聖徳太子、宗祖から仏教の武力行使を考える
1992年改訂版、山川出版社発行「資料による日本史」という高校の歴史教科書には、「聖徳太子らと組んだ馬子は軍勢を発して守屋一族を滅ぼした」とあり、聖徳太子は、武力及び、行使(殺傷)容認論者であったと考えられる。
それを「このとき仏法滅せしに、悲泣懊悩したまいて、陛下に奏聞せしめつつ、軍兵を発起したまいき」と皇太子聖徳奉讃和讃に詠った宗祖も、国家、又、仏法擁護のためならば、武力及び、行使(殺傷)容認論者ということになるかもしれない。
だが、もしそうなら、太子も宗祖も仏法からの違背ということにならないか。
すずき出版・仏教説話体系では、釈迦族は、兵士も武器も保有しながら、釈尊の教えにより、攻められても、決して殺傷せず、ただ、鞭や杖で兵士を打って戦ったということや、大経の、仏所遊履、兵戈無用を考えると・・・。
さて、有事法制関連3法成立から、イラク支援ということで、自衛隊員が、イラクで人を殺すか、殺されるかという今、改めて、我々仏教徒として、武力行使ということについて考えてみたい。
「殺すな」ここに仏教の原則があるはず。
そのわけを考える。
「万物は、無限の時間空間の大宇宙、大自然の中で皆、縁によってつながっており、しかも、万物個々は絶対尊厳なるものである」という自覚に立脚しているということ。
さらに、ことに、人間は、皆、この自覚と、自覚に基づく、いわゆる、無我、慈悲、利他、布施といった究極の自己実現(仏)を目指す可能性を持った存在であるが故に、どんな人間もその自己実現の可能性の芽を摘むことになる、「殺人」は侵してはならないということではあるまいか。
次に、仏教で許される殺人というようなものを紹介してみよう。
「人を殺し続ける殺人鬼を制止するには、その殺人鬼を殺すしか方法はないというとき、菩薩は殺生罪によって自らが地獄に堕ちることを覚悟してその殺人鬼を殺すという論も仏法にはあります」というものである。
どうにも、「殺すしか方法はない」とすれば仕方ないか。
でも、殺さなくとも、犯人を抑止するために、急所を外して牽制攻撃をするということもあってしかるべき筈とも考える。
ただ、犯罪者に対しての武力行使ということでは、上記の如く、やむを得ぬ、最終手段と言うべきで、原則は殺すなかれであろう。
次に、対犯罪、武力行使として、米国の如く、個人に、自衛の拳銃保有を認めるかどうかという問題がある。
だが本来、人間、何でも自由といっても、人間はいつ狂乱したり、悪に染まるかわからないということを考えれば、危険千万であるが故に、やはり、武器は、個人には持たせず、警察のみが保持するというのが是であろう。
でも、警察たりとて、完全な信用が置けるわけではないが。
ここで、絶対平和主義というものを考えてみよう。
厳密な意味の、絶対平和主義ということになると、市民も、国家も、警察も国連も一切誰も武力を持たないし、武力行使しないということになろう。
だが、上述の通り、誰しも、狂乱し、犯罪を犯す可能性もあり、悪は取り締まらねばならず、個人の武器保有は禁止しても、社会の治安対策としての警察の武器も、その行使も認めざるを得まい。
その限りで、厳密な、絶対平和主義は破綻せざるを得まい。
次に、軍備である。
全世界、コスタリカのように、軍備不保持、永世中立、教育立国を選ぶようになれば幸い。
しかし、現実は、全世界、軍隊常識論が圧倒的であるし、甚だ絶望的である。
だが、いくら小国とはいえ、こういう国を成立させる可能性が、人間に、あることに希望は捨てたくない。
コスタリカの権力者及び、国民の思想主体がどういうものか詳しくは知らない。
だが、我々仏教徒は、上記の如く、「万物個々は絶対尊厳なるものであることや、どんな人間も、その自己実現の可能性の芽を摘むことになる、(殺人)は侵してはならない」といった、原則をふまえ、生命、及び、人間の尊厳不可侵という思想主体の万人への確立を願うものである筈。
もとより、宗祖の如く真実を仰ぎつつ、真実たりえぬ我が身とわが世を厭う、慚愧を持ちつつ。
ここに、仏教の人間救済の原理があり、慈しみ、思いやりといった生活実践の原理があり、あるべき社会創造の原理がある筈。
我々仏教徒の伝道とは、上記の「生命、及び、人間の尊厳不可侵と慚愧という思想主体の万人への確立」を全世界に拡充するということではないか。
そしてその拡充によって、次第に世界各国が、軍備放棄、万国との和平友好条約の締結をめざすよう移行することを願いたい。
だが、これは、甚だ、至難にして、絶望的状況ではある。
わが国としても、上記思想の拡充によって、自衛隊を縮小、解体し、無軍備、内外災害救援隊に改変させたいもの。
だが仮に、いくら各国が軍備を放棄したとしても国際紛争は永遠に無くなることはなさそうだ。
とすれば、国際紛争には、ただ、国連のみが国際裁判、警察としての警察力、武力保持や武力行使を担い、決して、紛争当事国どうしは、各国の警察といえども武力行使は禁止ということにさせたいもの。
そして、国連は、公平が必要だし、各国の警察を肥大化させないよう、査察を厳密にして、各国公平な警察力に限定する任を果たさせたい。
まず、国連には、何よりも、テロや国際紛争防止のため、各国に人権、民主的国際世論を喚起させたいもの。
国連が、最終的な、万やむを得ない武力行使をしたとしても、可能な限り、殺人ということのない、攻撃阻止のための牽制であってもらいたいもの。
国際テロ対策も、そのテロが生まれる、非人権的状況や、南北の格差への国際的是正、援助等がある筈。
有事への対処も、甚だ絶望的だが、まず、何より、平素から、有事にならぬように諸外国と信頼、人権和平、互恵外交をしておくべき筈。
だが、それでも、なお、武力攻撃を受けたとしても、非は向こうにある故、いたずらに、交戦して、殺傷の被害の増大をもたらすより、国連、国際世論に訴えて、なるべく、非暴力で殺傷の被害を少なくするようにつとめたいものと考える。
たとえ殺され全滅しても、釈迦族やガンジー(その差別性は是認できぬが)の如く、非暴力不服従で、自分たちは、殺すことはなかったという崇高な道に永遠に生きたいと願う。
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