宇喜多家



直家一人目の妻
おふく(円融院)

二人の娘

容光院

赤松氏の妻

明石全登の妻

興家の妻

牧籐左衛門の妻

伊賀氏の妻

豪姫

三人の娘

富田夫人

詮家の妻

円融院(おふく)



宇喜多直家の二人目の妻

作州高田の生まれ。
父 三浦能登守 (諸説あり)

1560年前後15歳の頃、高田城主 高田貞勝と結婚。

                 
高田城 後の勝山城(旭川と新庄川合流 岡山県勝山町 如意山)

6年後備中の三村氏に攻められ 備前沼へ落ち延びる。
この頃をお鮮と言われた事から、
岡山城東の徳吉町にある法鮮尼と書かれた五輪の塔が、
お墓ではないかとされたが、近年違う人物の墓と判明。

沼城主、宇喜多直家と結婚。
八郎(後の宇喜多秀家)を生む。 娘2人?
この頃をおふくと言われる

直家病死の後、
大阪城を築城した豊臣秀吉のもとへ
宇喜多秀家(12歳)と共に入る。
備前屋敷には入らず大阪城山里曲輪で暮らす。備前殿
秀吉の他界後、大坂堺で暮らすとされているが、
はっきりとしたことは分からない。
1600年関ヶ原の戦いの頃は生存


三浦能登守

美作地方最大の豪族 三浦一族
鎌倉時代 北条氏に仕えていた名族三浦氏の末裔

高田貞勝

1565年)毛利氏の麾下となった備中松山城主三村家親に高田城を攻められ
1ヶ月の攻城戦の後落城
自刃


・・・勝手な感想・・・

備前岡山の姫と言えばおふく様
地元の戦国史には必ずその名前が登場する。
三人の男性に大切にされ、(昔はもっと違う言われ方だったけれど)
息子秀家も綺麗な顔立ちだったようだから
とても美しい人だったのだろう。
晩年はどのような生活だったのか資料には残っていないけれど、
ひっそりと岡山の地に戻り
夫・息子二代で築いた岡山城の近くで
八丈島に流刑になった息子を思いながら、
穏やかに暮らされたと思いたい。