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論述
尊き森本同行
 
(法話上、具体例の必要ということで)
「山県の森本梅太郎同行逸話その1」
  「先輩(亡父)談」「布教団員」
 
戦時中、反戦的な言動はタブーであった時、「森本」さんは、法座に参詣されたみんなの前でこのように語られたという。
「今、国を挙げて、戦争に勝て勝て言うて、神さんや仏さんの前で言うたり、願ったりしとるが、皆さんはどう思われるかしらんが、戦争いうもんは人が殺し、殺されるいうことじゃが、それを、神仏の前で、言うたり願ったりするということは、わしはどう考えてもおかしなことじゃと思うんですがのう」と。
そばにいて、「あがあな事を言うてええんか」とびっくりした人は、戦後、「今になって思えば、当時とても言えん時に、よう思いきって言われたもんじゃ、たいした人じゃったと思いますよ」と感嘆しておられた。
(法話上、具体例の必要ということで)
「山県の森本梅太郎同行逸話その2」
   「先輩(亡父)談」「布教団員」
 
平生、いつもよく言っておられたという、素晴らしい言葉が今なお残っている。
「この世にゃあ、他人はおりませんけえのお」という言葉。
そして某女性の記憶にある言葉
「朝鮮の人じゃけえいうて、差別しちゃあいけんので」という言葉
又、竹細工の行商に来ていた人々を、たいてい森本さんは休ませてあげていた。
そして、森本さんの言われた言葉
「どこでどういうことだったのかしらんが、あなた方が世間で、いわゆる差別ということで、難儀されておられるということはのお」というようなことを申しておられたという家族の思い出も残っている。
(法話上、具体例の必要ということで)
「山県の森本梅太郎同行逸話その3」
   「先輩(亡父)談」「布教団員」
 
家族同様育てられた姪さんの想い出
「分け隔てられたことはありませんでした。昔、髪はザンバラ、顔は真っ赤の鬼のような、ボロを着た、いわゆる「物もらいの人」を父(森本さん)は家に上げたことがありました。
その上、父は、その人のボロ着を脱がせ、父の服を上げ、ご飯食べさせて上げて、泊めて上げたんですよ。
私は恐くて、恐くて。
朝には弁当まで作って上げていました。
私らが学校に行く時に見たのですが、もうその人は道上の方でその弁当を食べていました。
誰もなかなかようせんことをしていた尊い父でした。
(法話上、具体例の必要ということで)
「山県の森本梅太郎同行逸話その4」
   「先輩(亡父)談」「布教団員」
 
息子さんの想い出話
「母に早く先立たれ、子供の時から、あちこちの寺へ、きょうだい連れ立って、夜でも聴聞に参らされたものです。
子供の時の、強烈な忘れることの出来ない、想い出があります。
夜中に起こされて、父親に連れて行かれたところは、なんと火葬場でした。
そこでは、誰かが夜中中、火葬にされていました。
その、まだ燃えておられる遺体を前にしてこう父は語りました。
「ええか、よう見ておけ、人間はのう、みんなこうなるんでえ、だけえ、よう聞かしてもろうとかにゃいけんので」等と
(法話上、具体例の必要ということで)
「山県の森本梅太郎同行逸話その5」
   「先輩(亡父)談」「布教団員」
 
「森本さんは、自分がお供えしたということを誰にも告げず、庫裏の台所の戸の前に、そっと炭俵を置いておくような人だった。
そういうことをされるのは、森本さんしかおられんけえ、後で、ああ、森本さんが供えて下さったと気がついたもんじゃ。
戦争中、国債を部落で割り当てられて、買わねばならん時、森本さんは、生活のしんどい家の分まで自分でかぶっておられた。
そして家族に、こう言っておられた。
「ええか、わしが死んでも、墓に参らんでもええ。
墓のこたあ心配せんでええ。
わしに会いたいと思やあ、寺へ参って聴聞してくれえ」と
拝読「浄土真宗のみ教え」対論その3              
 
「はじめに」
 
一昨年、昨年の拝読「浄土真宗のみ教え」対論の続きである。
前回、述べたように、この対論は、「阿弥陀仏を、実際に、一切を成仏させるという、救済力のある、何らかの不可思議な実体、実在として信仰し、それにお任せして、安心するという、従来及び現在の大多数の信仰」への問題提起である。
そのわけは、従来の浄土真宗教学の根拠が、七祖、宗祖、列祖の教学であり、私は、それに対して、教学根拠を、七祖、宗祖、はるか以前、今からおよそ2千年前、釈尊も説かなかった、三経、ことに作者不明の、大経創作者の思想精神に置こうとしているからである。
そして、この大経創作者の思想精神とは、法蔵菩薩の精神として象徴化された、仏教思想のキーワードの、縁起を基にした、「無我、慈悲、利他、布施」等の思想精神と了解している。
それ故、阿弥陀仏とは、経典創作者による、仏教思想の人格的象徴表現、もしくは、釈尊の人格的永遠化という解釈である。
私は、この大経創作者の思想精神を教学根拠にして、従来の阿弥陀仏信仰教学ではなく、阿弥陀仏の実質としての「無我、慈悲、利他、布施」等の思想精神から、自己と社会を厭い、それゆえの自己と社会の解放と創造の道を学ぼうとするものである。
以上から、引きつづき、この、拝読「浄土真宗のみ教え」への対論として、逐一、対論の文章化を試みてみる。  
残りはまた他日とする。  
対論で変えた文章は文中、斜体とする。
「他力本願」
本文  
他力とは、阿弥陀如来の本願のはたらきであり、これを他力本願という。
他力本願は、如来から私に向けられたはたらきであって、自分の望みを他人まかせにすることではない。 対論    
他力とは、阿弥陀如来の本願と象徴表現された、無我、慈悲等、真実の、虚仮不実への自己同化作用であり、これを他力本願と表現している。
他力本願は、如来と象徴表現された、無我、慈悲等、真実が虚仮不実のを、虚仮不実と自覚、慙愧せしめ、同時に、自覚的に、真実に向かわしめるはたらきであって、自分の望みを他人まかせにすることではない。
本文
阿弥陀如来は四十八の願いを発して仏となられた。
その願いの根本である第十八の願は、「われにまかせよ、わが名を称えよ、浄土に生まれさせて仏にならしめん」という願いである。 対論 阿弥陀如来は四十八の願いを発して仏となられた、と、このように、無我、慈悲等、真実を人格的に象徴表現してある。
その願いの根本である第十八の願は、「一切の衆生を、阿弥陀仏や浄土の真実に目覚ましめ、阿弥陀仏や浄土の真実を願わしめ、阿弥陀仏や浄土の真実に成就せしめん」という願いである。
本文
如来は、私たちを救わんとしてつねに寄り添い、南無阿弥陀仏のよび声となって、われにまかせよと、はたらき続けておられる。
このはたらきを他力といい、本願力というのである。対論  如来は、私たちを救わんとしてつねに寄り添い、南無阿弥陀仏のよび声となって、われをよりどころにせよと、はたらき続けておられる、と、無我、慈悲等の真実をこのように人格的に象徴表現してある。
この真実の、虚仮不実に対する自己同化作用を他力、本願力と表現したのである。本文
阿弥陀如来の本願のはたらきにおまかせして、念仏を申しつつ、如来の慈悲につつまれて、浄土への道を歩ませていただくのである。
対論阿弥陀如来の本願と象徴表現された真実に目覚めて、念仏をつぶやきつつ、如来の慈悲と象徴表現された真実うながされて、浄土への道と象徴表現された、無我、慈悲、利他、布施等、究極の真実の自己実現と究極の境涯実現(往生成仏)に向かう道を歩ませていただくのである。
 
 「如来の呼び声」
本文   
阿弥陀如来は、すべての者を救いたいと願われ、南無阿弥陀仏の名号を完成された。
名号は、如来の智慧と慈悲を円かに具えた、救いのはたらきそのものである。対論阿弥陀如来は、すべての者を救いたいと願われ、南無阿弥陀仏の名号を完成されたと、このように、真実というものの、虚仮への自己同化作用を人格的に象徴表現してある
名号は、如来の智慧と慈悲を円かに具えているとの、真実というものの実質の象徴表現であり、虚仮の自己と世界を真実に自己同化せんとする、真実の作用の象徴表現そのものである。
本文 南無阿弥陀仏は、「必ず救う、われにまかせよ」との阿弥陀如来のよび声である。 如来は、偽りと真実の見分けもつかない凡夫を哀れみ、名号による救いを選び取られた。
如来のみ名は、遍く世界に響きわたり、この真実の救いにまかせよと、よび続けておられる。 そのよび声は、私の称える南無阿弥陀仏の念仏となって、今ここに至りとどいている。
念仏の声を通して、如来の大悲のよび声を聞かせていただく。
対論
南無阿弥陀仏は、「必ず真実に目覚めさせ、救い導く、われをよりどころにせよ」との阿弥陀如来のよび声と、無我、慈悲等の真実の作用を象徴表現してある。 如来は、偽りと真実の見分けもつかない凡夫を哀れみ、名号による救いを選び取られた、と真実の作用を象徴的に表現してある。
如来のみ名は、遍く世界に響きわたり、この真実の救いにめざめよとよび続けておられると真実の作用を象徴表現してある。
 そのよび声と象徴表現されたものからのの真実と虚仮への目覚めは、私のつぶやく南無阿弥陀仏の念仏となって、今ここに実証されている。
念仏の声を通して、如来の大悲のよび声と象徴表現された、真実からのうながしにうなづかされる。
 
 
 
2005/08/16
教学研究所への質問「無信心者の往生成仏論」
 
教学研究所様 03/06/14
 
突然にて失礼します。
かねてからの教義上の問題で苦慮するところがありまして、ここに私の課題を提示させていただきますので、ご多用中、甚だ恐縮ですが、もしよろしければ、ご回答くだされば幸いです。
「信心無き者は往生成仏せず」、ということについて。
確かに、信心無き者は往生成仏せずということは、教学の常識でした。
一番の重要なことは、信心そのものの内容と思います。
絶対のお任せだけで、信心とは言えないのではないかと考えます。
いわゆる、信心の社会性ですが、封建権力支配差別体制の世をいとうしるしとしての、親鸞様の信心に違背して、封建権力を世間通途で容認し、真俗二諦の教学で侵略戦争と一体化した信心は、いくら阿弥陀仏に絶対のお任せをしていても、誤った信心といえるのではないかと考えるのです。
つまり、いくら、絶対のお任せの信心でも、命や、人間の尊厳が侵されている状況に問題意識を持たず、容認、荷担している信心では信心とは言えないと考えるのです。
つまり、信心とは、阿弥陀仏や浄土に真実がうなづけ、この自分とこの世に、真実ならざることがうなづけて、慚愧と共に、我が身とわが世を厭うしるしとしての、真実を願求する主体が成立していることと考えます。
以上からすれば、この信心を失った人々の人生は、覚如、存覚、蓮如さん他、いくら門主、勧学、和上といえども、迷いの人生であり、信不具足、聞不具足で、往生成仏不可という事になるのではないかということです。
もとより、阿弥陀仏から見放されたのではなく、阿弥陀仏の深い悲しみの中に有ることは間違いありませんが。
同じように、聞法の縁無き人も、小児も、異教徒も、往生成仏不可ということですが、凡夫である限り、阿弥陀仏の慈悲の中に包摂されていることには、ちがいはありません。
そういうわけで、無信心者は、死後即座には往生できないが、無限のお慈悲の中で、何時か必ず往生成仏することは誓われているということも語られてきました。
ここで、でも、もはや死んだものはもう聞法できないし、信心いただけんじゃないか?
じゃあ、もし何時の日にか聞法するとするなら、輪廻転生を認めねばならないじゃないか?ということも出てきます。
まあ、これらの問いには、仏教は、死後の事実を詮索するものではなく、真実とは何かを顕かにするのが仏法だから、その問いはナンセンスだと切り捨てることも出来ますね。
しかし、阿弥陀仏の慈悲の中にいながら、5百年間の疑城胎宮も妙なものですし、死後即座には往生成仏できぬというのは妙ですね。
阿弥陀仏の慈悲の中にいながら、しばらく、迷いの中にさまよっているわけですから。
そこで、私は、本来、仏教は、阿弥陀仏の大慈悲の真実が顕かになればそれでよいのだからと考え、
次のように大胆に変更表現してみてはどうだろうかと考えます。
なぜなら、詳しくは知りませんが、もともと、経典は、無名の誰かが創作したものと考えられますし、阿弥陀仏因位説話にも、大宝積経などに説かれる、焔意王など法蔵説話以外に、なんと15も異説があるといいますから
、現代はもっと阿弥陀仏の真実が顕かに受けとめられるように、新しく創作し直しても良いはずと傲慢にも考えるのです。
これが傲慢なら、お釈迦様が実際は説かなかった、浄土教を仏説として表現した無名の経典作者はどうなるんだろうと思います。
さて、以下が私の大胆変更表現です。
真実信心得た人は、すでに、その人の人生が救われており、死後も往生成仏と還相利他教化が約束されているが、真実信心不得の人は、すくわれざる、迷いの人生であったが、死後、信心無くとも、本人は知らずとも、如来の名号はすでに命に届けられてあるのだから、この如来の名号の働きによって、必ず、死後即座に往生成仏し、あわせて、生前の不信心の迷いの人生を慚愧し、仏として、還相利他教化にいそしむ。
と解釈しなおしたいものと考えます。
この方がすっきりすると考えます。
もとより、じゃあ、どんな大罪悪を犯しても、死にさえすれば、とにかく、往生成仏出来るんだから、どんな罪も犯してもよいというのはナンセンスであることは言うまでも有りません。
仏の慈しみと、悲しみを感じれば、慚愧有るのみですからね。
何らかのご教示くだされば、何より幸いです。 合掌
拝読「浄土真宗のみ教え」対論その3              
 
「はじめに」
 
一昨年、昨年の拝読「浄土真宗のみ教え」対論の続きである。
前回、述べたように、この対論は、「阿弥陀仏を、実際に、一切を成仏させるという、救済力のある、何らかの不可思議な実体、実在として信仰し、それにお任せして、安心するという、従来及び現在の大多数の信仰」への問題提起である。
そのわけは、従来の浄土真宗教学の根拠が、七祖、宗祖、列祖の教学であり、私は、それに対して、教学根拠を、七祖、宗祖、はるか以前、今からおよそ2千年前、釈尊も説かなかった、三経、ことに作者不明の、大経創作者の思想精神に置こうとしているからである。
そして、この大経創作者の思想精神とは、法蔵菩薩の精神として象徴化された、仏教思想のキーワードの、縁起を基にした、「無我、慈悲、利他、布施」等の思想精神と了解している。
それ故、阿弥陀仏とは、経典創作者による、仏教思想の人格的象徴表現、もしくは、釈尊の人格的永遠化という解釈である。
私は、この大経創作者の思想精神を教学根拠にして、従来の阿弥陀仏信仰教学ではなく、阿弥陀仏の実質としての「無我、慈悲、利他、布施」等の思想精神から、自己と社会を厭い、それゆえの自己と社会の解放と創造の道を学ぼうとするものである。
以上から、引きつづき、この、拝読「浄土真宗のみ教え」への対論として、逐一、対論の文章化を試みてみる。  
残りはまた他日とする。  
対論で変えた文章は文中、斜体とする。
「他力本願」
本文  
他力とは、阿弥陀如来の本願のはたらきであり、これを他力本願という。
他力本願は、如来から私に向けられたはたらきであって、自分の望みを他人まかせにすることではない。 対論    
他力とは、阿弥陀如来の本願と象徴表現された、無我、慈悲等、真実の、虚仮不実への自己同化作用であり、これを他力本願と表現している。
他力本願は、如来と象徴表現された、無我、慈悲等、真実が虚仮不実のを、虚仮不実と自覚、慙愧せしめ、同時に、自覚的に、真実に向かわしめるはたらきであって、自分の望みを他人まかせにすることではない。
本文
阿弥陀如来は四十八の願いを発して仏となられた。
その願いの根本である第十八の願は、「われにまかせよ、わが名を称えよ、浄土に生まれさせて仏にならしめん」という願いである。 対論 阿弥陀如来は四十八の願いを発して仏となられた、と、このように、無我、慈悲等、真実を人格的に象徴表現してある。
その願いの根本である第十八の願は、「一切の衆生を、阿弥陀仏や浄土の真実に目覚ましめ、阿弥陀仏や浄土の真実を願わしめ、阿弥陀仏や浄土の真実に成就せしめん」という願いである。
本文
如来は、私たちを救わんとしてつねに寄り添い、南無阿弥陀仏のよび声となって、われにまかせよと、はたらき続けておられる。
このはたらきを他力といい、本願力というのである。対論  如来は、私たちを救わんとしてつねに寄り添い、南無阿弥陀仏のよび声となって、われをよりどころにせよと、はたらき続けておられる、と、無我、慈悲等の真実をこのように人格的に象徴表現してある。
この真実の、虚仮不実に対する自己同化作用を他力、本願力と表現したのである。本文
阿弥陀如来の本願のはたらきにおまかせして、念仏を申しつつ、如来の慈悲につつまれて、浄土への道を歩ませていただくのである。
対論阿弥陀如来の本願と象徴表現された真実に目覚めて、念仏をつぶやきつつ、如来の慈悲と象徴表現された真実うながされて、浄土への道と象徴表現された、無我、慈悲、利他、布施等、究極の真実の自己実現と究極の境涯実現(往生成仏)に向かう道を歩ませていただくのである。
 
 「如来の呼び声」
本文   
阿弥陀如来は、すべての者を救いたいと願われ、南無阿弥陀仏の名号を完成された。
名号は、如来の智慧と慈悲を円かに具えた、救いのはたらきそのものである。対論阿弥陀如来は、すべての者を救いたいと願われ、南無阿弥陀仏の名号を完成されたと、このように、真実というものの、虚仮への自己同化作用を人格的に象徴表現してある
名号は、如来の智慧と慈悲を円かに具えているとの、真実というものの実質の象徴表現であり、虚仮の自己と世界を真実に自己同化せんとする、真実の作用の象徴表現そのものである。
本文 南無阿弥陀仏は、「必ず救う、われにまかせよ」との阿弥陀如来のよび声である。 如来は、偽りと真実の見分けもつかない凡夫を哀れみ、名号による救いを選び取られた。
如来のみ名は、遍く世界に響きわたり、この真実の救いにまかせよと、よび続けておられる。 そのよび声は、私の称える南無阿弥陀仏の念仏となって、今ここに至りとどいている。
念仏の声を通して、如来の大悲のよび声を聞かせていただく。
対論
南無阿弥陀仏は、「必ず真実に目覚めさせ、救い導く、われをよりどころにせよ」との阿弥陀如来のよび声と、無我、慈悲等の真実の作用を象徴表現してある。 如来は、偽りと真実の見分けもつかない凡夫を哀れみ、名号による救いを選び取られた、と真実の作用を象徴的に表現してある。
如来のみ名は、遍く世界に響きわたり、この真実の救いにめざめよとよび続けておられると真実の作用を象徴表現してある。
 そのよび声と象徴表現されたものからのの真実と虚仮への目覚めは、私のつぶやく南無阿弥陀仏の念仏となって、今ここに実証されている。
念仏の声を通して、如来の大悲のよび声と象徴表現された、真実からのうながしにうなづかされる。
 
 
 
2005/08/16
仏教・真宗・部落問題
仏教・真宗・部落問題                05,01,11
 
1,仏教  (仏教は宗教というが、仏教は仏教である。)
 
釈迦(およそB・C624〜544)の体得した道(覚り)を基にして展開された世界観
 
釈迦の求道 (生死の解脱)29才の出家、35才の覚り
 
(覚り)の内容(縁起の法)「天地と我と一体、万物と我と同根、万物個々の絶対尊厳と                                  平等」の体得
(覚り)への道 四諦「苦・集・滅・道」
 
苦諦とは、四苦「生・老・病・死」八苦「四苦+愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・
                                   五蘊盛苦」
    五蘊とは、色「肉体」・受「感受」・想「知覚表象」行「意志その他」識「識別」
集諦とは「苦」の原因で、「惑〔(縁起の法)への無自覚〕と業〔(縁起の法)                         への無自覚な自己中心的な行為〕
滅諦とは(覚り)の世界であり、我執、煩悩を完全に解脱し、滅した境地
 道諦とは(覚り)への方法論であり、八正道「正見、正思惟、正語、正業、正命、                              正精進、正念、正定」
仏陀「覚者」とは(自覚、覚他、覚行窮満身)・生死の解脱者・自他一如の智慧と慈悲の      完成者・無我、慈悲、利他、布施の完全実践者(究極の自己実現、解放主体)
迷いの構造 (縁起の法)への無自覚→自我への執着→貧欲 →闘争 →勝敗の決着
       勝者 →驕慢・威張り     敗者→怒り→僻み・愚痴
仏教徒とは、(自他共に菩提心「願作仏心・度衆生心」に生きようとするるもの。)    「願作仏心」とは仏になろうとする心・「度衆生心」とは生きとし生け        るものを救おうとする心であり、自他共に「仏」を目指そうとする心。      「万物、生命の絶対尊厳と平等不可侵への願いに生きようとし、国家、民族、      宗教、思想信条、権力等を相対化し、これらが孕む自己中心性を超え、自己                    と世界の解脱解放に生きようとするもの。」
2,真宗                       
 
親鸞「1173〜1262」の開いた仏教
「阿弥陀仏に真実を見出し、不実の自己と世界をいたみ、自己と世界の真実化への道に生きようとする教え。」
 
親鸞の求道人生 母早逝・9才出家比叡山へ・目標は成仏・成仏不可の絶望・既成仏教への不信感・在家仏教者、聖徳太子(仏教的政治観「17条憲法」の制定者)へのあこがれ・29才比叡山下山・法然上人に師事・阿弥陀仏への帰依・35才の念仏弾圧・還俗、死刑から越後流罪へ・非僧非俗・肉喰妻帯、三男三女・関東伝道・60歳代帰洛・80才、妻「恵信」越後へ帰郷・83才頃関東教団、長男善鸞によって混乱・84才長男善鸞義絶・90才往生まで朝廷、幕府の念仏停止令など弾圧12度
 
親鸞の阿弥陀仏帰依 「悪性さらにやめ難し、心は蛇蝎の如くなり、修善も雑毒なる                 故に虚仮の行とぞなづけたる」(親鸞悲歎述懐讃)
如何にしても、成仏不可の身には、仏は、天上の月の如く届き得ない、遠き彼方にあった。
ところが、聞いてみれば、阿弥陀仏は、この凡夫の成仏不可を既に知り抜いていて、それ故にこそ、仏の本性的責任として、吾等が頼まずとも、吾等に代って、吾等の為すべき真実の願も行も「南無阿弥陀仏」に仕上げ、既に、虚仮不実の吾等に届けられ、しかも既にこの阿弥陀仏の大慈悲の中に包摂されていたという、この一切を包含する、不可思議なる、阿弥陀仏の絶対の大慈悲に、ついに帰依したのであった。
と同時に、この阿弥陀仏の、一切に開かれながらも、罪業深重なるものをこそ救わねばという最も広く、最も深い大慈悲というものにこそ、「ここにこそ真実というものがある、この仏心をおいてどこに真実というものがあろうか」との「真実への自覚」というものが成立したと考え得る。
この「真実への自覚」故に自己、人間、社会の不実を悲嘆し、真実化(解放)への願いに生きてゆこうとする人間主体の確立があった。
この人間主体確立への道こそが万人救済の道といえる。
 
親鸞の生き方
 
神祇不拝・世間虚仮、世をいとうしるしとしての念仏・非権力的、同朋自律社会への願い・被差別者との同座、熊皮の御影「重要文化財」、狸皮の敷物、猫皮の草履の御影「国宝」・吉凶禍福、日柄方角、祈祷など、迷信、俗信からの解放・既成仏教批判「五濁増のしるしには、この世の道俗ことごとく、外儀は仏教の姿にて、内心外道を帰敬せり」・黒衣・色衣、金襴からの決別・非僧非俗・念仏弾圧者を憎みそしること有るべからず、あわれみを為し、悲しみの心を持つべし「手紙」・(出家の人の法は国王に向かいて礼拝せず、父母に向かいて礼拝せず、六親につかえず、鬼神を礼せず)「主著・顕浄土真実教行証文類」
 
親鸞以降の親鸞からの逸脱
 
阿弥陀仏と死後往生浄土への実体的信仰に重点がかかり(後生の一大事)、非権力的、同朋自律社会を願う社会性の喪失(生き方は世間通途)・蓮如に見られる、仏法は内心、王法は額(真俗二諦)・神道容認・教団内、部落差別(穢僧、穢寺、差別法名、添え書き)・侵略戦争と一体「法主・大谷光瑞(第二次近衛内閣参議、大東亜建設審議会委員、小磯内閣顧問)・宗務長・大谷尊由(第一次近衛内閣、拓務大臣・北支那開発株式会社総裁)」
 
現代の真宗の課題
 
「教学課題」  阿弥陀仏、浄土のとらえ方(実体から象徴へ、二元から一元へ、信仰か                                  ら自覚へ)
「教団課題」  世襲制、院号、叙勲追認他、
 
「対、社会課題」   反戦反差別への具体的実践(天皇制、自衛隊、憲法、教育基本法             改悪、靖国、原発、死刑、戦争補償、人権問題一切、)
3,部落問題
 
水平社綱領「吾等は人間性の原理に覚醒し、人類最高の完成に向かって突進す」の精神こそ、差別者、被差別者に関わらず、「普遍的人間主体の確立」つまり、万人及び世界解放の思想原理として仏教思想と通底している。
差別者とは、差別社会の中で、人間性の原理に覚醒することを閉ざされ、差別するというそのところで人間疎外に陥って、差別させられている人であり、加害者であるが、実は、被害者であるという差別者へのとらえ方に、親鸞の手紙にもあるとうり、「念仏するものは、念仏を妨げるものを、あわれみ、ふびんに思って、妨げるものをたすけてあげなさい」に通底する。
部落解放運動は、市民的権利の疎外された問題であるが、その権利獲得の運動と同時に、お互い万人の人間疎外からの人間回復、普遍的人間主体の確立、人間解放運動であり、社会解放運動である。
それ故、自己の差別性にもきびしく、そして社会のありとあらゆる差別という、人間疎外の問題、殊に、戦争という最大の人権侵害に取り組んでゆく、この反戦、反差別の運動は果てしない。
行動の質も量も、自分の主体の質と量にあることを自省を込めて確認したい。
           
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
拝読「浄土真宗のみ教え」対論その3              
 
「はじめに」
 
一昨年、昨年の拝読「浄土真宗のみ教え」対論の続きである。
前回、述べたように、この対論は、「阿弥陀仏を、実際に、一切を成仏させるという、救済力のある、何らかの不可思議な実体、実在として信仰し、それにお任せして、安心するという、従来及び現在の大多数の信仰」への問題提起である。
そのわけは、従来の浄土真宗教学の根拠が、七祖、宗祖、列祖の教学であり、私は、それに対して、教学根拠を、七祖、宗祖、はるか以前、今からおよそ2千年前、釈尊も説かなかった、三経、ことに作者不明の、大経創作者の思想精神に置こうとしているからである。
そして、この大経創作者の思想精神とは、法蔵菩薩の精神として象徴化された、仏教思想のキーワードの、縁起を基にした、「無我、慈悲、利他、布施」等の思想精神と了解している。
それ故、阿弥陀仏とは、経典創作者による、仏教思想の人格的象徴表現、もしくは、釈尊の人格的永遠化という解釈である。
私は、この大経創作者の思想精神を教学根拠にして、従来の阿弥陀仏信仰教学ではなく、阿弥陀仏の実質としての「無我、慈悲、利他、布施」等の思想精神から、自己と社会を厭い、それゆえの自己と社会の解放と創造の道を学ぼうとするものである。
以上から、引きつづき、この、拝読「浄土真宗のみ教え」への対論として、逐一、対論の文章化を試みてみる。  
残りはまた他日とする。  
対論で変えた文章は文中、斜体とする。
「他力本願」
本文  
他力とは、阿弥陀如来の本願のはたらきであり、これを他力本願という。
他力本願は、如来から私に向けられたはたらきであって、自分の望みを他人まかせにすることではない。 対論    
他力とは、阿弥陀如来の本願と象徴表現された、無我、慈悲等、真実の、虚仮不実への自己同化作用であり、これを他力本願と表現している。
他力本願は、如来と象徴表現された、無我、慈悲等、真実が虚仮不実のを、虚仮不実と自覚、慙愧せしめ、同時に、自覚的に、真実に向かわしめるはたらきであって、自分の望みを他人まかせにすることではない。
本文
阿弥陀如来は四十八の願いを発して仏となられた。
その願いの根本である第十八の願は、「われにまかせよ、わが名を称えよ、浄土に生まれさせて仏にならしめん」という願いである。 対論 阿弥陀如来は四十八の願いを発して仏となられた、と、このように、無我、慈悲等、真実を人格的に象徴表現してある。
その願いの根本である第十八の願は、「一切の衆生を、阿弥陀仏や浄土の真実に目覚ましめ、阿弥陀仏や浄土の真実を願わしめ、阿弥陀仏や浄土の真実に成就せしめん」という願いである。
本文
如来は、私たちを救わんとしてつねに寄り添い、南無阿弥陀仏のよび声となって、われにまかせよと、はたらき続けておられる。
このはたらきを他力といい、本願力というのである。対論  如来は、私たちを救わんとしてつねに寄り添い、南無阿弥陀仏のよび声となって、われをよりどころにせよと、はたらき続けておられる、と、無我、慈悲等の真実をこのように人格的に象徴表現してある。
この真実の、虚仮不実に対する自己同化作用を他力、本願力と表現したのである。本文
阿弥陀如来の本願のはたらきにおまかせして、念仏を申しつつ、如来の慈悲につつまれて、浄土への道を歩ませていただくのである。
対論阿弥陀如来の本願と象徴表現された真実に目覚めて、念仏をつぶやきつつ、如来の慈悲と象徴表現された真実うながされて、浄土への道と象徴表現された、無我、慈悲、利他、布施等、究極の真実の自己実現と究極の境涯実現(往生成仏)に向かう道を歩ませていただくのである。
 
 「如来の呼び声」
本文   
阿弥陀如来は、すべての者を救いたいと願われ、南無阿弥陀仏の名号を完成された。
名号は、如来の智慧と慈悲を円かに具えた、救いのはたらきそのものである。対論阿弥陀如来は、すべての者を救いたいと願われ、南無阿弥陀仏の名号を完成されたと、このように、真実というものの、虚仮への自己同化作用を人格的に象徴表現してある
名号は、如来の智慧と慈悲を円かに具えているとの、真実というものの実質の象徴表現であり、虚仮の自己と世界を真実に自己同化せんとする、真実の作用の象徴表現そのものである。
本文 南無阿弥陀仏は、「必ず救う、われにまかせよ」との阿弥陀如来のよび声である。 如来は、偽りと真実の見分けもつかない凡夫を哀れみ、名号による救いを選び取られた。
如来のみ名は、遍く世界に響きわたり、この真実の救いにまかせよと、よび続けておられる。 そのよび声は、私の称える南無阿弥陀仏の念仏となって、今ここに至りとどいている。
念仏の声を通して、如来の大悲のよび声を聞かせていただく。
対論
南無阿弥陀仏は、「必ず真実に目覚めさせ、救い導く、われをよりどころにせよ」との阿弥陀如来のよび声と、無我、慈悲等の真実の作用を象徴表現してある。 如来は、偽りと真実の見分けもつかない凡夫を哀れみ、名号による救いを選び取られた、と真実の作用を象徴的に表現してある。
如来のみ名は、遍く世界に響きわたり、この真実の救いにめざめよとよび続けておられると真実の作用を象徴表現してある。
 そのよび声と象徴表現されたものからのの真実と虚仮への目覚めは、私のつぶやく南無阿弥陀仏の念仏となって、今ここに実証されている。
念仏の声を通して、如来の大悲のよび声と象徴表現された、真実からのうながしにうなづかされる。
 
 
 
2005/07/19
解放の教学・反靖国の解放の教学
 
解放の教学       05,02,21
 
1,解放の教学以前の解放の思想
 
一,自己の解放課題
 
老・病・死・性・障害・能力・性格気質等身体的、精神的苦悩
 
二,社会の解放課題
 
  家族・血族・民族・国家・人類・身分・地位・権力・律法等の束縛
 
三,上記一、二の解放原理としての「人間性」「ヒユーマニズム」「理性」の例
 
水平社綱領の文言「吾等は人間性の原理に覚醒し、人類最高の完成に向かって突進す」
 
2,釈迦・通仏法の解放思想(釈迦及び仏弟子なりの人間性の自覚を根拠とする)
 
縁起・四諦・八正道・空・無我・慈悲・利他・布施・一切衆生悉有仏性等
 
自他共に成仏道を目指す、発菩提心(上求菩提・下化衆生)(願作仏心、度衆生心)的求道主体の確立に、上記、自己及び社会の諸課題からの解放を説く。(上記、水平社綱領の精神に通底)
 
3,釈迦滅後、約五〇〇年頃、法蔵説話含めその他一五異説の阿弥陀仏因位、説話経典を独創的に創作した、無名の経典作者達の解放思想(経典作者なりの人間性の自覚を根拠とする)
 
釈迦及び通仏法の解放思想を基にして、究極の解放主体を、象徴的に阿弥陀仏と創作表現し、同じく、究極の解放世界を、象徴的に浄土と創作表現した思想。
 
4,浄土教思想及び浄土経典成立の背景
 
釈迦在世当時に於いても、釈迦滅後に於いても、仏道を自覚的に主体化する人々は、そんなに多数ではなかったであろう。
多数の民衆が、四苦八苦に悩み、罪の報いに怖れ、不安と孤独と死や死後の恐怖、そして死後、死者との再会、輪廻の切断等に苦悩していたと考えられる。
この民衆の苦悩や願望に沿いながら、いかにして民衆を自覚的仏道に導き入れるかというのが当時の仏教徒の課題であったと思える。
そこに、浄土教思想及び浄土経典成立の背景を考える。
例えば、大経下巻には、釈迦が事実として、阿難や、聴衆に阿弥陀仏や、浄土を見せ、仏の説法の声まで阿難が聞いたことを事実であったかの如く説いている。
さらに、巻末には、釈迦が、「諸々の衆生のために、この説法をし、阿弥陀仏や浄土の一切の有様を事実見せた。これらに、疑念、質疑が有れば尋ねよ。私の死後、疑ってはならぬ。」と説法したという設定になっている。
このように、阿弥陀仏と浄土の実在を信仰せしめて、仏道に導き、自己と社会の課題の解放に向かわせようとの経典作者の意図をうかがうのである。
 
 
 
 
5,浄土経典成立後の浄土教
 
この経典が創作されておよそ200年後に誕生したのが龍樹であるが、上記のように、単に信仰だけでなく、解放の仏道に民衆が導かれたかどうか定かでない。
その後、中国から、日本へと浄土教の流れは伝わったが、平安浄土教のような、単なる、以楽願生的な非仏道的信仰もあった。
しかし、その中で、自覚的な解放の信仰を伝えた、空也・千観があり、その後法然・親鸞があった。
だが、残念ながら、親鸞滅後は、自覚的な解放の信仰は久しく失われたようだ。
もとより、親鸞も、実体的な信仰の歴史制約の中にある。
「この三部経は、釈迦如来の自説にてましますとしるべしとなり。」(御消息10)
経典成立の実証的研究の進んだ現在、上記拙論を基に、別紙の如く、解放の教学を考察してみるものである。
 
 
反靖国を担う解放の教学                                             
 
はじめに
 
反靖国を担う解放の教学は、同時に、天皇制、自衛隊、憲法9条・教育基本法改悪、死刑、原発から門主制、院号、等まで相対化できるものであるはず。
ところが、基幹運動内部においても、これらを課題として取り組む声はまだ小さい。
この元凶はひとえに教学にあると考え、ここに反靖国、反戦反差別を担う解放の教学というものを考察してみたい。
 
1,反靖国が担えない教学
 
これは、いわゆる阿弥陀仏と浄土を何らかの実体的な実在として捉える、信仰こそが、生と死の解決であり、よりどころであり、何より大事であるとして、社会の問題には、ほとんど関心が無い教学。
ご安心第一主義で、世間通途の教学。
 
2,反靖国が担えても、二の次になる教学
 
上記1と同じ、阿弥陀仏と浄土への信仰こそが、何より大事であるとし、その次に、社会の問題にも取り組まねばということで、靖国問題にも目を向けるというような教学。
ごく一般的で、人権、平和に取り組む基幹運動よりも、信仰に比重がかかっている教学。
 
3,反靖国を信仰と同一次元で取り組む教学
 
阿弥陀仏や浄土への信仰から、阿弥陀仏の大慈悲をふまえて、あらゆる生命、人間の尊厳と平等を自覚せしめられるが故に、その尊厳と平等を侵す靖国問題が避けて通れぬ、信仰と一体の問題となって反靖国を担う教学。
これは、信仰と運動とを同等に捉えながら、やはり実体的信仰に立脚する教学。
 
4,反靖国を、実体的信仰でなく、自覚的信心に立脚して、同一次元で取り組む教学。
 
これを信楽峻麿(元・龍谷大学学長)著「現代真宗真偽論」を参考に考察してみる。
それによると、「しかし、今日の真宗においては、信心と信仰とが混同されて、阿弥陀仏を信仰するという。
いかに真宗信心が、二元的対象的な信と誤解されているかが明瞭であります。」とあり、
その「まとめ」には
 一、「阿弥陀仏とは、象徴的な存在であって、それを実体的な存在として捉えてはならない。」とある。
藤田宏達という仏教学者の「お釈迦様は阿弥陀様や浄土のことについて実際には説かれていなかった」論と同じく
「阿弥陀仏思想の成立がそうです。 誰がこの『無量寿経』を作成したかは分かりません。
釈尊が説いたということになっているが、彼が亡くなって五百年の後に成立したものです。」とある。
又、月を差す指のたとえにあるように、指を見ても月は見えず、月を見るのは、指を離れて指さす彼方を見るべきであるように、
「かくして阿弥陀仏も、その名号も、全て究極的、普遍的な、真実、実在についての指月の指、象徴表現でしかなく、その指月の彼方にある、究極的な真実そのものを体解し、それについて覚醒していくことが重要なわけであります。」とある。
又、「今日の伝統教学における阿弥陀仏理解をめぐっては、この象徴、指月の指という発想が全く考慮されておりません。」とあり、阿弥陀仏を実体的に捉えるのは、うその真宗であり、阿弥陀仏を「究極的な真実そのもの」の象徴として捉えるところに、まことの真宗があるとの示唆がある。
「真実そのもの」は、どこにも実体としては存在せず、不実に対する、あくまでも理念。
ところが一般には、阿弥陀仏は色形を超えた不可思議なる、自然法爾なるものとして、何らかの形で、たとえば電力や磁力のように、眼には見えなくとも、実際事実として私達に働きかけているものとして、実体的に捉えている過ちがうかがえる。
二、「真宗における信心とは、一元的、主体的な「めざめ体験」であって、それは二元的、対象的に理解されるべきではない。」とある。
又、「信心とは、私が何かに対して、二元的、対象的に信じることではありません。信心とは、どこまでも一元的、主体的な心の状態を意味します。」
又、「この信心が「めざめ体験」であるということは、より具体的には、この私にとって、如来の慈悲についてめざめ、そしてもう一つは、その慈悲に照らされた、おのれの罪業の深さ重さについてめざめてくるということです。」
又、「阿弥陀仏がどこかに存在するから、それを私が信じるのではありません。
私の信心において、阿弥陀仏が私にとって確かとなり、現わとなってくるのです。」とあり、又、「伝統教学における信心理解においては、真宗信心とは、基本的には、一元的、主体的な「めざめ体験」であるということが、まったく見失われて、二元的、対象的に解釈されております。
そのような誤解は、明確には、覚如の真宗理解から始まります。」
「そしてやがて蓮如に至ると、このような二元的な信心理解はさらに徹底してまいりました。」
「ことに『この阿弥陀ほとけの御袖に、ひしとすがりまいらするおもひをなして、後生をたすけたまへと、たのみもうせ』などと申していますが、ここでは明確に、真宗信心が、二元的、対象的な心情と理解されており、真宗信心の原意としてのチッタ・プラサーダ、親鸞聖人によって示された『信じる心のいでくるは智慧のおこるとしるべし』という信心とは、まったく異質なものになっていることが、よく知られましょう。」
又「かくして、現代真宗学における信心理解も、おしなべて二元的、対象的な信心でしかありません。」
又、西田幾太郎の哲学書から、「『もし対象的に仏を見るという如きならば、仏法は魔法である』といいますが、まことにその通りの指摘であります。
このように、真宗信心が、あくまで二元的、対象的な信として捉えられていくかぎり、それはもはや大乗仏教ではなく、又【無量寿経】の本願の論理とも齟齬し、又親鸞聖人の根本意趣からも遠く逸脱して、明らかに偽の真宗に転落しているといわざるをえないことであります。」とある。
三、「真宗とは道の宗教であって、それを力の宗教として理解してはならない。」とある。
阿弥陀様の力をあてにするというのではなく、「少しづつ人間的に脱皮し成長していく、人間成熟、人間成就の道、それが真宗です。
成っていない私がお念仏を通して、少しづつましな人間に成っていく、はるかなる浄土をめざし、仏をめざして成長していく道、それが真宗です。」
「そして私が愚考いたしますことは、今日の真宗教義の理解において、少なくともこの三点については、明確に真なる真宗に立ち返らないかぎり、これからの時代において、充分なる国際性をもって、多くの人々によく受容され、理解されることはないだろうということです。
そしてまた、これからの人類社会に噴出してくるであろうさまざまな社会的な課題に対して、この真宗が、充分なる社会性をもって、的確に反応し、発言することは出来ないだろうと思われます。」等と偽と本物の真宗ということで論じてある。 
以上、この4は、上記、1から3にある、信楽論に論じられている、二元的、実体的、恩寵的信仰ではない、一元的、象徴的、自覚的信心の道としての即一の、反靖国の教学であり、さらには、解放の教学として考察してみたことである。
 
拝読「浄土真宗のみ教え」対論その3              
 
「はじめに」
 
一昨年、昨年の拝読「浄土真宗のみ教え」対論の続きである。
前回、述べたように、この対論は、「阿弥陀仏を、実際に、一切を成仏させるという、救済力のある、何らかの不可思議な実体、実在として信仰し、それにお任せして、安心するという、従来及び現在の大多数の信仰」への問題提起である。
そのわけは、従来の浄土真宗教学の根拠が、七祖、宗祖、列祖の教学であり、私は、それに対して、教学根拠を、七祖、宗祖、はるか以前、今からおよそ2千年前、釈尊も説かなかった、三経、ことに作者不明の、大経創作者の思想精神に置こうとしているからである。
そして、この大経創作者の思想精神とは、法蔵菩薩の精神として象徴化された、仏教思想のキーワードの、縁起を基にした、「無我、慈悲、利他、布施」等の思想精神と了解している。
それ故、阿弥陀仏とは、経典創作者による、仏教思想の人格的象徴表現、もしくは、釈尊の人格的永遠化という解釈である。
私は、この大経創作者の思想精神を教学根拠にして、従来の阿弥陀仏信仰教学ではなく、阿弥陀仏の実質としての「無我、慈悲、利他、布施」等の思想精神から、自己と社会を厭い、それゆえの自己と社会の解放と創造の道を学ぼうとするものである。
以上から、引きつづき、この、拝読「浄土真宗のみ教え」への対論として、逐一、対論の文章化を試みてみる。  
残りはまた他日とする。  
対論で変えた文章は文中、斜体とする。
「他力本願」
本文  
他力とは、阿弥陀如来の本願のはたらきであり、これを他力本願という。
他力本願は、如来から私に向けられたはたらきであって、自分の望みを他人まかせにすることではない。 対論    
他力とは、阿弥陀如来の本願と象徴表現された、無我、慈悲等、真実の、虚仮不実への自己同化作用であり、これを他力本願と表現している。
他力本願は、如来と象徴表現された、無我、慈悲等、真実が虚仮不実のを、虚仮不実と自覚、慙愧せしめ、同時に、自覚的に、真実に向かわしめるはたらきであって、自分の望みを他人まかせにすることではない。
本文
阿弥陀如来は四十八の願いを発して仏となられた。
その願いの根本である第十八の願は、「われにまかせよ、わが名を称えよ、浄土に生まれさせて仏にならしめん」という願いである。 対論 阿弥陀如来は四十八の願いを発して仏となられた、と、このように、無我、慈悲等、真実を人格的に象徴表現してある。
その願いの根本である第十八の願は、「一切の衆生を、阿弥陀仏や浄土の真実に目覚ましめ、阿弥陀仏や浄土の真実を願わしめ、阿弥陀仏や浄土の真実に成就せしめん」という願いである。
本文
如来は、私たちを救わんとしてつねに寄り添い、南無阿弥陀仏のよび声となって、われにまかせよと、はたらき続けておられる。
このはたらきを他力といい、本願力というのである。対論  如来は、私たちを救わんとしてつねに寄り添い、南無阿弥陀仏のよび声となって、われをよりどころにせよと、はたらき続けておられる、と、無我、慈悲等の真実をこのように人格的に象徴表現してある。
この真実の、虚仮不実に対する自己同化作用を他力、本願力と表現したのである。本文
阿弥陀如来の本願のはたらきにおまかせして、念仏を申しつつ、如来の慈悲につつまれて、浄土への道を歩ませていただくのである。
対論阿弥陀如来の本願と象徴表現された真実に目覚めて、念仏をつぶやきつつ、如来の慈悲と象徴表現された真実うながされて、浄土への道と象徴表現された、無我、慈悲、利他、布施等、究極の真実の自己実現と究極の境涯実現(往生成仏)に向かう道を歩ませていただくのである。
 
 「如来の呼び声」
本文   
阿弥陀如来は、すべての者を救いたいと願われ、南無阿弥陀仏の名号を完成された。
名号は、如来の智慧と慈悲を円かに具えた、救いのはたらきそのものである。対論阿弥陀如来は、すべての者を救いたいと願われ、南無阿弥陀仏の名号を完成されたと、このように、真実というものの、虚仮への自己同化作用を人格的に象徴表現してある
名号は、如来の智慧と慈悲を円かに具えているとの、真実というものの実質の象徴表現であり、虚仮の自己と世界を真実に自己同化せんとする、真実の作用の象徴表現そのものである。
本文 南無阿弥陀仏は、「必ず救う、われにまかせよ」との阿弥陀如来のよび声である。 如来は、偽りと真実の見分けもつかない凡夫を哀れみ、名号による救いを選び取られた。
如来のみ名は、遍く世界に響きわたり、この真実の救いにまかせよと、よび続けておられる。 そのよび声は、私の称える南無阿弥陀仏の念仏となって、今ここに至りとどいている。
念仏の声を通して、如来の大悲のよび声を聞かせていただく。
対論
南無阿弥陀仏は、「必ず真実に目覚めさせ、救い導く、われをよりどころにせよ」との阿弥陀如来のよび声と、無我、慈悲等の真実の作用を象徴表現してある。 如来は、偽りと真実の見分けもつかない凡夫を哀れみ、名号による救いを選び取られた、と真実の作用を象徴的に表現してある。
如来のみ名は、遍く世界に響きわたり、この真実の救いにめざめよとよび続けておられると真実の作用を象徴表現してある。
 そのよび声と象徴表現されたものからのの真実と虚仮への目覚めは、私のつぶやく南無阿弥陀仏の念仏となって、今ここに実証されている。
念仏の声を通して、如来の大悲のよび声と象徴表現された、真実からのうながしにうなづかされる。
 
 
 
2005/07/19
阿弥陀仏論
           
05,03,22
 
参考論文
        
信楽先生著・1982年3月
仏教文化研究所紀要
第20集抜刷「阿弥陀仏論」
 
1,阿弥陀仏説話の考案者
 
釈尊ではない。
釈尊滅後、およそ5百年、匿名の経典作者達が考えられる。
阿弥陀仏因位説話は法蔵説話以外に大宝積経の焔意王等15異説有り。
 
2,阿弥陀仏説話の根拠・影響
 
釈尊及び釈尊の正覚内容・ビシュヌ(太陽神)・ヒンズー教(那羅延身神「ナーラヤナ神」=ビシュヌ神、世自在王仏の世自在とは「ローケーシバラ」=「シバ神」)
仏舎利「仏塔」崇拝・ゾロアスター教
 
3,阿弥陀仏説話の根拠としての釈尊の正覚・教説内容
 
天地と我と一体、万物と我と同根といった、万物個々の無限の相関性と絶対尊厳と平等への覚りから、理性の究極、人間性の原理、究極の自己実現、さらには、自己と社会のあらゆる苦悩の解放の原理と実践道への覚醒と(四諦、八正道、十二因縁、縁起、無我、慈悲、利他、布施思想等)の教説
 
4,経典作者達の阿弥陀仏発想の実質的根拠
 
釈尊の教説から覚醒した、経典作者達の理性の究極・人間性の原理、理念
 
5,阿弥陀仏の本質
 
釈尊、経典作者達のみならず、万人の理性の究極、人間性の原理、理念
 
6,経典作者達の阿弥陀仏説話の意図
 
釈尊滅後、仏教徒、そして経典作者達は、釈尊の覚られた真理や、釈尊の教え(上記四諦、八正道等)から、理性の究極、究極の自己実現等、又、自己と社会のあらゆる苦悩の解放の原理と実践道に覚醒し、そして、この教法は永遠の真実だという確信から、釈尊の尊い人格や教法をより純粋化し、永遠化し、象徴化して、阿弥陀仏という永遠の仏を創作したと考えられる。
又、釈尊の教えは、「無我、慈悲、利他、布施」といった道の実践であったが、多くの大衆は、それどころではなく、生、老、病、死、別離、怨恨、不安、孤独、罪、死後の世界、死後の再会、輪廻の切断といった事への苦悩やそれからの救い、願望といったものが大きな問題であったから、この願望に沿いながら、人々を仏道に導く手だてとして、救済主、阿弥陀仏を象徴的に創作したとも考えられる。
例えば、大経下巻には、釈迦が事実として、阿難や、聴衆に阿弥陀仏や、浄土を見せ、仏の説法の声まで阿難が聞いたことを事実で有ったかの如く説いている。
さらに、巻末には、釈尊が、「諸々の衆生のために、この説法をし、阿弥陀仏や浄土の一切の有様を事実見せた。これらに、疑念、質疑が有れば尋ねよ。私の死後、疑ってはならぬ。」と説法したという創作になっている。
このように、阿弥陀仏と浄土の実在を信仰せしめて、仏道に導き、自己と社会の課題の解放に向かわせようとの経典作者の意図をうかがう。
ここに、二元的、実体的、対象的、恩寵的信仰の起源があると考える。
 
7,阿弥陀仏信仰の陥穽
 
二元的、実体的、対象的、恩寵的信仰のみで完結して、万人の人間性の原理、理念である真実そのものと、自己及び社会のあらゆる苦悩の解放原理と実践道への覚醒の喪失。
仏道を喪失し、自己と社会への慚愧や、その解放への願求(菩提心)無き、為楽願生的、造悪無碍的、世間通途のおまかせ、依存的信仰。
 
8,千観、空也から法然、親鸞に見られる、仏道としての、菩提心を伴う阿弥陀仏信仰
 
上記二元的、実体的、対象的、恩寵的信仰のみにとどまらず、「世間虚仮、唯仏是真」と阿弥陀仏や浄土に、真実そのものを自覚し、「我が身と我が世をいとうしるし」としての慚愧と真実への願求(菩提心)の成立している信仰。
 
9,千観、空也、法然から親鸞の時代的限界、制約(釈尊直説経典への信仰から、実体的二元的信仰形式の信心)
 
「この三部経は、釈迦如来の自説にてましますとしるべしとなり。」(ご消息10)
「如来大悲の恩徳は身を粉にしても報ずべし云々」(恩徳讃)
阿弥陀仏の恩徳を創作説話としてでなく、実感的にとらえるが故の讃嘆となっている。
 
10,親鸞以降の阿弥陀仏信仰
 
既に、歎異抄著者から、覚如、存覚、蓮如、江戸教学、戦時、現代に至る教学に於いて、ほとんど上記、菩提心的信仰を失ってしまっていた。
親鸞の、「非」権力的、同朋自律社会志向の信心から、「容」権力差別社会、世間通途(真俗二諦)信仰への変質。
 
11,現代的阿弥陀仏論
 
実証的、合理的思考の現代、創作経典成立史をふまえ、二元的、実体的、対象的、恩寵的信仰を清算して、一元的、象徴的、自覚的、主体的信心による、自己と社会の解放に向かう原理としての阿弥陀仏理解へと移行したい。
ここは、万人の人間性の原理、理念である真実そのものと、自己と社会のあらゆる苦悩の解放の原理と実践道への覚醒の世界である故に、仏教、真宗という、宗教の枠を超えた人類普遍の道であることを確認したいと思う。
水平社綱領にある、「吾等は人間性の原理に覚醒し、人類最高の完成に向かって突進す」に通底。
 
 
阿弥陀仏論補充論
 
 
前回の阿弥陀仏の所在についての論議で、「理性の中か?理性を超えているか?」につて少し再論します。
阿弥陀仏の究極の「無我、慈悲、利他、布施」の人格、精神というものは、経典作者の理性による考案の所産(観念理念)ではあるが、ところが実際、経典作者は阿弥陀仏そのものではなく、当然、阿弥陀仏ではないがゆえに、阿弥陀仏の慈悲というものにしても、あるていど観念理念の範囲では捉えることは出来ても、阿弥陀仏そのものの慈悲の実質というものは、如何にそれを考案した経典作者といえども、阿弥陀仏そのものではないので、絶対に理性でとらえきれぬと考えます。
たとえば、ある理性的に鋭敏な人があったとして、その人がいかに理性を研ぎ澄ませて、親心というものを何万言を用いて論じようとも、その人が一度も子を持ち育てたことがなければ、つまり親というものになったことがなければ、やはり、親心というものは、その人には、本当には捉えることが出来ないということと同じと思います。
そういう意味で、阿弥陀仏の実質は理性のとらえを超えているということが出来ると思います。
誤解のないように再確認しますが、いくら阿弥陀仏の実質は理性を超えているからといっても、阿弥陀仏は、自己の外に超越的に何らかの形で、実在するものではないことを明確にしておきたいと思います。
阿弥陀仏とは、究極の、無我、慈悲、利他、布施といったものの人格的象徴といったところで、やはり阿弥陀仏の所在根拠は、人間の理性の所産ということと考えます。
 
 
 
拝読「浄土真宗のみ教え」対論その3              
 
「はじめに」
 
一昨年、昨年の拝読「浄土真宗のみ教え」対論の続きである。
前回、述べたように、この対論は、「阿弥陀仏を、実際に、一切を成仏させるという、救済力のある、何らかの不可思議な実体、実在として信仰し、それにお任せして、安心するという、従来及び現在の大多数の信仰」への問題提起である。
そのわけは、従来の浄土真宗教学の根拠が、七祖、宗祖、列祖の教学であり、私は、それに対して、教学根拠を、七祖、宗祖、はるか以前、今からおよそ2千年前、釈尊も説かなかった、三経、ことに作者不明の、大経創作者の思想精神に置こうとしているからである。
そして、この大経創作者の思想精神とは、法蔵菩薩の精神として象徴化された、仏教思想のキーワードの、縁起を基にした、「無我、慈悲、利他、布施」等の思想精神と了解している。
それ故、阿弥陀仏とは、経典創作者による、仏教思想の人格的象徴表現、もしくは、釈尊の人格的永遠化という解釈である。
私は、この大経創作者の思想精神を教学根拠にして、従来の阿弥陀仏信仰教学ではなく、阿弥陀仏の実質としての「無我、慈悲、利他、布施」等の思想精神から、自己と社会を厭い、それゆえの自己と社会の解放と創造の道を学ぼうとするものである。
以上から、引きつづき、この、拝読「浄土真宗のみ教え」への対論として、逐一、対論の文章化を試みてみる。  
残りはまた他日とする。  
対論で変えた文章は文中、斜体とする。
「他力本願」
本文  
他力とは、阿弥陀如来の本願のはたらきであり、これを他力本願という。
他力本願は、如来から私に向けられたはたらきであって、自分の望みを他人まかせにすることではない。 対論    
他力とは、阿弥陀如来の本願と象徴表現された、無我、慈悲等、真実の、虚仮不実への自己同化作用であり、これを他力本願と表現している。
他力本願は、如来と象徴表現された、無我、慈悲等、真実が虚仮不実のを、虚仮不実と自覚、慙愧せしめ、同時に、自覚的に、真実に向かわしめるはたらきであって、自分の望みを他人まかせにすることではない。
本文
阿弥陀如来は四十八の願いを発して仏となられた。
その願いの根本である第十八の願は、「われにまかせよ、わが名を称えよ、浄土に生まれさせて仏にならしめん」という願いである。 対論 阿弥陀如来は四十八の願いを発して仏となられた、と、このように、無我、慈悲等、真実を人格的に象徴表現してある。
その願いの根本である第十八の願は、「一切の衆生を、阿弥陀仏や浄土の真実に目覚ましめ、阿弥陀仏や浄土の真実を願わしめ、阿弥陀仏や浄土の真実に成就せしめん」という願いである。
本文
如来は、私たちを救わんとしてつねに寄り添い、南無阿弥陀仏のよび声となって、われにまかせよと、はたらき続けておられる。
このはたらきを他力といい、本願力というのである。対論  如来は、私たちを救わんとしてつねに寄り添い、南無阿弥陀仏のよび声となって、われをよりどころにせよと、はたらき続けておられる、と、無我、慈悲等の真実をこのように人格的に象徴表現してある。
この真実の、虚仮不実に対する自己同化作用を他力、本願力と表現したのである。本文
阿弥陀如来の本願のはたらきにおまかせして、念仏を申しつつ、如来の慈悲につつまれて、浄土への道を歩ませていただくのである。
対論阿弥陀如来の本願と象徴表現された真実に目覚めて、念仏をつぶやきつつ、如来の慈悲と象徴表現された真実うながされて、浄土への道と象徴表現された、無我、慈悲、利他、布施等、究極の真実の自己実現と究極の境涯実現(往生成仏)に向かう道を歩ませていただくのである。
 
 「如来の呼び声」
本文   
阿弥陀如来は、すべての者を救いたいと願われ、南無阿弥陀仏の名号を完成された。
名号は、如来の智慧と慈悲を円かに具えた、救いのはたらきそのものである。対論阿弥陀如来は、すべての者を救いたいと願われ、南無阿弥陀仏の名号を完成されたと、このように、真実というものの、虚仮への自己同化作用を人格的に象徴表現してある
名号は、如来の智慧と慈悲を円かに具えているとの、真実というものの実質の象徴表現であり、虚仮の自己と世界を真実に自己同化せんとする、真実の作用の象徴表現そのものである。
本文 南無阿弥陀仏は、「必ず救う、われにまかせよ」との阿弥陀如来のよび声である。 如来は、偽りと真実の見分けもつかない凡夫を哀れみ、名号による救いを選び取られた。
如来のみ名は、遍く世界に響きわたり、この真実の救いにまかせよと、よび続けておられる。 そのよび声は、私の称える南無阿弥陀仏の念仏となって、今ここに至りとどいている。
念仏の声を通して、如来の大悲のよび声を聞かせていただく。
対論
南無阿弥陀仏は、「必ず真実に目覚めさせ、救い導く、われをよりどころにせよ」との阿弥陀如来のよび声と、無我、慈悲等の真実の作用を象徴表現してある。 如来は、偽りと真実の見分けもつかない凡夫を哀れみ、名号による救いを選び取られた、と真実の作用を象徴的に表現してある。
如来のみ名は、遍く世界に響きわたり、この真実の救いにめざめよとよび続けておられると真実の作用を象徴表現してある。
 そのよび声と象徴表現されたものからのの真実と虚仮への目覚めは、私のつぶやく南無阿弥陀仏の念仏となって、今ここに実証されている。
念仏の声を通して、如来の大悲のよび声と象徴表現された、真実からのうながしにうなづかされる。
 
 
 
2005/07/19

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Last updated: 2012/9/5

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