拝読「浄土真宗のみ教え」対論1
はじめに
2009年7月、本願寺派は、今までの「御文章」「領解文」の精神を受け継ぎながら、現代的な表現の文章を作り、それを拝読、拝聴しょうということで、この、拝読「浄土真宗のみ教え」が刊行された。
私は、かねてより、宗祖以降の教学は、真俗二諦教学で、虚仮なる世間を容認してしまった、背宗祖教学であったと批判している。
それゆえ、この、拝読「浄土真宗のみ教え」がいくら現代的表現をとろうとも、「御文章」や、「領解文」というものを踏まえるものである限り、受容出来ない。
それは、今も昔も変わらず、阿弥陀仏を実際に救済力のある、何らかの実体として信じ、それにお任せして、安心するという信仰であるがゆえである。
持論であるが、阿弥陀仏を実体視せず、「無我、慈悲等、真実」の象徴として、そこから、自己と社会を厭い、それゆえの解放と創造の道を学ぼうとする教学からはとても受容出来ないのである。
そこで、この、拝読「浄土真宗のみ教え」への対論として、私なりに、逐一、対論の文章化を試みてみる。
残りはまた他日とする。
対論で変えた文章は文中、太字とする。
浄土真宗の救いのよろこび
本文 「阿弥陀如来の本願は かならず救うまかせよと 南無阿弥陀仏のみ名となり たえず私によびかけます。」
対論 「阿弥陀如来の本願は 必ず導く、目覚めよと 南無阿弥陀仏のみ名となり たえず私によびかけます。」
本文 「この呼び声を聞きひらき 如来の救いにまかすとき 永遠に消えない灯火が 私の心にともります。」
対論 「この呼び声を聞きひらき 如来の真実に目覚めるとき 永遠に消えない灯火が 私の心にともります。」
本文 「如来の大悲に生かされて 御恩報謝のよろこびに 南無阿弥陀仏を称えつつ 真実の道を歩みます」
対論 「如来の大悲にうながされ 不退の道のよろこびに 南無阿弥陀仏をつぶやきつ 真実の道を歩みます」
本文 「この世の縁の尽きるとき 如来の浄土に生まれては さとりの智慧をいただいて あらゆるいのちを救います」
対論 「この世の縁の尽きるとき 如来の浄土に往生成仏し 智慧と慈悲を円備して あらゆるいのちを導きます」
本文 「宗祖親鸞聖人が 如来の真実を示された 浄土真宗のみ教えを 共によろこび広めます」
対論 「宗祖親鸞聖人が 如来の真実を示された 浄土真宗のみ教えを 共にうなずき広めます」
人生そのものの問い
本文 「(中略)(いったい何のために生きているのか)(死んだらどうなるのか)。この問いには、人間の知識は答えを示せず、積み上げてきた経験も役には立たない。」
対論 「(中略)(いったい何のために生きているのか)(死んだらどうなるのか)。これに続く「この問いには、人間の知識は答えを示せず、積み上げてきた経験も役には立たない。」の文章であるが、この問いに、知識や経験で解決している人もあるので削除する。
ごく常識的には、生物としては、個体と種族保存のために生きているのであり、人間としては、各個人、何らかの願望のために生きているということであろう。
死んだら、元素や分子に分散するということであろう。
真宗の受け止めは、こういう科学的なものではなく、真実と虚妄に関する、生と死の受容である。
本文 「必ずあなたを救いとる」という如来の本願は、煩悩の闇に惑う人生の大いなる灯火となる。
この灯火をたよりとする時、「何のために生きているのか」「死んだらどうなるのか」、この問いに確かな答えが与えられる。
対論 「必ず一切衆生を往生成仏させる」という如来の本願は、煩悩の闇に惑う人間と社会の大いなる灯火となる。
この灯火を羅針盤とする時、「何のために生きているのか」「それは、我執煩悩のわが身とわが世を厭いつつ、自他共に往生成仏という、究極の無我、慈悲、利他、布施の自己実現に向かわしめられ、無我、慈悲、利他、布施をふまえた、同朋社会の創造に向かわしめられて生きているのだ」「死んだらどうなるのか」「それは、言うまでもなく、実際に、この身に起きる事実ではなく、法義上の味わいとして、往生成仏せしめられ、大智、大悲をもって、この虚仮不実の世界に還って来て、永遠に、一切衆生を往生成仏道へと向かわしめる」という確かな答えが与えられる。
凡夫
本文 「(中略)仏法に出会うとき、煩悩に満ちみちている凡夫は、他の誰のことでもなく、この私のことと気づかされる。
念仏申すひぐらしの中に、ありのままの私の姿を見せていただく。
対論 「(中略)仏法に出会うとき、煩悩に満ちみちている凡夫は、他の誰のことでもなく、この私のことと気づかされる。さらに穢土とは、権力者も、民衆もみんな我執煩悩によって支配し、支配され、人間の尊厳と平等が侵される、闘争と差別の政治社会であると気づかされる。
念仏つぶやくひぐらしの中に、我執煩悩のままの私の姿と虚仮不実の社会が厭わしめられ、それゆえにこそ、あるべき自己と社会の実現を願わしめられる。
拝読「浄土真宗のみ教え」対論その2
「はじめに」
昨年の拝読「浄土真宗のみ教え」対論の続きである。
前回、述べたように、この、拝読「浄土真宗のみ教え」は、2009年7月、本願寺派が、今までの「御文章」「領解文」の精神を受け継ぎながら、現代的な表現の文章を作り、それを拝読、拝聴しょうということで刊行されたものである。
同じく、私は、かねてより、宗祖以降の教学は、宗祖に有った、権力支配差別社会を厭い、同朋社会を願う姿勢を喪失して、世間通途教学で、虚仮なる世間を容認してしまった、背宗祖教学であったと批判していることも述べた。
それゆえ、この、拝読「浄土真宗のみ教え」がいくら現代的表現をとろうとも、「御文章」や、「領解文」というものを踏まえるものである限り、受容出来ないということも述べた。
そのことは、今も昔も変わらず、阿弥陀仏を実際に救済力のある、何らかの実体として信じ、それにお任せして、安心するという信仰への批判であることも述べた。
今回、さらに、こだわってその理由を詳述する。
それは端的に言えば、従来及び現在の大多数の教学との教学根拠の違いである。
従来及び現在の大多数の浄土真宗教学の根拠といえばいわゆる、七祖、宗祖、列祖の教学ということであろう。
そしてこの七租、宗祖、列祖の教学というのは、三経は、釈尊の直説と信じ、阿弥陀仏は、色や形を超えてなお実在するものとして疑うべくもなく信仰するという信仰の教学ということになろう。
ところが言うまでもなく「原始仏教とは、一般に釈尊時代より部派に分裂するまでの仏教をさすが、この時代には、阿弥陀仏や極楽浄土の観念、あるいはその浄土に往生するという思想は存在しなかった」という
本願寺派、教学本部編『伝道』29号・仏教学者・藤田宏達氏の論述のように、現代は、三経を釈尊直説とする時代ではない。
とすれば、三経は、釈尊滅後、無名の、個人か集団による、創作だということになる。
とすれば、阿弥陀仏も、実体でも実在でもないということになる。
つまりは、阿弥陀仏とは、経典創作者による、仏教思想の人格的象徴表現、もしくは、釈尊の人格的永遠化というのが妥当であろう。
とすれば、もはや、七祖、宗祖、列祖にある、阿弥陀仏実体信仰に基く教学、そしてそれを今も引き継いでいる、現在の信仰教学は破綻せざるをえまい。
これは、宗祖といえども、七祖時代からの釈尊直説経典信奉という歴史的制約上致し方ないものであろう。
以上から、私の教学根拠とするのは、七祖、宗祖ではなく、七祖、宗祖をさかのぼることはるか以前の三経、ことに大経創作者の思想ということになる。
そして、この大経創作者の思想とは、法蔵菩薩の精神として象徴化された、「無我、慈悲、利他、布施」等の思想だと了解している。
私は、この大経創作者の思想を教学根拠にして、従来の阿弥陀仏信仰教学ではなく、阿弥陀仏の実質としての「無我、慈悲、利他、布施」等の思想から、自己と社会を厭い、それゆえの自己と社会の解放と創造の道を学ぼうとするものである。
それゆえ、宗祖には明確にあった、世をいとうしるしとしての権力支配差別社会相対化と同朋社会実現への姿勢は当然是認できても、世間通途、真俗二諦で世俗に埋没した列祖の教学は受容出来ないのである。
ここで、念のため、申しておくが、阿弥陀仏を実在、実体視せず、信仰しないからといっても、阿弥陀仏を情緒的に味わえることまでも否定するものではない。
前置きが長くなってしまったが、引きつづき、この、拝読「浄土真宗のみ教え」への対論として、私なりに、逐一、対論の文章化を試みてみる。 残りはまた他日とする。 対論で変えた文章は文中、斜体とする。
「真実の教え」
本文 あらゆる者を救いとる教えこそ真実の教え、究極の教えである。
対論 あらゆる者を救いとるとの象徴的表現から無我、慈悲、利他、布施等の真実にめざましめ、さらに自己と社会の虚仮に目覚ましめ、同時に、自己実現・解放(成仏)・社会解放に向かわしめる教えこそ真実の教え、究極の教えである。
本文 この経が説かれるとき、釈尊のお顔は、いまだかつてないほどに悦びにあふれ、気高く光り輝いておられた。 あらゆるものを救いとる阿弥陀如来の本願を説くことこそ、釈尊がこの世に出られた目的だったからである。
対論 この経が説かれるとき、釈尊のお顔は、いまだかつてないほどに悦びにあふれ、気高く光り輝いておられたと「経」の崇高なことを経典創作者は、象徴的に表現している。あらゆるものを救いとる阿弥陀如来の本願を説くことこそ、釈尊がこの世に出られた目的だったからであるという象徴的表現によって、経典創作者は、釈尊の教説すなわち仏法の本質は、無我、慈悲等への万人の自己実現・解放(成仏)と社会解放であることを、教示している。
「限りなき光と命の仏」
本文 阿弥陀如来は、その限りない光をもって、あらゆる世界を照らし、私たちを摂め取ってくださる。
その限りない寿をもって、あらゆる時代を貫き、私たちを救いとってくださる。
対論 阿弥陀如来は、その限りない光をもって、あらゆる世界を照らし、私たちを摂め取ってくださる。
その限りない寿をもって、あらゆる時代を貫き、私たちを救いとってくださる。という象徴表現によって、経典創作者は、真実というものは、虚仮を照破し、一切を永遠に包摂し、虚仮なる主体を真実の自己実現・解放(成仏)せしめ、虚仮なる世間を完全解放に向かわしめるものであるということを教示している。
本文 たとえ私たちがその救いに背を向けようとも、摂め取って捨てないと、どこまでもはたらき続ける仏がおられる。その仏を阿弥陀如来と申し上げるのである。
対論 たとえ私たちがその救いに背を向けようとも、摂め取って捨てないと、どこまでもはたらき続ける仏がおられる。その仏を阿弥陀如来と申し上げるのである。と経典創作者は、真実とは、真実に違背するものを永遠に包摂し、慈育し、真実に自己同化(成仏)せしめるものということを、教示するために、人格的に象徴化して阿弥陀仏と表現した。
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