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論述
阿弥陀仏信仰を清算した、阿弥陀仏解釈による平和運動考
  
 
だいたい、阿弥陀仏というものを、何らかの不可思議なる、働きを持つ実在として信仰し、それをあてたよりとし、それにおまかせするというような、いわゆる、二元的、実体的、対象的、恩寵的信仰というのは、もはや阿弥陀仏関連経典が、釈尊も説かなかった、釈尊滅後約500年の無名の作者による創作であることが判明している現代、こういう依存的信仰は清算されるべき時がすでに来ているはずである。
上述の再確認であるが、「阿弥陀仏の所在根拠は人間の理性の中か?人間の理性を超えたものか?」につて少し論じてみる。
阿弥陀仏と表現された「無我、慈悲、利他、布施」といった究極の人格、精神というものは、経典作者の理性による考案の所産(観念理念)ではあるが、ところが実際、経典作者は阿弥陀仏そのものではなく、当然、阿弥陀仏ではないがゆえに、阿弥陀仏の慈悲というものにしても、あるていど観念理念の範囲では捉えることは出来ても、阿弥陀仏そのものの大慈悲の実質というものは、如何にそれを考案した経典作者といえども、阿弥陀仏そのものではないので、絶対に理性でとらえきれぬと言える。
たとえば、ある理性的に鋭敏な人があったとして、その人がいかに理性を研ぎ澄ませて、親心というものを何万言用いて論じようとも、その人が一度も子を持ち育てたことがなければ、つまり親というものになったことがなければ、やはり、親心というものは、その人には、本当には捉えることが出来ないということと同じと思える。
そういう意味で、阿弥陀仏の実質は理性のとらえを超えているということが出来ると思える。
誤解のないように再確認するが、いくら阿弥陀仏の実質は理性を超えているからといっても、阿弥陀仏は、自己の外に超越的に何らかの形で、実在するものではないことを明確にしておきたいと思う。
阿弥陀仏とは、究極の、無我、慈悲、利他、布施といったものの人格的象徴といったところで、やはり阿弥陀仏の所在は、経典作者の理性の所産ということと考える。
そしてここに立脚して初めて、一元的、象徴的、自覚的、主体的にとらえられる、自己と社会の解放に向かう原理としての阿弥陀仏解釈というものが成立すると考えられる。
ここは、こういう阿弥陀仏解釈を契機にした、万人の人間性の原理、理念である真実そのものと、自己と社会のあらゆる苦悩の解放の原理と実践道への覚醒の世界である故に、仏教、真宗という、宗教の枠を超えた人類普遍の道でもあることを確認したいと思う。
水平社綱領にある、「吾等は人間性の原理に覚醒し、人類最高の完成に向かって突進す」に通底するものと考える。
以上から、従来の、いわゆる、なんらかの実在としての阿弥陀仏信仰では、その信仰ということに比重がかかり、反戦平和運動や、人権差別に取り組む運動というのは二の次になりやすいと考える。
そういうところで、阿弥陀仏信仰を清算した、阿弥陀仏解釈というものにおいてこそ、阿弥陀仏が、自己と社会解放の原理となり、それゆえにこそ反靖国等、平和運動の原理となり、そのエネルギーにもなると考えるのである。
次に、われわれの平和運動のキーワードに『兵戈無用』という無量寿経の文言がある。
言うまでも無かろうが、これは、断じて兵器を一切持たぬということである。
断じて、抑止のためには持つが、ただ、用いないだけだというようなまやかし論ではない。
次に、戦争回避ということを考えれば、甚だ絶望的だが、まず、何より、平素から、有事にならぬように、コスタリカの如く、無軍備、永世中立、教育立国で諸外国と信頼、人権和平、互恵外交をしておく事の大事を上記「兵戈無用」から切に思う。
だが、それでも、なお、武力攻撃を受けた時、非は向こうにある故、いたずらに、交戦して、殺傷の加害、被害の増大をもたらすより、国連、国際世論に訴えて、非暴力で殺傷の被害を止めるべき事をも思う。
そして、たとえ殺され全滅しても、釈迦族やガンジー(その差別性は是認できぬが)の如く、非暴力不服従で、自分たちは、殺すことはなかったという崇高な道に永遠に生きたいと思うのである。
次に、われわれの反戦平和運動の基本をここであらためて確かめたい。
それはひとえに、われわれ万人の内面に
「自他の欲望我執煩悩のみならず、国家・およびその権力・民族等各種集団の欲望我執煩悩を痛みつつ、この我執煩悩からの解放を願って生きようとする」ことを、真に、自覚的に、主体的に、とにかくいかなることがあっても、終生この願いによって生きてゆこうとする確かな自覚が、真に成立しうるか否かということに尽きると考える。
この自覚が確かに成立することと、質量共に充実した運動の展開とは相関関係にあると思える。
この自覚が不確かである限り、真の運動たりえぬことを自ら省みて慙愧をこめてそう思う。
 
拝読「浄土真宗のみ教え」対論その3              
 
「はじめに」
 
一昨年、昨年の拝読「浄土真宗のみ教え」対論の続きである。
前回、述べたように、この対論は、「阿弥陀仏を、実際に、一切を成仏させるという、救済力のある、何らかの不可思議な実体、実在として信仰し、それにお任せして、安心するという、従来及び現在の大多数の信仰」への問題提起である。
そのわけは、従来の浄土真宗教学の根拠が、七祖、宗祖、列祖の教学であり、私は、それに対して、教学根拠を、七祖、宗祖、はるか以前、今からおよそ2千年前、釈尊も説かなかった、三経、ことに作者不明の、大経創作者の思想精神に置こうとしているからである。
そして、この大経創作者の思想精神とは、法蔵菩薩の精神として象徴化された、仏教思想のキーワードの、縁起を基にした、「無我、慈悲、利他、布施」等の思想精神と了解している。
それ故、阿弥陀仏とは、経典創作者による、仏教思想の人格的象徴表現、もしくは、釈尊の人格的永遠化という解釈である。
私は、この大経創作者の思想精神を教学根拠にして、従来の阿弥陀仏信仰教学ではなく、阿弥陀仏の実質としての「無我、慈悲、利他、布施」等の思想精神から、自己と社会を厭い、それゆえの自己と社会の解放と創造の道を学ぼうとするものである。
以上から、引きつづき、この、拝読「浄土真宗のみ教え」への対論として、逐一、対論の文章化を試みてみる。  
残りはまた他日とする。  
対論で変えた文章は文中、斜体とする。
「他力本願」
本文  
他力とは、阿弥陀如来の本願のはたらきであり、これを他力本願という。
他力本願は、如来から私に向けられたはたらきであって、自分の望みを他人まかせにすることではない。 対論    
他力とは、阿弥陀如来の本願と象徴表現された、無我、慈悲等、真実の、虚仮不実への自己同化作用であり、これを他力本願と表現している。
他力本願は、如来と象徴表現された、無我、慈悲等、真実が虚仮不実のを、虚仮不実と自覚、慙愧せしめ、同時に、自覚的に、真実に向かわしめるはたらきであって、自分の望みを他人まかせにすることではない。
本文
阿弥陀如来は四十八の願いを発して仏となられた。
その願いの根本である第十八の願は、「われにまかせよ、わが名を称えよ、浄土に生まれさせて仏にならしめん」という願いである。 対論 阿弥陀如来は四十八の願いを発して仏となられた、と、このように、無我、慈悲等、真実を人格的に象徴表現してある。
その願いの根本である第十八の願は、「一切の衆生を、阿弥陀仏や浄土の真実に目覚ましめ、阿弥陀仏や浄土の真実を願わしめ、阿弥陀仏や浄土の真実に成就せしめん」という願いである。
本文
如来は、私たちを救わんとしてつねに寄り添い、南無阿弥陀仏のよび声となって、われにまかせよと、はたらき続けておられる。
このはたらきを他力といい、本願力というのである。対論  如来は、私たちを救わんとしてつねに寄り添い、南無阿弥陀仏のよび声となって、われをよりどころにせよと、はたらき続けておられる、と、無我、慈悲等の真実をこのように人格的に象徴表現してある。
この真実の、虚仮不実に対する自己同化作用を他力、本願力と表現したのである。本文
阿弥陀如来の本願のはたらきにおまかせして、念仏を申しつつ、如来の慈悲につつまれて、浄土への道を歩ませていただくのである。
対論阿弥陀如来の本願と象徴表現された真実に目覚めて、念仏をつぶやきつつ、如来の慈悲と象徴表現された真実うながされて、浄土への道と象徴表現された、無我、慈悲、利他、布施等、究極の真実の自己実現と究極の境涯実現(往生成仏)に向かう道を歩ませていただくのである。
 
 「如来の呼び声」
本文   
阿弥陀如来は、すべての者を救いたいと願われ、南無阿弥陀仏の名号を完成された。
名号は、如来の智慧と慈悲を円かに具えた、救いのはたらきそのものである。対論阿弥陀如来は、すべての者を救いたいと願われ、南無阿弥陀仏の名号を完成されたと、このように、真実というものの、虚仮への自己同化作用を人格的に象徴表現してある
名号は、如来の智慧と慈悲を円かに具えているとの、真実というものの実質の象徴表現であり、虚仮の自己と世界を真実に自己同化せんとする、真実の作用の象徴表現そのものである。
本文 南無阿弥陀仏は、「必ず救う、われにまかせよ」との阿弥陀如来のよび声である。 如来は、偽りと真実の見分けもつかない凡夫を哀れみ、名号による救いを選び取られた。
如来のみ名は、遍く世界に響きわたり、この真実の救いにまかせよと、よび続けておられる。 そのよび声は、私の称える南無阿弥陀仏の念仏となって、今ここに至りとどいている。
念仏の声を通して、如来の大悲のよび声を聞かせていただく。
対論
南無阿弥陀仏は、「必ず真実に目覚めさせ、救い導く、われをよりどころにせよ」との阿弥陀如来のよび声と、無我、慈悲等の真実の作用を象徴表現してある。 如来は、偽りと真実の見分けもつかない凡夫を哀れみ、名号による救いを選び取られた、と真実の作用を象徴的に表現してある。
如来のみ名は、遍く世界に響きわたり、この真実の救いにめざめよとよび続けておられると真実の作用を象徴表現してある。
 そのよび声と象徴表現されたものからのの真実と虚仮への目覚めは、私のつぶやく南無阿弥陀仏の念仏となって、今ここに実証されている。
念仏の声を通して、如来の大悲のよび声と象徴表現された、真実からのうながしにうなづかされる。
 
 
 
2005/09/15
戦後60年雑感
戦後60年雑感                       
 
真宗遺族会に加入しておよそ20年
今、積極的な活動をしていないことを申し訳なく思っている。
私なりに、やってはいるつもりだが・・・。
なぜ真宗遺族会に加入したのだったか?
その主たるわけは、自分なりに、かつての戦争をどう考えても是認できなかったということだろう。
その根拠は?
仏教徒であるからという以前に、単純に、やはり、自分も、人にも殺させたくないし、殺されたくないということか。
殺し殺されるということがいやなんだ。
だがまてよ、戦争当時も、今でも、そんなことは誰だって思わないものはいなかったし、今もいないだろう。
が、しかし、そのことを自分の主体をかけて、いのちをかけて、心から思い願い生きる人というのが少ないのだろう。
戦時中、本当に、いのちをかけて戦争に反対した人というのは、ごく少数と思えるから。
この私だって、戦争当時、反戦に、本当にいのちをはれたかどうか?
いや、今だって?
意気地なしで、保身のために、戦争推進に旗を振るかも知れぬ。
殺すな、殺されるな、だから死刑もやめろではあるのだが。
物を公平に分かち合って、助け合って、尊敬しあって、殺さず、奪い合わず、格差なく生きられるなら、原始生活でも結構だと思いたくなる。
しかし、その思いが、その感性が、その思想が、どこまで本物なのだ?
机上の思いで、身が動かねば「ウソ」ということか?
また、外に平和、人権といいつつ、身の回りの人にどれだけ、心深く配慮ができているというのだ。
慙愧にたえぬし、居直るつもりはないが、どうしょうもないものはどうしょうもない。
そのざまの中で、やはり、殺したくない、殺されたくないと思うから、やはり、自分の身の丈のところで、言えるところで言い、やれるところでやってゆくということか。
われわれとしては、反靖国、反天皇制、反戦、反軍事力とのろしを上げつつ、
【所詮この世は闘争よ、軍事力を持たずして、何が国家か、何が国防か】という人たちに対し、
【されど、されども、共に生きようとせず、共に分かち合おうとせずして、何が人間か、殺しあって、奪い合って、何が国家か、何が国防か】ということをいかにしてわかってもらえるかというのがわれわれの最大の課題と思える。
以下は、縁あって、ふとものした反戦遺言である。
 
あなた(子供たち)への手紙(遺言)  父(ペンネーム獏)より
 
戦争回避には、甚だ絶望的だが、まず、何より、平素から、有事にならぬように、コスタリカの如く、無軍備、永世中立、教育立国で諸外国と信頼、人権和平、互恵外交をしておく事。
だが、それでも、なお、武力攻撃を受けた時、非は向こうにある故、いたずらに、交戦して、殺傷の加害、被害の増大をもたらすより、国連、国際世論に訴えて、非暴力で殺傷の被害を止める事。
たとえ殺され全滅しても、釈迦族やガンジー(その差別性は是認できぬが)の如く、非暴力不服従で、自分たちは、殺すことはなかったという崇高な道に永遠に生きて欲しい。
 
拝読「浄土真宗のみ教え」対論その3              
 
「はじめに」
 
一昨年、昨年の拝読「浄土真宗のみ教え」対論の続きである。
前回、述べたように、この対論は、「阿弥陀仏を、実際に、一切を成仏させるという、救済力のある、何らかの不可思議な実体、実在として信仰し、それにお任せして、安心するという、従来及び現在の大多数の信仰」への問題提起である。
そのわけは、従来の浄土真宗教学の根拠が、七祖、宗祖、列祖の教学であり、私は、それに対して、教学根拠を、七祖、宗祖、はるか以前、今からおよそ2千年前、釈尊も説かなかった、三経、ことに作者不明の、大経創作者の思想精神に置こうとしているからである。
そして、この大経創作者の思想精神とは、法蔵菩薩の精神として象徴化された、仏教思想のキーワードの、縁起を基にした、「無我、慈悲、利他、布施」等の思想精神と了解している。
それ故、阿弥陀仏とは、経典創作者による、仏教思想の人格的象徴表現、もしくは、釈尊の人格的永遠化という解釈である。
私は、この大経創作者の思想精神を教学根拠にして、従来の阿弥陀仏信仰教学ではなく、阿弥陀仏の実質としての「無我、慈悲、利他、布施」等の思想精神から、自己と社会を厭い、それゆえの自己と社会の解放と創造の道を学ぼうとするものである。
以上から、引きつづき、この、拝読「浄土真宗のみ教え」への対論として、逐一、対論の文章化を試みてみる。  
残りはまた他日とする。  
対論で変えた文章は文中、斜体とする。
「他力本願」
本文  
他力とは、阿弥陀如来の本願のはたらきであり、これを他力本願という。
他力本願は、如来から私に向けられたはたらきであって、自分の望みを他人まかせにすることではない。 対論    
他力とは、阿弥陀如来の本願と象徴表現された、無我、慈悲等、真実の、虚仮不実への自己同化作用であり、これを他力本願と表現している。
他力本願は、如来と象徴表現された、無我、慈悲等、真実が虚仮不実のを、虚仮不実と自覚、慙愧せしめ、同時に、自覚的に、真実に向かわしめるはたらきであって、自分の望みを他人まかせにすることではない。
本文
阿弥陀如来は四十八の願いを発して仏となられた。
その願いの根本である第十八の願は、「われにまかせよ、わが名を称えよ、浄土に生まれさせて仏にならしめん」という願いである。 対論 阿弥陀如来は四十八の願いを発して仏となられた、と、このように、無我、慈悲等、真実を人格的に象徴表現してある。
その願いの根本である第十八の願は、「一切の衆生を、阿弥陀仏や浄土の真実に目覚ましめ、阿弥陀仏や浄土の真実を願わしめ、阿弥陀仏や浄土の真実に成就せしめん」という願いである。
本文
如来は、私たちを救わんとしてつねに寄り添い、南無阿弥陀仏のよび声となって、われにまかせよと、はたらき続けておられる。
このはたらきを他力といい、本願力というのである。対論  如来は、私たちを救わんとしてつねに寄り添い、南無阿弥陀仏のよび声となって、われをよりどころにせよと、はたらき続けておられる、と、無我、慈悲等の真実をこのように人格的に象徴表現してある。
この真実の、虚仮不実に対する自己同化作用を他力、本願力と表現したのである。本文
阿弥陀如来の本願のはたらきにおまかせして、念仏を申しつつ、如来の慈悲につつまれて、浄土への道を歩ませていただくのである。
対論阿弥陀如来の本願と象徴表現された真実に目覚めて、念仏をつぶやきつつ、如来の慈悲と象徴表現された真実うながされて、浄土への道と象徴表現された、無我、慈悲、利他、布施等、究極の真実の自己実現と究極の境涯実現(往生成仏)に向かう道を歩ませていただくのである。
 
 「如来の呼び声」
本文   
阿弥陀如来は、すべての者を救いたいと願われ、南無阿弥陀仏の名号を完成された。
名号は、如来の智慧と慈悲を円かに具えた、救いのはたらきそのものである。対論阿弥陀如来は、すべての者を救いたいと願われ、南無阿弥陀仏の名号を完成されたと、このように、真実というものの、虚仮への自己同化作用を人格的に象徴表現してある
名号は、如来の智慧と慈悲を円かに具えているとの、真実というものの実質の象徴表現であり、虚仮の自己と世界を真実に自己同化せんとする、真実の作用の象徴表現そのものである。
本文 南無阿弥陀仏は、「必ず救う、われにまかせよ」との阿弥陀如来のよび声である。 如来は、偽りと真実の見分けもつかない凡夫を哀れみ、名号による救いを選び取られた。
如来のみ名は、遍く世界に響きわたり、この真実の救いにまかせよと、よび続けておられる。 そのよび声は、私の称える南無阿弥陀仏の念仏となって、今ここに至りとどいている。
念仏の声を通して、如来の大悲のよび声を聞かせていただく。
対論
南無阿弥陀仏は、「必ず真実に目覚めさせ、救い導く、われをよりどころにせよ」との阿弥陀如来のよび声と、無我、慈悲等の真実の作用を象徴表現してある。 如来は、偽りと真実の見分けもつかない凡夫を哀れみ、名号による救いを選び取られた、と真実の作用を象徴的に表現してある。
如来のみ名は、遍く世界に響きわたり、この真実の救いにめざめよとよび続けておられると真実の作用を象徴表現してある。
 そのよび声と象徴表現されたものからのの真実と虚仮への目覚めは、私のつぶやく南無阿弥陀仏の念仏となって、今ここに実証されている。
念仏の声を通して、如来の大悲のよび声と象徴表現された、真実からのうながしにうなづかされる。
 
 
 
2005/08/22
自己と世界の解放
今、訴えたい私の思い    
 
南北格差始め、国内外、貧富の格差の増大化、国際テロ、ヨ−ロッパの極右勢力の台頭、民族、宗教対立、地球規模環境汚染、国内の経済多国籍企業、世界大競争にともなう戦争体制化、憲法、教育基本法改悪化、自殺、犯罪増大化、等々諸問題解決の根本はやはり、教育基本法にうたってあるとおり、人間教育こそその要と思える。
この教育基本法の教育の目的は、人格の完成にあるとうたっている。
私は、人格の完成への道とは、基本的に、水平社宣言綱領にある、万人の、人間性の原理に覚醒し、人類最高の完成に向かう、自覚的、人間主体確立への道と思う。
上記、社会問題のみならず、人間の、ありとあらゆる問題の元凶は、この上記、人間主体の確立不毛ということではあるまいか?
思えば、世界中の多くの人々が、海図無き、広海に放り出されたような、わけのわからぬ、人生、社会の混迷と、不安の中で、ともかく追いたてられるように生きている様に思う。
以下は上記結論のための、人生社会問題への愚考である。
目下の宇宙論では、およそ、120億年前、真空のゆらぎから、宇宙は創生され、未来は、ほとんどの銀河、星も消滅して、わずかな素粒子が存在するだけの広漠たる暗黒の空間を推測している。
本来的に、万有の存在そのものが「非」意味、虚無ということか。
人間存在も、本来「非」意味、虚無ではあっても、この人生に生きる意味を見出したいもの。
人間も一生物。
生物そのものの存在意義は、自己と種族の永続に尽きよう。
遺伝子そのものが、又生物が、本来利己的であるというのもうなずける。
生命発生以来、永続している種もあれば、絶滅した種もある。
人類も絶滅しても、本来どうということはあるまいが、早めないようにはしたいもの。
人間の中の本能「動物性」と理性「人間性」、相反するが、車のアクセルとブレーキの如き、作用と思える。
人間が理性、人間性の共生原理を自覚し、願う領域に、自由、平等、博愛、平和、人権、があり、これへの自覚が未成熟で、本能、動物性の競争原理が暴走すると、相反して、束縛、差別、冷酷、戦争、蹂躙がうまれる。
この理性、人間性の自覚と主体化というものが確立する人間像が多数派にならぬ限り、平和な生活格差のない、理想社会到来の道は遠い。
国造りは人造り。
上記、人間性の原理に覚醒し、人類最高の完成に向かう、自覚的人間主体確立教育の最重要性を思う所以である。
目下いわれている、教育改革は、やはり、世界多国籍企業、大競争時代の、国益に有為な、英才教育化であり、それ故に、競争原理に逆行すると見られる、人権、平和教育というのは疎んぜられるのであろう。
今や、国家や、国家教育に、幻想を抱かず、無い物ねだりをせず、気が付いた、市民一人ひとりが、連携して、広く、世界中に発信して、家庭教育、社会教育、学校教育に提言し、変革の輪を広げたいものだ。
そして、さらに、この運動を担おうとする我々は、対社会的運動と共に、まず、何よりも、家庭、地域、組織、職場の中で、如何に、人の心に配慮し、思いやりのある、人権感覚や、保身、私利、私欲に清潔で、世人に信頼されうる、自律的、人格主体を構築するかということと同時進行でなくてはならぬことを、強く自己反省、慚愧を込めて思う。
拝読「浄土真宗のみ教え」対論その3              
 
「はじめに」
 
一昨年、昨年の拝読「浄土真宗のみ教え」対論の続きである。
前回、述べたように、この対論は、「阿弥陀仏を、実際に、一切を成仏させるという、救済力のある、何らかの不可思議な実体、実在として信仰し、それにお任せして、安心するという、従来及び現在の大多数の信仰」への問題提起である。
そのわけは、従来の浄土真宗教学の根拠が、七祖、宗祖、列祖の教学であり、私は、それに対して、教学根拠を、七祖、宗祖、はるか以前、今からおよそ2千年前、釈尊も説かなかった、三経、ことに作者不明の、大経創作者の思想精神に置こうとしているからである。
そして、この大経創作者の思想精神とは、法蔵菩薩の精神として象徴化された、仏教思想のキーワードの、縁起を基にした、「無我、慈悲、利他、布施」等の思想精神と了解している。
それ故、阿弥陀仏とは、経典創作者による、仏教思想の人格的象徴表現、もしくは、釈尊の人格的永遠化という解釈である。
私は、この大経創作者の思想精神を教学根拠にして、従来の阿弥陀仏信仰教学ではなく、阿弥陀仏の実質としての「無我、慈悲、利他、布施」等の思想精神から、自己と社会を厭い、それゆえの自己と社会の解放と創造の道を学ぼうとするものである。
以上から、引きつづき、この、拝読「浄土真宗のみ教え」への対論として、逐一、対論の文章化を試みてみる。  
残りはまた他日とする。  
対論で変えた文章は文中、斜体とする。
「他力本願」
本文  
他力とは、阿弥陀如来の本願のはたらきであり、これを他力本願という。
他力本願は、如来から私に向けられたはたらきであって、自分の望みを他人まかせにすることではない。 対論    
他力とは、阿弥陀如来の本願と象徴表現された、無我、慈悲等、真実の、虚仮不実への自己同化作用であり、これを他力本願と表現している。
他力本願は、如来と象徴表現された、無我、慈悲等、真実が虚仮不実のを、虚仮不実と自覚、慙愧せしめ、同時に、自覚的に、真実に向かわしめるはたらきであって、自分の望みを他人まかせにすることではない。
本文
阿弥陀如来は四十八の願いを発して仏となられた。
その願いの根本である第十八の願は、「われにまかせよ、わが名を称えよ、浄土に生まれさせて仏にならしめん」という願いである。 対論 阿弥陀如来は四十八の願いを発して仏となられた、と、このように、無我、慈悲等、真実を人格的に象徴表現してある。
その願いの根本である第十八の願は、「一切の衆生を、阿弥陀仏や浄土の真実に目覚ましめ、阿弥陀仏や浄土の真実を願わしめ、阿弥陀仏や浄土の真実に成就せしめん」という願いである。
本文
如来は、私たちを救わんとしてつねに寄り添い、南無阿弥陀仏のよび声となって、われにまかせよと、はたらき続けておられる。
このはたらきを他力といい、本願力というのである。対論  如来は、私たちを救わんとしてつねに寄り添い、南無阿弥陀仏のよび声となって、われをよりどころにせよと、はたらき続けておられる、と、無我、慈悲等の真実をこのように人格的に象徴表現してある。
この真実の、虚仮不実に対する自己同化作用を他力、本願力と表現したのである。本文
阿弥陀如来の本願のはたらきにおまかせして、念仏を申しつつ、如来の慈悲につつまれて、浄土への道を歩ませていただくのである。
対論阿弥陀如来の本願と象徴表現された真実に目覚めて、念仏をつぶやきつつ、如来の慈悲と象徴表現された真実うながされて、浄土への道と象徴表現された、無我、慈悲、利他、布施等、究極の真実の自己実現と究極の境涯実現(往生成仏)に向かう道を歩ませていただくのである。
 
 「如来の呼び声」
本文   
阿弥陀如来は、すべての者を救いたいと願われ、南無阿弥陀仏の名号を完成された。
名号は、如来の智慧と慈悲を円かに具えた、救いのはたらきそのものである。対論阿弥陀如来は、すべての者を救いたいと願われ、南無阿弥陀仏の名号を完成されたと、このように、真実というものの、虚仮への自己同化作用を人格的に象徴表現してある
名号は、如来の智慧と慈悲を円かに具えているとの、真実というものの実質の象徴表現であり、虚仮の自己と世界を真実に自己同化せんとする、真実の作用の象徴表現そのものである。
本文 南無阿弥陀仏は、「必ず救う、われにまかせよ」との阿弥陀如来のよび声である。 如来は、偽りと真実の見分けもつかない凡夫を哀れみ、名号による救いを選び取られた。
如来のみ名は、遍く世界に響きわたり、この真実の救いにまかせよと、よび続けておられる。 そのよび声は、私の称える南無阿弥陀仏の念仏となって、今ここに至りとどいている。
念仏の声を通して、如来の大悲のよび声を聞かせていただく。
対論
南無阿弥陀仏は、「必ず真実に目覚めさせ、救い導く、われをよりどころにせよ」との阿弥陀如来のよび声と、無我、慈悲等の真実の作用を象徴表現してある。 如来は、偽りと真実の見分けもつかない凡夫を哀れみ、名号による救いを選び取られた、と真実の作用を象徴的に表現してある。
如来のみ名は、遍く世界に響きわたり、この真実の救いにめざめよとよび続けておられると真実の作用を象徴表現してある。
 そのよび声と象徴表現されたものからのの真実と虚仮への目覚めは、私のつぶやく南無阿弥陀仏の念仏となって、今ここに実証されている。
念仏の声を通して、如来の大悲のよび声と象徴表現された、真実からのうながしにうなづかされる。
 
 
 
2005/08/16
国立戦没者追悼施設
 
国立戦没者新施設問題    03/06/18
 
微細に関係文書を調べたわけではないが、今までの知り得たものからまとめてみたい。
 
1,政権側の発端
 
まず、靖国公式参拝の都度、内外ことに、アジア諸国からの批判に、国益外交上、靖国に代わるものを考えた。
もう一つ、今後の国際紛争での戦死者の受け皿を、政教分離の立場上、靖国では問題ありで、新施設に担わせようとしている。
いくら非宗教施設でも、本質は、英霊顕彰で、靖国と同じ物をねらっているはず。
 
2,本願寺派、武野総長加入の、民間の新施設賛成団体、つくる会側の主張
 
新施設には賛成だが、中身は、靖国と同じにはさせたくない。
非宗教、国内外軍属、民間問わぬ、全戦没者対象。
新たな戦死者の受け皿としない。
 
3,政権側や民間つくる会側に反対する側の主張
 
国のつくる物は、必ず、英霊顕彰になるし、今後の戦死者の受け皿になるから、一切作らせぬこと。
つくる会がいくらもっともらしい対案を出しても、必ず、うまく利用されるだけと思えるから、新施設作りから手を引け。
 
4,官房長官私的諮問懇談会の最終案
 
左右双方の最大公約数的主張。
無宗教で全戦没者包括だが、個人を対象としない。
歴史や過去に一義的な解釈をしない。
国民の多様な解釈の可能性の保証。
新たな戦死者の受け皿。
 
5,私の思い
 
かつての日本国家責任による、内外の戦死者を、国家として放置は出来ぬ筈。
靖国とはちがう、上記の、民間つくる会、官房長官私的諮問懇談会の最大公約数的、最終案に賛同。
朝日新聞の02年12月25日付記事にも賛同。
今後の新たな戦死者を出さぬ為には、まず、絶望的であるが、国内外世界の、軍隊容認、国家主義思想を、生命、人間の尊厳不可侵の超国家的思想へと変革、拡充させて行かねばならない。
その上で、各国も軍備を放棄し、国際紛争の解決は、国際警察としての任務を担う、国連に委譲し、自衛隊も無軍備、国内外災害救援隊に編成変えをする。
まず、絶望的な感じがするが、でもコスタリカが、今、無軍備、永世中立、教育立国であることに希望をつなげたい。
今、有事立法成立の日本は、残念ながら、今後の、PKO活動でも、あって欲しくない有事でも、海外協力隊員、自衛隊員の死者が出る可能性もある。
その時、やはり、国家として、放置は出来ぬと思い、左右最大公約数的なところで、英霊顕彰にも、謝罪にも特定しない、いわゆる、最大公約数的な、悼むということの施設として、上記、官房長官私的諮問懇談会案の施設は受け皿とせざるを得まいと思える。
今後、政権のいよいよの右傾化が懸念されるが、我々としては、どこまでもそれに抗し、せめて、最大公約数的な立場はゆるがせないようにしたい。
拝読「浄土真宗のみ教え」対論その3              
 
「はじめに」
 
一昨年、昨年の拝読「浄土真宗のみ教え」対論の続きである。
前回、述べたように、この対論は、「阿弥陀仏を、実際に、一切を成仏させるという、救済力のある、何らかの不可思議な実体、実在として信仰し、それにお任せして、安心するという、従来及び現在の大多数の信仰」への問題提起である。
そのわけは、従来の浄土真宗教学の根拠が、七祖、宗祖、列祖の教学であり、私は、それに対して、教学根拠を、七祖、宗祖、はるか以前、今からおよそ2千年前、釈尊も説かなかった、三経、ことに作者不明の、大経創作者の思想精神に置こうとしているからである。
そして、この大経創作者の思想精神とは、法蔵菩薩の精神として象徴化された、仏教思想のキーワードの、縁起を基にした、「無我、慈悲、利他、布施」等の思想精神と了解している。
それ故、阿弥陀仏とは、経典創作者による、仏教思想の人格的象徴表現、もしくは、釈尊の人格的永遠化という解釈である。
私は、この大経創作者の思想精神を教学根拠にして、従来の阿弥陀仏信仰教学ではなく、阿弥陀仏の実質としての「無我、慈悲、利他、布施」等の思想精神から、自己と社会を厭い、それゆえの自己と社会の解放と創造の道を学ぼうとするものである。
以上から、引きつづき、この、拝読「浄土真宗のみ教え」への対論として、逐一、対論の文章化を試みてみる。  
残りはまた他日とする。  
対論で変えた文章は文中、斜体とする。
「他力本願」
本文  
他力とは、阿弥陀如来の本願のはたらきであり、これを他力本願という。
他力本願は、如来から私に向けられたはたらきであって、自分の望みを他人まかせにすることではない。 対論    
他力とは、阿弥陀如来の本願と象徴表現された、無我、慈悲等、真実の、虚仮不実への自己同化作用であり、これを他力本願と表現している。
他力本願は、如来と象徴表現された、無我、慈悲等、真実が虚仮不実のを、虚仮不実と自覚、慙愧せしめ、同時に、自覚的に、真実に向かわしめるはたらきであって、自分の望みを他人まかせにすることではない。
本文
阿弥陀如来は四十八の願いを発して仏となられた。
その願いの根本である第十八の願は、「われにまかせよ、わが名を称えよ、浄土に生まれさせて仏にならしめん」という願いである。 対論 阿弥陀如来は四十八の願いを発して仏となられた、と、このように、無我、慈悲等、真実を人格的に象徴表現してある。
その願いの根本である第十八の願は、「一切の衆生を、阿弥陀仏や浄土の真実に目覚ましめ、阿弥陀仏や浄土の真実を願わしめ、阿弥陀仏や浄土の真実に成就せしめん」という願いである。
本文
如来は、私たちを救わんとしてつねに寄り添い、南無阿弥陀仏のよび声となって、われにまかせよと、はたらき続けておられる。
このはたらきを他力といい、本願力というのである。対論  如来は、私たちを救わんとしてつねに寄り添い、南無阿弥陀仏のよび声となって、われをよりどころにせよと、はたらき続けておられる、と、無我、慈悲等の真実をこのように人格的に象徴表現してある。
この真実の、虚仮不実に対する自己同化作用を他力、本願力と表現したのである。本文
阿弥陀如来の本願のはたらきにおまかせして、念仏を申しつつ、如来の慈悲につつまれて、浄土への道を歩ませていただくのである。
対論阿弥陀如来の本願と象徴表現された真実に目覚めて、念仏をつぶやきつつ、如来の慈悲と象徴表現された真実うながされて、浄土への道と象徴表現された、無我、慈悲、利他、布施等、究極の真実の自己実現と究極の境涯実現(往生成仏)に向かう道を歩ませていただくのである。
 
 「如来の呼び声」
本文   
阿弥陀如来は、すべての者を救いたいと願われ、南無阿弥陀仏の名号を完成された。
名号は、如来の智慧と慈悲を円かに具えた、救いのはたらきそのものである。対論阿弥陀如来は、すべての者を救いたいと願われ、南無阿弥陀仏の名号を完成されたと、このように、真実というものの、虚仮への自己同化作用を人格的に象徴表現してある
名号は、如来の智慧と慈悲を円かに具えているとの、真実というものの実質の象徴表現であり、虚仮の自己と世界を真実に自己同化せんとする、真実の作用の象徴表現そのものである。
本文 南無阿弥陀仏は、「必ず救う、われにまかせよ」との阿弥陀如来のよび声である。 如来は、偽りと真実の見分けもつかない凡夫を哀れみ、名号による救いを選び取られた。
如来のみ名は、遍く世界に響きわたり、この真実の救いにまかせよと、よび続けておられる。 そのよび声は、私の称える南無阿弥陀仏の念仏となって、今ここに至りとどいている。
念仏の声を通して、如来の大悲のよび声を聞かせていただく。
対論
南無阿弥陀仏は、「必ず真実に目覚めさせ、救い導く、われをよりどころにせよ」との阿弥陀如来のよび声と、無我、慈悲等の真実の作用を象徴表現してある。 如来は、偽りと真実の見分けもつかない凡夫を哀れみ、名号による救いを選び取られた、と真実の作用を象徴的に表現してある。
如来のみ名は、遍く世界に響きわたり、この真実の救いにめざめよとよび続けておられると真実の作用を象徴表現してある。
 そのよび声と象徴表現されたものからのの真実と虚仮への目覚めは、私のつぶやく南無阿弥陀仏の念仏となって、今ここに実証されている。
念仏の声を通して、如来の大悲のよび声と象徴表現された、真実からのうながしにうなづかされる。
 
 
 
2005/08/16
仏教と武力行使
 
聖徳太子、宗祖から仏教の武力行使を考える               
 
1992年改訂版、山川出版社発行「資料による日本史」という高校の歴史教科書には、「聖徳太子らと組んだ馬子は軍勢を発して守屋一族を滅ぼした」とあり、聖徳太子は、武力及び、行使(殺傷)容認論者であったと考えられる。
それを「このとき仏法滅せしに、悲泣懊悩したまいて、陛下に奏聞せしめつつ、軍兵を発起したまいき」と皇太子聖徳奉讃和讃に詠った宗祖も、国家、又、仏法擁護のためならば、武力及び、行使(殺傷)容認論者ということになるかもしれない。
だが、もしそうなら、太子も宗祖も仏法からの違背ということにならないか。
すずき出版・仏教説話体系では、釈迦族は、兵士も武器も保有しながら、釈尊の教えにより、攻められても、決して殺傷せず、ただ、鞭や杖で兵士を打って戦ったということや、大経の、仏所遊履、兵戈無用を考えると・・・。
さて、有事法制関連3法成立から、イラク支援ということで、自衛隊員が、イラクで人を殺すか、殺されるかという今、改めて、我々仏教徒として、武力行使ということについて考えてみたい。
「殺すな」ここに仏教の原則があるはず。
そのわけを考える。
「万物は、無限の時間空間の大宇宙、大自然の中で皆、縁によってつながっており、しかも、万物個々は絶対尊厳なるものである」という自覚に立脚しているということ。
さらに、ことに、人間は、皆、この自覚と、自覚に基づく、いわゆる、無我、慈悲、利他、布施といった究極の自己実現(仏)を目指す可能性を持った存在であるが故に、どんな人間もその自己実現の可能性の芽を摘むことになる、「殺人」は侵してはならないということではあるまいか。
次に、仏教で許される殺人というようなものを紹介してみよう。
「人を殺し続ける殺人鬼を制止するには、その殺人鬼を殺すしか方法はないというとき、菩薩は殺生罪によって自らが地獄に堕ちることを覚悟してその殺人鬼を殺すという論も仏法にはあります」というものである。
どうにも、「殺すしか方法はない」とすれば仕方ないか。
でも、殺さなくとも、犯人を抑止するために、急所を外して牽制攻撃をするということもあってしかるべき筈とも考える。
ただ、犯罪者に対しての武力行使ということでは、上記の如く、やむを得ぬ、最終手段と言うべきで、原則は殺すなかれであろう。
次に、対犯罪、武力行使として、米国の如く、個人に、自衛の拳銃保有を認めるかどうかという問題がある。
だが本来、人間、何でも自由といっても、人間はいつ狂乱したり、悪に染まるかわからないということを考えれば、危険千万であるが故に、やはり、武器は、個人には持たせず、警察のみが保持するというのが是であろう。
でも、警察たりとて、完全な信用が置けるわけではないが。
ここで、絶対平和主義というものを考えてみよう。
厳密な意味の、絶対平和主義ということになると、市民も、国家も、警察も国連も一切誰も武力を持たないし、武力行使しないということになろう。
だが、上述の通り、誰しも、狂乱し、犯罪を犯す可能性もあり、悪は取り締まらねばならず、個人の武器保有は禁止しても、社会の治安対策としての警察の武器も、その行使も認めざるを得まい。
その限りで、厳密な、絶対平和主義は破綻せざるを得まい。
次に、軍備である。
全世界、コスタリカのように、軍備不保持、永世中立、教育立国を選ぶようになれば幸い。
しかし、現実は、全世界、軍隊常識論が圧倒的であるし、甚だ絶望的である。
だが、いくら小国とはいえ、こういう国を成立させる可能性が、人間に、あることに希望は捨てたくない。
コスタリカの権力者及び、国民の思想主体がどういうものか詳しくは知らない。
だが、我々仏教徒は、上記の如く、「万物個々は絶対尊厳なるものであることや、どんな人間も、その自己実現の可能性の芽を摘むことになる、(殺人)は侵してはならない」といった、原則をふまえ、生命、及び、人間の尊厳不可侵という思想主体の万人への確立を願うものである筈。
もとより、宗祖の如く真実を仰ぎつつ、真実たりえぬ我が身とわが世を厭う、慚愧を持ちつつ。
ここに、仏教の人間救済の原理があり、慈しみ、思いやりといった生活実践の原理があり、あるべき社会創造の原理がある筈。
我々仏教徒の伝道とは、上記の「生命、及び、人間の尊厳不可侵と慚愧という思想主体の万人への確立」を全世界に拡充するということではないか。
そしてその拡充によって、次第に世界各国が、軍備放棄、万国との和平友好条約の締結をめざすよう移行することを願いたい。
だが、これは、甚だ、至難にして、絶望的状況ではある。
わが国としても、上記思想の拡充によって、自衛隊を縮小、解体し、無軍備、内外災害救援隊に改変させたいもの。
だが仮に、いくら各国が軍備を放棄したとしても国際紛争は永遠に無くなることはなさそうだ。
とすれば、国際紛争には、ただ、国連のみが国際裁判、警察としての警察力、武力保持や武力行使を担い、決して、紛争当事国どうしは、各国の警察といえども武力行使は禁止ということにさせたいもの。
そして、国連は、公平が必要だし、各国の警察を肥大化させないよう、査察を厳密にして、各国公平な警察力に限定する任を果たさせたい。
まず、国連には、何よりも、テロや国際紛争防止のため、各国に人権、民主的国際世論を喚起させたいもの。
国連が、最終的な、万やむを得ない武力行使をしたとしても、可能な限り、殺人ということのない、攻撃阻止のための牽制であってもらいたいもの。
国際テロ対策も、そのテロが生まれる、非人権的状況や、南北の格差への国際的是正、援助等がある筈。
有事への対処も、甚だ絶望的だが、まず、何より、平素から、有事にならぬように諸外国と信頼、人権和平、互恵外交をしておくべき筈。
だが、それでも、なお、武力攻撃を受けたとしても、非は向こうにある故、いたずらに、交戦して、殺傷の被害の増大をもたらすより、国連、国際世論に訴えて、なるべく、非暴力で殺傷の被害を少なくするようにつとめたいものと考える。
たとえ殺され全滅しても、釈迦族やガンジー(その差別性は是認できぬが)の如く、非暴力不服従で、自分たちは、殺すことはなかったという崇高な道に永遠に生きたいと願う。
 
拝読「浄土真宗のみ教え」対論その3              
 
「はじめに」
 
一昨年、昨年の拝読「浄土真宗のみ教え」対論の続きである。
前回、述べたように、この対論は、「阿弥陀仏を、実際に、一切を成仏させるという、救済力のある、何らかの不可思議な実体、実在として信仰し、それにお任せして、安心するという、従来及び現在の大多数の信仰」への問題提起である。
そのわけは、従来の浄土真宗教学の根拠が、七祖、宗祖、列祖の教学であり、私は、それに対して、教学根拠を、七祖、宗祖、はるか以前、今からおよそ2千年前、釈尊も説かなかった、三経、ことに作者不明の、大経創作者の思想精神に置こうとしているからである。
そして、この大経創作者の思想精神とは、法蔵菩薩の精神として象徴化された、仏教思想のキーワードの、縁起を基にした、「無我、慈悲、利他、布施」等の思想精神と了解している。
それ故、阿弥陀仏とは、経典創作者による、仏教思想の人格的象徴表現、もしくは、釈尊の人格的永遠化という解釈である。
私は、この大経創作者の思想精神を教学根拠にして、従来の阿弥陀仏信仰教学ではなく、阿弥陀仏の実質としての「無我、慈悲、利他、布施」等の思想精神から、自己と社会を厭い、それゆえの自己と社会の解放と創造の道を学ぼうとするものである。
以上から、引きつづき、この、拝読「浄土真宗のみ教え」への対論として、逐一、対論の文章化を試みてみる。  
残りはまた他日とする。  
対論で変えた文章は文中、斜体とする。
「他力本願」
本文  
他力とは、阿弥陀如来の本願のはたらきであり、これを他力本願という。
他力本願は、如来から私に向けられたはたらきであって、自分の望みを他人まかせにすることではない。 対論    
他力とは、阿弥陀如来の本願と象徴表現された、無我、慈悲等、真実の、虚仮不実への自己同化作用であり、これを他力本願と表現している。
他力本願は、如来と象徴表現された、無我、慈悲等、真実が虚仮不実のを、虚仮不実と自覚、慙愧せしめ、同時に、自覚的に、真実に向かわしめるはたらきであって、自分の望みを他人まかせにすることではない。
本文
阿弥陀如来は四十八の願いを発して仏となられた。
その願いの根本である第十八の願は、「われにまかせよ、わが名を称えよ、浄土に生まれさせて仏にならしめん」という願いである。 対論 阿弥陀如来は四十八の願いを発して仏となられた、と、このように、無我、慈悲等、真実を人格的に象徴表現してある。
その願いの根本である第十八の願は、「一切の衆生を、阿弥陀仏や浄土の真実に目覚ましめ、阿弥陀仏や浄土の真実を願わしめ、阿弥陀仏や浄土の真実に成就せしめん」という願いである。
本文
如来は、私たちを救わんとしてつねに寄り添い、南無阿弥陀仏のよび声となって、われにまかせよと、はたらき続けておられる。
このはたらきを他力といい、本願力というのである。対論  如来は、私たちを救わんとしてつねに寄り添い、南無阿弥陀仏のよび声となって、われをよりどころにせよと、はたらき続けておられる、と、無我、慈悲等の真実をこのように人格的に象徴表現してある。
この真実の、虚仮不実に対する自己同化作用を他力、本願力と表現したのである。本文
阿弥陀如来の本願のはたらきにおまかせして、念仏を申しつつ、如来の慈悲につつまれて、浄土への道を歩ませていただくのである。
対論阿弥陀如来の本願と象徴表現された真実に目覚めて、念仏をつぶやきつつ、如来の慈悲と象徴表現された真実うながされて、浄土への道と象徴表現された、無我、慈悲、利他、布施等、究極の真実の自己実現と究極の境涯実現(往生成仏)に向かう道を歩ませていただくのである。
 
 「如来の呼び声」
本文   
阿弥陀如来は、すべての者を救いたいと願われ、南無阿弥陀仏の名号を完成された。
名号は、如来の智慧と慈悲を円かに具えた、救いのはたらきそのものである。対論阿弥陀如来は、すべての者を救いたいと願われ、南無阿弥陀仏の名号を完成されたと、このように、真実というものの、虚仮への自己同化作用を人格的に象徴表現してある
名号は、如来の智慧と慈悲を円かに具えているとの、真実というものの実質の象徴表現であり、虚仮の自己と世界を真実に自己同化せんとする、真実の作用の象徴表現そのものである。
本文 南無阿弥陀仏は、「必ず救う、われにまかせよ」との阿弥陀如来のよび声である。 如来は、偽りと真実の見分けもつかない凡夫を哀れみ、名号による救いを選び取られた。
如来のみ名は、遍く世界に響きわたり、この真実の救いにまかせよと、よび続けておられる。 そのよび声は、私の称える南無阿弥陀仏の念仏となって、今ここに至りとどいている。
念仏の声を通して、如来の大悲のよび声を聞かせていただく。
対論
南無阿弥陀仏は、「必ず真実に目覚めさせ、救い導く、われをよりどころにせよ」との阿弥陀如来のよび声と、無我、慈悲等の真実の作用を象徴表現してある。 如来は、偽りと真実の見分けもつかない凡夫を哀れみ、名号による救いを選び取られた、と真実の作用を象徴的に表現してある。
如来のみ名は、遍く世界に響きわたり、この真実の救いにめざめよとよび続けておられると真実の作用を象徴表現してある。
 そのよび声と象徴表現されたものからのの真実と虚仮への目覚めは、私のつぶやく南無阿弥陀仏の念仏となって、今ここに実証されている。
念仏の声を通して、如来の大悲のよび声と象徴表現された、真実からのうながしにうなづかされる。
 
 
 
2005/08/16

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Last updated: 2012/9/5

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