解放の教学 05,02,21
1,解放の教学以前の解放の思想
一,自己の解放課題
老・病・死・性・障害・能力・性格気質等身体的、精神的苦悩
二,社会の解放課題
家族・血族・民族・国家・人類・身分・地位・権力・律法等の束縛
三,上記一、二の解放原理としての「人間性」「ヒユーマニズム」「理性」の例
水平社綱領の文言「吾等は人間性の原理に覚醒し、人類最高の完成に向かって突進す」
2,釈迦・通仏法の解放思想(釈迦及び仏弟子なりの人間性の自覚を根拠とする)
縁起・四諦・八正道・空・無我・慈悲・利他・布施・一切衆生悉有仏性等
自他共に成仏道を目指す、発菩提心(上求菩提・下化衆生)(願作仏心、度衆生心)的求道主体の確立に、上記、自己及び社会の諸課題からの解放を説く。(上記、水平社綱領の精神に通底)
3,釈迦滅後、約五〇〇年頃、法蔵説話含めその他一五異説の阿弥陀仏因位、説話経典を独創的に創作した、無名の経典作者達の解放思想(経典作者なりの人間性の自覚を根拠とする)
釈迦及び通仏法の解放思想を基にして、究極の解放主体を、象徴的に阿弥陀仏と創作表現し、同じく、究極の解放世界を、象徴的に浄土と創作表現した思想。
4,浄土教思想及び浄土経典成立の背景
釈迦在世当時に於いても、釈迦滅後に於いても、仏道を自覚的に主体化する人々は、そんなに多数ではなかったであろう。
多数の民衆が、四苦八苦に悩み、罪の報いに怖れ、不安と孤独と死や死後の恐怖、そして死後、死者との再会、輪廻の切断等に苦悩していたと考えられる。
この民衆の苦悩や願望に沿いながら、いかにして民衆を自覚的仏道に導き入れるかというのが当時の仏教徒の課題であったと思える。
そこに、浄土教思想及び浄土経典成立の背景を考える。
例えば、大経下巻には、釈迦が事実として、阿難や、聴衆に阿弥陀仏や、浄土を見せ、仏の説法の声まで阿難が聞いたことを事実であったかの如く説いている。
さらに、巻末には、釈迦が、「諸々の衆生のために、この説法をし、阿弥陀仏や浄土の一切の有様を事実見せた。これらに、疑念、質疑が有れば尋ねよ。私の死後、疑ってはならぬ。」と説法したという設定になっている。
このように、阿弥陀仏と浄土の実在を信仰せしめて、仏道に導き、自己と社会の課題の解放に向かわせようとの経典作者の意図をうかがうのである。
5,浄土経典成立後の浄土教
この経典が創作されておよそ200年後に誕生したのが龍樹であるが、上記のように、単に信仰だけでなく、解放の仏道に民衆が導かれたかどうか定かでない。
その後、中国から、日本へと浄土教の流れは伝わったが、平安浄土教のような、単なる、以楽願生的な非仏道的信仰もあった。
しかし、その中で、自覚的な解放の信仰を伝えた、空也・千観があり、その後法然・親鸞があった。
だが、残念ながら、親鸞滅後は、自覚的な解放の信仰は久しく失われたようだ。
もとより、親鸞も、実体的な信仰の歴史制約の中にある。
「この三部経は、釈迦如来の自説にてましますとしるべしとなり。」(御消息10)
経典成立の実証的研究の進んだ現在、上記拙論を基に、別紙の如く、解放の教学を考察してみるものである。
反靖国を担う解放の教学
はじめに
反靖国を担う解放の教学は、同時に、天皇制、自衛隊、憲法9条・教育基本法改悪、死刑、原発から門主制、院号、等まで相対化できるものであるはず。
ところが、基幹運動内部においても、これらを課題として取り組む声はまだ小さい。
この元凶はひとえに教学にあると考え、ここに反靖国、反戦反差別を担う解放の教学というものを考察してみたい。
1,反靖国が担えない教学
これは、いわゆる阿弥陀仏と浄土を何らかの実体的な実在として捉える、信仰こそが、生と死の解決であり、よりどころであり、何より大事であるとして、社会の問題には、ほとんど関心が無い教学。
ご安心第一主義で、世間通途の教学。
2,反靖国が担えても、二の次になる教学
上記1と同じ、阿弥陀仏と浄土への信仰こそが、何より大事であるとし、その次に、社会の問題にも取り組まねばということで、靖国問題にも目を向けるというような教学。
ごく一般的で、人権、平和に取り組む基幹運動よりも、信仰に比重がかかっている教学。
3,反靖国を信仰と同一次元で取り組む教学
阿弥陀仏や浄土への信仰から、阿弥陀仏の大慈悲をふまえて、あらゆる生命、人間の尊厳と平等を自覚せしめられるが故に、その尊厳と平等を侵す靖国問題が避けて通れぬ、信仰と一体の問題となって反靖国を担う教学。
これは、信仰と運動とを同等に捉えながら、やはり実体的信仰に立脚する教学。
4,反靖国を、実体的信仰でなく、自覚的信心に立脚して、同一次元で取り組む教学。
これを信楽峻麿(元・龍谷大学学長)著「現代真宗真偽論」を参考に考察してみる。
それによると、「しかし、今日の真宗においては、信心と信仰とが混同されて、阿弥陀仏を信仰するという。
いかに真宗信心が、二元的対象的な信と誤解されているかが明瞭であります。」とあり、
その「まとめ」には
一、「阿弥陀仏とは、象徴的な存在であって、それを実体的な存在として捉えてはならない。」とある。
藤田宏達という仏教学者の「お釈迦様は阿弥陀様や浄土のことについて実際には説かれていなかった」論と同じく
「阿弥陀仏思想の成立がそうです。 誰がこの『無量寿経』を作成したかは分かりません。
釈尊が説いたということになっているが、彼が亡くなって五百年の後に成立したものです。」とある。
又、月を差す指のたとえにあるように、指を見ても月は見えず、月を見るのは、指を離れて指さす彼方を見るべきであるように、
「かくして阿弥陀仏も、その名号も、全て究極的、普遍的な、真実、実在についての指月の指、象徴表現でしかなく、その指月の彼方にある、究極的な真実そのものを体解し、それについて覚醒していくことが重要なわけであります。」とある。
又、「今日の伝統教学における阿弥陀仏理解をめぐっては、この象徴、指月の指という発想が全く考慮されておりません。」とあり、阿弥陀仏を実体的に捉えるのは、うその真宗であり、阿弥陀仏を「究極的な真実そのもの」の象徴として捉えるところに、まことの真宗があるとの示唆がある。
「真実そのもの」は、どこにも実体としては存在せず、不実に対する、あくまでも理念。
ところが一般には、阿弥陀仏は色形を超えた不可思議なる、自然法爾なるものとして、何らかの形で、たとえば電力や磁力のように、眼には見えなくとも、実際事実として私達に働きかけているものとして、実体的に捉えている過ちがうかがえる。
二、「真宗における信心とは、一元的、主体的な「めざめ体験」であって、それは二元的、対象的に理解されるべきではない。」とある。
又、「信心とは、私が何かに対して、二元的、対象的に信じることではありません。信心とは、どこまでも一元的、主体的な心の状態を意味します。」
又、「この信心が「めざめ体験」であるということは、より具体的には、この私にとって、如来の慈悲についてめざめ、そしてもう一つは、その慈悲に照らされた、おのれの罪業の深さ重さについてめざめてくるということです。」
又、「阿弥陀仏がどこかに存在するから、それを私が信じるのではありません。
私の信心において、阿弥陀仏が私にとって確かとなり、現わとなってくるのです。」とあり、又、「伝統教学における信心理解においては、真宗信心とは、基本的には、一元的、主体的な「めざめ体験」であるということが、まったく見失われて、二元的、対象的に解釈されております。
そのような誤解は、明確には、覚如の真宗理解から始まります。」
「そしてやがて蓮如に至ると、このような二元的な信心理解はさらに徹底してまいりました。」
「ことに『この阿弥陀ほとけの御袖に、ひしとすがりまいらするおもひをなして、後生をたすけたまへと、たのみもうせ』などと申していますが、ここでは明確に、真宗信心が、二元的、対象的な心情と理解されており、真宗信心の原意としてのチッタ・プラサーダ、親鸞聖人によって示された『信じる心のいでくるは智慧のおこるとしるべし』という信心とは、まったく異質なものになっていることが、よく知られましょう。」
又「かくして、現代真宗学における信心理解も、おしなべて二元的、対象的な信心でしかありません。」
又、西田幾太郎の哲学書から、「『もし対象的に仏を見るという如きならば、仏法は魔法である』といいますが、まことにその通りの指摘であります。
このように、真宗信心が、あくまで二元的、対象的な信として捉えられていくかぎり、それはもはや大乗仏教ではなく、又【無量寿経】の本願の論理とも齟齬し、又親鸞聖人の根本意趣からも遠く逸脱して、明らかに偽の真宗に転落しているといわざるをえないことであります。」とある。
三、「真宗とは道の宗教であって、それを力の宗教として理解してはならない。」とある。
阿弥陀様の力をあてにするというのではなく、「少しづつ人間的に脱皮し成長していく、人間成熟、人間成就の道、それが真宗です。
成っていない私がお念仏を通して、少しづつましな人間に成っていく、はるかなる浄土をめざし、仏をめざして成長していく道、それが真宗です。」
「そして私が愚考いたしますことは、今日の真宗教義の理解において、少なくともこの三点については、明確に真なる真宗に立ち返らないかぎり、これからの時代において、充分なる国際性をもって、多くの人々によく受容され、理解されることはないだろうということです。
そしてまた、これからの人類社会に噴出してくるであろうさまざまな社会的な課題に対して、この真宗が、充分なる社会性をもって、的確に反応し、発言することは出来ないだろうと思われます。」等と偽と本物の真宗ということで論じてある。
以上、この4は、上記、1から3にある、信楽論に論じられている、二元的、実体的、恩寵的信仰ではない、一元的、象徴的、自覚的信心の道としての即一の、反靖国の教学であり、さらには、解放の教学として考察してみたことである。
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