宇喜多家



直家一人目の妻

おふく(円融院)

二人の娘

容光院

赤松氏の妻

明石全登の妻

興家の妻

牧籐左衛門の妻

伊賀氏の妻
豪姫

三人の娘

富田夫人

詮家の妻

豪姫



宇喜多秀家の妻

加賀前田利家とまつ(芳春院)四女
                         
尾張国荒子(現在の愛知県名古屋市)に誕生
幼いころから豊臣秀吉の養女となり、秀吉・妻のおねに寵愛される。
16歳のとき、やはり秀吉の養子扱いとなっていた宇喜多秀家と結婚。
備前屋敷で暮らす。
備前御方、のち南御方と呼ばれ、
秀家との仲はむつまじく
二男三女が誕生。
しかし 宇喜多家でお家騒動が起こり
(豪姫家臣 キリスト教派対日蓮宗派)
夫秀家が重臣戸川達安を殺させようとしたことから、
父 直家よりの譜代重臣の半分を手放す結果になる。
関が原の戦いで、実家の前田家は東軍
夫は西軍、西軍が敗北した為
大阪城下 宇喜多屋敷は接収、豪姫は娘と共に加賀前田家へ戻る。
 
夫 秀家 子 秀隆・秀継 八丈島へ
流刑八丈島に配流となった秀家と二人の息子に再び会うことはかなわず
1634年 金沢で61歳の生涯を閉じた。


・・・勝手な感想・・・

金沢を訪れた。


金沢100万石と言われた通りの変わらぬ豊かさを感じた。
豪姫は八丈島に流された夫と子供の為に物資を送り、
豪姫亡き後も送り続けてくれた金沢藩は、
幕末八丈島の子孫が戻るのも迎えに行ってくれたと聞く。
本当に敬意を感じる。

岡山ときたら、何もしていないのに
と言うか、流刑になったので良く思っていなかったのかも知れない。
なのに岡山400年記念だかなんだかで、
八丈島に宇喜多秀家と豪姫の銅像を建てた・・
なんだかな〜