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論述
 
 
拝読「浄土真宗のみ教え」対論その3              
 
「はじめに」
 
一昨年、昨年の拝読「浄土真宗のみ教え」対論の続きである。
前回、述べたように、この対論は、「阿弥陀仏を、実際に、一切を成仏させるという、救済力のある、何らかの不可思議な実体、実在として信仰し、それにお任せして、安心するという、従来及び現在の大多数の信仰」への問題提起である。
そのわけは、従来の浄土真宗教学の根拠が、七祖、宗祖、列祖の教学であり、私は、それに対して、教学根拠を、七祖、宗祖、はるか以前、今からおよそ2千年前、釈尊も説かなかった、三経、ことに作者不明の、大経創作者の思想精神に置こうとしているからである。
そして、この大経創作者の思想精神とは、法蔵菩薩の精神として象徴化された、仏教思想のキーワードの、縁起を基にした、「無我、慈悲、利他、布施」等の思想精神と了解している。
それ故、阿弥陀仏とは、経典創作者による、仏教思想の人格的象徴表現、もしくは、釈尊の人格的永遠化という解釈である。
私は、この大経創作者の思想精神を教学根拠にして、従来の阿弥陀仏信仰教学ではなく、阿弥陀仏の実質としての「無我、慈悲、利他、布施」等の思想精神から、自己と社会を厭い、それゆえの自己と社会の解放と創造の道を学ぼうとするものである。
以上から、引きつづき、この、拝読「浄土真宗のみ教え」への対論として、逐一、対論の文章化を試みてみる。  
残りはまた他日とする。  
対論で変えた文章は文中、斜体とする。
「他力本願」
本文  
他力とは、阿弥陀如来の本願のはたらきであり、これを他力本願という。
他力本願は、如来から私に向けられたはたらきであって、自分の望みを他人まかせにすることではない。 対論    
他力とは、阿弥陀如来の本願と象徴表現された、無我、慈悲等、真実の、虚仮不実への自己同化作用であり、これを他力本願と表現している。
他力本願は、如来と象徴表現された、無我、慈悲等、真実が虚仮不実のを、虚仮不実と自覚、慙愧せしめ、同時に、自覚的に、真実に向かわしめるはたらきであって、自分の望みを他人まかせにすることではない。
本文
阿弥陀如来は四十八の願いを発して仏となられた。
その願いの根本である第十八の願は、「われにまかせよ、わが名を称えよ、浄土に生まれさせて仏にならしめん」という願いである。 対論 阿弥陀如来は四十八の願いを発して仏となられた、と、このように、無我、慈悲等、真実を人格的に象徴表現してある。
その願いの根本である第十八の願は、「一切の衆生を、阿弥陀仏や浄土の真実に目覚ましめ、阿弥陀仏や浄土の真実を願わしめ、阿弥陀仏や浄土の真実に成就せしめん」という願いである。
本文
如来は、私たちを救わんとしてつねに寄り添い、南無阿弥陀仏のよび声となって、われにまかせよと、はたらき続けておられる。
このはたらきを他力といい、本願力というのである。対論  如来は、私たちを救わんとしてつねに寄り添い、南無阿弥陀仏のよび声となって、われをよりどころにせよと、はたらき続けておられる、と、無我、慈悲等の真実をこのように人格的に象徴表現してある。
この真実の、虚仮不実に対する自己同化作用を他力、本願力と表現したのである。本文
阿弥陀如来の本願のはたらきにおまかせして、念仏を申しつつ、如来の慈悲につつまれて、浄土への道を歩ませていただくのである。
対論阿弥陀如来の本願と象徴表現された真実に目覚めて、念仏をつぶやきつつ、如来の慈悲と象徴表現された真実うながされて、浄土への道と象徴表現された、無我、慈悲、利他、布施等、究極の真実の自己実現と究極の境涯実現(往生成仏)に向かう道を歩ませていただくのである。
 
 「如来の呼び声」
本文   
阿弥陀如来は、すべての者を救いたいと願われ、南無阿弥陀仏の名号を完成された。
名号は、如来の智慧と慈悲を円かに具えた、救いのはたらきそのものである。対論阿弥陀如来は、すべての者を救いたいと願われ、南無阿弥陀仏の名号を完成されたと、このように、真実というものの、虚仮への自己同化作用を人格的に象徴表現してある
名号は、如来の智慧と慈悲を円かに具えているとの、真実というものの実質の象徴表現であり、虚仮の自己と世界を真実に自己同化せんとする、真実の作用の象徴表現そのものである。
本文 南無阿弥陀仏は、「必ず救う、われにまかせよ」との阿弥陀如来のよび声である。 如来は、偽りと真実の見分けもつかない凡夫を哀れみ、名号による救いを選び取られた。
如来のみ名は、遍く世界に響きわたり、この真実の救いにまかせよと、よび続けておられる。 そのよび声は、私の称える南無阿弥陀仏の念仏となって、今ここに至りとどいている。
念仏の声を通して、如来の大悲のよび声を聞かせていただく。
対論
南無阿弥陀仏は、「必ず真実に目覚めさせ、救い導く、われをよりどころにせよ」との阿弥陀如来のよび声と、無我、慈悲等の真実の作用を象徴表現してある。 如来は、偽りと真実の見分けもつかない凡夫を哀れみ、名号による救いを選び取られた、と真実の作用を象徴的に表現してある。
如来のみ名は、遍く世界に響きわたり、この真実の救いにめざめよとよび続けておられると真実の作用を象徴表現してある。
 そのよび声と象徴表現されたものからのの真実と虚仮への目覚めは、私のつぶやく南無阿弥陀仏の念仏となって、今ここに実証されている。
念仏の声を通して、如来の大悲のよび声と象徴表現された、真実からのうながしにうなづかされる。
 
 
 
2005/07/19
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拝読「浄土真宗のみ教え」対論その3              
 
「はじめに」
 
一昨年、昨年の拝読「浄土真宗のみ教え」対論の続きである。
前回、述べたように、この対論は、「阿弥陀仏を、実際に、一切を成仏させるという、救済力のある、何らかの不可思議な実体、実在として信仰し、それにお任せして、安心するという、従来及び現在の大多数の信仰」への問題提起である。
そのわけは、従来の浄土真宗教学の根拠が、七祖、宗祖、列祖の教学であり、私は、それに対して、教学根拠を、七祖、宗祖、はるか以前、今からおよそ2千年前、釈尊も説かなかった、三経、ことに作者不明の、大経創作者の思想精神に置こうとしているからである。
そして、この大経創作者の思想精神とは、法蔵菩薩の精神として象徴化された、仏教思想のキーワードの、縁起を基にした、「無我、慈悲、利他、布施」等の思想精神と了解している。
それ故、阿弥陀仏とは、経典創作者による、仏教思想の人格的象徴表現、もしくは、釈尊の人格的永遠化という解釈である。
私は、この大経創作者の思想精神を教学根拠にして、従来の阿弥陀仏信仰教学ではなく、阿弥陀仏の実質としての「無我、慈悲、利他、布施」等の思想精神から、自己と社会を厭い、それゆえの自己と社会の解放と創造の道を学ぼうとするものである。
以上から、引きつづき、この、拝読「浄土真宗のみ教え」への対論として、逐一、対論の文章化を試みてみる。  
残りはまた他日とする。  
対論で変えた文章は文中、斜体とする。
「他力本願」
本文  
他力とは、阿弥陀如来の本願のはたらきであり、これを他力本願という。
他力本願は、如来から私に向けられたはたらきであって、自分の望みを他人まかせにすることではない。 対論    
他力とは、阿弥陀如来の本願と象徴表現された、無我、慈悲等、真実の、虚仮不実への自己同化作用であり、これを他力本願と表現している。
他力本願は、如来と象徴表現された、無我、慈悲等、真実が虚仮不実のを、虚仮不実と自覚、慙愧せしめ、同時に、自覚的に、真実に向かわしめるはたらきであって、自分の望みを他人まかせにすることではない。
本文
阿弥陀如来は四十八の願いを発して仏となられた。
その願いの根本である第十八の願は、「われにまかせよ、わが名を称えよ、浄土に生まれさせて仏にならしめん」という願いである。 対論 阿弥陀如来は四十八の願いを発して仏となられた、と、このように、無我、慈悲等、真実を人格的に象徴表現してある。
その願いの根本である第十八の願は、「一切の衆生を、阿弥陀仏や浄土の真実に目覚ましめ、阿弥陀仏や浄土の真実を願わしめ、阿弥陀仏や浄土の真実に成就せしめん」という願いである。
本文
如来は、私たちを救わんとしてつねに寄り添い、南無阿弥陀仏のよび声となって、われにまかせよと、はたらき続けておられる。
このはたらきを他力といい、本願力というのである。対論  如来は、私たちを救わんとしてつねに寄り添い、南無阿弥陀仏のよび声となって、われをよりどころにせよと、はたらき続けておられる、と、無我、慈悲等の真実をこのように人格的に象徴表現してある。
この真実の、虚仮不実に対する自己同化作用を他力、本願力と表現したのである。本文
阿弥陀如来の本願のはたらきにおまかせして、念仏を申しつつ、如来の慈悲につつまれて、浄土への道を歩ませていただくのである。
対論阿弥陀如来の本願と象徴表現された真実に目覚めて、念仏をつぶやきつつ、如来の慈悲と象徴表現された真実うながされて、浄土への道と象徴表現された、無我、慈悲、利他、布施等、究極の真実の自己実現と究極の境涯実現(往生成仏)に向かう道を歩ませていただくのである。
 
 「如来の呼び声」
本文   
阿弥陀如来は、すべての者を救いたいと願われ、南無阿弥陀仏の名号を完成された。
名号は、如来の智慧と慈悲を円かに具えた、救いのはたらきそのものである。対論阿弥陀如来は、すべての者を救いたいと願われ、南無阿弥陀仏の名号を完成されたと、このように、真実というものの、虚仮への自己同化作用を人格的に象徴表現してある
名号は、如来の智慧と慈悲を円かに具えているとの、真実というものの実質の象徴表現であり、虚仮の自己と世界を真実に自己同化せんとする、真実の作用の象徴表現そのものである。
本文 南無阿弥陀仏は、「必ず救う、われにまかせよ」との阿弥陀如来のよび声である。 如来は、偽りと真実の見分けもつかない凡夫を哀れみ、名号による救いを選び取られた。
如来のみ名は、遍く世界に響きわたり、この真実の救いにまかせよと、よび続けておられる。 そのよび声は、私の称える南無阿弥陀仏の念仏となって、今ここに至りとどいている。
念仏の声を通して、如来の大悲のよび声を聞かせていただく。
対論
南無阿弥陀仏は、「必ず真実に目覚めさせ、救い導く、われをよりどころにせよ」との阿弥陀如来のよび声と、無我、慈悲等の真実の作用を象徴表現してある。 如来は、偽りと真実の見分けもつかない凡夫を哀れみ、名号による救いを選び取られた、と真実の作用を象徴的に表現してある。
如来のみ名は、遍く世界に響きわたり、この真実の救いにめざめよとよび続けておられると真実の作用を象徴表現してある。
 そのよび声と象徴表現されたものからのの真実と虚仮への目覚めは、私のつぶやく南無阿弥陀仏の念仏となって、今ここに実証されている。
念仏の声を通して、如来の大悲のよび声と象徴表現された、真実からのうながしにうなづかされる。
 
 
 
2005/07/17
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「はじめに」
 
一昨年、昨年の拝読「浄土真宗のみ教え」対論の続きである。
前回、述べたように、この対論は、「阿弥陀仏を、実際に、一切を成仏させるという、救済力のある、何らかの不可思議な実体、実在として信仰し、それにお任せして、安心するという、従来及び現在の大多数の信仰」への問題提起である。
そのわけは、従来の浄土真宗教学の根拠が、七祖、宗祖、列祖の教学であり、私は、それに対して、教学根拠を、七祖、宗祖、はるか以前、今からおよそ2千年前、釈尊も説かなかった、三経、ことに作者不明の、大経創作者の思想精神に置こうとしているからである。
そして、この大経創作者の思想精神とは、法蔵菩薩の精神として象徴化された、仏教思想のキーワードの、縁起を基にした、「無我、慈悲、利他、布施」等の思想精神と了解している。
それ故、阿弥陀仏とは、経典創作者による、仏教思想の人格的象徴表現、もしくは、釈尊の人格的永遠化という解釈である。
私は、この大経創作者の思想精神を教学根拠にして、従来の阿弥陀仏信仰教学ではなく、阿弥陀仏の実質としての「無我、慈悲、利他、布施」等の思想精神から、自己と社会を厭い、それゆえの自己と社会の解放と創造の道を学ぼうとするものである。
以上から、引きつづき、この、拝読「浄土真宗のみ教え」への対論として、逐一、対論の文章化を試みてみる。  
残りはまた他日とする。  
対論で変えた文章は文中、斜体とする。
「他力本願」
本文  
他力とは、阿弥陀如来の本願のはたらきであり、これを他力本願という。
他力本願は、如来から私に向けられたはたらきであって、自分の望みを他人まかせにすることではない。 対論    
他力とは、阿弥陀如来の本願と象徴表現された、無我、慈悲等、真実の、虚仮不実への自己同化作用であり、これを他力本願と表現している。
他力本願は、如来と象徴表現された、無我、慈悲等、真実が虚仮不実のを、虚仮不実と自覚、慙愧せしめ、同時に、自覚的に、真実に向かわしめるはたらきであって、自分の望みを他人まかせにすることではない。
本文
阿弥陀如来は四十八の願いを発して仏となられた。
その願いの根本である第十八の願は、「われにまかせよ、わが名を称えよ、浄土に生まれさせて仏にならしめん」という願いである。 対論 阿弥陀如来は四十八の願いを発して仏となられた、と、このように、無我、慈悲等、真実を人格的に象徴表現してある。
その願いの根本である第十八の願は、「一切の衆生を、阿弥陀仏や浄土の真実に目覚ましめ、阿弥陀仏や浄土の真実を願わしめ、阿弥陀仏や浄土の真実に成就せしめん」という願いである。
本文
如来は、私たちを救わんとしてつねに寄り添い、南無阿弥陀仏のよび声となって、われにまかせよと、はたらき続けておられる。
このはたらきを他力といい、本願力というのである。対論  如来は、私たちを救わんとしてつねに寄り添い、南無阿弥陀仏のよび声となって、われをよりどころにせよと、はたらき続けておられる、と、無我、慈悲等の真実をこのように人格的に象徴表現してある。
この真実の、虚仮不実に対する自己同化作用を他力、本願力と表現したのである。本文
阿弥陀如来の本願のはたらきにおまかせして、念仏を申しつつ、如来の慈悲につつまれて、浄土への道を歩ませていただくのである。
対論阿弥陀如来の本願と象徴表現された真実に目覚めて、念仏をつぶやきつつ、如来の慈悲と象徴表現された真実うながされて、浄土への道と象徴表現された、無我、慈悲、利他、布施等、究極の真実の自己実現と究極の境涯実現(往生成仏)に向かう道を歩ませていただくのである。
 
 「如来の呼び声」
本文   
阿弥陀如来は、すべての者を救いたいと願われ、南無阿弥陀仏の名号を完成された。
名号は、如来の智慧と慈悲を円かに具えた、救いのはたらきそのものである。対論阿弥陀如来は、すべての者を救いたいと願われ、南無阿弥陀仏の名号を完成されたと、このように、真実というものの、虚仮への自己同化作用を人格的に象徴表現してある
名号は、如来の智慧と慈悲を円かに具えているとの、真実というものの実質の象徴表現であり、虚仮の自己と世界を真実に自己同化せんとする、真実の作用の象徴表現そのものである。
本文 南無阿弥陀仏は、「必ず救う、われにまかせよ」との阿弥陀如来のよび声である。 如来は、偽りと真実の見分けもつかない凡夫を哀れみ、名号による救いを選び取られた。
如来のみ名は、遍く世界に響きわたり、この真実の救いにまかせよと、よび続けておられる。 そのよび声は、私の称える南無阿弥陀仏の念仏となって、今ここに至りとどいている。
念仏の声を通して、如来の大悲のよび声を聞かせていただく。
対論
南無阿弥陀仏は、「必ず真実に目覚めさせ、救い導く、われをよりどころにせよ」との阿弥陀如来のよび声と、無我、慈悲等の真実の作用を象徴表現してある。 如来は、偽りと真実の見分けもつかない凡夫を哀れみ、名号による救いを選び取られた、と真実の作用を象徴的に表現してある。
如来のみ名は、遍く世界に響きわたり、この真実の救いにめざめよとよび続けておられると真実の作用を象徴表現してある。
 そのよび声と象徴表現されたものからのの真実と虚仮への目覚めは、私のつぶやく南無阿弥陀仏の念仏となって、今ここに実証されている。
念仏の声を通して、如来の大悲のよび声と象徴表現された、真実からのうながしにうなづかされる。
 
 
 
2005/07/17
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拝読「浄土真宗のみ教え」対論その3              
 
「はじめに」
 
一昨年、昨年の拝読「浄土真宗のみ教え」対論の続きである。
前回、述べたように、この対論は、「阿弥陀仏を、実際に、一切を成仏させるという、救済力のある、何らかの不可思議な実体、実在として信仰し、それにお任せして、安心するという、従来及び現在の大多数の信仰」への問題提起である。
そのわけは、従来の浄土真宗教学の根拠が、七祖、宗祖、列祖の教学であり、私は、それに対して、教学根拠を、七祖、宗祖、はるか以前、今からおよそ2千年前、釈尊も説かなかった、三経、ことに作者不明の、大経創作者の思想精神に置こうとしているからである。
そして、この大経創作者の思想精神とは、法蔵菩薩の精神として象徴化された、仏教思想のキーワードの、縁起を基にした、「無我、慈悲、利他、布施」等の思想精神と了解している。
それ故、阿弥陀仏とは、経典創作者による、仏教思想の人格的象徴表現、もしくは、釈尊の人格的永遠化という解釈である。
私は、この大経創作者の思想精神を教学根拠にして、従来の阿弥陀仏信仰教学ではなく、阿弥陀仏の実質としての「無我、慈悲、利他、布施」等の思想精神から、自己と社会を厭い、それゆえの自己と社会の解放と創造の道を学ぼうとするものである。
以上から、引きつづき、この、拝読「浄土真宗のみ教え」への対論として、逐一、対論の文章化を試みてみる。  
残りはまた他日とする。  
対論で変えた文章は文中、斜体とする。
「他力本願」
本文  
他力とは、阿弥陀如来の本願のはたらきであり、これを他力本願という。
他力本願は、如来から私に向けられたはたらきであって、自分の望みを他人まかせにすることではない。 対論    
他力とは、阿弥陀如来の本願と象徴表現された、無我、慈悲等、真実の、虚仮不実への自己同化作用であり、これを他力本願と表現している。
他力本願は、如来と象徴表現された、無我、慈悲等、真実が虚仮不実のを、虚仮不実と自覚、慙愧せしめ、同時に、自覚的に、真実に向かわしめるはたらきであって、自分の望みを他人まかせにすることではない。
本文
阿弥陀如来は四十八の願いを発して仏となられた。
その願いの根本である第十八の願は、「われにまかせよ、わが名を称えよ、浄土に生まれさせて仏にならしめん」という願いである。 対論 阿弥陀如来は四十八の願いを発して仏となられた、と、このように、無我、慈悲等、真実を人格的に象徴表現してある。
その願いの根本である第十八の願は、「一切の衆生を、阿弥陀仏や浄土の真実に目覚ましめ、阿弥陀仏や浄土の真実を願わしめ、阿弥陀仏や浄土の真実に成就せしめん」という願いである。
本文
如来は、私たちを救わんとしてつねに寄り添い、南無阿弥陀仏のよび声となって、われにまかせよと、はたらき続けておられる。
このはたらきを他力といい、本願力というのである。対論  如来は、私たちを救わんとしてつねに寄り添い、南無阿弥陀仏のよび声となって、われをよりどころにせよと、はたらき続けておられる、と、無我、慈悲等の真実をこのように人格的に象徴表現してある。
この真実の、虚仮不実に対する自己同化作用を他力、本願力と表現したのである。本文
阿弥陀如来の本願のはたらきにおまかせして、念仏を申しつつ、如来の慈悲につつまれて、浄土への道を歩ませていただくのである。
対論阿弥陀如来の本願と象徴表現された真実に目覚めて、念仏をつぶやきつつ、如来の慈悲と象徴表現された真実うながされて、浄土への道と象徴表現された、無我、慈悲、利他、布施等、究極の真実の自己実現と究極の境涯実現(往生成仏)に向かう道を歩ませていただくのである。
 
 「如来の呼び声」
本文   
阿弥陀如来は、すべての者を救いたいと願われ、南無阿弥陀仏の名号を完成された。
名号は、如来の智慧と慈悲を円かに具えた、救いのはたらきそのものである。対論阿弥陀如来は、すべての者を救いたいと願われ、南無阿弥陀仏の名号を完成されたと、このように、真実というものの、虚仮への自己同化作用を人格的に象徴表現してある
名号は、如来の智慧と慈悲を円かに具えているとの、真実というものの実質の象徴表現であり、虚仮の自己と世界を真実に自己同化せんとする、真実の作用の象徴表現そのものである。
本文 南無阿弥陀仏は、「必ず救う、われにまかせよ」との阿弥陀如来のよび声である。 如来は、偽りと真実の見分けもつかない凡夫を哀れみ、名号による救いを選び取られた。
如来のみ名は、遍く世界に響きわたり、この真実の救いにまかせよと、よび続けておられる。 そのよび声は、私の称える南無阿弥陀仏の念仏となって、今ここに至りとどいている。
念仏の声を通して、如来の大悲のよび声を聞かせていただく。
対論
南無阿弥陀仏は、「必ず真実に目覚めさせ、救い導く、われをよりどころにせよ」との阿弥陀如来のよび声と、無我、慈悲等の真実の作用を象徴表現してある。 如来は、偽りと真実の見分けもつかない凡夫を哀れみ、名号による救いを選び取られた、と真実の作用を象徴的に表現してある。
如来のみ名は、遍く世界に響きわたり、この真実の救いにめざめよとよび続けておられると真実の作用を象徴表現してある。
 そのよび声と象徴表現されたものからのの真実と虚仮への目覚めは、私のつぶやく南無阿弥陀仏の念仏となって、今ここに実証されている。
念仏の声を通して、如来の大悲のよび声と象徴表現された、真実からのうながしにうなづかされる。
 
 
 
2005/07/17
 
 
拝読「浄土真宗のみ教え」対論その3              
 
「はじめに」
 
一昨年、昨年の拝読「浄土真宗のみ教え」対論の続きである。
前回、述べたように、この対論は、「阿弥陀仏を、実際に、一切を成仏させるという、救済力のある、何らかの不可思議な実体、実在として信仰し、それにお任せして、安心するという、従来及び現在の大多数の信仰」への問題提起である。
そのわけは、従来の浄土真宗教学の根拠が、七祖、宗祖、列祖の教学であり、私は、それに対して、教学根拠を、七祖、宗祖、はるか以前、今からおよそ2千年前、釈尊も説かなかった、三経、ことに作者不明の、大経創作者の思想精神に置こうとしているからである。
そして、この大経創作者の思想精神とは、法蔵菩薩の精神として象徴化された、仏教思想のキーワードの、縁起を基にした、「無我、慈悲、利他、布施」等の思想精神と了解している。
それ故、阿弥陀仏とは、経典創作者による、仏教思想の人格的象徴表現、もしくは、釈尊の人格的永遠化という解釈である。
私は、この大経創作者の思想精神を教学根拠にして、従来の阿弥陀仏信仰教学ではなく、阿弥陀仏の実質としての「無我、慈悲、利他、布施」等の思想精神から、自己と社会を厭い、それゆえの自己と社会の解放と創造の道を学ぼうとするものである。
以上から、引きつづき、この、拝読「浄土真宗のみ教え」への対論として、逐一、対論の文章化を試みてみる。  
残りはまた他日とする。  
対論で変えた文章は文中、斜体とする。
「他力本願」
本文  
他力とは、阿弥陀如来の本願のはたらきであり、これを他力本願という。
他力本願は、如来から私に向けられたはたらきであって、自分の望みを他人まかせにすることではない。 対論    
他力とは、阿弥陀如来の本願と象徴表現された、無我、慈悲等、真実の、虚仮不実への自己同化作用であり、これを他力本願と表現している。
他力本願は、如来と象徴表現された、無我、慈悲等、真実が虚仮不実のを、虚仮不実と自覚、慙愧せしめ、同時に、自覚的に、真実に向かわしめるはたらきであって、自分の望みを他人まかせにすることではない。
本文
阿弥陀如来は四十八の願いを発して仏となられた。
その願いの根本である第十八の願は、「われにまかせよ、わが名を称えよ、浄土に生まれさせて仏にならしめん」という願いである。 対論 阿弥陀如来は四十八の願いを発して仏となられた、と、このように、無我、慈悲等、真実を人格的に象徴表現してある。
その願いの根本である第十八の願は、「一切の衆生を、阿弥陀仏や浄土の真実に目覚ましめ、阿弥陀仏や浄土の真実を願わしめ、阿弥陀仏や浄土の真実に成就せしめん」という願いである。
本文
如来は、私たちを救わんとしてつねに寄り添い、南無阿弥陀仏のよび声となって、われにまかせよと、はたらき続けておられる。
このはたらきを他力といい、本願力というのである。対論  如来は、私たちを救わんとしてつねに寄り添い、南無阿弥陀仏のよび声となって、われをよりどころにせよと、はたらき続けておられる、と、無我、慈悲等の真実をこのように人格的に象徴表現してある。
この真実の、虚仮不実に対する自己同化作用を他力、本願力と表現したのである。本文
阿弥陀如来の本願のはたらきにおまかせして、念仏を申しつつ、如来の慈悲につつまれて、浄土への道を歩ませていただくのである。
対論阿弥陀如来の本願と象徴表現された真実に目覚めて、念仏をつぶやきつつ、如来の慈悲と象徴表現された真実うながされて、浄土への道と象徴表現された、無我、慈悲、利他、布施等、究極の真実の自己実現と究極の境涯実現(往生成仏)に向かう道を歩ませていただくのである。
 
 「如来の呼び声」
本文   
阿弥陀如来は、すべての者を救いたいと願われ、南無阿弥陀仏の名号を完成された。
名号は、如来の智慧と慈悲を円かに具えた、救いのはたらきそのものである。対論阿弥陀如来は、すべての者を救いたいと願われ、南無阿弥陀仏の名号を完成されたと、このように、真実というものの、虚仮への自己同化作用を人格的に象徴表現してある
名号は、如来の智慧と慈悲を円かに具えているとの、真実というものの実質の象徴表現であり、虚仮の自己と世界を真実に自己同化せんとする、真実の作用の象徴表現そのものである。
本文 南無阿弥陀仏は、「必ず救う、われにまかせよ」との阿弥陀如来のよび声である。 如来は、偽りと真実の見分けもつかない凡夫を哀れみ、名号による救いを選び取られた。
如来のみ名は、遍く世界に響きわたり、この真実の救いにまかせよと、よび続けておられる。 そのよび声は、私の称える南無阿弥陀仏の念仏となって、今ここに至りとどいている。
念仏の声を通して、如来の大悲のよび声を聞かせていただく。
対論
南無阿弥陀仏は、「必ず真実に目覚めさせ、救い導く、われをよりどころにせよ」との阿弥陀如来のよび声と、無我、慈悲等の真実の作用を象徴表現してある。 如来は、偽りと真実の見分けもつかない凡夫を哀れみ、名号による救いを選び取られた、と真実の作用を象徴的に表現してある。
如来のみ名は、遍く世界に響きわたり、この真実の救いにめざめよとよび続けておられると真実の作用を象徴表現してある。
 そのよび声と象徴表現されたものからのの真実と虚仮への目覚めは、私のつぶやく南無阿弥陀仏の念仏となって、今ここに実証されている。
念仏の声を通して、如来の大悲のよび声と象徴表現された、真実からのうながしにうなづかされる。
 
 
 
2005/07/17

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