徹底で、やはり女性差別から抜け出ていません。 以下解説してみましょう。 「女性たちが、仏の名を聞いて喜び云々」とありますが、これは、仏の名を通して、仏の本質である、慈悲の真実に目覚め、喜んで、その真実を願い求める心を起こしたということでしょう。 この、「自覚的に、真実を願い求める心を起こした」というところに女性のみならず、すべての人間の救いが成立しているといえます。 ここまでは問題ないと思います。 ところが、次に、「女性であることの身を厭い嫌って」とあります。 この表現に、経典作者の過ちを考えます。 (女性差別) どうして、女性であることの身を厭い嫌うことがあるのでしょうか。 女性であることの身を厭い嫌うということは、その当時の「女性は忌むべきけがれた低劣なものである」というような世間の差別観念を、残念ながら、その女性たちも、それを自明のように自ら受け入れているという、無残さが思われます。 厭い嫌わなくてはならないのは、女性の身ではなく、 「女性は忌むべきけがれた低劣なものである」というような世間の差別観念と、差別世間をこそ、厭い嫌わなくてはならないはずです。 ですから、次の「命が終わって、また女性となるようなことがあるなら、決して悟りを開きません。」という個所にも過ちが見えます。 (男に生まれ変わるというおかしさ) 命が終わって、次の世界で、つまりは浄土で、もう女性ではなく、男性として生まれ変わるということになっているのですからね。 本当なら、女性のまま、お浄土に生まれなければならないはずなのにです。 でも、その当時の女性が、差別されていて、哀れであるという、経典作者の、女性への同情からの発想ということはわからないではありません。 でも、経典作者も、世間と同じく、「女性は忌むべきけがれた低劣なものである」というような世間の差別観念にからめとられていたから、「こんどは、男に生まれ変わらしてやろう」という発想になったものとうかがえます。 もし、経典作者が、差別観念から解き放たれていたなら、「女人が、仏法によって、真実に目覚め、歓喜し、真実を願い求める心を起こして、女性差別、あらゆる差別を厭い、そして往生成仏して、この世の女性差別、あらゆる間違った差別観念を払拭すべく、導き続けることが出来なければ決して悟りを開かない」と表現すべきであったのにと思うのです。 (往生成仏に対する、一般の浄土教と、親鸞様の違い) ここで、説明しておきますが、大体、浄土教では、お浄土に生まれて、そこで修行をはげんで仏に成るということになっています。 そこを親鸞様は、「いや、そうではなく、お浄土に生まれさせて頂いたら、即座に成仏させてもらうのだ」と解釈されました。
釈尊涅槃会 17日(木)朝・昼、18日(金)朝・昼 「お釈迦様の一生から学ぶもの」 お釈迦様の(涅槃図)を掲げ、坊守も お誘いあってお参りください。 皆さんはどうですか おにぎり会でもよくこぼされる言葉です。 その都度、私の語ってきたこと、また、書いてきたことが伝わっていないのだなあと慚愧します。 去る、おにぎり会では、「信じ込む、思い込むということではなしに、思い当たるということ」と申しましたが、これも皆様によく納得いただいたとは思いません。 そこで、このことについて、文章でまとめてみましょう。 少しでも、「アーそういうことだったのか」と納得くだされば幸いです。 この、「仏教を何べん聞いてもよくわからん」と言われる気持ちというものを想像してみます。 それは、仏教を聞いて、なんとなく、ありがたいことと感じさせてもらうことはあっても、しかし、あとで考えた時、ありがたいこととは思うけれども、仏、浄土って、実際、本当なんだろうかと考えると、分らなくなるということではないでしょうか。 阿弥陀様に救われてお浄土に参らせてもらい、そして、仏とならせてもらって、またこの世に還ってきて、みんなを救い導かせてもらうということを、昔の人々のようにはすんなりそのままありがたいこととして、徹底して信じきれないということではないかと思うのです。 違っているでしょうか 真宗の教えのおさらい 私らは、欲や、ねたみや、おごりたかぶり、怒りやひがみなどいろんな煩悩に、それが嫌だ、恥ずかしい、悲しいとわかっていても、この煩悩から完全には離れられないということはわかりますよね。 そして、こういう煩悩から決して離れることが出来ない、そのままのこの私を、それ故にこそ、大慈悲の阿弥陀様は、どんなことがあっても、いつでもどこでも、育み、照らし、導いていてくださっているということ。 そして、どんなに最低、最悪の状態でこの命尽きようとも、この私を、必ず、煩悩から離れた清浄なお浄土に迎え、煩悩から離れた清浄な仏にさせてくださるということ。 そして、さらに、阿弥陀様は、この私を、この世に還らせてくださり、この世の、煩悩に迷う全ての人々を永遠に導かせてくださるということ。 こういうのが浄土真宗の教えでしたよね。 いかがでしょう。 こういう教えを聞かれて、それが実際の事実であるかどうかはともかく、たとえ少しでも、この阿弥陀様の大慈悲は、ありがたい尊い世界であると感じられるのではありませんか。 この、「たとえ少しでも、ありがたい尊い世界であると感じられるということ」そのことが大事だと思っています。 真実なること この、「たとえ少しでも、ありがたい尊い世界であると感じられるということ」そここそ、「真実なること」が感じられたということ、あるいは、「真実なること」が私に届いたということ、あるいは「真実なること」に目覚めさせられたということが出来ると思います。 それは、逆に、煩悩の虚仮不実の身ということが知らされていることでもありますね。 さらに言えば、煩悩の渦巻くこの世の虚仮不実も知らされているということでもあります。 そして、この「真実なること」として感じられた「阿弥陀様」や「お浄土」のことですが、これについては、主に無量寿経に説かれています。 このお経は、昔は、おしゃか様が実際に説かれたと信じられていましたが、最近、経典成立の研究が進んで、そうではなく、この経典は、おしゃか様が亡くなられておよそ500年後、匿名ですが、経典作者(達)によって、創作されたと知られるようになったのです。 ですから、「阿弥陀様」も「お浄土」もおしゃか様や、経典作者(達)が実際の事実として見たということではなく、経典作者(達)が、「真実なること」を伝えるために、物語的、象徴的に表現されたものと考えられているということです。 ですから、この経典が成立しておよそ200年後頃に出られた、インドの竜樹菩薩から、さらに200年後の天神菩薩初め、後世、中国の、曇鸞、道綽、善導様、日本の源信、源空様など七高僧から、宗祖親鸞聖人も、「阿弥陀様」や「お浄土」は、おしゃか様が説かれたもので、「真実なること」であると同時に「事実、本当のことでもある」と信仰されていたものとうかがえます。 ですから、未だに「阿弥陀様」や「お浄土」を「真実なること」と感じられながら、同時に、「阿弥陀様は、本当に居てくださるもの」「お浄土は本当に参らせていただける所」として、「阿弥陀様におまかせして、お浄土参りを有難くいただいて、安心する」というような、いわゆる「信仰」が多く語られています。 それで、多くの方が、「阿弥陀様」や「お浄土」を「真実なること」と感じ受け止められながらも、「でも、阿弥陀様は本当におられるのだろうか、また、お浄土は実際にあるんだろうか」と戸惑われているのだろうと思います。 僧侶の責任 これは、われわれ僧侶の責任と思います。 「阿弥陀様」も「お浄土」も「実際の事実」ではなく、「真実ということ」の物語的、象徴的表現であるということを明確にしなければならないと思います。 私は、このことを理解していただこうと、住職にならせてもらって以来、づーっと一貫して語らせてもらってきたつもりです。 ですから、「聞いても聞いても事実として信じられん、分らん、思い込まれん、信じ込まれん」ということではなく、聞く度ごとに、なるほど、仏の世界や浄土の世界に、いつも申します、無我、慈悲、利他、布施といった真実ということがうなずけ、同時に私やこの世界がその反対の我執、冷酷、利己、収奪の虚仮不実だと思い当たることになります。 そして、そこから、虚仮不実の自己と我が世をいとい、それ故にこその真実の自己と世界を願わしめられる生き方に促されてゆくことになります。 「九条の会 山県」(仮称) 結成大会 予告 北広島町 人権・生活総合相談センター 記念講演 梅尾泰文さん(北広島町町議会議員) (演題) 「安倍政権は今、そして私たちは
昨年度、報正寺ダーナ募金総額は30,401円でした。 布原、1,000円・大井、1,000円・ 山県太田組ダーナ募金会計へ・・13,000円 本願寺東日本大震災支援金へ・・ 7,401円 前年度山県太田組ダーナ募金総額は389,188円 山県太田組内医療機関へ本願寺新報・仏教誌施本 寿光園・・・・・・・・・・・150,000円 報正寺通信1月 過年・色々ありがとうございました。 本年もよろしくお願いいたします。
16日(土)朝・昼、17日(日)朝 朝、9時半・昼2時半始め、夜席はありません 「親鸞様の御一生から学ぶもの」 住職自修 共に、親鸞様のご一生から、生と死と現在の世界を考えさせてもらいましょう。 例年通りぜんざいをいただきます。 越年哲学 毎年、この年末年始に、改めて、宇宙、命、人間、社会、仏教、真宗を哲学します。 まあほとんど、代わり映えの無いもので、皆さんも、あー、またあれかとうんざりかもしれません。 しかし、私自身の確認であり、披瀝でもありますので、どうかお許しを。 まず、宇宙、自然、生命、人間、私も、その存在は、不思議に見えても、単なる一つの自然現象にすぎず、本来、どうしても存在しなければならない意味はないと考えます。 ただ、この一、生命体である私の存在意味としては、私の命の中にしくまれている、個体および種族保存にその意味があるということかと思います。 だから、食い気も欲気も死ぬまであるのでしょう。 しかし、本来、自由ですから、自死(悲しくも)することも、独身で通すことも自由でしょう。 ただ、他の動物と違って、人間には、大脳が進化して、知性、理性、人間性という精神作用があります。 そこに、思想、哲学、倫理、宗教という分野があり、多種多様な考え方があります。 今の私には、この世の一切を創造し、支配している、創造神というものは、考えられません。 もとより、悪魔も、霊魂も、そして、生まれ変わるという前世も来世も考えられません。 138億年の宇宙の歴史の中から、私といういのちが生み出され、一つだけの、そして、一度きりの人生を長くも短くも生きて、そして死んで、大自然に帰ってゆくということだろうと思っています。 たとえ嫌でも、老も、病も、死も、そうなるように仕組まれているのですから、それを、「そうか、来たな」と受容するしかないと思っています。 私は、私ぐらい、疑い深い人間はいないだろうと思っています。 ですから、経典も、釈尊も、親鸞様も、絶対として、信じ込むということはありません。 いつも申しますように、阿弥陀仏も浄土も、実体的な実在というようなものではなく、無名の経典創作者「達」が「無我」とか「慈悲」といった事柄を象徴的に表現したものと受け止めています。 私は、仏教から、「仏」という無我、慈悲、利他、布施の究極の人格に向かって生きる道を教えられました。 また、浄土真宗からは、「阿弥陀仏」や、「浄土」と象徴的に表現されたものから、無我、慈悲、利他、布施の究極の「真実」にうなずかされ、また同時に、自己とこの社会の、「虚仮不実」にもうなずかされ、それ故にこそ、慚愧と共に、「真実」にうながされて生きて行く道を教えられました。 私は、つくづく、言うほどには、思い合い、優しさ、暖かさのない、我執の強い、人間だと思っています。 生来の人間性の欠陥か、仏法の身につていない証拠かと慚愧します。 でも、そのままに、いつまで生きるか知りませんが、この優しさや、思い合い、暖かさが少しでも備わるようになってゆけばいいがと願っています。 同じように、この社会も、そうなさしめねばと思います。 昨年、9月19日の国会での安保関連法、強行採決を憂い続けています。 戦争をもう、絶対しないという国を、いや、国には、軍隊は常識で国際紛争には、戦争することも常識だという考えでしょうか、憲法9条を変えて、自衛軍を持つというのが、自民党の結党以来の念願でした。 そして、夏の参議院選挙で勝って、いよいよ自衛隊を国防軍にするという憲法改定を、政権は、大阪の、橋下、元大阪市長らともくろんでいます。 昨年、高校生も、大学生も、若いお母さんたちも、国会議事堂前に繰り出して、こんな、戦争する国にしてはならないと、声を上げ、今も、訴え続けています。 来る、15日、夜、7時半〜加計、久日市集会所で、仮称「山県 九条の会」を発足させる準備会を開きます。 この地にも、「非戦平和」の拠点を作ります。 皆さんも、ぜひ、参画してください(ご一報を)。 原発も次々再稼働させています。 貧富の格差は広がり続けています。 「命の尊厳・人間の尊厳不可侵・反戦反差別を慙愧を持って願い続けたい。 お互いに尊重し合い、物を公平に分かち合い、奪わず、殺さず、差別せず、格差なき社会であれば、べつに原始生活でもいいじゃないか。」 これは、私のツイッターの自己紹介ですが、ここに、本来意味無き存在のまま、生きて行く意味を見出しています。 報正寺通信12月
住職自修 参加費無用 聖典から人生・社会の諸問題を問うてみましょう。 どうぞ誘って気楽にご参加下さい
前回、33願を学びました。 これを読んで、真実の人間の在り方とはどういうものかということを象徴しているなと思いました。 教典創作者の思想が読み取れます。 解説 以下、解釈してみます。 私が、最高の慈悲の人格の仏に成ったなら、私の国だけでなく、十方の数限りない、とても私たちの思いの及ばない程の、尊い諸仏の世界にいる人々にも真実の道を伝えましょう。 そして、その人々が、私の導きの光を受けて、かたくなな心が優しさに満ちた柔らかい心になり、そして、今までのかたくなさへの慚愧によって、態度も柔らかくなり、この世のどんな人間よりもさらには天人よりもはるかに超えた尊い人格になさしめたいのです。 もしそれが出ないようなら私は決して仏にはなりません。 なぜなら、私が仏を目指すということは、自分だけでなく、すべての人を最高の慈悲の柔軟な人格へと成就せしめるということなんですから。 私も批判を受けます。 その時、自分の考えに自負はあるとしても、それでも、間違っているかもしれないぞと言う謙虚さは持っていなければならないとは、心得ているつもりでも、相手からの批判の中に、私を否定するような毒気を感じると、こちらも、毒が出て、言葉遣いや、態度に、自分を守り、相手を突き刺す、トゲが出てきます。 情けないと思います。 平生言っている、優しさ、思い合い、暖かさなど柔軟心は飛んでしまっています。 本当は、その時、あー相手も、自分の大事な考えがあり、自分の考えに対して、私の考えが違うと思うから、私を批判してくれているのだと、謙虚に、善意に受け止めればいいのですがね。 そして、お互い、違いをきちんと整理し合い、共に、より良い方に向かって歩んでゆこう、というようなものが生まれてくるといいのですがね。 また、相手の毒気を感じても、案外それは自分の毒気故かもしれないと思う謙虚さも忘れてはいけないとも思います。 しかし、お互い、自我を持つ凡夫で、不完全なものと思えば、相手の毒気を感じた時、あー、相手の毒気が出たな、相手も気まずい思いをしているかもしれないと相手を思いやる余裕の柔軟心もあったらいいのだがと思います。 パリ同時多発テロ事件は、去る11月13日に起き、約130人が死亡した痛ましい、悲しい事件でした。 その時、妻が殺された被害者の夫の魂の告白です。 「私は息子に憎しみや暴力、恨みを抱えたまま育ってほしくない。彼に立ち上がる武器を与えたい。銃では決してなく、紙やペン、そして音楽という武器を 君たちに憎しみを与えない 金曜日の夜、君たちはかけがえのない人の命を奪い去った。私の最愛の妻、そして息子の母を。でも、私は君たちに憎しみを与えない。君たちが誰かも知らないし、知りたくもない。君たちは死んだ魂だ。君たちは神の名で無分別に殺りくを行った。もし、その神がわれわれ人間を自らの姿に似せてつくったのだとしたら、妻の体に撃ち込まれた一つ一つの弾丸が、神の心に撃ち込まれていることだろう。 だから、私は決して、君たちに憎しみという贈り物を贈らない。 君たちはそれを望むだろうが、怒りで応えることは、君たちと同じ無知に屈することになってしまう。君たちは、私が恐怖し、周囲の人を疑いのまなざしで見つめ、安全のために自由を犠牲にすることを望んだ。だが、君たちの負けだ。私はまだ、私のままだ。 今朝、(亡きがらの)妻に対面した。幾晩も幾日も待ち続けた末に。彼女は金曜日の夜に会った時と変わらず美しく、そして、恋に落ちた12年以上前と同様に美しかった。もちろん、私は悲しみにうちひしがれている。だから、君たちのわずかな勝利を認めよう。でも、それは長くは続かない。彼女は、いつも私たちと一緒に歩む。そして、君たちが決して行き着くことができない天国の高みで、私たちは再び出会うだろう。 私と息子は2人になった。でも私たちは世界のいかなる軍隊よりも強いんだ。私が君たちに費やす時間はもうない。昼寝から目覚めた(息子の)メルビルと会わなくてはならない。彼は毎日、おやつを食べ、私たちはいつものように遊ぶ。この幼い子の人生が幸せで、自由であることが君たちを辱めるだろう。君たちは彼の憎しみを受け取ることは決してないのだから。」以上 文中、「君たちが決して行き着くことができない天国云々」とあります。 イスラムのテロリストは、天国に行き着くことが出来ないと読めますが、真宗では、空爆する欧米諸国にも、イスラムのテロリストにも、報復を超える世界を知らしめて、恩讐を超えて、共に、真実の世界に行き着かせる教説のあることを思いました。 報正寺通信11月
日中9時半・夜7時半始 講師・広島市・法光寺住職・築田哲雄殿 お誘いあってお参りくださいませ
ところが、それは、自己中心性から決して離れられない身には、絶望でしかありませんでしたね。 でも、その絶望の一切を包摂して、その自己中心性を完全に払拭して、完全満点の、無我と慈悲の完成者である仏になさしめることを誓って下さっているのが阿弥陀仏であることを知らされ、唯、その阿弥陀仏に帰依信順され、信仰されたのでしたね。 ということは、つまりは、親鸞様は、阿弥陀仏やその浄土を、不可思議なる有難き、事実なるものとして信仰されたのでしたね。 それは、ご和讃の、「如来大悲の恩徳は、身を粉にしても報ずべし云々」にもうかがえます。 それは、阿弥陀様のご苦労を思えば、身を粉にしてでも報いるべきだと言われていますからね。 もし、阿弥陀様のご苦労というのが、ただ一つの話であって、事実としては信じられないということなら、ご苦労に報いるということにはならないでしょうからね。 阿弥陀様のご苦労に身を粉にしても報いたいと言われる親鸞様の確かな信仰をうかがいますが・・・・・ また、その信仰は、単なる依存信仰ではなく、そこには、阿弥陀仏の一切への無条件、無制限の最も深く、最も広い大慈悲という、真実なることへの深い領解というものがありました。 この大慈悲という、真実ということを心底、領解され、そこで、真実の道を得られたということですね。 それは、この身と、この世の慈悲にほど遠い、虚仮不実への慚愧と、そして、それ故にこその終わりなき、この身と、この世に対する真実への願求実践への道が開けたのでしたね。 だから、もう、この真実の道を得られたという、そこのところで、親鸞様の救いは成立したと言えると思います。 先に述べました、「真実の道が得られた」ということが何より大事であって、なおこの上に、阿弥陀仏や、浄土への信仰というものは、必ずしも必要ないのではないかと思うのです。 親鸞様には、無量寿経に説かれた、法蔵菩薩物語としての、阿弥陀仏やその浄土とは、実際の事実ではなく、実は、絶対の無我とか、大慈悲という真実なることがらを知らしめんが為のてだてとしての、象徴的な説話であるということに思い至られなかったのも、時代の制約上無理からんと思います。 親鸞様、現代では、三部経は、釈尊直説ではなく、釈尊が亡くなられておよそ500年後、無名ですが、経典作者(達)の創作と知られるようになったことはご承知ですよね。 ですから、現代に生きる私たちとしては、繰り返しますが、再確認させていただきます。 私たちは、法蔵菩薩物語や、阿弥陀仏やその浄土といっても、実際の事実として信仰するというのではなく、阿弥陀仏の一切への無条件、無制限の最も深く、最も広い大慈悲という、真実なることへの深い領解によって、真実の道を得て、この身と、この世の慈悲にほど遠い、虚仮不実への慚愧と、そして、それ故にこその終わりなき、この身と、この世に対する真実への願求実践への道の歩みと受け止めさせてもらいます。 ですから、この慚愧と共に、真実への道を歩もうとする歩みにこそ人間の救済は成立していると言えると思い、もはや、信仰ということではなく、真実に生きて行く道として教えを学んでゆこうと思っています。 親鸞様、わかっていてくださいますよね。
2015年5月 聖典学習会のご案内 16日(土) 朝・昼 住職自修 参加費無用 聖典から人生・社会の諸問題を問うてみましょう。 どうぞ誘って気楽にご参加下さい
改めてこの17願を学びなおしてみます。 この17願は、意訳では、「私が仏になるとき、すべての世界の数限りない仏が たが、みな私の名をほめたたえないようなら私は決して悟りを開きません。」と あらわしてあります。 作者不明ですが、この経典を創作された人(人々)は、人徳の高い人とは、あ らゆる高徳の人々から称賛される人であるということを、仏という最高の徳の人 格も、そうであるということを表現されたものと思います。 高徳な人々の中から、たとえ一人からでも、非難されるなら、その人格、人徳 は完ぺきとは言えないということでしょうからね。 連れ合いや、子供からしょっちゅう非難される私としては、まさしく仏には程遠 い、虚仮の凡夫ということです。 私が、私の我欲煩悩の心を解き放って、自己中心でない無我の悟りを開いて仏という、すべてを慈しみ、すべての生きとし生けるものの悲しみや苦悩を痛むことのできる大慈悲の人格者になった時、すべての世界の数限りない仏がたが、一人残らず、 みんなこぞって、私の悟りと、私の名である、無量寿仏、即ち、「無限の寿命をもって、いついつまでもすべてを救い導き、最高の大慈悲の人格者になさしめんとする誓いの名」をほめたたえることが無かったとしたら、私は決して悟りを開いて仏になりません。 私が悟りを開いて仏になるということは、すべての諸仏から称賛される最高の慈悲の人徳である仏になるということなんですから。 体力、学力、能力、技術、財力、権力、地位、名誉等 に於いて。 でも最高をめざしながら、現実には差が生じ、大なり小なり、優越感、劣等感にからめられるものと思います。 そして、でも、また、誰しも大なり小なり、このおごり高ぶる優越感、逆の、ひがみうらやむ劣等感を「アー嫌だなあ」と恥じるものも保持していると思います。 ということは、みんな内心、これら力が有っても、無くても、有っておごらず、無くてひがむことが無いなら実に素晴らしいことなんだがなあということがわかっているということであろうと思います。 この優越感、劣等感というものが生じる基を考えますと、それは、自己愛、というものかと思います。 この根深い自己愛が我執煩悩、自他の対立を生むものと思います。 この自己愛から解放されて、自他を同一に慈しまれる心が開かれると、どんなにか、素晴らしいことでしょうが、でも、根深い、自己愛、我執がある限り到底無理なことです。 この自己愛、我執煩悩から完全に解放されて、無我、慈悲、利他、布施の完全な究極の人格を仏教では「仏」と表現しました。 仏教の教える、最高の人生の目的とは、「仏」です。 上記、仏の17願は、このような崇高な人格の成就こそが人生最高の目的であることを示唆しているものとうかがえます。 先述しましたように、我執煩悩の私たちには、現実には、決して、「仏」にはなれません。 そのことを知り抜いているがゆえに、だからこそ、必ずすべてを我執煩悩から解放して「仏」になさしめると誓って働きかけていてくださっているという仏が阿弥陀仏でした。 こういう、阿弥陀仏という表現に「真実」というものが表現されています。 私たち、真宗門徒は、こういう阿弥陀仏に「真実」をうなずき、そして、逆の「虚仮不実」の自己を慚愧せしめられて歩ましめられてゆきます。 そして悲しくも、大なり小なり、我執煩悩にからめられながら、そして同じく大なり小なり、恥ずかしくも優越感、劣等感にからめられながらも、他者を羨んでもしょうがない、自分は自分でしかないのだから、また、他者を侮ることは恥ずかしいことだと自省し、自分は自分の与えられた力量の範囲で、出来るだけのことをさせてもらおうと心を決めておぼつかなくとも歩んでゆきたいことと思います。 このようなことを感じながら、また無量寿経を学ばせてもらいましょう。 まことに、経典解読は、真仮の暗号解読のようです。
今までは、日本が攻められたときには、日本は応戦することが出来るが、アメリカなど、友好国が戦争状態になった時など、外国の戦争には、絶対日本はその戦争に加担することは出来ないというものでした。 それを、アメリカなど友好国の戦争で、日本の国の危機と政府が判断した時には、戦争することが出来るということで、集団的自衛権を認めるということにしました。 そして、このたびの日米新ガイドラインで、いよいよ自衛隊が今まで、日本周辺の紛争事態に対処するというのを、アメリカの紛争の世界中どこでも、また、友好国や多国籍軍の後方支援ということで、戦争を支援するということになりました。 ということは、アメリカなど友好国を敵とみる国からは、日本も同じように敵国とみなされ、攻撃の危険が高まります。 本当は、こういう大事な軍事協定は、事前に国会で、しっかり与野党協議すべきところのはずです。 ところが、衆議院で過半数を上回っている与党のおごりか、どんどん、日本は世界並に、軍隊を持ち、争いの時には戦争も出来る国へと進むようになりました。 確かに、世界中で、軍隊を持たず、国際紛争の解決は、軍隊によらず、平素からの誠実な互恵、相互尊重、友好外交によるというのはごく少数です。 しかし、本来、憲法九条を戦後新しい国創りとして考えた精神は、もう二度と戦争しないため、いかなる戦力も持たないことにしたはずです。 ところが、国には自衛権があり、自衛のために、外国から攻められたら丸腰ではいかん、自衛の戦力ということで、今や自衛隊という戦力があります。 しかし、今から56年前、日本は戦力を決して保持しないという原則だからということで、日本にある、米軍基地は、憲法違反だという一審判決も出た砂川裁判というのもありました。 また、今から42年前、自衛隊そのものが戦力だということで憲法違反であるという長沼ナイキ裁判でも一審判決が出ています。 しかし、砂川裁判で、アメリカの介入により、最高裁において、こういう、国家の重要な問題は、裁判で判決を出さないということになり、それ以降、国の安全保障など重要な問題には、司法は答えないという、誠に三権分立に違反した、司法が行政に屈服した情けない前例が出来上がってきて今日に至っています。 そういうことで、長沼ナイキ裁判でも、自衛隊違憲問題も、高裁、最高裁は判断を避けました。 まことに、日本の安全保障が最優先され、日米安保、また日米地位協定や、さらには密約によって、沖縄の基地問題も、米軍の爆音問題も、危険なオスプレイにしても、沖縄や首都圏上空の米軍の空域支配にしても、憲法より優先されているという状況を最近知らされ、国の情けなさを考えさせられています。 永代経法座のご案内 6日 (月)夜席~8日(水)日中席 おとき日・・・8日(水)日中 どうぞ、誘い合ってお参りください 結局、浄土真宗とは 阿弥陀さんや浄土の大事な意味 阿弥陀さんとは、限りなく、善悪、一切の生きとし生けるものを育くむ大慈悲であり、それ故に、これら一切を同じく大慈悲になさしめる人格であり、浄土は、そういう大慈悲の世界であるゆえに、阿弥陀さんや浄土の大事な意味とは、この「大慈悲」ということになります。 これは何より、親鸞聖人の生き方に学ばねばなりません。 親鸞聖人は、阿弥陀仏の大慈悲によって、慈悲には程遠い、わが身と我が世を厭い、それ故にこそ、慈悲に促される生き方を示されています。 親鸞聖人の生き方は、親鸞聖人の手紙からうかがえます。
わが身の往生一定とおぼしめさんひとは、仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために御念仏こころにいれて申して、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべしとぞ、おぼえ候ふ。 よくよく御案候ふべし。 このほかは別の御はからひあるべしとはおぼえず候ふ。 この古文のお手紙の解釈 自分だけの欲望や、自分だけの都合のみを思い計らうのではありませんぞ。 そうではなく、何より、自分のことや、自分の家族、一族、自分の国だけの欲望や、地位や、名誉の為にのみ血道をあげている間違った、天皇を頂点とする、権力支配、階級差別、政治社会を改めるため、 そして、そういうひどい社会にがんじがらめになり、そのひどさに抑圧される中で、そのひどさを解放しょうと立ち上がる自覚的な生き方も芽生えず、 逆に、このひどい欲望競争社会を、「おーそうよ、勝ってなんぼうよ、負けて何になる」と是認して、自らも、この弱肉強食の欲望競争に落ち込んでいる人々を救い導くために、念仏の道を説き進められることこそが、何より大事であり、めでたいことなんですよ。 そして、生き方として、終生、何に恵まれようとも、何にも恵まれてなくとも、ともかく、慈悲に促される優しい自己実現、慈悲に促される、暖かい社会の実現を願って生きて行くということ、すなわち、往生浄土、成仏への道が、自分の人生の自覚として明確に確立できていない人は、何より、まずそのことの大事を思って、念仏を学んでください。 そして、自分の人生への腹のくくりとして、先のように、わが人生の道は、往生浄土成仏、即ち、慈悲に促される人生と社会の創造だと自覚の確立できた人は、 こういう自覚を得ることが出来た、仏法の教えの御恩を思うて、その恩に報いるように、このお念仏の心を心にきちんと入れて、そして、口に語り申して、 世の中が、自分のことや、自分の家族、一族、自分の国だけの欲望や、地位や、名誉の為にのみ血道をあげている間違った、天皇を頂点とする、権力支配、階級差別、政治社会から解放されて、安穏な社会になることを願われるべきと思うのです。 そのために、何より、天皇、貴族、武家、名主、地頭など、権力者も、そして、一般の民百姓も、みんなすべて、自己中心で、利己的で収奪に明け暮れ、慈悲にほど遠く、冷酷で、間違った、自分の生き方と、間違った社会に目覚め、 慚愧の心を起こさしめられ、それ故にこそ、慈悲に促される優しい自己実現、慈悲に促される、暖かい社会の実現を願って生きて行く生き方の確立のために、仏法よ、世に広まれと願われるべきと思うのです。 このことをよくよく考えてくださいよ。 これより他に、はからうべき念佛の道はありませんぞ。 2015年3月 聖典学習会のご案内 26日(木) 朝・昼 朝9時半・昼2時半始 学習聖典・無量寿経 住職自修 参加費無用 聖典から人生・社会の諸問題を問うてみましょう。 どうぞ誘って気楽にご参加下さい 前回の学習内容《阿弥陀仏の願い》から もし、ガンで後、ひと月の寿命だと宣告された時、 何を願って生きるでしょうか。 何を願って生きるべきなのかと思います。 こんな問いの答えを、阿弥陀仏の願いから考えてみましょう。 「私が仏になる時、すべての人々が心から信じて、私の国に生まれたいと願い 、わずか十回でも念仏して、もし生まれることが出来ないようなら、私は決して 悟りを開きません。 ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えをそしるものだけは除かれます。」 これは、阿弥陀仏の一番大事な、第一八番目の願いとして有名です。 さっそく読み解いてみましょう。 「国王をやめ、国を捨てて、道を求めて出家したこの私が、仏という、大慈悲の人格を完成させた時、このことが全ての人々に知れ渡り、みんなが心底から、「なんと尊いお方であることよ」と感動し、この仏の真実にうなずき、 そして、大慈悲に満ち、戦争や略奪や差別などのまったく無い真実の国であるこの私の国に「なんと尊い国であることよ」と感動し、「こういう国にこそ生まれたい」と願って、一回でも、十回でも仏の尊さを念じ讃えることのできる尊い人へと人間変革せしめよう。 たとえ一人でも、このような人間変革もできず、この私の国に生まれ来るということが出ないようなら、そんなことなら、私は、絶対、悟りなんか開きません。 それは、私が悟りを開く目的は、私も、すべての人もみんなを真実の大慈悲の人格へと人格変革せしめることこそが目的なんですから。 でも、世の中には、こういう、慈悲の人格を目指そうとする志すら萌さずに、そのために、次の五逆という罪である、父や母に苦悩を与え、そのために両親の寿命を縮めたり、殺したり、真実に目覚めて生きる尊い人さえも、憎み殺したり、危害を与えて、怪我をさせたり、真実を願い求める教団の秩序を破壊したり、 真実の教えをそしったりする人もあります。 いいですか、よく言っておきますよ。 私は、こんな悪人たちは決して救いませんからね。」 さて、どうでしょうか? ここでは、いかな仏も、こんな悪人は救わんぞということになっています。 しかし、仏は、どんな悪人でも救うのが仏のはずでしたよね。 そうなんです。 これは古来、「抑止の文」といわれています。 仏の極意としての抑止の文の心 子どもに聞き分けがない時、よくお母さんは「こんな聞き分けのない子はうちの子じゃあない。お母さんは知らない。置いていきます。」などと叱るのと同じだというのです。 そうですよね、聞き分けがないからといって、本当に捨てて置いて行く親はありません。 母の気持ちとしては、「そんなに聞き分けのないことをしないで、どうか聞き分けのある子になってほしい」というせつない気持ちのあらわれですよね。 ですから、仏も、「こんな極悪非道なことをしでかすような、真実に目覚めることのない人間のままで人生を空しく終わらせたくない。」 という仏のせつない叫びと読み取ることが出来ます。 仏の気持ちとしては、「どんなに、導いても導いても、真実への目覚めが乏しく、悪の泥沼にはまり込んでしまう人たちだからこそ、どうして放っておけようか。 どんな神仏も『こりゃあもう駄目じゃ、救いようがない』と見放したとしても、この阿弥陀仏だけは、どんなに手間暇かかってでも、必ず、真実に目覚めさせ、真実の人格、すなわち大慈悲の仏になさしめずにはおかない」というのが真実の大慈悲心というものだということが示してあるということです。 私の願いを仏の願いへと促す仏教 安倍首相・敗戦70年談話と政治姿勢への懸念 安倍首相は、政権に就いて以来、今までの河野談話、村山談話という、かつての戦争を謝罪した談話を嫌って、自分流の、かつての戦争を過ちとは断定しない談話を出したい様子でした。 河野談話には、慰安婦問題に対して「いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。 政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。 われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。 われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。」とあります。 村山談話には、「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。 私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。」という国の反省があります。 ところが、この20年前、敗戦50年の村山談話が出された時、当時の村山富市内閣は自民党と社会党(当時)の連立内閣で、社会党の「侵略戦争の反省」を含む原案が自民党の反発を招いて大幅に修正され、それでも、採決では自民党など与党議員70人をはじめ計241人が欠席し、安倍首相も欠席していました。 また、次いで2005年8月2日(敗戦60年)には、「わが国の過去の一時期の行為がアジアをはじめとする他国民に与えた多大な苦難を深く反省し、あらためてすべての犠牲者に追悼の誠をささげるものである」という表現が盛り込まれた戦後六十年決議が、衆院で採択されましたが、やはり安倍首相は退席したのでした。 この度、安倍談話を出すための有識者の中には、安倍首相のタカ派思想の家庭教師といわれてきた京都大学名誉教授・中西輝政という人がいます。 この人は、村山談話を「一種の政治的クーデター」と呼んで批判しています。 日本のかつての戦争を国家の罪過と考えたくない人から見れば、戦争への謝罪は、国家の転覆、即ちクーデターと映るのでしょうね。 安倍首相は、欧米諸国から、注意されているので河野、村山談話は引き継ぐと一応言っていますが、本音は変わらぬと思い、このたびの安倍談話がどのようなものになるか、談話だけでなく、今後の政治姿勢こそ懸念します。 釈尊涅槃会 益害平等一切有情追悼法座のご案内 15日(日)朝・昼、16日(月)朝・昼 朝、9時半・ 昼、2時半始め 「お釈迦様の一生から学ぶもの」 住職・坊守自修 お釈迦様の(涅槃図)を掲げ、坊守も 講話させてもらいます。 お誘いあってお参りください。 「死後、阿弥陀仏によって、浄土に迎えられ、 仏となさしめられて、今度は、この世に還って きて人々を救うということについて」 12月のおにぎり会で、「浄土真宗、仏教は、生きてゆく教えだと思うのに、本願寺から出されるものを読むと、死んでからのことが説かれているが、これはどういうことなんでしょうか?」という問いが出ました。 この問題について、次のような文章にまとめて、先月、のおにぎり会で参加された皆さんに差し上げました。 これは大事な問題だと思いますので、この通信にも紹介してみます。 『これは、一般的な真宗の教えです。 こういう阿弥陀仏、往生浄土信仰というのは、無量寿経によります。 無量寿経は、作者不明ですが、およそお釈迦様が亡くなられて500年後、今から約2000年前、インドで創作されたといいます。 どういうわけで、創作されたのかは、推測するしかありません。 以下、私の推測です。 本来仏教は、この世で仏になる教えです。 仏になるとは、煩悩から解放され、大慈悲の人格者になることです。 これが仏道の基本です。 お釈迦様が、悟りを開いて、仏になられたといいますし、その他、弟子たちも悟りを開いたといわれていますが、実際は、お釈迦様でも、生身の身を持っている限り、煩悩から完全に解放されて、完全な慈悲を実現されたということは言えないと思います。 しかし、完全な慈悲への道を歩まれたということはできると思います。 当時、そのように、仏を目指して修行するような人はまれで、多くの人が、それどころではなく、生きて行くのに精いっぱいで、さまざまな苦悩に振り回されていたと思います。 生い立ちや、家庭の不遇、人間関係の不信、心身の不調、しょうがい、罪悪感、病苦、老苦、死苦、孤独、不安、死後の恐怖、死者との再会への憧れなどを思います。 そこで、この苦悩の人々をいかにして救い、そして、仏になる道に導くかということが、経典創作者の問題であったと思います。 そこで、経典作者は、この苦悩の私たちを、いつでもどこでも育み、導き、命終わって、必ず、皆を最高の仏にしてくださり、そして、今度はこの世に還ってきて、いつまでも、どこまでも限りなく、この世の苦悩のみんなを導き続けさせてくださる、阿弥陀仏という仏がいてくださることを信仰できるように説かれたものと推測するのです。 そうして、みんなにこの阿弥陀仏への信仰によって、救いと癒しと安心をもたらして、仏道に導かれるようになっているものと考えます。 この阿弥陀仏のことを聞いた、苦悩の民衆は、「アー、今まで知らなかったが、こんな不遇で、不幸で、罪な、そして、老、病、死におびえ、孤独で淋しく、悲しく、空しく、不安な私のことを、すでに見抜いて、私をいつまでもどこまでも、支え、育み、導き、そして、命終われば、清らかなお浄土に、みんなを迎えて、今まで思いさえもしなかった、高大な、大慈悲の人格の仏になさしめてくださり、それで終わりではなく、今度は、この世の同じく苦悩するみんなのところに還り来たらしめて、みんなを限りなく導き続ける身にさせてくださるという高大な阿弥陀如来というみほとけがいてくださったことを初めて知らせていただいた。 あー、なんと有難いことであろう、私は、生まれて初めて、安心と救いをいただくことが出来た。 今度は、今まで自我の煩悩に沈み込んで自他共に損ないあってきた生き方を改めて、命のある限り、この御仏のことをみんなに伝え、そして、この御仏の願いに促されて、成仏という、慈悲の方向に向かう、私と世の中の実現のために歩み続けさせてもらおう。」 と救われてゆかれたと思います。 ですから、上記の「死後、阿弥陀仏によって、浄土に迎えられ、仏となさしめられて、今度は、この世に還ってきて人々を救うということ」は、この阿弥陀仏信仰の教えの中身を語っているのです。 ですから、こういう、阿弥陀仏信仰を素直にそのまま受け入れられる人はそれでいいと思います。 ですが、こういう信仰をどうしても受け入れられない人は、信仰というのではなく、この教えの中の意味する、真実というものを受け止められて、その真実の方向に向かって生きて行かれればそれでいいと思います。 阿弥陀仏とは、最も広く、最も深い、無限の大慈悲ということであり、浄土もそういう大慈悲の世界であり、そこに真実というものが表現されてあります。 浄土から、この世に還ってきて、みんなを救い導くということも、浄土は、単なる、自己の欲望満足の世界ではなく、利他という、他者を救い導く真実の世界であると受け止めることが出来ます。 私が仏になる時が、死後ということにしてあるのは、この世で、生身を抱え、自我の煩悩から離れられない身である限り、最高の大慈悲の完成者の仏になることは不可能ですから、この自我の煩悩から解放される時、即ち、死後ということにしてあるわけですね。 以上から、阿弥陀仏や往生浄土の信仰を素直に頂かれる方は、そのままに、そして、そういう信仰を受容できにくい方は、そのままに、ともかく、阿弥陀仏や、浄土に表現されてある、大慈悲という真実にうなずいて、その真実に促されて、よりよい人生とよりよい社会の実現に向かって人生を歩ませていただきたいものです。 浄土は、大慈悲の世界ですから、私たちの心の根源的な願いの世界であり、本来の願いの故郷とでもいえると思います。 ですから浄土は、心のよりどころであり、生きて行く目標であり、また命終わって帰るべき世界といえます。 そして、そこから、みんなを願い導く世界といえます。 私たちの死の事実としては、肉体は自然に帰り、行いは、社会に残り、願いの中でも個人的な願いは、有縁の人々に注がれ、心の底の人類普遍の自由、平等、博愛、平和、などの願い、仏教における、無我、慈悲、利他、布施の願いは、万人共通で、永遠であると受け止めることが出来ると思います。 そここそが、先立ったものも、残れるものも一緒の世界であるということが出来ると思います。』 今年も、ダーナ募金をよろしくお願いします 昨年度、報正寺ダーナ募金総額は 31,000円でした。 布原、1,000円・大井、2,000円・ 小原、3,000円・萩原、1,200円・ 数舟、1,500円・本一、4,000円・ 本二、7,000円・本三、7,000円・ 本四、4,300円 配分 山県太田組ダーナ募金会計・・・13,000円 在韓被爆者渡日治療委員会・・・10,000円 本願寺東日本大震災支援金・・・ 8,000円 前年度山県太田組ダーナ募金総額は 409,886円でした。 配分 山県太田組内医療機関へ本願寺新報・仏教誌施本 ・・・ 226,320円 寿光園・・・・・・・・・・・150,000円 安芸教区連盟委託金等 ・・・ 30,940円 災害援助等積立繰越総額・・1,473,119円 2015年1月 過年・色々ありがとうございました。 本年もよろしくお願いいたします。
越年つれづれ 去年、新たな出会いがありました。 去年、亡くなられた人もありました。 今まで多くの人々と出会ってきました。 今年も新たな出会いがあるでしょう。 また、どなたかが亡くなられることでしょう。 そういう、私も、今年が最後の年になるかもしれません。 「一期一会」これは、去年、結婚しました、長男、法蔵の伴侶の恵里さんの好きな言葉として紹介されたものでした。 恵里さんは、茶道をたしなんでいますから、茶の湯の心として、大事にされている言葉なのでしょう。 インターネットでは「一期一会(いちごいちえ)とは、茶道に由来することわざ。 『あなたとこうして出会っているこの時間は、二度と巡っては来ないたった一度きりのものです。 だから、この一瞬を大切に思い、今出来る最高のおもてなしをしましょう』と言う意味の、千利休の茶道の筆頭の心得である。 平たく言えば、これからも何度でも会うことはあるだろうが、もしかしたら二度とは会えないかもしれないという覚悟で人には接しなさい、ということである。」とあります。 私の心に残った言葉に、「一期一会、みんな、かなしく、なつかしく」というのがあります。 みんな、出会いは、いつもその都度、初めての最後、 そして、みんな、いつかは、この世を終えてゆかねばならない、かなしいものどうしと思えば、みんな、そぞろ、いとしく、なつかしく思える・・・・・という心をうたったものかと心に残っているのです。 平生はそんなことを打ち忘れて、粗雑に身近なものとも相対していて恥じます。 おそらくは、一生、ガサツに粗雑に生きることでしょう。 でも、ときどきは思い出さねばと思います。 法蔵の好きな言葉は、「ギブ&ギブ」と紹介していました。 どなたか、ある女性はさらに「ギブ&ギブ&ギブ」と言っていまして、感銘を受けたことがあります。 まことに、この世の中は、ゲット&ゲットで利己的に自分に取り込もうとすることばかりでしょうからね。 まことに、ギブは、仏教の無我、慈悲、利他、布施の心にかなっていると思います。 法蔵菩薩の、自分の心身を投げ出してでも、自分と万人の人格完成(成仏)を誓われた誓願に通じていると思い、こういう、ギブ&ギブという言葉を好きな言葉として選んでくれたことに感銘とうれしさを覚えた次第でした。 しかし、けちくさい私としては、反省、慚愧です。 まことに、理屈ばかりで仏法が身についていないことよと慚愧至極です。 去年往生された、故・信楽先生は、仏法は、脱皮成長せしめられる道と申されていましたが、おぼつかない自分にため息のありさまです。 そして、いつもの持論ですが、人間も、生き物も、地球も、自然も宇宙も、本来、「非」意味な存在と思いますし、やがていつか太陽も、全生命も滅びるようですが、ともかくも、人間という動物として、自己中心な獣性の暴発にはブレーキが効いて、人間性の原理としての、優しさや温かさ、思い合いの自己と社会の創造に、人生の目的と意味を確かに自覚して歩んで行かれればいいのだがと思うことです。 たびたび紹介しますように、全国水平社創立、綱領の「吾等は人間性の原理に覚醒し、人類最高の完成に向かって突進す」を再確認したいと思います。 私のインターネットのフェイスブック、「自己紹介」文は、 「物を公平に分かち合って、お互いに尊重し合い、奪わず、殺さず、差別せずに生きられるなら原始生活でも結構じゃあないか。 たとえ、便利さや豊かさを求めても、物を公平に分かち合って、お互いに尊重し合い、奪わず、殺さず、差別せずに生きることと同時でなければならないと思う。」と、好きな言葉.として「菩提心」 「われも他者も、ともに真実の自己実現『無我、慈悲、利他、布施の完成すなわち仏になること』を願う心」を紹介しています。 今年は、安倍政権がさらに、憲法改定、原発再稼働等、国の大転換に向かうことを懸念します。 2014年12月 聖典学習会のご案内、24日(水)、 朝・昼、朝9時半・昼2時半始、 学習聖典・無量寿経 住職自修、 参加費無用 「私が仏になるとき、私の国に地獄や餓鬼や畜生のものがいるようなら、私は決して悟りを開きません。」 各政党も、私たちもどういう国創りを目指したらいいのでしょう。 最初に掲げたものは、阿弥陀仏の前身の法蔵菩薩の第一番目の願いです。 一番初めの願いということは、かなり重要視したいと思います。 この願いを読み解くとき、この衆議院選挙による、私たちの人づくり、国創り、社会づくりもこのようでなければならないとわかるように思います。 この無量寿経の創作者は、今から2000年前のインドの人民や社会を見て、どういうありかたが、人間や社会の幸せなありかたであるのかということを考えて、そうだ、これだと思いを定めて、法蔵菩薩の願いとして表現したものと思えます。 この願いは、法蔵菩薩が修業して、素晴らしい人づくり、国創りとは、国の中に、地獄や、餓鬼や、畜生がない国創りであるとして、そういう国創りが出来ないようなら、決して、悟りなんか開かないし、仏にもならないぞという誓願であり、決意表明であると思えます。 まず、地獄とは何かということです。 地獄とは、人格において、最低最悪の世界といえます。 地獄の真反対の世界が、人格において、最高最善の世界である、仏や浄土になります。 地獄には、鬼と亡者がいますから、つまり地獄とは、痛め苦しめるものと、痛められ、苦しめられるものがいる世界といえます。 今、中東のイスラム国では、イスラム国に相反するものや敵対するものとして、米英のジャーナリストが、とらえられて米英に見せしめに首を切り落とされた映像をインターネットで世界中に配信しています。 また反対に、このイスラム国を殲滅するということで、シリアや、アメリカは空爆で報復の殺戮をして、市民も巻き添えを食っています。 そのために、たくさんの難民が過酷な国外流浪の苦しみを受けています。 地獄とはこのような、闘争の報復合戦に明け暮れて、共に、悲惨で、人間としての求道心が不毛である状況の象徴と言えます。 次に餓鬼とは何でしょう 餓鬼とは、おなかがすいて、のどが渇いて、栄養失調状態で手足が枯れ木のようにやせ細っていてもお腹だけは膨らんでいてどんなに飲食を欲しても、口に入らず、飢餓で苦しんでいる状態です。 アフリカなどで、部族や宗教対立で抗争に明け暮れるために、難民になった、栄養失調状態の子供たちの状況がそうといえます。 餓鬼には二通りの餓鬼があって、一つは、無財餓鬼、これは、財産がないから、飢えている餓鬼です。 もう一つは、有財餓鬼で、財産があっても、まだなお財産をむさぼる餓鬼です。 餓鬼とは、このように、財があっても無くても、むさぼりのために、人間としての求道心が荒廃している状態の象徴と言えます。 次に畜生とは何でしょう 畜生とは、動物的本能のままに行動する状態で食欲、睡眠欲、性欲、物欲、名誉欲、支配欲など、欲望のままに行動し、競争で勝者になれば高慢で差別者になり、敗者になれば報復への恨みと憎悪の状態を言います。 今、ヘイトスピーチといって、在日特権を許さない市民の会と名乗る人たちが、在日の朝鮮民族の人々を「日本から出て行け」など、さらにもっとひどい暴言を吐いている状況があり、また、このヘイトスピーチに対し、売り言葉に買い言葉で、「帰れや!クズ!ボケ!カス!死ね」などとなじる、「しばき隊」といわれる人々のような状況にこの畜生状態を思います。 畜生とは、このように、自己中心な欲望や敵対衝動の報復合戦で人間としての求道心が荒廃している状況の象徴と言えます。 以上、この法蔵菩薩の第一願から、仏教徒というものは、このように、地獄、餓鬼、畜生という、戦争、飢餓、差別といった状況の中で、人間としての求道心が荒廃している人間と社会を導き解放しょうとするものであることを示しているし、さらに、こういう戦争、飢餓、差別のない人づくり、国創り、社会づくりを目指すことを示そうとしているものであると学びます。 衆議院選挙 安倍首相が、衆議院を解散したのはなぜでしょう。 まだ低所得者層まで経済効果が上がっているとは言えないので、来年の消費税10%アップを引き延ばすとはいえ、今、急に630億円もかけて選挙をする必要があるのか不信です。 識者も言っていましたが、小渕、松島二人の女性閣僚の失脚、その後任、宮沢議員等の会計疑惑問題、そして、沖縄県知事選での普天間基地、辺野古移転反対派の当選、大企業には景気アップでも、中小企業はそうでなく、国民低所得層には、むしろ消費税8%アップでの生活苦の増大など、安倍政権にとってマイナス色をいったん振り払うためのように感じます。 安倍首相にとって、このマイナス色のため、選挙で少しは与党議員が減っても、決して負けることはないと踏んでいますから、総選挙でみそぎを受けていよいよ、安倍首相の念願である、憲法改定による、戦争のできる、富国強兵の国づくりに着手するつもりの様です。 ともあれ、解散して、選挙となったからには、今までの安倍政権を点検して、そして、あるべき、よりよい国づくりとは何かを私たちの国民一人一人の責任として考えたいと思います。 そして、本当の国創りにふさわしい、考え方の政党なり、衆議院議員を選びたいと思います。 上記に示しましたように、私たち仏教徒として考える本当の国創りとは、人間としての求道心が荒廃している人間と社会を導き解放し、戦争、飢餓、差別のない国創り社会づくりを目指すものであるといえます。 安倍政権は、ご承知のように、今まで政府で認められなかった、集団的自衛権の行使を、正式な憲法改正の手続きによらず、法の番人といわれる、内閣法制局長官を集団的自衛権容認の考え方の人物に首をすげ替えて閣議決定ということで認めました。 自民党の憲法改正草案も、天皇を元首化し、憲法9条を変え、自衛隊を国防軍という正式な軍隊にし、基本的人権、永久尊重の97条を削除し、国民の自由も、国家権力の秩序、公益に反してはならないということで、国家権力に逆らうことを許さないという、国家権力に、国民を従属させる憲法に変えようとしています。 これでは、本来、憲法とは、国家権力を縛るものであるのに、逆に、国家権力が国民を縛ることになり、誠に、改憲は、壊憲ということと思えます。 教育も、愛国心が強調され、道徳が教科とされ、日本のかつての戦争を国の罪として反省しない教科書を用いるような動向が見えます。 かつての戦争を謝罪していない靖国神社への公式参拝を否定せず、慰安婦問題謝罪でも否定的な対応で、また、民主主義なら、国家は政治をオープンにすべきはずのところ、特定秘密保護法が制定されて、いよいよ国民が目隠しをされるようなことが強まりました。 来年の地方統一選挙が終わり、いよいよ、安全保障法制で、米国との国防戦略が決められてゆきます。 大企業の内部留保金は増大しても、労働者の賃金は逆比例で少なくなっている等・・・・ どうでしょう? 2014年11月 「秋法座のご案内」 17日(月)夜~19日(水)日中 報恩講おとき日・・・19日(水)日中
去る10月11日、広島別院で、江田島市、宮川恵里さんと婚儀が整い、親族等で仏前結婚式を挙げ、 25日、いこいの村ひろしまで筒賀寺院、門信徒、近隣の皆様にご披露いたしました。 翌、26日、住職が、報正寺本堂で、法蔵、坊守後継者、恵里さんと坊守、次男勢至、娘観世と共に阿弥陀様にご報告いたしました。 まだ、昨日の酔いや、疲れもあったのですが、やはりけじめとして、報正寺の本堂の阿弥陀様にきちんと報告しなければならないと思い、まことにめったにないことでしたが、私は、白衣、白足袋着用でお参りしました。 その時の法話は、 「この報正寺の歴史は、820年以上と推定されるが、今までの歴代の住職、そして、地域の門信徒の方々が、何回建て替わったかわからないが、この本堂に集うて来られた。 本堂には、たくさんの皆さんの涙や汗、思いがしみ込んでいると思う。 私が今、お粗末ながらその歴史を、受け継ぎ、そして、今度は、君たちに受け継いでもらうことになる。 私自身の今までの人生の中で、仏教や、その他の学びの中から感じたり考えたりさせてもらってきて、今、一番私が本音のところで思っているところをすなおに、正直に話させてもらおう。 それは、みんなよく知っている通り、私に無いからこそ言うのだがと前置きして、やはり、私にとっても、この世のすべての人にとっても、そして、この世のあらゆる、人間の問題の根っこにある一番大事なものとしてあるもの、それは、分りやすく言えば、「やさしさ」ということであろう」と話しました。 今までは、よく「思いやり」という言葉を使っていましたが、私が、多年参加させてもらっている、部落解放同盟、加計支部の学習会で、この「思いやり」という言葉に、ともすると有る、上から目線ということを教えられ,ました。 そして、思いやりではなく、「思い合い」という言葉も教えられ、爾来、ほとんど、今は、思いやりという言葉ではなく、この「思い合い」という言葉を使うようになり、この「思い合う」という言葉も申しました。 そして、阿弥陀さんを指さして、 「この阿弥陀さんの本質は、慈悲だが、それは、分りやすく言えば、究極のやさしさというものを表わしてあると言え、この阿弥陀さんの前にお参りするということは、このやさしさということにはほど遠い、自分や、この世の中を反省させてもらうことになる。 また、だからこそ、この究極のやさしさというものにうながされて、一生かけて、やさしさや、思い合いという方向に向かって、自分づくり、そして、また同じく、社会づくりに向かって歩んでゆきたい。 それは私の一生かけて、人間としての課題だし、私は、そういうことを私の仏教の伝道布教として、住職として、一生、勤めさせてもらいたいと思っている。 そういう思いを少しでも、あんたたちも共感してくれるならありがたいと思っている。」というようなことを申しました。 私は、11日の披露宴の終わりの挨拶では、酒で力みすぎ、25日の披露宴の時は、しょっぱなの為、上がり気味で言葉と心がうわつき、大反省、本堂でも不安だったのですが、なぜか、本堂の静まりがそうさせたのか、不思議に、すなおに思いが自然に口を突いて出てきて、私自身、心が安らかでした。 若い二人は、勤めの関係で、当分町外住まいで、報正寺の行事にも、地域の行事にも十分に務めを果たすことが出来かねると思いますが、どうぞ、御寛容くださり、末永く、お見守り、お導きくださいますよう心よりお願い申し上げます。 本願寺には、親鸞はいない 私は、大きくこの先生から示唆を受けました。 先生からいただいた、「現代真宗真偽論」から、「阿弥陀仏を、何らかの力ある実体とし、それをあて頼りとして、おまかせするというような信仰は偽である。 阿弥陀仏は、無我、慈悲といった真実の象徴表現であるから、阿弥陀仏と表現されたものから、真実とは逆の、真実ならざる、自己と、世界に目覚め、それ故にこそ、慚愧と共に、自己と世界の真実の創造に向かって、歩ましめられてゆく道こそが真の真宗である。」ということを学びました。 去る、山県太田組、親鸞聖人、750年お待ち受け法要の時、多数の金襴色衣の諸僧の中で、私が、黒衣、黒七条をまとっているのを先生は、評価下さっていたことを心嬉しく思っておりました。 先生の葬儀には、私に代わって、この黒七條が、導師の身にまとわれ、参ってくれました。 合掌 2014年10月 聖典学習会のご案内 29日(水) 朝・昼 聖典から人生・社会の諸問題を問うてみましょう。 どうぞ誘って気楽にご参加下さい。 前回の学習内容《阿弥陀仏物語》から 「そのとき一人の国王がいた。世自在王仏の説法を聞いて深く喜び、そこでこの上ない悟りを求める心を起こし、国も王位も捨て、出家して修行者となり、法蔵と名乗った。」 物語ですから、実際の歴史的事実ではありません。 お釈迦様の伝記が下地になっていることはわかります。 お釈迦様は、元、王様になるべき王子でありましたが、人生の、老、病、死等の苦悩をいかに超えて生きるかということで、出家した人でしたから。 この阿弥陀仏の物語を誰が作ったのかはわかっていません。 作者は、この阿弥陀仏物語を作って、何かを言おうとしているはずです。 その言おうとしているものを読み解いてみたいと思います。 この物語が読み解けると浄土真宗がわかると思います。 この国王が、世自在王という仏の話を聞きました。 この仏というのは、かの国王の利己的な権力、財力、武力、略奪と支配、侵略、差別等とは真反対の徳力、布施、共生、平和、平等、総じて無我、慈悲、利他の象徴と考えます。 そして、仏の名前が、世自在王ということは、世間の、利己的な権力、財力、武力、略奪と支配、侵略、差別等に影響されない自由者で、徳力、布施、共生、平和、平等、無我、慈悲、利他に揺るがない、自在なる最高の王者ということを象徴していると考えます。 利己の国王が、自分とは全く異質の利他の仏の説法を聞きに行ったということは、利己的な権力、財力、武力、略奪と支配、侵略、差別等の世界には、安らぎがなく、虚しさがあり、それからの救いを求めたと考えられます。 仏の説法を聞いたということは、仏の本質である、徳力、布施、共生、平和、平等、無我、慈悲、利他の世界に心を開いたということだと思います。 国王が仏を目指すという人間変革 国も王位も捨てて出家したということは、一端、今までの欲望と利己主義のしがらみであった、国家と王という地位から、離れて、究極の慈悲と利他の世界を極めるために出家したということと思います。 けれども、もうこの汚辱の世界から離れて、帰らないというのではないと思います。 慈悲と利他の究極を極めたならば、必ず、この汚辱の世界に帰ってきて、もはや今までの国王という立場ではないが、国家、民族の違いを超えて、全世界、全人類的な、さらには一切の生きとし生けるすべての生き物の地平に立つ行者になって、どんなことがあっても、この汚辱の世界を浄化させるという決意をしたということと思います。 そして、この汚辱の世界を浄化するということは、万人の考え方、生き方を変革させるということであろうと思います。 この世界を汚している、人間の略奪と利己主義の考え方、生き方を、慈悲と利他への考え方、生き方へと変革させてゆくということであろうと思います。 出家した名前を法蔵と名乗ったということは、その名の通り、法、即ち、究極の慈悲と利他を内蔵する人格者となろうと決意したということであろうと思います。 去る7月1日、この集団的自衛権行使の閣議決定がなされましたが、このことは、自衛隊が、アメリカ等を助け、ともに海外で戦争する一歩を踏み出したということでした。 このことに、日本は、もう戦争しないと決めたのに、だんだん、戦争のできる国創りへと突き進んでいるように思え、中国新聞にも報道されました、去る7月10日分と後日、9月1日分、46名で、安芸太田町議会に、この意見書を内閣総理大臣に提出することを陳情いたしましたところ、(他に、女性グループも陳情していました)9月17日に採択され、次のようないい意見書が政府に提出されました。 「安芸太田町議会の政府宛集団的自衛権行使の容認に反対する意見書」 立憲主義の基本に照らし、集団的自衛権の行使については憲法9条に違反していることは明らかであり、法治国家とは言えぬ乱暴かつ不透明な行為であり到底認められるものではありません。 「平和主義条項」と言われる憲法9条は、「日本国民は国権の発動たる戦争を永久に放棄する」とし、これを達成するために「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」としています。 憲法が、時の為政者によって憲法解釈の変更で集団的自衛権を行使することができるのであれば、それはもはや法治国家ではなく、時の政権の恣意で法律解釈が変えられるような状態の国家になることは、日本国憲法の平和主義、国民主権、基本的人権の尊重の3原則に反する行為だと考えます。 また、日本が集団的自衛権の行使についての考え方を根本的に転換するには、国民的な議論や国会での論戦を重ね、具体的に何をどうするために憲法解釈の変更に踏み切ったのか、説明責任を実行し国民の理解が十分であることを確認の上で、憲法改正の手続きをもって行うべきと考えます。 特に、安芸太田町は、ブラウンルート、「エリア567」の区域内に含まれ、毎日のように米軍機の飛行訓練の爆音が響きます。 このような環境の下で、今回の閣議決定に対する住民の不安は、これまでの戦争の歴史は、集団的自衛権行使の名のもとに開始され多くの命が奪われてきたということです。 被爆県ヒロシマは「過ちは繰返しませぬから」と強く誓っています。 よって、憲法9条に反する集団的自衛権の行使について、これまでの憲法の解釈を超え変更することに強く反対し、安芸太田町議会は次の意見を表明します。 1 憲法解釈を国民の理解を得ず、政府が恣意的に変更することは許されません。 2 憲法が求める基本原理である、全世界の平和を求めることの否定につながります。 3 世界に誇れる憲法9条、戦争放棄、戦力の不保持、交戦権の否認を否定することにつながります。 以上、地方自治法第99条の規定に基づき意見書を提出する。 平成26年9月17日 広島県安芸太田町議会 [提出先] 衆議院議長、参議院議長、内閣総理大臣
人間関係がうまくゆくことぐらい素晴らしいことはないかもしれません。 でも、誰にとっても、難しいことではないだろうかと思います。 本当は、誰しも、いい人間関係でありたいとは思っているはずですし、その前に、みんなより良い自分でありたいという願いは持っているはずなのにと思います。 なぜ人間関係がうまくゆかないのか、 どうしたらよりよい人間関係を持つことが出来るのか。 仏教の説く、苦しみの一つの、「怨憎会苦」というのを思い出します。 これは、怨み憎しみを抱くものとも一緒に会わねばならない苦しみといいます。 仏教は、これら「苦」の解脱ですから、仏教は、ある意味、怨み憎しみも超える、人間関係のよりよい在り方を示す教えでもあると思います。 でも、そういうこの私は、人間関係は、貧しいといつも慚愧しています。 その原因は、やはりしぶとい私の我執、自我意識、煩悩のせいと思います。 本当は、仏、菩薩や布袋さんのような柔和な心と顔になりたいものとは思いますが、でも我執の心が顔にも出ていると思います。 言葉では、優しさとか、思いやり、思い合いとか、しょっちゅう言ったり、書いたりしていますが、とても、とても・・・・です。 いつもそんなことを言ったり書いたりしているのは、きっとこの優しさや、思い合いなどが私に乏しいからでもあろうと思います。 私は、理屈多くして、仏教の実質が身につくことが乏しいと慚愧します。
その点、お釈迦様には、多くの人々から、信頼と尊敬を受けられる、素晴らしい人間としての力量と人徳が備わっていたのでしょうね。 お釈迦様の伝記には、お釈迦様をねたんだ、いとこの「ダイバ」の話があります。 お釈迦様は、このダイバに、命もねらわれ、ケガもさせられました。 しかし、お釈迦様が、このダイバを憎み、嫌い、ダイバこそ不幸になれなどと言って、ダイバを敵視されたということは書かれていません。 お釈迦様は、どこまでもこのダイバに慈悲をもってさとされるのですが、ダイバは聞き入れませんでした。 そして、ついに自ら地獄に堕ちて行くのですが、堕ちながら、ダイバは「南無仏」といって、おしゃか様への帰依の心を回復した為に、地獄に堕ちてもやがて救われてゆくということになっています。 仏教は、お釈迦様の心をそのように表して、本当の慈悲、そして、あるべき人間関係の在り方を示しているのであろうと思います。 自分を憎むものを、憎めないという心。 心がすさんで、邪悪な心に閉ざされてしまっている人こそ、他人ごとにできず、「本来の自分を取り戻してほしい」と慈しみ続けることが出来る心。 こういう慈悲心こそが、私たちの慈悲にほど遠い我執の心を慚愧せしめるのですね。 親鸞様の人間関係 親鸞様のお手紙には、「念仏せんひとびとは、かのさまたげをなさんひとをばあはれみをなし、不便におもうて、念仏をもねんごろに申して、さまたげなさんを、たすけさせたまふべしとこそ云々」とあります。 これは、「我々念仏するものは、私たちの念佛を妨害する人を憐れみ、不憫に思うて、念仏を大切に申して、妨害する人を助けてあげられるべきとこそ云々」と読めます。 ということは、念仏に生きるという事は、 「阿弥陀様の、極重の悪人をこそという、最も深くて、しかも、一切のものをという最も広い慈悲の心に照らされて、その真反対の、浅くて狭い自分の心を慚愧せしめられ、それ故にこそ、阿弥陀様の広くて深い慈悲の心にうながされ、導かれて生きてゆくということですから、 私たちを憎み、妨害する人に対して、こちらも、負けじと、その人たちを憎み、敵対視するというのではなく、どこまでも、憐れみと不憫に思う心をもって、念仏を申すということ、 つまり、み仏の大慈悲を仰ぎ、逆に、慈悲にほど遠い自分を慚愧する念佛を大切にして、むしろ、この妨害する人々を導いてあげられるように生きるべきとこそ」と読めます。 それは、この世に生まれた、一番大事なことは、たとえ、身体的にも、精神的にも、能力的にも、家庭的にも、社会的にも、恵まれようが、恵まれまいが、ともかく、真実の自己と社会の創造を目指して生きようとするということを人生の基本姿勢として確かに確立せよということと思います。 これを仏教は、「往生浄土成仏、一切衆生救済への道を歩み続ける」という教義で表していると思います。 憎み、憎まれる中を生きるということ 憎しみが生まれるのは、相手と自分との、性格、思想、考え方、宗教、価値観、生活習慣、生い立ちの違いなどによって、相手の言うこと為すことなどが、自分と異質あるいは、自分にとって苦痛、損失、敗北と感じ、違和感、抑圧感、嫌悪感、拒否感、敵対感となることから生まれるものなのでしょうね。 そして、さらに相手の非道、邪悪さなどがあからさまで、自分が心身共に侵害、損失を受けた時ですね。 その時の相手への憤りは、感情としていかんともしがたいものとは思いますが、でもその憤りの中にも関わらず、少しでも、相手の人間性の喪失ということへの悲しみと、相手の人間性の回復への願いがどれほど生まれてくるものであろうかを思います。 又、憎まれる原因は、自分の優しさや思い合いの無さ、冷たさ、おごり高ぶり、打算、さげすみ、軽視、無神経、ひがみ、ねたみ、恨み、憎しみ等自分の醜さ、自分の不徳、未熟さに有るのではないかと反省したいと思います。 でも、中々自分の不徳、未熟に気が付かないものと思います。 でも、少しでも自分の過ちに気が付いたなら、これまた、なかなか詫びることが出来にくいものと思いますが、お詫びの気持ちを自然に相手に伝えられるようになりたいものと思います。 ともかく、憎まれているから、こちらもただ相手を憎むということではなく、共に、不完全な人間どうしとして、みんな心の底では、本当の自分を求めているし、いい人間関係を結びたいと思っているのだからと思い、お互いに尊重し合うように生きて行きたいという思いに立ち返り、立ち返りして生きようとするところに、憎み、憎まれるままにも、そこからいくらかでも解放されてゆく道があるのではないかと思います。
16日(土)夜〜18日(月)朝 初盆物故者・全戦没者追弔法要・17日(日)朝・
新聞でも、この夏、戦争にかかわる記事が並びます。戦争ほど大きな犠牲と悲しみを多くの人に与えるものはないからでしょう。 日本は、過去の戦争の反省に立って、新しい、不戦の憲法を作りました。 憲法前文には、 「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し云々」と示しました。 さらに、憲法9条で、 「.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 .前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」 と定めました。 私は、この憲法9条の魂は、 「もう二度と、日本は戦争しないと決めたから、戦争する権利というものも、いかなる軍隊、戦力といえども決して持たないという精神と思います。 それ故、その他の戦力として、自衛隊は、憲法違反と思い、軍装解除して、災害救援隊にと願うのです。 今年の7月1日は、60年前、この自衛隊が創設された日でした。 私は、この日に、まず最初の解釈改憲というものによって、憲法9条の魂は殺されたと思っています。 またこの日は、集団的自衛権閣議決定の日でした。 自衛隊が、アメリカ等を助け、ともに海外で戦争する一歩を踏み出し、憲法9条は二度殺されたと思います。 「はじめに自衛隊ありき」を問う (朝日新聞投稿・拙文) かつての砂川裁判では、在日米軍が、長沼ナイキ裁判では、自衛隊そのものが、第一審で、憲法違反だと判決されている。 もはや、自衛隊が創設されて、60年、いまさら何を言うかという意見もあろうが、しかし、憲法9条の精神である、「日本は、もう戦争しないと決めたのだから、そのために、いかなる軍事力も持たず、国の戦争する権利さえも放棄した」というところに立ち帰りたいのである。 というのは、このことこそが、憲法9条、本来の解釈であり、60年前、自衛隊を創設して、武力による、個別的自衛を認可したということ自体が、解釈改憲という、憲法9条の命を奪ったことだと思う。 個別であれ、集団であれ、自衛は、軍備によらず、諸外国との信頼、和平、互恵外交とすると読める、9条本来の精神を広げるしかないと思う。 それでも侵略してくる国があるなら、その国は、自国民からも、諸外国からも糾弾されるに違いない。 たとえ、侵略によって、全滅しても、我々は獣の道を選ばず、慈心不殺の人間の道に永遠であると覚悟したいのである。 西本願寺は、教団の代表である、門主を、世襲制度によって決めています。 しかも女性差別、長男優位制です。 去る3年前、2011年5月、約60年ぶりに、教団の機構制度が変更決議されました。 その時、教団は、この、新機構制度案について、全国から意見を求めました。 私は、心ある人たちと、この新案、ことに天皇制のような、血統、長男優位の、女性差別、世襲制について、批判し、教団の代表であるから、教団内で信任推挙によって選任されるのが本来、親鸞様の心にかなうと意見を主張しましたが、聞き入れられませんでした。 報正寺をはじめ、一般の寺院では、世襲制は、制度としては決められていません。 ただ慣習として続けられています。 しかし、本来、一般寺院の住職も安易な世襲ではなく、信任されて推挙されるものでなければなりません。 新門主の言葉は、朝日新聞6月17日、文化欄に記者の質問への回答として記事になりました。 新門主の言葉は、「社会が高齢化や過疎化、核家族化へ変化する中、今までの伝道方法では教えが伝わらなくなってきています。 浄土真宗のみ教えや本願寺が次の世代へ受け継がれてゆくように、一つひとつのことを丁寧にしていきたい。 もう少し工夫をすれば浄土真宗の教えは十分現代に通じると思っています。」です。 記者の「どのような点で現代に通じるのですか」の問いに、新門主は、 「仏教は、私たちが生きていく上での生き方、苦しみの解決の方法を示しています。 生老病死など四苦八苦という形で示される苦しみは、時代や地域を問わず共通でしょう。 浄土真宗は、親鸞聖人がそうであったように、「出家」ではなく世俗の生活の中で様々な悩みや苦しみを抱えながら生きて行く方法を説いています。 たとえば、教義に「二種深信」という言葉がありますが、一つは、阿弥陀様の働きに照らされて、自分たちの真実の姿が自己中心的な凡夫だと気づかされ、その通りだと深く認識すること。 ただ、それだけでは救いがない。 それで阿弥陀様の救いが、凡夫の私たちに対しても働いてくださる、命が終わったあと必ず悟りの世界へ救いとってくださると信じることです。 そう考えると、死というものがただの終わりではないことになります。 そういう受け止め方が、たくさんの人に救いになるのではないか。」云々とあります。 私は、これで本当に現代に通じるかと案じました。 門主の、「阿弥陀様の救いが、凡夫の私たちに対しても働いてくださる、命が終わったあと必ず悟りの世界へ救いとってくださると信じることです。」という言葉 ですが、本来は、こういう教義を信じるということより、この教義から、大慈悲といった崇高な精神に目覚め、逆に、無慈悲の自己と社会を慚愧しつつ、慈悲なる方向へと自己と社会を創造してゆくということであるはずだと思っているからです。 (朝日新聞投稿・拙文) 次に、新門主は、われわれの真実の姿が自己中心的な凡夫だと気づかされ、それを深く認識し、それで阿弥陀仏の救いが私たちに働き、命終わって必ず悟りの世界へ救いとってくださると信じることで、死が、ただの終わりではなくなり、そういう受け止め方がたくさんの人に救いになるのではないかというように述べている。 こういう教義をどう工夫すれば現代人に理解されうるかを案じた。 自己中心の我々を阿弥陀仏が死後成仏させ救うということは、それをただ信じるというのではない。 自己中心の無い無我と慈悲、それへの万人の自己同化という人格的に象徴表現された阿弥陀仏から、その崇高な精神を自覚し、自己の根深い自己中心性を慚愧せしめられ、それ故にこそ、自己中心の凡夫のままにも、阿弥陀仏の無我、大慈悲の方向に向かって自己と世界の創造に向け、終生歩み続けられる道の確立と、命終後も、その無我、慈悲といった、崇高な精神の世界から、残れる人々を無我慈悲へと永遠に導き続けると受容できるところに人生の救いがあると理解したいと思うことである。 2014年7月
前回の聖典学習から 世にお出ましになるわけは、仏の教えを説き述べて人々を救い、まことの利益を恵みたいとお考えになるからである。」 こういう表現に、私たち人間の生きる意味とか本当の幸せとかいう問題が語られていると考えられます。 これは、今も昔もみんなが問い続けてきている問題と思います。 経典作者もこの問題を考究し、そしてその答えを自ら無量寿経に右のごとく象徴的に表現されたものとうかがえます。 以下、解釈してみます。 この如来とは、阿弥陀如来等のことです。 この如来は、実体ではなく、象徴ととらえます。 この如来という表現に象徴されているのは、いつも申します、「もっとも広く、もっとも深い、全てに対する慈悲」ということが出来ます。 ですから、如来はこのように、もっとも広く、もっとも深い、全てに対する慈悲」という、この上ない慈悲の心で、私たちの迷いの世界を哀れまれると表現してあります。 この、迷いの世界とはどういう世界かが問題です。 迷いという字をよく見ますと、米を食べて走っていると読めます。 また、米という字は四方八方を示しているようにも見えます。 ということは、勝手な読み方ですが、生まれてこの方、朝、昼、晩、ご飯を食べて、四方八方走りながら、本当はどこに向かって生きるべきか人生の目標が確定していないと読むことが出来そうです。 でもまた、たとえ人生の目標がはっきり定まっていても、如来の本質である、「慈悲」という方向でなく、真反対の冷酷な自己中心な生き方に向かっているなら、如来はその姿を迷いと哀れまれることには違いありません。 ですから、次に、如来が出現されたわけは、如来の教えの本質である、「慈悲」を解き述べて、人々を「慈悲」の方向へ導き救うためであると表現されています。 そしてそういう導きの恵みがいただけるところが、真のご利益であると表現されています。 こういう表現に、生きる意味と本当の幸せというものが明示してあるとうかがえます。 つまり、人生の目標を、「慈悲」に向かう人間形成と、そういう「慈悲」に向かう社会の創造に定めて、生きることこそが、仏教の説く、生きる意味であり、本当の幸せというものだと説かれているようにうかがえます。 ことに、浄土真宗は、この「慈悲」の方向に向かおうとしながらも、我執煩悩にからめられてしまう、現実に慚愧せしめられながら、なお、「慈悲」に導かれておぼつかなくとも歩ましめられる道ではありますね。 集団的自衛権閣議決定問題 こういう国家の問題に、残念ながら、本願寺派(西本願寺)は、何ら声明を出していません。 ところが、同じ真宗でも、隣の大谷派(東本願寺)は、常に、国家、社会問題に声明を出しています。 ここに、大谷派の声明を紹介させてもらいます。 集団的自衛権の行使容認に反対する決議 今、日本政府は、憲法を「改正」せずとも、その解釈を変更することで、これまで禁じられてきた集団的自衛権の行使を可能にする動きを加速させております。 集団的自衛権の行使が容認されれば、日本人が国外で人命を奪い、奪われるという事態が現実となりかねません。 このことは、戦後、日本が堅持してきた戦争放棄の国是を捨て去ることです。 私たち真宗大谷派宗議会は、この度の集団的自衛権の行使容認への動きに対して、深い悲しみと大きな危惧を覚え、強く反対の意思を表明するものであります。 戦後50年にあたる1995年、私たちは、過去において、仏法の名を借り戦争に協力してきた自らを問い直し、「人間のいのちを軽んじ、他を抹殺して愧じることのない、すべての戦闘行為を否定し、さらに賜った信心の智慧をもって、宗門が犯した罪責を検証し、これらの惨事を未然に防止する努力を惜しまない」という「不戦の誓い」を表明いたしました。 私たち念仏者は、地獄・餓鬼・畜生という三悪道に他ならない現実に立ちながら、浄土を願うものです。 その私たちに対して、「仏の遊履したまうところ(中略)、国豊かに民安し、兵戈用いることなし」と不殺生を呼びかける教えの言葉は、三悪道たる現実に対する悲痛な叫びであるとともに、非戦への深い願いであります。 その願いに応えることは、「人のいのちを奪う戦争を絶対に許さない」と言い切るところからしか始まりません。 親鸞聖人は、念仏を誹謗する人々に対して、「念仏せんひとびとは、かのさまたげをなさんひとをば、あわれみをなし、不便におもうて、念仏をもねんごろにもうして、さまたげなさんを、たすけさせたまうべし」と述べられております。 さまざまな意見、立場の人たちと丁寧に対話していくことをいとわず、私たちは「不戦の誓い」の具現化に努めてまいります。 2014年6月10日 真宗大谷派宗議会 安芸太田町議会へ集団的自衛権閣議決定取り消し陳情 集団的自衛権について閣議決定の取り消しを求める陳情 趣旨 安倍政権が、戦後レジームからの脱却、積極的平和主義との表明の下、憲法9条を変えて、自衛隊を国防軍にしょうとし、武器輸出3原則も変更し、特定秘密保護法を制定し、集団的自衛権を閣議決定し、国家安全保障基本法制定を目指すなど、まことに、大きく国の形を変えようとしています。 この集団的自衛権という大事な問題を、国会で審議せず、閣議だけで決定して、国の形を変革させてゆくということに大きな危惧を抱きます。 共同通信社が6月21、22両日に実施した全国電話世論調査によると、集団的自衛権の行使容認への反対は55・4%で半数を超えました。 憲法改正ではなく解釈変更によって行使を認める考えに反対との回答は57・7%で、賛成は29・6%でした。 行使を一度容認すれば、容認の範囲が広がると懸念する回答は62・1%に上りました。 これを見ても、世論は、この集団的自衛権について半数以上が反対の意見であると読めます。 それゆえ、この集団的自衛権を閣議だけで決定して認めたということに反対し、その取り消しを求めることを安芸太田町議会に陳情いたします。 陳情内容 集団的自衛権の閣議決定の取り消しを求める意見書を内閣総理大臣に提出すること 以上、地方自治法124条の規定により陳情いたします。 2014年6月 30日(月)朝・夜 7月1日 (火)朝・夜 朝9時半・夜7時半始 「仏法と人生と社会と」 住職自修 ご一緒に、仏法から、人生、社会の問題を問うてみましょう。 あらためて浄土真宗とは? とにかく、何といっても、阿弥陀様や、浄土が絶対あると信じられなければ始まらないというようなものではないと思います。 阿弥陀様や、浄土と表現されたものから、その意味をくみ取ることが大事と考えます。 阿弥陀様は、いつでも、どこでも、いつまでも、どこまでも、だれでも永遠に慈しみ育んでおられると表現されています。 それは、何の為かというと、私ら、みんなを自分中心な心から解放し、他者のことを慈しむ優しい心にし、冷たい心から解放して温かい心にし、利己的な心から解放して、他者を思い合う心にし、奪おうとする我欲の心を解放して、他者に与えようとする心の人格、つまり仏にしょうとされる為だと表現されています。 それは、阿弥陀様そのものが、自分中心で無い心の持ち主であり、また、冷たい心ではなく、慈悲に満ちたお方であるし、また、利己主義者では決してなく、利他の心の持ち主で、決して、我欲のために、他者のものを奪うという様なことはなく、ただひたすらに、自らのすべてを与えようという心の世界に生きておられるお方、つまりそのような仏であると表現されているからです。 ですから、どんなに邪悪な人にも、また、たとえどんなに阿弥陀様を嫌うような人があったとしても、決してその人を見放されず、どこまでも大きく、深く抱きとられておられると表現されています。 また、阿弥陀様を嫌ってどんなに逃げても逃げても、阿弥陀様は、どこまでも追わえ取って、導かれるとも表現されています。 つまり、阿弥陀様とは、みんなをすべて、どうでもこうでも自分と同じ仏にせねばおかない仏として表現されてあります。 ですから、作者不明ですが、お経を作った方は、こういう尊い心を阿弥陀仏という仏に表現されたものと考えます。 又、浄土とは、限りない光の世界だと表現されています。 ということは、闇が無く、闇を晴らして限りなく明るい世界だということですが、これは、先の仏の尊い心の世界の表現であると考えられます。 すなわち、自分中心で、冷たく、利己的で奪おうとする我欲の心のような闇の心を晴らして、みんなを自分中心な心から解放し、他者のことを慈しむ優しい心にし、冷たい心から解放して温かい心にし、利己的な心から解放して、他者を思い合う心にし、奪おうとする我欲の心を解放して、他者に与えようとする心のような限りなく明るい心の世界の表現であるということです。 ですから、浄土真宗とは、このような、阿弥陀仏や、阿弥陀仏の浄土と表現されたものから、尊い心の世界に目覚めさせられ、逆に、阿弥陀様や浄土には真反対の自分や、この世界の闇を慚愧せしめられ、それ故にこそ、阿弥陀仏や阿弥陀仏の浄土と表現された、より尊い心の光の方向に向かって自己の創造と社会の創造を願い、導かれて歩む道ということが言えると思います。 日本は、かの戦争を慚愧して、戦後、憲法9条に「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」のとおり、「いかなる軍隊をも持たず、非暴力で、諸外国と、和平、信頼、互恵、尊敬外交によって自衛とする。」と不戦の宣言をしたはずです。 ところが、1951年には軍事同盟の日米安保条約を結び、1954年、自衛隊という戦力を持ち、自衛戦争を容認しました。 そして、さらに、今や、安倍政権は、同盟国への軍事協力として、集団的自衛権を解釈改憲で、認めようとし、戦争放棄の国から戦争する国へとさらに国の形を変えようとしています。 実に憂うるところです。 非武装の集団的自衛権 (朝日新聞投稿原稿) ほとんどの国が自衛の手段に軍隊を持ち、それを行使する。 ところが、我が国は、憲法9条「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」のとおり、「いかなる軍隊をも持たず、非暴力で、諸外国と、和平、信頼、互恵、尊敬外交によって自衛とする。」という、全世界への宣言であると解釈するのであるがどうであろう。 とすれば、自衛隊も、日米安保条約も憲法違反である。 日米安保条約は解消し、諸外国との友好条約を締結し、 自衛隊は非武装、災害救援隊に、どの諸国からも信頼、尊敬される国民創り、国創りをめざそうとし、それを全世界に訴え、軍隊、戦争が当たり前の世界から、非武装、和平が当たり前の世界づくりに貢献したいものである。 憲法9条を世界名誉遺産に。 水田さんは、1970年ごろ学生運動していて、山谷で餓死者が出たという記事を読み愕然とされ、それから山谷の現場闘争にかかわり、そこに住んで日雇い仕事をしながらずっと支援を続けてこられました。 山谷から離れたことがないのは、そこでの人間関係にほっとできたからなんだろうといわれます。 そして、「私は誰かに頼り、弱音を吐きながらでないと生きて行けない。ここが居場所なんです。」と語られます。 この「ふるさとの会」は貧困だけでなく、年を取り、労働困難で家族も家もなく、心身の問題を抱え、人間関係を作れず、福祉施設からさえ受け入れを拒まれる路上生活者などいわゆる「見捨てられた人々」の住む家の保証と生活支援を積極的に進めてきました。 24時間支援の必要な人には共同住宅に入ってもらい、現在、東京都で1200人近い利用者です。 路上生活が長かった人々の中には、低所得、単身、要介護、認知症、精神病、発達障害など心の問題も抱え、「四重苦」で経済観念も乏しい人が多いそうです。 他の福祉施設が引き受けたがらない人々も積極的に受け入れています。 他の施設が受け入れをためらいがちなのは、暴れたり、重い前科があったり、対人関係に問題があったりする人だそうです。 そういうことで、トラブルだらけだそうですが、迷惑をかける人にこそ福祉が必要といわれます。 甘くない現実対処の基本方針は問題行動を抑制しないことだそうです。 理解できない行動をやめさせようとするとパニックになられるので放っておきますと、そのうちに周りの利用者も気にしなくなり、収まるところに収まるそうです。 問題行動は、本人にとっては心の安定を保つ重要な儀式かもしれないといわれます。 約270人いる職員には、自分の常識や価値観をいったん脇において、当人にとって世界がどう見えているのか常に考えてほしいといわれています。 抱き合いゲンカ 暴れの時に「抱き合いゲンカ」というのをやられるようです。 山谷の労働者と長年付き合って自然に身に着けた方法だそうです。 飲んで暴れる人や発作的に自殺しょうとする人を「大丈夫やからな」といいながら時には、ゲロにまみれつつ、ずっと抱き続けるのだそうです。 水田さんも「寂しく悲しい時、山谷の仲間に慰めてもらった。だから、相手がつらい時には付き合おう、と。一見喧嘩のようですがそうしていると相手の気持ちも次第におさまってくるんです。」と語られます。 ある時、若い職員が酔っ払って大家に怒鳴り込もうとした利用者と一晩中、「抱き合いゲンカ」をしていて、利用者は、酔いがさめると何度も「ごめんなさい。」と頭を下げたことがあり、とことん付き合うことが信頼につながるといわれます。 共同生活はケンカから始まり、そこで職員交え利用者同士の話し合いをしょっちゅうやられるそうです。 それは、「オレがオレが」で相手のことを考えない意識から脱するのが狙いだそうです。 何度も過ちを繰り返す利用者は、話し合いの中で反省しながら、どんなに周囲に迷惑をかけてきたかをゆっくりと話し始めるそうです。 他の利用者も、「あの時女房に手を挙げねば」とか、「仕事から逃げ出さねば」とか痛切な悔恨を抱えて生きておられるようです。 失敗を繰り返し、話し合うほどに仲間意識が強まり、食事や排せつなどお互いの世話を焼くようになるといいます。 集団の中で自然に役割分担ができ、お互いの役割を認め合うところに誇りや自尊感情が出てきて居場所ができるのだそうです。 人間関係づくりのサポートが職員の主な仕事といいます。 利用者さんは、時としてかたくなで、高度成長期、夢をもって都会に出たが、働いても働いても貧乏で家族もできず、職場からも抜け出せない、年で働くことも困難で食えなくなる、周囲全部が不信だらけになり、自分で自分を律するのもバカバカしくなるようです。 でも、そういう人ほど実は豊かな人間性を持っておられ、関係を回復し、凍った心が解けると、その人の内実があふれ出すそうです。 フーテンの寅さんを支える妹の「さくら」のように、この寂しい寅さん達をみとるまでお付き合いするのが水田さんたちの仕事といわれます。 「自分のことばかり考える社会のほうが異常で、それを少しずつ変えてゆくのが私たちの仕事だと思っています。」と言っておられます。 水田さんの顔写真がありますが、実に優しさのあふれる菩薩のような顔でした。 2014年5月 降誕会法座のご案内
親鸞聖人ご誕生の法要です。 なぜ「誕生」と言わずに「降誕」などと言うのでしょう。 「降誕」は親鸞聖人が仏様の世界(浄土)からこの世に降りてこられたという意味です。 「えっ」それ何?と思われるでしょうね。 「浄土」といっても星のような物の世界ではなく、 自己中心性から完全に解放された、究極の無我、慈悲の世界です。 つまり「浄土」はこの究極の無我、慈悲を場所的に象徴表現された世界と言えるでしょう。 「仏」も同じく、実体ではなく、この究極の無我、慈悲を人格的に象徴表現されたものと言えます。 親鸞聖人はこの「仏」や「浄土」の無我、慈悲をよりどころとして生きて行くところに、苦悩の多い私達が救われて行く道があることを説かれました。 それはそうですよね、自分中心で、慈悲に反する生き方のままで、救いとは言えませんからね。 私たちは、自分中心であってはならない、慈悲にかなう生き方が本当だ、他者をちゃんと配慮しなければならないとはわかっていても、どうしても、根っこには、自分がかわいいという自己中心な心がわだかまっています。 でも、このどうしょうも無さを、阿弥陀仏や、浄土の完全な無我と慈悲によって慚愧せしめられて、慚愧と共に、なお、無我や慈悲の方向に導かれてゆくところに救いがありました。 親鸞聖人のご一生の伝道布教は、無我、慈悲の無い、戦争や差別の低位なこの世に、崇高な無我、慈悲に基づいて、万人を御同朋と尊重されるものでした。 この崇高な真実を虚仮不実の世界へという伝道のご一生に、この「降誕」という言葉を思います。 親鸞聖人の生き方 「仏」や「浄土」の本質である、無我、慈悲、さらには利他、布施、平和、平等をよりどころとして、我執、冷酷、利己、収奪、戦争、差別の虚仮不実の「自分」と「この世」を慚愧させられ、そして、慚愧と共に、「自分」も「この世」も無我、慈悲、利他、布施、平等、平和なる方向に導かれる生き方でした。 親鸞聖人の言葉に、 「悪性さらにやめがたし、心は蛇蠍の如くなり、修善も雑毒なるゆえに虚仮の行とぞなづけたる」と有ります。 「蠍」はサソリです。 これは、「悪い性根にいつもからまれて、心中に、マムシやサソリの毒を持ち、善を為しても、うぬぼれ、おごり、高ぶりなどの毒が混じっているから、私は、嘘っぱちです」というような、実にすごい告白です。 また、「浄土真宗に帰すれども、真実の心はありがたし、虚仮不実のわが身にて、清浄の心もさらになし」という親鸞聖人の嘆きもあります。 これは、「あー、この親鸞は、浄土真宗をよりどころとして生きて行く身でありながら、しょせん悲しい煩悩の身には、まことに、真実の心はありえないことが思い知らされる。 まことに、虚仮不実のわが身で、清らかな心もさらに無い。」との悲歎述懐和讃といわれるものです。 なんという「真実」の光に照らされた言葉かと、ジーンとします。 この親鸞聖人の「告白」に少しでも共感できるところに、「真宗門徒」であるという、あかしがあるのではないでしょうか。 又、親鸞聖人の手紙に 「この世のならいにて念仏をさまたげんひとは、そのところの領家・地頭・名主のやうあることにてこそ候はめ。 とかく申すべきにあらず。 念仏せんひとびとは、かのさまたげをなさんひとをばあはれみをなし、不便におもうて、念仏をもねんごろに申して、さまたげなさんを、たすけさせたまふべしとこそ、ふるきひとは申され候ひしか。 よくよく御たづねあるべきことなり。」 とあります。 これも実にすごい言葉です。 これを解釈しますと、 「この世のよくあることで、「念仏」を妨害する者は、「領家」(荘園の領有者)つまり今で言えば「財界」・「地頭」(幕府任命の荘園管理者)今で言えば「政界」・「名主」(名田を経営管理し、年貢・公事の徴収に当たった者)今で言えば「官僚」などのようあることでございましょう。 それはいつものことでとやかく言うべきほどのことでもありません。 私達、念仏者は、あの妨害者を哀れみ、ふびんに思うて念仏をこそ、大事に申して、妨害者をたすけてあげることですと、先輩は申されていたようでしたが。 よくよくこのことをお考えなさるべきです。」 と解釈します。 これは、仏教徒としての在り方、生き方の手本として実に考えさせられます。 仏教徒は、前に述べましたように、「仏」や「浄土」から「無我」「慈悲」「利他」「布施」といった真実のものの見方を自覚し、慚愧と共に真実に向かって生きようとするものといえます。 ところが、現実は、真実への自覚も慚愧も乏しく、それ故に、弱肉強食の欲望の渦の中で、権力、財力、武力の闘争で、人間の尊厳や平等が侵され、戦争や差別が是認されます。 そうした権力、財力、武力に安住しょうとしている人々にとっては、それとは、全く考え方が違って、「無我」「慈悲」「利他」「布施」といったものを自己と社会に実現しょうとし、平等で平和な御同朋の社会を求めようとする「念仏者」は邪魔になるのですね。 以下親鸞聖人御一生の念仏弾圧を歴史年表から紹介します。 35才、朝廷による念仏停止(死罪4人・流罪8人) 39才、後鳥羽上皇、四天王寺へ念仏停止 47才、朝廷、嵯峨清涼寺へ念仏取り締まり 50才、專修念仏停止 52才、比叡山、朝廷に專修念仏弾劾文を送る。 55才、專修念仏停止(親鸞聖人親友隆寛他3人流罪)62才、鎌倉幕府、專修念仏禁止 63才、鎌倉幕府、專修念仏禁圧 67才、念仏停止令 68才、念仏停止令 83才、関東の念仏者弾圧激化 このように念仏弾圧は続き、やっと84才頃関東の念仏弾圧は止みました。 この年表見ても、親鸞聖人の一生はほとんど念仏弾圧の一生でした。 それほどに、念仏の精神の拡大に対して、権力者や、権力者に守られている既成仏教は危機感を覚えたのでしょう。 たとえ、朝廷や、幕府や、比叡山、奈良等既成仏教から、どんなに迫害されても、ゆるがない念仏の精神を確認します。 さらに、重要なのは、念仏者は、弾圧者に対して敵対するというのではなく、その弾圧者に対して、どんなに弾圧されても、その弾圧者こそ、真の眼の開かれない、悲しむべき人として、むしろ哀れみの心を持って、ふびんに思って、彼らを助けてあげようという精神があるということです。 親鸞聖人滅後の変質 残念ながら、親鸞聖人滅後は、この精神を失って、死後未来往生に重点を置き、この世は蓮如さんに見られるように、「世間通途」つまり、世間どおりに生きて行くようになってしまいました。 明治になると、「明如」という門主は「後の世は彌陀の教えにまかせつつ、命は安く君に捧げよ」というように、戦争と一体化するほどに変質しました。 集団的自衛権と親鸞聖人 集団的自衛権とは、日本と軍事同盟にある、ことにアメリカ軍が戦争危機状態になった時、自衛隊が、アメリカ軍を支援して、武力行使、つまり共に戦争ができる権利ということのようです。 今までは、憲法違反かどうかを審議する、内閣法制局では、日本が攻撃を受ける時、正当防衛で、国を守る、いわゆる個別的自衛権はあるが、集団的自衛権は認められないというものでした。 そのため、安倍首相は、前例を破って、内閣法制局長官を集団的自衛権に賛成の人物にすげかえました。 今、安倍政権は、日本を取り戻す、戦後レジームからの脱却、積極的平和主義といった掛け声で、憲法草案で、天皇の元首化、憲法9条改定で自衛隊の国防軍化を進めています。 ところが、改憲発議に衆参議員3分の2を満たさないため、憲法を変えずに、閣議で憲法解釈を変えて集団的自衛権を認めようとしています。 さらに、武器輸出3原則の解禁、愛国心教育と道徳の教科化、教科書検定介入による国家主義教育化、国家安全保障会議の設置、国家安全基本法の策定化、特定秘密保護法の強行などがあります。 そして、靖国神社への公的参拝など、まことに、言われる如く、安倍政権には、今までの戦争をしないという国創りから、戦争の出来る国創りへとまるで、国の形を変えてしまおうというような姿勢が見られます。 この国会でまず成立させようとしているのが、この集団的自衛権でした。 こういう状況の中で、今、この集団的自衛権を、砂川判決から認めようという論調があります。 この砂川判決というのは、55年前の米軍基地拡張事件で、在日米軍が違憲かどうかの裁判で、一審で、なんと違憲判決で、その後最高裁では合憲判決でした。 ところが、6年前、アメリカの公開資料から、判決前に最高裁長官がアメリカに対し、一審をひっくり返して、合憲であると裁定するということを秘密事前連絡で取り決めていたということが発覚しました。 一審の判決は、日本は、戦力不保持で、武力によって国際紛争を解決する方法をとらないのであるから、戦力である米軍は憲法違反であるという判決です。 しかし今、最高裁で、合憲としたのだから、集団的自衛権も認められているというのです。 世をいとうしるしに生きられた親鸞聖人には、たとえ国家権力といえども到底、人と人が奪い合い、殺し合い、差別し合うということを是認されるようなことは何一つないと考えられます。 こういう親鸞聖人の道を歩もうとする私たち真宗門徒は、個別であれ、集団であれ武力によるのではなく、平素から、諸外国、諸国民とお互いに尊重し合う互恵外交によってこそ自衛とするものでしょう。 |