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論述
拝読(浄土真宗のみ教え)対論
 
 
 
拝読「浄土真宗のみ教え」対論1              
 
はじめに
 
2009年7月、本願寺派は、今までの「御文章」「領解文」の精神を受け継ぎながら、現代的な表現の文章を作り、それを拝読、拝聴しょうということで、この、拝読「浄土真宗のみ教え」が刊行された。
私は、かねてより、宗祖以降の教学は、真俗二諦教学で、虚仮なる世間を容認してしまった、背宗祖教学であったと批判している。
それゆえ、この、拝読「浄土真宗のみ教え」がいくら現代的表現をとろうとも、「御文章」や、「領解文」というものを踏まえるものである限り、受容出来ない。
それは、今も昔も変わらず、阿弥陀仏を実際に救済力のある、何らかの実体として信じ、それにお任せして、安心するという信仰であるがゆえである。
持論であるが、阿弥陀仏を実体視せず、「無我、慈悲等、真実」の象徴として、そこから、自己と社会を厭い、それゆえの解放と創造の道を学ぼうとする教学からはとても受容出来ないのである。
そこで、この、拝読「浄土真宗のみ教え」への対論として、私なりに、逐一、対論の文章化を試みてみる。
残りはまた他日とする。
対論で変えた文章は文中、太字とする。
 
浄土真宗の救いのよろこび
 
本文  「阿弥陀如来の本願は かならず救うまかせよと 南無阿弥陀仏のみ名となり たえず私によびかけます。」
対論  「阿弥陀如来の本願は 必ず導く、目覚めよと 南無阿弥陀仏のみ名となり たえず私によびかけます。」
 
本文  「この呼び声を聞きひらき 如来の救いにまかすとき 永遠に消えない灯火が 私の心にともります。」
対論  「この呼び声を聞きひらき 如来の真実に目覚めるとき 永遠に消えない灯火が 私の心にともります。」
 
本文  「如来の大悲に生かされて 御恩報謝のよろこびに 南無阿弥陀仏を称えつつ 真実の道を歩みます」
対論  「如来の大悲にうながされ 不退の道のよろこびに 南無阿弥陀仏をつぶやきつ 真実の道を歩みます」
 
本文  「この世の縁の尽きるとき 如来の浄土に生まれては さとりの智慧をいただいて あらゆるいのちを救います」
対論  「この世の縁の尽きるとき 如来の浄土に往生成仏し 智慧と慈悲を円備して あらゆるいのちを導きます
 
本文  「宗祖親鸞聖人が 如来の真実を示された 浄土真宗のみ教えを 共によろこび広めます」
対論  「宗祖親鸞聖人が 如来の真実を示された 浄土真宗のみ教えを 共にうなずき広めます」
 
人生そのものの問い
 
本文  「(中略)(いったい何のために生きているのか)(死んだらどうなるのか)。この問いには、人間の知識は答えを示せず、積み上げてきた経験も役には立たない。」
対論  「(中略)(いったい何のために生きているのか)(死んだらどうなるのか)。これに続く「この問いには、人間の知識は答えを示せず、積み上げてきた経験も役には立たない。」の文章であるが、この問いに、知識や経験で解決している人もあるので削除する。
     ごく常識的には、生物としては、個体と種族保存のために生きているのであり、人間としては、各個人、何らかの願望のために生きているということであろう。
     死んだら、元素や分子に分散するということであろう。
     真宗の受け止めは、こういう科学的なものではなく、真実と虚妄に関する、生と死の受容である。
 
本文  「必ずあなたを救いとる」という如来の本願は、煩悩の闇に惑う人生の大いなる灯火となる。
この灯火をたよりとする時、「何のために生きているのか」「死んだらどうなるのか」、この問いに確かな答えが与えられる。
     
対論  「必ず一切衆生を往生成仏させる」という如来の本願は、煩悩の闇に惑う人間と社会の大いなる灯火となる。
この灯火を羅針盤とする時、「何のために生きているのか」「それは、我執煩悩のわが身とわが世を厭いつつ、自他共に往生成仏という、究極の無我、慈悲、利他、布施の自己実現に向かわしめられ、無我、慈悲、利他、布施をふまえた、同朋社会の創造に向かわしめられて生きているのだ」「死んだらどうなるのか」「それは、言うまでもなく、実際に、この身に起きる事実ではなく、法義上の味わいとして、往生成仏せしめられ、大智、大悲をもって、この虚仮不実の世界に還って来て、永遠に、一切衆生を往生成仏道へと向かわしめる」という確かな答えが与えられる。
 
凡夫
 
本文  「(中略)仏法に出会うとき、煩悩に満ちみちている凡夫は、他の誰のことでもなく、この私のことと気づかされる。
念仏申すひぐらしの中に、ありのままの私の姿を見せていただく。
 
対論  「(中略)仏法に出会うとき、煩悩に満ちみちている凡夫は、他の誰のことでもなく、この私のことと気づかされる。さらに穢土とは、権力者も、民衆もみんな我執煩悩によって支配し、支配され、人間の尊厳と平等が侵される、闘争と差別の政治社会であると気づかされる。
念仏つぶやくひぐらしの中に、我執煩悩のままの私の姿と虚仮不実の社会が厭わしめられ、それゆえにこそ、あるべき自己と社会の実現を願わしめられる。
拝読「浄土真宗のみ教え」対論その2              
 
「はじめに」
 
昨年の拝読「浄土真宗のみ教え」対論の続きである。
前回、述べたように、この、拝読「浄土真宗のみ教え」は、2009年7月、本願寺派が、今までの「御文章」「領解文」の精神を受け継ぎながら、現代的な表現の文章を作り、それを拝読、拝聴しょうということで刊行されたものである。
同じく、私は、かねてより、宗祖以降の教学は、宗祖に有った、権力支配差別社会を厭い、同朋社会を願う姿勢を喪失して、世間通途教学で、虚仮なる世間を容認してしまった、背宗祖教学であったと批判していることも述べた。
それゆえ、この、拝読「浄土真宗のみ教え」がいくら現代的表現をとろうとも、「御文章」や、「領解文」というものを踏まえるものである限り、受容出来ないということも述べた。
そのことは、今も昔も変わらず、阿弥陀仏を実際に救済力のある、何らかの実体として信じ、それにお任せして、安心するという信仰への批判であることも述べた。
今回、さらに、こだわってその理由を詳述する。
それは端的に言えば、従来及び現在の大多数の教学との教学根拠の違いである。
従来及び現在の大多数の浄土真宗教学の根拠といえばいわゆる、七祖、宗祖、列祖の教学ということであろう。
そしてこの七租、宗祖、列祖の教学というのは、三経は、釈尊の直説と信じ、阿弥陀仏は、色や形を超えてなお実在するものとして疑うべくもなく信仰するという信仰の教学ということになろう。
ところが言うまでもなく「原始仏教とは、一般に釈尊時代より部派に分裂するまでの仏教をさすが、この時代には、阿弥陀仏や極楽浄土の観念、あるいはその浄土に往生するという思想は存在しなかった」という
本願寺派、教学本部編『伝道』29号・仏教学者・藤田宏達氏の論述のように、現代は、三経を釈尊直説とする時代ではない。
とすれば、三経は、釈尊滅後、無名の、個人か集団による、創作だということになる。
とすれば、阿弥陀仏も、実体でも実在でもないということになる。
つまりは、阿弥陀仏とは、経典創作者による、仏教思想の人格的象徴表現、もしくは、釈尊の人格的永遠化というのが妥当であろう。
とすれば、もはや、七祖、宗祖、列祖にある、阿弥陀仏実体信仰に基く教学、そしてそれを今も引き継いでいる、現在の信仰教学は破綻せざるをえまい。
これは、宗祖といえども、七祖時代からの釈尊直説経典信奉という歴史的制約上致し方ないものであろう。
以上から、私の教学根拠とするのは、七祖、宗祖ではなく、七祖、宗祖をさかのぼることはるか以前の三経、ことに大経創作者の思想ということになる。
そして、この大経創作者の思想とは、法蔵菩薩の精神として象徴化された、「無我、慈悲、利他、布施」等の思想だと了解している。
私は、この大経創作者の思想を教学根拠にして、従来の阿弥陀仏信仰教学ではなく、阿弥陀仏の実質としての「無我、慈悲、利他、布施」等の思想から、自己と社会を厭い、それゆえの自己と社会の解放と創造の道を学ぼうとするものである。
それゆえ、宗祖には明確にあった、世をいとうしるしとしての権力支配差別社会相対化と同朋社会実現への姿勢は当然是認できても、世間通途、真俗二諦で世俗に埋没した列祖の教学は受容出来ないのである。
ここで、念のため、申しておくが、阿弥陀仏を実在、実体視せず、信仰しないからといっても、阿弥陀仏を情緒的に味わえることまでも否定するものではない。
前置きが長くなってしまったが、引きつづき、この、拝読「浄土真宗のみ教え」への対論として、私なりに、逐一、対論の文章化を試みてみる。  残りはまた他日とする。  対論で変えた文章は文中、斜体とする。
 
「真実の教え」
 
本文  あらゆる者を救いとる教えこそ真実の教え、究極の教えである。
対論  あらゆる者を救いとるとの象徴的表現から無我、慈悲、利他、布施等の真実にめざましめ、さらに自己と社会の虚仮に目覚ましめ、同時に、自己実現・解放(成仏)・社会解放に向かわしめる教えこそ真実の教え、究極の教えである。
 
本文  この経が説かれるとき、釈尊のお顔は、いまだかつてないほどに悦びにあふれ、気高く光り輝いておられた。  あらゆるものを救いとる阿弥陀如来の本願を説くことこそ、釈尊がこの世に出られた目的だったからである。
 
対論  この経が説かれるとき、釈尊のお顔は、いまだかつてないほどに悦びにあふれ、気高く光り輝いておられたと「経」の崇高なことを経典創作者は、象徴的に表現している。あらゆるものを救いとる阿弥陀如来の本願を説くことこそ、釈尊がこの世に出られた目的だったからであるという象徴的表現によって、経典創作者は、釈尊の教説すなわち仏法の本質は、無我、慈悲等への万人の自己実現・解放(成仏)と社会解放であることを、教示している
 
「限りなき光と命の仏」
 
本文  阿弥陀如来は、その限りない光をもって、あらゆる世界を照らし、私たちを摂め取ってくださる。
その限りない寿をもって、あらゆる時代を貫き、私たちを救いとってくださる。
 
対論  阿弥陀如来は、その限りない光をもって、あらゆる世界を照らし、私たちを摂め取ってくださる。
その限りない寿をもって、あらゆる時代を貫き、私たちを救いとってくださる。という象徴表現によって、経典創作者は、真実というものは、虚仮を照破し、一切を永遠に包摂し、虚仮なる主体を真実の自己実現・解放(成仏)せしめ、虚仮なる世間を完全解放に向かわしめるものであるということを教示している。
 
本文  たとえ私たちがその救いに背を向けようとも、摂め取って捨てないと、どこまでもはたらき続ける仏がおられる。その仏を阿弥陀如来と申し上げるのである。
 
対論  たとえ私たちがその救いに背を向けようとも、摂め取って捨てないと、どこまでもはたらき続ける仏がおられる。その仏を阿弥陀如来と申し上げるのである。と経典創作者は、真実とは、真実に違背するものを永遠に包摂し、慈育し、真実に自己同化(成仏)せしめるものということを、教示するために、人格的に象徴化して阿弥陀仏と表現した。
 
 
 
拝読「浄土真宗のみ教え」対論その3              
 
「はじめに」
 
一昨年、昨年の拝読「浄土真宗のみ教え」対論の続きである。
前回、述べたように、この対論は、「阿弥陀仏を、実際に、一切を成仏させるという、救済力のある、何らかの不可思議な実体、実在として信仰し、それにお任せして、安心するという、従来及び現在の大多数の信仰」への問題提起である。
そのわけは、従来の浄土真宗教学の根拠が、七祖、宗祖、列祖の教学であり、私は、それに対して、教学根拠を、七祖、宗祖、はるか以前、今からおよそ2千年前、釈尊も説かなかった、三経、ことに作者不明の、大経創作者の思想精神に置こうとしているからである。
そして、この大経創作者の思想精神とは、法蔵菩薩の精神として象徴化された、仏教思想のキーワードの、縁起を基にした、「無我、慈悲、利他、布施」等の思想精神と了解している。
それ故、阿弥陀仏とは、経典創作者による、仏教思想の人格的象徴表現、もしくは、釈尊の人格的永遠化という解釈である。
私は、この大経創作者の思想精神を教学根拠にして、従来の阿弥陀仏信仰教学ではなく、阿弥陀仏の実質としての「無我、慈悲、利他、布施」等の思想精神から、自己と社会を厭い、それゆえの自己と社会の解放と創造の道を学ぼうとするものである。
以上から、引きつづき、この、拝読「浄土真宗のみ教え」への対論として、逐一、対論の文章化を試みてみる。  
残りはまた他日とする。  
対論で変えた文章は文中、斜体とする。
「他力本願」
本文  
他力とは、阿弥陀如来の本願のはたらきであり、これを他力本願という。
他力本願は、如来から私に向けられたはたらきであって、自分の望みを他人まかせにすることではない。 対論    
他力とは、阿弥陀如来の本願と象徴表現された、無我、慈悲等、真実の、虚仮不実への自己同化作用であり、これを他力本願と表現している。
他力本願は、如来と象徴表現された、無我、慈悲等、真実が虚仮不実のを、虚仮不実と自覚、慙愧せしめ、同時に、自覚的に、真実に向かわしめるはたらきであって、自分の望みを他人まかせにすることではない。
本文
阿弥陀如来は四十八の願いを発して仏となられた。
その願いの根本である第十八の願は、「われにまかせよ、わが名を称えよ、浄土に生まれさせて仏にならしめん」という願いである。 対論 阿弥陀如来は四十八の願いを発して仏となられた、と、このように、無我、慈悲等、真実を人格的に象徴表現してある。
その願いの根本である第十八の願は、「一切の衆生を、阿弥陀仏や浄土の真実に目覚ましめ、阿弥陀仏や浄土の真実を願わしめ、阿弥陀仏や浄土の真実に成就せしめん」という願いである。
本文
如来は、私たちを救わんとしてつねに寄り添い、南無阿弥陀仏のよび声となって、われにまかせよと、はたらき続けておられる。
このはたらきを他力といい、本願力というのである。対論  如来は、私たちを救わんとしてつねに寄り添い、南無阿弥陀仏のよび声となって、われをよりどころにせよと、はたらき続けておられる、と、無我、慈悲等の真実をこのように人格的に象徴表現してある。
この真実の、虚仮不実に対する自己同化作用を他力、本願力と表現したのである。本文
阿弥陀如来の本願のはたらきにおまかせして、念仏を申しつつ、如来の慈悲につつまれて、浄土への道を歩ませていただくのである。
対論阿弥陀如来の本願と象徴表現された真実に目覚めて、念仏をつぶやきつつ、如来の慈悲と象徴表現された真実うながされて、浄土への道と象徴表現された、無我、慈悲、利他、布施等、究極の真実の自己実現と究極の境涯実現(往生成仏)に向かう道を歩ませていただくのである。
 
 「如来の呼び声」
本文   
阿弥陀如来は、すべての者を救いたいと願われ、南無阿弥陀仏の名号を完成された。
名号は、如来の智慧と慈悲を円かに具えた、救いのはたらきそのものである。対論阿弥陀如来は、すべての者を救いたいと願われ、南無阿弥陀仏の名号を完成されたと、このように、真実というものの、虚仮への自己同化作用を人格的に象徴表現してある
名号は、如来の智慧と慈悲を円かに具えているとの、真実というものの実質の象徴表現であり、虚仮の自己と世界を真実に自己同化せんとする、真実の作用の象徴表現そのものである。
本文 南無阿弥陀仏は、「必ず救う、われにまかせよ」との阿弥陀如来のよび声である。 如来は、偽りと真実の見分けもつかない凡夫を哀れみ、名号による救いを選び取られた。
如来のみ名は、遍く世界に響きわたり、この真実の救いにまかせよと、よび続けておられる。 そのよび声は、私の称える南無阿弥陀仏の念仏となって、今ここに至りとどいている。
念仏の声を通して、如来の大悲のよび声を聞かせていただく。
対論
南無阿弥陀仏は、「必ず真実に目覚めさせ、救い導く、われをよりどころにせよ」との阿弥陀如来のよび声と、無我、慈悲等の真実の作用を象徴表現してある。 如来は、偽りと真実の見分けもつかない凡夫を哀れみ、名号による救いを選び取られた、と真実の作用を象徴的に表現してある。
如来のみ名は、遍く世界に響きわたり、この真実の救いにめざめよとよび続けておられると真実の作用を象徴表現してある。
 そのよび声と象徴表現されたものからのの真実と虚仮への目覚めは、私のつぶやく南無阿弥陀仏の念仏となって、今ここに実証されている。
念仏の声を通して、如来の大悲のよび声と象徴表現された、真実からのうながしにうなづかされる。

拝読「浄土真宗のみ教え」対論その4              

 

「はじめに」

 

過去の拝読「浄土真宗のみ教え」対論の続きである。

前回、述べたように、この対論は、「阿弥陀仏を、実際に、一切を成仏させるという、救済力のある、何らかの不可思議な実体、実在として信仰し、それにお任せして、安心するという、従来及び現在の大多数の信仰」への問題提起である。

そのわけは、従来の浄土真宗教学の根拠が、七祖、宗祖、列祖の教学であり、私は、それに対して、教学根拠を、七祖、宗祖、はるか以前、今からおよそ2千年前、釈尊も説かなかった、三経、ことに作者不明の、大経創作者の思想精神に置こうとしているからである。

そして、この大経創作者の思想精神とは、法蔵菩薩の精神として象徴化された、仏教思想のキーワードの、縁起を基にした、「無我、慈悲、利他、布施」等の思想精神と了解 している。

それ故、阿弥陀仏とは、経典創作者による、上記「無我、慈悲、利他、布施」等、仏教思想の人格的象徴表現、もしくは、釈尊の人格的永遠化という解釈である。

私は、この大経創作者の思想精神を教学根拠にして、従来の阿弥陀仏信仰教学ではなく、阿弥陀仏の実質としての「無我、慈悲、利他、布施」等の思想精神から、自己と社会を厭い、それゆえの自己と社会の解放と創造の道を学ぼうとするものである。

以上から、引きつづき、この、拝読「浄土真宗のみ教え」への対論として、逐一、対論の文章化を試みてみる。  

残りはまた他日とする。  

対論で変えた文章は文中、斜体とする。

「聞くことは信心なり」

本文   

母に抱かれて笑う幼子(おさなご)は、母の慈しみを信じて疑うことがない。慈愛に満ちた声を聞き、ただその胸に身をまかせ、大いなる安心のなかにある。

親鸞聖人は仰せになる。聞其名号というは本願の名号をきくとのたまえるなり きくというは本願をききて          疑うこころなきを聞というなり またきくというは信心をあらわす御(み)のりなり

南無阿弥陀仏は、「必ず救う、われにまかせよ」との慈愛に満ちた如来のよび声。

このよび声をそのまま聞いて疑うことがない、それを信心という。

自分の見方を より処(どころ)とし、自分勝手な思いで聞くのであれば、如来の慈愛のよび声をそのままに聞くことにはならない。

母の慈愛の思いが、幼子の安心となるように、如来のよび声が、そのまま私たちの信心となる。

対論

 これも、阿弥陀仏にまかせて安心する信仰の典型である。
母と子のたとえで仏(真実)が衆生(虚仮)を抱くということは理解できる。

しかし、衆生が仏の真実によって自らの虚仮を慚愧し、それ故にこそ、いよいよ真実たらんとして歩むという躍動性、実践性が欠落している。

表現を変えるならば、南無阿弥陀仏は、「一切の虚仮をすべて真実たらしめる。」との如来(真実)の虚仮に対する道理の象徴表現。

この如来に真実を、そして、私に虚仮をうなずいて、慚愧と共にいよいよ真実に向って歩もうとする自己の成立、それを信心という。

如来の真実に対しても、真実への覚醒の感動も無く、そして、自己の虚仮に対しても、自己慚愧と実践的エネルギーの湧出も無き、安易な理解にとどまるなら真に聞くということにならない。

母の慈愛が、幼子の育成と悪への抑制となるように、如来の大悲が、そのまま私たちの慚愧と自己実現へいざなう信心となる。

「今ここでの救い」              

本文 

念仏の教えにあうものは、いのちを終えてはじめて救いにあずかるのではない。

いま苦しんでいるこの私に、阿弥陀如来の願いは、はたらきかけられている。親鸞聖人は仰せになる。

信心の定まるとき往生また定まるなり 信心いただくそのときに、たしかな救いにあずかる。

如来は悩み苦しんでいる私を、そのまま抱きとめて、決して捨てることがない。

本願のはたらきに出あうそのときに煩悩をかかえた私が、必ず仏になる身に定まる。

苦しみ悩む人生も、如来の慈悲に出あうとき、もはや苦悩のままではない。

阿弥陀如来に抱かれて人生を歩み、さとりの世界に導かれていくこととなる。 まさに今、ここに至りとどいている救い、これが浄土真宗の救いである。
対論
 念仏の教えにあうものは、いのちを終えてはじめて救いにあずかるのではない。

いま苦しんでいるこの私に、阿弥陀如来の願いは、はたらきかけられている。(これは真実というものの虚仮を自己同化せんとする道理の象徴的表現である。)

親鸞聖人は仰せになる。信心の定まるとき往生また定まるなり 信心に目覚めるそのときに、たしかな救いにあずかる。如来は悩み苦しんでいる私を、そのまま抱きとめて、決して捨てることがない。(これも真実の虚仮を自己同化せんとする道理の象徴的表現である。)

本願のはたらきに出あい、真実に目覚め、自らの虚仮を慚愧するそのときに煩悩をかかえた私が、必ず仏になる身に定まる。苦しみ悩む人生も、如来の慈悲に出あうとき、もはや苦悩のままではない。阿弥陀如来の真実にうながされて人生を歩み、さとりの世界に導かれていくこととなる。

まさに、真実と虚仮の自覚と慚愧・自己実現と社会解放への歩み、これが浄土真宗の救いである。

「愚者(ぐしゃ)のよろこび」
本文           

阿弥陀如来は「必ず救う、われにまかせよ」とよびかけておられる。そのよび声を通して、確かな救いのなかにあることをよろこぶとともに、ありのままの私の姿を知らせていただく。

如来の光に照らされて見えてきた私の姿は、煩悩に満ちみちた迷いの凡夫であった。確かなものなど何一つ持ち得ない愚かな私であったと気づかされる。

親鸞聖人は、法然上人より愚者になりて往生すとの言葉をうけたまわり、感慨をもってお手紙の中に記(しる)された。このような私だからこそ、救わずにはおれないと、如来は限りない大悲を注いでおられる。

この深き恵みをよろこばせていただくより他はない。
対論
 阿弥陀如来は「一切の虚仮をすべて真実たらしめる。」という真実の道理の人格的象徴表現である。

その表現から真実に目覚めるとともに、ありのままの私の虚仮の姿を知らせていただく。

如来の光に照らされて見えてきた私の姿は、煩悩に満ちみちた迷いの虚仮の凡夫であった。

確かなものなど何一つ持ち得ない愚かな私であったと気づかされる。

親鸞聖人は、法然上人より愚者になりて往生すとの言葉をうけたまわり、感慨をもってお手紙の中に記(しる)された。このような私だからこそ、救わずにはおれないと、如来は限りない大悲を注いでおられる。

(これも真実の、虚仮を自己同化せんとする道理の象徴的表現である。)

この如来に真実を、そして、この自己に虚仮を自覚せしめられるより他はない。

 
 
2011/09/03
靖国神社問題、研修資料
第4期連研・9回参考資料
 
テーマ    「靖国神社を国家護持することがなぜいけないのでしょうか」
 
テーマのねらい
 
靖国神社を国家で護持してもいいじゃないかという問いに対し、
浄土真宗と平和問題・真宗教団の戦争責任問題・国家と宗教などについて考える。
 
考えるポイント
 
   靖国神社は、かつての戦争や戦死者をどうとらえているでしょうか?
靖国神社の国家護持・閣僚の公式参拝は、合憲でしょうか違憲でしょうか?
浄土真宗では、上記の問題をどうとらえているでしょうか?
 
靖国神社とは
靖国神社の由緒  「靖国神社ホームページより」
靖国神社は、明治2年(1869)6月29日、明治天皇の思し召しによって建てられた東京招魂社が始まりで、明治12年(1879)に「靖国神社」と改称されて今日に至っています。靖国神社は、明治7年(1874)1月27日、明治天皇が初めて招魂社に参拝された折にお詠みになられた「我國の為をつくせる人々の名もむさし野にとむる玉かき」の御製からも知ることができるように、国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊を慰め、その事績を永く後世に伝えることを目的に創立された神社です。「靖国」という社号も明治天皇の命名によるもので、「祖国を平安にする」「平和な国家を建設する」という願いが込められています。靖国神社には現在、幕末の嘉永6年(1853)以降、明治維新、戊辰の役(戦争)、西南の役(戦争)、日清戦争、日露戦争、満洲事変、支那事変、大東亜戦争などの国難に際して、ひたすら「国安かれ」の一念のもと、国を守るために尊い生命を捧げられた246万6千余柱の方々の御霊が、身分や勲功、男女の別なく、すべて祖国に殉じられた尊い神霊(靖国の大神)として斉しくお祀りされています。靖国神社に祀られているのは軍人ばかりでなく、戦場で救護のために活躍した従軍看護婦や女学生、学徒動員中に軍需工場で亡くなられた学徒など、軍属・文官・民間の方々も数多く含まれており、その当時、日本人として戦い亡くなった台湾及び朝鮮半島出身者やシベリア抑留中に死亡した軍人・軍属、大東亜戦争終結時にいわゆる戦争犯罪人として処刑された方々などの御霊も祀られています。
昭和殉難者  「以下、フリー百科事典、ウィキペディアより」
1978年 靖国神社 が死刑及び獄中死の『A級戦犯』14名を「昭和時代の殉難者」として合祀した。靖国に戦死者以外が合祀されることは例外的であった。また、広田弘毅など非軍人を合祀したことでも例外的な措置であった。死亡の理由は「法務死 となっている。
板垣征四郎  梅津美治郎  木村兵太郎  小磯国昭  白鳥敏夫  土肥原賢二  東郷茂徳  東條英機 
永野修身  平沼騏一郎  広田弘毅  松井石根  松岡洋右  武藤章
1994年9月1日付、靖国神社社務所が出した、『英霊の名誉を守るため謝罪国会決議阻止へあなたの声を国会に』との署名要請文
『来年の平成7年、わが国は終戦50周年を迎えますが、今政界では重大な問題が生起しています。それは、終戦50周年に当たる来年の平成7年までに、先のわが国の戦争を「侵略戦争」であったとして、諸外国に反省と謝罪を表明する国会決議を行おうとする計画が着々と進められていることです。かかるこの決議は、世界史上で唯一、我が国のみが戦争責任を負う犯罪国家であることを、国家の意思の表明として内外に宣言することであります。ひいては国家、民族の名誉を傷つけ、国難に殉じた英霊を冒涜し、わが国と国民の将来に重大な禍根を残すことは必死であります。わが国の歴史と国のため尊い命を捧げられた英霊の名誉を守るためにも、私共は、この誤れる歴史観に基づいた『反省と謝罪の国会決議』の強行を絶対に阻止しなければなりません。』
以上から、靖国神社は、創立時より、明治天皇の政府側を正義とし、敵方の徳川支援軍は賊軍として、明治天皇方の戦死者のみを顕彰するものであり、その後の日清日露からアジア太平洋戦争にいたるまで、国家の戦争を、常に正義とするものであるから、戦死を偉業ととらえ、戦死者を英霊とたたえるものである。決して、国家やその戦争を罪過として慙愧したり、否定したりすることはないから、未だかつて靖国神社が、アジア諸外国や国内外の戦死者や遺族に謝罪したということは無い。
 
以下、フリー百科事典『ウィキペディア』より
靖国神社創建当初は軍務官 (直後に兵部省 が所管しBE>、後に内務省 が人事を所管し、陸軍 (陸軍省 ・海軍 (海軍省 が祭事を統括した。1946年(昭和21年)に国の管理を離れ、東京都知事 認証の単立神社 (単立宗教法人)となった。単立神社であるため、神社本庁 との包括関係には属していない。
 
靖国神社を国家護持することとは
 
靖国神社法案
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
靖国神社法案(やすくにじんじゃほうあん)は、靖国神社を国家管理することを規定した日本の法律 案である。
概要
靖国神社法案は、靖国神社を日本政府の管理に移し、国によって戦没者の英霊を慰める儀式・行事を行うこととし、その役員の人事は国が関与し、経費の一部を国が負担及び補助する事を規定している。日本国憲法が規定する宗教分離規定に違反しないようにするため、靖国神社を宗教法人 から特殊法人 にする、神道祭祀の形式において宗教色を薄める、としている。このため、第2条で『この法律において「靖国神社」という名称を用いたのは、靖国神社の創建の由来にかんがみその名称を踏襲したのであつて、靖国神社を宗教団体とする趣旨のものと解釈してはならない。』と、第5条で靖国神社は、特定の教義をもち、信者の教化育成をする等宗教的活動をしてはならない。』と規定している。
靖国神社法案  『1975年、真宗教団連合編集「靖国神社問題」より』
第一条  靖国神社は、戦没者及び国事に殉じた人々の英霊に対する国民の尊崇の念を表すため、その遺徳をしのび、これを慰め、その事績をたたえる儀式行事等を行い、もってその偉業を永遠に伝えることを目的とする。
日本国憲法二〇条 『政教分離、信教の自由』信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教 団体も、国から特権 を受け、又は政治上の権力 を行使してはならない。
1. 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
2. 国及びその機関は、宗教教育 その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
日本国憲法八九条
公金 その他の公の財産は、宗教 上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。
国家管理をめぐる動き  フリー百科事典『ウィキペディア』より
 
「国家管理」に対し、戦友会や日本遺族会 などは、2000万人もの「靖国神社国家護持」を嘆願する署名を集めた。左派 からは、戦前復古であるとして反対論が展開された。他の宗教団体も国が靖国神社を特別視するものだとして反対論が多く表明された。また、宗教法人たる靖国神社自身も、宗教色が薄くなることから反対していた。
靖国神社国家護持に対する現在状況
 
  40年前、1969年 から五度、国家護持法案が出されたが次々に廃案になり、1974年六度目に衆議院で強行採決されたが、参議院で廃案となり、現在にいたる。政教分離の憲法問題もあり、靖国神社を宗教法人から外す案や、靖国神社に祀られているA級戦犯などを外す案や、靖国神社以外に、国立追悼施設の設立などの案が取りざたされている。
靖国神社を国家管理に戻そうとする、「国家護持運動」が過去にはあった。これは政教分離 を定めた日本国憲法 に反するために様々な案が検討された。日本遺族会 会長は「国家護持」のためには法案は靖国神社の非宗教化を約束したものでなければならないと諦め、態度を変えて非宗教化案に応じた。自由民主党 は、1969年6月30日に国家管理化を目指す「靖国神社法案 」を国会 に提出したが、55年体制 下の保革対立の中で廃案となった。以後、1973年 まで5回同法案を提出したが、審議未了により廃案となった。1974年には自由民主党の強行採決 によって衆議院 を通過したが、参議院 で廃案となった。次に自由民主党内で浮上したのが閣僚の参拝である
1985年、靖国神社に総理として始めて公式参拝した中曽根元首相の発言                フリー百科事典『ウィキペディア』より
靖国神社の問題も自民党内で大事に扱われている。いま、内閣で憲法上いかなる問題があり、いかなることが可能か、急ピッチで審議している。その結論をよく見て冷静に判断し、国民世論や各政党の動向や、自民党の大多数の意見を踏まえて判断する。米国にはアーリントン墓地、ソ連にも無名戦士の墓があり、国のために倒れた人に国民が感謝をささげる場所がある。それは当然で、さもなくばだれが国に命をささげるか。
               
小泉元首相靖国神社参拝訴訟
 
以下、「小泉首相靖国参拝違憲アジア訴訟団 大阪訴訟ホームページ最終更新日2006年6月23日」
「小泉首相の靖国神社参拝に対しては,6地裁に10の訴訟が提起され,これまでに高裁を含めて10個の判決が出ている。このうち、憲法判断にまで踏み込んだのは,福岡地裁と大阪高裁(台湾訴訟)の2判決のみであるが,ともに参拝は内閣総理大臣の職務行為に該当するから政教分離原則に違反し,違憲だと明言している。その他の判決は,私たちに精神的被害はないというだけでいきなり請求を棄却し,まったく憲法判断をしなかった。」
 
真宗十派教団連合の態度
靖国神社法案に関する要請  去る五月二十五日靖国神社法案が自由民主党の単独審議の形で、衆議院を通過したことは誠に遺憾であり、真宗教団連合は、この法案を今後速に廃案とされるよう要請します。  理 由 一、  宗教は人間の至奥より発する欲求であり、他の目的の為の手段となるものではありません。故に信教の自由は人格の尊厳を確保する根本条件であります。 一、  亡き人を偲び儀式を行うことは、全く宗教行為であり、現に靖国神社は宗教法人であります。  然るに同法案が、解釈規定によって靖国神社は宗教に非ずとすること自体が強弁であり、国家権力を以って宗教法人としたり、特殊法人としたりすることは憲法の保障する信教の自由を侵すものであります。 一、  靖国神社を特殊法人として、神社の名を冠したまま国家護持を行うことは、国民感情の名においてする道徳と宗教の混同であり、曽て「神社は宗教に非ず」として国家神道を以って超宗教とし、宗教の上に位置づけ、礼拝を強制し、思想統制を行った?(??)みに倣うものであります。
一、  若し、国において、徒に戦争を美化することなく、痛みを以って、戦没者全般に対して、永遠に哀悼の意を表するのであれば、その施設は国民のすべてが、それぞれの信仰・信条に従って、厳粛に礼拝できるような性格のものとすべきであります。
昭和四十九年五月二十八日
真 宗 教 団 連 合
浄土真宗本願寺派総長、神田 寛雄・ 真宗大谷派宗務総長、嶺藤 亮・真宗高田派宗務総長、服部 恭寿
真宗仏 アに日本の戦争観の根底がある。そしてそれは大乗仏教の精神と一致するものである。」
 
1991年9月18日、第11回千鳥ヶ淵全戦没者追悼法要での法話
 
戦死者を英霊とたたえたところに、問題があるのではないでしょうか。そこには、戦争が人間の我欲・罪業であることの慙愧がありません。その反省に立って、私たちは追悼するのです。追悼は仏法へのめざめが伴うものです。
 
拝読「浄土真宗のみ教え」対論その3              
 
「はじめに」
 
一昨年、昨年の拝読「浄土真宗のみ教え」対論の続きである。
前回、述べたように、この対論は、「阿弥陀仏を、実際に、一切を成仏させるという、救済力のある、何らかの不可思議な実体、実在として信仰し、それにお任せして、安心するという、従来及び現在の大多数の信仰」への問題提起である。
そのわけは、従来の浄土真宗教学の根拠が、七祖、宗祖、列祖の教学であり、私は、それに対して、教学根拠を、七祖、宗祖、はるか以前、今からおよそ2千年前、釈尊も説かなかった、三経、ことに作者不明の、大経創作者の思想精神に置こうとしているからである。
そして、この大経創作者の思想精神とは、法蔵菩薩の精神として象徴化された、仏教思想のキーワードの、縁起を基にした、「無我、慈悲、利他、布施」等の思想精神と了解している。
それ故、阿弥陀仏とは、経典創作者による、仏教思想の人格的象徴表現、もしくは、釈尊の人格的永遠化という解釈である。
私は、この大経創作者の思想精神を教学根拠にして、従来の阿弥陀仏信仰教学ではなく、阿弥陀仏の実質としての「無我、慈悲、利他、布施」等の思想精神から、自己と社会を厭い、それゆえの自己と社会の解放と創造の道を学ぼうとするものである。
以上から、引きつづき、この、拝読「浄土真宗のみ教え」への対論として、逐一、対論の文章化を試みてみる。  
残りはまた他日とする。  
対論で変えた文章は文中、斜体とする。
「他力本願」
本文  
他力とは、阿弥陀如来の本願のはたらきであり、これを他力本願という。
他力本願は、如来から私に向けられたはたらきであって、自分の望みを他人まかせにすることではない。 対論    
他力とは、阿弥陀如来の本願と象徴表現された、無我、慈悲等、真実の、虚仮不実への自己同化作用であり、これを他力本願と表現している。
他力本願は、如来と象徴表現された、無我、慈悲等、真実が虚仮不実のを、虚仮不実と自覚、慙愧せしめ、同時に、自覚的に、真実に向かわしめるはたらきであって、自分の望みを他人まかせにすることではない。
本文
阿弥陀如来は四十八の願いを発して仏となられた。
その願いの根本である第十八の願は、「われにまかせよ、わが名を称えよ、浄土に生まれさせて仏にならしめん」という願いである。 対論 阿弥陀如来は四十八の願いを発して仏となられた、と、このように、無我、慈悲等、真実を人格的に象徴表現してある。
その願いの根本である第十八の願は、「一切の衆生を、阿弥陀仏や浄土の真実に目覚ましめ、阿弥陀仏や浄土の真実を願わしめ、阿弥陀仏や浄土の真実に成就せしめん」という願いである。
本文
如来は、私たちを救わんとしてつねに寄り添い、南無阿弥陀仏のよび声となって、われにまかせよと、はたらき続けておられる。
このはたらきを他力といい、本願力というのである。対論  如来は、私たちを救わんとしてつねに寄り添い、南無阿弥陀仏のよび声となって、われをよりどころにせよと、はたらき続けておられる、と、無我、慈悲等の真実をこのように人格的に象徴表現してある。
この真実の、虚仮不実に対する自己同化作用を他力、本願力と表現したのである。本文
阿弥陀如来の本願のはたらきにおまかせして、念仏を申しつつ、如来の慈悲につつまれて、浄土への道を歩ませていただくのである。
対論阿弥陀如来の本願と象徴表現された真実に目覚めて、念仏をつぶやきつつ、如来の慈悲と象徴表現された真実うながされて、浄土への道と象徴表現された、無我、慈悲、利他、布施等、究極の真実の自己実現と究極の境涯実現(往生成仏)に向かう道を歩ませていただくのである。
 
 「如来の呼び声」
本文   
阿弥陀如来は、すべての者を救いたいと願われ、南無阿弥陀仏の名号を完成された。
名号は、如来の智慧と慈悲を円かに具えた、救いのはたらきそのものである。対論阿弥陀如来は、すべての者を救いたいと願われ、南無阿弥陀仏の名号を完成されたと、このように、真実というものの、虚仮への自己同化作用を人格的に象徴表現してある
名号は、如来の智慧と慈悲を円かに具えているとの、真実というものの実質の象徴表現であり、虚仮の自己と世界を真実に自己同化せんとする、真実の作用の象徴表現そのものである。
本文 南無阿弥陀仏は、「必ず救う、われにまかせよ」との阿弥陀如来のよび声である。 如来は、偽りと真実の見分けもつかない凡夫を哀れみ、名号による救いを選び取られた。
如来のみ名は、遍く世界に響きわたり、この真実の救いにまかせよと、よび続けておられる。 そのよび声は、私の称える南無阿弥陀仏の念仏となって、今ここに至りとどいている。
念仏の声を通して、如来の大悲のよび声を聞かせていただく。
対論
南無阿弥陀仏は、「必ず真実に目覚めさせ、救い導く、われをよりどころにせよ」との阿弥陀如来のよび声と、無我、慈悲等の真実の作用を象徴表現してある。 如来は、偽りと真実の見分けもつかない凡夫を哀れみ、名号による救いを選び取られた、と真実の作用を象徴的に表現してある。
如来のみ名は、遍く世界に響きわたり、この真実の救いにめざめよとよび続けておられると真実の作用を象徴表現してある。
 そのよび声と象徴表現されたものからのの真実と虚仮への目覚めは、私のつぶやく南無阿弥陀仏の念仏となって、今ここに実証されている。
念仏の声を通して、如来の大悲のよび声と象徴表現された、真実からのうながしにうなづかされる。
 
 
 
2009/09/08
私の真宗理解と、同朋三者懇、1・往生と本願、2・他力と念仏者の主体、3・煩悩、4・業、宿業
 
 
私の真宗理解
阿弥陀仏や浄土といったものを実体的な実在とは受け止めていない。
阿弥陀仏や浄土といった事柄は、創作者不明の無量寿経に法蔵菩薩の物語として表現されているが、この不明の経典作者が、釈尊滅後約500年、仏教の基本的な思想である、万物個々の無限の相依相関という縁起の道理を踏まえた、無我、慈悲、利他、布施といった思想、精神を伝え、かつ、民衆の生死の不安や諸苦悩救済の方便に、阿弥陀仏として、人格的に、そして、浄土として、場所的に象徴化して表現したものであろうととらえている。
それゆえ、この阿弥陀仏にお任せし、実際この身に起きる事実として、浄土に往生せしめられて、成仏せしめられ、そして又、苦悩のこの世に還って来てみんなを救うことが出来ることと信じられて、安心するというような、いわゆる信仰というものは成立しない。
私にとっては、阿弥陀仏や浄土と象徴的に表現されたものから、究極の無我、慈悲、利他、布施といったものがらを受け止め、逆に自己と世界の根の深い、自己中心性、冷酷性、利己性、収奪性といった虚仮不実性を慙愧し、それゆえにこそ、より、無我、慈悲、利他、布施といった方向に向かう自己と世界創造への自覚的実践性が、どんなに不遇で苦難の多い人生の状況に置かれても、より確かに成立して歩んでゆけるところを真宗における救いと受け止めている。
これは、上記の恩寵的、対象的、二元的、信仰に対して、自覚的、一元的、実践的信心とでもいえよう。
 
上記、私の真宗理解に基く同朋三者懇の以下4テーマへの私見
 
1、往生と本願
往生とは、究極の無我、慈悲、利他、布施といった自己実現としての成仏に向かって、又、究極の無我、慈悲、利他、布施といったものの実現された世界としての浄土に向かって、自覚的、実践的に慙愧と共に生きて往く。
別の言い方では、本来の自己に向かって、或いは、新しい自己に向かって、生まれ変わって往く、脱皮成長し続けて往くということ。
本願とは、法蔵菩薩の、「自ら仏となって、必ず、一切衆生を成仏せしめる」という誓願として表現されているが、実は、これは、私達の命の根源的要求・願心としての自他共に、無我、慈悲、利他、布施といった究極の自己実現への願いを仏願として象徴表現したもの。
水平社綱領の『吾等は人間性の原理に覚醒し、人類最高の完成に向かって突進す。』の誓願に通じると解す。
 
2、他力と念仏者の主体
他力とは、仏力又は法力のことであり、この仏であり、法である究極の無我、慈悲、利他、布施といった最高の精神理念は、逆の自己中心性、冷酷性、利己性、収奪性の虚仮を慙愧せしめる力であり、又、あるべき無我、慈悲、利他、布施といった自己実現と世界の創造に向かって歩もうとうながす力。
念仏者の主体とは、上記、仏法の究極の無我、慈悲、利他、布施といった最高の精神理念への自覚によって、同時に、逆の自己中心性、冷酷性、利己性、収奪性といった虚仮不実の自己と世界を慙愧せしめられ、又、それゆえにこそ、あるべき無我、慈悲、利他、布施といった自己実現と世界の創造に向かって、終生歩まんとする人格実践主体。
 
3、煩悩
『煩悩』とは、真宗聖典では、「惑とも漢訳する。心身を悩ませ煩わせる精神作用の総称」とあるが、それは、我々の命の中に、生物である限り本質的に内在する、食欲、性欲などの本能を含める、我愛・自己中心性につづまる、欲望、意識衝動のすべてを言う。
成仏を目指す、仏教はこの煩悩の克服を課題としているといっていいと思う。
なぜなら、仏とは、この煩悩の完全断滅者であリ、自己中心性、冷酷性、利己性、収奪性の完全離脱者であり、究極の無我、慈悲、利他、布施の完成者であるから。
釈迦は、この煩悩の完全断滅者ということにしてあるが、これはあくまでも、釈迦の超人化表現であり、生身の人間として、完全断滅は不可能と捉えるのが自然である。
親鸞に「不断煩悩得涅槃」という文言がある。
これは、煩悩を断ぜずして、涅槃、すなわち、真実を得ると解釈する。
ここに、欲望、我執の煩悩をかかえながら、この煩悩を克服する世界をうかがうことができる。
これは、完全に、煩悩から解放された、無限の智慧と慈悲の人格主体である阿弥陀如来や、その世界である浄土に究極の真実を覚醒するが故にこそ、逆に、煩悩にからめとられまいとしてもなお、執拗にとらわれて、煩悩からは容易に逃れられぬ不実の自己を悲しみ、又この煩悩の渦巻く不実の人間社会を痛むけれども、決して、どうせどうにもならぬと単純に諦めてしまうようなところに陥ってしまうことなく、どうしょうもないようなわが身とこの世であるけれども、なお、いささかなりともより真実なる自己と世界の創造に向けて、終生歩まんとする自覚的願求主体が成立しているがゆえに、そこのところを、不断煩悩(煩悩を断ぜざれども)、得涅槃(真実を得ている)と言っているのだと受け止める。
 
4、業・宿業
 
業・宿業論のねらい
自己と世界の解放に向かう、あるべき業宿業論「解放の業・宿業論」の構築
身・口・意の行為
共業・・・全生命的、全人類的、歴史的、社会的、組織的、集団的、共同行為の責任総体
不共業・・・自己個人の身・口・意の行為
この共業と不共業とは相関関係にある。
宿業
自己の出生以来の身・口・意の行為の総体、及び、家族、親族、民族、人類の個人的のみならず歴史的、社会的行為の総体、及び、生命の歴史の生存競争の総体
過った、業・宿業論
自己の現実の禍福を、実証不可能な、生まれる前の輪廻転生的な過去世の行為の善悪に起因させて、納得させたり、あきらめさせるもので、生まれてからの自己の責任や、全人類の歴史、社会の関係責任を考慮しない
解放の業・宿業論
  
自己の現実の禍福は、すべて、自己の人生の行為総体の結果、責任であると共に、全人類の、現在と過去の歴史、社会の行為の総体と、全生命の生存競争の歴史の総体であるとうけとめ、殊に、自己、社会の苦悩の原因は、自己、全人類の歴史社会、全生命の我愛、自己中心性、我執、煩悩によるものとし、この我執煩悩への悲歎と、それからの解放への自覚的実践主体を成立させるものこそがあるべき業宿業論「解放の業・宿業論」であるとする
 
拝読「浄土真宗のみ教え」対論その3              
 
「はじめに」
 
一昨年、昨年の拝読「浄土真宗のみ教え」対論の続きである。
前回、述べたように、この対論は、「阿弥陀仏を、実際に、一切を成仏させるという、救済力のある、何らかの不可思議な実体、実在として信仰し、それにお任せして、安心するという、従来及び現在の大多数の信仰」への問題提起である。
そのわけは、従来の浄土真宗教学の根拠が、七祖、宗祖、列祖の教学であり、私は、それに対して、教学根拠を、七祖、宗祖、はるか以前、今からおよそ2千年前、釈尊も説かなかった、三経、ことに作者不明の、大経創作者の思想精神に置こうとしているからである。
そして、この大経創作者の思想精神とは、法蔵菩薩の精神として象徴化された、仏教思想のキーワードの、縁起を基にした、「無我、慈悲、利他、布施」等の思想精神と了解している。
それ故、阿弥陀仏とは、経典創作者による、仏教思想の人格的象徴表現、もしくは、釈尊の人格的永遠化という解釈である。
私は、この大経創作者の思想精神を教学根拠にして、従来の阿弥陀仏信仰教学ではなく、阿弥陀仏の実質としての「無我、慈悲、利他、布施」等の思想精神から、自己と社会を厭い、それゆえの自己と社会の解放と創造の道を学ぼうとするものである。
以上から、引きつづき、この、拝読「浄土真宗のみ教え」への対論として、逐一、対論の文章化を試みてみる。  
残りはまた他日とする。  
対論で変えた文章は文中、斜体とする。
「他力本願」
本文  
他力とは、阿弥陀如来の本願のはたらきであり、これを他力本願という。
他力本願は、如来から私に向けられたはたらきであって、自分の望みを他人まかせにすることではない。 対論    
他力とは、阿弥陀如来の本願と象徴表現された、無我、慈悲等、真実の、虚仮不実への自己同化作用であり、これを他力本願と表現している。
他力本願は、如来と象徴表現された、無我、慈悲等、真実が虚仮不実のを、虚仮不実と自覚、慙愧せしめ、同時に、自覚的に、真実に向かわしめるはたらきであって、自分の望みを他人まかせにすることではない。
本文
阿弥陀如来は四十八の願いを発して仏となられた。
その願いの根本である第十八の願は、「われにまかせよ、わが名を称えよ、浄土に生まれさせて仏にならしめん」という願いである。 対論 阿弥陀如来は四十八の願いを発して仏となられた、と、このように、無我、慈悲等、真実を人格的に象徴表現してある。
その願いの根本である第十八の願は、「一切の衆生を、阿弥陀仏や浄土の真実に目覚ましめ、阿弥陀仏や浄土の真実を願わしめ、阿弥陀仏や浄土の真実に成就せしめん」という願いである。
本文
如来は、私たちを救わんとしてつねに寄り添い、南無阿弥陀仏のよび声となって、われにまかせよと、はたらき続けておられる。
このはたらきを他力といい、本願力というのである。対論  如来は、私たちを救わんとしてつねに寄り添い、南無阿弥陀仏のよび声となって、われをよりどころにせよと、はたらき続けておられる、と、無我、慈悲等の真実をこのように人格的に象徴表現してある。
この真実の、虚仮不実に対する自己同化作用を他力、本願力と表現したのである。本文
阿弥陀如来の本願のはたらきにおまかせして、念仏を申しつつ、如来の慈悲につつまれて、浄土への道を歩ませていただくのである。
対論阿弥陀如来の本願と象徴表現された真実に目覚めて、念仏をつぶやきつつ、如来の慈悲と象徴表現された真実うながされて、浄土への道と象徴表現された、無我、慈悲、利他、布施等、究極の真実の自己実現と究極の境涯実現(往生成仏)に向かう道を歩ませていただくのである。
 
 「如来の呼び声」
本文   
阿弥陀如来は、すべての者を救いたいと願われ、南無阿弥陀仏の名号を完成された。
名号は、如来の智慧と慈悲を円かに具えた、救いのはたらきそのものである。対論阿弥陀如来は、すべての者を救いたいと願われ、南無阿弥陀仏の名号を完成されたと、このように、真実というものの、虚仮への自己同化作用を人格的に象徴表現してある
名号は、如来の智慧と慈悲を円かに具えているとの、真実というものの実質の象徴表現であり、虚仮の自己と世界を真実に自己同化せんとする、真実の作用の象徴表現そのものである。
本文 南無阿弥陀仏は、「必ず救う、われにまかせよ」との阿弥陀如来のよび声である。 如来は、偽りと真実の見分けもつかない凡夫を哀れみ、名号による救いを選び取られた。
如来のみ名は、遍く世界に響きわたり、この真実の救いにまかせよと、よび続けておられる。 そのよび声は、私の称える南無阿弥陀仏の念仏となって、今ここに至りとどいている。
念仏の声を通して、如来の大悲のよび声を聞かせていただく。
対論
南無阿弥陀仏は、「必ず真実に目覚めさせ、救い導く、われをよりどころにせよ」との阿弥陀如来のよび声と、無我、慈悲等の真実の作用を象徴表現してある。 如来は、偽りと真実の見分けもつかない凡夫を哀れみ、名号による救いを選び取られた、と真実の作用を象徴的に表現してある。
如来のみ名は、遍く世界に響きわたり、この真実の救いにめざめよとよび続けておられると真実の作用を象徴表現してある。
 そのよび声と象徴表現されたものからのの真実と虚仮への目覚めは、私のつぶやく南無阿弥陀仏の念仏となって、今ここに実証されている。
念仏の声を通して、如来の大悲のよび声と象徴表現された、真実からのうながしにうなづかされる。
 
 
 
2009/09/08
新・浄土真宗の教章批判
                 
 
はじめに
 
この新・浄土真宗の教章は、従来のものを改訂して、2008年4月15日、本願寺派門主の教示として、門徒に示されたものである。
本山から届けられ、早速、どのようなものであろうかと一読した。
感想は、『これで、本当に、誰にでも心にピンと来るだろうか』という失望であった。
確かに従来の教義を簡潔にまとめようとしたものではあろう。
ところで、従来の教義とは、まず、阿弥陀仏を、色も無く、形も無いといいながら、凡夫の思議を超えてはたらく、何らかの、不可思議な、実在する実体として受容し、それをあてたよりとし、それにお任せし、安心するというようなものではあるまいか。
しかし、こういう真宗理解が、果たして、現代知性にどこまで納得されるか疑問なのである。
従来のこういう真宗理解に対して、阿弥陀仏は、実体ではなく、象徴表現であるとする真宗理解がある。
こういう理解であってこそ、多く、現代知性に受容されうるのではあるまいか。
すると、阿弥陀仏や浄土とは、実体的実在で無いとすれば、何の象徴表現であるかということになる。
私は、これは、究極の、無我、慈悲、利他、布施といった理念の象徴表現ととらえている。
そこで、この度も、こういう阿弥陀仏はじめ浄土も、実体ではなく、無我、慈悲といった理念の、象徴表現であるとする真宗理解から、この新・教章を批判してみるのである。
 
、まず、聖典は、三部経と、正信偈と三帖和讃と御文章とに限定されている。
これは礼拝聖典としても、聖教としても、量が不足している。
それゆえ聖典という言葉を用いず、聖教として、三部経・七祖・宗祖の撰述のみに限定したほうがよいと考える。
それは、覚如、存覚、蓮如はじめ、宗祖以降の撰述は、真俗二諦という教学で、王法為本、仁義為先、世間通途といった封建権力差別社会と一体化した、背宗祖教学であったと考えるからである。
 
、この教章には、釈迦如来が 説かれた「浄土三部経」とある。
これも、史実では、大乗経典は、皆、釈尊滅後の編纂ゆえ、誤解を招かぬためにも、「釈迦如来が説かれた」という文言は不必要。
参考・「原始仏教とは、一般に釈尊時代より部派に分裂するまでの仏教をさすが、この時代には、阿弥陀仏や極楽浄土の観念、あるいはその浄土に往生するという思想は存在しなかった」
本願寺派、教学本部編『伝道』29号・仏教学者・藤田宏達論述
 
、次に、『仏説無量寿経』 『仏説観無量寿経』 『仏説阿弥陀経』と、『仏説』が添えられているが、この『仏説』も上記の理由から不必要。
 
、次に、教義として、「阿弥陀如来の本願力 によって 信心をめぐまれ、 念仏を 申す 人生を 歩み、この世の縁が 尽きるとき 浄土に 生まれて 仏となり、 迷いの 世に 還って 人々を 教化する。」とある。
これを上記、阿弥陀仏を象徴表現として解釈する真宗理解からすれば、
『阿弥陀如来の本願力と象徴的に表現されたものから、究極の無我、慈悲、利他、布施といった真実にめざめ、あわせて、我執煩悩の自己と社会の虚仮不実にめざめ、慙愧する、信心が開かれ、それゆえにこそ、仏を仰ぎ、より真実なる自己と社会の創造に向かう、慙愧と歓喜の発露の 念仏を申す人生を歩み、人生の終焉と共に、(ここからは、実際の事実というのではなく、あるべき当為的理念の世界の味わいとして受け止めるのであるが)命の根源的願求の世界である、真実の世界、すなわち浄土にかえり、真実そのものの主体、すなわち仏となり、現世の我執煩悩の人々を、真実の願いによって永遠に育み導き続ける。』ということになる。
ここで、上記『命の根源的願求の世界である、真実の世界、すなわち浄土云々』のところを説明しておく。
命の根源的欲求なら、『我執煩悩』ということになる。
この『我執煩悩』とは、人間の、動物性の本質と考える。
これに対し、上記『命の根源的願求の世界』とは、人間の、人間性の本質を表現したものである。
上記、『阿弥陀如来の本願力云々〜永遠に育み導き続ける。』の表現は、象徴的に表現されたものから、自己が、真実に目覚めるという、能動的な表現であるが、これを、逆に、象徴的に表現されたものから、自己が、真実に目覚めさせられる、という受動的な表現にすると、
『阿弥陀如来の本願力と象徴的に表現されたものから、究極の無我、慈悲、利他、布施といった真実にめざめさせられ、あわせて、我執煩悩の自己と社会の虚仮不実にめざめさせられ、慙愧させられる、信心が開かれ、それゆえにこそ、仏を仰ぎ、より真実なる自己と社会の創造に向かう、慙愧と歓喜の発露の 念仏を申す人生を歩ましめられ、人生の終焉と共に、(ここからは、実際の事実というのではなく、あるべき当為的理念の世界の味わいとして受け止めるのであるが)命の根源的願求の世界である、真実の世界、すなわち浄土にかえらしめられ、真実そのものの主体、すなわち仏とならしめられ、現世の我執煩悩の人々を、真実の願いによって永遠に育み導き続けしめられる。』ということになる。
 
、次に生活ということで「、親鸞聖人の 教えにみちびかれて、 阿弥陀如来の み心を 聞き、 念仏を 称えつつ、つねにわが 身をふりかえり、 慚愧と 歓喜のうちに、 現世祈祷などにたよることなく、 御恩報謝の 生活を 送る。」とある。
これも、上記、阿弥陀仏を象徴的に解釈する真宗理解からすれば、『親鸞聖人の 教えにみちびかれて、 阿弥陀如来に真実を、そして、自己と社会に虚仮不実を目覚ましめられ、それゆえにこそ、より真実なる自己と社会の実現を願う、慙愧と歓喜の発露の 念仏を 称えつつ、現世祈祷などにたよることなく、御同朋の社会実現への 生活を 送る。』ということになる。
 
、次に、宗門ということで、「この宗門は、 親鸞聖人の 教えを 仰ぎ、 念仏を 申す 人々の 集う 同朋教団であり、 人々に 阿弥陀如来の 智慧と 慈悲を 伝える 教団である。
それによって、 自他ともに 心豊かに 生きることのできる 社会の 実現に 貢献する。」とある。
これも、上記、阿弥陀仏を象徴的に解釈する真宗理解からすれば、『この宗門は、 親鸞聖人の 教えを 仰ぎ、阿弥陀如来に真実を、そして、自己と社会に虚仮不実を自覚せしめられ、それゆえにこそ、より真実なる自己と社会の実現を願う、慙愧と歓喜の発露の 念仏を 称える人々の 集う 同朋教団であり、 人々に 阿弥陀如来の 智慧と 慈悲を 伝道することから、人々にも、慙愧と共に、より真実なる自己と社会の創造に向かう、自覚主体成立を願う教団である。
それによって、自他共に、命や人間の尊厳が侵されない、反戦、反差別といった御同朋の社会の実現に向かって生きて行こうとする。」ということになる。
 
拝読「浄土真宗のみ教え」対論その3              
 
「はじめに」
 
一昨年、昨年の拝読「浄土真宗のみ教え」対論の続きである。
前回、述べたように、この対論は、「阿弥陀仏を、実際に、一切を成仏させるという、救済力のある、何らかの不可思議な実体、実在として信仰し、それにお任せして、安心するという、従来及び現在の大多数の信仰」への問題提起である。
そのわけは、従来の浄土真宗教学の根拠が、七祖、宗祖、列祖の教学であり、私は、それに対して、教学根拠を、七祖、宗祖、はるか以前、今からおよそ2千年前、釈尊も説かなかった、三経、ことに作者不明の、大経創作者の思想精神に置こうとしているからである。
そして、この大経創作者の思想精神とは、法蔵菩薩の精神として象徴化された、仏教思想のキーワードの、縁起を基にした、「無我、慈悲、利他、布施」等の思想精神と了解している。
それ故、阿弥陀仏とは、経典創作者による、仏教思想の人格的象徴表現、もしくは、釈尊の人格的永遠化という解釈である。
私は、この大経創作者の思想精神を教学根拠にして、従来の阿弥陀仏信仰教学ではなく、阿弥陀仏の実質としての「無我、慈悲、利他、布施」等の思想精神から、自己と社会を厭い、それゆえの自己と社会の解放と創造の道を学ぼうとするものである。
以上から、引きつづき、この、拝読「浄土真宗のみ教え」への対論として、逐一、対論の文章化を試みてみる。  
残りはまた他日とする。  
対論で変えた文章は文中、斜体とする。
「他力本願」
本文  
他力とは、阿弥陀如来の本願のはたらきであり、これを他力本願という。
他力本願は、如来から私に向けられたはたらきであって、自分の望みを他人まかせにすることではない。 対論    
他力とは、阿弥陀如来の本願と象徴表現された、無我、慈悲等、真実の、虚仮不実への自己同化作用であり、これを他力本願と表現している。
他力本願は、如来と象徴表現された、無我、慈悲等、真実が虚仮不実のを、虚仮不実と自覚、慙愧せしめ、同時に、自覚的に、真実に向かわしめるはたらきであって、自分の望みを他人まかせにすることではない。
本文
阿弥陀如来は四十八の願いを発して仏となられた。
その願いの根本である第十八の願は、「われにまかせよ、わが名を称えよ、浄土に生まれさせて仏にならしめん」という願いである。 対論 阿弥陀如来は四十八の願いを発して仏となられた、と、このように、無我、慈悲等、真実を人格的に象徴表現してある。
その願いの根本である第十八の願は、「一切の衆生を、阿弥陀仏や浄土の真実に目覚ましめ、阿弥陀仏や浄土の真実を願わしめ、阿弥陀仏や浄土の真実に成就せしめん」という願いである。
本文
如来は、私たちを救わんとしてつねに寄り添い、南無阿弥陀仏のよび声となって、われにまかせよと、はたらき続けておられる。
このはたらきを他力といい、本願力というのである。対論  如来は、私たちを救わんとしてつねに寄り添い、南無阿弥陀仏のよび声となって、われをよりどころにせよと、はたらき続けておられる、と、無我、慈悲等の真実をこのように人格的に象徴表現してある。
この真実の、虚仮不実に対する自己同化作用を他力、本願力と表現したのである。本文
阿弥陀如来の本願のはたらきにおまかせして、念仏を申しつつ、如来の慈悲につつまれて、浄土への道を歩ませていただくのである。
対論阿弥陀如来の本願と象徴表現された真実に目覚めて、念仏をつぶやきつつ、如来の慈悲と象徴表現された真実うながされて、浄土への道と象徴表現された、無我、慈悲、利他、布施等、究極の真実の自己実現と究極の境涯実現(往生成仏)に向かう道を歩ませていただくのである。
 
 「如来の呼び声」
本文   
阿弥陀如来は、すべての者を救いたいと願われ、南無阿弥陀仏の名号を完成された。
名号は、如来の智慧と慈悲を円かに具えた、救いのはたらきそのものである。対論阿弥陀如来は、すべての者を救いたいと願われ、南無阿弥陀仏の名号を完成されたと、このように、真実というものの、虚仮への自己同化作用を人格的に象徴表現してある
名号は、如来の智慧と慈悲を円かに具えているとの、真実というものの実質の象徴表現であり、虚仮の自己と世界を真実に自己同化せんとする、真実の作用の象徴表現そのものである。
本文 南無阿弥陀仏は、「必ず救う、われにまかせよ」との阿弥陀如来のよび声である。 如来は、偽りと真実の見分けもつかない凡夫を哀れみ、名号による救いを選び取られた。
如来のみ名は、遍く世界に響きわたり、この真実の救いにまかせよと、よび続けておられる。 そのよび声は、私の称える南無阿弥陀仏の念仏となって、今ここに至りとどいている。
念仏の声を通して、如来の大悲のよび声を聞かせていただく。
対論
南無阿弥陀仏は、「必ず真実に目覚めさせ、救い導く、われをよりどころにせよ」との阿弥陀如来のよび声と、無我、慈悲等の真実の作用を象徴表現してある。 如来は、偽りと真実の見分けもつかない凡夫を哀れみ、名号による救いを選び取られた、と真実の作用を象徴的に表現してある。
如来のみ名は、遍く世界に響きわたり、この真実の救いにめざめよとよび続けておられると真実の作用を象徴表現してある。
 そのよび声と象徴表現されたものからのの真実と虚仮への目覚めは、私のつぶやく南無阿弥陀仏の念仏となって、今ここに実証されている。
念仏の声を通して、如来の大悲のよび声と象徴表現された、真実からのうながしにうなづかされる。
 
 
 
2009/09/08
煩悩論と信心による主体の確立
    
 
                               
 
『煩悩』とは、真宗聖典では、「惑とも漢訳する。心身を悩ませ煩わせる精神作用の総称」とあるが、それは、我々の命の中に、生物である限り本質的に内在する、食欲、性欲などの本能を含める、自己中心性につづまる、意識衝動のすべてを言うのであろう。
また、人間は、この煩悩と同じく命の中に、個々人その作用において個人差はあろうが、『理性』というものがあって、この煩悩を否定的にとらえ、より自己中心性から解放され、より利他的に生きようとすることにつづまるものも保持していると考えられる。
この理性というものは、『人間性』とか『霊性』とか『良心』とか言うものと通じているように思う。
仏教で言う『仏性』にも通じるのではあるまいか。
この仏性を自覚して主体化した心を『発心』とか『道心』とか『求道心』とか『発菩提心』とか言っているのではあるまいか。
『信心』というものとの本質的な関連性を思う。
又、無自性仏性という考え方がある。
これは、すべて、本来固定した不変の自性というものがあるというのではなく、すべて、凡夫にも、菩薩にも 仏にも、なんにでもなりうる可能性としての自性を持っているということで、無自性こそ仏にもなりうる可能性としての、仏性といえるという考え方のようである。
私は、人間の自性というものを、この無自性という考え方でも理解できるが、さらに、上記、自己中心性につづまるものとしての『煩悩性』とそれに反して、利他的に生きようとするものとしての『理性』『仏性』という相矛盾するものを同時に内在している性質とも考えるものである。
人間は、皆、大なり小なり、この煩悩と理性の間で苦悩する動物であると思える。
次に『信心』というものを考える。
信心とは、「願作仏の心はこれ度衆生のこころなり、度衆生の心はこれ利他真実の信心なり」との宗祖の和讃からうかがうことができる。
つまり、如来や浄土から真実なるものを感得した証として、反如来・反浄土的自己と社会の不実を悲歎し、それゆえにこそ究極の真実の人格、(仏)と究極の真実の世界(浄土)を願う心、さらに、万人への救済心(度衆生心)すなわち(菩提心)が生ずるがゆえに、万人の内面にも同じく菩提心が生ずることを願う心を宗祖は信心といわれるのではないか。
とすると、信心とは、上記煩悩による、自己中心的生き方と自己中心的な世界を否定的に悲歎しつつ、同時に自己中心性からより解放される理性的生き方とそういう自己中心性からより解放される理性的世界を自覚的に選び取って生きようとする主体が確立してゆくことといえるのではないか。
ここを、『不断煩悩得涅槃』という世界だと解釈する。
私にとって、仏法を学ぶ縁によって、個人的には、どこまで自己変革できているか恥ずかしい限りであるが、私のからまれている性・地位・学歴等の差別性や、対社会的には、部落差別や靖国問題が避けられない課題となり、さらにより課題が大きく広がってきたと思える。
教団では、門主制・院号・等々、社会では天皇制、軍備、死刑、原発等々あらゆる人権問題、戦争問題が避けられなくなってきている。
 
 
拝読「浄土真宗のみ教え」対論その3              
 
「はじめに」
 
一昨年、昨年の拝読「浄土真宗のみ教え」対論の続きである。
前回、述べたように、この対論は、「阿弥陀仏を、実際に、一切を成仏させるという、救済力のある、何らかの不可思議な実体、実在として信仰し、それにお任せして、安心するという、従来及び現在の大多数の信仰」への問題提起である。
そのわけは、従来の浄土真宗教学の根拠が、七祖、宗祖、列祖の教学であり、私は、それに対して、教学根拠を、七祖、宗祖、はるか以前、今からおよそ2千年前、釈尊も説かなかった、三経、ことに作者不明の、大経創作者の思想精神に置こうとしているからである。
そして、この大経創作者の思想精神とは、法蔵菩薩の精神として象徴化された、仏教思想のキーワードの、縁起を基にした、「無我、慈悲、利他、布施」等の思想精神と了解している。
それ故、阿弥陀仏とは、経典創作者による、仏教思想の人格的象徴表現、もしくは、釈尊の人格的永遠化という解釈である。
私は、この大経創作者の思想精神を教学根拠にして、従来の阿弥陀仏信仰教学ではなく、阿弥陀仏の実質としての「無我、慈悲、利他、布施」等の思想精神から、自己と社会を厭い、それゆえの自己と社会の解放と創造の道を学ぼうとするものである。
以上から、引きつづき、この、拝読「浄土真宗のみ教え」への対論として、逐一、対論の文章化を試みてみる。  
残りはまた他日とする。  
対論で変えた文章は文中、斜体とする。
「他力本願」
本文  
他力とは、阿弥陀如来の本願のはたらきであり、これを他力本願という。
他力本願は、如来から私に向けられたはたらきであって、自分の望みを他人まかせにすることではない。 対論    
他力とは、阿弥陀如来の本願と象徴表現された、無我、慈悲等、真実の、虚仮不実への自己同化作用であり、これを他力本願と表現している。
他力本願は、如来と象徴表現された、無我、慈悲等、真実が虚仮不実のを、虚仮不実と自覚、慙愧せしめ、同時に、自覚的に、真実に向かわしめるはたらきであって、自分の望みを他人まかせにすることではない。
本文
阿弥陀如来は四十八の願いを発して仏となられた。
その願いの根本である第十八の願は、「われにまかせよ、わが名を称えよ、浄土に生まれさせて仏にならしめん」という願いである。 対論 阿弥陀如来は四十八の願いを発して仏となられた、と、このように、無我、慈悲等、真実を人格的に象徴表現してある。
その願いの根本である第十八の願は、「一切の衆生を、阿弥陀仏や浄土の真実に目覚ましめ、阿弥陀仏や浄土の真実を願わしめ、阿弥陀仏や浄土の真実に成就せしめん」という願いである。
本文
如来は、私たちを救わんとしてつねに寄り添い、南無阿弥陀仏のよび声となって、われにまかせよと、はたらき続けておられる。
このはたらきを他力といい、本願力というのである。対論  如来は、私たちを救わんとしてつねに寄り添い、南無阿弥陀仏のよび声となって、われをよりどころにせよと、はたらき続けておられる、と、無我、慈悲等の真実をこのように人格的に象徴表現してある。
この真実の、虚仮不実に対する自己同化作用を他力、本願力と表現したのである。本文
阿弥陀如来の本願のはたらきにおまかせして、念仏を申しつつ、如来の慈悲につつまれて、浄土への道を歩ませていただくのである。
対論阿弥陀如来の本願と象徴表現された真実に目覚めて、念仏をつぶやきつつ、如来の慈悲と象徴表現された真実うながされて、浄土への道と象徴表現された、無我、慈悲、利他、布施等、究極の真実の自己実現と究極の境涯実現(往生成仏)に向かう道を歩ませていただくのである。
 
 「如来の呼び声」
本文   
阿弥陀如来は、すべての者を救いたいと願われ、南無阿弥陀仏の名号を完成された。
名号は、如来の智慧と慈悲を円かに具えた、救いのはたらきそのものである。対論阿弥陀如来は、すべての者を救いたいと願われ、南無阿弥陀仏の名号を完成されたと、このように、真実というものの、虚仮への自己同化作用を人格的に象徴表現してある
名号は、如来の智慧と慈悲を円かに具えているとの、真実というものの実質の象徴表現であり、虚仮の自己と世界を真実に自己同化せんとする、真実の作用の象徴表現そのものである。
本文 南無阿弥陀仏は、「必ず救う、われにまかせよ」との阿弥陀如来のよび声である。 如来は、偽りと真実の見分けもつかない凡夫を哀れみ、名号による救いを選び取られた。
如来のみ名は、遍く世界に響きわたり、この真実の救いにまかせよと、よび続けておられる。 そのよび声は、私の称える南無阿弥陀仏の念仏となって、今ここに至りとどいている。
念仏の声を通して、如来の大悲のよび声を聞かせていただく。
対論
南無阿弥陀仏は、「必ず真実に目覚めさせ、救い導く、われをよりどころにせよ」との阿弥陀如来のよび声と、無我、慈悲等の真実の作用を象徴表現してある。 如来は、偽りと真実の見分けもつかない凡夫を哀れみ、名号による救いを選び取られた、と真実の作用を象徴的に表現してある。
如来のみ名は、遍く世界に響きわたり、この真実の救いにめざめよとよび続けておられると真実の作用を象徴表現してある。
 そのよび声と象徴表現されたものからのの真実と虚仮への目覚めは、私のつぶやく南無阿弥陀仏の念仏となって、今ここに実証されている。
念仏の声を通して、如来の大悲のよび声と象徴表現された、真実からのうながしにうなづかされる。
 
 
 
2006/09/14

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Last updated: 2012/9/5

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