宇喜多家



直家一人目の妻

おふく(円融院)

二人の娘
容光院

赤松氏の妻

明石全登の妻

興家の妻

牧籐左衛門の妻

伊賀氏の妻

豪姫

三人の娘

富田夫人

詮家の妻

容光院



吉川広家の妻
宇喜多直家のおふくとの晩年の子供で、
1572年天正元年の生年とされる。
母の血を受け継いだ美女であったとされ、豊臣秀吉の養女となる。
毛利氏一族、吉川広家に
1588年(16歳)で嫁いだ。
安芸国大朝の吉川元春館で新婚生活が始まった。
広家はこの妻を大切にしたが、わずか2年半後の
1591年4月19日に病死した。
夫広家はその後 出雲月山富田城に移封になるが、
この妻が、無くなった後も正妻は取らず、
権力者に薦められ、子孫の為
側室を置くのみにとどめ、容光院の菩提を弔った。
墓所は広島県北広島町 万徳院跡
墓石には侍従公夫人容光院殿と刻まれている。
1986年(昭和61年)「吉川氏城館跡」の一部として国の史跡に指定される。

吉川広家
吉川元春の子で毛利元就の孫になる。
三男であったが、父や兄の死去で吉川家の当主となり
出雲・月山富田など14万石の所領を受けた。
1600年関ヶ原の戦いでは毛利家が西軍総大将として参加するも、
家康側と内通して毛利勢の動きを拘束し、家臣として毛利本家を支えた。
隠居してからは岩国の開発に力を注ぎ、岩国の基礎を築いた。

・・・勝手な感想・・・

こういう話に弱いのです。
広家に一目置く人は、
1600年の関ヶ原の戦いのとき毛利家が西軍総大将として参加するも、
毛利秀元が出陣するのを阻止し、吉川家への所領よりも、
毛利家存続のために尽力した所だろうけれど、
私は、生きているときも死んでからも妻を大切にしたという所。
広家が改修し容光院が埋葬された万徳院(北広島町大朝)
吉川氏が岩国転封により万徳院も移転するも、容光院の墓は移転されず・・・あれ?
荒れるがままのなってしまった旧万徳院
広家は岩国の墓所に埋葬され
え?それってどうなの?という寂しい気持ちはあるけれど、
いえいえ、きっといつまでも心の中では大事に思ってくれていたよね。
現在国の史跡に指定され「吉川氏城館跡」として、
石垣・庭園が残る旧万徳院。
近々訪れてみよう。


2013年春旧万徳院来訪

写真は後日・・・