宇喜多家



直家一人目の妻

おふく(円融院)

二人の娘

容光院

赤松氏の妻

明石全登の妻

興家の妻

牧籐左衛門の妻
伊賀氏の妻

豪姫

三人の娘

富田夫人

詮家の妻

伊賀久隆の妻



直家妹
虎倉城主 伊賀勝隆の子伊賀久隆に嫁ぐ。
子 伊賀久家

伊賀久貴=直家妹
      |
    伊賀久家=明石家娘(全登の姉か妹)
     
伊賀久隆 虎倉城主
西備前を抑えていた松田氏(金川城主)に仕えていたが
1562年宇喜多直家と和議の為、婚姻関係を結ぶ。
松田氏と次第に不仲になり、宇喜多直家との関係を深めていく。
1568年松田氏居城金川城内側から応呼して金川城攻略
宇喜多の有力武将として虎倉城を守備し、毛利が侵攻しても退け(虎倉合戦)
毛利と宇喜多が和睦した三村氏攻めでは、三村元親の嫡男勝法師丸を生け捕り
1578年播磨上月攻撃にも参戦
そんな伊賀久隆だったが 外様有力武将だったためか、
交代で岡山城に詰めていた在任中毒を盛られる。
久隆は危ういところを逃れ 虎倉城に籠るが
1581年急死

伊賀久家 (妻 北曽根城 明石景親の娘)
父 久隆亡き後虎倉城に籠り徹底抗戦の構えに出るが
義理父明石景親の説得で城を捨て毛利方(小早川隆景)につく
1582年豊臣高松城水攻めの際は忍山城の押さえにあたり、
戦後は毛利から周防300石と小早川隆景に備後神辺に一所を与えられる。
1587年小早川隆景について筑前に渡り没

・・・勝手な感想・・・

1562年宇喜多氏は和議の為に
娘と妹をいっぺんに嫁がせる
妹はこの虎倉城主伊賀氏に
娘は金川城主松田氏に
年頃もあるけれど娘と妹、宇喜多氏はどちらに信頼度を置いていたのだろうか?
などと、ふと考える。
まだこの頃は宇喜多氏は浦上家家臣だったので、

浦上はこの婚姻関係を認めた時点で、自分の危機は感じなかったのだろうか?
この伊賀氏の勢力を宇喜多氏に結ばせたことによって、
宇喜多氏の力をより強いものにしたに違いない