良正院 (富子・督姫)



徳川家康の次女であり
家康側室、西郡局との子である。
5歳より浜松城に住み
     
19歳で 相模小田原城主北条氏政嫡男 北条氏直(22歳)に嫁ぐ。
7年後 
1590年秀吉の小田原征伐で小田原城落城
夫氏直高野山に追放後病死
小田原後家となる。
徳川家康の命により
三河吉田城へ娘と共に輿入れ
池田輝政室となる。(先妻は中川清秀の娘 絲子)
忠継・忠勝 5男2女を生む。
(長女−丹後京極高広室 次女 振姫−仙台藩主伊達忠宗室)
関ヶ原の後、池田輝政播州姫路52万石を賜る。
      

603年忠継(備前岡山)忠雄(淡路)
この頃、姫路城で忠継が備前岡山を与えられたが幼少であったため
姫路城に住んでいた事から、本丸御殿(居館)を備前丸と呼ぶ。
池田輝政が死去後、忠継の執政代行として備前岡山城に来ていた
先妻の子 利隆が姫路城を治めることになり
忠継と共に備前岡山城へ
1615年3月3日死去(51歳) 岡山城内ではなく姫路城内で死去
(京都説有)
墓所は知恩院(京都東山)
池田忠雄により1631年良正院として寄進

大阪城夏の陣のあったこの1615年は良正院をはじめ忠継
先妻の絲子・利隆、4人の岡山ゆかりの人物が病死

・・・勝手な感想・・・

毒入り饅頭伝説が消えないのはそれはそれは
姫路城を愛していたからだろう。

岡山県内に残る良正院の話には
白鷺城と呼ばれる白く美しい姫路城と比べて、
黒い岡山城の事を気に入らなかった話が多く残る。
実の子に姫路城を継がせたかったに違いない

夫池田輝政が姫路52万石をうけ賜れたのは
徳川の娘である彼女を、後妻にもらったからであるのは、確かであるから。

姫路城を訪れるとき千姫化粧櫓では千姫を思うが

備前丸から天守を見上げると
督姫の事も思わずにはいられない。
しかし、工事中のこの様子をみたら・・・
督姫ぶったまげるね・・・・

   


姫路城は戦火を奇跡的に逃れ、人々の愛によって守られ、
これからも世界遺産として大切に後世に残っていくでしょう。